まえがき 日本人は世界でもっとも「自己家畜化」された特別な民族「最初に断っておくが、これは不愉快な本だ。だから、気分よく一日を終わりたいひとは読むのをやめたほうがいい」と、前著『言ってはいけない 残酷すぎる真実』の冒頭に書いた。だとしたら続編である本書は「もっと不愉快な本」にちがいない──。 そう思われてもしかたがないが、それは誤解だと断っておきたい。このタイトルは、「言ってはいけない」ことをもっとちゃんと考えてみよう、という意味で、本書では「私たち(日本人)は何者で、どのような世界に生きているのか」について書いている。その世界は、一般に「知識社会」と呼ばれている。 知能は遺伝する、精神疾患は遺伝する、犯罪は遺伝する……と話すと、ほとんどのひとから「ほんとうかもしれないけどそんな本はぜったいに出せない」「そんなことを書いたらたいへんなことになる」と警告された。だが実際には、『言ってはいけない』を読んだ方からは、「救われた」「ほっとした」との多くの感想が寄せられた。「遺伝決定論」を批判するひとたちは、どのような困難も本人の努力や親の子育て、あるいは周囲の大人たちの善意で乗り越えていけるはずだとの頑強な信念をもっている。そしてこの美しい物語を否定する者を、「差別主義者」のレッテルを貼って葬り去ろうとする。 だが、本人や子どもがどれほど努力しても改善しない場合はどうなるのだろうか。その結論は決まっている。努力しているつもりになっているだけで、努力が足りないのだ。なぜなら、困難は意志のちからで乗り越えられるはずなのだから。 行動遺伝学は、遺伝の影響が身体的な特徴だけでなく「こころ」にも及んでいることを明らかにした。すべてが遺伝で決まるわけではないものの、私たちが漠然と思っているよりその影響はずっと大きく、精神疾患の場合は症状が重いほど遺伝率は高くなる。神経症傾向の遺伝率は 46%だが、統合失調症は 82%、双極性障害(躁うつ病)は 83%だ。それ以外でも、自閉症の遺伝率は男児で 82%、女児で 87%、 AD H D(注意欠陥・多動性障害)は 80%と推計されている【 1】。 遺伝率 80%というのは「親が統合失調症だと 8割の確率で子どもが同じ病気にかかる」ということではないが、これがどのような数字かは、身長の遺伝率が 66%、体重が 74%であることからイメージできるだろう。背の高い親から長身の子どもが生まれるより高い確率で、こころの病は遺伝するのだ。 日本のメディアではいまだにこれは「言ってはいけない」ことにされているが、欧米では一般読者向けの啓蒙書にも「統合失調症は遺伝的な影響を強く受けている」とふつうに書いてあるし【 2】、それが差別かどうかの議論にもなっていない。遺伝の影響をいっさい認めない日本の現状が異常なのだ。 現代の遺伝学が明らかにしつつあるのは、「どんなに努力してもどうしようもないことがある」という現実だ。 授業を座って聞いていられないのは ADHDかもしれない。自閉症はきわめて遺伝率の高い疾患だが、日本では子育てが悪いからだといわれてしまう。発達障害の子どもを抱える親たちはつらい経験のなかでそのことに気づいていたが、遺伝の影響を認めない社会では、口先だけは同情の言葉を並べ立てても、誰もがこころのなかで「そうはいっても、ちゃんと子育てしてればあんなことにはならないんでしょ」と思っている。 そんな非難にじっと耐えていた親たちが、私の拙い本を読んで、自分が悪かったんじゃないんだ、こんなに頑張っても結果が出ないのには理由があったんだと感じたのではないだろうか。 行動遺伝学の知見によれば、一般知能( I Q)の遺伝率は 77%でやはりきわめて高い。だが東大医学部に 4人の子どもを入れたママが出てくると、子どもが東大に入れないのは母親が努力していないからだという理屈になっていく。「やればできる」イデオロギーは、ものすごく残酷だ。ちゃんと子育てすれば、どんな子どもでも(ビリギャルでも)一流大学に入れるはずなのだから。──さらに残酷なことに、祖父母やきょうだい、友人を含む周囲のひとたちは、あふれんばかりの善意によってこうした仕打ちをする。『言ってはいけない』はほとんど書評の対象にならなかったが、「ここだけの話だけど、あの本に書いてあることは事実だよ」と囁かれているという話はあちこちで聞いた(何人かの専門家からは、「自分たちが言えないことを勇気をもって書いてくれた」と直接、感謝された)。そのなかにはリベラルな教育者もいて、ふだんは新聞やテレビで「経済格差をなくすために幼児教育も大学も無償化すべきだ」と論じているが、ある雑誌編集者に「成績なんてぜんぶ遺伝で決まるんだよ」と語ったのだという。 とはいえ私は、これを「偽善」だとことさらに批判するつもりはない。私を含め、すべてのひとは多かれ少なかれ偽善者だというだけのことだ。 それよりも私が奇妙に思うのは、「知識人」を自称するひとたちが、「ほんとうのこと」を隠蔽し、きれいごとだけいっていれば、世の中がよくなると本気で信じているらしいことだ。 前提がまちがっていれば、そこから導かれる解決策は役に立たないのではないだろうか。それとも、私の知らないなにかの魔法がはたらいているのだろうか。 本書では「人種(大陸系統)によって認知能力にちがいがある」という説を紹介しているが、「なぜわざわざそんな不愉快な話をするのか?」と思うひともいるだろう。「傷つくひとが一人でもいるのなら、そんな話題は控えるべきだ」というのが、昨今では〝良識〟とされるようになった。 もちろん、たんなる露悪趣味でこれを書いているわけではない。本書を最後まで読めば、「私(日本人)は何者か?」という問いを考えるのにこのテーマが避けて通れないことを理解してもらえるだろう。 なお私の考えでは、これから述べることは「中国人(華人)」や「韓国・朝鮮人」にもかなりの程度あてはまる。それは日本人の祖先が中国大陸や朝鮮半島からやってきたからであり、「東アジア系」が遺伝的にとてもよく似ているからだ。 その一方で本書は、「日本はスゴい」という昨今の流行にも合っている。なぜならここでは、「日本人は世界でもっとも〝自己家畜化〟された特別な民族だ」と述べているのだから。──「自己家畜化」という聞き慣れない用語が本書のテーマだが、それについてはおいおい説明していきたい。 社会科学を「世界を理解するための学問」とするならば、「現代の進化論」はそのもっとも強力なツールだ。コンピュータなどテクノロジーの驚異的な発達を背景に、脳科学や分子遺伝学、ゲーム理論やビッグデータ(統計解析)などの新しい学問と融合して、社会や人間に対する考え方を根底から書き換えつつある。本書で書いていることは、そうした知見をロジカルに展開するとこうなるほかはないという意味で、私たちがやがて行きつく場所を示していると考えている。 私の他の著作と同じく、本書ではできるかぎり証拠(エビデンス)を示すようにしている。日本ではまだあまり理解されていないが、英語圏では一般書でも根拠を示さない主張は議論に値しないと見なされているからだが、煩瑣に思われるなら無視してほしい。
もちろん、本書で提示した「不愉快な仮説」が証拠にもとづいた(エビデンスベースドの)批判によって覆されることもあるだろう。その場合はよろこんで自説を撤回し、世界について、人間についてあらためて考えなおしたいと思う。
もっと言ってはいけない ∞ 目次
まえがき 日本人は世界でもっとも「自己家畜化」された特別な民族プロローグ 日本語の読めない大人たち 日本人の 3分の 1は日本語が読めない? 先進国の成人の半分はかんたんな文章が読めない 無意識は高い知能をもっている 知能とポピュリズム 知識社会に適応できるのは 1割強
1 「人種と知能」を語る前に述べておくべきいくつかのこと
なぜ知能が問題になるのか? 統計的事実とブラックスワン 差別とは合理的に説明できないこと 遺伝率と遺伝決定論 同性愛は生得的なものか? 「ゲイ遺伝子」の発見 同性愛はなぜ自然選択されたのか? リベラルな社会ほど遺伝率が上がる
プロローグ 日本語の読めない大人たち PIAAC(ピアック = Programme for the International Assessment of Adult Competencies)は OECD(経済協力開発機構)主催の国際調査で、「 16歳から 65歳の成人を対象として、社会生活において成人に求められる能力のうち、読解力、数的思考力、 ITを活用した問題解決能力の 3分野のスキルの習熟度を測定する」ことを目的に、 24カ国・地域において約 15万 7000人を対象に実施された。日本では「国際成人力調査」として 2013年にその概要がまとめられている【 3】。 日本人の 3分の 1は日本語が読めない? 図表 1を見て、日本の成績が予想外に高いことに驚くだろう。「 ITを活用した問題解決能力( I Tスキル)」で順位が2つあるのは、参加者のなかにコンピュータを使わなかった者がいるからで、コンピュータ調査を受けた者の平均得点は読解力、数的思考力と並んで参加国中 1位だ。しかしここでいいたいのは、「日本人は優秀だ」ということではない。
PIAACの目的は「知識社会に適応する能力」を測定することで、それぞれの分野の習熟度を 4 ~ 6段階で評価している。 設問例を見ると、「読解力」のレベル 3は、図書館のホームページにアクセスし、そのリストにある本(『エコ神話』)の著者名を回答するというものだ。 図書館のホームページには本のタイトル、著者名のほかに 100字程度の概要が書かれている。レベル 4では、「遺伝子組み換え食品に賛成の主張と反対の主張のいずれも信頼できないと主張しているのはどの本ですか」の質問に答えるよう求められる。 これを読んで、「子どもだましでバカバカしい」と思うひともいるだろう。だが驚くのはその結果だ。 日本では、レベル 3の問題(本のタイトルと著者名を一致させる)ができない成人が 27・ 7%いる。レベル 4の問題(設問と本の概要を比較する)ができない成人はなんと 76・ 3%だ。──これは複数出題の平均なので、厳密には、レベルに達しない受験者のすべてが問題例に正答できなかったわけではない。 A I(人工知能)に東大の入学試験を受けさせる「東ロボくん」で知られる新井紀子氏は、全国 2万 5000人の中高生の「基礎的読解力」を調査し、 3人に 1人がかんたんな問題文が読めないことを示して日本社会に衝撃を与えた【 4】。問題の解き方がわからないなら解法を教えられるが、何を問われているかが理解できないとしたら授業は成立しない。 一般にはこの結果は「日本の教育が劣化した」と受け取られているが、 PIACCのデータはそれが誤解であることをはっきり示している。日本の成人のおよそ 3人に 1人が、本のタイトルと著者名を一致させるレベルの読解力を満たしていない。なぜこんなことになるかというと、やり方がわからないからではなく設問の意味が理解できないからだろう。 日本人の 3割は、むかしから「教科書が読めない子どもたち」だった。そんな中高生が長じて「日本語が読めない大人」になるのは当然なのだ。 先進国の成人の半分はかんたんな文章が読めない PIAACの「数的思考力」の設問例は、レベル 3が立体図形の展開、レベル 4が単純な棒グラフの読み取りだ。その結果は、レベル 3に満たない成人が 36・ 3%、レベル 4に満たない成人が 80%もいる。表計算ソフトでグラフをつくり、そのデータを読み取ることのできる成人は 2割しかいない。 「I Tスキル( ITを活用した問題解決能力)」のレベル 3の設問例は、会議室予約の申込みメールの処理だ。メールには予約に無関係なもの(たんなる感謝)もあれば、会議室の空き状況を確認するものもある。 4件のメールのうち予約申込みは 3件で、午前、午後、午前から午後にまたがるものだ。回答者は4つの会議室の空き状況を確認し、午前に 1件、午後に 1件入れて、残りの 1件には利用可能な会議室がないことを返信する。 これはパソコンを使う職場では最低限のスキルだと思うが、日本ではわずか 8・ 3%しかクリアできていない。それに加えて、対象となった成人のうち「コンピュータ経験なし」「コンピュータ導入試験不合格」「コンピュータ調査拒否」が合わせて 36・ 8%もいる。 この結果をわかりやすくいうと、次のようになる。 ①日本人のおよそ 3分の 1は日本語が読めない。 ②日本人の 3分の 1以上が小学校 3 ~ 4年生の数的思考力しかない。 ③パソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は 1割以下しかいない。 ④ 65歳以下の日本の労働力人口のうち、 3人に 1人がそもそもパソコンを使えない。「そんなバカなことがあるはずはない」と思ったひともいるだろう。だがこれは OECDの依頼を受けた公的機関が実施した調査結果で、それを疑わしいと感じるのはあなたが知能が高いひとたちの集団のなかで生活しているからにすぎない。 しかし、驚きはこれにとどまらない。こんな悲惨な成績なのに、日本は OECDに加盟する先進諸国のなかで、ほぼすべての分野で 1位なのだ。だとすれば、他の国はいったいどうなっているのだろうか。 OECDの平均をもとに、 PIAACの結果を要約してみよう。 ①先進国の成人の約半分( 48・ 8%)はかんたんな文章が読めない。 ②先進国の成人の半分以上( 52%)は小学校 3 ~ 4年生の数的思考力しかない。 ③先進国の成人のうち、パソコンを使った基本的な仕事ができるのは 20人に 1人( 5・ 8%)しかいない。 無意識は高い知能をもっている PIAACの衝撃的な結果はなにを意味しているのだろうか。それは、「ずっとむかしからこんなものだった」ということだ。一般知能( I Q)の遺伝率の高さ( 77%)を考えれば、数世代で知能が大きく上がったり下がったりするはずはないのだから。 日本人の 3分の 1が日本語を読めず、小学生程度の数的思考力しかないとしても、これまでとくに問題にならなかったのは、それでもできる仕事がたくさんあったからだ。 誤解のないようにいっておくと、これは「バカでもできる仕事」のことではない。近年の脳科学は、無意識も知能をもっており、それはある領域では意識(論理的思考能力)を超えることを明らかにしつつある。 このことは、「アイオワギャンブル課題」と呼ばれる実験がよく示している【 5】。 テーブルの上に4つのカードの山が置かれ、参加者はなんの情報も与えられずに、そこから順にカードを引いていく。 Aと Bの束のカードは大儲けするか大損するかのいずれかで、ゲームを続ければ全体としては損をする(ハイリスク・ハイリターン)。 Cと Dの束のカードは儲けも損も小さいが、続ければ確実に儲けられる(ローリスク・ローリターン)。 ほとんどの参加者は、4つの束すべてを試しているうちに、 Cと Dの束からカードを引き、 Aと Bの束のカードを避けるようになる。だが自分がなぜそのような判断をしているのかを説明することはできない。 そこで研究者は、参加者の皮膚伝導反応(指先などのわずかな発汗)を計測してみた。すると、参加者が Aや Bの束からカードを引こうかどうかと迷っているとき、皮膚伝導反応に顕著な増加が見られた。 これは緊張や警戒の合図で、なんらかの方法で脳から指先に「この選択はまちがっている」という信号が送られたことを示している。それがふたたび脳にフィードバックされて、危険なカードを避けるという選択をするのだ。──意識がトランプの束のちがいに気づく前に、無意識は Aと Bの束が危険であることを「直感」によって知らせていた。
複雑で危険な環境で生き延び、より多くの子孫を残すためには、脳は世界を正確に評価し、瞬時に決断しなければならない。だが私たちの意識はほとんどの場合、どれがいちばんよい選択かを見つけ出すにはあまりにも遅すぎる。進化論的にいうならば、私たちのこころは、面倒なことを無意識に任せることでもっとも効率的に働くよう設計されているのだ。 この無意識の知能を「暗黙知」と呼ぶならば、家内工業的なものづくりでも、多数の労働者が複雑な連携作業を行なう工場でも、かつてはこの「(意識化できない)職人の知恵」が重要な役割を果たしていたはずだ。 だが知識社会が高度化するにつれて、職人の知恵はマニュアル化され、アルゴリズム(プログラム)に置き換えられていった。マニュアルができれば、労働者はそれに従って定型化された作業をすればいいのだから、人件費の安い新興国に工場をつくった方が利益は大きくなる。プログラム化が可能な仕事はそもそも人間を使う必要はなく、機械(ロボット)に 24時間 365日やらせればいいだけだ。 じつは PIAACの設問例(会議室予約)のような「 I Tスキル」も、コンピュータで自動化されてもはや不要になっている。パソコンを使った基本的な仕事ができるのは日本の労働者の 1割以下、先進国では 20人に 1人だが、そんな彼ら/彼女たちですら「スキルが足りない」と見なされる世界がもうすぐやってくる。 A Iなどテクノロジーの急速な進歩によって、労働者が要求される知能(スキル)のハードルはますます上がりつづけている。高度化した知識社会では、それに適応できない膨大なひとたちが生まれることは必然なのだ。 知能とポピュリズム OECDが成人の基礎的能力を計測しようと試みたのは、欧州を中心に高い失業率が社会問題になっているのに、経営の側から「いくら求人を出しても必要な人材を雇えない」という不満が高まっているからだという。 伝統的な経済学では、労働者の能力を均質と仮定し(あるいは一定の範囲に収まるとして)、労働市場のミスマッチをなくせば完全雇用が達成できると考える。だが労働者が仕事に必要な最低限のスキルを満たしていなければ、どれだけ労働市場を改革しても失業者は減らない。 PIAACの背景には、やはり欧州を中心に、排外主義的なポピュリズムの嵐が吹き荒れるようになったことがあるだろう。さまざまな調査で「極右」支持者(トランプ支持者も)の多くが、学歴が低く、ブルーカラーの仕事に従事していたものの工場の閉鎖などで仕事を失い、中流層から脱落しかけていることが示されている。 図表 2は PIAACの参加 23カ国のうち、「読解力」「数的思考力」「 I Tスキル」で下位 5カ国を示したものだ。
この調査は 2011 ~ 12年にかけて行なわれたが、この結果はその後、世界を揺るがせた政治的な出来事を予言していないだろうか。 2016年6月、イギリス( I Tスキル 19位)で国民投票が行なわれ、 EU離脱派が多数を占めた。同年 11月、アメリカ(数的思考力・ ITスキル 21位)大統領選挙で、メディアや専門家の予想を覆してドナルド・トランプが当選した。 2017年5月、フランス(読解力 21位、数的思考力 20位)の大統領選挙で「極右」の国民戦線(現・国民連合)のマリーヌ・ルペンが決選投票に残った。ポーランド(読解力 19位、 ITスキル 23位)では難民問題を機に、 2015年に排外主義的な右派政権「法と正義」が政権を奪取した。 イタリア(読解力 23位、数的思考力 22位)では 2018年6月、北部を基盤とする「同盟」と南部の「五つ星運動」の2つのポピュリズム政党が連立してコンテ政権が成立した。同じ6月、スペイン(読解力 22位、数的思考力 23位)では中道右派のラホイ政権に対する内閣不信任案が可決して政権交代し、左派のポピュリスト政党ポデモスが存在感を増している。──アイルランド(読解力 20位、数的思考力 19位、 ITスキル 22位)は相対的に安定しているが、 2009年のユーロ危機では国家破産の寸前に追い込まれている。 ここから、それが生得的なものか、なんらかの環境によるものかは別にして、「知識社会に適応できない国民が多いほどポピュリズムが台頭し、社会が混乱するのではないか」という素朴な疑問が生じないだろうか。 欧米の「右傾化」について、国際政治学者などの専門家はさまざまな解説をしている。 トランプ現象の背景には、アメリカの白人が少数派になりつつあり、彼らのアイデンティティが揺らいでいるという「人種問題」がある。ヨーロッパの「極右」台頭は、右傾化というより、これまで築いてきた年金や医療など社会保障制度を守りたいという生活保守だ……。こうした指摘はどれも現実の一面をとらえているが、だからといって、 PIAACの結果にもとづいたこの単純な説明を一笑に付すことができるだろうか。 知識社会に適応できるのは 1割強 先進国に膨大な数の「文章の読めないひと」がいるという不都合な事実は、じつは 1970年代のアメリカですでに指摘されている。 成人達成水準( AP L)は 1973年にテキサス大学で開発された「成人として生きていくために身につけなくてはならない知的水準」だが、合衆国教育局はそれに基づいて、 1970年代初頭のアメリカでは 5700万人の国民が初歩的な仕事をこなすのに必要な識字能力が欠如していると試算した。そのうち 2300万人が職務や日常生活不適格者で、残る 3400万人は、なんとかやってはいるが「堪能ではない」者だ。「非識字( illiterate)」はほとんど字が読めないことで、「半識字( semiliterate)」は、字はすこし読めるが社会生活に必要な水準に達しないこととされる。なんらかの疾患や障害によって読み書きができないわけではないから、これは「機能的非識字」と呼ばれている。 1970年のアメリカの人口は約 2億で、成人人口を 1億 5000万とするならば、非識字が 15%、半識字が 23%で、全体の約 4割が機能的非識字となる。人種別では黒人がもっとも多く、 44%がアメリカ社会への参画に必要な識字能力を欠くが、機能的非識字は白人でも珍しくなく、これは人種問題ではなく社会問題だ【 6】。 その後アメリカでは、国立教育統計センターが 1992年と 2003年に成人のリテラシーについて大規模な調査を行なっている【 7】。 03年の調査では、「(非識字に相当する)基礎的水準に満たない者」が文章読解能力で 14%、図表読解能力で 12%、数的能力で 22%、「(半識字に相当する)基礎的水準」と見なされたひとたちは文章読解能力で 29%、図表読解能力で 22%、数的能力で 33%にのぼり、最初の調査から 30年たっても状況が一向に改善されていないことを示している。 これを人数に直すと、 21世紀のアメリカでは、成人人口約 2億 1600万人のうち、難しい文章を読めないひとが約 9200万人、地図や図表を理解できないひとが約 7300万人、コンピュータを使った作業ができないひとが約 1億 2000万人もいて、すべての分野にわたって「優秀」と評価されたひとは成人人口のおよそ 13%(約 2800万人)程度だ。彼らが知識社会に適応したひとたちだとすれば、残りの 87%(約 1億 9000万人)は、程度の差はあれ、適応になんらかの困難が生じていることになる。 先進国ですら、大半の労働者は知的作業が要求するスキルを満たしていない。──これが、私たちが生きている世界の「ファクト(事実)」だ。 こうした数字を示すことは、差別や偏見を助長しないだろうか。だが、アメリカの非識字問題を最初に取り上げ、自らも貧しい黒人に読み書きを教える社会活動に取り組んだジョナサン・コゾルは「リベラル」な態度をこう批判する。 逆境にいる社会的被害者の人間的尊厳を大切にしたいと思う気持と、そのような人がこうむる能力面における劣勢をかたくなに否定することとは、理性的に区別しなければならない。若いとき識字能力を潰された人々も、親の世代になって、「我々知識人エリートが持つ識字能力がなくても、立派に生活している」という主張が通るのだったら、そういう人々を特別に考慮せよという主張もできなくなる。(中略)社会的犠牲としての非識字が世代をまたがる事実を教条的に否定しても、犠牲者自身や真実にとってプラスにならない。心情的に困難ではあっても、もし悲劇を本当になくしたいのであれば、事実を事実として直視しよう【 8】。
1 「人種と知能」を語る前に述べておくべきいくつかのこと「人種と知能」は現代社会における最大のタブーだ。この話題は「人種差別」と表裏一体で、ひとたび「レイシスト(人種主義者)」のレッテルを貼られると社会的に葬り去られてしまう。 そこで本論に入る前に、いくつか大切なことを述べておきたい。 なぜ知能が問題になるのか? いうまでもないことだが、リベラルな社会では「個人の努力ではどうしようもないもの(運命)」を理由にした差別は許されない。これは人種だけでなく、民族・国籍・身分・出自・性別・性的指向・障がいなども同じだ。そのなかで人種が常に問題にされるのは、もっともアイデンティティと結びつきやすいからだろう。 アイデンティティは「社会的な私」の核心にあるもので、徹底的に社会的な動物であるヒトにとって、それを否定されることは身体的な攻撃と同じ恐怖や痛みをもたらす。人類が進化の大半を過ごした旧石器時代の狩猟採集生活では、集団(仲間)から排除されることはただちに「死」を意味した。自己は社会 =共同体に埋め込まれているのだ。 アイデンティティ(共同体への帰属意識)は、「俺たち」と「奴ら」を弁別する指標でもある。それに最適なのは、「自分は最初からもっていて、相手がそれを手に入れることがぜったいに不可能なもの」だろう。黒人やアジア系は、どんなに努力しても「白い肌」をもつことはできない。これが、中流の崩壊とともにアメリカの貧しい白人たちのあいだで「白人アイデンティティ主義(白人至上主義)」が急速に広まっている理由だ。彼らは「人種差別主義者」というより、「自分が白人であるということ以外に誇るもののないひとたち」だ。 同様に「男であること」は、(性転換しないかぎり)女性が自分と同じになれないことからアイデンティティ化し、「女性嫌悪(ミソジニー)」の差別意識を生み出す。ヒンドゥーでは自らの出自(カースト)を変えることができないし、ユダヤ教では母親がユダヤ人でないかぎり子どもはユダヤ人になれない。 変更可能なアイデンティティもあるが、それは別のやっかいな問題を生み出す。 ムスリム(イスラーム教徒)になるには「アッラーのほかに神はなし」と宣言すればいいだけだが、だからこそ I S(イスラム国)のような原理主義者は、「ほんとうのイスラーム(俺たち)」と「にせもののイスラーム(奴ら)」を区別しようと過激化する。──これはキリスト教原理主義でも同じだし、日本では仏教原理主義のカルト集団であるオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした。 日本で「ネトウヨ」と呼ばれるのは「自分が日本人であるということ以外に誇るもののない」愛国原理主義者のことだが、人種とちがって国籍は変更可能だ。だからこそ彼らは、意に沿わない者たちを「在日認定」して「日本人でないもの(奴ら)」の側に排除し、帰化して「日本人(俺たち)」にならないよう外国人(地方)参政権に強硬に反対し、「朝鮮半島にたたき出せ」と叫ぶ。 世界を「俺たち(善)」と「奴ら(悪)」に分割し、善悪二元論で理解しようとするのは、それがいちばんわかりやすいからだ。古代ギリシアの叙事詩からハリウッド映画まで、人類はえんえんと善が悪を征伐する物語を紡いできた。 世界を複雑なものとして受け入れることや、自分が「悪」で相手が「善」かもしれない可能性を疑うことは、この単純な世界観をはげしく動揺させる。それは、陳腐で平板な世界でしか生きられないひとたちにとってものすごく不安なことなのだろう。 現代社会を蝕む病は、脆弱なアイデンティティしかもてなくなったひとたちがますます増えていることだ。彼らは名目上はマジョリティだが実体は「社会的弱者」で、だからこそ自分より弱いマイノリティにはげしい憎悪を向ける【 9】。 なぜ世界じゅうのあらゆる場所でアイデンティティが不安定化し、憎悪がぶつかり合うのだろうか。それはよくいわれるように「格差」が拡大しているからであり、社会が「分断」されているからだが、その原因は「ネオリベ化」や「グローバリストの陰謀」ではない。 知識社会とは、その定義上、高い知能をもつ者が社会的・経済的に成功する社会のことだ。そう考えれば、知識社会における経済格差とは「知能の格差」の別の名前でしかない。「知能」の問題から目を背けて、私たちがどのような世界に生きているのかを理解することはできない。 統計的事実とブラックスワン「日本人( 20歳)の平均身長は男性 170センチ、女性 158センチ」というのは統計的事実だ。「知り合いの男の子は身長 165センチしかない」とか、「モデルの娘は身長 175センチだ」といってこの事実を否定するひとは(たぶん)いないだろう。世の中には背の低いひとも高いひともいる(身長の分布がばらついている)ことは誰でも知っている。正規分布(ベルカーブ)の場合、そのばらつきのなかでもっとも頻度が高いのが平均値になる。 それに対して「ハクチョウは白い鳥だ」というのは定義だ。「 A = B」の関係が普遍的に(どのような場合でも)成り立つとの主張は、たったひとつの例外で木っ端微塵に粉砕されてしまう。 1697年にオーストラリアでコクチョウ(ブラックスワン)が発見されたことで、「ハクチョウ =白い鳥」という常識は覆された。 こんなことは当たり前だというかもしれないが、世の中には統計的事実と定義を混同するひとがいる、それもものすごくたくさん。『言ってはいけない』で、行動遺伝学によれば「一般知能( I Q)の遺伝率は 77%」と述べた。これは統計的事実で、「知能の分布のばらつきの約 8割を遺伝で説明できる」という意味だ。 ところがこれに対して、「親が高卒なのに子どもは東大に入った」とか、「医者の知人の子どもは高校中退だ」などの(たまたま知っている)経験的事実を引き合いに出して、「この本に書いてあることはデタラメだ」と自信たっぷりに断言する批判があふれた。インターネットのレビューを一瞥すれば、この類がいかに多いか驚くだろう。中学校で習うようなことだろうが、統計的事実を経験的事実(外れ値)によって否定することはできない。 これは典型的な誤謬だが、それとは逆に、「統計的事実の一般化」という誤解も頻繁に見られた。「知能における遺伝の影響は思っているより大きい」というのは行動遺伝学が双生児研究によって積み上げた知見だが、そこから「知能は遺伝で決まっている」と決めつけることはできない。「喫煙はがんのリスク因子」という統計的事実から、「喫煙者はかならずがんになる」といえないのと同じだ。ヘビースモーカーでも長寿をまっとうするひとはいる(ただし、喫煙ががんのリスクを高めることはまちがいない)。 ところがヒトの脳は、直観的には因果律しか理解できないようにつくられているため、あらゆる出来事に無意識のうちに原因と結果の関係を探す。これが、自分にとって不愉快な統計的事実を定義と混同し、それを否定するために経験的事実を「ブラックスワン」として持ち出すいちばんの理由だろう。
わかりやすい例外を強調すること(こんなヒドい話がある)は、ポピュリストによるプロパガンダの常套手段でもある。気に入らない意見を封殺するために同じ手法を使うなら、ナチスがこれを効果的に使ってユダヤ人を絶滅しようとした歴史を思い出すべきだろう。 差別とは合理的に説明できないこと 2015年1月、フランスの風刺雑誌『シャルリー・エブド』の編集部がイスラーム過激派の武装集団に襲撃され、編集スタッフや警官など 12名が犠牲になった。日本で「リベラル」を自称するひとたちはこの事件を受けて、「テロは否定するが、ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」と口々に述べた。 だがこのきわめて情緒的な理解は、世界標準(グローバルスタンダード)のリベラリズムからかけ離れている。差別的な言論は表現の自由を制限されてもやむをえないが、それは相手が不快に思うかどうかではなく(そうであれば「私は傷ついた」といえばどのような言論も封殺できる)、「アカウンタビリティ(証拠によって合理的に説明できること)」で判断するのが〝世界標準〟のリベラルの原則だからだ。 具体的に説明しよう。次の2つの主張を比較してほしい。 ①女性が仕事をもつと子どもをつくらなくなるから、社会進出を抑制すべきだ。 ②男と女では仕事の適性が異なるから、女性には向かない仕事がある。 どちらも同じように思えるが、 ①は差別発言で ②は女性差別とはいえない。 女性の社会進出が少子化の原因になるとの主張には根拠がない。経済発展によって中産階級が増えると子どもの数が減るのはたしかだが、現役世代の女性のほぼ全員が仕事をする北欧の出生率が 1・ 7前後なのに対して、女性の社会進出が遅れたスペインやイタリアの出生率は 1980年代から急速に低下して、いまでは 1・ 4を下回っている。証拠(エビデンス)は、女性の高学歴化が進んだ先進国では、母親を家庭に押し込めて子育てに専念させるより、保育園などを整備して女性が働きやすい社会をつくった方が安心して子どもを産めることを示している。 それに対して ②の主張は、合理的な説明が可能だ。 伝統的なフェミニズムでは、男と女は生殖器官を除いてまったく同じだとされてきた。だがいまでは、言語中枢とされる脳の左半球に卒中を起こした男性の言語性 I Qが平均で 20%低下するのに対し、女性は 9%しか低下しないことがわかっている。これは男性の脳の機能が細分化されていて言語を使う際に右脳をほとんど利用しないのに対し、女性の脳では機能が広範囲に分布しており、言語のために脳の両方の半球を使っているからだ【 10】。 男女の権利が平等なのは当然だが、脳の機能のちがいが仕事の好き嫌いや適性に反映されている──。この主張が「差別」でないのは、反証可能なかたちで提示されているからだ。納得できないのであれば、性別によって脳の機能にちがいがあっても職業適性には影響しないと、証拠に基づいて反論すればいい。いずれが正しいかは別として、これは学術論争であって差別問題ではない。 遺伝率と遺伝決定論 遺伝率とは、身体的特徴やこころの特徴(知能や性格、精神疾患など)のばらつきのうち、どの程度を遺伝で説明できるかの指標だ。遺伝率 100%ならすべて遺伝で説明できるから「遺伝決定論」になるが、現実には身長や体重ですら環境の影響を受ける(幼児期の栄養状態が悪いと成長は阻害される)。 俗に「氏が半分、育ちが半分」というが、行動遺伝学は育ち(環境)を「共有環境」と「非共有環境」に分ける。専門的にはさまざまな議論があるが、在野の心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは共有環境を「子育て」、非共有環境を「友だち関係」として、子どもは遺伝的なちがいをフック(手がかり)にして、友だち関係のなかで自分をもっとも目立たせるような「キャラ」をつくっていくのだと考えた【 11】。本書もハリスに従って、「遺伝」「子育て」「友だち関係」によって「私」がつくられると考えよう。『言ってはいけない』でも述べたが、行動遺伝学が発見した「不都合な真実」とは、知能や性格、精神疾患などの遺伝率が一般に思われているよりもずっと高いことではなく(これは多くのひとが気づいていた)、ほとんどの領域で共有環境(子育て)の影響が計測できないほど小さいことだ。──音楽や数学、スポーツなどの「才能」だけでなく、外交性、協調性などの性格でも共有環境の寄与度はゼロで、子どもが親に似ているのは同じ遺伝子を受け継いでいるからだ。 ところが子育ての大切さを説くひとたちは、親の努力によって子どもの運命が決まるかのような主張をする。これがほんとうだとすれば、子育てに成功した親は気分がいいだろうが、「失敗」した親は罰せられることになる。 どんな子どもも親が「正しい教育」をすれば輝けるなら、子どもが輝けないのは親の責任だ。「犯罪が遺伝する」ことがあり得ないなら、子どもが犯罪者になるのは子育てが悪いからだ──という理屈もいまでは「言ってはいけない」ことになったので、「社会が悪い」となった。「人権」を振りかざす〝自称〟リベラルが目指すのは、「努力が報われる」遺伝率ゼロの世界なのだ。 しかしこの主張が正しいとすると(私はそうは思わないが)、同性愛はどうなるのだろうか。 知能や性格が遺伝しないなら、性的指向も同様だろう。同性愛は親の「歪んだ」子育てや幼少期の「異常な」友だち関係によって生じた病理で、本人の「努力」で克服できることになる。これはいうまでもなく、同性愛を「神への冒瀆」とする宗教原理主義者たちの主張と同じだ。遺伝率ゼロの理想社会は、同性愛者を徹底的に差別する世界になるだろう。 もちろん「リベラル」なひとは、こうした批判に耳を貸さないだろう。彼らは、「知能や精神疾患、犯罪は遺伝しないが、同性愛は生得的だ」というにちがいない。なぜなら科学的に正しいかどうかには関係なく、すべては「政治的に正しい」べきだから。これが PC( Political Correctness/政治的正しさ)で、 1970年代以降、アメリカのアカデミズムでは「科学」と「政治」のどちらを取るかが大論争になった【 12】。──日本のアカデミズムではまったく話題にならなかったが。 同性愛は生得的なものか? 1980年代に心理学者 J・マイケル・ベイリーは、ゲイ雑誌や新聞に広告を出して、 2人のうちすくなくとも 1人がゲイである 110組の双子を集めた。行動遺伝学の手法を用いて、一卵性双生児と二卵性双生児を比較することで性的指向の遺伝率を推計しようとしたのだ。 双子のうち 56組は一卵性双生児で、どちらもゲイである割合は 52%だった。残りの 54組は二卵性双生児で、どちらもゲイだったのは 22%だった。それに対して、一般人口でのゲイの割合はおよそ 10%と推定されている。 一卵性双生児は、同じ受精卵が初期の段階で2つに分かれ、独立した個体に育ったのだから、 2人は完全に同一の遺伝子を共有している。それに対して
二卵性双生児は、子宮に二個の受精卵が着床して生まれ、通常の兄弟姉妹と同じく、およそ 50%の遺伝子を共有しているだけだ。 性的指向に遺伝が関係しないのなら、一卵性双生児でも二卵性双生児でもゲイの割合は同じで、それは一般人口のゲイ比率( 10%)に等しいはずだ。しかしベイリーの調査では、(遺伝子のおよそ 50%を共有する)二卵性双生児のゲイ比率は一般のゲイ比率の 2倍、(すべての遺伝子を共有する)一卵性双生児のゲイ比率は二卵性双生児のさらに 2倍以上だった【 13】。 一卵性双生児でも 1人がゲイでもう 1人がストレートというケースが半数ちかくあるのだから、性的指向が遺伝のみで決まるとはいえない。しかしそれでも、ベイリーの調査は、「同性を好きになるのは(かなりの程度)生得的なもので、親の子育てや本人の努力ではどうすることもできない」という〝リベラル〟な立場が正しいことを強く示唆している。 だとすれば、ゲノムのどこかに「ゲイ遺伝子」があるのだろうか。 「ゲイ遺伝子」の発見 1990年代はじめ、米国立がん研究所の研究員ディーン・ヘイマーは、どちらもゲイである兄弟が共有しているゲノムの部分を特定することで「ゲイ遺伝子」を単離できるのではないかと思いついた。 性的指向と遺伝の謎を解くべく、ヘイマーは手始めに 114人のゲイ男性の参加者の家系図をつくったが、そこには顕著な特徴があった。家系図を描く際、どの家族についても左側に父方の親戚を、右側に母方の親戚を置いたところ、ゲイの男性は右側に、ストレートの男性は左側に集まる傾向があったのだ。ゲイの男性にはゲイのおじがいる場合が多かったが、そうしたおじは母方だけにいた。遺伝学者にとってこのパターンは馴染み深いもので、性的指向に関係する遺伝子が X染色体上に存在することを示していた。──性染色体は男性が X Y型、女性が X X型のため、 X染色体の異常は父系よりも母系で遺伝しやすい。 次にヘイマーは、 40組のゲイの兄弟の X染色体をストレートの兄弟と比較し、高頻度で共有している DNA配列を絞り込んでいった。 X染色体上に広がる 22個のマーカーについて調べたところ、 40組のゲイの兄弟のうち 33組が、 と呼ばれるマーカーを共有していることがわかった。兄弟は平均して 50%の遺伝子を共有するから、通常なら半数の 20組が同じマーカーをもつことになる。それが 13組も多い確率は 1万分の 1以下で、ヘイマーは の近くに男性の性的指向を決定する遺伝子が存在すると考えた【 14】。 1993年に「ゲイ遺伝子」の論文が発表されると、たちまち一大センセーションを巻き起こした。同性愛を神への冒瀆とみなす保守派は、ヘイマーは同性愛を生物学的に正当化したと批判した。同性愛者の権利を訴える活動家からは、「ゲイの検査」にもとづく新たな差別を引き起こすと非難された。「科学の力でゲイを撲滅できるはずだ」とか、「大勢の母親が罪悪感に駆られるだろう」と書いた新聞もあった。さらには、遺伝子検査によって同性愛の子どもをもうけることを避けるべきかが議論された。 その後、いくつかの追試が性的指向と の関連を調べたが結果はまちまちで、いまだに結論は出ていない。ただし の関与を確認できなかった実験でも、その代わりに別の染色体との関連が見つかっており、性的指向が遺伝的なものであるとの認識は専門家のあいだで共有されつつある。おそらくは同性愛か異性愛かを決める特定の遺伝子があるのではなく、性的指向は複数の遺伝子と環境がかかわる複雑な過程で決まるのだろう。 ちなみに、同性愛者の団体から「ゲイへの差別を助長する」と批判されたヘイマーは自身が同性愛者であることをカミングアウトしている【 15】。 同性愛はなぜ自然選択されたのか? 同性愛に遺伝が(かなり)強くかかわっているとして、なぜそのような遺伝子が進化の過程で残ってきたのだろうか。利己的な遺伝子は自己の複製を最大化するよう生き物を「設計」するはずだから、子孫を残さないような性的指向が選択されたはずはない。そしてこれが、「神の摂理に反する」として同性愛者が差別されたもっとも大きな理由だった。 ところが 2004年、イタリア、パドヴァ大学のアンドレア・カンペリーノ・キアーニらがコロンブスの卵ともいうべき説を唱え、同性愛が進化の過程で自然選択されることを示した。 キアーニと研究チームは、 98人の男性同性愛者と 100人の異性愛者の男性に面接し、合計 4600人にのぼる彼らの親族の家族歴を調べた。そこでわかったのは、ゲイ男性の母方の女性血縁者、つまりは母方の従姉妹やおばは、異性愛者の従姉妹やおばたちよりも、はるかに多くの子どもを産んでいるということだった【 16】。 同性愛者の男性の母方の親族だけに多産の傾向が見られたということは、男性が母親から受け継ぐ X染色体上に「ゲイ遺伝子」があることを示している。これはヘイマーの研究とも整合的だ。また 2008年のキアーニの研究では、バイセクシュアルの男性も同性愛者と同じく、母方の親族に子どもの数が多いことがわかった。 これはいったいどういうことだろうか。 男性と女性が平均して 2人の子どもをもうけるとしよう。兄と妹なら 4人の子どもをつくるはずなのに、兄が同性愛者だと子どもは 2人に減ってしまう。利己的な遺伝子は冷酷なまでに合理的なので、こんな非効率なことはしないはずだ。 だが X Y型の性染色体をもつ兄が同性愛者で、その遺伝子が X染色体上にあるということは、 X X型の性染色体をもつ妹も同じ「ゲイ遺伝子」を保有していることになる。そしてなんらかの理由でこの妹が 5人の子どもを産むならば、家族ぜんたいでの子どもの数は「ゲイ遺伝子」をもたない兄妹より 1人多い。父親は子どもと 50%の遺伝子を共有し、姉の子ども(いとこ)とは 25%の遺伝子を共有しているから、遺伝子の包括適応度で考えれば、 1人の子どもは 2人のいとこと等価になる。 もちろん実際の家族はこんなシンプルではない。そこで次に、兄弟と 2人姉妹の家族を考えてみよう。「ゲイ遺伝子」があっても必ず同性愛者になるわけではないから、兄がゲイで弟が異性愛者としよう。すると、平均的には 8人の子どもをもつはずだったこの家族は、(兄がゲイであることで)子どもの数が 6人に減ってしまう。 だが X染色体上に「ゲイ遺伝子」があるのだから、 2人の姉妹もこの遺伝子を共有している。そしてなにかの理由で彼女たちが 3人の子どもをもつとしたら、弟の 2人の子どもと合わせて家族ぜんたいで子どもの数は 8人となり、ゲイの兄は包括適応度で 4人の子どもをもつことと等価になる。──従姉妹やおばを含め、家系のなかで母方の女性が多くの子どもを産むのなら、「利己的」な理由からゲイ遺伝子は子孫に伝えられていくのだ。「ゲイ遺伝子」をもつ女性はなぜ多産なのだろうか。妊娠しやすいとか、出産が楽とか、いくつかの理由が思い浮かぶだろうが、もっとも説得力があるのは「ゲイがどういうひとか?」を考えてみることだ。 B L(ボーイズラブ)は美しい男の子を好きになることだが、逆にいえば、男の子から愛されることでもある。
このようにしてキアーニは、なぜ「ゲイ遺伝子」があるのかをきわめて明快に説明した。それは(男に対する)性的魅力をつくる役割を担っているのだ。だからこそ、ゲイ遺伝子をもつ男性は同性愛者になり、同じ遺伝子をもつ女性は周囲の男性にもてることでたくさんの子どもを産む。これを差し引きすれば、平均的な(たいしてもてない)男女よりも効率的に遺伝子を複製できるのだ。──ここから芸能人(大衆から魅力的だと思われるひと)にゲイが多い理由を説明できるかもしれない。 もちろんこれ以外にも、胎内で浴びるホルモンが子どもの性的指向に関係するという有力な証拠が数多くある。男性ホルモンを大量に浴びた男性は、ほかの男性に惹かれやすいというのだ。 「2人以上男の子が続いたあとに生まれた子どもは、ゲイになる確率が高くなる」との研究もある。 妊娠が連続することで母親の胎内で浴びるアンドロゲンのレベルが高くなり、極端に男性的になることが性的指向に関係するのだと考えられている【 17】。 自民党の女性国会議員が同性愛者などに対し、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と述べたことが大きな問題になった。ひとの価値を「生産性」で判断することが論外なのはもちろんだが、それ以前にこの認識は事実として間違っている。 有性生殖は信じられないほど複雑で、解明されるべきことはまだまだある。だが現代の遺伝学は、同性愛が「生産性」が低いのではなく、「魅力的な男性と女性」を生み出す合理的な進化のメカニズムであることを着々と証明しつつある。 リベラルな社会ほど遺伝率が上がる「リベラル」なひとたちは、遺伝率の低い(努力が報われる)社会のほうが「政治的に正しい」と考えている。だがなかには「ゲイ遺伝子」のように、生得的であることが差別をなくすのに有利な場合もある。だとすればわれわれは、「性的指向は遺伝的だが知能は遺伝しない」政治的に正しい社会を目指せばいいのだろうか。 行動遺伝学に対する正当な批判に、「遺伝率は相対的なものだから、〝知能の遺伝率は 80%〟のように、絶対的なものとして語るのはおかしい」がある。 私(人格)は遺伝と環境によってつくられ、環境は共有環境と非共有環境に分けられる。これをまとめると、 私(人格) =遺伝 +環境(共有環境 非共有環境)となる。 共有する遺伝子と共有環境はきょうだいをお互いに似させるちから、異なる遺伝子と非共有環境は別々にするちからだ。一卵性双生児は同一の遺伝子をもっているが、非共有環境(友だち関係)の効果によって異なる人格になる。──家庭内でも兄・姉と弟・妹で扱いがちがうこともあるだろう。 この単純な足し算と引き算からわかるように、環境の影響が大きくなれば遺伝率は下がり、逆に環境の影響が小さくなれば遺伝率は上がる。「子どもたちの教育程度に差があるのは、親の経済状態によって進学できるかどうかが決まるからだ」という主張は、ある程度は正しい。 しかしそうなると、社会がどんどん平等になれば、生育環境(親の経済状態など)のちがいはなくなっていくのだから、原理的に遺伝率は上がっていくはずだ。──遺伝と環境の影響がそれぞれ 50%として、生育環境の影響力が 30%に下がれば遺伝率は 70%に上がる。 これとは逆に、どんどん社会が不平等になれば、親が金持ちか貧乏人かで受けられる教育がまったくちがうのだから、生育環境の影響が大きくなって遺伝率は下がるはずだ。──同じく遺伝と環境の影響がそれぞれ 50%として、生育環境の影響力が 70%に上がれば遺伝率は 30%に下がる。「そんなものはただの理屈だ」と笑うかもしれない。しかし 1985年に、ノルウェーの大規模な双子データを使って研究者がこのことを検証している【 18】。 それによると、 1940年以前に生まれた男女は(大学進学など)教育達成度における環境の影響が 47%、遺伝的な影響が 41%(残りは統計誤差、以下同)だった。同じ手法で 1940年から 61年のあいだに生まれた男女を調べると、女性は環境の影響が 38 ~ 45%、遺伝的な影響が 41 ~ 50%で大きなちがいはなかった。だが同じく 1940年以降に生まれた男性では、遺伝的な影響は 67 ~ 74%に大きく上がり、それにともなって環境の影響は 8 ~ 10%まで下がった。 これはいったいなにを意味しているのだろうか。 第二次世界大戦前のノルウェーはまだ身分制社会の影を引きずっており、だからこそ男も女も教育程度の半分は生まれた家庭によって決まった(貧しい家の子どもは高等教育を受けることがむずかしかった)。だが戦争が終わると社会はより平等になり、まずは貧しい家の男の子が金持ちの息子と同じように学校に通えるようになった。これによって生育環境の影響は大きく下がり、遺伝率が 70%前後まで上がったのだ。だがこの調査が対象にしたのは 1960年生まれまでで、貧しい家の女の子はまだ平等な教育機会が与えられなかった。だからこそ彼女たちの遺伝率は 50%程度にとどまり、戦前とたいして変わらなかったのだ。 この研究が示すのは、「リベラルな社会ほど遺伝率が上がる」という単純な事実だ。だとすれば「リベラル」なひとたちこそが、環境のちがいで人生が決まることのない遺伝率 100%の理想世界を目指さなくてはならない。
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