共通了解と強制了解個性ゆたかな精神病患者マニュアル人間「個性」を発揮すると松井、イチロー、中田
第三章 「個性を伸ばせ」という欺瞞共通了解と強制了解「わかる」ということについて、もう少し考えてみます。一口に「わかる」と言っても、その中身は色々です。ここでは「共通了解」と「強制了解」という分け方で考えてみましょう。基本的に言語は「共通了解」、つまり世間の誰もがわかるための共通の手段です。この言語のなかから、さらにもっとも共通な了解事項を抜き出してくると「論理」になったり、「論理哲学」になったり、さらに「数学」となったりします。 数学というのは、証明によって、いやが応でも「これが正しい」と認めさせられる論理です。もはやこれは「強制了解」という領域になります。数学的に証明をされてしまうと、とにかく結論を認めざるを得ないわけです。 この数学に、自然科学では「実証」という要素を加えました。実験室で調べてみたらこういう結論になりました、と言われるともっと認めざるを得ない。逆らいようがない。強制的に認めさせられることになる。これは「実証的強制了解」と呼ぶことが出来ます。 人間の脳というのは、こういう順序、つまり出来るだけ多くの人に共通の了解事項を広げていく方向性をもって、いわゆる進歩を続けてきました。マスメディアの発達というのは、まさに「共通了解」の広がりそのものということになります。 マスメディアによって、かつては考えられなかったくらい多くの人間が同じシーンを見る、という事態が発生してきた。言語だけではなく、マスメディアのおかげで、多くの人がある事象について、共通の情報を受けるようになったのです。共通了解が、多くの人とわかり合えるための手段だということを考えれば、それが発展していくことは自然な流れでしょう。 ところが、どういうわけか、そうした流れに異を唱える動きがあります。「個性」の尊重云々というのがその代表です。 このところとみに、「個性」とか「自己」とか「独創性」とかを重宝する物言いが増えてきた。文部科学省も、ことあるごとに「個性」的な教育とか、「子供の個性を尊重する」とか、「独創性豊かな子供を作る」とか言っています。 しかし、これは前述した「共通了解」を追求することが文明の自然な流れだとすれば、おかしな話です。明らかに矛盾していると言ってよい。多くの人にとって共通の了解事項を広げていく。これによって文明が発展してきたはずなのに、ところがもう片方では急に「個性」が大切だとか何とか言ってくるのは話がおかしい。個性ゆたかな精神病患者 大体、現代社会において、本当に存分に「個性」を発揮している人が出てきたら、そんな人は精神病院に入れられてしまうこと必至。 想像してみればおわかりでしょう。人が笑っているところで泣いていて、お葬式で泣いているところで大笑いしてしまうような人。それで「どうして」と聞かれても理由が答えられない。 明らかに他の普通の人たちとは違う、「個性」を存分に発揮しています。しかし、そんな人がいたら、それはたちまち病院に送られてしまうこと必至です。 精神病院に行けばまったくもって個性的な面々揃いです。私の知っている患者には、白い壁に、毎日、大便で名前を書く人もいた。それを芸術的な創造行為とすれば、凄いかもわからない。おそらく現代芸術の世界でもまだ誰も挑戦していないジャンルであるには違いない。が、現実問題として迷惑でたまらない。 そんなことはわかりきっているはずなのに、誰が「個性を伸ばせ」とか「オリジナリティを発揮しろ」とか無責任に言いだしたのでしょうか。この狭い日本において、本当にそんなことが求められているのか。 混んだ銭湯でオリジナリティを発揮されたら困るだけ、と私は常々言っているのですが……。 そんなことも考えずに、ひたすら個性を美化するというのはウソじゃないか、と考えることこそが「常識」だと思うのです。考えたら当たり前のこと、なのです。 個性が大事だといいながら、実際には、よその人の顔色を窺ってばかり、というのが今の日本人のやっていることでしょう。だとすれば、そういう現状をまず認めるところからはじめるべきでしょう。個性も独創性もクソも無い。マニュアル人間「個性」を発揮せよと求められるのは、子供に限りません。学者の世界でも同じです。学問の世界でも、やたらに個性個性と言うわりには、論文を書く場合には、必ず英語で書け、と言われる。 学術論文には「材料と方法」という欄があります。論文を書くにあたっては、その言語も、「方法」の基礎のはず。ところが、学者の世界では大概、英語を共通語として、それを使うように求められる。一体どこが個性なのでしょうか。 英語で書かなくてはいけないという規則は存在しません。しかし、「英語で書かないと評価されない」と言う人がいます。そもそも誰が評価されないといけない、などと決めたのかもわからないのですが。 今の若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところです。会社でもどこでも組織に入れば徹底的に「共通了解」を求められるにもかかわらず、口では「個性を発揮しろ」と言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理の無い話。 要するに「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているのです。組織が期待するパターンの「個性」しか必要無いというのは随分おかしな話です。 皮肉なことに、この矛盾した要求の結果として派生してきたのが、「マニュアル人間」の類です。要は、「私は、個性なんかを主張するつもりはございませんが、マニュアルさえいただければ、それに応じて何でもやって見せます」という人種。これは一見、謙虚に見えて、実は随分傲岸不遜な態度なのです。「自分は本当は他人と違うのですが、あなたがマニュアル =一般的なルールをくれれば、いかなるものであろうとも、それを私はこなしてみせましょう」という態度なのですから。こういう人は、ご自分のことを随分全人的な人間、すなわちあらゆる面でバランスがとれていて、何にでも対応できる人間だと思っているのではないでしょうか。
私自身は、マニュアル通りになんかとても出来ないし、読む気もしない。最初からそんな気は無い。しかし、具体的に仕事をやれば、どういう手順がいいのかなんてことは、わかってくるものなのです。 私が昆虫の標本を作る際に、昆虫から交尾器を抜く必要が生じることがある。その場合には、カラカラに乾いた虫の交尾器をいったん柔らかくして元に戻して、体から抜くのが楽です。 本来はとってきたばかりの虫から抜くのが一番いい。そうすれば、跡形もなく綺麗に抜けて、後から元に戻すことも出来る。だから虫を取ってくるとすぐに抜くという作業をするわけです。この作業には、家庭で洗濯に使っている漂白剤を使用すればいいのですが、それも経験上、わかってきたことです。 こんな手順のマニュアルなんかどこにも存在していません。しかし、こうしなくては駄目なことはわかっている。そして硬くなった虫はこうして柔らかくする、というのも、仕事をやっていくうちにわかることなのです。「個性」を発揮すると 今、問題にしている「個性」を私が持っていたらどうなるか。つまり、私が極めて個性的な意見の持ち主で、それを人に伝えようとしている場合を考えてみる。 その場合、自分にとってのみ最も適切な言葉遣いで人にしゃべりかけると、多分、誰も聞いてないということになる。最も適切だと思う言葉が、今なら自然科学について語る場合、英語になる。そうすると、私が自然科学の話をするのは、英語でしゃべるのが当たり前になるはずでしょう。 が、そんなことをしたら、おそらく日本人の誰も聞いてくれません。仮にペルシャ語でしゃべるほうがもっと適切だと思って、講演会でそんなことをやった日には聴衆なんか一人もいなくなって、私を見つけるのは演台の上ではなくて救急車の担架の上、ということになる。 繰り返しますが、本来、意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。 人間の脳の特に意識的な部分というのは、個人間の差異を無視して、同じにしよう、同じにしようとする性質を持っている。だから、言語から抽出された論理は、圧倒的な説得性を持つ。論理に反するということはできない。松井、イチロー、中田 では、脳が徹底して共通性を追求していくものだとしたら、本来の「個性」というのはどこにあるか。それは、初めから私にも皆さんにもあるものなのです。 なぜなら、私の皮膚を切り取ってあなたに植えたって絶対にくっつきません。親の皮膚をもらって子供に植えたって駄目です。無理やりやるとすれば、免疫抑制剤を徹底的に使うなんてことをしないと成功しません。 皮膚ひとつとってもこんな具合です。すなわち、「個性」なんていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。 産みの親とだって、それだけ違うのに、何で安心して、違う人間に決まっていると言えないのか。逆に意識の世界というのは、互いに通じることを中心としている。もともと人間、通じないものを持っているに違いない。だから、アラブとイスラムの考えはわかるけれど、そういう「個」というものを表に出した文化というのは、必ず争いごとが起きている。 こう考えていけば、若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。それよりも親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。 そこが今の教育は逆立ちしていると思っています。だから、どこが個性なんだ、と私はいつも言う。おまえらの個性なんてラッキョウの皮むきじゃないか、と。 逆に今、若い人で個性を持っている人はどういう人かを考えてみてください。真っ先に浮かぶ名前は、野球の松井秀喜選手やイチロー選手、サッカーの中田英寿選手あたりではないでしょうか。要するに身体が個性的なのです。 彼らのやっていることは真似できないと誰でも思う。それ以外の個性なんてありはしません。 彼らの成功の要因には努力が当然ありますが、それ以上に神様というか親から与えられた身体の天分があったわけです。誰か二軍の選手がイチローの十倍練習したからといって、彼に追いつけるというようなものではない。私たちには、もともと与えられているものしかないのです。
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