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PART Ⅱ バカと無知

PART Ⅱ バカと無知

5 バカは自分がバカであることに気づいていない 6 「知らないことを知らない」という二重の呪い 7 民主的な社会がうまくいかない不穏な理由 8 バカに引きずられるのを避けるのは? 9 バカと利口が熟議するという悲劇 10 過剰敬語「よろしかったでしょうか」の秘密 11 日本人の 3人に 1人は日本語が読めない? 12 投票率は低ければ低いほどいい 13 バカでも賢くなれるエンハンスメント 2・ 0の到来

5 バカは自分がバカであることに気づいていない 1995年、アメリカのピッツバーグで男が白昼堂々、変装もせずに二つの銀行に押し入った。その日の夜のニュースで監視カメラの映像が公開されると、 1時間もしないうちに男は逮捕された。 警察でビデオテープを見せられた男は、「だって俺はジュースをつけていたのに」とつぶやいた。男は、顔にレモン汁を塗ると監視カメラに映らなくなると思っていたのだ。 このバカバカしい話は、その後、「バカとはなにか?」という認知心理学のブレークスルーへとつながっていく。 心理学者のデビッド・ダニングはこのニュースを知って、「人間はなぜこれほど愚かになれるのか」と疑問に思った。無知とは一般に、「正しい知識をもっていないこと」と定義される。だがこれだけでは、その空白に「レモンジュースを顔に塗ると透明人間になる」というとんでもない勘違いが入り込んでくる理由を説明できない。 そこでダニングは、博士課程のジャスティン・クルーガーとともに、コーネル大学の学生を使って一連の実験を行なった。彼らの発見はのちに「ダニング =クルーガー効果」として広く知られるようになる( 1)※数字は巻末の参考文献を示す(以下同)。 ダニングらの関心は、「能力の低い者は、自分の能力が低いことを正しく認識できているのか」というものだった。 それを確かめるために二人は、ユーモアのセンス、論理的推論・文法問題の得点と、学生たちの自己評価を比較した。ユーモアのセンスは、ジョークの面白さがプロのコメディアンの評価とどの程度一致するかで計測されたが、よりシンプルな論理や英文法のテストと結果は同じで、いずれも男女の性差はなかった。 論理的推論では、平均を 50、最低を 0、最高を 100として得点が正規分布(ベルカーブ)するとした場合、学生たちの自己評価の平均は 66点だった。実際の平均はもちろん 50点なのだから、学生たちは自分の実力を 3割以上も過大評価していることになる。 これは「人並み以上効果」として、以前からよく知られていた。恋愛や仕事での成功の見込みであれ、わが子の才能であれ、あるいは車の運転技術でも、「平均と比べてどうですか?」と質問すると、大多数のひとが「自分は人並み以上だ」とこたえるのだ。 ダニングとクルーガーは、この「楽観主義バイアス」が個人の能力によってどのように変わるかを調べた。その結果はきわめて興味深いものだった。 論理的推論能力では、下位 4分の 1の学生は、実際の平均スコアが 12点だったにもかかわらず、自分たちの能力は 68点だと思っていた。一方、上位 4分の 1の学生は、実際の平均スコアが 86点にもかかわらず、自分たちの能力は 74点しかないと思っていたのだ。 能力の低い学生が自分を 470%( 5倍以上)過大評価しているのに対し、能力の高い学生は 14%過小評価していた。その結果、テストの成績では 12点と 86点という大きな差があるにもかかわらず、下位と上位の学生たちの自己評価は 68点と 74点でほとんど同じになってしまったのだ。 この「勘違い」は他の実験でも同じで、文法問題では、下位 4分の 1の学生の平均得点は 10点で、自己評価での能力は 67点だった。一方、上位 4分の 1の学生の平均得点は 89点で、自己評価での能力は 72点だった。 ユーモアのセンスでも、下位 4分の 1の学生の平均得点は 12点、自己評価のセンスは 58点だった。この課題だけは、下位の学生たちも自分がすぐれているわけではないことを認識していたようだが、それでもユーモアのセンスは「ふつうよりはちょっとマシ」だと過大評価していた。 ダニングとクルーガーは、上位 4分の 1の学生は自分の能力を客観的に把握していて、だからこそ「自分でもこれくらい解けるんだから、ほかの学生はもっとできるだろう」と思い、(他者を過大評価することで)自己評価が低くなるのではないかと考えた。 この仮説を確かめるために、他の学生の解答を(得点を伏せて)高得点者にいくつか見せてみた。すると文法問題(平均得点 89)では、 72点だった自己評価が 77点へと上がった。能力の高い学生は、他の学生が思ったほど正答できていないことを知って、正しい方向に自己評価を修正したのだ。 ところが同じことを下位 4分の 1の学生(平均得点 10)にすると、 67点の自己評価が 63点へと若干下がったものの、それでも実際のスコアとの大きな差は埋まらなかった。より不可解なのは(自分がテストで何点取れたかの)得点予想で、もともと 60・ 5点と大幅に過大評価されていたのが、他の学生の解答を見たことで、 65・ 4点へと「勘違い度(過大評価)」がさらに広がってしまったことだ。 この結果についてダニングとクルーガーは、「能力の低い者は、そもそも自分が能力が低いことを正しく認知できていないのではないか」と考えた。そこで今度は、人為的に能力を引き上げることでこの仮説を検証した。論理的推論課題で、ランダムに選んだ一部の学生に解き方のヒントを教えたのだ。 その結果はというと、ヒントなしの下位 4分の 1の学生は、実際の平均得点 11・ 9点に対し、自己評価は 55点で、他の学生の解答を見せるとそれが 55・ 8点へと上がった(やはり過大評価が広がった)。 それに対してヒントを与えられた学生は、平均得点が 14・ 5点に上がったが、その一方で、自己評価は 54・ 7点と、ヒントなしの学生とほとんど変わらなかった。だが問題についてより正確に理解できた彼ら/彼女たちは、他の学生の解答を見せられると、自己評価を 44・ 3点へと大きく引き下げ、それ以上に驚いたことに、得点予想では 50・ 5点から 31・ 9点へと 18・ 6ポイントも過大評価を修正したのだ(ヒントなしの学生は 55・ 2点が 54・ 3点になっただけだった)。 この結果は、能力の低い者にとっては朗報に思えるが、話はそう簡単ではない。問題解決へのヒントを与えられた学生はもはや「能力が低い」とはいえないし、人生で出合うあらゆる問題に同様の簡便な「能力増強」の手段があるわけではないからだ。 こうしてダニングとクルーガーは、シンプルかつ強力な結論を導いた。それを簡潔に表現するなら次のようになるだろう。「バカの問題は、自分がバカであることに気づいていないことだ」 自分の能力についての客観的な事実を提示されても、バカはその事実を正しく理解できないので(なぜならバカだから)自分の評価を修正しないばかりか、ますます自分の能力に自信をもつようになる。まさに「バカにつける薬はない」のだ。 ここまで読んで、あなたは「バカってどうしようもないなあ」と嗤ったにちがいない。だがダニング =クルーガー効果では、バカは原理的に自分がバカだと知ることはできない。私も、そしてあなたも。*ダニング =クルーガー効果については、その原因がメタ認知能力の不足であるかどうかの議論がいまも続いているが、その後の研究でも、さまざまな

領域でダニング =クルーガー効果と同じ認知バイアスが確認されている。

6 「知らないことを知らない」という二重の呪い「バカの問題は自分がバカであることに気づかないことだ。なぜならバカだから」というのがダニング =クルーガー効果だ。 1999年にこの研究が発表され大きな評判を呼んだのは、誰もが漠然と感じていたことを実験によって証明したからだろう。 その後もデビッド・ダニングは研究を続け、知と無知には三つのパターンがあると主張した。 一つめは、「知っていることを知っていること」。足し算の規則を知っているなら、自分が「 5 + 3 = 8」と計算できることを知っている。 二つめは、「知らないことを知っていること」。私はパソコンがどのようなプログラムで動いているのか知らないが、自分が無知なことは知っている。パソコンが故障したら自分で修理しようなどとはせず、サポートセンターに電話するだろう。 科学やテクノロジーが急速に発達したことで、わたしたちは「知らないこと」のなかで暮らすようになった。スマホでなぜメールが送れるかも、口座のお金がどうやって海外に送金できるのかも、正確に説明できるひとはほとんどいないだろうが、それでも日々を大過なく過ごしているのは、知らないことを他者(専門家)にアウトソースしているからだ。 三つめは、「知らないことを知らないこと」。これがダニング =クルーガー効果で、「二重の無知」あるいは「二重の呪い」と呼ばれる。知らないことを知らなければ対処のしようがないからだ。 ダニングは指摘していないが、「知っていることを知らない」という四つめのパターンもありそうだ。これは「直観」とか「暗黙知」と呼ばれている。 近年の脳科学は、無意識はときに意識(理性)より高い知能をもっていることを明らかにした。テーブルの上に二つのカードの山があり、一方は賞金も大きいが損する額も大きい(ハイリスク・ハイリターンで長期的には損をする)、もう一方は賞金も損失も小さい(ローリスク・ローリターンで長期的には得をする)ようにすると、意識がどちらの山が有利か気づく前に、危険なカードに手を伸ばしたときに指先の発汗量が増える。この「嫌な予感(無意識の知能)」によって、なぜかわからないまま正しい選択ができるのだ。 この四つめのパターンは、芸術家によくあてはまる。モーツァルトに「なぜこの旋律を思いついたのか」と訊いても、理路整然と説明することはできなかっただろう。音楽家だけでなく、画家や詩人、歌手や俳優、あるいはスポーツ選手も、なぜ自分が「できる」かを「知らない」のではないか。ひとびとが感動するような素晴らしいものは暗黙知から生まれるのだ。 ダニング =クルーガー効果は、従来の教育に重大な疑問を突きつける。これまで学校では、子どもに知識を教えれば自然に学力は伸びていくとされていた。 世界じゅうどこの教師も、授業を理解できたかテストして、その結果を生徒にフィードバックしている。だがダニングによれば、この方法で学力を高められるのは認知能力の高い子どもだけだ。こうした生徒は、自分がなにを知らないかを知っているので、間違ったところを修正して正しい知識に到達できる。 ところが認知能力の低い子どもは、なにを知らないかを知らないので、フィードバックを受け取ってもどうしていいのかわからない。どこでなぜ間違えたのかを理解できない子どもが(たくさん)いることは、教育者ならみんな知っているだろう。 間違いがつねに無知からもたらされるともいえない。「 53- 37」を 16ではなく 24と答える子どもがいる。これは「大きい数から小さい数を引く」という規則に、それぞれの桁で従っているのだ。 このケースでは、子どもは誤ったルールで「正しく」問題を解いている。計算の前提が間違っていることに気づかなければ、繰り下がりのある引き算はすべて不正解になるが、「 57- 34」のような引き算は正解できるから、なぜうまくできないのかを知ることは難しいのかもしれない。 ここから、幼児期はさほど差がなかったのに、小学校高学年になる頃には学力に大きな差がつくことを説明できるだろう。認知能力の高い子どもがフィードバックを受けて学力を高めていくのに対し、認知能力が低い子どもは、授業内容が難しくなるにつれて脱落してしまうのだ。 あらゆる分野でダニング =クルーガー効果が同じ影響を及ぼすわけではない( 2)。 自分でバスケットボールのフリースローをすることと、選手のフリースローの能力を評価することはちがうが、どの選手が上手いかはある程度わかるだろう。 実力と自信が完全に一致する場合の相関関係は 1、まったく一致しないと 0になる。相関関係が 1だと、他人に対する「こうすればいいのに」というアドバイスを、自分でも完璧に行なうことができる。逆に相関関係が 0だと、自分はなにひとつ満足にできないのに、他人を批判することだけに長けている(かなりイヤな奴だ)。 スポーツの場合、他者のパフォーマンスへの評価と本人の成績との相関関係は 0・ 47前後になるが、この相関関係は、技術知識で 0・ 33、面接能力で 0・ 28、一般的な機械知識で 0・ 2、医療関係の技術と対人能力で 0・ 17と下がっていく。管理能力にいたっては 0・ 04で、他人に対する評価と自分の実力がほとんど一致しない。 これは、スポーツと事務系・技術系の仕事のちがいというわけではないだろう。プロのサッカーチームの監督より自分の方が有能だと思っているファンはいくらでもいる。 だとしたら、直感的に自分でもできそうだと思えるかどうかのちがいではないだろうか。バスケットボールのフリースローの成功率は体験的に知っているが、サッカーチームの監督がなにをしているのかはよくわからないので、自分でもできると思う。高度な外科手術は無理でも、問診や注射くらいならできそうに思えるのも同じだ。 そう考えれば、管理者の能力を正しく評価できないのも当然だろう。部下はみんな上司の仕事を低く評価し、自分の方がずっとうまくやれると思っているのだ。 ダニング =クルーガー効果のもう一つの重要な発見は、認知能力の低い者が自分を過大評価する一方、認知能力の高い者が一貫して自分を過小評価していることだった。なぜこんなことになるかは、人類の進化の歴史から説明できるのではないか。 ヒトは旧石器時代から何百万年も、 150人ほどの小さな共同体のなかで地位をめぐって争ってきた。評価の基準は時代や環境によって異なるだろうが、能力のある者が高い地位を獲得する原則は同じだったはずだ。だとしたら、自分に能力がないことを他者に知られるのは致命的だ。このようにして、能力を大幅に過大評価するようになった。 その一方で、すぐれた能力があることを他者に知られることもまたリスクだ。権力者が真っ先に排除しようとするのは、将来のライバルになりそうな有能な者だからだ。このようにして能力を過小評価し、共同体のなかで極端に目立つことを避けようとしたのではないだろうか。 ハリネズミのように自分を大きく見せるのも、能ある鷹が爪を隠すのも、生き延びるために脳に埋め込まれた戦略なのかもしれない。

7 民主的な社会がうまくいかない不穏な理由「三人寄れば文殊の知恵」では、一人の限られた知識で問題を解決しようとするよりも、さまざまな知識をもつ者たちが集まって協力したほうがよい結果を生むとされる。 その一方でダニング =クルーガー効果は、能力の高い者が自分の成績を過小評価し、能力の低い者は逆に(大幅に)過大評価することを明らかにした。だとしたら、これでほんとうに「文殊の知恵」を実現できるかは誰もが知りたいと思うだろう。 いまから 100年以上前に、ダーウィンのいとこで近代統計学の祖でもある(優生学を唱えたことで悪名も高い)フランシス・ゴルトンがこの疑問を調べている。 啓蒙主義時代のスーパー知識人だったゴルトンは、家畜の品評会で牛の体重当てコンテストの投票用紙約 800枚を集め、素人を含む参加者全員の投票の平均が、優勝者(専門家)より正確であることを発見した。素人判断は極端に重かったり軽かったりするものの、多数の投票で間違いが相殺されて、平均が正解に近似していくのだ。 これは民主政(デモクラシー)の優位を示す心強い知見に思えるが、重要なちがいが一つある。コンテストの参加者は、お互いに相談したりせず、牛の体重の予想をただ紙に書いただけだった。しかし民主政では、古代ギリシアのアゴラ(広場)で行なわれた討論会のように、みんなで話し合うことになっている。 個人の独立した判断をただ集計するのではなく、話し合いのように、能力が異なる者が互いに影響し合ったときでも「集合知」は実現できるのだろうか。 これを調べるには、被験者を I Q(知能指数)でグループ分けし、利口な者同士、バカな者同士、利口とバカの組み合わせで議論させ、正答率がどうちがうかを調べてみればいい──などという実験が許されるわけがない。 そこで認知神経科学者のバハドル・バーラミらは、次のような巧妙な仕掛けを考えた( 3)。 2人 1組の被験者がディスプレイに表示された6つの薄い円を見ている。視力検査の要領で、そのうちの1つのコントラストがわずかに強くなるので、そこにカーソルを合わせるよう指示される。 このとき、一方の被験者のディスプレイだけ画像が乱れる。この工夫によって、能力の高い者(よりはっきり画像が見えている)と低い者(画像がぼやけてうまく見えない)を人為的につくり出せる。 両者の意見が一致すればそこで終わりだが、不一致の場合、以下の三つの方法で意思決定が行なわれる。 ①コイン投げと同じで、どちらが正しいかをランダムに選ぶ。 ②能力が高い者の選択が常に正しいとする。 ③ 2人で話し合って決める。「文殊の知恵」がほんとうなら、話し合いで決める ③は、どんな場合でも、コイン投げの ①はもちろん、優秀な者が意思決定する ②よりもよい結果を出せるはずだ。 そして実際、その通りになった。ただし条件が一つあって、話し合いでプラスの効果が見られたのは、 2人とも一定以上の能力がある(画像が不鮮明ではない)ときだけなのだ。 では、 2人のうち 1人の能力が劣る場合はどうなるのかというと、残念なことに、話し合いによって結果はどんどん悪くなり、優秀な者の決定に劣るだけでなく、コイン投げのほうがマシになってしまった。 なぜこんなことになるかは、旧石器時代の濃密な共同体から説明できるだろう。 地位をめぐって競争しているときに、高い地位につく資格がないことを自ら認めるのは致命的だ。こうして能力の低い者は、その事実を相手に知られないように、自分の実力を(無意識に)過大評価する。 一方、能力の高い者は、相手も自分と同等の能力をもっているだろうと(当初は)想定する。なんの情報もないときに相手を見くびると手ひどいしっぺ返しを食らうことがあるし、共同体のなかで目立ちすぎると、多数派によって排斥される危険があるからだ。 その結果、能力に大きなちがいがある 2人が話し合うと、(自分の能力を過小評価している)賢い者が、(自分の能力を大幅に過大評価している)バカに引きずられ、間違った選択をしてしまうのだ。 この実験でもう一つ興味深いのは、成績を上げるのに重要なのはコミュニケーションで、お互いの実績を知る必要は必ずしもなかったことだ。能力が高い者同士のペアは、互いの成績をフィードバックされたときよりも、話し合っただけの方がよいパフォーマンスを示した。 この結果を研究者たちは、賢い者は、互いの自信を示し合うことで、実績を含むじゅうぶんな情報を得たからだと考えた。それに対して、たんに数値を提示されただけだと、相手の自信の程度がわからないので選択に迷いが生じるのかもしれない。 それに対して、 2人のうち 1人の能力が低いケースでは、正確なフィードバックがある方が確実に成績が上がった。これは根拠のない自信の化けの皮がはがれ、より冷静な判断ができるようになるからだろう。 賢い者がバカの過大評価に引きずられることを「平均効果」という。実験では、一方が他方の能力の 40%を下回ると、話し合いの結果は優秀な個人の選択よりも悪くなった。 これがなにを意味しているかを考えると、次の二つの結論に至る。ただし、いずれもかなり不穏な話だ。 一つは、集合知を実現するには、一定以上の能力をもつ者だけで話し合うこと。これなら欠けた知識を持ち寄って、それを一つにまとめることで、個人の判断より正しい選択をすることができる。 もう一つは、それが無理な場合は話し合いをあきらめて、優秀な個人の判断に従った方がよい選択ができること。これはある種の貴族政だ。〝不穏〟というのは、いずれの場合も、能力の劣った者を決定の場から排除する必要があるからだ。──これは私見で、研究者がこのような主張をしているわけではない。 21世紀になってから、欧米先進国の民主的な意思決定システムより、中国のような「独裁」の方が高いパフォーマンスを達成しているのではないかとの

疑問が生じている。トランプ大統領誕生やブレグジット、移民問題など、欧米諸国がポピュリズムの嵐に翻弄されている間に、中国は一貫して高い経済成長を維持していた。 この懸念は、新型コロナの蔓延で欧米諸国が多数の死者を出す一方、徹底した社会統制を行なった中国が人的被害も経済的損害も軽微にとどめたことでさらに強まった(最近の中国は都市封鎖で苦労しているが)。バイデン政権の中国敵視政策の背景には、米国の理念の根幹にあるリベラルデモクラシーが敗北しつつあるのではないかとの恐怖があるのだろう。 ここで紹介した卓抜な実験で、民主的な社会の不愉快な現実をうまく説明できるかもしれない。納得できないひとは多そうだが。

8 バカに引きずられるのを避けるのは? みんなで話し合うとよりよい選択ができるのか、それとも有能な人間が決める方がいいのか。この問いがきわめて政治的なのは、民主政と独裁政(貴族政)を連想させるからだ。 認知科学によってこの疑問には答えが出ているが、それを聞いてもたぶんがっかりするだろう。「条件によってよくも悪くもなる」という、なんとも味気ないものだからだ。 だったら、よい選択の条件とはなにか? これにもちゃんと答えがあるが、あまり知られていないのは、大きな声ではいえないからだ。それをあえて簡潔にいうなら、「バカを排除する」になる。 さまざまな実験から、ひとは無意識のうちに集団のメンバーを平均化することがわかっている。この「平均効果」が生じるのは、愚か者が自分の能力を(大幅に)過大評価し、賢い者が自分の能力を過小評価するからで、その結果、集団での決定はバカに引きずられてしまう。 この悲劇を避けるもっともよい方法は、一定以上の能力をもつ者だけで議論することだ。 これを実践しているのがシリコンバレーの I T企業で、世界じゅうからとてつもなく賢い若者たちを集め、明快なミッション(世界を変える、あるいはものすごく儲ける)を与えて協働させることで、きわめて効率的な組織を生み出した。 ここで重要なのが「多様性」で、高い知能をもつ者たち(ここにはなんの多様性もない)が、文化や宗教、性別や性的指向など異なるバックボーンをもっていると、思わぬアイデアが大きなイノベーションにつながる。この「創発」によって、 GAFA 4社の株式時価総額が日本の株式市場の時価総額を超えることになった。 それに比べて日本企業は、日系日本人、男性、中高年、大学学部卒(それも多くは文系)という、凡庸かつなんの多様性もない集団によって支配されている。これでは、まともに「国際競争」などできるはずがなかったのだ。 とはいえ、シリコンバレーが成功したのは、年収数千万円で社員を募集したり、起業に成功すれば数兆円の富が手に入る機会を提供できたからだ。こんな場所がほかにあるわけもなく、一般化はできない。だとしたら、メンバーの能力に差のある集団の意思決定はどうすればいいのだろうか。「平均効果」を発見した認知神経科学者のバハドル・バーラミは、その後、「言語条件」と「非言語条件」の二つの設定で意思決定の質を調べた( 4)。「言語条件」では、能力の異なる 2人の参加者が話し合って決定したが、予想どおり、能力の高い者が低い者に引きずられてパフォーマンスが下がった。「非言語条件」では、 2人は会話をせず、確信度を 1(非常に疑わしい)から 5(絶対に確信している)の 5段階で伝えた。するとこの条件では、能力の高い者の決定とほぼ変わらないパフォーマンスを達成できた。 この実験から、問題は「会話」にあることがわかった。話し合わなければ意思決定の質は下がらないのだ。 なぜこんなことになるのか。それは「自尊心」で説明できるだろう。 実験では、画面に映された6つの淡い円のうち、1つだけがすこし濃くなるので、被験者はそこにカーソルを合わせるよう求められる。ただし一方の画面にはノイズが走り、どれが正解かよくわからない。 この場合、(画面にノイズがある)能力の劣った者にとって、合理的な選択は(ノイズのない)能力の高い者の答えに合わせることだ。だがこの程度のことですら、相手と話し合う条件では、自分がよく見えていない(能力が低い)ことを認めることができなかった。 能力が低い者が過度な自信を示したことで、能力が高い者は自分の自信が揺らぎ、その一部は決定を変えた。これが「バカに引きずられる」メカニズムだ。 ところが相手と会話することなく、自分がどの程度見えたのかを機械的に報告するだけなら、このような「平均効果」は発生しない。なぜなら、この設定では被験者の自尊心が脅威にさらされないから。 社会心理学では、わたしたちは固有の「自尊心メーター」をもっていると考える。このメーターの針が上がると幸福感を覚え、針が下がるとものすごい音でアラーム(危険信号)が鳴る。 自尊心というのは、要するに他者の評価のことだ。ヒトは徹底的に社会的な動物なので、他者からの評価が自尊心や自己肯定感と結びつくように「設計」されている。 その一方でわたしたちは、自尊心が下がることを、殴られたり蹴られたりするのと同じように感じるらしい。脳は感覚器官からの入力を処理するだけなので、ナイフで刺されることと、面とむかって批判されること(いまなら SNSで炎上すること)を区別できないのだ。 ヒトは数百万年かけて、どんなことをしてでも自尊心を高く保つ一方、自己肯定感が下がる事態を死にものぐるいで避けるように進化してきた。 相手との会話で自分の能力を(無意識に)過大評価するのは、暴力から身を守るのと同じで、きわめて自然な反応だ。それに対して、会話なしの条件では自尊心は脅威にさらされないので、自信のなさを正直に伝え、より自信がある者に合わせることができるのだろう。 ここからわかるのは、話し合いのときに、一部のメンバーの自尊心を脅かすと、決定の質が大きく下がることだ。なぜならそのメンバーは、傷ついた自尊心を回復するためになりふりかまわなくなるから。 それ以上に問題なのは、一見、自信たっぷりに振る舞っていても、内心は強い不安を抱えている者が会議の場にいることだ。このタイプはつねに自尊心を高めなくてはならないので、話し合いの最中に頻繁に「マウンティング(優位性の誇示)」を行なう。なぜなら、自分より劣った者がいることを確認すると自尊心が上昇するから。 誰でも思い当たるだろうが、こういうタイプはどこの会社にもいる。それが上司や役員になると、意思決定は悲惨なことになる。 だがこうした状況でも、破滅的な事態を避ける方法がないわけではない。それは、集団での意思決定をしないことだ。 創業者のワンマン経営で会社が急成長するのは、日本だけでなく、アップルやアマゾン、テスラを見てもわかるように世界的な現象だ。だとすればこれは、文化のちがいではなく、ヒトの本性だと考えるほかはない。 ワンマン企業が成功する(可能性がある)のは、「独裁者」の意思決定によって「バカに引きずられる」効果を避けられるからなのかもしれない。

9 バカと利口が熟議するという悲劇 ここ何回か、「バカに引きずられる効果」について書いた。わたしたちは自分をつねに「人並み以上」だと思っていて、能力のない者が実力を大幅に過大評価する一方、第一印象では相手を「平均的」と見なすため、能力の高い者は(相手も同じくらいだろうと思って)自分の成績を過小評価し、結果として、バカと利口が「熟議」すると悲惨なことになってしまうのだ。 この「平均効果」で、現代社会で起きているさまざまな混乱をうまく説明できる。 ツイッターなどの SNSでは、すべての発言が平等に表示される。これはかつて「言論空間の民主化」ともてはやされたが、やがて陰謀論の温床になることがわかり、当初の熱狂はすべて消え失せた。 見ず知らずの相手の発言を評価するとき、わたしたちは実績よりも「自信」を参考にする。どれほどバカげた主張でも、相手が自信たっぷりだと思わず信じてしまうのだ。「相手のことをとりあえず信用する」のがデフォルトになっているのは、ヒトの本性が性善説だからではなく、脳の認知能力に限界があるからだ。 わたしたちは日々膨大な選択を迫られ、次々と判断を下しながら生きている。そんななかで、ひとつのことをじっくり考えて、なにが正しいかを決めるのはものすごく大きなコストがかかる。 過酷な環境で素早い判断をしなければ生き延びられないなら、もっとも効果的なのは「デフォルト」を決め、それに反した「異常」な出来事だけに関心を向けることだ。これで「考える」ことを最小限にし、希少な認知資源を無駄にしなくてすむ。 人類は数百万年にわたって、濃密な共同体で狩猟採集をして暮らしてきた。そのような環境では、相手の言葉をとりあえず信じるのが最適戦略だ。「いいひと」はだまされてヒドい目に遭うこともあるだろうが、そのときは不正を大声で言い立て、周囲の同情を買うことで相手に制裁を加えられる。 誰もが隣人の私生活を知っている「超監視社会」では、相手をだます =悪い評判が立つと共同体から排除されてしまう。旧石器時代には、それは即座に「死」を意味しただろう。このようにして、正直に振る舞うことと、相手を信用すること、すなわち「性善説」が報われるよう進化したのだ。 だがこの評判システムは、ウソをついた者を特定して制裁する「暴力装置」がないとうまく機能しない。無条件でなんでも信用するお人好しからどれほど搾取しても罰せられないなら、いいようにだまして得しようとする「性悪説」がのさばるに決まっている。 こうして、人口が増えてだまされるリスクが大きくなるにつれて、信用を補完するさまざまな社会制度が生まれた。かつてはそれは身分やイエだったが、いまでは学歴や資格、所属する組織だ。わたしたちは、医師・弁護士などの国家資格者や国家公務員、一流企業の社員を無条件で信用している。 だが SNSには、こうした信用を補完するものがほとんどない。本名なら経歴を検索できるが、匿名アカウントには使えない。フォロワーの数を知ることはできるが、それが信用力と連動している保証はない。 それにわたしたちは、匿名の信用力が本名に劣るとも思っていない。隠蔽された事実を暴くために、匿名にせざるを得ないかもしれないのだ。 ひとは「進化の設計図」によって、 SNSの投稿をデフォルトで(とりあえず)信用する。これを巧妙に利用しているのが、「反ワクチン」派のプロパガンダだ。 典型的なのは、「医療関係者ですが、健康だった知人がワクチン接種の翌日に突然死し、そのことはいっさい報じられていません」という類の匿名投稿だ。ほんとうに医療関係者なのか、接種後の突然死が実際にあったのか、検証は不可能だが、だからといってつくり話と決めつけることもできない。 このようなとき性善説では、「そんなこともあるかも」とデフォルトで信用する。疑うためには、そのアカウントの過去の投稿を調べたり、批判的なコメントを読んだりしなければならないが、わざわざそんなことをするひとはほとんどいない。なぜなら「面倒くさい」から。 脳は大量のエネルギーを必要とする器官なので、ふだんは自動運転に任せ、認知的な能力を徹底的に節約するようにできている。いったん「信じる/信じない」と決めてしまったら、よほどのことがないと、その判断を見直そうとは思わない。 さらに問題なのは、「平均効果」によって、自分の判断を(大幅に)過大評価してしまうことだ。この状況で自分とは異なる主張に接すると、それを個人攻撃だと思う。これは不思議な現象だが、不特定多数に向けた発言でも、面と向かって「お前はバカだ」といわれたように感じるひとが一定数いるようなのだ。 ひとは攻撃されれば反撃するし、自尊心を守るためにはどんなことでもする。 SNSで執拗に誹謗中傷を繰り返すのは、傷ついた自尊心を回復しようとする死にものぐるいの抵抗なのだろう。 自分の方が優位だと思っている相手から批判されると、アイデンティティへの重大な脅威になる。 自分が白人であることしか誇るものがないのが「白人至上主義者」だが、ネトウヨは「日本人」であることしか誇るものがない。その壊れやすいアイデンティティに必死にしがみつくことが、敵対する者に「反日」のレッテルを貼って「在日認定」するという奇妙な現象を生んだ。「女は男より劣っている」というジェンダー観をもっている場合は、男性中心主義への批判を異常に敵視するようになる。これが「ミソジニー(女嫌い)」で、それに対抗して「フェミニスト」が男社会を過剰に敵視する傾向も、日本だけでなく世界じゅうで起きている。 このようにして SNSでは、なにが事実でなにがフェイクか検証されないまま、異なるアイデンティティをもつ者が互いに「部族(トライブ)」をつくって罵詈雑言をぶつけあうようになった。 致命的なのは、脳にはネット上のたんなる言い合いと、部族間の殺し合いの区別がつかない(らしい)ことだ。進化の過程に SNSなどなかったのだから、それに適応できるはずがない。こうして、ささいな対立が収拾のつかない混乱へと拡大していく。 このやっかいな問題を解決するには、投稿者一人ひとりを(マイナンバーなどで)本人と紐づけて、ルール違反を即座に処罰できるようにしなければならない。それに加えて、投稿者の信用度を評価して公開し、一定以下だと SNSから排除する仕組みも必要だろう。 原理的に考えれば、バカを排除する以外に、「バカに引きずられる効果」から逃れる道はない。このように考えると、どんどん隣の大国に似てくるが、性悪説のぎすぎすした社会ではなく、性善説を守ろうとすればこうなるほかないのかもしれない。

10 過剰敬語「よろしかったでしょうか」の秘密 真っ暗な部屋のなかで赤、青、黄色のランプがときどき光る。あなたの前に3つのボタンがあり、赤は右、青は左、黄色は真ん中を押す。脳の気持ちになってみるなら(なりたくないだろうが)、 1日 24時間、こんな退屈なことばかり繰り返している。 この作業では、なぜ赤のランプが光ったのかを考える必要はない。家族の死のような悲劇に見舞われたのかもしれないし、たんに水が冷たかっただけかもしれないが、理由の如何にかかわらず自動的に右のボタンを押すだけだ。 心理学者は、こころと身体がつながっていることにずいぶん前から気づいていた。 親から叱られて泣きさけぶ子どもは、転んで怪我をして泣く子どもと(脳のレベルでは)同じ経験をしているのではないか。この疑問は 1970年代に、生後まもないサルに強力な鎮痛作用のあるモルヒネを投与する実験で確かめられた。痛みを感じなくなった子ザルは、母ザルから引き離されても泣かなくなったのだ。 痛みは生存にとってきわめて重要な情報なので、さまざまなルートで脳に伝えられる。 皮膚や軟部組織にはいたるところに痛みのセンサーとなる侵害受容器があり、圧力や温度などが一定のレベルを超えると脳に信号を送って、それが痛みとして知覚される。だがそれ以外にも、視覚(強烈な光)や聴覚(爆音)など他の感覚器官も痛みの信号を送っている。だとしたら、社会的な危機(子ザルにとっては母親から引き離されることは重大な生存への脅威だ)で脳に痛みの信号を送るのは理にかなっている。 このことは 2003年に、サイバーボールというコンピュータゲームを使った実験で、脳科学のレベルで確かめられた( 5)。 脳画像撮影装置に入った被験者は、他の 2人とディスプレイ上で仮想のキャッチボールをする。だがしばらくすると、 2人は被験者を除け者にして自分たちだけでボールを回すようになる。 じつはこれはコンピュータのプログラムなのだが、被験者は理由もなく仲間外れにされたように感じる。このときの脳の様子を観察すると、身体的な痛みと関係している部位(背側前帯状皮質と前島)の活動が高まっていた。 次いで研究者は、被験者に面接を受けさせ、評価者のさまざまなコメントを伝えた。このとき「つまらない」など批判的なコメントを聞いた被験者の脳は、やはり身体的な痛みを感じる部位の活動が高まった。 仲間外れにされたり、他者から批判されることと、殴られたり蹴られたりすることを、脳はうまく区別できないらしい。いずれの場合も、脳内では同じ赤のランプが光るのだ。 ひとは、共同体のなかでの評価を自尊心によって計測するよう進化してきた。高い評価を得る(青のランプが光る)と自尊心メーターの針が上がり、高揚感と強い幸福感をおぼえる。逆に低い評価をされる(赤のランプが光る)と、不安や絶望に打ちのめされる。 わたしたちはつねに、(無意識のうちに)できるだけ多くの青いランプを集め、赤いランプを徹底的に避けようとしている。 痛みの特徴は、他の感覚とは異なって、即座の対処が必要なことだ。火災報知機が鳴っているときに、のんびりテレビを見ていては焼け死んでしまう。赤いランプが光ったら、なんらかの攻撃を受けているのだから、放置してすますことはできない。 こうした状況は「闘争か逃走か」で知られるが、近年は「 Flight(逃走)、 Fight(闘争)、 Freeze(すくみ)」の「 3 F」と呼ばれるようになった。 攻撃を受けたとき、生き物はまず逃げようとし、それが無理なら反撃する。逃げることも闘うこともできない絶体絶命のときは、体温と心拍数を下げ、胃や腸内のものを排泄し、意識を失う。なぜ「死んだふり」をするかというと、一般に捕食者は死んだ動物の肉を食べないからだ。 学校のいじめにおいては、いじめられた子どもは逃げることも闘うこともできずフリーズする。だがこれは、脳にとっては大音量で警報が鳴っている状態なので、日常化するとさまざまな深刻な精神症状が現われる。そう考えれば、いじめ問題の本質は、学校という逃げ場のない空間に同世代の子どもたちを〝監禁〟するという、進化の歴史ではあり得ない「異常な文化」にあるのだろう。 いったん自尊心への脅威だと見なすと、脳はただちに「攻撃モード」になるので、相手の言葉に耳を貸そうとはしない。この時点で、もはや熟議も説得も不可能になっている。 かつては、年長者(先輩)は年下(後輩)に、男は女に優越的に振る舞うのが当然とする文化規範があった。共同体の構成員全員がこの規範に従うのなら、「身分」に則った言動が自尊心を傷つけることはない(みんな同じで、しかたのないことだから)。 教育が成立するには、教師と生徒は「身分」がちがわなければならない。「学校はそういうところ」という合意が教師や生徒、親(地域社会)のあいだで成立していてはじめて、教師は生徒を叱りつけることができる。 ところが社会のリベラル化が進み、生徒が教師と対等だと思うようになると、叱責は自尊心への攻撃と見なされる。こうして教師―生徒の制度的な枠組みが壊れ、「校内暴力」や「学級崩壊」が起きることになった。近年、生徒たちがおとなしくなったのは、教師が生徒と「友だち」として接するようになり、自尊心を傷つけなくなったからだろう。 社会がリベラルになり、すべてのひとが平等の権利を保障されるのはもちろんよいことだが、人間関係がフラットになると、どんな言葉が相手を傷つけるかわからなくなる。こうして若者たちは、「よろしかったでしょうか」のような過剰な敬語を使うようになり、会社でも上司が部下に敬語で話しかけるのが当たり前になった。いまや、すべての会話が相手の自尊心を傷つけないよう、細心の注意を払って行なわれている。──興味深いのは、アメリカでは平社員が上司ばかりか社長まで名前で呼び捨てにするという逆の方向(カジュアル化)で形式上の平等が達成されていることだ。 だがこれは、相手の反応が目に見え、人間関係を紛糾させると自分が不利になるとわかっている場合の話だ。ところが SNSでは、多くは匿名で意見の交換が行なわれ、テキストの向こうに人格を想像することは難しい。 古今東西の歴史をひもとけばわかるように、人間は匿名の陰に隠れるとかぎりなく残酷になる。戦場で想像を絶する残虐行為が行なわれるのは、軍隊が個人ではなく匿名の「兵士」の集団だからだ。 SNSは人類の進化には存在しない環境で、自分は安全な場所にいながら、相手を一方的に攻撃できるという、言論空間のプラットフォームとしては最悪の環境をつくり出した。そこでは、ささいなことで自尊心を傷つけられたと感じた者たちが罵詈雑言や誹謗中傷をぶつけ合っている。 ここまでは、人間の本性からの論理的帰結だ。悩ましいのは、だったらどうすればいいかの答えが、まだどこにもないことだ。

11 日本人の 3人に 1人は日本語が読めない? 集団ですぐれた意思決定をするための条件は、人種、民族、国籍、宗教、性別、性的指向などが異なるメンバーを集める多様性と、その全員が一定以上の能力をもっていることだ。このふたつの条件を満たすと、多様な意見が「化学反応」を起こし、とてつもないイノベーションが生まれる可能性がある。 ところが、自然に生まれる集団ではこれとは逆のことが起こる。 ひとは生得的に、自分と似た者に惹かれる性質があるので、アメリカのような多文化社会では、人種や民族、宗教ごとにコミュニティがつくられるが、知能や学力で選別するようなことはない。知識社会は産業革命以降に成立したので、そんなグループ分けをする本能は脳に埋め込まれていない。だからこそ有名大学やシリコンバレーの I T企業は、人為的な方法(入学試験や高報酬)で能力の高い者だけを集めているのだ。 その結果わたしたちは、なんの多様性もなく、知能・能力だけが大きくばらついている社会で暮らしている。これが、民主政を擁護するひとたちの期待に反して、「熟議」が混乱しか生まない理由だろう。 では、知能はどの程度ばらついているのか。これについては「日本人の 3人に 1人は日本語が読めない?」として何度か書いたことがあるが、重要な「ファクト」にもかかわらずほとんど誰も触れようとしないので、ここであらためて述べておこう。 PIAAC(国際成人力調査)は PISA(学習到達度調査)の大人版で、 OECD加盟の先進国を中心に、 24カ国・地域の 16 ~ 65歳約 15万 7000人を対象に、 2011 ~ 12年に実施された( 6)。 ヨーロッパでは若者を中心に高い失業率が問題になっているが、その一方で経営者から、「どれだけ募集しても必要なスキルをもつ人材が見つからない」との声も寄せられていた。プログラマーを募集したのに、初歩的なプログラミングの知識すらない志望者しかいなかったら採用のしようがない。 そこで、失業の背景には仕事とスキルのミスマッチがあるのではないかということになり、仕事に必要な「読解力」「数的思考力」「 I Tスキル」を実際に調べてみたのだ。 PIAACの問題はレベル 1から 5まであり、レベル 3は「小学校 5年生程度」の難易度とされている。「読解力」のレベル 3の問題例では、図書館のホームページの検索結果を見て、「『エコ神話』の著者は誰ですか」という問いに答える。あまりに簡単だと思うだろうが、正解するためには、問題文を正しく読めるだけでなく、「検索結果をスクロールし、そこに該当するものがなければ『次へ』の表示をクリックする」というルールに気づかなくてはならない。 この問題に正答できない成人は日本では 27・ 7%で、 3 ~ 4人に 1人になる。 レベル 4の問題では、 150字程度の本の概要を読んで、質問に当てはまる本を選ぶが、日本では 8割近い( 76・ 3%)成人がこのレベルの読解力をもっていない。ツイッターの文字数の上限は 140字なので、 5人のうち 4人は書いてあることを正しく理解していない可能性がある。「数的思考力」のレベル 3は立体図形の展開で、日本の正答率は 62・ 5%だ。レベル 4は単純なグラフの読み取りで、ビジネスでは必須の能力だが、このレベルに達しているのは日本人の約 2割( 18・ 8%)しかいない。 「I Tスキル」のレベル 3では、メールを読んで会議室の予約を処理する。事務系の仕事では最低限必要な能力だと思うが、日本人でこれをクリアしたのはわずか 8・ 3%だけだ。 この結果をまとめると、次のようになる。 ①日本人のおよそ 3分の 1は「日本語」が読めない。 ②日本人の 3分の 1以上が小学校 3 ~ 4年生以下の数的思考力しかない。 ③パソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は 1割以下しかいない。 だが驚くのはこれだけではない。この惨憺たる結果にもかかわらず、日本人の成績は先進国で 1位だったのだ。 OECDの平均をもとに、先進国の労働者の仕事のスキルを要約すると次のようになる。 ①先進国の成人の約半分は簡単な文章が読めない。 ②先進国の成人の半分以上が小学校 3 ~ 4年生以下の数的思考力しかない。 ③先進国の成人のうち、パソコンを使った基本的な仕事ができるのは 20人に 1人しかいない。 だがこれは、一般に知られていないだけで、専門家には周知の事実だったはずだ。 PIAACに先んじて、アメリカでは仕事に必要な成人のリテラシーを計測するために、 1985年、 1992年、 2003年に大規模な「全米成人識字調査」を行ない、「文章リテラシー」「図表リテラシー」「計算リテラシー」を調べている。その結果を要約すると、以下のようになる( 7)。 ①アメリカの成人の 43%は仕事に必要な文章読解力がない。 ②同じく 34%は仕事に必要な図表課題をクリアできない。 ③同じく 55%は仕事に必要な計算能力がない。 なお、この調査では学歴別の結果も調べており、高度な事務作業に必要な計算スキルをもつ成人は大卒では 31%だが、高卒では 5%、高校中退では 1%しかいない。この「学歴(知能)格差」によって白人労働者層が仕事を失い、トランプ前大統領の岩盤支持層になった。 これらの結果は衝撃的だが、学力(偏差値)がベルカーブになることを考えれば当たり前でもある。 正規分布では、平均(偏差値 50)から 1標準偏差離れた、偏差値 40 ~ 60の範囲に 68・ 3%の事象が収まる。 2標準偏差離れた偏差値 60 ~ 70と 30 ~ 40はそれぞれ 13・ 6%、 3標準偏差離れた偏差値 70 ~ 80と 20 ~ 30はそれぞれ 2・ 15%だ。 日本では高い偏差値ばかりが注目されるが、人口のおよそ 6人に 1人は偏差値 40以下だ。だがこのひとたちは、高度化する知識社会のなかで「見えない存在」にされている。

問題は、知識社会が(無意識のうちに)ひとびとの知能を高く見積もっていることだろう。 税務申告書から生活保護の申請まで、説明を読んで役所の書類を正しく記入するためには、偏差値 60( MARCHや関関同立)程度の能力が必要になる。そうなると、自力で申請できるのはせいぜい 5人に 1人で、残りは(お金を払って)誰かに頼るか、あきらめるしかない。 この現実に気づかないのは、社会を動かしているのが高学歴のエリートで、自分のまわりにも同じような高学歴しかいないからだ。 ダチョウは、追いつめられると頭を砂に埋めるという(事実ではないらしいが)。「民主主義」を信じているひとたちも、それがうまくいかないと、「知能の格差」という不愉快な事実から目を背け、このダチョウのように、「資本主義批判」という砂のなかに頭を突っ込んで安心しようとするのかもしれない。

12 投票率は低ければ低いほどいい バカと無知はちがう。バカは能力の問題だが、無知は問題解決に必要な知識を欠いていることだ。あなたがどれほど賢くても無知な可能性はあるし、実際にはほとんどのことで無知だろう。 わたしたちが無知なのは、現代社会がものすごく複雑だからだ。日常のあらゆる疑問(飛行機はなぜ飛べるのか?)に対して厳密な知識を得ようと思えば、二つか三つで人生が終わってしまう。──研究者というのは、たった一つの疑問を生涯考えつづけるひとのことだ。 もちろん、すべてのことに無知だと生きていくことができない。そのためわたしたちは、きびしい制約( 1日は 24時間で、睡眠時間を除けば 16時間程度しかない)のなかで、なんとか必要最低限の知識を手に入れようと四苦八苦している。 テレビやパソコンを買うときは、すべてのメーカーのモデルを詳細に比較するのではなく、知人や家電量販店の店員のアドバイス、インターネットの評判などを参考に、条件に合いそうなものを決めるだろう。ベストな選択ではないかもしれないが、大量の情報を入手・検討するコストを考えれば、ベターな選択の方がコスパがいいのだ(限定合理性)。 政治学では、有権者の「政治的無知」がずっと喉に刺さった小骨のようになっている。民主政(デモクラシー)では、公正な選挙によって国民の正当な代表が選ばれるが、あらゆる調査において、有権者は投票に必要な基本的な知識をもっていないことが明らかになっているのだ( 8)。「政治的無知」の調査はアメリカで詳細に行なわれていて、それによると、平均的なアメリカ人は大統領が誰かは知っているが、それ以外の知識はきわめて心もとない。「経済が重要だ」というひとでも、失業率や経済成長率をおおよそでも知っている割合は半分以下だ。上院と下院でどの政党が多数派なのかの正答率も 5割を切っている。しかもこれは選択式の質問なので、あてずっぽうでもある程度は正解できる。それを考慮すると、基本的な政治知識をもっている有権者は(よくても) 2 ~ 3割程度しかいない。 この結果を見て「アメリカ人はバカだなあ」と笑っているわけにはいかない。 2014年の国際調査では、平均的な日本の回答者は、失業率を大幅に過大評価し、殺人件数が減少ではなく増加していると誤解し、移民の割合を実際より 5倍も多いと信じていた。 それでも日本の成績は 14カ国中 3位(上位はドイツとスウェーデン)で、 13位のアメリカよりずっとマシだが、日本人の約 3分の 2は政府の 14の省庁の名前を半分もあげられず、大半は自分の選挙区の国会議員立候補者についてほとんど知識をもっていない。これでは「目糞鼻糞を笑う」で、ぜんぜん自慢できることではない。 国政選挙のような大規模な投票では、一人ひとりの一票の価値はかぎりなく小さく、アメリカ大統領選では 1000万分の 1から 10億分の 1とされる(州によって異なる)。議院内閣制の日本では計算はより複雑になるが、自分の一票で候補者が当選し、その候補者の所属する政党が(連立を含めて)国会で多数を占めて政権をとる確率は、せいぜい数百万分の 1だろう。これは要するに、「一票の価値はほぼゼロ」ということだ。 経済学が予想するように人間が合理的ならば、無価値なことのためにわざわざ投票所に行くはずはない。だが実際には、 1990年までは国政選挙の投票率は 7割程度を維持していたし、それ以降はかなり下がったものの、それでも有権者の半分は投票に行っている。 このことは、「合理的経済人」という経済学の前提が間違っている例としてよく挙げられるが、はたしてそうだろうか。 学校では「投票は国民の義務」と教えられ、社会人になれば(あるいは大学生でも)「選挙に行った?」と訊かれる機会は増える。民主的な社会では、「選挙に行かなければならない」という(かなり強い)同調圧力がかかっている。 もちろん、行っていないのに「行きました」と答えることはできるが、ウソをつくのは気分が悪いだろう。だったら、投票してすっきりしたいと思わないだろうか。 日曜に出かけるついでに近所の投票所に立ち寄るだけなら、じつはコストはそれほど大きくない。同調圧力に対処するためにささやかな負担をするひとが半分いることは、不思議でも何でもない。 だとしたら、真のコストはどこにあるのか。それは、候補者の詳細な情報を入手・検討し、誰に投票するかを決めることだ。 正しい投票のためには、自分がどのような政治を望んでいて、それに対して現状がどれほどかけ離れていて(あるいはうまくいっていて)、各候補者が掲げる政策がどのような影響を与えるのかを知る必要がある。「価値はほぼゼロ」なのに、こんな面倒なことをするひとがいるだろうか(すくなくとも私はやらない)。 ここから、有権者にとって合理的なのは「棄権」ではなく、「候補者についてなにも知らずに投票する」ことだとわかる。そのとき多くのひとが使うのがショートカット(思考の近道)で、「知り合いから頼まれた」「テレビで見た」「親の代から投票する政党を決めている」などの理由があれば、候補者選びのコストは大きく下がる。現実には、このように投票するひとがほとんどではないだろうか。 賢いひとも、政治については「合理的に無知」になる。なぜなら、その時間をほかのこと(仕事や趣味)に使った方がずっと有意義だから。 ここまではいいとして、有権者が「合理的に無知」だとすると、選挙で正しい選択ができるのだろうか。 この難問に対して、「過去の実績を参照する」「争点を絞る」「集計の奇跡(みんなの意見は案外正しい)」などの救済案が唱えられたが、どれもうまくいくとは到底いえない。当たり前の話だが、なにも知らずに適当に選んだテレビやパソコンが、自分にとって最善(に近い)などという都合のいい話があるわけがないのだ。 この懸念は、 2016年のイギリスの EU離脱を決めた国民投票とトランプ大統領誕生によって現実化した。有権者の政治的無知こそが、ポピュリズムのちからの源泉なのだ。 だったらどうすればいいのか。名案はないが、一つだけ確かなのは、無知な投票者が減れば、それだけ「民主的な決定」に近づくことだ。 投票率の低下が「民主主義の危機」として憂慮されている。だが有権者の大半が「合理的に無知」だとすれば、投票率は低ければ低いほどよいことになる。なぜなら、政治家・政党に投票する明確な理由があるひとだけが残るのだから。 とはいえ、さまざまな調査で、自分の信念を守るために投票するひとたちが一定数いることがわかっている。「コアな投票者」は右と左の極端なところに偏っているので、彼らに任せて「よりよい政治」が実現できるかは、正直、かなりこころもとないものがある。

13 バカでも賢くなれるエンハンスメント 2・ 0の到来 身長や体重、あるいは足の速さなどと同様に、知能にはばらつきがあり、それはほぼベルカーブ(正規分布)になる(学生時代によく見せられた偏差値のかたちだ)。 教育幻想というのは、この不都合な事実を隠蔽するために、「学力は教育によって向上する(向上しなければならない)」とするイデオロギーだ。教育神話がどれほど魅力的かは、学年ビリのギャルが慶応大学に合格した話がベストセラーになったことからもわかるだろう。 これは日本だけの現象ではなく、アメリカでは貧困家庭に育った生徒が、熱心な教師やボランティアの支援を受けてハーバードなど一流大学に入学したことが定期的に話題になる。親も子どもも教育関係者も、みんな「教育は素晴らしい」というお話を信じたいのだ。 だが不思議なことに、底辺の生徒の学力を大きく引き上げた(とされる)数々の教育手法は、最初はメディアで大々的に報じられるものの、そのうち誰も触れなくなって忘れられていく。 なぜこんなことが繰り返されるかというと、どうやら当初の素晴らしい成果は、劣悪な環境のなかから優秀な子どもを発掘しているかららしい。つまり、ビリギャルが優等生に変身するのではなく、もともと優秀な女の子がたまたま〝ギャル〟をやっていたのだ。 ノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ヘックマンは、リベラリストとして格差拡大に胸を痛めていたが、その一方で経済学者として、格差解消に際限なく税を投入することには慎重だった。そこで、教育によってこの状況を改善しようと膨大な論文を渉猟し、幼児教育が重要であることを突き止めた。 ここまではよく知られているが、なぜヘックマンが就学前教育を重視したかというと、それ以降の教育が学力をほとんど向上させないという事実を受け入れざるを得なかったからだ。政府の教育資源にかぎりがある以上、まんべんなくばらまくのではなく、エビデンスによって費用対効果が確認されている貧困層の幼児に投資を集中すべきだとヘックマンは主張した( 9)。 その後、子育てへの介入は早期であればあるほど効果が高いとされ、「幼児教育」は 5歳から 3歳、ゼロ歳へと遡り、最近では胎内環境が重要だといわれる。そうなれば、あとは遺伝子しか残っていない。 それでは、幼児期が過ぎてしまったらどうすればいいのか。 幸いなことに、脳はかつて思われていたよりもずっと可塑的で、変化しやすいらしい。ロンドン市内のすべての道路と、一方通行など複雑なルールを記憶しなければならないタクシー運転手の海馬(脳の記憶領域)が成長していることがわかって話題になったこともある。だがそれにもかかわらず、成人の学力を引き上げる画期的な教育方法はまだ見つかっていない。 しかし、希望が失われたわけではない。脳の認知領域を物理的に刺激することで「賢くなる」ことが可能だからだ( 10)。 DBS(脳深部刺激療法)は、頭蓋骨を切開したうえで脳の特定部位に電極を埋め込む。 1950年代のアメリカで同性愛の「治療」に使われたことで批判を浴び、ロボトミーや電気ショックとともに葬り去られたが、近年、パーキンソン病の治療法として復権し、投薬や心理療法の効かない難治性うつ病に劇的な効果があるとして注目を集めている。 興味深いのは、 DBSで認知機能が向上したとの報告が相次いでいることだ。 ドーパミンを分泌させる報酬系(側坐核)を電気刺激すると幸福度が上がるので、不安障害やうつ病の治療に使われている。するとその副産物として、「言語能力から複雑な問題解決能力にいたるまで」さまざまな認知領域が活性化された。記憶力を増強する効果もあり、ある研究では、「とうの昔に忘れていた人生の出来事が、力強い生き生きとした映像になってあふれだしてきた」という。 アルツハイマー病は脳の神経細胞が壊死する疾患で、記憶力や判断力が失われていく。そこで前頭葉に電極を埋め込み、刺激することで症状の悪化を遅らせる治療が試みられているが、これを一般の被験者に行なうと、記憶能力を 30%増強できるとの研究がある。 DBSを使って勉強や仕事のモチベーションを上げることも可能だ。 2013年に発表されたスタンフォード大学の実験では、もともと性格のちがう 2人のてんかん患者の中帯状皮質前方部に電極を埋め込み、微弱な電気刺激を与えた。すると 2人とも、「何かしなければ、何かに取り組まなければ」という強い持続的な意欲を感じたという。 D BSでは、人格まで変わってしまうかもしれない。すくなくとも電気刺激によって、(ロックからカントリー・ミュージックへ)音楽の好みがまったく変わってしまった事例が報告されている。 頭蓋骨を切開するのはハードルが高いが、 tDCS(経頭蓋直流電気刺激)では、頭皮に直接、低レベルの電流を流すだけで数学、語学、その他の学習スキルなどが向上した。 大きな電磁コイル(磁石)を頭皮にあてる TMS(経頭蓋磁気刺激)は 1980年代に開発され、一時期はオカルト療法の類とされたが、やはり抑うつ治療として復権した。これも、記憶力や想起スピードを向上させる効果が確認されている。「賢くなる薬」も開発されている。 AD H D(注意欠如・多動性障害)の治療薬として、アメリカではリタリンなどの中枢神経刺激薬が大量に処方され、子どもの頃からこうしたドラッグに馴染んでいる。そのため、大学生の 4 ~ 25%が学業成績を上げるために神経増強薬を使っており、知的能力が要求される職業でも使用が広がっているという。 脳のエンハンスメント(増強)が夢物語だった時代は終わり、いまや現実のものになりつつある。最初は発達障害の子どもの治療などに使われるのだろうが、そうなると一般の(裕福な)親も、同じテクノロジーを用いて自分の子どもの脳を増強したいと思わないだろうか。 これについてはすでに議論になっていて、「ある領域の認知機能を強化すると、別の領域の能力が低下する」可能性を危惧する研究もあれば、「適切な範囲でいちばん早い年齢で介入し、その子の人生の過程で最大の効果が得られるようにすべきだ」との主張もある。 優生学は人間を家畜と同じと見なし、適性がある(とされた)者同士を交配させれば人類はより早く進化するとして、ホロコーストのような悲劇を生んだ。それに対して、遺伝子スクリーニングや遺伝子編集などのテクノロジーを、親が子どものために自由意志で利用するのが「優生学 2・ 0」だ。 これについては議論百出で意見の一致は簡単ではないだろうが、わたしたちはそれよりもずっと早く、脳を DBSや TMS、あるいはドラッグで増強する「エンハンスメント 2・ 0」の時代を迎えるかもしれない。

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