MENU

第二章 脳の中の係数

脳の中の入出力脳内の一次方程式虫と百円玉無限大は原理主義感情の係数適応性は係数次第

第二章 脳の中の係数脳の中の入出力 知りたくないことに耳をかさない人間に話が通じないということは、日常でよく目にすることです。これをそのまま広げていった先に、戦争、テロ、民族間・宗教間の紛争があります。例えばイスラム原理主義者とアメリカの対立というのも、規模こそ大きいものの、まったく同じ延長線上にあると考えていい。 これを脳の面から説明してみましょう。脳への入力、出力という面からです。言うまでもなく、入力は情報が脳に入ってくることで、出力は、その情報に対しての反応。入力は五感で、出力というのは最終的には意識的な出力、非常に具体的に言うと運動のことです。 運動といっても、別にスポーツのことを指しているわけではありません。話すのも運動だし、書くのも運動だし、手招きも表情も、全部運動になる。さらに言えば、入力された情報について頭の中で考えを巡らせることも入出力のひとつです。この場合、出力は脳内の運動となっていると考えればよい。 コミュニケーションという形を取る場合は、出力は何らかの運動表現になる。脳内の一次方程式 では、五感から入力して運動系から出力する間、脳は何をしているか。入力された情報を脳の中で回して動かしているわけです。 この入力を x、出力を yとします。すると、 y = axという一次方程式のモデルが考えられます。何らかの入力情報 xに、脳の中で aという係数をかけて出てきた結果、反応が yというモデルです。 この aという係数は何かというと、これはいわば「現実の重み」とでも呼べばよいのでしょうか。人によって、またその入力によって非常に違っている。通常は、何か入力 xがあれば、当然、人間は何らかの反応をする。つまり yが存在するのだから、 aもゼロではない、ということになります。 ところが、非常に特殊なケースとして a =ゼロということがあります。この場合は、入力は何を入れても出力はない。出力がないということは、行動に影響しないということです。 行動に影響しない入力はその人にとっては現実ではない、ということになる。つまり、男子に「出産ビデオ」が何の感興ももたらさなかったのは、その入力に対しての係数 aがゼロ(または限りなくゼロに近い値)だったからです。彼らにとっては、現実の話ではなかった。となれば、感想なんか持てるはずもありません。虫と百円玉 同様に、イスラエルについてアラブ人が何と言おうと、さらには世界がいかに批判しようと、その情報に対しては、イスラエル人にとって係数ゼロがかかっている。だから、彼らの行動に影響しない。 逆に、イスラエルからの主張に対しては、今度はアラブ側が係数をゼロにしている。聞いているようで、聞いてなんかいないわけです。これをもう少し別な言い方をすると、係数ゼロの側にとっては、そんなものは現実じゃない、とこういう話になってくる。 身近な別の例を挙げてみましょう。歩いていて、足元に虫が這っていれば、私だったら立ち止まるけれど、興味が無い人は完全に無視してしまう。目にも止まらない。これは、虫という情報に対しての方程式の係数が、その人にとってはゼロだから。 しかし、百円玉が落ちていると、その人は立ち止まるかもしれない。馬券が落ちていたら、「ひょっとして当たりかも」と期待して立ち止まり、拾うかもしれない。馬券については、私は止まらない。 これは、入力に出力が全然影響を受けない場合と、受ける場合がきれいに分かれているということになる。人によってその現実が違うというのは、実は aだったら aがプラスかマイナスか、あるいは a =ゼロかの違いなのです。無限大は原理主義 他にも身近な a =ゼロのケースとしては、おやじの説教を全然聞かない子供、なんて場合があります。「部屋を片付けなさい」だの「宿題をちゃんとやりなさい」だの何だのとさんざん言うと、その時だけは子供もウンウンなんて相槌を打っているけれど、実は全然聞いていない。だから次の日、同じように悪いことをしている。 彼に対する説教の中身は、 a =ゼロになっているから、いくら入力しても行動に影響がない。おやじが怒っていたっていうのだけが入力になっていて、怒ったおやじの顔を見ると逃げたりしている。そちらの方だけは、きちんと「出力」が出来ているわけです。子供にとっての現実は「おやじの怒った顔」だけで、「おやじの説教」は現実ではない。 では、 a =ゼロの逆はというと、 a =無限大になります。このケースの代表例が原理主義というやつです。 この場合は、ある情報、信条がその人にとって絶対のものになる。絶対的な現実となる。つまり、それに関することはその人の行動を絶対的に支配することになります。 尊師が言ったこと、アラーの神の言葉、聖書に書いてあることが全てを支配する、というのは、その人にとって aが限りなく大きい、ということになります。感情の係数 この一次方程式で、行動の大抵のことは説明できる。ここまで述べてきたことは、「わかる」ということについてでしたが、感情についても同様の説明ができます。 簡単に言えば、 aがゼロより大きいという場合を好きとすると、 aがゼロより小さいとき、マイナスになっているから嫌い。誰かを見た時、すなわちそういう視覚情報 xが入力されて、 aがプラスならば、 y =行動はプラスになる。 誰でも、親しい人とか恋人だったら喜び勇んで寄っていったり、微笑んだりするのが普通でしょう。しかし、嫌いな相手や借金取りだったら aがマイナスになって、結果として yもマイナスになる。道の反対側に脱兎の如く逃げていくか、殴りかかるか、嫌な顔をするか、ともかくマイナスの行動をするわけ

です。 行動にはプラスマイナスがある。つまり、 aがプラス一 ○にもなれば、マイナス一 ○にもなる。脳はそういうふうに動いていて、行動に繋がるのです。 感情という面でいっても、アメリカ人が、テロリストの親玉、ウサマ・ビンラディンを見た時には、マイナスの係数が大きいから、怒り、憎しみといった感情を持つ。逆に、同じ人を見ても、おそらくイスラム原理主義者にとって aは大きくプラスになっている。 一般に、人を非難しているときは、マイナスの思いがあるということです。ただ、一方で本気で非難しているということは、少なくともその対象を現実だと思っているということです。 a =ゼロではない。だからこそ、行動が相当変わる。憎んでいるとか、嫌っているというのは、その情報を現実としてきちんと認識している、ということになります。適応性は係数次第 男女関係の好き嫌いを考えれば非常にわかりやすい。ずっと嫌いだったはずの人といつの間にか付き合っていた、なんて話はよく聞きます。嫌よ嫌よも好きのうち、なんてのも似たようなものです。 これは、要するにベクトルの向きが逆になるから好きになったということ。 a =ゼロ、無関心の場合、こうはなりません。相手にはなから興味が無い、現実として捉えていないのですから。「眼中にない」とはまさにこの状態です。 aの値がどう出るかによって、ある状況において、その人が適しているか、適していないかということも基本的に決まってくると考えられる。 aの値が適切であれば環境適応性があるし、不適切であればその環境には合わないということです。「この会社にはどうしても合わないから辞める」というのは、その人の aの値が、所属している会社という環境からの入力に対してどうもうまくいっていない。うまい値に設定されていないということになる。 まあ、どの会社に行ってもすぐ辞めるとなると、その人はそもそも「会社」というところから共通して発信される情報に対して常に適切な aの値を設定出来ていない、ということになります。「おやじの説教」を聞き流すのと同じように、「上司の指導」について常にゼロで反応する若者は、もはや会社に向いていない。 たとえマイナスであっても、コミュニケーションにおいては、 aが存在していた方がいいのは間違いない。マイナスというのは救いようがあるということです。会社の例でいえば、ゼロだったらどうしようもない。 オセロゲームみたいなものだから、マイナスがたまっているのが、急にぱっとプラスに転化するなんてこともある。 宗教は、基本的にマイナスをプラスに転ずることが出来る、という論理を持っている。キリスト教で登場するところの放蕩息子が改心する、という類のエピソードはその例です。何かのきっかけ、ここでは神に出会ったとかそういうことでマイナス一 ○が突如プラス一 ○になる。 一方で、宗教も原理主義までいけば無限大となるから、「絶対的な真理」を強要するようになって、テロにまで繋がってしまう。そこにはコミュニケーションは無いわけです。 この a =ゼロと a =無限大というのは現実問題として、始末が悪い。テロは無限大の悪い形の表れです。かつて青年将校たちは自らの信念のため、問答無用で相手を殺したわけですから。 普通に私たちの周辺にいる人間は、そこまで極端な人は少ない。あまりゼロとか無限大ばかりだと、社会生活を送れません。でも、数学では特殊なケースというのは必ず扱わないといけない。論理的に考えれば、存在するケースについては考えなくてはいけないからです。だから、ゼロも無限大も考える。どちらも大抵の場合、タチが悪い出力 =結果を招くことは間違いない。 基本的に世の中で求められている人間の社会性というのは、できるだけ多くの刺激に対して適切な aの係数を持っていることだといえる。もちろん、その中にはゼロであることが正しい係数、ということだってあるでしょう。街を歩いている最中、ずっと電柱に反応しつづけたって仕方が無いのですから。 昨今、 E Q(感情指数)という言葉をよく耳にしますが、これは簡単に言えば、感情、情動ということでしょう。情動というのは、脳の仕組みから捉えれば、入力に対して適切な重みづけが出来る、ということなのです。 ここで述べたことはヘリクツでも極論でもない。脳も入出力装置、いわゆる計算機と考えたら当たり前です。普通はそう考えてないから、一次方程式に置き換えると違和感がある。人間はどうしても、自分の脳をもっと高級なものだと思っている。実際には別に高級じゃない、要するに計算機なのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次