PART Ⅳ 「差別と偏見」の迷宮
25 無意識の差別を計測する 26 誰もが偏見をもっている 27 差別はなぜあるのか 28 「偏見」のなかには正しいものもある? 29 「ピグマリオン効果」は存在しない? 30 強く願うと夢はかなわなくなる 31 ベンツに乗ると一時停止しなくなるのはなぜ? 32 「信頼」の裏に刻印された「服従」の文字 33 道徳の「貯金」ができると差別的になる 34 「偏見をもつな」という教育が偏見を強める 35 共同体のあたたかさは排除から生まれる 36 愛は世界を救わない
25 無意識の差別を計測する 差別や偏見の議論がややこしいのは、「差別主義者」がどこにもいないことだ。なぜなら、リベラルな社会では、そのような者は社会的に抹殺されて生きていけないから。 このことは、「自分を〝差別主義者〟と名乗っている者は誰か」と問えばすぐわかるだろう。現代社会では、「差別だ」との糾弾は他者から貼られるレッテルで、本人がそれを認めることはめったにない。 アメリカにおいて、有色人種に対する白人の優越を主張する(とされる)のが「白人至上主義者」だ。世界はディープステイト(闇の政府)に支配されているという Qアノンの陰謀論を信じ、トランプはそれと戦っているとして、「不正」な選挙によって盗まれた大統領の座を奪還するために連邦議会議事堂を占拠した。 だがジャーナリストが彼らに取材すると、誰一人として「白人は人種的に優れている」と述べる者はいない。それとは逆に、有色人種(とりわけ黒人)を〝優遇〟するアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)によって、アメリカの白人はさまざまな場面で差別されている「被害者」だと主張する。「自分は差別されている」と信じている者を、「お前は差別主義者だ」と批判するとき、両者のあいだでどのような対話が成り立つのだろうか。ここに、アメリカの人種問題の困難があるのだろう。「差別などしていない」と思っているのに、他人から「差別だ」と決めつけられるのは理不尽きわまりない。だがほんとうに誰も差別などしていないのなら、なぜ「差別問題」が頻発するのか。 アメリカの保守派は、 1960年代の公民権運動やその後の法改正で「人種差別」はなくなったとする。それにもかかわらず多くの黒人が貧困に喘ぎ、刑務所に収監されている現実があるとすれば、それは「自己責任」以外のなにものでもない。 保守派の論理では、警官が黒人に職務質問するのは差別・偏見ではなく、黒人の犯罪率がきわめて高いからだ(これは事実)。犯罪に関与している可能性が高い者を警官が職質すると結果的に黒人が大半になり、実際に犯罪に手を染めているから逮捕され、刑務所に送られるのだ。 リベラルはもちろん、こうした論理を「差別的」だと拒否する。白人警官が無実の黒人に暴力をふるい、ときに死に至らしめるのは、アメリカがいまだに「人種差別社会」であることを明白に示しているのだ。 実際、アメリカの裁判記録を調べると、被告が黒人だった場合、白人の被告に比べて有罪になる割合が高いことが繰り返し示されている。とりわけ「アフロセントリック(典型的なアフリカ系)」の顔立ちの容疑者は重い罰を下され、その一方で、童顔の白人は無罪になる可能性が高い。「アメリカ社会には人種差別が埋め込まれている」という批判的人種理論(クリティカル・レイス・セオリー)には説得力があるが、しかしこれは新たな問題を引き起こす。このような主張をリベラルな白人がすると、自分たちが「加害者」になってしまうのだ。 この不都合を解消するには、自分以外の白人を「差別主義者」に仕立てるしかない。このようにして保守的な白人層までをも「白人至上主義者」として〝悪魔化〟した結果、その反発がドナルド・トランプという異形の大統領を生み出した。 この論理が過激化すると、「人種差別を批判している白人もまたレイシスト(人種主義者)だ」との主張になる。これが「ホワイト・フラジリティ(白人の脆弱さ)」で、東部や西海岸のリベラルな白人エリートは、自分の内なる差別意識を隠蔽するために、口先だけで人種の平等を唱えているのだ──という話になる。 しかしそうなると、白人リベラルを批判する白人左翼の「虚偽意識」はどうなるのか。これは全共闘の内ゲバ(自己批判)と同じで、論理は無限に後退し出口はどこにもない。 このような泥沼にはまり込むのは、差別や偏見を客観的に計測する方法がないからだ。その結果、誰もが相手に「レイシスト」のレッテルを貼ろうと狂奔する。そうしないと、自分がレッテルを貼られてしまうから。 幸いなことに、この罠から抜け出す強力な手法がある。それが IAT(潜在連合テスト)で、アメリカの社会心理学者アンソニー・グリーンワルドらが、パソコンを使った簡単な検査で、人種、ジェンダー、容姿、年齢、国籍などの偏見の度合いを客観的な数値として示せることを 1998年に発表した( 20)。 心理学ではそれ以前から、潜在意識にとって連想しやすいものと、連想しにくいものがあることが知られていた。「赤」という単語と「夕日」の写真を示したときの反応は、「海」の写真を示したときより速くなる。潜在意識にとって「赤」と「夕日」は同じカテゴリーで連合しているが、「海」は別のカテゴリーなので、結びつけるのに意識的な努力が必要になり、その分だけ反応が遅れるのだ。 グリーンワルドらはこれを利用して、黒人と白人の顔写真を、花(ポジティブ)や銃(ネガティブ)の写真と結びつける時間を計測した。 人種的な偏見を持っている被験者は「黒人」と「銃」が連合しているので、「花」と結びつけるのに時間がかかる。偏見がなければ、どちらも同じ速さでクリックできるはずだ。 実際にやってみると、 IATの結果から人種間の選り好みをかなり正確に予測できることがわかった。 IATで人種バイアスが強かった白人の被験者は、採用面接のシミュレーション実験で、同程度の実力をもつ白人候補者を黒人候補者より好意的に評価した。集中治療室の研修医は、同じ急性の心臓病の兆候をもつ黒人と白人の患者が搬送されてきたとき、黒人患者より白人患者に最適な治療を行なうことが多かった。 もちろん、人種 I ATで潜在的偏見をもつとされたひとたち全員が、現実世界でも差別的なわけではない。とはいえ、人種バイアスの強さが上位 50%に入った者のうち、およそ 6割が実際に差別的な言動をするという。 だとしたらリベラルは、誰がレイシストで誰がそうでないのかを見分けるために、 IATを積極的に使えばいいではないか。 だが、ここにもやっかいな問題がある。リベラルな白人が IATを受けると、「白人至上主義者」と似たような結果になるのだ。同性愛者の権利を守る女性活動家が IATを受けたときは、「同性愛 =よい」の連合より「同性愛 =悪い」の連合が強く出て、この活動家はメディアに自分の名前を出すことを拒否したという。 さらに困惑するのは、黒人の被験者が人種 I ATを受けても、かなりの割合で「黒人」と「銃」を結びつけるようなネガティブな連合が見られることだ。そうなると、そもそも IATが計測している「偏見」とはなんなのかという話になる。 IATによると、アメリカでは人種や主義主張を問わず、誰もが「レイシスト」になってしまう。この「不都合な事実」が、リベラルが IATを無視する理由だろう。 いったいなぜこんなことになるのか。次はそれを考えてみよう。
26 誰もが偏見をもっている「ヨハネスブルグは世界で最も犯罪が多発する危険都市だ。特にダウンタウンでは昼夜を問わず、いつ強盗に遭ってもおかしくない。犯行はナイフや拳銃を用いた強引かつ凶暴なものなので、ヘタに抵抗しないほうがいい。泣こうが叫ぼうが周りの人は見て見ぬふり。襲われたら最後、助けはないと思ったほうがいい。それでも出歩くというのであれば、無理に止めはしないが、暴行されたうえ金品を巻き上げられるか、また女性ならレイプされ、最悪は殺される覚悟が必要だ」 これは、日本でもっとも売れている海外旅行ガイドブックの記述だ。南アフリカを訪れる旅行者の多くは、これを読んでから出発する。私もその一人だった。 ヨハネスブルグでは、高級ホテルやショッピングセンターが集まった、日本でいうなら六本木ヒルズのようなところに宿泊した。ここは白人の比率が圧倒的に高く、とても安全だ。旅行者は、この区画から外に出てはならないと繰り返し注意される。 どこが安全エリアで、どこが危険かが明示されているわけではないが、誰でもすぐにわかる。狭い道路を挟んでこちら側は、ビジネスマンやベビーカーを押した家族連れの白人たちが歩いている。道路の向こう側は全員が黒人で、白人の姿はない。 このような場所で 2 ~ 3日過ごすと、つねに周囲に白人がいるかどうかを確認するようになる。白人がいれば安全で、黒人ばかりだと危険のサインなのだ。 前回、無意識のバイアスを調べる I A T(潜在連合テスト)を紹介した。脳は「赤」と「夕日」のように同じカテゴリーのものを、「赤」と「海」のような別のカテゴリーより速く結びつける。これを利用して、人種やジェンダーなどに対してどのようなステレオタイプを持っているかを調べるのだ。この IATは、インターネットで日本語でも受けられる( https:// implicit. harvard. edu/ implicit/ japan/)。 ジェンダー I ATでは、「女は数学が苦手」「男の方が優秀」のようなバイアスを調べる。実際にやってみたところ、私にはこうしたステレオタイプはなかった。これはべつに自慢ではなく、私は長く出版業界にいたが、この業界では「女の方が男より優秀」ということはいくらでもある。仕事に関しては(「すべて」とはいわない)、女性に偏見をもつ理由はない。 それに対して、はっきりとしたステレオタイプが出たのが人種 I ATで、黒人よりも白人を選好しているという結果が出た。 これについては、テストを受ける前から、たぶんそうなるのではとの予感があった。それだけ、南アフリカでの体験が強烈だったのだ。 ヨハネスブルグに行ったことがあればわかるだろうが、この街では、旅行者はホテルを一歩出ると、ずっと緊張していなければならない。 親しくなったアフリカーナー(初期に入植したオランダ系白人の子孫)のガイドは、南アフリカがいかに素晴らしいところかをずっと語っていたが、最後になって、つい最近、若い黒人二人組に銃を突きつけられて殴打され、財布と携帯電話を奪われたことを教えてくれた。そして、「どんなことがあってもけっして一人で街を歩いてはいけない」と何度も念を押された。 すべての生き物にとって、生存は(生殖とともに)もっとも重要なのだから、脳はごく自然に、「白人 =安全」「黒人 =危険」という連合を学習する。 IATはこうした連合(カテゴリー分け)を計測するから、それがそのまま結果に表われるのだ。 これは、「自分は人種主義者(レイシスト)ではない」という言い訳でない。人種 I ATでは、黒人でも(白人より低いものの)かなりの確率で「黒人 =危険」のステレオタイプをもつことがわかっている( 21)。『ティッピング・ポイント』や『第 1感 「最初の 2秒」の「なんとなく」が正しい』などのベストセラーがあるマルコム・グラッドウェルは、テレビのインタビューで、人種 I ATを受けた経験をこう語っている。「僕の母はジャマイカ人なのですが……僕が人生で誰よりも愛している人が黒人であり、今受けた( IAT)テストで、率直に言って、自分は黒人のことをそれほど好きではないという結果が出たんですよ。そのため、僕はみんなと同じことをしました。つまり、もう一度テストを受けてみたんです! もしかしたら何かの間違いだったかもしれないと思って。しかし結果は同じでした。再度受け直し、また同じ結果でした。それを見て僕はゾッとし、気が滅入り、悲惨な気持ちになりました」 しかしこれは、グラッドウェルが「レイシスト」だということではもちろんない。南アフリカほどではないものの、アメリカでも黒人の犯罪率は白人よりずっと高い。そのような社会で暮らしていると、無意識に「白人 =安全」「黒人 =危険」という連合ができてしまうのだ。 反同性愛差別の女性活動家が、 IATで同性愛者へのステレオタイプが出たのも同じだ。これを「同性愛者への内なる差別意識を抑圧するために、差別と戦う活動家になった」とフロイト的に解釈する必要はない。彼女は日々の活動のなかで、ネットでの誹謗中傷など同性愛者に対するさまざまな差別に触れていて、その結果、自分の意識とはまったく独立に、同性愛者へのネガティブな連合が形成されてしまったのだろう。 だがこれは、 IATが無意味だということではない。白人至上主義者は、明らかに黒人に対してネガティブな連合を持っている。だがそうでなくても、一定の条件下でこうした連合がつくられる可能性がある。脳は、「リベラル」の原則に従って進化してきたわけではない。問題は、両者を見分ける方法がないことだ。 いったんこうした連合がつくられてしまえば、脳は自動的に反応する。「それは(差別とはいわないとしても)偏見ではないのか」と批判されれば返す言葉はない。とはいえ、「正義」の名の下に他人に石を投げるのであれば、まずは自分が IATを受けてみるべきだと思うが。 IATが明らかにしたのは、わたしたちは誰一人としてステレオタイプ(偏見)から自由ではないということだ。脳はもともと、世界をカテゴリー化して理解するようにつくられている。だからこそ、ちょっとしたきっかけでネガティブな連合を形成し、さらにやっかいなことに、そうした連合を(生存や生殖に)有利だとして長く保持してしまうのだ。 私はこれまで、黒人との間でネガティブな体験をしたことは一度もない。高校生の頃からずっと、ジャズやレゲエの黒人ミュージシャンに憧れていた。それにもかかわらず、南アフリカから帰ってきてずいぶんたつのに、日本ではなんの意味もない人種ステレオタイプを抱えているのはかなり居心地が悪い。 クモ恐怖症などの神経症は脳の不都合な連合で、行動療法(脱感作療法)で消去できることがわかっている。機会があれば、このステレオタイプも消してもらえないかと思っている。
27 差別はなぜあるのか ステレオタイプというのは、ヒトの集団をいくつかのカテゴリーに分けて理解しようとすることだ。なぜこんなことをするかというと、脳には認知的な限界があり、複雑なものを複雑なまま取り扱うことができないからだ。 物理学的には、世界はさまざまな波長の電磁波に満ちているが、人間の目が光として感知できるのはそのごく一部で、可視域は下限が 360 ~ 400ナノメートル、上限が 760 ~ 830ナノメートルだ。それより短い波長には紫外線( U V)、X線、ガンマ線が、長い波長には赤外線、マイクロ波、ラジオ波があるが、どれも「見る」ことができない。 可視域の電磁波も、「赤」「青」「白」「黒」などの色のカテゴリーで認識される。網膜や視神経の生物学的な限界により、脳は世界を「ステレオタイプ化」して構成しているのだ。 この単純な例からわかるように、わたしたちはステレオタイプから自由になることはできない。それは脳の基本的な機能であり、ヒトの本性でもある。 アメリカ人は、初対面の相手を無意識に、「性別」「年齢」「人種」の3つのカテゴリーで即座に判断する。「性別」と「年齢」がなぜ重要かは、進化論的に明快に説明できる。相手が子どもや老人なら、危害を加えられる恐れはないから無視すればいい。男にとって、若い女は性愛の対象で、若く屈強な男は生存への脅威となるから、特別な注意・関心を引く。女にとっては、見知らぬ若い男は性愛の対象であると同時に、暴力を受ける可能性もあるから、より複雑で高度な判断が必要になるだろう。 それに対して、「人種」のカテゴリー化は説明が難しい。人類が進化の歴史の大半を過ごした旧石器時代には、アメリカのような多民族社会は存在せず、周囲には自分と同じ外見の者しかいなかったはずだ。脳が人種に注目するようプログラミングされている理由はない。 その後の研究によって、カテゴリー化の対象は「人種」ではなく「社会」であることがわかった。「社会」とは、「俺たち(内集団)」と「奴ら(外集団)」の帰属のことだ。 このことは、次のようなシンプルな実験で確認できる。 黒人と白人の男性が私服で集まった写真を見せると、アメリカ人の被験者は人種でグループ分けをする。だが彼らにバスケットボールのユニフォームを着せると、今度はごく自然にチームによってカテゴリー化するようになるのだ。 このことから、人種差別は人間の本性ではないことがわかる。本性は内集団と外集団に分割すること、すなわち「社会(帰属)による差別」なのだ。 差別はなぜあるのか? これについては、現代の進化論が説得力のある説明をしている。 環境から得られる資源が一定で、そこで暮らす集団が大きくなると、集団は分裂して複数の「社会(共同体)」が生まれる。そうなると、同じ社会の構成員とは協働し、異なる社会との競争に勝ち残ることが進化の最適戦略になる。 これは人類だけでなく、巨大な社会をつくる生き物はどれも同じ行動をとる。代表的な社会性昆虫であるアリの一種は超巨大なコロニーをつくり、何百キロも離れたところに連れて行っても、同じコロニー内であれば、そこの社会に溶け込み自分の仕事を始める。ところが異なるコロニー同士が接触すると、アリたちは互いに殺し合って、死骸が山となった「国境線」ができる( 22)。 アリには、互いのアイデンティティ(帰属)を表わす特有の〝しるし〟がある。それが匂いだ。アリたちは、自分と同じ匂いがする相手とは協働し、異なる匂いがする相手を殺戮するようプログラムされている。 ヒトに遺伝的にもっとも近いのはチンパンジーやボノボだが、群れの数はどれほど多くても 100頭前後で、どの個体もメンバー全員を知っている(相手がわからなくなるくらい群れが大きくなると分裂する)。 それに対して人類は、旧石器時代ですら数千人規模の社会を構成していたとされる。これは脳の認知の限界を超えるので、相手が誰なのかわからなくても(匿名でも)社会を成り立たせる仕組みが必要になった。 このとき使われたのが、味方なのか敵なのかを瞬時に判断できる〝しるし〟で、言葉(方言)や文化(刺青や服装、装飾品)、音楽などだ。これによって、同じ〝しるし〟をもつ者たちが協力して、異なる〝しるし〟をもつ者たちを皆殺しにすることが可能になった。 ヒトと社会性昆虫が似ているのは偶然ではない。大規模な「匿名社会」をつくるには、これ以外に方法はない。同じ環境の淘汰圧がかかれば、種がちがっていても、同じような性質が進化するのだ(収斂進化)。 初対面の相手に対して、わたしたちは即座に〝しるし〟を読み取ろうとする。これは強力な生存本能なので、意識で抑制するのはきわめて困難だ。 こうした〝しるし〟は、アメリカの人種問題では「白人/黒人」に、ヨーロッパの移民問題では「市民社会/イスラーム」になる。日本のネトウヨなら「日本人(愛国)/外国人(反日)」という国籍が〝しるし〟で、自分たちと異なる主張をする者を「在日認定」する奇妙な風習が生まれた。 それ以外でも、宗教や身分(カースト)、民族(パレスチナ問題)など、現代社会ではさまざまなものが〝しるし〟になる。近年のアメリカでは、共和党支持(保守)か民主党支持(リベラル)かの政治イデオロギーで社会が分裂している。差別の本質は人種や民族のちがいではなく、〝しるし〟によるカテゴリー化なのだ。「差別のない社会」をつくるにはどうすればいいのだろうか。理屈のうえでは、カテゴリー化をやめればいいことは誰でもわかる。これが「集団ではなく一人ひとりを見る」というリベラルの戦略だ。 問題は、一人ひとりの個性を見分けられる脳のスペックが 50人分程度しかないことだ。これが、学校の 1クラスの上限が 50人で、 AKB 48が 48人の理由だ。数百人や数千人の集団を「一人ひとり」見ることは、認知の限界をはるかに超えている。 だが悪い話ばかりではない。一つは、差別(カテゴリー化)が人間の本性といっても、文明化によって、異なる社会同士の暴力が徐々に緩和されてきていることだ。かつては殺し合っていた集団同士も、いまではサッカー場で罵声を飛ばしたり、 SNSで罵詈雑言をぶつけあう程度にまで「穏健化」した。この傾向が数千年続けば、いずれは誰も〝しるし〟を気にしなくなるだろう。 もう一つはテクノロジーの進歩で、近い将来、 A I(人工知能)が、 SNSのビッグデータから一人ひとりを個別に評価するようになる。そうなればわたしたちは、人種や民族のようなカテゴリーではなく、知能や外見などの「個性」によって点数化され、誰とつき合い、誰を無視するかを決めるようになるだろう。 この「差別のない社会」がユートピアなのか、それともディストピアなのかはわからないが。
28 「偏見」のなかには正しいものもある? ステレオタイプ(偏見)はこれまで社会心理学で詳細に研究されてきた。しかしそこには、学問の根幹にかかわる奇妙なルールがある。それが、「ステレオタイプが事実かどうかは問題にしない」だ。 第二次世界大戦では、ナチスのホロコーストによって膨大な数のユダヤ人が犠牲になった。背景にあるのはヨーロッパのキリスト教社会に深く埋め込まれたユダヤ人差別で、「ユダの裏切りでイエスが処刑された」とされるが、イエスはユダヤ教の改革派で、本人はもちろん他の使徒たちも全員がユダヤ人だった。 日本には出自を理由にした根強い差別があり、私が大学生の頃は、大手銀行は内定前に学生の戸籍を閲覧し、実家に興信所を派遣して出自を調べていた。その理由は、「穢れた血を会社に入れない」ためだ。いまこんなことをしたら頭取が辞任するくらいではすまないだろうが、 1980年代は当然とされていた。 リベラルな社会では出自による差別は許されないので、もはや誰も「穢れた血が子どもに引き継がれる」などとはいわない。しかしその一方で、万世一系の神話では、「高貴な血は子々孫々まで受け継がれる」ことになっている。これは明らかに矛盾しているが、このなんともご都合主義的な解釈を否定すると天皇制が維持できなくなってしまう。 ヒトは両性生殖なので、子どもは父親と母親からそれぞれ 50%の遺伝子を受け渡される。当然、父から子、孫へと世代を経るごとに遺伝子の共有率は低くなり、数十世代もすれば、「高貴な血」も「穢れた血」もヒトの遺伝子プールのなかに散逸し、家系や血のつながりはなんの意味もなくなる(近親婚を繰り返せば別だが、これはほとんどの場合、劣性遺伝の影響で悲惨な結果を招く)。「ユダヤ人がイエスを殺した」という物語は、イエスや他の使徒がヨーロッパ系白人であることを暗黙の前提にしているが、これはデタラメだ。出自による差別は、遺伝についての非科学的な思い込みにもとづいていて、なんの根拠もない。このように、ステレオタイプが明らかに誤っている場合、それを正しく指摘することは、偏見や差別をなくすのにきわめて有用だろう。 だとしたらなぜ、「ステレオタイプの真偽は問題にしない」などということになるのか。それは、科学的・歴史的に真偽がはっきりしているステレオタイプのほとんどが検証された結果、曖昧なものだけが残ったからだ。より直截的にいうならば、「偏見」のなかには「正しい」(かもしれない)ものがあるのだ。 過激なフェミニズムの一派は、男と女には生殖器官以外なんの生物学的ちがいもなく、「男らしさ」「女らしさ」はすべて社会的・文化的に構築されたと主張する。「男は女より暴力的だ」というのは典型的なジェンダー・ステレオタイプで、実際、国や文化のちがいにかかわらず、あらゆる社会で殺人犯は圧倒的に男が多い。 性ホルモンの一種であるテストステロンは、筋肉や骨格を発達させるとともに、性愛への関心を高め、冒険や競争を好むようにするとされる。テストステロンは主に男では睾丸から、女では卵巣から分泌されるが、その量には大きな性差があり、(生理周期による変動があるので)思春期の男の脳は女の 60 ~ 100倍ものテストステロンに曝されている。これが男の攻撃性・暴力性を高め、犯罪件数や刑務所の収監率の大きな性差につながるという説明は、きわめて筋が通っている。 だが、「すべてのジェンダーギャップは社会的に構築される」という立場では、こうした生物学的な解釈は「差別」として否定されることになるだろう。しかしそうなると、「男女が平等な社会になれば、男の殺人件数は女と同じまで減る(あるいは女の殺人犯が男と同じまで増える)」と大真面目に主張しなければならないが、これは筋金入りのフェミニストでも躊躇するのではないか。「生物学的に説明できる性差と、文化的・社会的なジェンダーギャップを分けて論じればいい」と思うかもしれない。しかしこれは、すこし考えればうまくいかないことがわかる。「女は男より数学が苦手だ」というのは典型的なステレオタイプで、ずっと批判されてきた。だがその一方で、「生まれたばかりの赤ちゃんでも、男の子はモノに、女の子はヒトに興味を示す」とか、「男の言語能力は左脳に偏り、右脳を論理・数学的な処理に使っているが、女は左脳だけでなく右脳も使って言語処理をしている(したがって女の方が言語能力が高い)」などの生物学的な説明がなされている。だとしたらこれは「偏見」ではなく、男と女の生得的な性差が「常識」になっただけではないのか──という話になる。 ここからわかるように、真偽が曖昧なステレオタイプについては、それが科学的に正しいかどうかを論じはじめると、ものすごく面倒なことになる。その結果、いわば「蟻の一穴」を防ぐために、社会科学であるにもかかわらず、「事実の真偽は問わない」という〝反科学的〟なルールが要請されたのだろう。 最近では、「男と女にさまざまな生物学的ちがいがあるのは当然」と考える〝常識的〟なひとも増えてきた。だがこれが「人種問題」になると、さらにやっかいな事態を引き起こす。 アメリカは「人種の平等」を達成するために、人種別の世帯収入や知能指数を公的に調べている。不利益を被っているグループを国が支援する以上、その政策(積極的差別是正措置)の効果を納税者に示さなければならないからだ。 人種別の世帯収入では、アジア系と白人が高く、黒人とヒスパニックが低い。そしてこの傾向は、人種別の知能指数と完全に一致している。ここから、「勤勉な文化をもつ人種」と「怠惰な文化をもつ人種」というステレオタイプが生まれた。 同様に人種別の犯罪件数では、黒人が(きわめて)高く、白人が低い。ここから、黒人と暴力・犯罪を結びつけるステレオタイプが生じる。 こうした人種間のちがいは、奴隷制の負の歴史や有色人種への構造的な差別によってもたらされたものにちがいない。しかしそのすべてを、「社会的に構築された」と言い切ることができるだろうか。 人種(ヒト集団)における遺伝的なちがいを論じるのは、右派・保守派だけではない。近年、大きな注目を集めている遺伝人類学は、およそ 6万年前の〝出アフリカ〟後に、ヒト集団がそれぞれの地域でどのように遺伝的に(わずかに)変異してきたかを調べることで、人類の来歴を解明しようとする学問だ。 だが、この〝科学的〟知見を人種問題に適用すると、「差別主義者」のレッテルを貼られて社会的生命を奪われてしまう。このようにして、学問の世界に巨大なタブーが生まれることになった。 とはいえ、「科学」を名乗りながらも科学を否定するのでは、単なる空理空論ではないのか。もちろんこの疑問も、「言ってはいけない」ことにされているのだろうが( 23)。
29 「ピグマリオン効果」は存在しない? オードリー・ヘップバーンが主演した映画『マイ・フェア・レディ』では、言語学の教授が、花売り娘の粗野で下品なコックニー英語(下町言葉)を矯正して、上流階級のレディとして舞踏会に出せるか賭けをする。原作はバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』で、 20世紀初頭のイギリスの階級社会を風刺しつつ、教育の可能性を描いている。 この戯曲は、ギリシア神話に出てくるキプロス島のピュグマリオーン王から題材を得ている。現実の女性に失望し、理想の女性を自ら彫刻した王は、彫像の女性に恋をしてしまい、それが人間になることを願うあまり衰弱していく。その姿を哀れに思った愛の女神アフロディーテが彫像に生命を与え、ピュグマリオーン王は彼女を妻に迎える──という物語だ。 社会心理学の「ピグマリオン効果」は、戯曲ではなくギリシア神話から名づけられた。教師が生徒の能力に強い期待をもっていると、実際に生徒の能力が向上する現象のことで、 1964年にアメリカの心理学者ロバート・ローゼンタールがその効果を実験で示すと、メディアがこぞって取り上げまたたく間に広まった( 24)。 ピグマリオン効果が社会現象にまでなったのは、当時のアメリカでは、「能力」をめぐるやっかいな問題がすでに意識されていたからだ。 上・中流階級の子どもは成績が良く、貧困層の子どもが授業から脱落してしまうのは、家庭環境(子育て)の影響なのか、それとも知能が親から子へと受け継がれるからだろうか。家庭環境と遺伝によって知能が形成されるなら、白人の生徒と黒人の生徒の学力格差は、いずれにせよ黒人の親の責任になってしまうのではないか……。 こうした議論は半世紀以上たった現在でもまったく解決できず、異なる立場の者たちのいがみ合いがさらにヒートアップしているが、ピグマリオン効果にはこれを一瞬で解決する魔法のような効果がある。 子どもの成績が悪いのは遺伝のせいでも、子育てが間違っているからでもなく、教師の「期待」が低いからだ。だとしたら、よりよい教育を実現することで、すべての子どもたちが本来の能力を発揮できるようになるはずだ。──公民権運動でアメリカ社会が動揺するなか、白人上流階級の理想主義的なリベラルはこの説明を大歓迎した。 ところがその後、ピグマリオン効果は多くの批判にさらされることになる。その理由はいろいろあるが、突き詰めれば、それが「上に立つ者」にとって都合が悪かったからだろう。 大学の社会心理学のクラスにも、成績の悪い生徒がいるはずだ。そんな学生が、「落第したのは自分が勉強しなかったからでなく、あなたの期待が低いからだ」と教師に抗議するかもしれない。日本の大学教員にもピグマリオン効果を講じるひとがいるが、こうした事態にどう対処するつもりなのだろうか。 同様の理屈は、「親の期待が低い」「上司の期待が低い」「社会の期待が低い」などいくらでも拡張可能だろう。共通するのは「自分はなにも悪くない」ことで、誰もがこんなことをいいはじめたら、社会は成り立たなくなってしまう。 とはいえ、不都合だからといって間違っていることにはならない。ピグマリオン効果は、ほんとうに存在するのだろうか。 医薬品の効果を調べるとき、それが試薬なのかプラセボ(偽薬)なのかを、被験者(患者)だけでなく実験者(医師)にもわからないようにする。これが二重盲検法だが、なぜこんな面倒なことをするかというと、医師の期待が患者に影響することがわかっているからだ。──医師が本物の薬だと知っていると、その期待が(無意識のうちに)患者に伝わって治療効果が上がり、偽薬だと知っていると治療効果が下がる。 ピグマリオン効果を発見したローゼンタールはこれに興味を持ち、動物で実験してみた。ラットをランダムに2つのグループに分け、世話をする学生たちに、一方を「賢いラット」、もう一方を「鈍いラット」だと伝えた。すると、本来は同じ能力のはずなのに、「賢い(とされた)」ラットは、迷路課題で「鈍い(とされた)」ラットを圧倒したのだ。──「賢いラット」を担当していると信じた学生が、より手厚く世話をしたからだとされる。 ローゼンタールはこの結果に驚き、同じことが教育現場でも起きるのではないかと考えた。ちょうどそのとき、ラットの論文に興味をもった小学校の校長が助力を申し出て、歴史的な研究が実現した。 ローゼンタールは小学校で一種の知能テストを行ない、次いで 5人に 1人をランダムに選んで、「この生徒たちはテストで素晴らしい潜在能力を持っていることがわかったから、学習成績が大きく伸びるにちがいない」と教師に伝えた。すると、ラットの実験と同様に、選ばれた生徒たちの成績が上がったばかりか、その効果は 2年後も続いていたのだ。 この印象的な結果(だからこそ社会現象になった)に対しては、その後、膨大な検証実験が行なわれた。それを端折っていえば、結論はおおよそ次のようなものになった。 ①実験者の期待が被験者に影響するという意味でのピグマリオン効果は存在する。 ②ただし、その効果はさほど大きなものではない。 ローゼンタールの実験を詳細に検討すると、ごく一部の生徒の成績が大きく伸びて、全体の平均を押し上げていた(ほとんど効果のない生徒も多かった)。その後の検証で、低学年の生徒にはピグマリオン効果が見られたが、高学年の生徒はほとんど変化がないこともわかった。さらには、低学年の生徒でも、ピグマリオン効果は学期のはじめに大きく、後半になるほど小さくなっていった。 これをまとめると、ピグマリオン効果は、小学校低学年の子どもたちを相手に、教師が生徒のことをよく知らないときにだけ観察でき、その効果は徐々に失われていくらしい。なぜこんなことになるかというと、教師が実際の子どもの能力に合わせて期待を修正するからだろう。 担任する生徒についてなにも知らないとき、権威あるテストで「この子の潜在能力は高い」と判定されれば、教師の高い期待が子どもに影響を与えることもあるかもしれない。だが学期も後半になると、どの子が優秀でどの子がそうでないかを教師自身が判断しているので、それと異なることをいわれても期待はたいして変わらない。高学年になれば、成績の良し悪しは教師も生徒も知っていて、第三者の介入にはほとんど影響されないのだろう。 このようにして、近年は欧米の心理学の授業で、ピグマリオン効果を積極的に教えなくなったらしい。教師も、「成績が悪いのはお前のせいだ」といわれる心配はなくなった。 しかし、これで面倒な問題が解決したわけではない。「大山鳴動して鼠一匹」ではないが、大騒ぎした挙句、けっきょく「遺伝か環境か」の元の話に戻っただけのようだ。
30 強く願うと夢はかなわなくなる ピグマリオン効果は、「この生徒は優秀にちがいない」という教師の「期待」が無意識のうちに子どもに伝わって、実際に成績が上がることをいう。前回述べたように、こうした効果が存在するとしても、限定した状況(小学校低学年で、なおかつ教師が生徒のことをよく知らない一学期のはじめ)でしか観察されず、しかもその効果はさほど大きなものではないらしい。 第三者の「期待」が反映されるピグマリオン効果以上によく知られているのが、自分自身の「期待」や「信念」が実現することで、自己啓発本では「強く願えば夢はかなう」として頻繁に登場する。 これが真理なのは、そもそも願わなければ夢は現実化しないからだ。子どもの頃に「野球選手になる」という夢をもたなければ大谷翔平が大リーグで活躍することはなかっただろうし、「棋士になる」との強い信念がなければ藤井聡太が十代で五冠を達成することもなかっただろう。 だがこうした事例をどれだけ並べても、「強く願えば夢はかなう」と証明されたわけではない。特殊な成功例だけから結論を導くのが「サバイバルバイアス」で、たまたま生き残った者だけに注目して、死んでしまった多くの者たちを無視している。 宝くじは典型的なサバイバルバイアスで、数億円の賞金を手にして「夢をかなえた」者はたしかにいるが、その確率は交通事故で死亡するよりはるかに低い。日本の宝くじは期待値が 50%以下しかない(売上の半分が発売元の取り分になる)世界でもっとも割の悪いギャンブルで、「強く願った」善男善女のほとんどが損をするため、経済学者は「愚か者に課せられた税金」と呼んでいる。「自分は健康で長生きする」と思っているひとが実際に長命で、「身体が弱く短命だ」と悲観していると病気になりやすいという研究は大量にある。だがこれは因果関係が逆で、健康だから楽観的で、病弱だから悲観的になるのかもしれない。 どちらが正しいかは、健康状態のちがいを統制して、楽観的か悲観的かで平均寿命を比べてみればいい。 同程度の心臓発作を起こした患者を調べた研究では、予後について楽観的な予想をするひとは、死期が迫っていると悲観的な予想をするひとよりも長生きした。健康状態がまったく同じでも、悲観的だと事故や暴力(交通事故、水難、労働災害、殺人の被害者)で早死にしやすいという研究もある。 なぜこんなことになるかというと、自分は長生きすると思っているひとほど健康に気を配り、どうせすぐ死んでしまうと思っていると投げやりになって、酒、煙草、ドラッグ、危険な運転やレジャー、リスクのある行為をするようになるかららしい。 興味深いのは、「高齢者に対して偏見をもつと早死にする」というデータがあることだ。その理由は誰もが年をとるからで、老人に対してネガティブな決めつけをしていると、自分が老人になったときに、その偏見が自己実現してしまうのだ。 だったら何事も楽観的になればいいかというと、そんな簡単な話ではない。楽観的か悲観的かはヒトの基本的なパーソナリティのひとつ(神経症傾向)で、およそ半分は親からの遺伝で決まり、残りの半分は環境の影響だが、思春期以降はほぼ変わらないとされる。子どものときに楽観的だとずっと楽観的で、逆に神経症傾向が高いと、大人になってもいろいろな場面で悲観的な選択・行動をしてしまうのだ。 性格が悲観的だと、ほんとうに不幸を招き寄せるのだろうか。このことを調べた興味深い研究がある( 25)。 アメリカの心理学者エマ・オルトゲルトらは、 4カ月以内に結婚したばかりのカップル計 228組(平均年齢は夫 30・ 33歳、妻 28・ 61歳)を集め、標準的なパーソナリティ検査をしたあと、 3年間にわたって、 6カ月あるいは 1年ごとに調査票を送り、自分と相手の浮気について答えてもらった。 この研究の巧妙なところは、新婚早々のラブラブのときから調査を始めていることだ。浮気がバレた(あるいは浮気された)ときに理由を訊けば、「相手がぜんぶ悪い」というに決まっているが、これならどのような性格が浮気と関係しているかを客観的に検証できる。 その結果はというと、「妻の浮気は妻の外向性が高いときに統計的に有意で、夫の浮気は妻の神経症傾向が高いときに有意」となった。 外向的な性格は新しい出会いや強い刺激を好み、浮気しやすいという研究はたくさんある。ではなぜ妻の外向性だけが浮気の指標になるかというと、女が浮気性というわけではなく、男の場合、外向的でも内向的でも同じように浮気するからのようだ(逆にいうと、内向的な妻はあまり浮気をしない)。 妻の神経症傾向が高いと夫に浮気されやすいというのは、「予言の自己実現」で説明される。 悲観的だと自分に自信がなく、「愛されていないのではないか」「浮気されるのではないか」と不安で、つねに夫の行動を監視したり、同僚の女性と食事をしたというような些細なことで取り乱したり、問い詰めたりする。すると夫はそれを煩わしく思い、妻と距離を取り、他の女性に関心を移すようになるというのだ。 夫の神経症傾向が妻の浮気の指標にならないのはなぜだろうか。 これはあくまでも推測だが、進化心理学では、妻は夫の愛情が他の女に移る(自分と子どものための資源を奪われる)ことを警戒し、夫は妻が他の男とセックスする(他人の子どもを育てさせられる)ことを警戒すると考える。 そのため神経症傾向の高い夫でも、妻が会社の同僚や学生時代の男友だちと食事するくらいのことは気にしないが、必要以上に他の男と親しくなると強く嫉妬し、妻の行動を過剰に拘束しようとするかもしれない。これは、一般的には、妻が浮気する可能性を下げるだろう。 あるいは、妻は神経症傾向の高い夫からあれこれ詮索されることを気にするのかもしれない。ジェンダーギャップ(社会的な性差)によって、浮気のコストは夫よりも明らかに妻の方が高い。妻は神経症傾向が高い夫をわずらわしいと思っても、気軽に他の男とつき合うことができないのだ。 それでは、ポジティブな期待の自己実現はどうだろうか。 これについては、ダイエット後のほっそりした姿を思い描いた女性は、ネガティブなイメージを浮かべた女性に比べて体重の減り方が少なく、成績で Aをもらうことをイメージした学生は、勉強時間が減って成績が落ちたという研究がある。 こんな残念な結果になったのは、ヒトの脳が幻想と現実を見分けるのが不得意だかららしい。夢の実現を強く願うと、脳はすでに望みのものを手に入れたと勘違いして、努力するかわりにリラックスしてしまうのだ。「強く願うと夢はかなわなくなる」というのでは希望がないが、その程度の努力でかなう夢などたいしたことないと思えば、すこしは気が休まるのではないだろうか。
31 ベンツに乗ると一時停止しなくなるのはなぜ?「金持ちは利己的だ」といわれる。自分のことより他人の幸福を優先していては、たしかにお金など貯まらないだろう。 その一方で、「貧乏人は利己的だ」ともいわれる。今日一日分の食べものすらなければ、他人から奪ってでも生き延びるしかない。 どちらが正しいのだろうか? カリフォルニア大学バークレー校の社会心理学者ポール・ピフらは、この疑問に答えるため、車によって社会階級を5つに分けた。最上層はフェラーリで、最下層は現代自動車(ヒュンダイ)の乗用車だ。次いで、交通量の多いサンフランシスコのベイエリアの道路で、横断歩道の手前で止まって歩行者を渡らせた車を数えた( 26)。 その結果、車種によってドライバーの行動が明らかに異なることがわかった。 最下層に分類された車種のドライバーは、一人残らず車を止めて歩行者を優先した。中間層では、ドライバーの 30%が車を止めずに歩行者の行く手を遮った。そして最上層のフェラーリのドライバーは、半分が交通法規を無視して自分の都合を優先させたのだ。 この研究は、「貧しいひとはこころがやさしく、金持ちは傲慢だ」という社会通念が正しいことを証明した──ように思われる。 それ以外にも、同様の結論に達した研究がいくつもある。 スタッフの見ていないところでサイコロを 5回振り、出た目の合計を報告すると、数字が大きいほど多くの賞金がもらえる実験では、社会階級が高い参加者の方が合計を水増しし、正当な額より多くの賞金を受け取ろうとした。研究者が困惑したのは、ウソをついた参加者の多くが、自分のごまかしが容易に突き止められると思っていたことだ。それにもかかわらず「非倫理的に振る舞う」のは、バレてもべつにかまわないと思っているからだろう(罰則がないならやったもの勝ちだ)。 それ以外の実験も含め研究者は、「どうやら社会階級の高い人はわざと不誠実に振る舞っているらしい」と結論した。「多くの(社会階級の高い)人が、自分があまり信頼できない人間であることをはっきり自覚しているだけでなく、別にそれでもいいと思っている」ようなのだ。 この研究を知ったとき、知人の会計士から聞いた話を思い出した。医療費控除の申請では、お金持ちの顧客ほど、人間ドックなどの健康診断や美容整形の施術料、漢方薬やビタミン剤の費用など、本来なら控除の対象にならない領収書もすべて記載してくるというのだ。 そのことを会計士が指摘しても、「そのまま提出してください」といわれる。東京など都市部の税務署には大量の医療費控除申請書が送られてきて、限られた人手でそのすべてを細かくチェックすることなどできず、たいていはそのまま通ってしまう。不適切な処理を指摘されたら、「知りませんでした」とその金額を差し引けばいいだけで、罰則があるわけではないのだから、請求できそうなものはすべて載せておくのが合理的だというのだ。 この論理は前述の実験とまったく同じだ。洋の東西を問わず、富裕層は、道徳とか倫理とかにはなんの関心もなく、もっともコスパが高い手段を選択するのだろうか。これは経済学がいう「合理的経済人」そのもので、冷酷にリスクとリターンを計算する者が金持ちになるのだ──。 ところがその後、異なる解釈を示唆する研究が現われた。 参加者を「高い地位」と「低い地位」にランダムに割り振る実験では、低い地位ではウソをついていると面接官に見抜かれる割合が高いが、たまたまボスになっただけの者は、平気でウソをついただけでなく、面接官に「ウソつき」と気づかれることがほとんどなかった。「ちょっとした地位の変化が彼らに自信を与え、利己的なウソつきにした」のだ。 自分のお金でなくても、現金を見るだけで、他人をだます傾向が高まるという研究もある。目の前に余分な現金をたくさん置くと、参加者は自分の得点をごまかして、より多くのお金を獲得しようとした。現金を目立たせると、助けを求められても積極的に支援しなくなるうえ、自分が困難な課題にぶつかったときに、他者に助けを求めるのをためらうようになることもわかった。 これらの研究が示すのは、高級車に乗っている金持ちが利己的で傲慢だというよりも、資産の多寡にかかわらず、ベンツや SUVに乗ると、横断歩道に歩行者がいても一時停止しなくなるらしいことだ。だとしたら逆に、金持ちを軽自動車に乗せると歩行者に親切な運転をするようになるかもしれない。 なぜこんなことになるのだろうか。それはおそらく、お金が人間関係のしがらみから解放してくれるからだ。 醬油や味噌を気軽に近所で貸し借りできる「親密な共同体」を理想化する知識人がたくさんいる。江戸時代の長屋にはたしかにそんな助け合いがあったかもしれないが、それはみんなが貧しかったからだ。だからこそ、それぞれが持っているものをやりくりして、なんとか生きていくしかなかった。 子どもの世話を隣人に頼めるのは、素晴らしいことのように思える。だがそうやって世話になった相手から、「 1万円貸してほしい」といわれたらどうすればいいのだろうか。それくらいならと思うかもしれないが、返してくれないどころか、 3万円、 5万円、 10万円と無心の金額が増えていったら……。 この単純な例からわかるように、ベタな人間関係というのはものすごく面倒くさい。だからこそみんな、自分の子どもの世話を近所の知り合いに任せず、保育園という公共サービスを利用するのだ。 ここから、お金持ちと、そうでないひとのちがいがわかる。貧乏だと自分一人では生きていけず、他者や共同体に依存するしかない。こうして、否応なく、他人を信頼するようになる。なぜなら、信頼してくれないひとを助けようとは誰も思わないから。 逆にいえば、お金さえあれば、他者の信頼がなくても困らないから、礼状や返礼のような煩瑣なルールを気にしなくてもいい。「お金ですませる」経済的な取引は、ものすごく快適なのだ。「現金が視界にあるだけでウソをつくようになる」というのも、ここから説明できる。他者の信頼をつなぎとめるには、あとから告げ口されないように、つねに正直でなければならない。目の前の現金は、そんな「信頼という拘束」を不要にしてくれる。 一連の実験は、「金持ちは利己的/貧乏人は利他的」ということではなく、「誰もが(お金によって)自由になりたがっている」ことを証明したのだ。 なお、金持ちにはたしかに傍若無人なひとがいるものの、自分の評判をものすごく気にするひとも同じくらいいる。誰が動画をアップするかわからない SNS時代には、失うものが多い富裕層ほど品行方正になっていくのではないだろうか。
32 「信頼」の裏に刻印された「服従」の文字 わたしたちはなぜ、他人を信頼するのだろうか? その答はきわめてシンプルで、「誰かに頼らないと生きていけない」からだ。 だとすれば、自分が無力だと感じているほど、他者を信頼する度合いが高くなるはずだ。研究者はこの仮説が正しいかどうかを、「無反応な聴衆の前でスピーチする」というストレスを与えたとき、信頼がどのように変化するかで調べた。その結果は、ストレスによって(自分は無力だという)社会的な不安が生じると、そうでないときに比べて、相手に協力する割合が 50%も高くなった。 自分の無力さをもっともよく知っているのは子どもたちだ。そんな幼児期の信頼を調べた興味深い実験が、アメリカの保育園で行なわれた( 27)。 園児たちは、いつも世話をしてくれる(よく知っている)保育士と、はじめてやってきた(見知らぬ)保育士の映像を見せられた。どちらの保育士が好きか訊ねると、当然のことながら、園児たちはよく知っている保育士が好きとこたえた。 次に保育士が、珍しいモノに名前のラベルを貼るテストに挑み、正解か不正解かが示された。このとき、見知らぬ保育士はつねに正しいラベルを貼り、よく知っている保育士はすべて間違えた。 その後園児たちは、知らないモノを見せられ、どちらの保育士にその名前を教えてもらいたいか訊かれた。 3歳の子どもは、テストの様子を見ても、やはりよく知っている保育士を好んだ。ところが 4歳児は、よく知っている保育士に答えを訊くのをすぐにやめて、見知らぬ保育士を頼るようになった。 同様の結果は、中高生を対象にした研究でも示されている。 生徒たちに教師の能力(ミスの直し方を示せたか、正しい情報を与えたか、クラスを手際よく導き監督できたか)を質問すると、その回答から学習の習得度を明確に予測できた。その教師が好きか嫌いかは習得度とは関係がなかった。 学習にとって重要なのは、子どもが教師の能力を信頼していることだった。たとえその教師が嫌われていても、多くの生徒から有能だと認められていれば、そのクラスは習得度がもっとも高かった。 これらの実験は、わたしたちが、相手にどのような利用価値があるかを(無意識に)見積もっていることを示している。どれほど親切でも、なんの権力ももたず、たいした能力もないのなら、ほとんど役に立たない。子どもは自分が無力であるからこそ、冷徹に相手の能力を評価しており、それは成長しても変わらない。 どのような能力が重要と見なされるかは時代や社会・文化によって異なるとしても、わたしたちはみな、有能な者に魅力を感じ、無能な者を避けるよう、進化の過程で「設計」されているのだ。 このことは、「学習のパラドクス」とでも呼べる事態を引き起こす。 おもちゃの遊び方を子どもに教える実験で、大人が「自分はエキスパートだ」といったとき、子どもは動作のすべてを忠実に真似た。それに対して、「おもちゃについて何も知らない」といわれたときは、子どもたちは「効率的、知的、そして創造的」に行動した。大人が信頼できなければ自分で考えるしかないのだ。──驚いたことに、生後 24カ月の幼児でも実験者の自信を正確に判断することができた。 実験者が先生のような態度をとったとき、子どもたちは指示されたとおりの動作を繰り返して新しいことをやろうとしなかった。子どもはつねに大人の能力を観察しているので、創造的な子どもを育てようとするとき、教育は諸刃の剣になるのだ。 無力な子どもは無条件に親や教師の権威を信頼する。これが「権威主義」の基盤であるのは間違いない。 社会心理学は、権威主義的パーソナリティについて詳細に研究してきた。ユダヤ人へのホロコーストを引き起こしたのは、ドイツ国民の「権威ある者への絶対的服従」と「自分より弱い者に対する攻撃的性格」で、それがヒトラーとファシズムの台頭を許したとされた。 だがその後、アメリカの社会心理学者スタンレー・ミルグラムが、 1960年代の「アイヒマン実験」で、「権威への服従」は国民性ではなく、ヒトの普遍的な傾向であることを示した( 28)。 この有名な実験では、「記憶と学習に関する科学研究」のためにイェール大学(アカデミズムの権威)に集められたごくふつうのアメリカ人が、研究者の指示するままに、「致死的」とされる 450ボルトの電気ショックを「生徒役」に与えた(もちろん生徒役は苦痛の演技をするだけだ)。あまり指摘されないのは、共感力の有無にかかわらず被験者が権威に服従したことだ。 共感力の低い男( 43歳の水質検査員)は、「(生徒役が)本当に死んでてもわたしは別に平気だったでしょう。わたしは仕事をやっただけです」と平然と述べた。 だが熱心にボランティア活動を行ない、不良少年を愛情によって導こうとしている大卒の主婦も、「わたくしは、非常事態ではきわめてすばらしい人物ですのよ。だれを傷つけようがおかまいなしに、やるべきことをやります。身震いもしません。でも何も考えずにやります。ためらいもしません」と語っている。 高い共感力をもつ彼女は、実験中「ごめんなさい、もうできません」と自分にいいつづけていたというが、それでも生徒役に 450ボルトの電気ショックを 3回与えたのだ。「長いものには巻かれろ」を人生訓にしている人間もいれば、親や教師に反抗する若者もいるだろう。その意味でパーソナリティ(性格)にはばらつきがあるものの、ミルグラムの実験が示すのは、きわめて強い圧力を加えられれば、わたしたち(の大半)は無条件で権威に服従するということだ。なぜなら、それが「人間の本性」だから。「信頼は大切だ」と、当然のようにいわれる。信頼がなければ社会は成り立たないから間違いではないものの、これはコインの表面にすぎない。「信頼」と書かれたコインの裏には、「服従」の文字が刻印されている。 日常生活では、わたしたちはみな、他者を信頼しつつ裏切り、服従しつつ反抗するという複雑な社会ゲームをしている。 多くのひとが、「みんなが信頼しあいながら、ちからを合わせて不正義に反抗する」社会を理想とするだろう。だが残念なことに、ヒトが進化の過程でそのように都合よく「設計」された証拠はどこにもない。というより、この世界で起きるさまざまな出来事を見るかぎり、「他者の信頼を裏切り、権威に服従して自分の利益を最大化する」ように、人間は進化してきたのではないだろうか。「そんなことはない」と自信をもっていえるなら、あなたはきっと、とても幸福な人生を送っているのだろう。
33 道徳の「貯金」ができると差別的になる 食べすぎた翌日は、「もっと節制しよう」と反省する。逆にきびしいダイエットを続けると、いきなり暴飲暴食の反動がやってくる。旅行や買い物で散財したあとは節約を決意するが、仕事が忙しいと「そろそろ自分へのご褒美でも」と思いはじめる。 わたしたちは、無意識にいろいろなことを得か損かで判断し、帳尻を合わせようとしている。人類が進化の大半を過ごした旧石器時代には、会計帳簿をつけて長期的な損益を計算する理由などなく、短期的な利益だけが重要だった。帳尻が合わないことばかりしている個体は子孫を残せず、進化の過程で遺伝子のプールから排除されてしまったのだ。 ここまでは誰もが同意するだろうが、この帳尻合わせは思わぬ領域にまで及んでいるかもしれない。それは「道徳」だ。 わたしたちの社会では、「善(利他的)」はプラス、「悪(利己的)」はマイナスとされている。だとしたら、善をなすと道徳の貯金箱がプラスになるので、次は悪行をしても許されると思い、悪をなすと道徳的にマイナスになるので、次は善行で帳尻を合わせようとするのではないか。「そんなバカな」と思うだろうが、この仮説は次のような実験で確かめられた( 29)。 心理学者のブノワ・モニンらは、プリンストン大学の白人学生(男性 50人、女性 82人)をランダムに三つのグループに分け、大手コンサルティング会社の採用担当者になったと仮定して、 5人の応募者を評価してもらった。各グループの学生に示された履歴書の内容は同じで、有名大学で経済学を専攻し、優秀な成績で卒業した 4番目の応募者がもっとも優れていた。異なるのはこの〝スター応募者〟の属性で、第一グループは白人女性、第二グループは黒人男性、第三グループ(対照群)は白人男性にされていた。ほとんどの学生は能力主義のルールに則り、この〝スター応募者〟をもっとも高く評価した。 この課題が終わったあと、被験者の白人学生たちは次の文章を読んだ。すこし長いが、微妙なニュアンスが重要なのでそのまま和訳する。 あなたはアメリカの地方の小さな町の警察署長です。歴史的にその町の人口構成は白人がほとんどで、他の人種に対する町のひとびとの態度は好意的とはいえません。そして残念なことに、これは警察署内部でも同じで、あなたがもっとも有能と思う部下も人種差別的なジョークを口にします。事実、何年か前に黒人の巡査を採用したことがあるのですが、職場でのいやがらせを理由に 1年で辞めてしまいました。あなたはこうした状況を変えたいと思っていますが、それよりも優先すべきは警官本来の仕事です。それはこれまでうまくいっており、あなたは警官たちの間に不安を生じさせるようなことをしたくはありません。 さて、今年も新人警官を採用する時期になりました。一般的なルールでは、警察官には、責任感と市民からの信頼、危機的状況のなかで素早い判断ができる知性をもつことが要求されています。さらに近年の不祥事で、道徳的であること、汚職に手を染めないこと、丁重さや冷静沈着さも求められています。あなたは警察学校の卒業生から応募書類一式を受け取りました。この採用にあたって、あなたは特定の人種を優先的に考慮すべきでしょうか。 この課題は、正解がないようにわざとあいまいに書かれている。白人学生たちは、「治安」と「人種の平等」というやっかいな二者択一を突きつけられたことになる。 この研究が興味深いのは、第一の課題の〝スター応募者〟が誰だったかで、第二の課題の回答にちがいが生じたことだ。〝スター応募者〟が黒人男性だったグループの学生は、次のより微妙な課題では「警察署長としての職責を考えれば新人を白人警官から選ぶのも仕方がない」とこたえることが多かった。それに対して〝スター応募者〟が白人男性だったグループの学生は、「採用にあたって人種を考慮すべきでない」とこたえる割合が高くなった。 なぜこんなことになるのだろうか。研究者は、黒人男性の応募者を選んだ白人学生は、「人種差別をしなかった」と示せたことで「道徳の貯金箱」がプラスになり、次のより微妙な課題で「人種の平等」を考慮しなくなったのだと説明する。逆に白人男性の応募者を採用した白人学生は、「道徳の貯金」ができなかったため、警察署長役の課題では人種を考慮し、マイナスを挽回しようとしたのだ。 さらに興味深いのは、〝スター応募者〟が白人女性だった場合でも、学生たちは「人種の平等」を考慮しなくなったことだ。「自分は性差別主義者ではない」というアピールが、「人種差別」をも正当化したのだ。 一般に「男は保守的」「女はリベラル」とされていて、前者が「差別的」、後者が「寛容」と読み替えられることも多い。このステレオタイプは世論調査などでも支持されているが、この実験では、男と女で結果にちがいがなかった。名門大学の「リベラル」で「寛容」なはずの白人の女子学生も、「道徳の貯金箱」がプラスになったと思えば、男子学生と同様に「差別的」になった。 この実験では、道徳的な判断を他人が聞いていたときの影響も調べている。 隣に研究助手が座っている条件では、黒人の応募者を選んだことをアピールできた学生と、白人の応募者を選んでばつの悪い思いをした学生では、警察署の採用方針に差が生じた。ここまでは予想どおりだが、不思議なのは、コンサルティング会社の課題が終わったあと、ドアがノックされ、研究助手に急用ができたといって同僚と交代したケースだ。 新しく部屋に入ってきた研究助手は、学生が第一の課題でどう答えたか知らないのだから、「道徳の貯金箱」はリセットされるはずだ。ところが実際には、第一の課題で黒人の応募者を採用した学生は、隣に事情を知らない他人がいても、第二の課題で白人警官を採用すると回答した割合が高かった。 この実験結果は、次のようにまとめられるだろう。 まず、「道徳の貯金箱」は大雑把で、人種やジェンダーにかかわらず、自分がなにかよいことをしたと思えば、自動的にプラスにカウントされるらしい(女性の応募者を採用した学生は、人種差別を気にしなくなった)。善行はなんにでも使えるのだ。 もうひとつは、「道徳の貯金箱」の残高が、他人がそれを知っているかどうかに影響されないこと。相手がどう思おうと、自分が納得できればそれでいいのだ。 世の中には「きれいごと」ばかり並べるひとがいる。一般に「リベラル」と総称されるこのひとたちがうさんくさいのは、公の言動で「道徳の貯金箱」がプラスになっていることで、日常的な場面では帳尻を合わせてもいいと思い、不愉快な言動をするからかもしれない。「きれいごと」は魔法の呪文と同じで、それを口にしただけでひとを「差別的」にするようだ。
34 「偏見をもつな」という教育が偏見を強める わたしたちは「善」と「悪」を、(無意識のうちに)損得として計算している。きれいごとをいったり、よいことをすると「道徳の貯金箱」がプラスになって、次は少しくらいヒドいことをしてもいいと思う。逆に、他人から批判されるような言動をしたときは「貯金箱」がマイナスになるので、次は「よいこと」をして挽回しようと思うのだ。 これだけでも「道徳」は一筋縄ではいかないとわかるが、今回はさらに困惑する研究を紹介しよう。 心理学で古典的な「シロクマの実験」は、ある研究者が子どもの頃に聞いたトルストイ(話によってはドストエフスキー)の逸話がもとになっている。 トルストイは「シロクマのことを 5分間考えずにいられるか」という賭けを兄にもちかけられ、受けて立ったが、けっきょく有り金すべてを失うことになった。やってみるとわかるが、別のことで気をまぎらわしたり、注意をそらしたりしても、必ず「考えてはいけない」動物の姿が浮かんでくる。 女性の被験者を2つのグループに分け、一方に「チョコレートについて思っていることをなんでも話してください」といい、もう一方には「チョコレートのことはいっさい考えないでください」と指示した実験では、その後にチョコレートを試食させると、甘いお菓子のことを考えまいとした女性は、そうでない女性の 2倍ちかくも食べた。これは「皮肉なリバウンド効果」と呼ばれているが、ダイエットに挑戦したひとはみな心当たりがあるだろう。 イギリスの心理学者マクリーらは、これと同じことが教育にも当てはまるのではないかと考えた( 30)。 1990年代のイギリスでは、スキンヘッドの若者は極右やネオナチと見なされ、恐れられ嫌われていた。いわば偏見(ステレオタイプ)にさらされていたのだ。 実験の被験者はイギリスの大学生(男女) 24人で、スキンヘッドの男の写真を見て、 5分間でこの人物の典型的な 1日を想像して書くようにいわれた。このとき(ランダムに選んだ)半数には、「他人への印象や評価はステレオタイプによるバイアスに常に影響されている」との心理学の知見を教え、偏見を抑制するよう暗に求めた。残りの対照群には、こうした説明はなかった。 学生たちが書いた文章を第三者が評価すると、「差別をしないように」との指導を受けたグループは、暴力など偏見を感じさせる表現が少なくなっていた。教育の効果が確認されたのだから、ここまではよい話だ。 研究者は続けて、被験者の大学生に別のスキンヘッドの男の写真を見せて、同じく典型的な 1日を想像させた。このときはどちらのグループにも特別な指示はなく、思ったことを自由に書かせた。「教育」なしの対照群では、(当然のことだが) 1回目と 2回目の偏見のレベルは同じだった。ところが「教育」されたグループでは、 2回目の偏見のレベルが大きく上がり、(「教育」なしの)対照群を超えてしまったのだ。 次の実験では、最初の課題を終えた(スキンヘッドの男について想像した)大学生は、「本人が来ているので会ってください」と 1人ずつ別室に案内された。部屋には椅子が8つ並んでいて、いちばん端にデニムジャケットとバッグが置いてある。実験者は学生に、「たぶんトイレで、彼はすぐに戻って来るから、好きなところに腰かけて待っていてください」と告げた。 これは心理実験でよく使われるトリックで、スキンヘッドの男などおらず、被験者がどこに座るのかを見るのが目的だ。偏見が強いほど、無意識に物理的な距離を取ろうとするだろう。結果はというと、ステレオタイプについての「教育」を受けたグループは、そうでないグループよりも遠くの椅子に座った。 この不都合な結果を確認するダメ押しの実験も行なわれている。被験者の大学生は、今度はパソコンに表示される文字列を見て、単語か単語でないかを瞬時に判断する課題をした。単語のなかには、「パンク」「暴力」など、スキンヘッドのステレオタイプを紛れ込ませておいた。すると「教育」を受けたグループの方が、こうした言葉を素早く認識し反応したのだ。 なぜこんなことになるのか。これは「シロクマ効果」の一種で説明できるだろう。「偏見をもつな」といわれると、(無意識に)偏見について考えてしまう。それを意識によって抑制するのだが、これは意志力を消耗させるので、作業が終わったとたん、抑え込んでいた偏見が表に出てきてしまうのだ。こちらは「思考抑制のリバウンド効果」と呼ばれている。 偏見をもたないよう教育すると、かえって偏見が強くなってしまうなら、差別について教えるのをやめた方がいいのか。もちろんそんなことはないが、それが必然的に、差別や偏見を過剰に意識させる効果をともなうことは知っておくべきだろう。 アメリカでは、「肌の色で差別してはならない」という教育が小学校から徹底して行なわれる。すると 10歳にならないうちに、子どもたちは極端な反応を示すようになる。 大人のなかに子どもが 1人だけいる、あるいは男の子のなかに女の子が 1人だけいる絵を見せると、生徒はそれがどのような集団かをすぐに説明できる。ところが、白人のなかに黒人が 1人だけいる絵を見せると、黙り込んでしまう。なぜなら、「人種」について言及してはならないと教えられているから。はたしてこれで、人種差別はなくなるのだろうか。 人種や性別などの属性ではなく、一人ひとりの個性で評価・判断すべきだという「カラー/ジェンダーブラインド」は、いまやリベラルな社会の黄金律になっているが、これを徹底するとすべてが「自己責任」になる。「黒人だから」とか「女だから」などの属性をいっさい考慮してはならないのだから。 その結果近年では、マイノリティの側から、「ブラインド戦略は(白人や男など)マジョリティに都合のいい責任逃れだ」との批判の声があがるようになった。社会のなかで制度的な不利益を被っているグループが存在する以上、「黒人」「女」「性的少数者」などの属性から目をそらしてはならないというのだ。 しかしそうなると、個人としてはちがいがないにもかかわらず、集団としてのちがいは重視しなくてはならなくなる。人種問題では、肌の色で差別してはならないが、「社会的構築物としての人種」で対応を変えるべきだ。同様に学校や会社では、女子学生や女性社員を「個人」として評価する一方で、「女性というジェンダー」への配慮が求められることになるだろう。「差別のないよりよい社会」をつくるうえで、こうした「政治的正しさ」は必要だと思うが、「道徳の貯金箱」や「思考抑制のリバウンド効果」を考えると、はたしてこんな複雑なことがうまくできるだろうか。正直、私はあまり自信がない。
35 共同体のあたたかさは排除から生まれる 10年ほど前まで、中国を頻繁に旅行していた。チベット、新疆、内モンゴルから旧満州まで、ほとんどの観光地を訪れたので(中国人の旅行ガイドに「そんな奴は俺の知り合いにもいない」と驚かれた)、それ以降はすこし足が遠のいている。 いつも個人旅行だが、ときどき現地でツアーに参加した。外国人向けのツアーだと土産物店を連れまわされるのにうんざりして、いつしか中国人向けの国内ツアーを利用するようになった。 私は中国語をひと言も話せないが、ガイドは片言の英語を話すのでなんの問題もない。外国人ツアーに比べて格安なのも魅力だが、効率的に観光名所を回れるし、いろいろ興味深い体験もできた。 そのとき不思議に思ったのは、たとえば昼食のレストランで、ちょっとしたことでみんなの態度が大きく変わることだ。 ガイドが「ここでランチです」と店に案内するだけだと、誰も私のことを気にかけてくれないので、見よう見真似でなんとかするしかない。ところが、「あなたたちはこのテーブル」とグループ分けされたとたん、誰か(たいていはおばさん)が私の代わりに店員に注文したり、おかずをよそったり、かいがいしく世話してくれるのだ(普通話も話せない田舎者と思われたらしい)。 こうしてできたつながりはツアーのあいだ続き、「寺では帽子を取りなさい」とか、「靴はここで脱いで」などと身ぶり手ぶりで教えてくれるし、集合時間に遅れないように気にかけてもくれた。 中国人が親切(というより、おせっかい)ということはあるだろうが、わたしたちがごく自然に「身内びいき」をすることは、 1960年代から社会心理学のさまざまな研究で明らかにされてきた。 有名なのは小学校教師ジェーン・エリオットが行なった「青い目/茶色い目」実験で、クラスの小学生を目の色でグループ分けすることで、簡単に「差別」をつくりだせることを示した。 その後、社会心理学者のヘンリ・タジフェルらが、抽象画ではパウル・クレーが好きか、ワシリー・カンディンスキーが好きかでグループ分けしたところ、このなんの意味もない「最小条件集団」でも、被験者は自分と同じグループに多くの報酬を分け与えた。さらにコイン投げの裏か表かでグループを決めたところ、やはり「身内びいき」が観察された。 わたしたちはどんな理由でも(あるいは理由などなくても)、グループ分けされたとたんに、たちまち「内集団」を形成し、そのメンバー(俺たち)に対して、「外集団」(奴ら)よりずっと親切に振る舞う。 リベラル化する社会では、教会や町内会などの中間共同体が解体して、一人ひとりがばらばらになっていく。こうした個人主義に抵抗する政治思想は、コミュニタリアニズム(共同体主義)と呼ばれる。「古き良きアメリカ」とか「日本の伝統」などに重きを置く保守派が典型だが、リベラルのなかにも共同体主義者は多く、自助や公助だけでなく、「共助」の大切さを強調する。 だがこのひとたちは、共同体(コミュニティ)が内集団そのものであることにはほとんど触れない。彼らが大好きな「人情」や「ぬくもり」、あるいは「誇り」や「自己犠牲」は、進化の過程でヒトの脳に埋め込まれた向社会性、すなわち「身内びいき」から生まれるのだ。 内集団が成立するには、原理的に、外集団が存在しなければならない。家族や地域、学校や会社、国家や民族などの共同体からもたらされる安心感やあたたかさは、共同体のメンバーでない者を排除することから生じる。保守であれリベラルであれ、すべての共同体主義は「排外主義」の一形態なのだ。 チンパンジーなどの近縁種と比べて、とてつもなく大きな社会を形成するヒトは、進化の過程で暴力を抑制し、温和になっていった。チンパンジーは知り合いだけの数十頭の群れで暮らし、知らない相手を攻撃する。これは群れをつくる動物に共通の特徴で、スターバックスで他人と隣合わせになっても殺し合いにならないのは、自然界ではものすごく特殊なことなのだ。 現代の進化論では、ヒトが内集団に対してやさしくなることと、外集団に対して残酷になることは、同じコインの裏表だと考える。外集団との抗争に敗れて皆殺しにされないためには、内集団の結束を固めなくてはならない。仲間との絆は、仲間でない者たちを排除し、限りある資源を確保するために進化した。 およそ 6万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスの一団が、中近東やヨーロッパでネアンデルタール人と出会い、その後、この先住民が絶滅したことはよく知られている。 近年の遺伝人類学の大きな発見は、わたしたちの祖先がネアンデルタール人と交わっていたことだ。サハラ以南のアフリカ以外の系統のすべてのヒトは(もちろん日本人も)、ネアンデルタール人の遺伝子をわずかに持っている。 そればかりか、ユーラシア大陸の東部にデニソワ人という別の先住民がいて、やはりサピエンスと交わったあとに絶滅していたことがわかった。そのデニソワ人は、原人(北京原人など)と遺伝的に交配していた( 31)。 チンパンジーは他の群れと遭遇すると、オスと乳児を殺し、メスを群れに加える(授乳しなくなったメスは生殖可能になる)。だとしたらサピエンスも同様に、ユーラシア大陸で出会った先住民の男を殺し、女を犯したのではないか。 人類の歴史の大半は「リベラル」ではなかったのだから、弱い集団が強い集団に絶滅させられ、その遺伝子の痕跡だけが残ることが頻繁に起きたのだろう。その軌跡はいま、古代骨の DNA解析で明らかにされつつある。 人類の歴史のなかで内集団の規模は拡大し、近代以降は基本単位が国家になった。だが残念なことに、内集団が外集団を必要とする以上、「人類という家族」になることはない。 ヤクザの抗争から宗教戦争、戦国時代の合戦まで、殺し合いがもっとも残酷になるのは、遠く離れた集団同士ではなく、近親憎悪だ。日常的に接触のない相手は脅威にはならず、同盟や交易をした方がお互いにメリットがある。 ルワンダの虐殺では、ツチ族とフツ族は同じ土地で暮らし、同じ言葉を話し、文化と宗教を共有していた。旧ユーゴスラヴィアはもともと「南スラヴ人の国」だったが、凄惨な内戦の結果、分裂した。 ロシア(ルーシ)は、 8世紀末に現在のウクライナに興った東スラヴ人の国(キーウ・ルーシ)に始まる。その後、ウクライナは国民国家への道を歩むが、ロシアの保守派とプーチンにとっては、そこは自分たちの歴史の一部なのだろう。 人類はいまだに進化の呪縛にとらわれていて、だからこそ、いつになっても同じ愚行を繰り返すのかもしれない。
36 愛は世界を救わない 近年、「共感」の重要性がますます強く唱えられるようになった。みんなが高い共感力をもてば、戦争や差別など多くの深刻な問題が解決するのだという。 だがこの楽天的な主張は、二つの疑問に答えなくてはならない。一つは、「共感力は高められるのか」で、もう一つは、「共感力を高めれば、ほんとうに社会はよくなるのか」だ。 最初の質問への答は、「いまはできないが、将来的には可能だろう」になる。 わたしたちの脳は、さまざまな神経伝達物質やホルモンによって駆動している。ドーパミンが報酬系を活性化させて「どうしても手に入れたい」という渇望を生み出すことや、性ホルモンのテストステロンが攻撃性や競争、性的欲望に関係することはよく知られている。 オキシトシンは共感にかかわる神経伝達物質で、「愛と絆のホルモン」とも呼ばれる。女性では子宮頸部への刺激によってオキシトシンが分泌され、性交でオーガズムに至ると相手への愛着が形成される(男性では射精時に分泌される)。妊娠した母親の脳は高濃度のオキシトシンに晒され、出産時には子宮頸部が強く刺激されることで大量のオキシトシンが放出される。オキシトシンは授乳によっても分泌されるから、これによって母と子の愛着が「生理学的に」つくられていく。 恋人同士や親子だけでなく、オキシトシンは他者との共感もはぐくむ。 匿名のパートナーに金銭を一時的に預ける実験では、被験者の鼻にオキシトシンを噴霧すると、パートナーをより信用して高額を預けるようになった。これとは逆に、相手の信頼を感じるとオキシトシンの濃度が上がることもわかっている。人間は徹底的に社会化された動物で、他者と共感しあうように脳を進化させてきたのだ。 共感の基礎に生理学的な要因(オキシトシンという神経伝達物質)があるのなら、教育によって共感を高める努力には限界がある。意志のちからで共感力をもつようにするのも難しそうだ。 社会には生得的に共感力が高い者と低い者がいて、幼児期に環境の影響を受けたとしても、思春期以降はその傾向はほぼ変わらない。オキシトシンの濃度は女が高く(共感力も高い)、男が低い(共感力も低い)という性差も顕著にある。これは、テストステロン(「男性ホルモン」とも呼ばれる)がオキシトシンの効果を抑制するかららしい。とはいえ、脳内のオキシトシン濃度を手軽に高める手法の開発はさほど難しいものではないだろう。 そこで次の問題は、「誰もが一日に数回、オキシトシンを摂取するようになると、いまよりずっとよい世の中になるのか」だ。このことを調べたのが、オランダの心理学者カルステン・ド・ドルーたちのチームだ( 32)。 トロッコ問題は「道徳のジレンマ」として知られている。──暴走するトロッコの先には 5人の作業員がいる。それに気づいたあなたの横には分岐点の切り替えスイッチがあり、それを使えばトロッコの進路を変えることができる。ところがその線路にも 1人の作業員がいて、大声を出しても気づかず、あなたにできるのは切り替えスイッチを押すことだけだ。あなたは 1人を犠牲にして 5人を救うべきか? この思考実験には多くの哲学者が挑戦し正解はないが、ド・ドルーらはこれにちょっとした工夫を加えた。 5人を救うとき犠牲になる作業員に名前をつけたのだ。ここではそれを、ペイター(オランダ人)、アフメド(アラブ人)、ヘルムート(ドイツ人)の3つのグループとしよう。 被験者は全員がオランダ人の男性で、ペイターが内集団(俺たち)、アフメドとヘルムートが外集団(奴ら)になるが、アラブ人よりドイツ人に親近感があるだろう。こうしてつくられた内集団と外集団で、切り替えスイッチを押すかどうかの選択が変わるのかを調べるのが実験の目的だ。──スイッチを押せばペイター/アフメド/ヘルムートは死ぬが、国籍不明の作業員 5人は助かる。 その結果はというと、ペイター(オランダ人)とヘルムート(ドイツ人)では差はなく、ペイターとアフメド(アラブ人)でもわずかに(オランダ人を助ける)内集団びいきが見られただけだった。リベラル化したいまのオランダ人は、人種や国籍でほとんどひとを差別しないのだ。 ここまではよい話だが、研究者は次に、被験者に「愛と絆のホルモン」であるオキシトシンを噴霧してみた。すると今度は、ヘルムート(ドイツ人)よりペイター(オランダ人)の生命を助ける割合がすこし高くなった。だが驚いたのは、アフメド(アラブ人)よりペイターの生命を救おうとする割合がものすごく高くなったことだ。 この結果からド・ドルーらは、「オキシトシンは内集団びいきの郷党的な利他主義者にする効果がある」と結論した。敵対する集団にそれぞれオキシトシンを噴霧して「愛情」を高めると、かえって対立が激化するのだ。 この実験が示すのは、オキシトシンが外集団(奴ら)に対する憎悪を煽ることではない。オランダ人の被験者はアラブ人への敵意からではなく、自分たちのメンバー(ペイター)への「愛と絆」が増したことで、結果的に排他的になったのだ。 ヒトは旧石器時代から、部族に分かれて限られた資源を争ってきたのだから、すべてのひとへの共感 =愛が進化したとは考えにくい。 共感力の負の効果は、「致命的な病気にかかり、苦痛を緩和するための治療を受ける順番を待つ 10歳の少女」の記事を読ませるという別の実験でも確認されている。 このとき、たんに「何をすべきか」を訊かれた被験者は、治療を必要とする他の子どもたちがいる以上、少女を特別扱いして先頭に割り込ませるべきではないと答えた。ところが、少女がどう感じているかを想像するよう促すと、同じような病気で治療を待つ他の子どもたちを差し置いて、少女を先頭に割り込ませることが多くなった。共感を高めたことで、被験者は公正さを無視し、道徳に反する判断をするようになったのだ。 なぜこんなことになるかというと、共感の効果がスポットライトのようなものだかららしい。熱愛中の恋人同士や、幼い子どものいる母親は、愛着の対象に強いスポットライトが当たっているので、その周囲がよく見えなくなる。このスポットライトは内集団や(かわいい)子どもに向けられやすい。だからこそ人為的に共感を高めると、同じ国籍の作業員を助けようとしたり、たまたま記事を読んだだけの少女の治療を優先させようとするのだ。 共感はもちろん素晴らしいもので、それを否定するつもりは毛頭ない。親しくつき合うなら、相手の気持ちがわからない〝冷たい〟サイコパスより、共感あふれる〝あたたかな〟ひとの方がいいに決まっている。 とはいえこうした実験は、「愛は世界を救う」のではなく、「愛」を強調すると世界はより分断されることを示しているようだ。
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