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第二章 A I時代の「生き方」の作法

第二章 A I時代の「生き方」の作法

● AIは人間の可能性を浮き彫りにする ●心はどうすれば強くなるか ●自分で強いと思った瞬間、弱くなる ●「不安」が消えることはない ●人間が完全に理解し合えることはない ●怒りは抑えるべきか ●悪いものも、逆から見ればよいものになる

A Iは人間の可能性を浮き彫りにする A Iがこのまま進化すると人間の知性を超える日がくるという説が唱えられるなど、 A Iをめぐってはかまびすしいほどの議論がされています。

A Iは人間がやる仕事を片っ端から奪い取る悪魔のような存在だという意見がある一方、労働は A Iに任せ、人間の大半は政府が保障するベーシックインカムで自分の好きなことをして暮らす社会になるとポジティブに夢を語る人もいます。

A Iの知性は、たしかに近年著しく進歩しています。

車の自動運転を可能にしたり、人間と会話ができるロボットが開発されたり、さまざまな分野で実用化が進んでいます。

将棋や囲碁の名人と試合をして A Iが勝利したというニュースは、 A Iはそんなにも進化したのかという感想を多くの人に抱かせたと思います。

A Iには膨大なアルゴリズム(解に至る手順)がプログラムされているわけですから、 AIがここまで進化すれば、生身の脳に対して優位になることは想像できます。

ただし、 AIが優秀だといっても、それは二進法をベースとする「量」の計算においてです。

現実世界の微妙に変化する「質」を A Iはとらえることができません。

たとえば、人間の「心」や「情熱」といったものは、記憶力や分析力ではなく、人間の感情や感覚の世界に属します。

ですから A Iには「心」や「情熱」といったものは、いまの段階ではわからないわけです。

あるいは、人間の脳は「疑う」ことができますが、この「疑う」ということは A Iにはできません。

「疑う」という思考はとても重要なもので、「疑う」からこそ、人類はさまざまなものを発明したり、危険から身を守ったりできるわけです。

デカルトが「我思う、ゆえに我あり」といったように、「疑う」ことは人間を人間たらしめるものです。

A Iの進化は逆に人間にしかないもの、人間にしかできない可能性を大きく浮き彫りにしてくれるのではないでしょうか。

人間が人間らしく生きていくにはどうすればいいか? そんな根源的な問いを A Iはわれわれに突き付けているのです。

A Iを技術的に掘り下げていくことが、さまざまな可能性を広げることになる点は否定しませんが、大事なことは、 AIや機械にできることとできないことをしっかり峻別しておくことです。

A Iをいたずらに脅威ととらえる必要はないと思います。

人間にしかできないことと A Iができることとをバランスよく共存させ、あくまで A Iは人間の可能性を広げていくためのツールとして存在する。

心を動かし、情熱をもって前に進み、成長していける仕事を A Iがサポートする。

そのように A Iを人間社会のなかで巧みにデザインしていけばいいのです。

これからは、そんな労働環境や社会について議論し合いながら、われわれの生活を構築していく必要があると思います。

心はどうすれば強くなるか「心はどうすれば強くなりますか」。

取材などでそんな質問をたまにされることがあります。

質問者はまるで体を鍛えるのと同じように、心にも鍛え方があるのではと考えている節があります。

しかし、こうすれば心が強くなるなどといった単純なマニュアルはどこにもありません。

そもそも心とは何? 心はどこにあるの? それすらもはっきりしていません。

近代以前なら、心臓のあたりに心があると思っていた人もけっこういたことでしょう。

いまでは脳神経の複雑な動きによって心という現象が起こることがわかっていますが、その脳の活動だって、手や足など体のさまざまな部位の動きや血液の流れといったものと密接に関係しています。

そうすると独立した脳だけを取り出して、これが心をつくっているとはいえなくなる。

つまり生命活動のすべてと心の動きは、オーバーラップしているともいえるわけです。

となると、体を鍛えることもまた心を強くするといえそうですが、体を鍛えている人を見ていると、必ずしも「文 =武」ではないことがわかります。

ただ、漁師や農家の人のように、主に体を使って仕事をしている人を見ていると、都会の人間にはない心の強さもあるのはたしかです。

それは厳しい自然を相手に、それこそ地に足をつけながら一生懸命に仕事をしていることからくるのではないかと思います。

仕事や生活のなかで疑問が湧いたり問題が起これば、それを自分の頭で考え、体を動かさなくては解決しない。

ぼんやり見過ごしたり、人任せにしたりすると、命の危険にさらされたり、生活が丸ごと崩れてしまう重要な問題も少なくないでしょうから、気がなかなか抜けない。

都会人にはない強さが彼らにあるとすれば、日々のそうした繰り返しが、彼らをタフにしているのだと思います。

自分で強いと思った瞬間、弱くなる ネットでたくさんの情報を仕入れ、本を読んで知識を蓄えても、それだけで心が強くなることはありません。

やはり、生きていくなかで疑問や問題にぶつかったら、自分の頭で考え、解決して前に進む。

そうやって幾度も幾度も考えたり体験したりすることによって、人は強くなっていくのではないでしょうか。

ただし、どういうことを考え、具体的にどんな経験を重ねると心が鍛えられて強くなるというマニュアルはありません。

必要なのは、常に自分なりのベストを尽くすことです。

私はアメリカ駐在時代に 24時間フル稼働といってもいいくらい働いていたことがありました。

それこそ週末の休暇もとらず、毎日寝て食事をする以外はすべて仕事で埋まっている状態でした。

時差の関係で早朝は欧州とやりとりをし、夜は日本が相手。

お酒と睡眠不足で体を酷使しながら仕事をしていることもしょっちゅうでした。

このときの経験で「俺は仕事量では誰にも負けない」と思えるほどの自負心を持つようになりました。

仕事や人生にはトラブルがつきものですが、そんなトラブルもまた心を鍛えてくれます。

問題が起きたときに逃げたりせず、解決しようと努力をし続けることは、心を強くすることにつながります。

どんなトラブルに対しても真正面から力を尽くして取り組めば、必ず心は鍛えられるのです。

かといって、面倒な問題をいろいろ経験したり、あるいは仕事でベストを尽くして頑張ってきた人が「俺は仕事でさんざん鍛えられた。

だから強い」などと思ったら、そこでお終いです。

強いと思った時点で夜郎自大の自負心となり、その人の心の成長は止まるのです。

そもそも心の強さをはかる目盛りなど、どこにもありません。

物理的にここから先の状態は強いとか、これより下は弱いといった尺度は存在しません。

心は形もなければ、質量もありません。

だからこそ、心を鍛えたり、強くするといったことには際限がない。

ただ心の強さというものは、何かあったときに自分のなかでしっかりした手応えとして感じるものです。

たとえば、それは、納得がいくまで力を尽くして事にあたったときに生まれる、心の強さ。

そして、どんな状況においても、平常心を感じられるときではないでしょうか。

日々、できうる努力はとことんする。

そんな繰り返しが心を確実に鍛え、強くしてくれることは間違いありません。

「不安」が消えることはない

最近とくに景気がパッとせず、先行きが不透明なせいもあって、不安を訴える人が増えているようです。

しかし、将来の見通しがよくないからといって、それだけで不安が増すわけではないでしょう。

不安は生きている限り、どんな状況であろうとも、なくならないものです。

傍からはものすごく幸せそうに見えていても、人は誰でも何らかの不安は抱えているはずです。

われわれは、幸せであること自体に不安を懐くこともあります。

なぜならいまの状態が永遠に続くことはありえず、いつか幸せを失うことだってありうるからです。

不安を打ち消そうと努力をして、その不安が消えても、また別の不安が次から次へと生まれてくる。

しかし、そんな不安と闘うことで人は成長します。

不安は人を前に動かす大きな力になるのです。

人は真面目に仕事をし、真剣に生きようとすればするほど、不安の数も増えます。

不安が2つのこともあれば、3つ、4つのこともある。

ですから不安が湧いてくるたびに、いちいち「大変だ」とおろおろしても仕方ありません。

不安に感じることが起きても、そこから目をそらしたりしてはいけないと思います。

不安から逃げれば、不安は一層大きくなるものです。

とてつもなく大きな不安であれば思わず逃げ出したくなるものですが、そういうときほど不安と向き合って、むしろ「北風に負けてたまるか」の強い心で、不安の懐に飛び込むような気持ちを持つことです。

不安から逃げれば、不安は追っかけてくるものです。

不安は正面から向き合ってくれるのを待っているのです。

勇気を出して一歩踏み出してみてください。

きっと不安の姿は小さくなるはずです。

かつて勤めていた会社の経営が大きく傾き、倒産の危機に瀕したとき、陣頭指揮をとっていた私は、巨額の不良債権の一括処理を銀行や声なき声の強い反対を押し切って進めました。

下手をすれば投資家からは見放され、社員やその家族が路頭に迷うかもしれないという地獄の一丁目にまさに立っている状態でした。

その決断をするまでの数週間、私は食べたものを何度も反芻する牛の胃袋を頭のなかに持っているような心境でした。

非常に大きな決断でしたが、不良債権という大きな不安は一気に取り除かなければ、さらに取り返しのつかない大きな危機に直面することになる。

この後ろ向きの事業の決断と、将来に向けての新しい事業への挑戦と投資という両輪の決断を迫られました。

問題が生じたときは、そこから目を背けてはいけない。

日々自らのベストを尽くし続けることです。

失敗したとしてもそれが自分の努力の結果であれば、それが自分の実力なのです。

それが勝負をかけるということであり、心をも強くするのです。

問題があればこそ、人生です。

問題がなければ、それは生きているとはいえない。

北風は自分を前へ進めてくれる熱源のようなもの。

そう思って問題を否定的にとらえるのではなく、逃げない決断をすると、心が強くなるような実感が湧くものです。

将棋の羽生善治さんや京都大学アメフト部が全日本で二連覇を成し遂げたときの監督、水野彌一さんと話したとき、勝負で平常心を保つにはどういう心がけをされているのか、うかがったことがあります。

すると「日常の生活で、もうこれ以上はやれないというところまで、一生懸命にやり尽くすことです。

そこまですれば、本番ではいい意味で開き直れます」という答えが返ってきました。

つまり、「これ以上はできないというほど日々の努力を尽くせば、たとえ勝負に負けても、それが自らの実力なのだから思い残すことはない」ということです。

「やれるだけのことをやったのだ」という心境になれば、勝負に対する不安は消え、平常心をもって臨めるのでしょう。

反対に、まだやり足りないことがある。

あれもこれもやっておけばよかったと心に残している人は、不安な気持ちで本番に臨むことになります。

学校の試験でも取引先に行う重要なプレゼンでも、ベストを尽くした準備をしていなければ、うまくはいかないでしょう。

不安に勝つには、常にベストを尽くすことしかありません。

これだけ努力をしたのだからこれ以上はできない。

あとは神か天に委ねる他ないという達観こそが、不安を乗り越えていく底力になるのです。

人間が完全に理解し合えることはない「話せばわかる」といういい方があります。

敵対している相手でも腹を割ってとことん話し合えば、誤解が解けたり、互いのことを理解できたりするという信念を持っている人はたしかにいます。

しかし、現実は「話してもわからない人」が大半だと思います。

かくいう私だって相手から見れば、「話してもわからない人」だと思われていることがきっとあるはずです。

すなわち、人間は 100パーセント理解し合うことなどありえないのです。

互いに自分の考えや思いを可能な限りさらけ出せば深く理解し合える、などというのは美しい幻想です。

どんなに仲のよい友だちであろうと、長年一緒に暮らしている家族であろうと、わからない部分は絶対にある。

理解しているつもりでも、心の奥深い部分までは絶対にわからない。

だから人間は面倒くさくて難しい。

そのくらいの心づもりで人とは向き合ったほうがいいと思います。

そうでないと必要以上に期待をして、失望することになりかねません。

考えてみれば自分のことだって、よくわからない部分はたくさんあります。

想定外のことを経験し、こんな醜い感情や思いが自分のなかに潜んでいたのかと驚いたことは誰しもあるでしょう。

意識にのぼっていることは自覚できても、無意識に抑え込んでいるものについては、ふだんその姿を目にすることはありません。

たまにひょんなことでそれが顔を現し、「えっ」と驚愕したりするわけです。

それが人間というものです。

自分のことですらそうなのですから、ましてや他人の心など、もっとわからないことが多いのは当然といえば当然です。

「不可解なもの」をたくさん抱えているのが人間です。

「不可解なもの」がいっさいない、神のような純真無垢な人間なんて、この世に存在しえません。

信頼していた人の嫉妬や卑劣さを目のあたりにして「生きるのがいやになった」と思った経験は誰にでもあるでしょう。

しかしながら、嫉妬や冷酷な面を持たない人間はいないのです。

経済的合理性や効率といったことが重んじられるいまの社会に生きていると、そのような不合理な存在である人間まで合理的に解釈しようとする人が増えるのかもしれません。

しかし本来、人は複雑怪奇で不可解な存在であるという前提に立つほうが、人間関係の軋轢やトラブルといったものは少なくなり、より頑健な人間関係も築けるのだと思います。

怒りは抑えるべきか 年を取ると、怒りっぽくなる人が増えるといわれます。

スーパーのレジの対応にキレたり、電車のシルバーシートにどっかり腰をおろしている若者を叱りとばしたり、最近はキレる高齢者の話がテレビや雑誌でよく取りあげられます。

加齢とともに怒りっぽくなるのは、脳科学的にはきちんと説明できるといわれています。

怒りの感情は脳の大脳辺縁系でつくられるのですが、それを抑制するのが前頭葉です。

ところが年を取ると前頭葉の機能が衰え、そのストッパーの役割が十分に果たせなくなるようです。

また高齢者は耳が遠くなったり、他人の話がうまく理解できなくなったりするので、コミュニケーションに齟齬をきたすこともあります。

それが感情の爆発につながることもあるでしょう。

怒りっぽくなるのは、そんな身体機能の衰えからくることだけが原因ではありません。

スマホやパソコンが普及し、消費行動や人との付き合いが IT化の環境によって大きく変わってきていることも、それについていけない人たちにとってはストレスです。

さらに若者の高齢者に対する接し方が昔のような長幼の序的な感覚とは違ってきていることも、ときには腹を立てる要因になるかもしれません。

つまり、怒ることに対し、高齢者はいろいろな意味でそのハードルが下がっているといえます。

もちろん理不尽な怒り方はよくありませんが、少なくとも加齢とともに怒りやすくなる条件を背負っていることに自覚を持つのは、いつの時代でも大切なことだと思います。

そんな自覚があれば、自分を客観的にとらえられ、感情をコントロールしやすくなるからです。

もっとも高齢者に限らず、現代社会には怒りの感情をためている人がとても増えているようです。

アンガーマネジメントなる怒りをコントロールする方法を伝授するセミナーが流行ったり、内から湧いてくる怒りの感情にどう対処すればよいのかといったテーマの本もよく売れています。

ただ、勘違いしてはいけないのは、怒りに関して問題なのは、怒り方や何に対して怒っているのかという内容であって、怒りの感情そのものが悪いわけではないということです。

どうでもいいような些細なことで人に感情を暴発させたり、ストレスがたまって当たり散らしたり、自分勝手な理由で怒るのはもってのほかですが、何らかの不正義を見て怒ったり、理不尽な目に遭って怒るのは、人として当然のことです。

自然界の生物は危機に出くわしたときに感情が高ぶって身構えたりしますが、これは自らの生命を守るための本能から出た行動です。

人間にもそれと同じレベルの感情というものがあるはずです。

そうした類いの感情は抑えたりせずに、むしろきちんと外に出したほうがいいのです。

感情の高ぶりはどのようなものでもよくないもの、非理性的なものとしてしりぞけたり、コントロールしなくてはいけないと考えていると、人間らしさが失われていきます。

最近の人は自分の視野に入る範囲の狭い世界のなかでイライラしたり、感情をぶつけ合ったりしていることが多くなっているように感じます。

平たくいえば、同じ怒るなら、もっと大事なことがたくさんあるじゃないかといいたくなる。

政治でも経済でも日本の社会はさまざまな問題が山のように積もっていますが、どうしてそうしたものに怒りの矛先を向けないのかと、老婆心ながら思ってしまいます。

ところで、ふだん不必要に怒らないようにするには、他人に期待したり頼りすぎたりしないようにすることが一番です。

自分がこの世に命を授かったこと、直接、間接に自分を支えてくれてきた無数の人たち、自然……そうしたものへの感謝の気持ちをいつも持っていれば、他人のせいにしたりせず、心が穏やかになってイライラした気持ちは減るはずです。

以前ある宗教団体のリーダーの対談を目にしたことがありますが、その方は自分に起こるどんなことに対しても「ありがとう」といっています、とおっしゃっていました。

たとえ車に轢かれて怪我をしても「ありがとう」、人から悪口をいわれても「ありがとう」といわれるのだそうです。

私は不幸な出来事にまで「ありがとう」などとはとてもいえませんし、理不尽なことや正しくないことには敢然と立ち向かって怒るほうです。

ただ、こうした感謝の気持ちをふだん見落としがちな小さなことにも向けるのは、努力しなくてはできないことでしょう。

怒りも感謝も、人をとても人間らしくする感情です。

どちらか一方に偏らず、車の両輪のようにうまく使っていきたいものです。

悪いものも、逆から見ればよいものになる 人の長所、短所というものは、アングルを変えれば長所が短所になり、短所が長所になったりするものです。

ある仕事でマイナスと感じるものでも、他の仕事から見るとプラスになることもあります。

また、性格でマイナスと感じる部分が、ある状況においてはプラスになることもあります。

鈍感な人は、細かいことに気づかないゆえにあまりくよくよしたりすることもなく、ストレスがたまらない人生を送れるかもしれません。

優柔不断な人は裏返せば慎重だし、自信がない人はその分謙虚で努力し、短気な人は決断が早かったりもします。

どんな短所でも反対から見れば長所にもなりえたりするので、短所は悪いと決めつけずに自分の強さにするなど、見方を変えて、いかにうまく付き合うかが大事です。

勝手に短所だと決め込んで人を評価したり、仕事の能力を判断すると、相手のいい部分を見落としかねません。

生産性がもっとも重要視される会社組織のようなところでは、社員の価値評価を下す尺度が一律になりがちです。

仕事をテキパキやって高い成果を上げる社員は評価が高くなるし、仕事が遅く結果もあまり出さない社員はどうしても評価が低くなる。

では結果をさほど出さず、会社への貢献度が低そうに思える社員は、会社にとっては役立たずの存在なのか。

「働きアリの法則」というものがあります。

ご存知の方も多いでしょうが、働きアリの集団は、よく働くアリ、ときどきサボる普通に働くアリ、ずっとサボっているアリ、それぞれの割合は 2: 6: 2であるという法則です。

面白いのは、 ①このなかからよく働くアリを間引くと、残りの 8割のなかの 2割がよく働くアリになる、 ②よく働くアリだけを集めても一部がサボり始め、 2: 6: 2の割合となる、 ③サボっているアリだけを集めると一部が働き出し、やはり 2: 6: 2の割合になることです。

この法則は会社組織など人間のコミュニティにもよくたとえられるのですが、実際、私も会社組織を見ていると、この法則が当てはまることが多いと感じます。

仕事をばりばりやって生産性が高い社員が 2割、普通に可もなく不可もなく仕事をこなすタイプが 6割、そして会社にたいして貢献をしていないような社員が残りの 2割。

働きアリの社会とだいたい似た割合になっていくものです。

アリの社会においては、サボっているアリもコロニーを維持していく上で実は欠かせない存在だといわれています。

それと同じで、会社においても、組織全体で見ればあまり貢献していないように見える社員でも、大局的に見れば、組織を健全に維持していくための潤滑油の役目を果たしているのかもしれません。

会社への生産性は高くないけれど、その人がいるだけで職場の雰囲気がなごみ、仕事がやりやすい空気をつくっているという人がいれば、その人は会社の生産性に陰ながら貢献していることになります。

ところが、このような人は数字などのデータに表れる現実的な生産性、効率性という評価尺度からはマイナスということになります。

こういうことは実際にはありえないことですが、もし職場が仕事がばりばりできる優秀な人ばかりでかためられていたら、熾烈な競争が繰り広げられ、皆疲弊してしまうに違いありません。

しかし、生産性という点ではいまひとつパッとしない社員がそこに何人かでもいれば、競争意識で充満した余裕のない空気は和らぐかもしれませんし、多少の優越感を一部の人々に与えるかもしれません。

そんな観点で見れば、仕事ぶりはいまひとつでも皆をなごませ、職場にいい空気をつくるような社員であれば、その人は本当は少しは評価されてもいいわけです。

社員を評価する基準は生産性といった数字だけでなく、もっと多面的であってもいいのです。

短所の裏側にある長所にも目を向ける。

自分の短所も人の短所も、その短所の置き場所を少し変えて眺めてみる。

仕事に限らず、どんな人間関係においても、そのような複眼でとらえることは仕事や生き方を豊かにしてくれると思います。

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