MENU

2 一般知能と人種差別

白人と黒人の I Qのちがい レイシストは誰か? 捏造された知能のデータ 一般知能は「統計的実在」 I Qの高い黒人の子どもたち 年齢とともに遺伝率は上がる 教育への投資効果は年率 10%? 教育無償化は社会的弱者の子どもたちへ お金を渡せば教育効果は高まるのか? 先進国の知能は低下しはじめている 極端な男の知能、平均的な女の知能 知能とは知能テストが測ったもの

2 一般知能と人種差別 1994年、 1冊の分厚い本が、というかそのなかの 1枚のグラフが全米に憤激の嵐を惹き起こした。その本は行動計量学者の故リチャード・ハーンスタインと政治学者チャールズ・マレーの『 The Bell Curve(ベルカーブ)』だ。 白人と黒人の I Qのちがい ハーンスタインとマレーはこの本のなかで、白人と黒人の I Q(知能指数)の平均が 1標準偏差以上離れていることを示した(図表 3)。薄いグレーが白人、濃いグレーが黒人の I Q分布で、白人の平均を 100とすると黒人の平均は 85になる【 19】。日本で学習進度を測る際に使われる偏差値は平均を 50、 1標準偏差を 10としているから、こちらを使えば白人の平均偏差値が 50で、黒人の偏差値は 40だ。──白人の I Qの平均が 100なのは、知能検査がフランスの発達心理学者アルフレッド・ビネーによって 20世紀初頭に開発されて以降、主にヨーロッパ系白人を対象に検証・改良されてきたからだ。

以下は統計の基礎だが、正規分布(ベルカーブ)では、平均から 1標準偏差の範囲内に全体の約 68%が、 2標準偏差の範囲内に約 95%が、 3標準偏差の範囲内に約 99・ 7%が含まれる。すなわち I Q 115(偏差値 60)以上は上位 16%、 IQ 130(偏差値 70)以上は上位 2・ 3%、 IQ 145(偏差値 80)以上は上位 0・ 13%ということになる。同様に、 I Q 85(偏差値 40)以下は下位 16%、 I Q 70(偏差値 30)以下は下位 2・ 3%……ということだ。 白人と黒人の I Qの平均が 1標準偏差ちがうということは、(両者の知能の分布が同じだとするならば)平均的な白人の IQは黒人の上位 16%と同じになる(黒人の 84%は平均的な白人より IQが低い)。 IQ 115(偏差値 60)以上を大学入学の基準とするなら、これを上回るのは白人で 16%、黒人で 2・ 3%だ。すなわち、白人と黒人を同じ基準で選抜すれば、大学生 6人のうち 5人は白人になる。 しかしこれは、「すべての白人は黒人より優秀だ」ということではない。黒人の上位 16%は平均的な白人より IQが高く、白人の下位 16%は平均的な黒人より IQが低い。人種差別的な主張をする白人は、おそらくここに含まれるのだろう。 レイシストは誰か? ここまではたんなる統計的事実だが、このような「人種差別」的な研究が許されるわけがないと思うひともいるだろう。だがこれはまったくの誤解で、白人と黒人の IQにかなりの「格差」があることは、マーティン・ルーサー・キングを中心に人種差別とのたたかいが始まった 1960年代から公的機関によって繰り返し測定されており、それに対して公民権運動の活動家からの批判はいっさいなかった。そればかりか、「黒人の IQは白人よりかなり低い」という事実は、平等な社会を目指すうえでの前提だった。 1960年に白人と黒人の子どもたちの IQを調査したところ、平均値は白人が 101・ 8、黒人が 80・ 7だった。だがこのときテストを受けたのは南部出身の黒人の子どもで、北部出身の黒人児童の IQは 85程度だった。──興味深いことに、黒人女性は男性より 3 ~ 4ポイント IQが高いが、白人ではこのような性差は観察されなかった【 20】。 公民権運動の当時、「人種間の知能格差」が意味することは明らかだった。黒人の IQが白人より低いのは奴隷制・人種差別の「負の遺産」によるもので、だからこそ満足な教育機会が与えられない南部の黒人の子どもたちの IQは北部の黒人児童より低いのだ。「人種差別とのたたかい」によって平等な社会が実現すれば、当然のことながら、「知能の人種差」そのものが消失するだろう……。 1969年、アメリカの教育心理学者アーサー・ジェンセンが人種間の知能のちがいについて発表したときは、大学(カリフォルニア大学バークレー校)の研究室にデモ隊が押しかけ、暗殺されかねないほどの非難を受けた。だがこれも、ジェンセンが「黒人の IQは白人より低い」と指摘したからではない。それは(すくなくとも専門家のあいだでは)周知の事実だった。 ジェンセンは、人種間の知能の格差は(差別などの)社会的な要因よりも、人種ごとの生得的なちがい =遺伝の影響が大きいとして、貧困家庭の子どもへの教育支援プログラム「ヘッドスタート(貧困層への教育援助)」にたいした効果は期待できないと主張した【 21】。これが「リベラル」の逆鱗に触れたのは、ひとびとの努力によって差別のない平等な社会が実現したとしても(このことにジェンセンは反対していない)、人種間の I Qの差はそのまま残ることになるからだ。これでは輝かしい未来への希望はすべて打ち壊されてしまう。 しかし、「ジェンセン・スキャンダル」から四半世紀たってハーンスタインとマレーが同様の主張をしたときには、ひとびとの反応は微妙なものになっていた。長期にわたる「人種差別とのたたかい」にもかかわらず、白人と黒人の I Q格差はほとんど変わっていなかったからだ。──より正確には両者の IQは年率 0・ 2ポイントほどの割合で縮小しており、『ベルカーブ』には「 21世紀半ばには白人と黒人の知能の差はなくなると期待できる」と書かれているが、これは反対派にとってなんのなぐさめにもならなかったようだ。 人種間の知能のちがいが差別によるもので、現在に至るまでその差がほとんど変わっていないとすれば、そこから導かれる論理的な結論はひとつしかない。法的・形式的には人種間で平等な権利が保障されたように見えても、黒人に対する差別はいまだにつづいているのだ。だとしたらいったい誰が差別しているのか? リベラルな白人は差別に反対しているのだから、自分たちがレイシストでないことはまちがいない。そうなると残っているのは、奴隷制を「アメリカの歴史」だとして正当化しようとする南部の白人や、製造業が衰退したラストベルト(錆びついた地域) =荒廃した中西部の街に取り残された貧乏な白人たちしかいない。「プアホワイト」とか「ホワイトトラッシュ(白いゴミ)」と呼ばれて馬鹿にされている白人たちこそが、黒人への人種差別の元凶なのだ……。 このように考えると、アメリカのリベラルなメディアがトランプの差別的な言動をどれほど批判しても支持率がほとんど下がらない理由がわかるだろう。地方の保守的な白人たちは、きれいごとばかりいう東部や西海岸のエリート =リベラルをこころの底から憎んでいるのだ。 捏造された知能のデータ 植民地時代のヨーロッパ系白人は、自分たちがもっとも進化した人類であり、アフリカの黒人はサルに近く、黄色人種(アジア系)はその中間だと考えていた。こうした偏見のもとで、知能も黒人、黄色人種、白人の順に「進化」するのは当然と考えられていた。 人種と知能を関連づける「差別の科学」へのもっとも包括的な批判は古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドの『人間の測りまちがい 差別の科学史』(河出文庫)で、初版は 1981年だが、 1996年に『ベルカーブ』への批判が追加された。グールドはこの本で、ダーウィン以前の「頭蓋計測学」から説き起こし、誤った進化論にもとづく差別の歴史を得意の博覧強記で叙述していく。グールドによれば、『ベルカーブ』はこうした「差別の科学」のありふれたヴァージョンで、新奇な意匠をまとってひとびとを惑わしているだけなのだ。『人間の測りまちがい』は「知能による差別」批判の決定版とされているが、これは逆にいえば、初版から 40年、改訂増補版から 20年以上たってもこれを超えるような著作が書かれていないということだ。あらゆる分野で科学が急速に進歩し、 AIやブロックチェーン、ゲノム編集など SFと見紛うようなテクノロジーが次々と登場しているにもかかわらず、なぜこの分野だけ時が止まったようになっているのだろうか。 じつは認知科学者のあいだで、いまではグールドの名前が言及されることはまったくといっていいほどない。とはいえこれは、グールドがまちがっていたということではない。正しかったからこそ、その激烈な批判は過去のものとして葬り去られることになった。 グールド以前は、「知能が遺伝する」という行動遺伝学の知見を否定するために、その根拠となったイギリスの教育心理学者シリル・バートの 1950年代の実験を取り上げるのが定番だった。バートは一卵性双生児のデータから IQにきわめて高い相関があることを発見し、それがジェンセンら「遺伝決定論者」の重要な論拠とされたが、 1971年の死後に研究が再検証されると、データが「捏造」されているとの疑惑が浮上した。 この「バート・スキャンダル」は行動遺伝学にとって学問の土台を揺るがす大事件で、多くの論文・著作が書かれたが、本書ではその詳細に立ち入ることはしない【 22】。なぜならもはや、この論争は意味をなさなくなっているからだ。「知能が遺伝してはならない」とするひとたちは、「バートの双生児研究は捏造だ」と主張し、それが新聞(サンデー・タイムズ)やテレビ( BBC)で

大々的に取り上げられたことで、双生児研究に基づく行動遺伝学の信用は地に堕ちた。──その後の研究では、バートが苦労して集めた双生児データは第二次大戦のロンドン空襲で焼失し、それを復元する過程で過ちが生じたのであって、捏造の意図はなかったとの見解もある。 だが緒戦で大きな戦果をあげたこの手法は、たちまち「ブラックスワンの罠」であることが明らかになる。バートの双生児研究は行動遺伝学の最初期の成果だが、学問全体が彼の個人的研究のうえに築かれているわけではない(バートを批判すればすべてが崩壊するブラックスワンではない)。仮にバートの研究が捏造されていたとしても、より大規模な双生児のサンプルを使って、統計学的により洗練された手法で研究を行ない、「一卵性双生児の知能には強い相関がある」というバートの結論が正しいかどうかを検証してみればいいのだ。 そして実際に、行動遺伝学者たちはこの再検証を精力的に行ない、どのサンプルでも遺伝が知能に強い影響を及ぼしていることを証明した。バートの研究を捏造と騒ぎ立てた専門家たちは、「正しい研究」でも同じ結果が出ることを突きつけられ、沈黙せざるを得なくなった。こうしてバート・スキャンダルは、いまでは行動遺伝学の歴史のささいなエピソードのひとつになっている。 一般知能は「統計的実在」 グールドはきわめて聡明なので、バートの研究を「捏造」と批判するだけでは「差別の科学」に対抗できないことに気づいていた。そこで『人間の測りまちがい』では、「知能テストで計測される I Q(一般知能)に意味はない」との主張を展開した。 現在行なわれているようなかたちで知能を計測したのは 19世紀末のフランスのビネーで、そのきっかけは子どもたちの学習進度にかなりのちがいがあることだった。そのなかには、たんにやる気がない子どももいれば、もともと知能の低い子どももいた。精神遅滞児を簡便に識別することで子どもの特性に合った教育が可能になると考えたビネーが、教え子のシモンとともに開発したのがビネー・シモン検査だ( 1905年のこの検査はその後も改訂され、 1世紀にわたって使いつづけられた)。 同じころ、イギリスではチャールズ・スピアマンが知能を客観的に計測しようとしていた。英語、フランス語、古典、数学などのテストのほか、音や明るさ、重さの弁別などの精神テストも加えて調べたところ、それぞれの要素に正の相関があることにスピアマンは気づいた。英語ができる被験者は数学の成績もよく、音や明るさのちがいを素早く判別したのだ。 ここからスピアマンは、「あらゆる知能の上位には一般知能( 因子)がある」と主張した。知能は一般知能と数多くの特殊知能の二因子からなり、「一般知能 」はすべての課題に影響する。だとすれば特殊知能をいくら測っても意味はなく、知能を正しく推定するには 因子に関係する課題を選べばいいのだ。──一般知能が高い子どもは学科にかかわらず勉強ができ、低い子どもは学習進度が遅いというのが I Q検査の基本的な考え方だ。 その後、アメリカの心理学者ルイス・レオン・サーストンが因子分析法を完成させ、一般知能 の存在を否定して「基本能力因子」説を唱えた。知能は言語能力、数能力、空間能力、知覚速度など7つの基本能力の組み合わせだというのだ。 サーストンは当初、スピアマンの一般知能 をつくりごとだと考えていたが、さまざまな児童に自らの知能テストを実施すると7つの基本能力因子は分離できず、互いにかなりの相関があることがわかった。スピアマンを批判したサーストンは、より厳密な統計的手法を使うことで、基本能力の上位にある を再発見したのだ【 23】。 グールドは、一般知能 は統計的に導出される〝ヴァーチャル〟なものだという。それにもかかわらずスピアマンは生物学的実在だと信じ込み、ジェンセンや『ベルカーブ』の著者たちはこの過ちを無節操に受け入れることで、「知能」によって人間(人種)を序列化しようとしているのだ──。 グールドが力説するように、一般知能が脳の神経系のどこかに「生物学的」に潜んでいる証拠はなく、 がヴァーチャルなものであることはまちがいない。だが一方で、政治的・思想的立場が異なる多くの認知科学者がさまざまな手法で知能を計測しようとしてきたが、どのような検査でも「統計的」には上位の知能 が浮かび上がってくる。 は生物学的実在ではないかもしれないが、「統計的実在」であることは否定できないのだ。 日本における「知能の科学」の数少ない専門家の一人である村上宣寛氏は、「知能とは何か?」について専門家のあいだでじゅうぶんなコンセンサスは得られていないものの、一般知能 の(統計的)存在は否定できないとして、次のように述べている。 日本の心理学者の中には怪しげな宗教家のような人がいて、知能テストを差別の道具であると批判する人がいる。知能テストを批判しておくと居心地がよいからだ。これは日本の文化水準が低く、サイエンスの価値が理解されていないからである【 24】。「一般知能 は実在しない」というグールドは正しかった。だがそれでも、 を「統計的実在」として知能を科学することはじゅうぶん可能なのだ。 I Qの高い黒人の子どもたち ミネソタ大学の心理学者サンドラ・スカーとリチャード・ワインバーグは、 1976年に、黒人などマイノリティの子どもを養子にした白人家庭の大規模な調査を行ない、裕福な養親に育てられた黒人の子どもの平均的な IQが白人の子どもと変わらないことを示した【 25】。これは現在に至るまで、人種と知能の「遺伝決定論」を否定する論拠として繰り返し引用されている。 それまでも養子研究は行なわれていたが、異人種間の養子縁組(白人の夫婦が黒人の子どもを養子に迎える)が少なかったり、ある程度成長してから養子にしたりしているため、客観的な研究とはいえなかった(養親は賢い子どもを選択している可能性が高い)。それに対してスカーとワインバーグは、乳幼児を含むさまざまな年齢の黒人の子どもを養子にした家庭を 101組も集めたばかりか、養親の実の子どもとの比較まで行なった。当時としては画期的な研究であることはまちがいない。 ミネソタ州の福祉施設などを通じて集められた養親の家庭の特徴は、裕福なことと両親の教育水準が高いことだった。世帯収入は 1万 5000ドルで、その後のインフレ率を勘案すると現在の 7万ドル(年収 800万円)程度に相当する。父親の典型的な職業は聖職者、技師、教師で、母親も教師や看護師などパートタイムの職に就いていることが多かった。 それに対して子どもを養子に出した黒人の母親は高卒がほとんどで、職業は看護助手か学生が多かった(実の父親については情報がない)。これは、若い(しばしば 10代の)黒人女性が未婚のまま子どもを産んだものの育てられず、裕福でリベラルな白人家庭に養子に出すという「ありがち」なパターンを示している。 論文によると、黒人の子どもを養子にした白人夫婦の実の子どもの平均 I Qは 116・ 7で、それに対して生後 1年以内に養子になった黒人の子どもの平均 I Qは 111・ 1だ。白人の平均的な IQが 100で、黒人が 85であることを考えると、この数字は驚くべきものだ。 I Qの測定はきわめて厳密かつ慎重に行なわれており、この結果を疑う理由はない。だとすれば、早い段階でじゅうぶんな養育環境を与えることができれば、人種間の知能の差は消失するのだろうか。

1970年代に行なわれたこの研究にはさまざまな批判が可能だ。参加家庭は養子のいる家庭向けのニューズレターを見て応募したか、福祉事務所の依頼に応じており、ランダムに選ばれたわけではない(養子の養育に成功した家庭だけが選択されている可能性がある)。赤ちゃんのときに養子にした場合でも、精神遅滞などなんらかの障がいの兆候がある子どもは除外されただろう(〝問題〟のある養子は「返品」することができる)。論文でも、養子になった黒人の子どもたちの知能の標準偏差が一般とは異なり、サンプルになんらかの偏りがあることを認めている。 遺伝の影響を知るために実子と養子を比較する手法は 1920年代から行なわれていて、アルコール依存症の親から生まれた子どもは、酒を飲まない家庭の養子になっても依存症になりやすいなど、性癖から精神疾患、犯罪に至るまでさまざまな領域で遺伝の強い影響が確認されている。双生児を対象にした行動遺伝学の研究は統計学的に頑健で、知能が高い遺伝率をもつことはもはや疑えない。 しかしそれでも、貧しい黒人女性から生まれ、幼いときに裕福な白人家庭の養子になった子どもが、平均的な黒人の子どもに比べて I Qを大きく向上させたことが明るいニュースであることはまちがいない。 だが現代の行動遺伝学は、この研究に一定の留保をつける。いまでは、遺伝の影響は年齢によって変わることがわかっているのだ。 年齢とともに遺伝率は上がる 一般知能は行動遺伝学でもっともさかんに研究されてきた領域で、 1970年代後半からアメリカやオーストラリアで大規模な調査が行なわれ、「発達行動遺伝学」としてその成果がまとめられた。そのなかで研究者は、一般常識とはあいいれない奇妙なデータを発見した。一卵性双生児の類似性は出生の時点から青年期まで増加傾向を示すのに対し、二卵性双生児の類似性は、出生時は一卵性と同じだが、発達とともに類似性が減っていき青年期には一卵性のほぼ半分になるのだ。 これをかんたんにいうと、「知能に及ぼす遺伝の影響は発達とともに増加する」ということだ。日本における行動遺伝学の第一人者である安藤寿康氏はこれを、「行動遺伝学の発見の中でも最も重要なものの一つ」という【 26】。 大半のひとは、赤ちゃんのときに遺伝の影響がもっとも大きく、成長するにつれて家庭や学校などで多様な刺激を受けるのだから、環境要因が強まって遺伝の影響は小さくなっていくと思うだろう。だが発達行動遺伝学の研究は、これを真っ向から否定する。もしひとびとの素朴な常識が正しいなら、成長につれて一卵性双生児の類似性は下がっていくはずだが、実際には逆に高まっていくのだ。 認知能力に及ぼす遺伝の影響は、幼児期・児童期は 40%強で、残りの 50%強は共有環境(子育て)と非共有環境(友だち関係)で説明できる。だがその後、青年期に向けて遺伝率は着実に上昇していき、成人期初期には約 70%に達する。当然そのぶんだけ、環境要因は後景に退いていく(図表 4)。

これはにわかには受け入れがたいかもしれないが、よく考えてみると、私たちがなんとなく感じている「常識」にも合っていることに気づくだろう。 教育関係者なら、親のいうことをきいて一所懸命勉強する子どもは最初は成績がいいが、中学受験や高校受験の頃になると、それまで遊んでばかりいた子どもにあっという間に追い抜かれる場面を何度も見ているはずだ。こうした子どもは「地頭がいい」といわれるが、生得的な能力が思春期に向けて徐々に開花していくと考えるならこの現象を説明できる。 それと同時に、世の親たちがなぜ「幼児教育」に夢中になるかもわかる。共有環境の影響力が幼児期・児童期に最大で、そこから減少していく一方なら、子育てが報われるのは子どもが小さいときだけだ。──私立幼稚園・小学校の「お受験」の結果は家庭環境で決まるかもしれないが、思春期になって遺伝率が上昇してからでは親の努力はなんの役にも立たないのだ。 裕福な白人家庭の養子になった黒人の子どもの IQが大きく向上することを示したスカーとワインバーグは、自らの仮説を検証するために、 10年後の 1985年に同じ子どもたちを再調査している【 27】。 それによると、生後 1年以内に養子になった「黒人」の子どもの IQは、思春期になっても 99・ 2で、黒人の平均と比べてはるかに高かった。しかしそれと同時に、 10年前の I Q( 110・ 8)から 11・ 6ポイントも下がっていることがわかった。その理由は知能テストの形式が変わったからとされるが、養子を迎えた白人夫婦の実子の IQは 109・ 4で、 10年前の 116・ 4から 7ポイント下がっただけだった。さらには、「黒人」とされた子どもたちのなかには黒人の母親と白人の父親の子どもが含まれており、 10年後の彼らの IQが 98・ 5なのに対して、黒人同士の両親の子どもの IQは 89・ 4と明らかに低いことも示されている。 知能の発達に環境が影響することはまちがいないのだから、貧しい黒人の赤ちゃんが、裕福な白人家庭で 0歳から手厚く養育されれば、 IQが大きく向上したとしても不思議はない。これはたしかに素晴らしいことだが、しかしその効果は、思春期に向かうにつれてじょじょに消失し生得的な水準に回帰していくようだ。 教育への投資効果は年率 10%?「知能に対する遺伝の影響は成長とともに高まり、幼児教育の効果は思春期になるとほぼ消失する」という発達行動遺伝学の知見は、ヘッドスタートのような教育支援に深刻な疑問を突きつける。しかしここで、アメリカの経済学者ジェームズ・ヘックマンの研究を思い浮かべるひともいるだろう。──安倍政権が「教育無償化」を打ち出してから、日本ではことあるごとにヘックマンの名が口にされる。 教育に「個人的リターン」があることは、経済学では人的資本理論で説明されてきた。 経済学者ゲーリー・ベッカーは、人的資本は教育や技能、知識のほかに健康をも含み、近代経済国家の富の 75%を占めると推計した。アメリカでは大学教育の投資効果が綿密に計測されていて、高卒で社会に出た場合と大卒資格者の生涯年収の差を教育費用と比較した場合、その投資効果は年率 10%を超えるとされている(日本でも同様の調査が行なわれ、大学教育は年率 6 ~ 9%との結果が出ている)。──とはいえ、こうした投資効果が喧伝された結果、アメリカの若者は借金してでも高等教育を受けるようになり、借金漬けになってしまったのだが。 個人のレベルでは教育への投資にプラスの効果があることは、学歴と収入に強い相関があることからも明らかだが、このことは教育への税の投入を正当化しない。いい大学を卒業すればいい仕事について高い給与をもらえるのなら、奨学金で学業をつづけ、将来、高所得者になったときに返済すればいいだけのことだからだ。すなわち、人的資本理論(教育は子どものため)から導かれる合理的な政策は(返済の必要な)奨学金制度の充実であって、教育の無償化ではない。「国民の税金を使う以上、社会的リターンがプラスであることを証明しなければならない」という原則は、 EBPM(エビデンス・ベースド・ポリシー・メイキング/証拠のある政策形成)としてアメリカで始まり、西欧諸国では常識になりつつある。「困っているひとがいるから」というだけでは、もはや税の投入を有権者に納得させることはできないのだ。 経済学を専門にするヘックマンはこのことを熟知していたが、リベラルな知識人としてアメリカの教育格差を憂えてもいた。だからこそ、「教育への投資は社会の役に立つ」という決定的な証拠が必要だった。 1960年代のアメリカで、 3歳から 4歳の子どもたちに就学前教育を行ない、その結果を 40年にわたって追跡するという大規模な実験が行なわれた。ヘックマンはこの実験を詳細に検討し、教育支援を受けたグループは、高校卒業率や持ち家率、平均所得が高く、婚外子をもつ比率や生活保護受給率、逮捕者率が低いことを明らかにした。社会全体の投資収益率は年 15 ~ 17%で、 100万円の投資に対して 15万円から 17万円が返ってくるのだから、教育に投資することは公共投資と比べてもはるかにリターンが高いのだ。 教育無償化は社会的弱者の子どもたちへ 幼児教育への支援で社会が恩恵を受けるというのは素晴らしい話で、日本でも教育無償化の根拠としてしばしば引用されるが、ヘックマンの論文を読んでみるとすこしニュアンスが異なる【 28】。 ヘックマンは、どうしたら子どもたちに公平なチャンスを与えられるかを考え、子どもが小学校に入学する 6歳の時点で、認知的到達度(学業成績)の格差はすでに明白だということに気づいた。こうして就学前教育に注目するのだが、これは逆にいえば、「小学校にあがってからでは遅い」ということだ。 認知能力の発達について膨大な文献を渉猟したヘックマンは、誕生から 5歳までの教育投資の重要性を説き、「認知的スキルは 11歳ごろまでに基盤が固まる」と述べる。すなわち、中等教育や高等教育に税を投入しても投資に対してプラスの社会的リターンを期待できないため、経済学的には正当化できないのだ。 もうひとつ、ヘックマンを引用するひとたちが(たぶん)意図的に無視しているのは、ベースとなった就学前教育の実験対象が黒人の貧困家庭の子どもたちだったことだ。 1960年代のアメリカは人種差別がきびしく、階級格差というよりも国内に新興国(発展途上国)を抱えているようなものだった。途上国の子どもたちに教育投資を行なえば、教育機会にめぐまれなかった賢い子どもたちを発見することで高い収益率を実現できることは中国や東南アジアの経験でも明らかで、この結果にはなんの不思議もないともいえる。 ヘックマンが依拠した就学前児童の大規模実験では、白人中流層を含むすべての子どもたちに幼児教育が無償で提供されたわけではなく、中流家庭は自分のお金で子どもを教育していた。これを日本にあてはめれば、経済的な援助が正当化されるのは母子家庭など貧困層の子どもたちだろう。教育無償化で富裕層の家庭にも税金をばら撒くのはやめて、その予算を社会的弱者に振り向けるべきなのだ。 ところが日本では、ヘックマンの研究を水戸黄門の印籠のようにして「幼児教育全面無償化」が唱えられている。これは善意に解釈すれば「誤解」であり、悪意に解釈すれば意図的な欺瞞だ。教育の専門家が、こんな単純な事実を知らないはずはないのだから。

なおヘックマンは、仕事に必要な能力を認知スキル(知能)と性格スキル(やる気)を分け、青年期の教育支援の影響は認知スキルに対しては小さいが、性格スキルを高めることには貢献しているとも論じている。真面目さや精神的安定性などの性格スキルが社会的・経済的成功に結びつくことは 6章で扱う。 お金を渡せば教育効果は高まるのか?「教育を無償化すればみんなが幸福になれる」という通説の背後には、「教育は無条件によきもの」という信念がある。私はこれを疑わしいと思っているが、それはとりあえず本題ではない。 自由経済で格差が生じるのは当然と考えるひとも、「貧しさのために教育機会を得られないのは正義に反する」との意見には同意するだろう。一流大学に入学する学生のほとんどが裕福な家庭出身なのは、欧米でも日本でも変わらない。だとすれば、貧しい家庭の所得を増やすことで、教育を介して子どもはゆたかさを手にし、社会も好影響を受けるはずだ。 だが、この主張はどこまで正しいのだろうか。 複雑な人種問題を抱えるアメリカでは、黒人貧困層に福祉の重点が置かれたため、白人保守派から「逆差別」との批判を受けることになった。そこで経済学者のスーザン・メイヤーは、さまざまなデータから所得支援の効果を検証した【 29】。 母子家庭の世帯所得を増やすには、行政からの生活保護、父親(別れた夫)からの養育費、母親が働いて得た所得などが考えられる。所得の増加が教育効果に直結するのなら、生活保護と養育費は同等で、労働所得はもっとも効果が低いはずだ。母親が働けば、子どもの世話をする時間がそれだけ減るのだから。 だが実際には、成績や学習態度(中退率)でみてもっとも教育効果が高いのは養育費で、次いで労働所得、生活保護の順になった。同じ不労所得なのに生活保護の効果がきわだって低いのは、母親の(ひいては子どもの)自尊心を低下させるからのようだ。 日本では「子どもがいじめられる」との理由で多くの母子家庭が生活保護の受給を躊躇しているが、「税金」を受け取ることへの蔑視はアメリカも同じらしい。それに対して別れた父親からの養育費は、正当な権利として周囲にも堂々といえるので、子どもへの教育効果も高いのだ。 ちなみに日本では、離婚後に子どもの養育費を払う父親は 2割程度しかおらず、その結果、母子家庭の相対的貧困率(一人あたりの平均所得の半分に満たない割合)が 54・ 6%と先進国のなかで群を抜いて高い。こうした惨状に対して「母子家庭がもっと気軽に生活保護を受けられるようにすべきだ」との声が多いが、アメリカの研究をみるかぎり、これがどれほど子どものためになるかは疑問が残る。それよりも単独親権の制度を共同親権に変え、離婚後の父親にも親としての権利を認める一方で、養育費の強制徴収など支払い義務を徹底させた方が効果は高そうだ(日本では離婚後の親権を母親がもつことがほとんどだが、夫婦関係の有無にかかわらず親であることは変わらないのだから、先進国では共同親権が主流になっている)。 経済学者のメイヤーは、子どもが 10代のときに年収が増えた家庭と、ずっと貧しくて、子どもが成人してから年収が同じだけ増えた家庭の比較も行なっている。一般に思われているように裕福な家庭の子どもがよりよい教育を受けられるのなら、子どもが大きくなってから裕福になってもなんの関係もないはずだが、実際には両者に大きな差はなかった。これは、教育効果をもたらすのは所得そのものではなく、所得を増やすなんらかの要因(母親の能力や勤勉さなど)がかかわっていることを示唆している。 それ以外でも、増えた所得を親がなにに使うのか(子どもの教育投資より食費や家の修繕、車の買い替えなどに充てられた)や、子育て支援の充実した州は、そうでない州よりも教育効果が高いのか(あまり変わらなかった)なども調べられている。 誤解のないようにいっておくと、これは貧しい家庭への金銭支援が無意味だということではない。メイヤーの研究が示すのは、漫然とお金を配るだけでは思ったような政策効果は得られそうにないということだ。 だったらどうすればいいのか。じつは日本には、それを議論するための基礎的なデータすらない。こんな状態で、教育無償化の議論は行なわれている。 先進国の知能は低下しはじめている 1987年、ニュージーランドの政治学者ジェームズ・フリンは、知能に関するさまざまなデータを総覧し、 14カ国で IQが 1世代で 5 ~ 25ポイントも上昇していることを明らかにした【 30】。これが「フリン効果」で、知能が遺伝的なものであれば短期間でこのような大きな変化が起きることは考えられないから、「遺伝決定論」を否定する決定的な証拠としてもてはやされた。 だがこれも、一般知能( 因子)が生物学的実在ではなく、統計的実在だと考えればさほど不思議なことではない。 図形を回転させる問題を解くには、三次元の物体を二次元上に表現する約束事を知らなければならない。紙に描かれた直方体を本物の直方体にイメージ上で変換することは、なんらかの訓練を受けていなければ不可能だろう。これがアフリカなどの新興国で知能テストの点数が低い理由のひとつで、学校教育が普及し、スマホなどのゲーム機器が手に入りやすくなることで I Qは上昇していくはずだ。「一般知能の遺伝率は 77%」ということは 23%は環境の影響なのだから、社会的要因によって IQが上昇するのはある意味当然だ。 フリン自身、フリン効果がジェンセンらの「遺伝決定論者」の過ちを証明したとされることに困惑してこう述べている。 残念ながら世間では、時代による I Qの著しい上昇は環境のせいなのだから、黒人と白人の IQ差も環境によって証明できると考えがちだ。(中略)ジェンセンは、ことあるごとにフリン効果の話を振られることに不満げだった。私もそれには同情して「私自身は…… IQ上昇の現象を根拠に、黒人の IQは白人に肩を並べると証明できるとは考えていない。たとえ環境が同じであっても……」と述べた【 31】。 フリンは I Qの上昇を、現代人が「新しい思考習慣」に適応しつつあるからだとしているが、それによって人種間の知能のちがいがなくなるとは考えていないのだ。 なお、フリン効果の有力な説明として、「乳幼児を含む子どもの栄養と健康状態が向上した」からがある。実際、乳幼児の健康状態がよくなるにしたがって知能の平均水準も高くなるが、栄養をとりすぎると肥満児になってしまうから、そこには一定の限界があるはずだ。そしてこの予想どおり、オーストラリア、デンマーク、ノルウェー、イギリスなどの調査で、 21世紀に入ってから知能の平均水準が低下しはじめていることが確認されている【 32】。フリン効果は先進国では終わりつつあるのかもしれない。 極端な男の知能、平均的な女の知能 ここで、人種と並んでしばしば問題となる男と女の知能のちがいについてかんたんに触れておこう。 高名な経済学者でクリントン政権の財務長官を務めたローレンス・サマーズは、ハーバード大学学長時代に、科学と工学分野の研究者に男性が多い理由

として、「女性は統計的にみて数学と科学の最高レベルでの研究に適していない」と述べ、これが女性差別との非難を浴びて学長を辞任することになった。 だがここでサマーズは、「女性は生得的に知能が低い」といったわけではない。男と女で知能が優位な分野に偏りがあること(男は空間把握能力や論理・数学的能力に優れ、女は言語能力や共感力に秀でている)と、男の方が知能の標準偏差(分布のばらつき)が大きいことを指摘しただけだ。これらはいずれも認知科学の多くの研究で繰り返し確認されており、差別的な主張というわけではない。 旧石器時代の狩猟採集生活では、男は集落から離れて狩猟を行ない、女は集落の周辺で乳幼児の世話をしながら採集をしていたと考えられている。現代の進化論は、この「性役割分業」から男女の知能のちがいが生じたと説明する。 サバンナで獲物を狩るとき、高い空間把握能力をもっていなければ集落まで戻ることができない。集落周辺で母親たちがいっしょに果実やナッツ、穀類などを採るときはずっとおしゃべり(噂話)をしていただろうが、そこで高い言語能力や共感能力をもっていないと仲間外れにされてしまう【 33】。これが進化心理学の標準的な説明で、正しいかどうかは別として、「差別」ではなく「科学」の枠内にある。「男女で知能に差はないが、ばらつきが異なる」というのは 1970年代から指摘されていた。図表 5では、平均的な知能をもつのは女性のほうが多く、極端に知能が高かったり低かったりするのは男性が多い。これが、「男女の I Qの平均は同じでも標準偏差は男が大きい」ということだ。

男女では学習・生活態度も異なるので I Qだけで語ることはできないが、それでもこうした〝生得的〟な男女差は現代社会で広く見られる現象をよく説明する。 いまでは大学の人文・社会科学系の学部は、文学や心理学だけでなく、社会学や法学、経済学などでも女子学生が多数派になりつつある。語学系の学部が「共学なのに〝女子大〟になった」といわれるようになって久しい。新聞・出版など言葉を扱う業界では、「試験の点数だけで採否を決めれば新卒はほぼ全員女性になる」というのは公然の秘密だ。「文系」への女性の進出は、男に比べて言語的知能が高いことと、 IQで平均付近の人数が多いことで説明できる。有名大学の医学部が男子学生を増やすため入学試験で得点調整していたことが社会問題になったが、男女の教育が平等になればこうした事態が起きるのは当然なのだ。 それに対して標準偏差が大きいなら、極端なことが起こりやすいのだから、アインシュタインのような超天才が男である可能性はきわめて高い。男は(平均的には)科学・工学分野で優位性があるから、そうした分野でノーベル賞を受賞するのが男ばかりであることを「男性中心主義」と決めつけることはできない。 ところでこれはあまり指摘されないが、標準偏差が大きいということは、「極端に知能の低い」人数も男の方がずっと多いということだ。高校をドロップアウトする生徒の多くは男子で、「勉強についていけない」が大きな理由になっている。──学習障害や自閉症も明らかに男に多く、連続殺人や猟奇殺人など極端な犯罪を起こすのもほとんどが男だ。 じつはこのことは、日本以上に欧米で深刻な問題になっている。高度化した知識社会では、高校中退ではその後の職業人生がきわめてきびしいものになる。平均寿命を 80歳として、 15歳で学校をドロップアウトしたならば、その後の人生は 65年間もある。そんな若者たちのなかに、宗教原理主義に傾倒し、ジハード(テロ)によって天国に行ったほうがマシだと考える者が出てくることに不思議はない。 知能とは知能テストが測ったもの「知能」とはなんだろう? アメリカの高名な心理学者エドウィン・ボーリングは「知能とは知能テストが測ったものである」と定義した。だがこれはジョークでもなければ、同義反復(トートロジー)でもない。 欧米や日本で使用頻度の高いウェクスラ・ベルビュー知能検査( WAIS Ⅲ)は、一般常識や小学校程度の算数問題で構成される「言語性検査」と、絵画や記号、パズルなどを使った「動作性検査」を組み合わせ一般知能 を計測する。これは、「勉強のできる子どもはてきぱきしている(動作が早い)」と考えられているからだ(そして実際に、知能と反応時間には正の相関がある)。 だがこれは、逆に考えれば、教師などが「賢い子ども」と見なす特徴を知能テストが効率的に検出しているということでもある。知能テストの結果が教師の実感と合っていないのなら、そんなテストは誰も使おうとは思わないだろう。一般知能が学業成績と相関するのは、学校教育が要求する「頭のよさ」を測っているからだ。 IQが高い子どもは成績がよいだけではなく、社会的・経済的にも成功しやすいこともさまざまな研究で繰り返し確認されている。 85年間のさまざまな研究にもとづいて、 515の職業、被験者総数 3万 2000名という大規模なサンプルで勤務成績についての予測妥当性を調べたところ、知能テストの妥当性(相関係数/ 1・ 0が最大)は専門的・管理的仕事では 0・ 58、高度な技術を要求される仕事では 0・ 56と大きく、実際の仕事による判断や仲間の評価とほぼ同じだった(まったく技術を要求されない仕事では 0・ 23の予測力しかなかった【 34】)。しかしこれも、知能テストが社会的・経済的に成功できる能力を計測しているのだと考えればなんの不思議もない。 IQが高いのに専門的な仕事で役に立たないとすれば、テストの信頼性は大きく損なわれるだろう。 産業革命以降、私たちは「知識社会」という人類がこれまで体験したことのないまったく新しい世界を生きることになった。そこでは「知能」という、狩猟採集時代はもちろん中世ですらたいして重視されてこなかった能力によって人生の成功と失敗が大きく左右される。なぜなら知識社会とは、その定義上、知能の高い者がもっとも有利になる社会だからだ。 知能テストは、このような知識社会への適応度を計測している。心理学者アリソン・ゴプニックは、このことを次のように的確に説明している。 誰も字が読めなければ、識字障害は問題にはならないはずだ。ほとんどの人々が狩りをしなければならないとしたら、注意を集中させる能力の遺伝子が少しばかり変化していたとしてもほとんど問題にはならないし、もしかしたらその遺伝子多型が有利に働くかもしれない(たとえば、ハンターはその多型のおかげで複数の獲物に対する集中力を同時に維持できるかもしれない)。しかし、ほとんどの人々が高校を卒業しなければならない場合には、同じ多型が人生を変える疾患になる可能性がある【 35】。「差別」の根源は、一般知能(言語運用能力と数学・論理能力)を極端に重視する現代社会そのものなのだ。これは、知能の格差を論じることを「差別」と言い立てるひとたちこそが、知能に深くとらわれていることを示してもいる。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次