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第八章 一元論を超えて合理化の末路

カーストはワークシェアリングオバサンは元気欲をどう抑制するのか欲望としての兵器経済の欲実の経済虚の経済を切り捨てよ神より人間百姓の強さカトリックとプロテスタント人生は家康型人間の常識

第八章 一元論を超えて合理化の末路 これまで「バカ」について、また思考停止を招いている状況、あべこべの状況について述べてきました。現代人がいかに考えないままに、己の周囲に壁を作っているか。そもそもいつの間にか大事なことを考えなくなってしまっていることを指摘してきました。 しかし、「どこがおかしいかはわかったが、じゃあどうすればいいと言うのか」という疑問が、当然、次には出てくるでしょう。フランクルの言葉を借りて、「人生の意味を考える」必要性については触れました。 それはすなわち、どういう社会なり共同体が私たちにとって望ましいのか、またはどういう状態を私たちは幸福だと感じるのか、というテーマになる。 我々は今日まで一生懸命、単調な社会を延々と作ってきた。例えば、かつては働かなくても食える状態に近づきたいという気持ちが共通の原動力となって、これだけ生活が便利になった。 以前なら、十軒で耕していた田んぼを今は一軒でやっている。そうすると、九家族は遊んでいるわけです。農村人口が減っていくのは当たり前で、合理化すれば、九家族は別なことをしなければいけない。機械化等の合理化によって、一家族が働いただけで、かつてなら十家族が働いていただけの上がり、収穫が出てしまう。今よりさらに肥料をよくして、機械をよくすれば、もっと収穫が上がるかもしれない。 では、その遊んだ分は一体どうするのかということを本当に考えてきたか。合理化、合理化という方向で進んできて、今もその動きは継続している。が、それだけ仕事を合理化すれば、当然、人間が余ってくるようになる。 この余ってきたやつは働かないでいいのか。仮に、その分は働かなくていいという答えを出すのなら、今度は働かない人は何をするかということの答えを用意しなければいけない。 退社後、毎日が日曜日で何もすることがない老人は、それに近い状態です。しかし、彼を理想の境遇だという人は最早なかなかいない。そのへんのことをまったく考えないまま、よく言えば無邪気に、悪く言えば無責任でここまで来た。にもかかわらず、いまだに合理化と言っている人の気が知れない。カーストはワークシェアリング 日本を始めとした先進国とは逆に、インドは、まったく合理化しないという方策をとっています。極端にいえば、鉛筆を落としても落とした人は拾わない。別にそれを拾う階層がいる。 これは、最近の言葉でいうところの「ワークシェアリング」が行われているということです。実はカースト制というのは完全ワークシェアリングです。本来なら一人でやれるような仕事を細分化して、それぞれの階層に割り振っているのですから。インドではそういうワークシェアリングを固定してしまった。 もちろん、日本にそれを導入しろと言うのではありません。しかし我々は、何をどうシェアすべきかを真面目に考えるべきです。これは所得の再配分というふうに言いかえてもいいのですが、それだけではなくて仕事の配分をしなくてはいけない。 純粋に機能主義をとれば、その人でなくては出来ないことというのが、仕事によっては確かに存在している。その人にそれをやらせるとしても、それに対してどれだけの人がそれをサポートして、そこから上がってくる収入なら収入をどういうふうに分配するかというのが、これからの社会の公平性を保つ上で非常に大きな問題です。 それが、具体的にどういうふうな形であらわれる社会が理想なのか、私自身にも、まだ答えを出せていないところがあります。ただ、戦後、我々が理想としてきた、働かないでも食えるということイコール理想の状態ではないということが歴然と見えてきたということは言える。「働かなくても食える」の究極の形がホームレスだとも記しました。社会がいまだにどこか遅れているからホームレスが出てきてしまうのか、それとも社会の本来、健全な姿は、それぞれの人が何らかの形で働いている状態なのか。随分、基本的なことですが、その問題をもう一遍、我々は問い直す必要があるのです。オバサンは元気 事はホームレスだけでは納まりません。家庭の主婦についても、家事労働がかつてよりも遥かに楽になってしまった。飯炊きはボタンを一回押すだけ、研がずに炊ける米だって出てきた。洗濯だって似たようなものです。 それでもどういうわけか、「家事は無限にある」「男にはわからないけれど家事は大変なのよ」と、奥さん方は言います。確かにそうなのかもしれませんし、それをいちいち議論すると家庭内で問題が起きるでしょうが、とりあえず暇な時間が増えたのは間違いない。 そこまで女性を暇にして、女性に対して次に何を与えるか。あるいは、女性がその暇を利用してどういうことを作り出していっているか。次はその問題になってくる。 すると、家事労働を随分楽にすることによって、女性は、ただ単純に楽になってしまっただけという結論が出てくる。面白いのは、暇になったオジサンがぐったりするのに対して彼女たちは元気になる。 何だかんだいっても彼女たちにはやるべき家事は残されている。さらには、そのため身体だって使うことになる。そのへんが男との違いでしょうか。 ともかく、とりあえず無闇に元気になったオバサンは近所の人と出かけまくる。私の家の近所、鎌倉あたりを散策し、高級レストランでランチをとる。皆でワイワイ紫陽花を見る。 少なくとも、あれだけオバサンというか女性が元気なのを目の当たりにすると、日本は、かなり理想的な社会を今のところは実現しているようにも見えます。戦争はないし、不況で少々状況は変わったとはいえ、世界第二位の経済大国にまで登りつめた。では結局、平均的人間というのは一体どれだけのことが保障されれば幸せなのでしょうか。欲をどう抑制するのか 人間をどういう状態に置いたら一番幸せなのか、ということは、政治が一番考えていくべきテーマです。実際には学者、哲学者が議論することが多いようにも思えますが、これにはあまり意味が無い。しみじみ思うのですが、学者はどうしても、人間がどこまで物を理解できるかということを追究していく。

言ってみれば、人間はどこまで利口かということを追いかける作業を仕事としている。逆に、政治家は、人間はどこまでバカかというのを読み切らないといけない。 しかし、大体、相手を利口だと思って説教しても駄目なのです。どのぐらいバカかということが、はっきり見えていないと説教、説得は出来ない。相手を動かせない。従って、多分、政治家は務まらない。 このように、学者と政治家とはまったく反対の性質を持っている。学者が政治をやってうまくいくわけがないというのは、人間を見損なう、読み損なうことになりがちだからです。 つまり、プラトンが言うところの「哲人政治」というものは成り立たない。なぜなら、プラトンは学者だから、人間、どこまで利口かということを考えて、利口な人に任せたらいい、と考える。 しかし、現実はそうではない。多数を占めているのは普通の人だから、普通の人がどの程度で丁度いいのかをしっかり見据えておかないと、間違ったほうへ行ってしまう。 私が、昔のことを何度も持ち出すのは、昔の人は、そういうことを考えていたからです。まず、考えられてきたのは欲の問題。欲というのは、現代社会ではあまり真剣に議論されていない。欲を欲だと思っていない人が非常に多い。欲を正義だと思っている。 要するに、人間の欲を善だというふうにしてしまうと、行き着く先は、鈴木宗男氏とか、いわゆる金権政治家みたいになってしまう。 欲というのは単純に性欲とか食欲とか名誉欲とかではなく、あらゆる物は欲だといえる。権力指向ももちろん欲の表れでしょうが、学問では、それが理屈とか思想という形で出ているのです。ジャーナリズムにおいても、ある意味では多くの人の意見を自分たちの考えで統一しようという欲が裏にある。 結局、そう考えていくと、全てのものの背景には欲がある。その欲を、ほどほどにせいというのが仏教の一番いい教えなのです。誰でも欲を持っているので、それがなければ人類が滅びてしまうのはわかっている。しかしそれを野放図にやるのは駄目だ、と。欲望としての兵器 欲にはいろいろ種類がある。例えば、食欲とか性欲というのは、いったん満たされれば、とりあえず消えてしまう。これは動物だって持っている欲です。ところが、人間の脳が大きくなり、偉くなったものだから、ある種の欲は際限がないものになった。 金についての欲がその典型です。キリがない。要するに、そういう欲には本能的なというか、遺伝子的な抑制がついていない。すると、この種の欲には、無理にでも何か抑制をつけなくてはいけないのかもしれない。 近代の戦争は、ある意味で欲望が暴走した状態です。それは原因の点で、金銭欲とか権力への欲望が顕在化したものだから、ということだけではない。手段の点において、欲が暴走した状態である。 なぜなら、戦争というのは、自分は一切、相手が死ぬのを見ないで殺すことができるという方法をどんどん作っていく方向で「進化」している。ミサイルは典型的にそういう兵器です。破壊された状況をわざわざ見にいくミサイルの射手はいないでしょう。自分が押したボタンの結果がどれだけの出来事を引き起こしたかということを見ないで済む。死体を見なくてもよい。 原爆にいたってはその典型です。「おまえがやったことだよ」とその場所を、爆破後一日たって見せてあげたら、普通はどんなパイロットだって爆弾を落としたがらなくなるでしょう。何せ何万、何十万という被害者が目の前に転がっているのですから。 その結果に直面することを恐れるから、どんどん兵器を間接化する。別の言い方をすれば、身体からどんどん離れていくものにする。武器の進化というのは、その方向に進んでいる。ナイフで殺し合いをしている間は、まさに抑止力が直接、働いていた。目の前にいる敵を刺せば、その感触は手に伝わり、血しぶきが己にかかり、敵は目の前で倒れていく。 異常者でもなければ、それに快感を感じることはない。だからこそ、武器は出来るだけ身体から離していきたい。その欲望を実現していき、結果として、武器による被害の規模は大きくなっていくばかりです。経済の欲 よく似た現象が、経済の世界にも存在しています。百万円がないと首をくくった人もいれば、何億円も一瞬で稼いで、ドブに捨てるみたいに使っているやつもいる。金額の大きい方は、お金を触ってすらいない。武器でいえばミサイルとか原爆と同様の世界になっている。欲望が抑制されないと、どんどん身体から離れたものになっていく。根底にあるのは、その方向に進むものには、ブレーキがかかっていない、ということです。 金というと、何か現実的なものの代表という風に思われがちですが、そうではない。金は現実ではない。 金は、都市同様、脳が生み出したものの代表であり、また脳の働きそのものに非常に似ている。脳の場合、刺激が目から入っても耳から入っても、腹から入っても、足から入っても、全部、単一の電気信号に変換する性質を持っている。神経細胞が興奮するということは、単位時間にどれぐらいのインパルスを出すか、単位時間にどれだけ興奮するかということです。 これはまさに金も同じです。目から入っても耳から入っても、一円は一円、百円は百円と、単一の電気信号に翻訳されて互いに交換されていく、ある形を得たものです。これは、目で見ようが耳で聞こうが同じ言葉になるのと同じで、どのようにして金を稼ごうが同じ金なのです。金の世界というのは、まさに脳の世界です。 ある意味で、金ぐらい脳に入る情報の性質を外に出して具体化したものはない。金のフローとは、脳内で神経細胞の刺激が流れているのと同じことです。それを「経済」と呼称しているに過ぎない。この流れをどれだけ効率よくしようか、ということは、脳がいつも考えていることです。経済の場合にはコストを安くしてやろうという動きになる。 かつては、金を貯めて大きな家を作りたい、車を買いたいと、金と実物が結びついていた。もちろん、今でもそういうことはあるにせよ、どんどん現実から遊離していって、今は信号のやりとりだけになっている。 結果として、経済の世界には、実体経済に加えて、ほかの言葉がないのですが「虚の経済」とでもいうべきものが存在している。虚の経済とは何かというと、金を使う権利だけが移動しているということです。 ビル・ゲイツが何百億ドルかを持っているということは、彼が何百億ドルかを使う権利を持っているということに過ぎない。その権利が他人に動いたって、第三者から見れば別に痛くも痒くもない。 それが個人に集まろうが、集まるまいが、実は、大勢からみれば大して変わりがない。その権利のやりとりという面が非常に大きく扱われてしまう。それが虚の経済です。

お互いに話し合って、「おまえ、そんなに金を持っていたって使いようがないだろう。おれのほうは要るんだから、ちょっと回せ」という話し合いがつけば、それだっていい。それは虚の経済と考えられる。実の経済 もう一つ、昔からあるのが実の経済。これは明らかに、例えば、実際に物資が動いたりするのにコストがかかって、そのコストの対価として払われている金がある。ところが、実体経済に一番大きな穴があるのはどこかというと、金というのは、政府が自在に印刷できる点です。要するに兌換券ではなくなったために、現物との関係が今、切れている。そのため、完全に信用経済になっている。『貨幣論』(筑摩書房)のなかで岩井克人氏は、「『貨幣とは貨幣として使われるものである』というよりほかにない」と書いています。金には何らかの価値の根拠があるわけではない。その金が何で通用するかというと、私が使った一万円を貰った相手が同じ一万円として使えるという思い込み、でしかない、ということです。次に、その一万円を受け取った人が相変わらず一万円として使えると思っているという、「と思っている構造」の中で通用している。これは実は裏付けがない。だから、別な言い方をすれば、紙幣の発行には限度がない。「と思っている構造」が成立する以上は幾ら刷ってもいい。 こういう状況で、考えておかなくてはならないのは、日本政府なり、世界中なりが、経済統計のみを問題にしているということです。経済統計というのは非常に不健康な部分を持っている。なぜなら現在のように紙幣が自由に印刷できるという状況だと、統計そのものが「花見酒経済」になっているからです。 樽が真ん中にあって、八つぁんと熊さんが担いでいて、八つぁんが熊さんに十文渡して一杯飲む。次には熊さんが八つぁんに十文渡して飲む。そうすると、樽酒はどんどん減っていく。この八つぁんと熊さんの金のやりとりは、実は経済統計を極めて単純化したものです。経済はちゃんと動いている。にもかかわらず、ひたすら目の前の酒が減っている。これを経済的な発展と捉えていいのか。 仮に兌換券という考え方が正しいとすれば、最終的な兌換券の根拠となるのは何か。それはエネルギーになるのではないか。例えば、一定量の石油に対して一ドルというふうにドルを設定すると、それが恐らくは最も合理的な兌換券なのです。 石油の絶対量に比例していますから、石油が切れたらアウトだということはわかっている。石油だけじゃなくて、原発一基当たりでも何でもいい。 要するに都市生活、つまり経済というのは、エネルギーがない限り成り立たない。これは大前提です。すると、一エネルギー単位が実は一基本貨幣単位だというのは、実体経済のモデルとして考えられるのではないか。虚の経済を切り捨てよ ヨーロッパが始めたユーロというのは、いろいろな違った社会体制、国の中で、同じ単位の金を使うということです。ユーロの目指すところは、実は世界統一通貨だと思われます。では、その世界統一通貨の基準は何か。まさか、江戸時代のように米だというわけにはいかない。世界に共通する基準というのは、エネルギー単位以外ないのではないか。これが実の経済の考え方です。 一方、だれが金を使う権利があるか、その虚のほうの経済、これは本質的に突き詰めて考えていくと意味が無くなってくる。つまり、情報と絡んでいて、正しい金の使い方というものが決まってくれば、だれが持っていようと大して変わりがないのです。この二つの経済は、区別されていません。が、実はきちんと分けていかなければいけない。経済学者がどう言うかは知りません。しかし、実の経済と虚の経済を区別しないと、よくわからないうちに、お金は動いていますよと言われ、ああそうかと騙されているうちにエネルギーはどんどん消費され、そのうちに地球環境が破壊されていく。 乱暴に言えば、こんなことを心配しても手出しは出来ないのだから、とりあえず人間の脳から出る欲が、外的要因によって否応無く制限されるまで待つしかないのかもしれません。しかし、それをやっているうちに取り返しのつかないことが起こる可能性が高い。その代表例が環境破壊です。それを防ぐには、実の経済に根を下ろさなくてはいけないのではないか。虚の経済とは切り離してしまう。実の経済はきちんと動いているから、金の取り合いはおまえら自由にやってくれ、といいたいところです。 ところが実際には、無駄にお金を回し続けないと経済は成り立たない、という思い込みが世界の常識になっている。実の経済と虚の経済があるということは常識になっていない。つまり、八つぁんと熊さんの間で金が回っている、金が回っているのが良い状態だ、と。 しかし、実はそうではないはずなのです。実体が見えない状態で、欲のままにお金だけを回していけば、「経済は好調だ」とか何とか言っているうちに、いつの間にか目の前の酒樽は空っぽ、ということになってしまう。神より人間 経済を「実」と「虚」に分ける考え方は、どこかこれまでに述べた「意識と無意識」「脳と身体」「都市と田舎」といった二元論に似ていることに気づかれたかもしれません。その通りで、私の考え方は、簡単に言えば二元論に集約されます。 普段の生活では意識されないことですし、新聞やテレビもそういう観点からの議論をしませんが、現代世界の三分の二が一元論者だということは、絶対に注意しなくてはいけない点です。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、結局、一元論の宗教です。一元論の欠点というものを、世界は、この百五十年で、嫌というほどたたき込まれてきたはずです。だから、二十一世紀こそは、一元論の世界にはならないでほしいのです。男がいれば女もいる、でいいわけです。 原理主義というのは典型的な一元論です。一元論的な世界というのは、経験的に、必ず破綻すると思います。原理主義が破綻するのと同じことです。 もっとも、短期的に見ると原理主義の方が強いことがある。アメリカでは禁酒法なんて無茶苦茶な法律が通ったぐらいで、この手の一方的な押し付けも一種の一元論的な考え方の産物です。しかし、そうした一元論はやがて、長い時間をかけて崩壊する。禁酒法だって無くなってしまった。 いい加減にそろそろ、それに気がついた方がいい。だから、私はいつも脳について話すのです。「あんたが一 ○ ○%、正しいと思ったって、寝ている間の自分の意見はそこに入っていないだろう。三分の一は違うかもしれないだろう。六七%だよ。あんたの言っていることは、一 ○ ○%正しいと思っているでしょう。しかし人間、間違えるということを考慮に入れれば、自分が一 ○ ○%正しいと思っていたって五 ○%は間違っている」ということです。 バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。 本書で度々、「人は変わる」ということを強調してきたのも、一元論を否定したいという意図からでした。今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠の無い思い込みがある。その前提に立たないと一元論には立てない。なぜなら、自分自身が違う人になっちゃうかもしれないと思ったら、絶対的

な原理主義は主張できるはずがない。「君子は豹変す」ということは、一元論的宗教ではありえないことです。コロコロ変わる教祖は信頼されない。 だから、都市化して情報化する。そういう世界では、ご存じのように、中近東が都市化していって、そこから一神教が出てきた。事の流れからすれば必然なのです。百姓の強さ もともと日本は八百万の神の国でした。『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というのも一元論ではない。我が国には、単純な一元論は無かった。 ところが、近代になって、意識しないうちに一元論が主流になっている。大した根拠や、そこにつながる文化が無いにもかかわらず、です。 一元論と二元論は、宗教でいえば、一神教と多神教の違いになります。一神教は都市宗教で、多神教は自然宗教でもある。 都市宗教は必ず一元論化していく。それはなぜかというと、都市の人間は実に弱く、頼るものを求める。百姓には、土地がついているからものすごく強い。その強さは、例えば成田闘争を見ればわかる。もう何十年も国を挙げて立ち退きを迫っても、頑として動かない。これに限らず、昔から支配者は百姓をぶっつぶそうと思って大変な苦労をしてきた。 江戸時代でも、士農工商と支配階級を固定化して、武士だけに武器を持たせ、徹底的に有利にしておいて、やっと百姓とのバランスがとれていた。そのぐらい、都会の人間というのは弱い存在なのです。 この強さは、人間にとっては食うことが前提で、それを握っているのは百姓だということに起因しています。何も難しい話ではない。終戦直後の混乱期に、高い着物を一反持っていって、米は少ししかくれないなんてことはざらでした。そんなことは、私の世代は体験的にわかっていることです。 基盤となるものを持たない人間はいかに弱いものか、ということの表れです。しかし、今は殆どの人が都会の人間になっていますから、非常に弱くなった。その弱いところにつけ込んでくるのが宗教で、典型が一元論的な宗教です。カトリックとプロテスタント 例えば、細かいニュアンスを飛ばして簡単に分類すれば、カトリックとプロテスタントだったら、プロテスタントのほうが明らかに原理主義に近く、しかも都会型です。結局、ゲルマン民族が、キリスト教という基盤の上で改めて都市宗教として作り出したのがプロテスタントだった。カトリックというのは中世の間に、言ってみれば部族宗教、つまりゲルマンの自然宗教と融合していった宗教ですから、実質的には多神教的な面がある。イタリアの町のカトリック教会に入れば中には ○ ○聖人が飾ってあって、マリア様の部屋があって、正面にだけイエス・キリスト。これはある意味で多神教です。 非常に一神教の色合いが強いのが、イスラム教であり、プロテスタントです。だから、イスラムとアメリカが喧嘩しているのは、こちらから見ると一神教同士の内輪もめにしか過ぎない。 一神教の人たちは、「あの人たちとは話が合わないのだから放っておきゃいい」という風では気が済まない。お互いに「あいつらは悪魔だ」と言いあっている。一歩引いて見ればお互い様なのですが。 近頃ではこういう論調で物を書くと、「あんた、反米だろ」なんて見当外れの文句を言ってくる人がいる。もちろん、そんな次元の話ではないのですが、一元論的な人には通じない。 この辺の硬直性を見ると、考え方が戦前に近くなっている人が増えているような気がする。一神教的な考え方は日本の中にだってたくさんあります。例えば戦時中の八紘一宇、世界を天皇を頂点とした一つの家と考える、なんて考え方は、その代表例です。ついこの間それをやって、こりごりしているはずなのに、また一元論で行くのか、と思う。 天皇制だって、昭和の初年ぐらいまでは、その後の太平洋戦争中ほど絶対化されたものだったとは思えない。天皇を国の一機関として捉える天皇機関説なんてものがあったくらいですから。ところが、戦争が始まってから、どんどん神格化されていった。 その頃のことを考えれば一番わかり易いのですが、原理主義が育つ土壌というものがあります。楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定化したくなる。 aを固定してしまう。それは一元論のほうが楽で、思考停止状況が一番気持ちいいから。人生は家康型 徳川家康は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と言いました。この言葉をその通りだと思う人が、今時どのぐらいいるのかはわかりません。私は遠き道を行くどころか、人生は崖登りだと思っています。 崖登りは苦しいけれど、一歩上がれば視界がそれだけ開ける。しかし、一歩上がるのは大変です。手を離したら千仞の谷底にまっ逆さまです。人生とはそういうものだと思う。だから、だれだって楽をしたい。 原理主義に身をゆだねるのは手を離すことに相当する。谷底にまっ逆さまだけれど、それは離れている人から見ての状態で、本人は、落ちて気持ちがいい。それだけのことでしょう。 人生は家康型なのです。一歩上がれば、それだけ遠くが見えるようになるけれども、一歩上がるのは容易じゃない、荷物を背負っているから。しかし身体を動かさないと見えない風景は確実にある。 この「まっ逆さま」に転落している状態の代表例が、カルト宗教に身をゆだねているということです。私の見てきた学生には、オウム真理教をはじめ、随分、こういうのに引っかかっているのがいました。 こういう学生を何とかするには個人的につき合っていくしかないというのが教師としての経験則です。逆折伏するしかない。そんな暇はないと言えばないのですが、教師という職業だと仕方がない。少しでも逆折伏につながれば、という思いがあるから、今でも教室で喋ることの何割かは、こういうことを色々な形で喋っているのです。 それがどこまで通じるのかはわかりません。そんなことを考えて、単純な見返りを求めても仕方が無い。 しかし、それを話し続けることが、少なくとも私にとっては「人生の意味」の一つだと思っている。文句を言いながらも教育の現場にいるというのは、そのために他なりません。 知的労働というのは、重荷を背負うことです。物を考えるということは決して楽なことじゃないよということを教えているつもりです。それでも、学問について、多くの学生が、考えることについて楽をしたいと思っているのであれば、そこ

崖を一歩登って見晴らしを少しでもよくする、というのが動機じゃなくなってきた。知ることによって世界の見方が変わる、ということがわからなくなってきた。愛人とか競走馬を持つのがモチベーションになってしまっている。そうじゃなければカルト宗教の教義を「学んでいる」と言って楽をしているか。人間の常識 話を広げれば、日本国共同体が、世界の中でどの程度、意味を持っているのかということを考え直さなくてはいけない。一元論を否定するのであれば、我々は別の普遍原理を提示しなきゃいけない。日本が、ある普遍的な原理によって立つ。それはどういう原理かということを考えていく。 一神教の世界というのは、ある種の普遍原理です。万能の神様が一人。イスラム教にせよ、ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、そういう教えです。それが世界の三分の二を占めているんです。そうでない人たちはどういう普遍性が提示できるかというと、そんな大層なものを持ってはいない。 しかし、こちらは、「人間であればこうだろう」ということは考えられる。それは、普遍性として成り立つわけです。人間であれば、親しくなった人間を殺すかという話になって、それはしないだろう、という、ある種の普遍性を必ず持てるはずなのです。 今後日本がもし拠って立つとすれば、そういう思想しかない。あんまり欲をかくんじゃあない、と。もちろん、そんなことは、当たり前のことのはずです。「ビル・ゲイツさん、あんた、それだけ金を持っていてどうするんだ、俺にくれ。使い切れないだろう、どうせ、生きている間に」と、そういう話はできるはずなのです。おまえ、一 ○ ○%と言っているけど、寝ている間はどう思っているんだよとか、そういう議論は必ず何かしらできるはずです。 人間であればこうだろう? という話、本書冒頭で述べた「常識」が、私は究極的な普遍性だと思っているのです。安易に神様を引っ張り出したりしない。一元論的に神様を引っ張り出すと、ある方向へ行くときは非常に便利です。有無を言わせず決めつけることができる。 一方で、「人間であればこうだろう」ということは、非常に簡単なようで、ある意味でわかりにくい。それでも、結局、そうしていくしか道は残っていないはずだ、と思うのです。イスラム教徒だろうが、キリスト教徒だろうが、ユダヤ教徒だろうが、あんた、人間でしょう、という考え方です。「人間であればこうだろう」ということは、普遍的な原理になるのではないか。 日韓共催のワールドカップで、日本の若者がイングランドのユニフォームを着て応援しました。韓国が勝ち進むと韓国も応援した。それぞれの国から見れば信じられない事態なのです。「人類皆兄弟」というと変な風に受け止められますが、人間皆同じという考え方が、日本の場合は基本的にあるのかもしれない。国境がなかったし、民族同士の殺し合いもしていないし、戦場になっていない。こうした特性を「甘い」と言うのは簡単ですが、悪いことだとは思えない。 現状は、 NHKの「公平・客観・中立」に代表されるように、あちこちで一神教化が進んでいる。それが正しいかのような風潮が中心になっている状況は非常に心配です。 安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。

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