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第四章 万物流転、情報不変

私は私、ではない自己の情報化『平家物語』と『方丈記』「君子豹変」は悪口か「知る」と「死ぬ」「朝に道を聞かば……」武士に二言はないケニアの歌共通意識のタイムラグ個性より大切なもの意識と言葉脳内の「リンゴ活動」 theと aの違い日本語の定冠詞神を考えるとき脳内の自給自足偶像の誕生「超人」の誕生現代人プラス α

第四章 万物流転、情報不変私は私、ではない このように考えれば、「個性」は脳ではなく身体に宿っている、というのは当然のことです。が、それが現在ではまったく逆転して受け止められている。非常に似た勘違いが、「情報」についての受け止め方でも往々にして見られます。 一般に、情報は日々刻々変化しつづけ、それを受け止める人間の方は変化しない、と思われがちです。情報は日替わりだが、自分は変わらない、自分にはいつも「個性」がある、という考え方です。しかし、これもまた、実はあべこべの話です。 少し考えてみればわかりますが、私たちは日々変化しています。ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言いました。人間は寝ている間も含めて成長なり老化なりをしているのですから、変化しつづけています。 昨日の寝る前の「私」と起きた後の「私」は明らかに別人ですし、去年の「私」と今年の「私」も別人のはずです。しかし、朝起きるたびに、生まれ変わった、という実感は湧きません。これは脳の働きによるものです。 脳は社会生活を普通に営むために、「個性」ではなく、「共通性」を追求することは既に述べました。これと同様に、「自己同一性」を追求するという作業が、私たちそれぞれの脳の中でも毎日行われている。それが、「私は私」と思い込むことです。こうしないと、毎朝毎朝別人になっていては誰も社会生活を営めない。 では、逆に流転しないものとは何か。実はそれが「情報」なのです。ヘラクレイトスはとっくに亡くなっていますが、彼の遺した言葉「万物は流転する」はギリシャ語で一言一句変わらぬまま、現代にまで残っている。彼に「あなたの〝万物は流転する〟という言葉は流転したのですか」と聞いたら何と答えるのでしょう。 このように永遠に残ってしまう言葉を情報と呼びます。情報は絶対変わらない。私がインタビューを受けたとして、同じ聞き手に同じように聞かれても、話すたびに内容は微妙に変化します。しかし、話した内容を収めたテープの中身は変わらない。生き物と情報との違いはまさにこれです。自己の情報化 生き物というのは、どんどん変化していくシステムだけれども、情報というのはその中で止まっているものを指している。万物は流転するが、「万物は流転する」という言葉は流転しない。それはイコール情報が流転しない、ということなのです。 流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。真理は動かない、不変だ、と思っていた。実はそうではなく、不変なのは情報。人間は流転する、ということを意識しなければいけない。 現代社会は「情報化社会」だと言われます。これは言い換えれば意識中心社会、脳化社会ということです。 意識中心、というのはどういうことか。実際には日々刻々と変化している生き物である自分自身が、「情報」と化してしまっている状態を指します。意識は自己同一性を追求するから、「昨日の私と今日の私は同じ」「私は私」と言い続けます。これが近代的個人の発生です。 近代的個人というのは、つまり己を情報だと規定すること。本当は常に変化 =流転していて生老病死を抱えているのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。 だからこそ人は「個性」を主張するのです。自分には変わらない特性がある、それは明日もあさっても変わらない。その思い込みがなくては「個性は存在する」と言えないはずです。『平家物語』と『方丈記』 脳化社会にいる我々とは違って、昔の人はそういうバカな思い込みをしていなかった。なぜなら、個性そのものが変化してしまうことを知っていたからです。 昔の書物を読むと、人間が常に変わることと、個性ということが一致しない、という思想が繰り返し出てくる。『平家物語』の書き出しはまさにそうです。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文から、どういうことを読み取るべきか。鐘の音は物理学的に考えれば、いつも同じように響く。しかし、それが何故、その時々で違って聞こえてくるのか。それは、人間がひたすら変わっているからです。聞くほうの気分が違えば、鐘の音が違って聞こえる。『平家物語』の冒頭は、実はそれを言っているのです。『方丈記』の冒頭もまったく同じ。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」 川がある、それは情報だから同じだけど、川を構成している水は見るたびに変わっているじゃないか。「世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」。人間も世界もまったく同じで、万物流転である。 中世の代表的な名作の両方ともが冒頭からこういう世界観を書き出している。ということは、中世が発見した基本的な概念がそういうことだった、と考えられる。 では、中世以前はどうか。平安時代というのは、まさに都市の世界です。人間が頭の中で作った碁盤の目のような都市が作られている。今の我々とよく似た時代です。 その時代には、きっと「私は私だ。変わらぬものだ」と藤原道長あたりが言っていたに違いない。しかし、実はそうではない。人生は万物流転なのです。「君子豹変」は悪口か 先日、講演に行った際の話です。控室にいらっしゃった中年の男性が、「私は、君子豹変というのは悪口だと思っていました」と言っていた。もちろん、実際にはそうではありません。「君子豹変」とは「君子は過ちだと知れば、すぐに改め、善に移る」という意味です。では何故彼はそう勘違いしたか。「人間は変わらない」というのが、その人にとっての前提だからです。

いきなり豹変するなんてとんでもない、と考えたわけです。現代人としては当然の捉え方かもしれません。「男子三日会わざれば刮目して待つべし」という言葉が、『三国志』のなかにあります。三日も会わなければ、人間どのくらい変わっているかわからない。だから、三日会わなかったらしっかり目を見開いて見てみろということでしょう。 しかし、人間は変わらない、と誰もが思っている現代では通用しないでしょう。刮目という言葉はもう一種の死語になっている。 いつの間にか、変わるものと変わらないものとの逆転が起こっていて、それに気づいている人が非常に少ない、という状況になっている。いったん買った週刊誌はいつまで経っても同じ。中身は一週間経っても変わりはしません。 情報が日替わりだ、と思うのは間違いで、週刊誌でいえば、単に毎週、最新号が出ているだけです。 西洋では十九世紀に既に都市化、社会の情報化が成立し、このおかしさに気が付いた人がすでにいた。カフカの小説『変身』のテーマがこれです。 主人公、グレゴール・ザムザは朝、目覚めると虫になっている。それでも意識は「俺はザムザだ」と言い続けている。 変わらない人間と変わっていく情報、という実態とは正反対のあり方で意識されるようになった現代社会の不条理。それこそが、あの小説のテーマなのです。「知る」と「死ぬ」 人間は変わる、ということについていえば、学生たちを教えているとしみじみ思うのが、彼らは勉強しないという以上に、勉強するという行為の意味を殆ど考えたことがないのではないか、ということです。それをしみじみ感じる。 勉強するということは、少なくとも知ることとパラレルになっている。知ることイコール勉強することではないが、非常に密接に関係があるのは当然です。 ところが、あるときから、知るということの意味や捉え方が何か違ってきたんじゃないかな、と思えてならなくなってきた。 私は東大を辞める少し前まで、東大出版会の理事長をやっていた。その時に一番売れた本が『知の技法』というタイトルでした。知を得るのにあたかも一定のマニュアルがあるかのようなものが、東大の教養の教科書で出ている。 気に入らない。それで、何でこんな本が売れやがるんだ、と思って、出版会の中で議論したことがある。結局、答えが得られない。私以外は、そんなことを気にしてはいなかったのでしょう。 その後、自分で一年考えて出てきた結論は、「知るということは根本的にはガンの告知だ」ということでした。学生には、「君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう」と話してみます。 この話は非常にわかり易いようで、学生にも通じる。そのぐらいのイマジネーションは彼らだって持っている。 その桜が違って見えた段階で、去年までどういう思いであの桜を見ていたか考えてみろ。多分、思い出せない。では、桜が変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。知るというのはそういうことなのです。 知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までと殆ど同じ世界でも。「朝に道を聞かば……」 昔の人は、学ぶ、学問するとは、実はそういうことだと思っていた。だから、君子は豹変した。男子三日会わざれば……だった。 これに一番ふさわしい言葉が『論語』の「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」。道を聞くというのは、学問をして何かを知るということです。 朝、学問をして知ったら、夜、死んでもいいなんて、無茶苦茶な話だ、と思われるでしょう。私も若い時には何のことだかまったくわからなかった。しかし、「知る」ということについて考えるうちに気がついた。 要するに、ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。去年まで自分が桜を見てどう思っていたか。それが思い出せない。つまり、死んで生まれ変わっている。 そういうことを常に繰り返していれば、ある朝、もう一度、自分ががらっと変わって、世界が違って見えて、夕方に突然死んだとしても、何を今さら驚くことがあるか。絶えず過去の自分というのは消されて、新しいものが生まれてきている。 そもそも人間は常に変わりつづけているわけですが、何かを知って生まれ変わり続けている、そういう経験を何度もした人間にとっては、死ぬということは特別な意味を持つものではない。現に、過去の自分は死んでいるのだから。そういう意味だと思うのです。 しかし、おそらく「朝に道を聞かば……」なんてことは、今の人にはまったくわからない。自分は不変で情報が変化するから、です。 いい例が名前です。現代では名前を一切変えなくなりました。昔は、幼名から元服して、名前を頻繁に変えていった。「名実ともに」という言葉にはその状態がよく出ている。 つまり、人間自体が変わるものだという前提に立っていれば、名前は本人の成長に伴って変わって当たり前なのです。五歳の自分と二十歳の自分は違うのだから、名前が変わっても不思議は無い。 逆に言えば、社会制度が固定されて、社会的役割が固定されてくれば、今度は襲名ということが当然出てくる。父親がやっていた仕事と同じ仕事を継ぐのであれば、父親と同じ名前のほうが社会的にははるかに便利。ですから、歌舞伎の世界でいえば、人は変わっても何回も「菊五郎」が登場していい。 そこの前提が変わってきたために、我々の日常生活も変わってきた。例えば、約束ということに対する感覚が根本的に違います。武士に二言はない もし、現代人に、「人は変わる」ということだけをたたき込んだら何が起こるかというと、「きのう金を借りたのは俺じゃない」と、都合のいい解釈をするだけです。 借りるということは、返すという約束が前提にある。本来、約束を守れというのは社会でトップに来るルールのはずでした。 人間は変わるが、言葉は変わらない。情報は不変だから、約束は絶対の存在のはずです。しかし近年、約束というものが軽くなってしまった。 これも繰り返し言うところの「あべこべ」の表れです。変わるはずのものが変わらなくなって、変わらないはずのものが変わってしまった。 だから、約束を守るなんていうことを小学校の先生も言わなくなったし、子供たちは友達同士で言わなくなった。指切りげんまんが、どんどん廃れていく

のも無理はない。 大人の社会を見ればもっとわかりやすい。政治家は公約なんか屁とも思っていない。全部嘘つきになった。受け止めるこちらの方も、彼らの公約なんてものはすぐに変わるものだ、と承知している。 これも約束が軽くなった、すなわち情報は変化する、という勘違いから生まれた最たる例です。政治家は誠心誠意その時々で公約を言うのだけれど、自分の言ったことにこだわっちゃいけない、と思っている。言ったことはどうせ変わっていくのだ、「情報」の類に過ぎないから。でも、選挙で当選した自分は不変なんだからそれでいいじゃないか、と。 人間は変わるのが当たり前。だから昔は「武士に二言はない」だった。武士の口が重かったのは、恰好をつけていたからではない。うっかり言ったら大変だからです。 武士は下手な約束をして守れなかったら命に関る。責任を持とうと思えば、要するに責任の重い人ほど口が重くなった。綸言汗の如し、ということです。 約束、言葉が軽くなった理由は、同じ人なんだから、言うことは変わるはずがないだろうという前提がいつの間にかできてしまったところにある。ケニアの歌 言葉 =情報よりも人間が不変だ、というところから人間の方に重きを置いてみるようになった。こういうふうに無意識というのは知らないうちに動いてしまう。そして前提がひっくり返ると、それから後の人はひっくり返ったということにはもはや気がつかないものなのです。 ケニアのツルカナ族という部族の村にテレビの取材で行ったことがあります。本格的な取材の前日に、ディレクターが、トウモロコシ三袋と、かみたばこ三キロを持っていくと約束した。そして実際、彼は翌日に約束の品を持って行った。 すると、成人男子は村にはいない。遊牧民だから、みんな牛を連れて山に行ってしまっている。いるのは、じいさん、ばあさん、子供だけです。要するに、女、子供、年寄りがいる。その連中が、歌って踊って我々を大歓迎している。通訳に、彼らが何と言って歌っているのか、翻訳してもらった。 その歌は、こういう歌詞でした。「この間、選挙で投票して当選した人は、あれもする、これもするっていろんな約束したけど、何にもしない。きのう、お土産を持ってくるって約束したお客はちゃんと持ってきた」 我々からすれば、まだ自然の中で生活している、都市化されていないはずの彼らの世界ですら、すでに約束についての概念が日本の政界と変わらなくなっている。脳化 =都市化が世界中に広がっているわけです。共通意識のタイムラグ 世の中が曲がった理由の一つは、この「あべこべの状態」について自覚が無いからでしょう。意識中心の世界ゆえの状況だと思う。 生きている人間というのはひたすら変わっていくのに、俺は「不変の情報だ」と頑張る人。個性尊重という言葉はここから出てくるわけです。 意識の世界や心の世界に関しては、感情であろうが、理屈であろうが、共通であることを前提にする以外あり得ない。それがお互いに話をすることの意味であり、説明することの意味だからです。だから、本来、意識の世界の中に個性を持ち込まれたらどうしようもない。 もちろん、共通性を追求するといっても、その時代の人間全員が、一斉に共通の認識を持つようになるわけではない。タイムラグは必ず存在します。 モーツァルトは、最初に発表されたときは、これが音楽かという批判もあったそうです。当時としては最先端だったので、すぐに皆に理解されたわけではない。 しかし、それは後に西洋音楽の一種のシンボルになった。基本的には、時間さえたてば、完全に理解されるということでしょう。徐々にか、猛スピードでかはケース・バイ・ケースですが、共有化されていく。 意識にとっては、共有化されるものこそが、基本的には大事なものである。それに対して個性を保証していくものは、身体であるし、意識に対しての無意識といってもいい。 今の人は夢にもそう思ってない。それどころか、まったく逆に、意識の世界こそが個性の源だと思っている。それだったら、松井選手や長嶋さんの個性は、どう説明されるというのか。個性は意識に宿っていると思うから、長嶋さんに喋らせようとする。彼の場合、喋っても個性的ではありますが。個性より大切なもの ここが現代社会が見落としている、つまり「壁」を作ってしまった大きな問題点だと思っています。人間は変わらないという誤った大前提が置かれているという点、そしてそれにあまりに無自覚だという点。 本来、こんなことはだれだって気がつくはずなのです。現に、国語の時間に『方丈記』だって、『平家物語』だって読ませているはずです。しかし、読ませている肝心の先生のほうが意味がわかっていない。 昔の人はおそらくはそれを意識しないで、もう体の中にあったということなのです。そんなことを、難しく突き詰めて考えなくても当たり前に受け止めていた。それは、今の人が情報は日替わりで、自分は変わらなくて、個性を持っているのは当たり前だろうと思っているのと同じなんです。当たり前なんていうことはどんどん変わるものなのです。 もちろん、自分は自分だという考え方に、ある真実性が入っていないと困るということは間違いない。死ぬまで一個の個体ではあるし、確かに自分は自分です。遺伝子も一生変わらない。それは同じでしょうと言われれば、その通りなのです。 しかし、人と情報、両者の本質的な特性を比較して考えれば、大きく見て変わらないのがどちらであるかは明らかでしょう。だから、若い人には個性的であれなんていうふうに言わないで、人の気持ちが分かるようになれというべきだというのです。 むしろ、放っておいたって個性的なんだということが大事なのです。みんなと画一化することを気にしなくてもいい。「あんたと隣の人と間違えるやつ、だれもいないよ」と言ってあげればいい。顔が全然違うのだから、一卵性の双生児や、きんさん、ぎんさんじゃない限り、分かるに決まっている。「自分の個性は何だろう」なんて、何を無駄な心配してるんだよと、若い人に言ってやるべきです。 それより、親の気持ちがわからない、友達の気持ちがわからない、そういうことのほうが、日常的にはより重要な問題です。これはそのまま「常識」の問題につながります。 それはわかり切っていることでしょう。その問題を放置したまま個性と言ってみたって、その世の中で個性を発揮して生きることができるのか。 他人のことがわからなくて、生きられるわけがない。社会というのは共通性の上に成り立っている。人がいろんなことをして、自分だけ違うことをして、

通るわけがない。当たり前の話です。意識と言葉 意識が自己同一性なり共通性なりを求めるものであることの代表例が言葉だということは既に記しました。この問題は、特に西洋ではギリシャ哲学の昔から考えられています。 そして、ここから、日本人には理解しづらい「定冠詞と不定冠詞」の違い、つまり「 the(定冠詞)」と「 a(不定冠詞)」の違いも分かってきます。意識の共通性を考える上で、ここでは言葉を脳がどう処理しているかを考えてみましょう。 例えば「リンゴ」という言葉を考えてみます。リンゴという言葉を全員に書かせると、全員が違う字を書く。当たり前です。私の字とあなたの字は違う。 そして、活字にしても、明朝だ、ゴシックだと書体が違うこともあるし、同じ活字で印刷しても厳密にいえば、拡大すると紙の繊維が出てきて、インクの微妙な乗り方の差が出てきます。すべてのリンゴという字は違う字です。 では、どこに正しいリンゴという字があるか。そんなものは存在しません。 音声にしても同じことです。英語の正しい発音なんて言っているけれど、それじゃあほんとうに正しい英語の発音をしてみろといったら、それはその人の発音にしか絶対ならない。ネイティブの発音だって人それぞれどこか違う。 「apple」を「アップル」と言うか「アポゥ」というか「アッポウ」と言うか、同じ発音をしているつもりでもそれぞれ異なる。 同じ人間が同じ言葉を同じように発音したつもりでも、インクの乗り同様、やはりどこかが違うのです。しかし、我々はそれを同じリンゴとして、全員が了解している。 私の知る限り、この問題を最初に議論したのがプラトンです。彼は何と言ったかというと、リンゴという言葉が包括している、すべてのリンゴの性質を備えた完全無欠なリンゴがある。それをリンゴの「イデア」と呼ぶのだ、と。 そして、具体的な個々のリンゴは、その「イデア」が不完全にこの世に実現したものだと言ったのです。つまり、言葉は意識そのもの、それから派生したものなのです。 プラトンが言いたいのは平たく言えばこういうことです。「おかしいじゃないか。リンゴはどれを見たって全部違う。なのに、どれを見たって全部違うリンゴを同じリンゴと言っている以上、そこにはすべてのリンゴを包括するものがなきゃいけない」 この包括する概念を彼は「イデア」と定義したのです。 プラトンはこのように全部包括する概念を考えた。では、我々がリンゴという言葉を文字に書いても、音声にしても、全部違うのに、それを同じリンゴだと言っているのはなぜか。 それは、まさに我々が意識の中で、全てを同一のものだと認識することが出来るゆえに起こる現象なのです。 本来なら、外の世界は感覚で吟味する限り、全てのものが違う。あらゆるリンゴは全部違っている。さっきの文字の話と同じ。あらゆる人間は違った人間なのと同じです。 ということは、そこに「人間」という言葉は、本当ならば使えないはずです。全部が違うことを厳密に考えれば。脳内の「リンゴ活動」 ではなぜ意識は、それを無視して、「同じ」リンゴだ、と認識する機能を持たなくてはいけないのか。脳が、それぞれの情報の同一性を認めないことになると、世界はバラバラになってしまうからです。耳から認識した世界と目から見た世界が別ではしようがない。だから同じだと脳 =意識は言わざるを得ない。 リンゴという言葉を聞いて、または文字を見て、頭の中には「リンゴ活動」とでもいうべき動きが起こる。リンゴ活動とはどういうものかというと、現実のリンゴを見なくても同じ反応が起こる活動です。それは、リンゴの絵を描けというときに、視覚野を調べたらわかる。 具体的なリンゴを見ている場合と、リンゴをイメージしろといった場合で、実は脳の中の視覚野ではほとんど同じ活動が起こる。そうでなくては、イマジネーションだけで絵を描くことは出来ないのです。 つまり、リンゴという言葉が意味しているものは、一方は外からのリンゴだけれど、もう一方は脳の中でのリンゴ活動です。リンゴという一つの言葉が、その両面を持っている。このことは、西洋語の中に極めてわかり易い形で出てくるから、まず西洋哲学の問題になったのです。 それはどういうことか。我々が英語でさんざん悩まされた定冠詞、不定冠詞というのは、まさにこの問題と関係しています。 theと aの違い「机の上にリンゴがあります」と言うときに、英語では「 There is an apple on the desk」と言う。この時の認識の流れはこうなります。「机の上に何かあって、それが視覚情報として脳に入ってきた時に、私の脳味噌で言語活動が起こった、リンゴ活動が起きた」 その時は「 an apple」なんです。この時点では、あくまでも、視覚情報として入ってきた「赤くて丸い物」に対して脳の中で「リンゴ活動」が発生した結果としての「リンゴ」に過ぎない。不定冠詞が付く時は脳内の過程に過ぎないのです。 では次に、その外界のリンゴを本当に手で摑んで齧ってみます。もしかするとそれは実際には、蠟細工かもしれません。ともかく、この時点でようやく実体としてのリンゴになります。それが英語では「 the apple」になります。実体となったから定冠詞が付く。 大きな概念としてのリンゴではなく、ある特定の私が手にした(場合によっては実は蠟細工のレプリカだった)リンゴになった。外界のリンゴはそれぞれ別々な特定のリンゴだということです。 外の世界のリンゴは、それぞれ特定のリンゴ以外あり得ない。ところが、頭の中のリンゴは、プラトンの言うイデアとしてのリンゴです。頭の中は見えませんから、意識は一応全部同じだと見なす。しかし、そういう頭の中のリンゴというのは不定でしょう。色も、形も、大きさも、何も決まってない。それは「 an apple」になるのです。 定冠詞、不定冠詞の差はそれを意味していた。プラトンから一気に現代に話は飛びますが、言語学の中でそれを指摘したのが、ソシュールのシニフィアンとシニフィエという概念です。 ソシュールによると「言葉が意味しているもの」(シニフィアン)と、「言葉によって意味されるもの」(シニフィエ)、という風にそれぞれが説明されて

います。この表現はわかったようなわからないような物言いです。実際、ソシュールは難解だとされています。 が、これまでの説明の流れでいえば、「意味しているもの」は頭の中のリンゴで、「意味されるもの」は本当に机の上にあるリンゴだと考えればよい。ソシュールも、やはり言葉の二つの側面に注目したのだ、と考えられます。日本語の定冠詞 では、こういう重要な違いというのが日本語に存在しないかというと、そんなことはない。日本人にだけ存在しない、というのも変な話です。脳が共通性を求める、という一方で日本人だけが言語を脳の中で別処理している、なんてことになるのですから。 勿論、同様の区別は日本語の中にも存在している。あるのだけれども、日本人が言わない、または気にしていないだけです。専門家は形式的な文法の知識で、定冠詞、不定冠詞にこだわるからわかりづらい。「昔々、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは、山へ柴刈りに……」という一節は誰でも知っています。では、この「おじいさんとおばあさんが」の「が」と次の「おじいさんは」の「は」の助詞の違いを説明できますか。 最初に「おじいさんとおばあさんがおりました」と言う時には、子供に、おまえの頭の中に爺さんのイメージと婆さんのイメージを浮かべろ、と言っている。特定の爺さん、婆さんを浮かべろと。浮かんだら、今度はそのお爺さんが物語の中で動き出します。次に、「おじいさんは、山へ柴刈りに」という時には、特定のお爺さんが動き始めるわけです。 見事にこれは定冠詞、不定冠詞の機能をそのまま持っている。ところが、文法学者は形式文法をやっているため、冠詞と書いてあるから、冠だから、名詞の前に使わなきゃ冠詞じゃない、と思う。それは助詞だろう、と。 しかし、形式を無視して言えば、機能としてはまったく同じです。ちなみにギリシャ語を調べると、冠詞は名詞の後ろにあっていいことになっている。 そう考えると、プラトンにせよソシュールにせよ、非常に難しいみたいだけれども、別に何てことはない。根本的には「自己同一性」に絡んだ、つまり言葉の世界と、あるいは別の言い方をすれば情報の世界と、システムの世界についての思想なのです。神を考えるとき リンゴは、具体的に存在している。では抽象的概念、例えば「神」といったものを考えるとき、脳はどう動いているのか。 人間は幼児のときは、まだ脳の中にほとんどプログラムがない。要するに遺伝子入力で割りつけられたつなぎぐらいしかない。例えば皆さんが、熱いやかんにさわって「アチッ」と手を引っ込めるときは、脳を使ってない。簡単に言えば本能というか反射というようなものです。それで、おくれて脳に届いて「アチッ」と言う。 つまり、入力から出力へというのは非常に単純につながっているわけです。最も単純につながっているのが動物や虫。反射的に行動しているわけで、これを通常、本能と言ったりもします。 本能という単純な入出力がメインである動物や虫とは反対に、入力と出力の中間のところにできてくるバイパスだけが非常に大きくなったのが人間の脳です。目玉であれ、皮膚であれ、耳であれ、チンパンジーと人間ではさして変わらない。ほとんど同じと言ってもいい。遺伝子の塩基配列だって、九八%以上同じです。チンパンジーの目玉と人間の目玉は、本質的には何も変わらない。そうすると、視覚入力は変わらないわけです。脳内の自給自足 問題は、人間の処理装置が巨大になっているというところです。人間の脳はチンパンジーの脳の約三倍になっている。だから、大きなコンピュータ =大脳が付いた。すると、今度は何が起こってきたかというと、外部からの入力で単純に出力する、というだけではなくなった。外部からの入力のかわりに、脳の中で入出力を回すことができるようになってきた。入力を自給自足して、脳内でグルグル回しをする。 良く言えば思索と言えるけれども、このグルグル回しばかりやっている人というのは、要するに一生懸命考えてはいるけれども、何も生み出さない人間だということになる。「下手の考え休むに似たり」とはまさにこういう状態です。 これはおそらく人間にのみ発生した典型的な事態です。虫でも動物でもそんな悠長なことはしていられない。 では、このグルグル回しが無意味かといえば、もちろんそんなことはない。人間の身体は、動かさないと退化するシステムなのです。筋肉であれ、胃袋であれ、何であれ、使わなかったら休むというふうになって、どんどん退化していく。当然、脳も同じこと。 そうすると、これだけ巨大になった脳を維持するためには、無駄に動かすことが必要なのです。とはいえ、常に外部からの刺激を待ちつづけても、そうそう脳が反応できる入力ばかりではない。そこで刺激を自給自足するようになった。 これを我々は「考える」と言っている。 役にも立たないけれども、とにかく入出力を繰り返し、グルグル回す。回さないと脳が退化する。意識的にやらなくても、巨大になってしまった以上は自然にグルグル回ってしまいます。 入力があれば、神経細胞は次々次々、別の神経細胞に連絡をしていく。それで、おそらく人間は非常に余計なことを考えるようになったのだろうと思います。偶像の誕生 さて、「神」に代表される抽象的概念というのは、このように演算装置の中だけでグルグル回転するようにして作られたものである、ということになります。 しかし、それだけでは他のものと違うから人間は不安になってくる。どうしても具体的なものが欲しくなる。そこで、神像だの仏像だのと、偶像を作ったのです。 神に限らず、人間が頭の中だけで生み出すものは非常に数多く存在しています。これを昔は「概念」と言っていた。これをプラトンのイデアと言ってもいい。基本的にはそういうものは、外部との関係があるとはいえ、頭の中の産物です。 ごくシンプルに言ってしまえば、神というのは人間の進化、脳の進化そのものだということになります。では、今後、この進化はどのように進んでいくのか。実は既にこの問題について大きなヒントとなりうる実験が開始されています。もちろん、突然、人間の脳を巨大化する、という乱暴な実験が実施されたわけではない。対象はマウスです。

「超人」の誕生 すでに、マウスの脳を人為的に巨大化するという実験が行われ、成功しています。シワが増えた脳を持つマウスを作るところにまでたどり着いているのです。 人為的にではなく、進化の過程において、チンパンジーと人間の間でも、似たようなことが起こったに違いないと考えられます。両者の遺伝子の九八%は共通しているから、人間の脳がチンパンジーの三倍になったということは、何らかの遺伝的な変化が起こっているに違いない。しかも、わずかしか遺伝子が違わないんだから、この脳の進化にはほんのわずかの遺伝子しか関ってないことは間違いない。 その遺伝子はいずれ抽出されるでしょう。すると、今度はそれをいじって、猿の脳をもう少し増やしてやったらどうなるのか、さらには人間の脳を今の三倍にしたらどうなるのか、という興味が自然に湧いて来る。 ある種の「超人」を作ったらどうなるのか。これは非常に興味深いテーマです。このときにできた新しい人間は、今の我々と同様に考え、感じられるのはもちろん、それにプラス αがついている可能性が十分ある。 乱暴に言えば、そういう人間ができた時には、現代人のある種の役割は終わりになるのかもしれません。チンパンジーの後に現代人があるのと同じです。そうなったらどうなるのかといえば、もはや普通の人間である私の想像外。そいつに聞いてくれ、としか言いようがない。 チンパンジーに我々の気持ちがわからないのと同様、我々にプラス αの人間の気持ちがわかるはずがない。我々の知っていることを我々は知っているし、考えること、感じることはわかっているけど、プラス αの方はそれ以上のことを知っているから、後はあいつに聞いてくれ、としか言えない。現代人プラス α 最初の類人猿、アウストラロピテクスは四五 ○ ccの脳でした。北京原人の段階で一 ○ ○ ○ ccで、現代人は一三五 ○ cc。そこにもう一つつけ加えてやれば、もう我々の仕事はそれで終わりで、人類の進化は自然の中でそうなってきた。 我々の考えることぐらいは全部考えられる、感じることだって感じる、そのうえプラス αがついている存在とは何か。それを人間は神としたわけです。神は全知全能であるということ、それ以上のことは人間が知りようがない。何せプラス αなのですから。 本来、神というのは人間が昔から頭の中に作ってきた存在です。人間はそうやって頭の中に作ったものを、実際に外に作り出すという作業を続けてきたわけです。 空を飛ぼうと思えば、最終的には飛行機からパラグライダーまで作った。遠くの人と話をしようと思えば、電話からテレビ電話まで作る。コンピュータというのは、脳味噌を作ってしまったようなものです。 さて、それでは人間が一番古くから考えてきたものは何か。それは「神」です。偶像だけで満足して、これを外部に作り出さないなんてはずがない。 その第一歩が、マウスの脳を大きくすることから既に始まっているのではないか。実験で作ったマウスは、身体の大きさは決まっていますから、大脳皮質だけを大きくするとシワが増える。チンパンジーから人間に進化した時に起こったのと同じことがマウスで実際に再現できた。実はこのマウスは、まだ親にしておらず、胎児の段階で標本を作っています。 自然な興味の方向としては、必ずそれは親にしたいと思うし、次に行動を観察するでしょう。普通のネズミとどこが違うとか、いろいろ観察する。その次にやることは決まっている。チンパンジーでやってみたらどうなるか、と考え始める。結果として映画『猿の惑星』に登場する、見た目は猿だけれども、脳は人間並みかそれ以上の猿を生みだすことになるかもしれない。そして最終的には「人間でやってみたらどうなるんだろうか」と興味を持つことになる。 私たちはそのプラス αとか、三倍のシワを持った人間というのが、どういう能力を持っているのかは、想像できない。我々と共通の部分については全部わかるでしょう。しかし、我々には無い部分については、どういうものになるのか、作ってみなければわからないことです。 こうしたプラス αの人間の意識は我々とはかなり異なる「個性」を持っているであろうことは想像に難くない。しかし、その前提には既に脳の大きさ、つまり生物学的、身体的な「個性」が存在しているのです。

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