第七章 教育の怪しさ
インチキ自然教育でもしか先生「退学」の本当の意味俺を見習え東大のバカ学生死体はなぜ隠される身体を動かせ育てにくい子供赤ん坊の脳調査
第七章 教育の怪しさインチキ自然教育 学生、ひいては教育という行為そのものに絶望的になることは多々あります。それは東大だろうが何だろうが変わりません。つくづく思うのは、第三章でも述べましたが、若い人をまともに教育するのなら、まず人のことがわかるようにしなさいと、当たり前のことから教えていくべきだということです。 別に道徳教育を強化しろということではなく、それが学問の本質に関るからです。普通に人間がやっていることぐらい一応全部やってこないと、わかるようにはならないことが、山ほどあります。「結婚したらどうなるんですか」ということに疑問が湧くのも無理はない。けれども、そんなこと説明しても意味がない。一度してみなさいよという話でしかない。それをしないで耳で聞いても駄目なのは言うまでもありません。 おそらく、きっかけは教育へのある種の閉塞感だったのでしょう。近年、学校での「ゆとり教育」とか「自然学習」といったものが盛んに唱えられるようになりました。こうした動きは、一見、これまで述べてきた「身体」なり「無意識」なり「自然」なりを意識させることに繋がるように思えるかもしれません。 が、実際にはまったく意味がない。頭でっかちになっている。小学校で、必ず自然学習なんて言って申し訳程度に田舎に連れて行くけれども、ある種の骨抜きでしかない。 私がかかわっている保育園が、毎年一回、契約している芋畑に芋掘りに行く。ある日、そこに行ったら、隣に同じような芋畑があって、全部、葉っぱがしおれている。そこのお百姓さんに、「あれ、何ですか」と聞いたら、「お宅と同じで、幼稚園の芋掘り用の畑ですよ」「だけど、全部、しおれているじゃないですか。どうしてですか」「あそこの幼稚園用の芋は、子どもが引っ張ったらすぐに抜けるように最初から掘ってある。一遍、掘って埋め直してあるからしおれているんだよ」 これでは詐欺です。そこにあるのは自然ではなくて、人為的に用意された環境のみ。これではディズニーランドやテーマパークと同じことですから。 こういう状態が異常だと思っていない。正しいと思っている。ある種の人たち、それも教育に携わる人たちは、こんなもので「自然教育だ」と威張っているのです。自分は正しいと思っているバカが一番困るという良い例です。ともあれ、こういう教育には何の意味もない。でもしか先生 教育の現場にいる人間が、極端なことをしないようにするために、結局のところ何もしないという状況に陥っているという現実があります。実際には、物凄く厳しい先生は、生徒に嫌がられるけれど、後になると必ず感謝される。それが仮に間違った教育をしても、少なくとも反面教師にはなりうるということになる。が、最近ではそんな厳しい先生はいなくなってきた。下手なことをして教育委員会や PTAに叩かれるよりは、何もしない方がマシ、となるからです。 反面教師になってもいい、嫌われてもいい、という信念が先生にない。なぜそうなったか。今の教育というのは、子供そのものを考えているのではなくて、先生方は教頭の顔を見たり、校長の顔を見たり、 PTAの顔を見たり、教育委員会の顔を見たり、果ては文部科学省の顔を見ている。子供に顔が向いていないということでしょう。 よく言われることですが、サラリーマンになってしまっているわけです。サラリーマンというのは、給料の出所に忠実な人であって、仕事に忠実なのではない。職人というのは、仕事に忠実じゃないと食えない。自分の作る作品に対して責任を持たなくてはいけない。 ところが、教育の結果の生徒は作品であるという意識が無くなった。教師は、サラリーマンの仕事になっちゃった。「でもしか先生」というのは、子供に顔が向いていなくて、給料の出所に対して顔が向いているということを皮肉に言った言葉です。職があればいい、給料さえもらえればいいんだと、そういうことで先生に「でも」なったか、先生に「しか」なれなかった。 そういう社会で、現に先生が子供に本気で面と向かって何かやろうとしたら大変なことになってしまう。その気持ちはわかる。親は文句を言うし、校長にも怒られるし、 PTAも文句を言う。自分の信念に忠実なんてとてもできません。仕方がないから適当にやろうということでしょう。 現在、こういう教育現場の中枢にいるのが所謂「団塊の世代」です。大学を自由にするとか何とか言って闘ってきた年代の人がそうなっちゃっているというのはおかしなことに思えるかもしれません。が、私は学園紛争当時から、彼らの言い分を全然信用していなかった。案の定、その世代が今、教師となり、こういう事態を生んでいる。「退学」の本当の意味 団塊の世代、戦後民主主義の世代から通用しなくなった言葉のひとつが「退学」です。かつての共同体では「退学」は復学が前提になっている、というのが暗黙のルールでした。 本来、退学と言われても担当教官が二名付いて、退学処分を受けた学生が一年通って指導を受けていれば、「改悛の情あり」とか何とか言って、復学させてもらえていた。それが退学だった。共同体というのは絶対に人を追い出さないものなのです。 そのルールがまったく常識じゃなくなったのが、団塊の世代以降。だから彼らは全共闘の頃に「退学」と言われると、本当に戻れないと思った。建前のルールだけになってしまったゆえです。 この件については、桑原武夫氏の「森外三郎先生のこと」という非常に興味深いエッセイがあり、印象に残っています。森外三郎氏は旧制三高の校長で、桑原氏の恩師です。桑原氏は大学卒業後、講師として三高に戻りました。この時も、森氏が校長でした。 その頃、昭和の初めに、同校で学生たちの大規模なストライキが行われた。結局、警察まで介入して解決したのですが、この時、森校長は五十名以上の退学者を出して処分をしました。 ところが、その後、森校長は放校者を対象とした高校の卒業検定試験を実施し、彼らを実質卒業させた。さらに、各大学を回って、放校者たちが成績良好な場合には、スト処分されたという理由だけで忌避しないように懇願してまわったというのです。つまり退学にはしたものの、救済もした。共同体として救いの手を差し伸べたわけです。
その一方で、その後、自分は責任を取って学校を辞めた。これもまた共同体というものの性質なのです。一方で信賞必罰をきちんとやるけれども、他方で、将来を傷つけるつもりはない、ということでフォローをした。 その辺がグズグズになってしまっているのが今の教育現場の状態。問題は生徒の将来ではなくて、ごく小さな共同体の論理が先行している。だから「退学」は言葉通り、生徒の追放。その後のフォローは無い。どこかリストラという形で社員を追放する会社にも似ています。俺を見習え そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないと出来ないはずです。突き詰めて言えば、「おまえたち、俺を見習え」という話なのですから。要するに、自分を真似ろと言っているわけです。それでは自分を真似ろというほど立派に生きている教師がどれだけいるのか。結局のところ、たかだか教師になる方法を教えられるだけじゃないのか。 そういう意味で、教育というのはなかなか矛盾した行為なのです。だから、俺を見習えというのが無理なら、せめて、好きなことのある教師で、それが子供に伝わる、という風にはあるべきです。 私は、学生に人間の問題しか教えない。これは面白いことだ、と自信がある。解剖は解剖で面白いから、教えろと言われれば教えるけれど、二の次。いずれにせよ、自分が面白いと思うことしか教えられないことははっきりしている。 解剖から学べるのは、自然の材料を使ってどうやって物を考えるかというノウハウです。そこの部分は講義じゃ教えられない。学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。それが本当の学問です。そこの能力が、最近の学生は非常に弱い。 逆に、いったん情報化されたものを上手に処理するのは大変にうまい。これはコンピュータの中だけで物事を動かしているようなものです。すでにいったん情報化されたものがコンピュータに入っているのだから、コンピュータに何をどうやって入れるかということには長けている。 情報ではなく、自然を学ばなければいけないということには、人間そのものが自然だという考えが前提にある。ところが、それが欠落している学生が多い。要するに、医者なんていうのは、逆に言えば、そういうヒトそのもの、自然そのものを愛する人じゃなきゃ出来ないのに、現状はそうではない。 東大病院で研究者が臨床へ出てくると、「一年間懲役だ」なんて言っている。要するに、患者と接するのがとんでもない苦痛、苦役だという。これでは本末転倒です。東大のバカ学生 一番印象に残っている酷い例は、東京大学での口述試験での体験。頭の骨を二個、机の上に置いて、学生に「この二つの骨の違いを言いなさい」と聞いたことがある。すると、ある学生が、一分ぐらい黙った挙句に、答えは「先生、こっちのほうが大きいです」。「おまえ、幼稚園の入園試験でリンゴの大きさを比べているんじゃないぞ」と思わず言ってしまったのですが、そういう学生が実際にいる。愕然、呆然でした。 彼には他の差は目に入っていなかったというか、無理やり出した差がそれだけだったということになる。実物から物を考える習慣がゼロだということがよくわかった。 ここでの答えは何でもいいわけです。聞いているのは、彼の物の見方なのだから。数学の正解のようなものは存在しない。その点でいえば、「こっちが大きい」も不正解ではない。しかし、目の前に実際にある物を観察しての回答としてはお粗末としかいいようがない。 例えば、「状態から見て、こちらの方が古い」でも「こちらは若い男性で、こちらは女性だと思います」でも何でもいい。違う個体なのだから、当然、無数に違いはある。思いつくままにいくらでも言えるはずです。それが「大きいです」でおしまい。「こっちのほうが大きいです」と幼稚園児なみです。 これでは教師をやる気がなくなってしまう。そんな学生が東大を出て何年かしたら、偉いお医者さんだ、ということになるのだとすれば、責任が持てない。教師として本気でちゃんと教えろなんて言ったら、一人につきっ切りにならざるをえない。そんなコメディみたいなことには付き合えない。 ついつい、もう知らねえぞ、なんて乱暴に思ってしまうわけです。まだ、ほかの大学なら許せるかもしれない。ああ、そういう子もいるかもしれないな、と思う余地はあるが、あれだけ偏差値が高いなどと言って天下の受験生が目白押しになって入ってくるようなところに、そういうのがいるとなると、人間の選別方法そのものが何かおかしいという風にも思ってしまう。死体はなぜ隠される 学生が頭蓋骨を見て何もわからないように、現物から学ばないというのは、全部ヴァーチャルになっているということの表れです。目の前に横たわる死体を見ていない。普通の人が死体を目の前にしたら、これは何だろうと考えると思う。もうちょっと考えれば、俺もこうなるなということが、想像力を使えばすぐわかるはずです。 それに耐えられない人が殆どです。政治は、その耐えられないものを隠していく。だから死体が隠される。しかし、それをあえて耐えてじっくり見たら、次はどうなるかというのが学問です。 実際に、死体を自分の家で棺桶に入れてみれば、だんだん固くなるし、最初は温かいけど冷たくなるし、口があいたままになっちゃうのを閉めようと思ってもなかなか閉まらないとか、いろんなことがわかる。 学生にとっては、こうした非常に生々しい感覚が必要なのです。それが、「こっちのほうが大きいです」程度しか感じられないようでは駄目。全然、目が見えてない。こっちのほうが大きいということがわかるのも、少しは役に立つ能力でしょうが。 この話をしても、「それはそういう学生もいるよ」で済ませる教師も大勢いるのが現状です。しかし、私の場合は、結構、こんなことがこたえてしまった。「えっ? 俺が教えているのはこういう学生なのか……」とショックを受けてしまった。 こういう傾向は、近年、偏差値重視になってから顕著になったと考えて間違いない。いくら何でも、私たちの世代に、そこまで超越的な人格というのはいなかったと思います。 昔の学生はもう少し下世話だった。つまり、現物から情報を起こしてくるのは当たり前だと思っていた。 私が教養学部の学生のときに赤線が廃止になった。廃止になったその日に、今日で赤線が終わってしまう、というのが教室の話題になっていた。要するに、どういうものであるかというのを自分で体験してみようというのがあった。 良し悪しはともかく、そうした類の好奇心は当然あったのです。別に実際に女を買う、買わないは別にしても、赤線のような所を彷徨うという体験があった。そういう世界が消えてしまうのはどうか。一種の知的好奇心というか、無責任と言えば無責任なのですが、己の日常とは別の世界を見て自分で何
か考える。こういう姿勢が当たり前だったように思います。身体を動かせ ですから、授業をしている身で言うのも矛盾していますが、学生には常々こんな風に言っています。「こんな穴蔵みたいな教室で、俺みたいな爺いの考えを聞いているんじゃない。さっさと外へ行って、体を使って働け」と。そのほうが絶対にまともだと思うのです。 実際には、彼らは働くどころか一時間目から寝ていたりするのですが。これはもう意識的世界が中心になっているということなのです。 意識的世界なんていうのは屁みたいなもので、基本は身体です。それは、悪い時代を通れば必ずわかることです。身体が駄目では話にならない。 腹が減っては戦はできない、というのは真理です。江戸の侍が「武士は食わねど高楊枝」と言うけれども、そんなものは江戸だから言えたことに過ぎない。侍が飯食わないで侍の仕事ができるかといえば、答えは明白。天下太平になってしまっているから、そこら辺に気がつかなくて呑気に言っていただけ。 子供が今育っている環境は、私たちが育った環境と非常に違う。テレビは生まれたときから身近にあるし、体を使わないというのが非常に目立ちます。別に生物として子供が運動嫌いになってきたというわけではない。実際には子供たちを連れて山に行くと本当によく動いている。もともと子供は放っておいても動くものなのです。 部屋に籠もっているのは、単に動き回る、暴れまわる機会が与えられていないだけだ、ということが逆によくわかる。大人にしてみれば、危ないから家の中で何かをしてくれたほうがずっといいなんてつい考えてしまう。それで団地なんかにいたら、虫に会うわけでもないし、何にもない。そうすると、ちょっと子供は不自然に育ってしまう気がする。 別にそれは都会の子に限らない。田舎の子だからそれができるかというと、全然できない。極端な話、都会の子が夏休みになって田舎に来ると、初めて近所の川に一緒に行くなんてことがあると聞きます。育てにくい子供 タブーが多いとはいえ、脳と教育の関係については今後徹底的に調べなくてはいけないと思います。現在、二つのプロジェクトが進行しています。ひとつは文部科学省の「教育と脳」に関するプロジェクトで、もうひとつが NHKの「子供によいメディア」をテーマにしたもの。両方とも、子供の発育と脳、というテーマです。 子供の脳を調べるにあたって注意すべきは、その手法です。従来の調査では、小学校五年生を皆調べて、同時に小学校一年生も調べる、というやり方でした。これは横断的なやり方といいます。この場合、個性に類すること、そういう違いが消えてしまう。 例えば、身長、体重を調査するとしても、ひとりひとりその発育、伸び方は違うけれども、そういうところは把握出来ない。ただ、五年生と一年生の平均の違いがわかるだけです。 しかし、これが同じ人間をずっと追うという手法をとった場合はどうかといえば、何か起こった時に、それが起こる以前にあった現象と、統計的に相関関係が取れるようになる。これは同じ個体を追いつづけないと、意味が無いのです。 こうした手法で、実際に厚生省で調べた結果として、高校生になって非行に走った子供について遡って調べると、ひとつの傾向が統計的に見られました。同じ人、家族に継続してアンケートを取る、という手法でしたが、ここで見られたのは、大きくなって非行に走った子供は三歳までに母親が、「この子は育てにくい子だ」と書いていた率が高い、ということでした。すると、こうした子には親子の人間関係にその頃から問題があった、ということがわかるわけです。 もちろん、これだけでは、本当にその子が育てにくい子だったのか、それとも親子関係や母親に問題があったのかはわかりません。それを調べるには、さらに細かい質問をしておいて、それとの相関関係を調べなくてはいけない、ということになる。この調査の難しいところは、開始の時点で予め、測ることをきちんと細かく決めておかないといけないというところです。当然、大変な手間がかかります。赤ん坊の脳調査 ですから、こうした調査は数千人単位、すなわち国家規模で行わなくては意味が無い。実は教育の問題というのはこうした科学的な調査をきちんと行わなくてはいけないのに、殆どそれがなされていない。そして科学的調査抜きで考えるから常に素人談義のレベルを抜け出ない。文部科学省の役人に払う給料があったら、省を潰してこちらの方に回したほうが、よほど役に立つはずです。 むろん、この研究も突き詰めて考えると、さらなる問題に突き当たります。その個人の背景となる時代というのは一回しかない。昭和二十年生まれの人の二十年間と、四十年生まれの人の二十年というのは、当然変わってくる。こういう研究でわかった結果そのものも、その時代の子供にしか当てはまらない、という可能性もあるのです。それでも、調べていくべきだと思っています。 さらに最近では、アンケートという原始的な手法に頼らなくても、現代では技術の進歩のお陰で、科学的に測定することも可能になった。日立が開発した「光トポグラフィー」という技術があります。頭にオウム真理教が使っていたヘッドギアみたいなものをかぶせて、赤外線によって脳のどこに血液が集まっているかを調べることが出来る。この装置ならば、かぶせるだけで何の痛みもないから、子供の脳の測定も非常にやり易い。 CTとか MRIとかそういう装置の場合、子供におとなしく受けさせるのは大変な骨なのです。 この装置を赤ん坊につけてみる実験がフランスで行われた(どうも、この種のことをする場合、日本では何だか親などが色々とうるさいようです)。すると、こんなことがわかりました。テレビのニュースで母国語が流れているのを聞くと、赤ん坊でもちゃんと、言語を司る左脳に血液が集まっているというのです。 今度はそのテープを逆回しして聞かせるとどうなるか。そうすると、何と、殆ど血液が集まらない。逆回しにして意味の無い音の連続になったものに対しては、赤ん坊も反応をしない。まだ言葉を覚えないうちから、脳は無意味な音と言葉とを区別して反応しているのです。
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