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PART Ⅲ やっかいな自尊心

PART Ⅲ やっかいな自尊心

14 皇族は「上級国民」 15 「子どもは純真」はほんとうか? 16 いつも相手より有利でいたい 17 非モテ男と高学歴女が対立する理由 18 ほめて伸ばそうとすると落第する 19 美男・美女は幸福じゃない? 20 自尊心が打ち砕かれたとき 21 日本人の潜在的自尊心は高かった 22 自尊心は「勘違い力」 23 善意の名を借りたマウンティング 24 進化論的なフェミニズムへ

14 皇族は「上級国民」 自尊心をめぐる闘争ほどやっかいなものはない。面と向かって罵倒されたり、 SNSで罵詈雑言を浴びせられることは、脳の生理的反応としては、殴られたり蹴られたりするのとまったく同じに感じられる。 皇族の一人がまさにこのような状況になって、複雑性 PTSD(心的外傷後ストレス障害)と発表された。病名について異論はあるかもしれないが、「殴る蹴る」の精神的暴行を数年にわたって受けつづければ、こころに深い傷を負うのは当然だ。 いちばんの問題は、皇族やその関係者には、直接反論したり、裁判で名誉毀損を訴えることが事実上、封じられていることだ。これは反撃できない者を徹底的にいたぶるのと同じで、「集団リンチ」以外のなにものでもない。 さらにグロテスクなのは、「あんな男と結婚したら不幸になると、善意のアドバイスをしただけだ」などと述べる者がいることだ。そもそもなぜ、わずかな税金を払っているというだけで、見ず知らずの他人の恋愛や結婚に口出しする権利があるのか。自ら選んだわけでもない「身分」によって、どんな誹謗中傷にも耐えなくてはならないのなら、自由や人権、プライバシーの保護はどうなるのか。 哲学者サルトルは、「地獄とは、他人だ」と書いたが、彼女はまさに「善意の他人」という地獄を体験したことになる。 自尊心というのは、そのひと固有のパーソナリティというよりも、他者との関係性で決まるものだ。相手に対して圧倒的に優位なら、自尊心が傷つけられることはない。たいていの親が幼い子どもに反抗されてもなんとも思わないのは、大きなちからの差があるからだ。これが愛情の問題でないのは、思春期の子どもが反抗すると、(親の優位性が失われつつあるので)しばしば逆上することからもわかるだろう。 アメリカの白人は圧倒的なマジョリティだったので、有色人種(黒人)から批判されてもなんとも思わなかった。冷戦終結後のアメリカは唯一の超大国で、圧倒的な軍事力で世界に君臨していたので、反米運動にもさしたる関心はなかった。 近年、アメリカの人種問題が再燃しているのは、レイシズムが強まったというよりも(異論はあるだろうが、人種を理由にした犯罪は一貫して減少している)、白人(とりわけ労働者階級)の地位が低下して、優位性がなくなってきたからではないか。イラク・アフガニスタンでの無益な戦争や中国との対立も、アメリカの国力が落ちたことと関係しているだろう。──ロシアによるウクライナへの無謀な侵攻は、ソ連崩壊によって国際社会におけるロシアの優位性が危機に瀕したことを抜きにしては理解できない。 1970年代に田中角栄首相が東南アジアを歴訪したとき、各地で大規模な反日デモが起きたが、国内ではほとんど関心をもたれなかった。当時、アジアのなかで日本の経済力は圧倒的で、中国は文化大革命の混乱の真っ只中だし、軍事政権の韓国は世界の最貧国のひとつだった。多くの日本人は、「貧しい国のひとたちはかわいそう」と思っていたのだろう。 それがバブル崩壊後、日本経済が低迷する一方で、中国を筆頭にアジアの国々が高度経済成長の時代を迎え、日本との差が縮まってきた。いまや中国の GDPは日本の 3倍で、国民のゆたかさの指標である 1人あたり GDPでもマカオ、シンガポール、香港に大きく引き離され、韓国に並ばれようとしている。 その結果、(コロナ前は)日本の庶民には手の届かない名門ホテル・旅館や一流レストランにアジアの富裕層が殺到した。 80年代は、ふつうの OL(死語)が週末の弾丸ツアーで香港に行き、五つ星ホテルに泊まってブランド物を買いあさっていたのだから、その栄枯盛衰には愕然とするしかない。 日本がどんどん「貧乏臭く」なっていく過程と、 2000年以降の嫌韓・反中の排外主義の急速な広がりは見事に一致している。韓国や中国はそれ以前からずっと「反日」だったのだから、この変化は、「アジアで一番」という日本人の自尊心が揺らいだことでしか説明できない。 徹底的に社会的な動物である人間は、集団としての自尊心が低下すると攻撃的になるが、それと同様に、個人としての自尊心が揺らいだときもきわめて危険だ。経済格差が拡大すると、自分が虐げられていると感じる層が増えて、あちこちで怨恨(ルサンチマン)が噴出する。これは世界的な現象で、アメリカではトランプ現象を引き起こし、日本では「上級国民」批判となって表われた。母子が死亡した池袋の交通事故の炎上騒動はその典型だろう。 皇族の結婚問題にしても、ネットに掲載された記事へのコメントを見ると、その大半は「国民の税金で食わせてもらっているくせにわがままだ」という罵倒の類だ。これにもっとも近いのは、生活保護(ナマポ)受給者へのバッシングだ。 皇族とナマポに共通するのは、「働かずにうまいことやって暮らしている」ように見えることだ。それに比べて「下級国民」の自分は、不安定な身分とわずかな給料(あるいは年金)でかつかつの暮らしをしている。建前では「みんな平等」というけれど、生まれや制度の歪みによって、自分より恵まれている者がたくさんいるではないか、というわけだ。 脳は上方比較を「損失」、下方比較を「報酬」と感じるように進化の過程で設計されている。上位の者を引きずり下ろすことは、脳の報酬系を刺激し自尊心を高める効果がある。ワイドショーのコメンテーターといっしょに「義憤」に駆られ、ネットのコメント欄に皇族や婚約者母子への誹謗中傷を書き込むことは、ものすごく気分がいいのだろう。 キャンセルカルチャーは、セレブリティの不品行を「正義」の名の下にバッシングし、その地位を「キャンセルする(奪う)」運動だ。そう考えれば、いま起きているのは皇族に対するキャンセルだ。ネットでルサンチマンを噴出させている者たちが求めているのは、上級国民の特権の剝奪、すなわち天皇制廃止ということになる。 その一方で、皇室に「理想の家族」を求める高齢者層の批判には、(かつては「欠損家庭」といわれた)母子家庭への偏見が垣間見える。だが近代の市民社会で、「親の借金問題を子どもが解決しないと結婚が許されない」などということがあっていいはずがない。 王制や天皇制は、有り体にいえば「身分制」で、自由恋愛が当然とされるリベラルな社会ではきわめて不安定だ。ヨーロッパの王室もしばしばスキャンダルで炎上するが、アジアで孤立する天皇制は、それよりずっと脆弱だ。 皇室はいま、「わたしたちの夢を壊すな」という高齢者(および右翼・保守派)と、「特権は許さない」という「下級国民」からの激しい攻撃を浴びている。そしてこの風当たりは、今後ますます強くなっていくだろう。〝平等〟な社会では「主権者」である市民が絶対化し、政治家や官僚など「権力者」の地位はすっかり地に落ちた。次は皇族の権威が引き下げられて、「国民の下僕」としてしか存在を許されなくなるかもしれない。 果たしてそのとき、天皇は「日本国の象徴」でいられるだろうか。

15 「子どもは純真」はほんとうか? 自尊心は、所属する集団から大きな影響を受ける。 野球やサッカーの熱狂的なファンは、「俺たちのチーム」が勝てば自尊心が高まって歓喜し、負けると自尊心が下がってときに激昂する。それと同時に、自分が属する集団を「善」、相手の集団を「悪」と見なす「善悪二元論」の強固なバイアスがある。人間は徹底的に社会的な動物なので、自尊心や自己肯定感は集団への帰属意識(アイデンティティ)と分かちがたく結びついている。 強い集団に属していると自尊心が高まり、弱い集団だと自尊心は低くなる。現代社会では、「白人/日本人」「男」「異性愛者」などがマジョリティ(強い集団)で、「黒人/外国人」「女」「同性愛者」などがマイノリティ(弱い集団)だ。 アメリカでは 1930年代から、発達心理学者らが「子どもの(人種的)偏見」についてさまざまな方法で調べている( 11)。 黒人と白人の人形を使ったテストでは、子どもたちに「どの人形を選びたい?」「良い人形はどれ?」「どれが悪者に見える?」「ステキな色の人形はどれ?」などと訊く。 就学前の子どもに黒人と白人の写真を見せ、「ここに二人の女の子がいます。一人は醜い少女です。人びとはその子を見たくありません。醜い女の子はどちら?」「ここに二人の男の子がいます。一人は親切な男の子です。ある時彼は湖で溺れている子猫を見つけ助けてあげました。その親切な男の子はどちら?」などと訊くテストもあった。 これらの調査が衝撃的だったのは、「子どもは純真」という神話が根底から覆されたからだ。 3歳を過ぎる頃になると、ほとんどの白人の子どもが黒人を「悪い」と見なし、否定的な感情をもち、「遊び友だちとして好まれることがいちばん少ない」と評価するようになる。白人の子どものこうした傾向は、アジア系やインディアン(アメリカ原住民)に対しても同じように見られる。 ただし、これが「人種的偏見」なのかは議論が分かれる。 幼児が肌の色で好き嫌いを決めるのは、自力で生きていくことができない「弱い」生き物だからだ。自分の世話をしてくれるのは親やきょうだい、いとこたちなのだから、身近にいる者を好きになり、似ていない者を警戒するプログラムが進化の過程で埋め込まれたというのは理にかなっている。そんな(白人の)子どもが善悪の観念をもつようになれば、「好き/嫌い」を「白人 =善/黒人 =悪」と重ね合わせるようになるのも不思議ではない。「子どもの偏見」についての調査が大きな議論を呼んだのは、黒人の子どもたちについてはこの理屈では説明できない結果が示されたからだ。 4 ~ 7歳までの黒人の子どもは、しばしば黒人よりも白人を好んだのだ。 イギリスにおける調査では、白人の 3歳の子どもは 75%の頻度で白人の人形と自分を同一化し、 6 ~ 7歳までにほとんどの子どもが自集団(白人)に属しているという意識(人種アイデンティティ)をもつようになる。 だが 3 ~ 5歳の黒人の子どもたちでは、白人の人形を選ぶか黒人の人形を選ぶかはほぼ半数で、 6 ~ 7歳になっても黒人と同一化する割合は 80%程度だった(年長の子どもたちの間でさえ 90%を超えることはまれだ)。 6 ~ 7歳の子どもにクレヨンで人物を描かせると、白人の子どもたちは、黄もしくはピンクの肌色、ブロンドもしくは茶の髪を描いた。一方、黒人の子どもたちの 44%は白人を描き、 30%は人種があいまいで、黒人を描いた子どもは 24%( 4人に 1人)だけだった。 さらに説明が困難なのは、黒人の人権を向上させる活動に熱心な家庭で育った黒人の子どもほど、白人に対してより強い好意を示したことだ。 なぜこんな不可解なことになるのか。これも、「子どもは弱い生き物」から説明できそうだ。 マジョリティの子どもたちは、自分に似た者に好意をもつことで生き延びることができる。だがマイノリティの子どもの場合、この単純な戦略がつねに成功するとはかぎらない。 子ども(とりわけ乳幼児)はとてつもなくひ弱で、弱い者を守ってくれるのは強い者だ。これが幼い子どもが親(父親)を尊敬し、スーパーヒーローに憧れる理由だが、だとすれば、階層化された社会では、マイノリティの子どもはより「強い」マジョリティの特徴に引き寄せられないだろうか。 子どもは弱いからこそ、〝ちから〟にものすごく敏感だ。アメリカでは、 4歳を過ぎる頃になると、建前では「人種は平等」とされていても、保育園の先生からテレビの登場人物まで、あらゆるところで白人が指導的立場にいることに気づくようになる。このようにして、幼い黒人の子どもが白人の人形を手に取るようになるのだろう。 この(かなり不愉快な)仮説で、リベラルな黒人家庭の子どもがなぜより強く白人を好むのかも説明できる。こうした家庭では、親は子どもに、アメリカ社会は人種によって階層化されているが、それにもかかわらず黒人と白人は平等であるべきだと、幼いときから教えているはずだ。 だが認知能力に限界のある子どもにとって、「平等」を理解するのは困難だ。その結果、親の言葉のなかから「白人が黒人の上位にいる」という社会状況のみを取り出し、「正しい人種教育」をしていない黒人家庭の子どもよりも、白人に引き寄せられるようになるのだと考えられる。「ジェンダー差別から解放された」家庭の年少の子どもたちが、逆に男女の性役割を積極的に受け入れるとの調査もある。この皮肉な現象も、「幼い子どもは〝権力〟に惹きつけられる」とすれば同様に理解可能だろう。子どもは親の言葉をそのまま受け入れるのではなく、自分が理解できるようにしか理解しないのだ。 こうした研究では、「黒人の子どもは白人の子どもより承認欲求が強い」という結果も出ている。こうした決めつけ自体が「偏見」と見なされるかもしれないが、これもマイノリティの自尊心が揺らいでいることから説明できそうだ。 ひとはどんなことをしてでも自尊心を高めたいと(無意識に)思っている。集団(共同体)がそれを与えてくれないのなら、自力で「承認」を獲得するしかない。──「女は男より承認欲求が強い」というかなり性差別的な主張も、同じ理屈で説明可能だろう。 発達心理学では、こうした「偏見」は教育によって 7歳以降、弱まるとされているが、これがヒトの本性だとするならば、教育(説教)でなくなるとは考えにくい。より高度な認知能力と社会性を獲得した子どもたちは、たんに自分の「偏見」を上手に隠蔽する術を学習したのではないだろうか。 人種差別のような社会的に許容されない態度は抑制するものの、

16 いつも相手より有利でいたい 人間は本来、道徳的(利他的)なのか、それとも不道徳(利己的)なのか。この議論が紛糾するのは、生まれ(遺伝)と育ち(環境)の影響をうまく切り分けられないからだ。 だがこの困難は、赤ちゃんの道徳性を調べることでかなりの程度、クリアできる。生まれたばかりの赤ちゃんは、社会や文化の影響を(ほとんど)受けていないだろう。 とはいっても、指差しすらできない赤ちゃんの道徳意識をどうやって調べるのか? じつはよい方法があって、赤ちゃんは興味があるものを長く見つめたり、手を伸ばしたりし、どうでもいいものはすぐに目を逸らすか無視する。 これを使った実験に、次のようなものがある( 12)。 生後 10カ月と 1歳 4カ月の子どもに、ライオンとクマが、ロバとウシにカラフルなコインを配る人形劇を見せた。ライオンはロバとウシにコインを 1枚ずつ配り、クマはコインを 2枚ともロバに与え、ウシにはなにも与えなかった。そのあと、子どもたちにライオンとクマの人形を示したところ、 10カ月児の反応はバラバラだったが、 1歳 4カ月児は公平な分配者であるライオンに手を伸ばした。 別の実験では、 1歳 7カ月児に、オモチャで遊んでいた 2人の子どもが大人に「お片づけしなさい」といわれる場面を見せた。そのあとで、大人は 2人に平等にご褒美をあげるか、 1人にだけ与えた。 2人がそろって片づけをした場合、幼児たちは、 1人だけご褒美をもらった場面のほうを長く見つめた。これは予想( 2人は平等にご褒美をもらえるだろう)とは異なることが起きたからだ。 ところが、 1人が全部片づけをして、もう 1人がずるをして遊びつづけていたときは、大人が 2人に平等に報酬を与えたときのほうが、見つめる時間が長かった。これは、不平等な労働に対しては不平等な報酬(頑張った者がより多くもらうべきだ)を予想していたからだろう。 赤ちゃんは、 2歳になる前から「平等主義者」で、かつ「成果主義」の支持者なのだ。 これらの実験からは、平等や公平などの「正義」は、社会的に学習する以前に、脳のプログラムとしてあらかじめ埋め込まれているらしいことがわかる。チンパンジーにも「公平」の概念がある(同じ立場の相手だけがバナナなどの報酬をもらうとはげしく抗議する)のだから、これはけっして奇異なことではない。 ここまではよい話だが、より成長した子どもの道徳意識を調べると、すこしちがう結果になる。 同じ保育園に通う 3 ~ 5歳児をペアにして、次のような実験が行なわれた。ここでは被験者をメアリーとサリーとしよう。 積み木遊びをしたあと、メアリーとサリーで積み木を片づけるとご褒美のステッカーをもらえる。ステッカーは 6枚で、実験者は「メアリー 1枚」「サリー 1枚」「メアリー 1枚」「サリー 1枚」「メアリー 1枚」「メアリー 1枚」と渡していく。──ステッカーの合計はサリーが 2枚、メアリーが 4枚になる。 ここで実験者は、 7秒間、間を置く。(損をした)サリー役の子どもたちは、多くが「ずるい」と抗議し、メアリーと同じだけステッカーをちょうだいとせがんだ。 それに対して(得をした)メアリー役の子どもたちは、質問されれば、ほとんどが分配は不公平だと認めたが、そのことをさして気にしていなかった。サリー役の子どもから文句をいわれてステッカー 1枚を譲った子どもは、同じ保育園の友だちであるにもかかわらず、 10人に 1人もいなかった。 ここからわかるのは、子どもたちは不公平に敏感だが、それを意識するのは、自分の取り分が他の子より少ない(損をした)ときだけだということだ。 初対面の 4歳から 8歳の子どものペアが参加した別の実験では、ペアの片方の子どもがレバーの操作で 2枚の皿を動かす。この操作によって、自分と相手の手元にそれぞれの皿を届けるか、途中で中身を捨てるかを選択できる。 2枚の皿には何個かのアメが載っていて、ちゃんと届ければ 2人ともアメを手にできるが、中身を捨てると 2人ともなにももらえない。 どちらの皿にも同じ数のアメが載っているときと、分配が自分に有利なときは、操作者の子どもは中身を捨てたりしない。ところが分配が逆になって相手の子に有利だと、どの年齢でも、かなりの確率で皿の中身を両方とも捨てる選択をした。子どもは、見ず知らずの子が自分より多くのアメを手に入れるくらいなら、なにももらわない方がましだと考えるのだ。 5歳から 10歳の子どもたちが、今後知り合う予定のない子どもとオモチャの引換券を分配する実験では、「どちらも 1枚ずつ引換券をもらえる」と「自分が 2枚で相手が 3枚もらえる」を選択できた。 当然のことながら、引換券 1枚よりも 2枚の方が有利だ。ところが多くの子どもが、引換券を 1枚しかもらえない 1対 1の分配を選んだ。 次に、「 2人とも 2枚ずつ引換券をもらえる」と「自分は 1枚で相手はなにももらえない」を選択させた。この条件では、年上の子は 2対 2の分配を選んだが、 5歳児と 6歳児は 1対 0の選択肢を好んだ。幼い子どもは代償を払ってでも、自分が相対的に得をするほうを選ぶのだ。 ここから、子どもにとって重要なのは絶対的な損得(経済合理性)ではなく、相対的な損得(進化的合理性)であることがわかる。なぜこんなことになるかは、わたしたちの祖先がグローバルな市場取引の世界ではなく、最大で 150人程度の濃密な共同体のなかで暮らしていたことから説明できるだろう。 仲間たちと、地位や性愛をめぐって競争している状況を考えてみよう。このとき、自分が 10枚の金貨をもっていても、相手が 11枚なら自分の方が地位が低くなってしまう。 ところがここで、自分が 9枚の金貨を失い、相手が 11枚失う選択があったとしよう。こんな大損する取引はバカバカしいだけだが、それによって自分の金貨は 1枚、相手はゼロで地位が逆転する。 この単純な例から、なぜ幼い子どもが相対的な損得を重視するのかがわかる。地位をめぐる競争では──その社会が生存に必要な水準を満たしているのであれば──絶対的な利益にたいした意味はない。子どもたちの不合理な反応は、認知能力が発達していないからではなく、(おそらくは)遺伝的にプログラミングされたヒトの本性なのだ。 それが成長するにつれて、絶対的な損得を計算して、より合理的な選択ができるようになる。それでも「お互いが平等」が限界で、「相手が有利(自分が不利)」になる選択には大きな抵抗があるようだ。 これは幼児の話だが、大人でも同じではないか。すくなくとも、利益を生む提案を理不尽な上司に握りつぶされた苦い経験があるひとは、このことがよくわかるだろう。

16 いつも相手より有利でいたい 人間は本来、道徳的(利他的)なのか、それとも不道徳(利己的)なのか。この議論が紛糾するのは、生まれ(遺伝)と育ち(環境)の影響をうまく切り分けられないからだ。 だがこの困難は、赤ちゃんの道徳性を調べることでかなりの程度、クリアできる。生まれたばかりの赤ちゃんは、社会や文化の影響を(ほとんど)受けていないだろう。 とはいっても、指差しすらできない赤ちゃんの道徳意識をどうやって調べるのか? じつはよい方法があって、赤ちゃんは興味があるものを長く見つめたり、手を伸ばしたりし、どうでもいいものはすぐに目を逸らすか無視する。 これを使った実験に、次のようなものがある( 12)。 生後 10カ月と 1歳 4カ月の子どもに、ライオンとクマが、ロバとウシにカラフルなコインを配る人形劇を見せた。ライオンはロバとウシにコインを 1枚ずつ配り、クマはコインを 2枚ともロバに与え、ウシにはなにも与えなかった。そのあと、子どもたちにライオンとクマの人形を示したところ、 10カ月児の反応はバラバラだったが、 1歳 4カ月児は公平な分配者であるライオンに手を伸ばした。 別の実験では、 1歳 7カ月児に、オモチャで遊んでいた 2人の子どもが大人に「お片づけしなさい」といわれる場面を見せた。そのあとで、大人は 2人に平等にご褒美をあげるか、 1人にだけ与えた。 2人がそろって片づけをした場合、幼児たちは、 1人だけご褒美をもらった場面のほうを長く見つめた。これは予想( 2人は平等にご褒美をもらえるだろう)とは異なることが起きたからだ。 ところが、 1人が全部片づけをして、もう 1人がずるをして遊びつづけていたときは、大人が 2人に平等に報酬を与えたときのほうが、見つめる時間が長かった。これは、不平等な労働に対しては不平等な報酬(頑張った者がより多くもらうべきだ)を予想していたからだろう。 赤ちゃんは、 2歳になる前から「平等主義者」で、かつ「成果主義」の支持者なのだ。 これらの実験からは、平等や公平などの「正義」は、社会的に学習する以前に、脳のプログラムとしてあらかじめ埋め込まれているらしいことがわかる。チンパンジーにも「公平」の概念がある(同じ立場の相手だけがバナナなどの報酬をもらうとはげしく抗議する)のだから、これはけっして奇異なことではない。 ここまではよい話だが、より成長した子どもの道徳意識を調べると、すこしちがう結果になる。 同じ保育園に通う 3 ~ 5歳児をペアにして、次のような実験が行なわれた。ここでは被験者をメアリーとサリーとしよう。 積み木遊びをしたあと、メアリーとサリーで積み木を片づけるとご褒美のステッカーをもらえる。ステッカーは 6枚で、実験者は「メアリー 1枚」「サリー 1枚」「メアリー 1枚」「サリー 1枚」「メアリー 1枚」「メアリー 1枚」と渡していく。──ステッカーの合計はサリーが 2枚、メアリーが 4枚になる。 ここで実験者は、 7秒間、間を置く。(損をした)サリー役の子どもたちは、多くが「ずるい」と抗議し、メアリーと同じだけステッカーをちょうだいとせがんだ。 それに対して(得をした)メアリー役の子どもたちは、質問されれば、ほとんどが分配は不公平だと認めたが、そのことをさして気にしていなかった。サリー役の子どもから文句をいわれてステッカー 1枚を譲った子どもは、同じ保育園の友だちであるにもかかわらず、 10人に 1人もいなかった。 ここからわかるのは、子どもたちは不公平に敏感だが、それを意識するのは、自分の取り分が他の子より少ない(損をした)ときだけだということだ。 初対面の 4歳から 8歳の子どものペアが参加した別の実験では、ペアの片方の子どもがレバーの操作で 2枚の皿を動かす。この操作によって、自分と相手の手元にそれぞれの皿を届けるか、途中で中身を捨てるかを選択できる。 2枚の皿には何個かのアメが載っていて、ちゃんと届ければ 2人ともアメを手にできるが、中身を捨てると 2人ともなにももらえない。 どちらの皿にも同じ数のアメが載っているときと、分配が自分に有利なときは、操作者の子どもは中身を捨てたりしない。ところが分配が逆になって相手の子に有利だと、どの年齢でも、かなりの確率で皿の中身を両方とも捨てる選択をした。子どもは、見ず知らずの子が自分より多くのアメを手に入れるくらいなら、なにももらわない方がましだと考えるのだ。 5歳から 10歳の子どもたちが、今後知り合う予定のない子どもとオモチャの引換券を分配する実験では、「どちらも 1枚ずつ引換券をもらえる」と「自分が 2枚で相手が 3枚もらえる」を選択できた。 当然のことながら、引換券 1枚よりも 2枚の方が有利だ。ところが多くの子どもが、引換券を 1枚しかもらえない 1対 1の分配を選んだ。 次に、「 2人とも 2枚ずつ引換券をもらえる」と「自分は 1枚で相手はなにももらえない」を選択させた。この条件では、年上の子は 2対 2の分配を選んだが、 5歳児と 6歳児は 1対 0の選択肢を好んだ。幼い子どもは代償を払ってでも、自分が相対的に得をするほうを選ぶのだ。 ここから、子どもにとって重要なのは絶対的な損得(経済合理性)ではなく、相対的な損得(進化的合理性)であることがわかる。なぜこんなことになるかは、わたしたちの祖先がグローバルな市場取引の世界ではなく、最大で 150人程度の濃密な共同体のなかで暮らしていたことから説明できるだろう。 仲間たちと、地位や性愛をめぐって競争している状況を考えてみよう。このとき、自分が 10枚の金貨をもっていても、相手が 11枚なら自分の方が地位が低くなってしまう。 ところがここで、自分が 9枚の金貨を失い、相手が 11枚失う選択があったとしよう。こんな大損する取引はバカバカしいだけだが、それによって自分の金貨は 1枚、相手はゼロで地位が逆転する。 この単純な例から、なぜ幼い子どもが相対的な損得を重視するのかがわかる。地位をめぐる競争では──その社会が生存に必要な水準を満たしているのであれば──絶対的な利益にたいした意味はない。子どもたちの不合理な反応は、認知能力が発達していないからではなく、(おそらくは)遺伝的にプログラミングされたヒトの本性なのだ。 それが成長するにつれて、絶対的な損得を計算して、より合理的な選択ができるようになる。それでも「お互いが平等」が限界で、「相手が有利(自分が不利)」になる選択には大きな抵抗があるようだ。 これは幼児の話だが、大人でも同じではないか。すくなくとも、利益を生む提案を理不尽な上司に握りつぶされた苦い経験があるひとは、このことがよくわかるだろう。

17 非モテ男と高学歴女が対立する理由 ヒトは自分が所属する集団を一番にしようとする(天下統一)と同時に、その集団のなかで自分が一番になろうとする(下剋上)複雑なゲームをしている。もちろん誰もが王になれるわけではないから、上位の者に服従し、下位の者を統率する中間管理職的な役割にも適応しなくてはならない。 これは戦国時代劇などで繰り返し描かれてきた男中心のモデルで、女の場合は徒党を組むより一対一の関係(女友だち)を重視するとか、明示的なヒエラルキーをつくらないなど、集団形成のしかたが異なることが近年ようやく研究されるようになった。とはいえ、所属する集団の勢力と、その集団内の地位が死活的に重要なのは男も女も同じだ。 なぜこのような「競争」が脳にプログラムされたのかは、進化論で明快に説明できる。 集団同士の抗争に敗れれば、男は皆殺しにされ、女は子どもを奪われ凌辱される。これは「利己的な遺伝子」にとって許容しがたい損失(コスト)なので、どんなことをしてでも集団を防衛し、敵を殲滅しようとする本能が埋め込まれたのは当然だ。 それと同時に、集団内で高い地位にある者は、より条件のいい性愛(男にとっては複数の若い女。女にとっては、より多くの資源を提供してくれる男)を獲得できる。これは自らの遺伝子を後世に残すのに有利なので、地位をめぐる競争が激化する。 アイデンティティ(自尊心/自己肯定感)は、自分が属している集団と、集団内の地位によって決まる。ここから、次のようなシンプルな社会モデルができる。 まず、マジョリティ(多数派)とマイノリティ(少数派)の2つの集団に社会を分割しよう。一般的には、マジョリティ(強い集団)のメンバーは自尊心が高く、マイノリティ(弱い集団)のメンバーは自尊心が低い。いったん戦争になれば皆殺しにされてしまうのだから、弱い集団は強い集団に従属する以外に選択肢はないのだ。 そのうえで、それぞれの集団は地位によって階層化されていて、 2割が上位層と下位層、 6割が中間層としよう。ここで中間層(穏健派)を脇に置いておくと、「マジョリティの上位層/下位層」「マイノリティの上位層/下位層」という4つの特徴的なグループができる。 1970年代のアメリカで行なわれた研究では、白人(マジョリティ)と黒人(マイノリティ)の被験者に対して、それぞれの人種に対する肯定的な評価と否定的な評価が伝えられた。──白人に対しては「世界最強の国家をつくりあげた/いまだに黒人を差別している」、黒人に対しては「音楽やスポーツで華々しい成果をあげた/白人に比べて犯罪率が際立って高い」とか( 13)。 そのうえで研究者は、こうした評価が自尊心にどのような影響を与えるかを調べた。 白人に対する肯定的な評価は、地位の高い白人よりも低い白人に大きな影響を与えた。同様に地位の低い白人は、否定的な評価に対して強く反発した。「誰もが死に物狂いで自尊心を引き上げようとしている」とすれば、この結果は当然だ。社会的・経済的に成功している白人は、自らのちからで高い自尊心を獲得したと思っているので、人種への否定的評価にさして影響されず、より客観的に事実を受け入れることができる。それに対して地位の低い白人は、自尊心を高めてくれる(人種に対する)肯定的評価を歓迎し、自尊心を低める否定的評価を拒絶する。 このことは、民主党を支持するのがウォール街やシリコンバレーのリベラルなエリート層で、トランプの岩盤支持層である「白人至上主義者」が、中西部のラストベルト(錆びた地域)でドラッグ、アルコール、自殺で「絶望死」している状況をうまく説明する。世界を驚かせた連邦議会議事堂襲撃事件は、「アメリカはディープステイト(闇の政府)に支配されている」と信じる陰謀論者の錯乱ではなく、アイデンティティをめぐる闘争だったのだ。 より興味深いのは、マイノリティ集団と自尊心の関係だ。 黒人に対する肯定的な評価は、地位の低い黒人よりも高い黒人に大きな影響を与えた。それに加えて地位の高い黒人は、否定的な評価にも強く反発したのだ。 なぜこのようなことになるかというと、自尊心の低い黒人は、もともと自集団への評価も低いので、ネガティブなコメント(「黒人の犯罪率は顕著に高い」など)を「当然のこと」「しかたない」と受け入れるかららしい。それに対して自尊心の高い黒人は、自集団にも高い評価を期待するので、ネガティブなコメントに強く反応し拒絶するのだろう。 マジョリティとマイノリティで地位と自尊心の関係が逆転するというこの研究は、近年、日本や世界で起きている社会的混乱を考えるうえできわめて示唆的だ。 アメリカ社会のマジョリティは白人だが、知識社会に適応した「リベラル(高学歴)」と、市場競争から脱落して仕事と尊厳を失った「保守派(ワーキングクラス)」に分断されている。マイノリティの黒人も同様に、教育機会が広まったことで、学歴によって階層化されている。その結果、自尊心が揺らいでいる(地位の低い)白人ブルーワーカーと、自らの高い自尊心に見合った集団への尊厳を求める(地位の高い)黒人アクティビストが、アイデンティティをめぐって衝突するのだ。 日本で目立つようになったジェンダーをめぐる争いでも、同様の説明が可能だ。 マジョリティ(男集団)のなかで満足な性愛を獲得した自尊心の高い男(モテ)は、女性の社会進出に賛同するリベラルな「イクメン」になり、恋愛の自由市場から排除された自尊心の低い男(非モテ)は、(男という)ジェンダーアイデンティティに過剰に自己同一化し、それを脅かす「フェミニズム」を脅威とみなす。 その一方で、マイノリティ(女集団)のなかで自尊心の低い女は、性役割分業を受け入れる専業主婦になり、夫の地位や収入を自らのアイデンティティにする(「貧しくても家庭があれば幸せ」と考える「貧困専業主婦」になることもある)。それに対して自尊心の高い女は、男女平等を目指す積極的な活動家(フェミニスト)になり、ジェンダー差別を容認するような発言や表現を糾弾し、(自尊心の低い)「アンチ・フェミ」の男と衝突するのだ。 この研究では、自尊心が不安定な黒人の子どもは、自尊心が安定している白人の子どもより強い承認欲求をもつことも示されている。これは、低い自尊心を埋め合わせるために、無意識のうちにより大きな承認を求めるからだと説明される。 女の子は男の子より強い承認欲求をもち、それが SNSへの過剰な依存や拒食症・過食嘔吐につながるとされる。アダルトビデオに積極的に出演する若い女性が多数いることも、(マイノリティである)女性の自尊心が低いことから説明できるかもしれない。 とはいえ、この話はかなり「言ってはいけない」領域に近づいているので、このくらいにしておこう。

18 ほめて伸ばそうとすると落第する 現代社会では、「自尊心」や「自己肯定感」が重要だとされている。さまざまな調査で、自尊心が高いと社会的・経済的に成功し、健康で幸福度が高く、自尊心が低いと逆の結果になる(貧乏で不健康で早死にする)ことがわかったからだ。「高い自尊心があればなにもかもうまくいき、低い自尊心ではすべてがうまくいかない」という話が 1970年代に広まると、アメリカ社会に空前の「自尊心ブーム」が起こった。その結果、教育現場では「子どもはほめて育てるべきだ」「批判は自尊心を傷つけるから避けなければならない」「クラスでの競争は自尊心のない敗者をつくる」などといった説が大真面目に唱えられた。──こうした教育法はやがて日本にも導入された。 だがその後、通説に異を唱える研究が次々と発表されるようになった。「自尊心を高める」教育をしても、思ったような効果が出なかったのだ。 決定的なのは 2003年、自らも自尊心の重要性を信じていた心理学者のロイ・バウマイスターが、自尊心と子どもの成長の関係を調べようと 1万 5000件もの研究をレビューし、予想に反して「自尊心を養っても学業やキャリアが向上することはなく、それ以外でもなんらポジティブな効果はない」という決定的な事実を発見したことだった。他の研究者による検証でも同様の結果が出たことで、現在では(すくなくともまともな)心理学者は、「自尊心を伸ばす教育が子どもの成長に重要だ」と主張することはなくなった( 14)。 この問題が難しいのは、そもそも「自尊心」とは何なのかがよくわからないことだ。 一般的には、「あなたは価値のある人間ですか?」「学校や職場でうまくやっていますか?」「みんなから好かれていますか?」などの質問で自尊心を計測する。だがこれは主観的な評価で、うぬぼれや優越感だらけのナルシシストや、誇大妄想に支配された躁病患者もきわめて高い自尊心を示すだろう。 そこで研究者は、自尊心を客観的な指標と比較しようとした。重要なのは(主観的に)高い自尊心をもつことではなく、それが結果に結びつくかどうかなのだ。 高い自尊心の効果は、「自己充足的予言」で説明される。 1960年代に行なわれた有名な実験では、無作為に選んだ小学生を「成績が伸びる子」だと担任に伝えたところ、実際に成績が向上した。これは先生の期待(この子は優秀だ)が暗黙のうちに本人に伝わったからだとされ、「ピグマリオン効果」と呼ばれた。 予言が自己実現するのなら、「自分は優秀だ」と思っている自尊心の高い生徒は、そうでない生徒よりも成績がいいはずだ。これは簡単に調べられるので、 70年代から多くの研究が行なわれた。 その結果はというと、奇妙なことに、「学業成績は自尊心の高さでほぼ説明できる」から、「自尊心の低い子どもの方が成績がいい」まで大きくばらついた。 それでも平均すると、自尊心の高さは成績にわずかに相関していたが、その効果も社会経済的地位や知能( I Q)を統制すると消えてしまった。これをわかりやすくいうと、「恵まれた家庭に生まれ育った賢い子どもは、学校でうまくやっていけるので、成績もよく自尊心も高い」のだ。 このようにして、「自尊心は原因ではなく結果」だという当たり前のことが〝科学的〟に証明された。自尊心が高いと学業成績がよくなるのではなく、テストでよい点数をとることで自尊心が高まるのだ。 だがこれは、「不都合な事実」の半分でしかない。「ほめて伸ばす(自尊心を高める)」子育てや教育は、意味がないばかりか有害である可能性がある。 1999年の実験では、学期の最初の試験の成績が C、 D、 Fだった大学生をランダムに3つのグループに分けた。 Cは及第点、 Dと Fは赤点だ。 成績がいまひとつだった学生たちには、教授から、その週の課題の復習問題が毎週メールで送られた。そのとき、一つのグループは自己管理と責任を強調するメッセージ(「きちんと計画を立てて勉強しなさい」)が、もう一つのグループは、自尊心を高めるメッセージ(「君ならやればできる」)がそのメールに加えられた(残りの一つは対照群で、復習問題だけが送られた)。 教授によるはげましの有無は、成績が C(ぎりぎり及第)の学生には影響がなかった。だが Dと Fの学生にははっきりとした効果があった。 より正確には、自己管理を促すメールは、なにもしないのと違いはなかった。だが自尊心を高めるメッセージは、次の試験の成績をさらに悪くして落第必至にしてしまったのだ。 なぜこんなことになってしまうのか。研究者はその理由を、「自尊心は報酬だから」と説明する。頑張って勉強して、よい点数をとって教授からほめられることで自尊心が高まる。だが試験を受ける前から教授にほめられると(「君は本来、優秀なんだ」)、報酬を先に受け取ることになるので、努力しなくなってしまうというのだ。 50メートル走で最下位だった子どもに 1位のトロフィーを渡しても足が速くなるわけではない。「ほめて伸ばす」という教育方針のバカバカしさはこれに似ている。 では、自尊心はなんの役にもたたないのだろうか。じつはそんなことはなくて、自尊心と「タスクの持続性」が関係していることがわかっている。自尊心が高いと、失敗に直面しても粘り強く続けることができる。 しかしそれと同時に、自尊心が高いとあきらめが早いという研究もある。「問題のなかには解けないものも含まれている」と伝えると、自尊心が高い被験者はあまり頑張ろうとしなくなったが、自尊心が低いと影響がなかった。 とはいえ、自尊心が高い者が指示に従いやすいわけでもない。難しい問題に対して、研究者が「もうやめた方がいい」か「頑張って続けてみて」かを伝えたときは、自尊心の低い被験者はアドバイスに従ったが、自尊心が高い者はそれを無視した。 こうした一見矛盾した結果は、自尊心が高いと、ものごとに楽観的で「我が道を行く」タイプになると考えれば理解できる。難しい問題でも「解けるはずだ」と楽観的になって頑張るが、「解けないかも」といわれるとさっさとあきらめ、他人のアドバイスはあまり聞かない。それに対して自尊心が低いと、「自分には解けない」と悲観的になるが、あきらめる決断もできずにぐずぐずし、目上の者に依存しがちになる。 これは自尊心をうまく説明しているように思えるが、自尊心が高い方がいいとはやはりいえない。 自尊心が高いと浮気や離婚が多い(関係を続けるよりも別の相手を探す)とか、ジコチューでまわりに気を使わずに嫌われるなど、マイナスの効果も明らかになっている。 以上をまとめると、「自尊心が高くてもなにもかもうまくいくわけではなく、教育や子育てで自尊心を高めようとすると、かえってヒドいことになる」という話になるようだ。

19 美男・美女は幸福じゃない? SNSにあふれる自撮りを見ればわかるように、現代社会において、外見の魅力はとてつもなく大きな価値がある。「美男/美女は自尊心が高く、幸福度も高い」というのは、議論の余地のない真実だとされている。「自尊心が高いと幸福度も高い」は、大量の研究によって実証されている。だがこれは、「自尊心を高めれば幸福になれる」のではなく、「幸福だと自尊心(自己肯定感)も高くなる」という逆の因果関係のようだ。 では、魅力的な外見だと幸福度も高くなるのだろうか。アメリカの心理学者エド・ディーナーらは、これを実際に調べてみた。 参加者はイリノイ大学の白人学生約 200人(男女ほぼ同数)で、幸福度を測るテストを受けた後、自分が魅力的かどうかを「 1(とても悪い)」から「 10(とてもよい)」までの 10段階で評価してもらった( 15)。 次に、正面と横顔の写真と、見知らぬひとと話している動画を撮影した。写真は、メイクやファッションのわかるものと、すっぴんを、笑顔のあるなしのそれぞれ 2種類ずつ用意した。すっぴんでは、楕円形にくりぬいたダンボールから顔だけ出し、髪型もわからないようにした。 こうして準備が整うと、写真やビデオで外見の魅力を第三者が評価した。それに加えて、被験者の家族や友人など最低 3名が、本人がどの程度魅力的かを、平均的な大学生と比較して 10段階で評価した。 この作業でわかったのは、 3種類の評価素材の相関が高いことだ。「正面の写真が魅力的なら横顔も魅力的で、動画も魅力的(逆もまた真)」だった。──ただし、動画は静止画より魅力度が上がった。 それに加えて、客観的な魅力度評価は 2・ 33から 7・ 05のあいだでばらついた。第三者の目からは、外見の魅力度にはかなり大きなちがいがあるのだ。 ここまでは「そんなの当たり前だ」という話だが、外見の魅力と幸福度の関係はどうだろうか。意外なことに、その結果は一般に思われているのとはかなりちがっていた。 幸福度は、「生活満足度」「全体的な幸福感」「ポジティブ感情(『喜び/愛情』などのポジティブな感情の平均から、『怒り/悲しみ』などネガティブな感情を差し引いた値)」の三つが計測された。 奇妙なことに、女子学生では外見の魅力と幸福度はなんの関係もなかった。統計的に有意ではないものの、「全体的な幸福感」は「魅力的なほど低くなる」という逆の結果になった。「美人は不幸」とまではいえないが、けっして「幸福」ではないのだ。 それに対して男子学生は、「生活満足度」のみ、外見が魅力的なほど高くなったが、残りの二つはほとんど影響がなかった。美男子だからといって、「全体的な幸福感」や「ポジティブ感情」が高くなるわけではないようだ。──ただし例外が一つあって、男でも女でも、「魅力的であることが重要だ」と思っている学生は外見が幸福度に影響していた。 その一方で、すべての幸福度に一定の影響を及ぼす指標が一つあった。それは「主観的な魅力度」だ。客観的な評価はどうであれ、自分のことを「魅力的だ」と思っている学生は、男でも女でも幸福度が高かった。 家族や友人などが被験者の知能やコミュ力、恋愛関係や自信などを評価したが、これも魅力度との関係はほとんど見られなかった。相手のことをよく知っていると、外見を評価の基準にしなくなるようだ。「ルックスと恋愛が無関係なんて信じられない」と思うだろう。そこで研究者は、外見の魅力度を上位 4分の 1(美男美女)と下位 4分の 1に分けて、幸福度とデートの回数を調べてみた。 幸福度については、外見にかなりの差があっても、やはり同じ結果になった(統計的に有意ではないものの、女子学生では、外見の魅力がない方が幸福度が高かった)。一方、デートの回数には男女差があって、女性ではたしかに魅力的な方がデートしていたが、男性ではほとんどちがいがなかった。 この奇妙な現象を解明すべく、研究者はさらに、幸福度の上位 4分の 1と下位 4分の 1の学生を比較してみた。すると男子学生も女子学生も、幸福度が高い方がデートの回数が多いことがわかった。 これにはいくつかの説明が可能だ。 一つは、同じ顔写真を見ても、あるひとは「魅力的」と思い、別のひとは「そうでもない」と思うこと。主観的な評価にはかなりの多様性があり、これによって、平均的には魅力度の低い学生も、「美男/美女」とさほど変わらない頻度でデートできるのだろう。──男子学生の場合、外見より運動能力やコミュ力(面白さ)のような別の指標で評価されているのかもしれない。 もう一つは、「幸福なひとほど魅力的で恋愛にも積極的」という逆の因果関係がある可能性だ。女子学生では、外見の評価が一致する割合は、すっぴんより化粧をしたときの方がずっと高かった(化粧をすると魅力度が上がるが、すっぴんだと美人かどうかの評価が分かれた)。「美人だから幸福度が高い」のではなく、「幸福度が高いと、自分を魅力的に見せようとする」らしい。「美男/美女は幸福でもなければ、自尊心が高いわけでもない」というのは世間の常識と大きく異なるが、「ヒトはよいことにも悪いことにも慣れてしまう」と考えれば、この結果は不思議でも何でもない。 宝くじで大金が当たれば天にも昇る心地になり、交通事故で脊髄を損傷し、両足が動かなくなれば絶望に打ちひしがれるだろう。だが研究者が幸運なひとと不幸なひとのその後を調べると、どちらの場合も、元の幸福度に戻っていることがわかった。 宝くじに当たっても、いいことばかりではない。アメリカでは当せん者が大きく報じられるので、これまでつき合いのなかった親戚や友人・知人などからカネを無心され、人間関係が壊れることがよくある。 脊髄損傷の患者の場合は、家族や友人から「あんな大事故で生命があったのは奇跡だ」などといわれ、車椅子で自由に動けるようになる頃には、自分は運がよかったとポジティブに思えるようになるらしい。 ここから研究者は、「幸福度のレベル(『楽観的/悲観的』などのパーソナリティ)は生得的に決まっていて、人生にはよいときも悪いときもあるが、長期的には一人ひとりの固有の水準に収斂していく」と考えるようになった。 外見は子どもの頃からほとんど変わらないから、絶世の美男/美女であっても、とうに自分の容姿に慣れている。外見が主観的な幸福度に影響しないのは当たり前なのだ。 とはいえこれは、「魅力的であってもなにもいいことはない」ということではない。外見の金銭的な価値を試算した経済学者によれば、美人は平均より 8%収入が多く、不美人は 4%少ない(男の場合は、美男は 4%収入が多く、〝不美男〟は 13%も少ない)という。

一般に思われているように、外見が魅力的だとさまざまな場面で得をする。だが本人たちは、それが日常なので、いちいち自分が幸福だとは思わないらしい。

20 自尊心が打ち砕かれたとき「自尊心が高いとなにもかもうまくいく」「自尊心が低いとなにをやってもうまくいかない」という〝常識〟にはエビデンスがない。自尊心についての大量の研究が明らかにしたのは、「うまくいくと自尊心が高まり、うまくいかないと自尊心が低くなる」という身も蓋もない事実だ。自尊心が他者の評価の反映だと考えれば、これは当たり前の話でもある。 もちろん、自尊心に個人差があるのは間違いない。自尊心は、「あなたはクラスで優秀な方だと思いますか?」などの定型化された質問で評価されるが、同じ学業成績でも主観的な自尊心はかなりちがっている。困るのは、それが他人からはよくわからないことだ。 あなたは、自分が自尊心が高いか低いかを知っているはずだ。しかし、身近なひと(学校の同級生や会社の同僚、あるいは家族)の自尊心が高いのか低いのか、自信をもっていうことができるだろうか。 主観的な自尊心を客観的に知ることが難しいのは、 1980年代から知られていた。自尊心が高いと「自分には高い社会的スキルが備わっている」と考えるが、周囲の者はそのスキルを容易に見分けることができない。被験者を同世代の異性と会話させる実験では、自尊心が高いと「自分は好かれているはずだ」と考え、低いと逆になるが、実際にはパートナーの評価にちがいはなかった。──ただし自尊心が低いと、「自分は好かれていない」という相手の評価をより正確に予測した。 だとしたら、自尊心はたんなる思い込みに過ぎないのだろうか。 アメリカの心理学者ボスとヘザートンは、通常の会話では自尊心の高低がわからないとしても、脅威にさらされると、そのちがいが行動に表われるのではないかと考えた。そこで被験者(心理学を学ぶ大学生)の自尊心を意図的に揺るがせて、なにが起きるかを調べてみた( 16)。 この実験では、標準的な質問で被験者の自尊心を測ったあと、制限時間 4分の知能テストを受けさせた。テストは難しく、参加者の平均得点は 12点満点中 1点だった。 時間になると被験者は試験官に答案を提出し、その場で採点された。試験官は不正解に赤ペンでバツ印をつけ、点数の低さに驚いたような顔をすると、「正解を見てください」と解答を置いて席を立った。そこには、他の学生の平均得点が 9点だという(ニセの)資料が添えられていた。 被験者は、このテストは学業成績や将来の年収などを予測するものだと告げられた。かわいそうな学生たちは、「自分は優秀だ」という自信を粉々に打ち砕かれてしまったのだ(対照群の学生は、たんなるパイロットテストだといわれた)。 こうして準備が整うと、研究者は(自我が揺らいだ)学生に、「これからあなたの適性を調べるコンピュータ検査を行ないますが、時間制限があるため、すべてに答えることはできません。ここからあなたが知りたいことを選んでください」と、 10項目のリストを渡した。 リストのうち3つは、「どのような職業で将来活躍できるか」といった〝能力〟に関するもの、3つは「他のひとはあなたをどう見ているのか」など〝対人関係〟に関するもの、残りの4つは「音楽やスポーツの適性は?」のような雑多な分野だ。 興味深いことに、最初の標準的な質問で自尊心の高かった学生と、低かった学生とで、テストのあとの関心がはっきり分かれた。前者は自分の能力についての適性を、後者は対人関係についての適性を知りたがったのだ。 研究者はこれを、自我が脅威にさらされたときの対処法が異なるからだと考えた。 わたしたちはみな、高精度の「自尊心メーター」をもっていて、(無意識のうちに)自尊心を高く保とうと死に物狂いの努力をしている。自尊心が下がるような出来事に遭遇すれば、なんとかして失ったものを回復させなければならない。 このとき、もともとの自尊心が高い学生は、「どうすれば自分の能力をもっと発揮できるようになるか」に関心をもった。それに対してもともと自尊心が低い学生は、「どうすればもっと他人から好かれるのか」を考えたのだ(自我が脅威にさらされていない対照群の学生には、こうしたちがいは見られなかった)。 ここから、自尊心の高低は個人主義と集団主義に関係していることがわかる。自尊心の高い学生は自分の能力を活かすことで、自尊心の低い学生は対人関係のスキルを磨くことで、〝危機〟を乗り越えようとするのだ。 この仮説を確認するために研究者は、自我に脅威を与えられた被験者を別の学生と議論させてみた。すると、自尊心の高い学生の好感度は低くなり、自尊心の低い学生の好感度は高くなった(自我に脅威を与えられていない場合、両者の好感度にちがいはなかった)。 傷ついた自尊心を「能力」によって回復させようとした個人主義者は、他の学生から「傲慢」「無礼」「非協力的」などと見られた。それに対して、「対人関係」で傷ついた自尊心を回復させようとした集団主義者は、「正直」「控えめ」「温和」などと思われたのだ。 この結果を受けて研究者たちは、個人主義的な文化では自尊心が高いことが評価されるが、集団主義的な文化では、周囲とうまくやっていくことが重要なので、それが自尊心に反映されるのではないかと述べている。このようにして、アメリカのような個人主義的な文化で自尊心が高くなり、日本のような集団主義的な文化で自尊心が低くなるというのだ。 実際、さまざまな国際比較で、日本人の自尊心(自己肯定感)がきわめて低いことが繰り返し示されている。日本、アメリカ、中国、韓国の高校生に「人並みの能力があると思うか?」と訊いた調査では、「とてもそう思う」「まあそう思う」と答えた割合は日本が最低だった(もっとも高いのは中国とアメリカ)。 同調圧力の強い日本では、「空気」を読むために、つねに周囲の反応を気にしていなければならない。ところが自尊心が高いと、誰かから批判されるなど自我が脅威にさらされたとき、無意識のうちに傲慢に振る舞ってしまう。こうした K Y(空気が読めない)はムラ社会から排除され、遺伝子を後世に残すことができなかったので、日本には自尊心の低い者しか残らなかった……。 この仮説はそれなりの説得力があるが、話が出来すぎているようにも感じられる。所属する集団や生まれた国によって、自尊心が高いか低いかが自動的に決まるのだろうか。 生きていくうえで、個人の能力も、他者と協調することもどちらも重要だ。無能な人間と同じく、誰ともうまくやっていくことができない人間も、困難な人生を歩むことになるのは間違いない。 とはいえ、主観的な自尊心によって危機への対処法が異なるというのは興味深い。今度から、学校や会社で周囲のひとたちが、自我が脅かされた状況でどのように行動するかを観察してみよう。思わぬ発見があるかもしれない。

21 日本人の潜在的自尊心は高かった わたしたちはみな高感度の「自尊心メーター」を備えていて、その針が下がると大音量で警報が鳴り、なんとしてでも元の位置まで自尊心を戻そうとする。 自尊心を回復するには他者の評価を獲得しなければならないが、その方法はひとによって異なるらしい。もともと自尊心が高い者は自らの能力を誇示しようとし、逆に自尊心の低かった者は、周囲に同調することで失われた自信を取り戻そうとする。 ここから、「自尊心が高い =個人主義的」「自尊心が低い =集団主義的」という議論になって、前者の典型が(傲慢な)アメリカ人、後者が(控えめな)日本人に割り当てられる。 実際、さまざまな国際比較で日本人の自尊心(自己肯定感)がきわめて低いことがわかっているから、この理屈には説得力がある。だがそうなると、自尊心はヒト集団で遺伝するのだろうか。「アメリカ人は生得的に自尊心が高く、日本人は遺伝によって自尊心が低い」というのは、そうかもしれないと思うものの、どこかうさん臭くもある。 問題は、自尊心の定義があいまいなことだ。主要なパーソナリティ(ビッグファイブ)は、いまではかなりのところまで生理学的に説明できるようになった。たとえば共感力には、脳内伝達物質のオキシトシンがかかわっていて、血液検査でオキシトシンのレベルを計測することで共感力の高低が判断できる。それに対して自尊心は、いまだに「あなたは自分に自信がありますか」と訊いているだけなのだ。 だとしたら、アメリカ人はこの質問に自信をもって「イエス」と答え、日本人は「そこまではいえないなあ」と躊躇するという文化のちがいかもしれない。 IAT(潜在連合テスト)は無意識(潜在意識)の傾向を〝見える化〟する画期的な方法で、ステレオタイプ(偏見)を調べるために開発された。「私は人種差別などしない」と主張するひとでも、無意識のうちに「黒人」と「犯罪」を結びつけているかもしれない。その場合は、黒人の顔写真と銃の写真を同時に示したときの反応速度は、「白人と銃」や「黒人と花」よりも短くなるはずだ。 そして実際にやってみると、ほとんどのアメリカ人が、黒人に対するネガティブなステレオタイプをもっていることがわかった。 しかしこれは、「白人はみんな人種差別主義者だ」ということではない。なぜなら黒人の被験者も、黒人の顔と銃をより速く結びつけたのだ(なぜこうなるかについては 26章で検討する)。 IATを開発したアメリカの心理学者アンソニー・グリーンワルドは、日本や中国の研究者らとともに、各国の大学生(東大、ハーバード大、華東師範大など)の顕在的自尊心と潜在的自尊心を調べた( 17)。 パソコンの画面に「恋人」「友だち」「楽しい」のようなポジティブな言葉と、「仕事のミス」「孤独」「病気」などのネガティブな言葉をランダムに表示する。それと、自分や他者に関連した言葉(姓名、出身地、誕生日)を結びつける反応時間を計測することで、ほんとうは自分のことをどう思っているか知ることができる(自分をポジティブな言葉に結びつければ「潜在的自尊心」が高く、ネガティブな言葉に結びつければ、表向きどうであれ自尊心が低い)。 日本、アメリカ、中国の大学生を対象に、顕在的自尊心と潜在的自尊心を比較したこの研究はとても興味深い結果を示した。 アンケートによる顕在的(主観的)自尊心では、アメリカと中国の大学生がきわめて高く、日本の大学生は極端に低かった。ここまでは従来の常識どおりだ。 ところが、親友と比べた潜在的自尊心(オレ/わたしの方がイケてる)を IATで調べると、 3カ国の差はほとんどなくなった(日本の大学生はアメリカより低いが中国より高い)。 さらに驚くのは、内集団(オレたち)のなかの潜在的自尊心(このグループのなかで自分がいちばんイケてる)で、これを IATで調べたところ、日本の大学生の自尊心は、アメリカや中国をひき離して圧倒的に高かったのだ。 この奇妙な結果は、どのように理解すればいいのだろうか。 これは、べつに難しい話でもなんでもない。日本の学校は同調圧力がきわめて高く、うかつに自慢すると叩かれるので、大学生たちは、自尊心を低く見せておいた方がいいと(無意識に)知っている。それに対して中国は、アメリカと同様に、自信を前面に出してもよい社会のようだ。 しかしその一方で、参加したのは一流大学の学生だから、彼ら/彼女たちは、内心ではきわめて高い自尊心をもっている(まわりを見下し、バカにしている)。だから、顕在的自尊心が低く、潜在的自尊心が高くなるのだ。 この研究から、自尊心がどういうものかをより深く理解できる。 わたしたちは当然のこととして、自尊心を「高い」か「低い」かで考える。しかし、顕在的自尊心(外面)と潜在的自尊心(内面)が独立していると考えれば、次の 4タイプがいることになる。 ①顕在的自尊心も潜在的自尊心も高い ②顕在的自尊心も潜在的自尊心も低い ③顕在的自尊心は低いが潜在的自尊心は高い ④顕在的自尊心は高いが潜在的自尊心は低い 一般的に「自尊心が高い」といわれるのは ①のタイプ、「自尊心が低い」のは ②のタイプだというのはわかりやすい。 それに対して日本人は ③のタイプが多く、周囲と合わせるために、自分の高い自尊心を巧妙に隠している。「一見、謙虚で腰が低そうに見えながら、実際はプライドが高くて扱いづらい」という人物は、あなたのまわりにもたくさんいるのではないだろうか。 その一方で ④のタイプは、外面上は自信満々に見せていながら、じつは自分に自信がなく、それがバレるのではないかとつねに戦々恐々としている。「虚勢を張っているだけで実際はコンプレックスが強い」タイプで、きっと何人もの顔が思い浮かんだだろう。 誰もが認める成功者は、顕在的自尊心も潜在的自尊心も高いだろう。しかしそんな幸運な者の多くは、内心ではいまの地位を奪われるのではないかと不安に苛まれているかもしれない。 顕在的自尊心も潜在的自尊心も低いと、共同体のなかでうまくやっていくことができず、うつ病と診断されたりする。こうしたひとはごく一部なのだから、「自尊心が低い」とされる(自分でもそう主張する)日本人の多くは、じつは潜在的自尊心が高いことになる。 これはまだたんなる仮説だが、自尊心が高いか低いかの単純な二元論よりも、こうした見方の方が、ずっと人間社会の陰影をよくとらえているのではないだろうか。

22 自尊心は「勘違い力」「世の中には自尊心が高いひとと、低いひとがいる」と、当たり前のように思われている。だが潜在的な意識を調べる手法( IAT:潜在連合テスト)が開発されて、「自尊心が高い」と答えても実際には低かったり、逆に「自尊心が低い」と口ではいっていても、こころのなかでは相手をバカにしていたりすることがわかってきた。これが「顕在的自尊心」と「潜在的自尊心」だ。 それに加えて、自尊心の安定度にも個人差があるらしい。 このことは、次のようなちょっと意地悪な実験で調べることができる( 18)。 被験者(たいていは大学生)がミラールームに入ると、そこには別の学生がいる。その学生となにかのテーマ(政治問題や大学生活)について話をするのだが、鏡の背後では判定者が議論の様子を見ていて、それぞれの学生の好感度を評価する。その点数は、リアルタイムで壁のモニターに表示され、学生の目に入るようになっている。 議論が始まると、モニターの数字は最初は上がったり下がったりするが、あるときから被験者の評価が急に下がりはじめる。頑張って好感度を上げようと努力したにもかかわらず、なぜか嫌われてしまったのだ。 もうおわかりのように、鏡の後ろに判定者がいるというのはウソで、モニターの数字は研究者が上げ下げしている。被験者の指先には発汗を測定する器具が取りつけられていて、評価が下がったとき、どの程度傷ついたかがわかるようになっている(強いストレスを加えられると、無意識のうちに掌に汗をかく)。 こうした実験によって、「自尊心が高い」と回答したのにストレスに弱いタイプ(多量の発汗がある)や、「自尊心が低い」と自己申告したのにストレスに強いタイプ(あまり発汗しない)がいることがわかった。 自尊心と暴力の関係を調べた研究では、「自尊心が高いと落ち着いていて、自尊心が低いと攻撃的になる」という常識を支持するものがある一方で、「自尊心が高いほど攻撃的になる」と意外な報告をするものもある。だがこの矛盾は、自尊心の安定度のちがいによってすっきり説明できる。 自尊心が高く、かつ安定しているひとは、少々のストレスでは動揺しない。それに対して、自尊心が高くても不安定なひとは、わずかなストレスでも強く傷つくため、それを回復しようとして他者に対して攻撃的になるのだ(何人かの顔が思い浮かんだだろう)。 暴力(攻撃性)を予測するのは自尊心の高低ではなく、その安定度らしい。自尊心が低くても安定しているタイプは、(もともとそんなものだと思っているので)他者の評価が低くてもあまり気にしないのだ。 だったら、「自尊心が低くて不安定なタイプはどうなるのか」との疑問が生じるだろう。この場合も攻撃性が高まるものの、その方向は他者ではなく自分に向けられ、抑うつ的になるようだ。 主要なパーソナリティ(性格)のひとつに「神経症傾向」がある。これは「楽観的/悲観的」のことで、自尊心の安定度というのは、じつはこの「神経症傾向」を調べている。 自尊心が重要とされる根拠のひとつに、「自己肯定感が高いと幸福度も高い」がある。一方、パーソナリティ心理学でも、「楽観的だ(神経症傾向が低い)と幸福度が高い」という結果が一貫して示されている。なぜなら、これらは同じことだから。「自尊心が低いとパートナーと長続きしない」ともいわれる。しかしこちらも、「悲観的だ(神経症傾向が高い)と、恋人と別れたり離婚したりしやすい」という研究がある。悲観的なタイプはものごとをネガティブに考えてしまい、「愛されていないのではないか」「浮気されているのではないか」などと疑心暗鬼に陥り、その不安を相手にぶつけるため、関係が破綻しやすいのだとされる。 このように考えると、「自尊心」といわれているものの多くは、「楽観的/悲観的」のパーソナリティで説明できそうだ。 一卵性双生児と二卵性双生児の比較などから遺伝と環境の影響を調べる行動遺伝学によれば、基本的な性格は半分は遺伝、もう半分は幼少期の環境(友だち関係など)でつくられ、思春期以降はほとんど変わらない。生来、楽観的なひとは自尊心が高く、悲観的なひとは低いのだとすれば、「自尊心を高める訓練」にもさしたる効果は期待できないだろう。 だが、「悲観的」な性格だからといって悲観する必要はない。 さまざまな研究から、自尊心が高いタイプが、「自分はみんなから好かれている」と(楽観的に)思っているのは間違いない。だが周囲の評価を調べると、自尊心が高くても低くても好感度に変わりはない。 グループ討論では、自尊心が高いと最初はみんなから好感をもたれるが、その評価は徐々に下がっていく。自尊心が低い方が、最後は好感度が高くなることもある。 なぜこうなるかは、自尊心の(主観的な)高さが、要するに「勘違い力」のことだと考えれば理解できる。周囲に勘違いがバレてしまうと、 KY(空気が読めない)と見なされて相手にされなくなるのだ。 それに対して自尊心が低いと、まわりに合わせようとするので、「最初は消極的だと思ったけど、協調性があっていいじゃないか」などと評価が変わったりする。──とはいえ、自尊心が高いと「積極的に他人に話しかける」という効果はあるらしい。 ヒトは数百万年かけて、徹底的に社会的な動物として進化してきた。誰もが知り合いという濃密な共同体のなかで生き延びるには、他者の評価に敏感でなければならない。 その結果、わたしたちはみな高感度の自尊心メーターを脳に埋め込まれている。他者から批判されると、メーターの針が下がって大音量で警報を鳴らす。自尊心が高い/低いというのは、その音量の大小のことだ。 わたしたちはものごころついたときから、周囲に同調しつつも、自分を目立たせるという複雑なゲームをしている。波風立てないようひたすら低姿勢でいるだけでは、ヒエラルキーの最底辺に押しやられて性愛を獲得できず、「利己的な遺伝子」を後世に残せないのだ。 そう考えれば、わたしたちはみな自尊心が低く(同調する)、同時に自尊心が高い(競争する)ように「設計」されている。自尊心をめぐる議論が混乱するのは、それを「高い」か「低い」かの二元論にしてしまうからだろう。 自尊心が高いひとをうらやましいと思うかもしれないが、ナルシシストを除けば、それはたんに、自尊心が高く見えるように上手に装っているだけだ。なぜなら、自尊心が極端に高い(同調性のまったくない)ひとは、とうのむかしに共同体から排斥されるか殺されるかして、遺伝子を残すことができなかったから。 もちろん、自尊心の低さが生きづらさにつながっていることはあるだろう。だがそれも大同小異で、自信に満ちあふれたように見えるひとも、実はつねに不安におびえているのだ。

23 善意の名を借りたマウンティング 社会的な動物は、地位をめぐってはげしい競争をしている。精子(いくらでも生産できる)と卵子(月に 1回しかつくれない)のコストのちがいによって、ほとんどの哺乳類では、オスが競争し、メスが選択することになる。 地位の高いオスは多くのメスから求愛され、地位が低いと相手にされない。だがチンパンジーやボノボのような類人猿では、メスもヒエラルキーをつくり、地位が高いほど生存や子育てが有利になる。 ヒトは哺乳類のなかでもっとも高度に社会化されており、育児を含めれば妊娠した女性のコストはきわめて大きい。だとしたら女はセックスの相手を徹底的に選り好みするはずで、それによって男たちの地位をめぐる競争も激烈になる。 それと同時に、女集団のなかでも地位の競争が起きる。中学や高校で誰もが経験したように、スクールカーストにおいては、地位の高い女子生徒はカースト上位の男子生徒とつき合うのだ。 このようにして、ひとたび集団ができると、そのなかでの序列が重大な問題になる。男集団では序列が明確になるのに対し、女集団では暗黙の序列が好まれるなどのちがいがあるが、興味深いことに、これはチンパンジーと同じだ。 安定したヒエラルキーをつくるには、誰が誰の上位かを決めなくてはならない。これがないと組織が機能しないため、軍隊や会社では階級・肩書が必要になる。 では、肩書のない集団はどうするのか。このときに使われるのが「マウンティング」だ。 マウンティングは主に霊長類のオス同士が行なう順位確認行動で、相手に馬乗りになった(マウントをとった)方が優位、マウントされた方が劣位になる。オスたちはつねにマウントをとりあって自分の地位を確認し、同時に、メスに地位の高さをアピールしているのだ。 集団内の序列の変動は死活問題なので、ヒトの脳は、下方比較(マウントすること)を報酬、上方比較(マウントされること)を損失と感じるように進化した。相手にマウントすると「自己肯定感」が高まってよい気分になり、逆にマウントされると、脳内に大音量で警報が鳴り響く。たとえそれが、「善意」の名の下に行なわれたものであっても。 アメリカの心理学者ボルジャーとアマレルは、ニューヨークの女子大生を被験者にして、支援の仕方で心理的な影響がどう異なるかを調べた。ひとびとがどんどん孤独になっている現代社会では社会的支援が重要だとされるが、どんな支援でもいいわけではないと考えたのだ( 19)。 被験者の学生が部屋に入ると、そこには別の女子学生がいて、どちらかが人前でスピーチすることになると告げられる。これは心理実験の定番の仕掛けだが、もう一人の学生はサクラで、イヤなことをさせられるのはつねに被験者だ。 アメリカの大学生でも、いきなりスピーチするのは大きなストレスになる。そこで、同席した学生相手に練習するよう促される。このときのアドバイスの仕方で被験者の心理がどのように変わるかを調べるのが実験の目的だ(したがって、実際にスピーチするわけではない)。 スピーチをすると思って緊張している被験者は、「見える(あからさまな)支援」か、「見えない(婉曲な)支援」かを受けた。「あからさまな支援」では、学生から「あなたはこうするべきだ」という直截的なアドバイスを受け、「婉曲な支援」では「自分だったらこうする」と伝えられた。 このサポートを受けたときの心理状態を調べると、「あからさまな支援」は「婉曲な支援」よりずっと心理的苦痛が大きかった。自分と同じ立場の学生から「こうすればいいのよ」と指導された被験者は、マウントされたと感じたのだ。 このことを確認するために、次の実験では、優位・劣位を暗示する会話が加えられた。「あなたはアドバイスを必要としているようだけど」と自信のなさを指摘され、上から目線で「あからさまな支援」を受けた被験者は、もっとも大きな心理的苦痛を感じた。それに対して、「あなたにはアドバイスはいらないだろうけど、私は必要かもしれない」と、下から目線で「婉曲な支援」を受けた被験者は、もっとも心理的苦痛が少なかった。 ここまでは予想どおりだが、驚いたのは、上から目線で「婉曲な支援」を受けたときの心理的苦痛が、下から目線の「あからさまな支援」とほぼ同じで、なんの支援も受けなかったときよりわずかに大きかったことだ。中立的に見えるアドバイス(こうすればいいんじゃないの)ですら、言い方次第では、ストレス下にある相手にはマウントと感じられるのだ。 この結果は、苦境にあるひとへのサポートの難しさを示している。「善意」の言葉も、相手は自尊心への攻撃だと思って、ものすごく傷ついてしまうかもしれない。 だとすれば、支援者はつねに「私はあなたより無力です」と卑下すればいいのだろうか。だがこれもうまくいきそうにない。 これは別の研究者によるものだが、被験者はある課題について、参加者のなかで成績トップの友人か、平均的な成績の友人かのいずれかからサポートを受けた。その結果は、正当性の高い(成績のいい友人からの)アドバイスでは課題の成績が上がり、正当性の低い(平均的な成績の友人からの)アドバイスでは逆に成績が下がってしまった。自分と同程度の(無力な)相手からのアドバイスは、役に立たないのだ。 このことは、教育が成立するには教師の権威が必須である理由を教えてくれる。生徒が教師を尊敬しているか、すくなくともその科目については自分より高い能力をもっていると認めているのでないかぎり、あらゆる言葉は「攻撃」と受け止められてしまうのだ。 圧倒的な強者からのアドバイスなら、マウントと感じて自尊心が傷つくことはない。序列のちがいは誰の目にも明らかなので、相手にはわざわざマウントをとって序列を示す理由がないとわかっているからだ。 だが、両者の力関係が接近してくると話はややこしくなる。 支援を受ける側は、それが善意によるものなのか、マウントしようとしているのか、疑心暗鬼になってしまう。そしてこれは、被害妄想というわけではない。序列が曖昧なときは、どんな機会も逃さずにマウントするのが進化の最適戦略なのだ(学校や会社でしばしば体験するのではないだろうか)。 この一連の実験は、なぜボランティアに人気があるのかを教えてくれる。善意の名を借りて無力の人間をサポートする側に回ることは、自尊心の低いひとにとって、それを引き上げるもっとも簡便な方法なのだ。 これも「言ってはいけない」のひとつだろうが、ボランティアにかかわったことのあるひとは、うすうす気づいているのではないだろうか。

24 進化論的なフェミニズムへ 差別や偏見が世界じゅうで大きな問題になっている。だがこれは、社会がどんどん「差別的」になっているからではなく、(異論はあるだろうが)「リベラル化」が進んだ結果、これまで問題にされなかったような〝些細な〟ことが差別と見なされるようになったからだ。 差別・偏見のもとにあるのがステレオタイプで、個人ではなく集団の属性によって判断することだ。「女子社員はしょせん出産までの腰掛け」というのが典型的なステレオタイプで、こう考える経営者は男性社員を将来の幹部候補として重用する一方で、女性社員にはなんの期待もしないだろう。それに耐えきれずに彼女が辞めると、「やはり自分の判断は正しかった」とステレオタイプが強化される。これが「予言の自己実現」効果だ。 さらにやっかいなのは、あちこちの会社でこういうことが起きると、「女性を育てようとしても無駄」というステレオタイプが社会全体で共有されてしまうことだ。これが「統計的差別」で、女性の勤続年数が統計的に短い社会では、女性社員に多額のコストをかける「リベラル」な会社は、「出産までの使い捨て」と考える「保守的」な会社より少ない利益しかあげられず、株式市場から退場を迫られることになる。「統計的差別」をなくすには、妊娠・出産後も男性社員と対等に仕事ができるように、外部のちからによって職場環境を強制的に変えなくてはならない。このようにして日本でも男女雇用機会均等法が定められたが、欧米ではさらに一歩進んで、女性の議員候補や会社役員を一定数( 3分の 1あるいは半分)まで引き上げる「クオータ制」の導入が進んでいる。 ここまではきわめて筋の通った話だが、このように男女平等が進めば進むほど、それでも残るジェンダーギャップが顕在化してくる。 社会的な性別格差を示すジェンダーギャップ指数で日本は 146カ国中 116位( 2022年)とあいかわらず「世界最底辺」をうろうろしているが、性別による格差がもっとも小さい北欧諸国でも、男女の平均賃金にはかなりの開きがある。その理由のひとつは、看護・介護などの職に就く女性の割合が高く、彼女たちの多くは公務員なので、民間企業で働く男性より賃金が低くなるからだ。 とはいえ、これは「差別」なのだろうか、それとも自ら望んでそのような仕事を選んでいるのだろうか。「差別」だとすると、彼女たちはなにものか(社会の圧力など)に強制されて、いやいや看護・介護という「汚れ仕事」をやらされていることになる。誇りをもって働いている女性たちは当然、こうした「偏見」に反発するだろう。 これとは逆に、自由意志で賃金の低い仕事を選んだとすれば、男女の賃金格差にはなんの問題もなく、政府が介入する理由もなくなる。リベラルはこの論理を受け入れることを躊躇するだろう。「看護・介護の報酬を上げる」というシンプルな解決策があるが、そうなると税金を大幅に引き上げるか、患者・利用者の個人負担で賄うしかない。これはとうてい有権者の支持を得られず、北欧の政治家ですら尻込みするだろう。 こんな不毛な対立が続くのは、ジェンダーギャップの背後に男女の生物学的な性差があることを隠蔽しているからだ。 生まれたばかりの赤ちゃんでも、男の子はモビール(紙やプラスチックでつくられた動くおもちゃ)のようなモノに興味を示し、女の子は母親や看護師などヒトを見つめる。進化論的には、これは男の脳が(動く動物を仕留める)狩猟に最適化し、女の脳が(共同体の女たちと子どもの世話をしながら行なう)採集に最適化しているからだ。 こうした主張は一部で「性差別的」とされ、重箱の隅をつつくような批判がなされているが、男と女では網膜の作りからちがっている。 網膜には M細胞(大細胞)と P細胞(小細胞)があり、 M細胞はモノの動きに、 P細胞は色や質感の状態に反応する。男女の網膜を調べると、男の方が厚い。これは網膜に大きくて厚い M細胞が広く分布しているからで、それに対して女の網膜は小さくて薄い P細胞に占められている。 幼い子どもにクレヨンで好きな絵を描かせると、女の子は赤、オレンジ、緑、ベージュといった「温かい色」で人物(あるいはペット、花や木)を描こうとし、男の子は黒や灰色といった「冷たい色」を使って、ロケットや車など、なんらかの動きを表現しようとする。 これは親や教師が「男の子らしい」あるいは「女の子らしい」絵を描くように「ジェンダー圧力」を加えたからではなく、網膜と視神経の生物学的なちがいから好みに性差が生じるのだ。 男と女では「見える世界」がちがっていて、そのため脳の構造も(わずかに)異なっている。これによって、男は空間的知能が発達し、女は言語的知能が発達した。 これは説得力のある理論だと思うが、「女は数学が苦手」というステレオタイプを嫌うひとたちは許せないらしい。しかし不思議なことに、「男は言語的知能が低い」というステレオタイプに、同じように感情的に反発することはない。 男と女で得手不得手があってもいいではないかと思うかもしれないが、これが「偏見」とされるのは、現代社会において、論理・数学的知能が(極端に)高い者がとてつもない富を獲得し、その性比が大きく偏っているからだ。一時期は個人資産 30兆円(トヨタの時価総額と同じ)になったイーロン・マスクをはじめとしてシリコンバレーの起業家は男ばかりだし、年収 10億円や 100億円のヘッジファンドマネージャーもほぼ全員が男だ。 アメリカ西海岸を拠点とするテクノロジー企業は、世界でもっともリベラルな方針を掲げ、男女平等を推進している。それにもかかわらず、公平な(はずの)採用試験で選ばれるのが男ばかり(子どもの頃にアスペルガー症候群と診断された者も多い)なら、そこには明らかに男女の生物学的な性差があるのではないか──と社内レポートに書いたグーグルの従業員は、たちまち解雇されてしまった。 男女の脳にはなんのちがいもないとほんとうに信じているのなら、「言論弾圧」をするのではなく、エンジニアやプログラマーの男女比を同じにすればいいだろう。なぜそうできないかというと、きわめて高知能の領域では男の方が優秀で、男女平等だとライバル企業に優秀な人材を奪われると思っているからではないのか。 だがここには、より重大な「言ってはいけない」事情がある。 シリコンバレーの企業では、白人(ユダヤ人)、インド系、アジア系の従業員が人口比に不釣り合いなほど多く、黒人やヒスパニックが少ない。その理由はいったいなんなのか──という議論を誘発しないためには、「男と女の脳には生物学的なちがいがある」という主張をなにがなんでも封殺しなければならなかったのだろう。

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