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第五章 自然体で生きられないのは人間だけ

第五章 自然体で生きられないのは人間だけ

●ストレスを減らそうとするな ●「ありのままに生きる」ことは難しい ●仕事には緩急をつける ●自発的に仕事をすると疲れない ●私なりの手抜き健康法 ●なるべく自然体でいる ●動きたくないときほど、意識して動く ●母親の死で体重が 6キロ落ちる ●「ただの人」として懸命に生きる

ストレスを減らそうとするな 体の調子が悪くて病院などに行くと、「ストレスが影響してますね」というようなことを医者からいわれたりします。

何にでもストレスという言葉を持ち出して、ストレスのせいにしてしまう。

それでは何も診ていないのに等しいと思います。

医者がストレスという名の病気をつくったといっても過言ではないでしょう。

ストレスと一口にいっても、新しいことを始めれば、どんなこともストレスになりえます。

健康のためにもっと水を飲まなくてはと思えば、それもストレスだし、混んでいる電車に乗ればそれもストレス。

部屋が散らかっているから片づけなくてはと思うのもストレスだし、取引先と会って商談をまとめようとするのもストレス。

これをするとストレスになりそうだから避けようと神経を使うのもストレス。

何でもかんでもストレスになりうるような気がします。

ストレスはきわめて便利な言葉ですが、ストレスという概念に過敏に反応する人を見ていると、ストレスを避けたり、解消するために生きているのではないかとさえ感じてしまいます。

生きていくことがストレスだというのなら、ストレスという言葉をことさら持ち出す必要はないでしょう。

近ごろはストレス過敏社会の反動なのか、自然体で生きたいと願う人が増えているようです。

しかしながら、ストレスを意識している限り、自然体にはなれません。

ストレスを除けば自然体になるのではなく、ストレスという概念を持たずに生きていくことが自然体ではないでしょうか。

医者は「ストレスになるので、あまり細かいことに気を遣わないほうがいいですよ」といったりしますが、それは間違っています。

細かいことに神経を使うのが、その人にとっての自然体なのです。

「ストレスを感じやすい性格なんですね」といわれても、物事を敏感に感じやすい性格というだけのことですから、神経をもう少し太くして生きようなどと思わず、そのままで生きていけばいいのです。

それが自然体です。

ストレスを減らそうと努めることで自然体で生きられるのではなく、ストレスという言葉を自分のなかからなくせば、おのずと自然体になっていくのではないかと、ど素人の私は身勝手に思ったりしています。

「ありのままに生きる」ことは難しい 各界で成功した人が自分の半生を綴る、日本経済新聞の「私の履歴書」という人気欄があります。

私がよく知っている財界人や政治家の方々も書いていましたが、時々知人が「おい、本当のことをいわないのか」みたいなことをいったりしています。

人にはいえない恥ずかしいトラブルや失敗談を隠したりして、格好のいいことばかり書いているのではないのかという人もいます。

失敗した体験が語られても、それは後の成功につながる糧として都合よく取りあげられていたり、要は本人がいいように脚色しているわけです。

誰しも自分の歴史を人様に語るときは下駄を履いているのです。

そして、それが人間の本性ともいえます。

だから「私の履歴書」は、立派なことが書いてあるのが普通であり、他人がとやかくいうことではありません。

どの履歴書もたいていは、「不都合な真実」に目をつぶる個人史になるのではないでしょうか。

私以外でも「私の履歴書」の執筆依頼をお受けにならない方々について耳にしています。

本音をいうと、かくいう私自身もいい格好をした履歴書を書いてしまうだろうと思います。

自分のなかの「不都合な真実」に対しては、3つの姿勢があります。

一つは逃げずに正面から見つめ、それをありのままに、人にもいえるもの。

もう一つは都合が悪いから隠してしまうもの。

あと一つは半ば無意識な操作によって合理化してしまうもの。

つまりこんなことがあったけども、それには大義があって仕方なかったのだと正当化するものです。

「不都合な真実」は、勇気を持ってすべて明らかにするのがいいとは限りません。

これを喋ると多くの人に迷惑がかかるというものであれば、それは伏せておくべきでしょう。

たとえば官僚の立場で重大な国家機密に関する事案に関わった。

それを公開すれば社会が混乱する。

当分は隠しておいたほうが国民にとってはプラスだと判断すれば、話さないほうがいいということでしょう。

しかし、誰にも迷惑がかからないような「不都合な真実」であっても、自分の恥ずかしい部分に関わるものであれば、隠しておきたいのが人の性です。

そういうことを考えると、「ありのままの自分」を認めて、ありのままに生きるといったことは、口でいうのはやさしいですが、なかなか難しいことです。

ただ、自分にとっては不都合なこと、つまり人には見せたくない欠点や、恥ずかしい過去というものは、それをないことにして振る舞っていると、いつまでも本人の心の底にとどまり、残滓のように消えることはないでしょう。

人は誰しも弱さを抱えていますが、その弱さから目をそらさず、受け入れないことには本当に強くもなれません。

ですから、自分の欠点や弱さといったものを、勇気を持って受け入れて自覚することが大切です。

ありのままの自分から見れば、背伸びして人によく見せている自分の姿はどこかみっともないものです。

とはいえ、そのことに気づくことも、「ありのままの自分」に少しでも近づく一つの方法ではないでしょうか。

仕事には緩急をつける「いつも全力で仕事をされているように見えますが、疲れて休みたいというときはないのですか」。

仕事関係の人から、そんなことをいわれることがあります。

しかし、いつも全力でやっているように見えるというのは有り難い誤解です。

当然ながら力を抜くときだって、ときにはあります。

常に全力でやるなんてことは、そもそも生身の人間にできることではありません。

どれほど体力があろうと、エネルギッシュな行動力があろうと、どこかで気を抜かないと絶対に続きません。

たとえば、限られた時間のなかで複数の種類の仕事をするとなると、やはりどうしても優先順位をつけてやっていくより仕方ありません。

この仕事は未知の部分が多いので勉強して念入りな準備をしないといいものにならないと思えば、その仕事に重点を置くことになるでしょうし、別の仕事はいままでの経験値の範囲でさっと済ますことができると判断すれば、少し負荷を軽くして進める。

そんな緩急を上手につけながら、仕事はすべきものだと思います。

すべてどんなものにも全力を出してやれば、そのうち息切れをしてしまいます。

手抜きというと語感はよくないですが、いい意味での手抜きは絶対に必要なのです。

私は社長に就任したとき、尊敬する社長経験者の方から「不義理ということを覚えたほうがいい」とアドバイスを受けました。

社長という立場上、付き合いの関係で、たとえば夥しい数の冠婚葬祭などにも出席したいと思うことがあります。

しかし、すべて義理堅く顔を出すことは、いくら時間があっても足りません。

仕事とのバランス上、物理的にも無理です。

ですから、こと仕事関係の付き合いは不義理という手抜きを覚えておくといいということなの

です。

体調が悪くても、恩義を受けた人の葬儀であれば無理を押してでも行きますが、顔すらはっきり出てこない程度の付き合いであれば、申し訳ないけれど欠席させていただきます、となります。

体力が衰え、ちょっとしたことが健康に障る高齢になると、この手の不義理をけっこうするものですが、高齢でなくても事と次第によっては、不義理はいろいろあってもご容赦いただきたいものです。

いい手抜きは必要だといいましたが、そのあたりの加減は当然人によって違ってくるでしょう。

私の場合は仕事が好きなせいもあるのか、あまり疲れやストレスを感じることが昔から少なかったことは事実です。

だから、自分のなかでは緩急をつけてやっているつもりでも、傍からは常にフルで動いているように見えたのかもしれません。

ところが精神的には疲れを感じていないように思いながら、実際、医者に診てもらうと「ストレスが相当たまっていますよ」などといわれたりします。

血液検査をすると、それがはっきりと出るのです。

すると医者からは当然、「あなたは疲れていないというけど、体は正直ですよ。

もう少し体を休めてください」といったアドバイスを受けます。

ところが、私の場合は常に仕事をしていないとダメなようで、長い休暇をとったりすると、かえって落ち着かなくなり、ストレスがたまってくる気がします。

こればかりは性分としかいいようがないのかもしれません。

そんな私ですが、自分の命を賭けるくらいの気概で打ち込んだ仕事となると、体重が 5、 6キロ減って、さすがに心身ともに疲れ果てているなと感じるときもあります。

真剣に仕事をしていれば、血の小便が出るほど命を張るような勝負をしないといけない場合があるものです。

血の小便が出ないので、いまだそこまで真剣ではないのかとかえって気になったときはありますが、そんな局面があることもある意味では仕事の醍醐味だと私は思っています。

自発的に仕事をすると疲れない 変化が激しく、複雑な環境に生きていることもあってか、「疲れる」という言葉を口にする人が職場でも家庭でも非常に増えているようです。

長時間労働がやり玉にあげられ、働き方改革なんてことが声高に叫ばれていますが、これはたんに労働時間が長いせいで疲れるわけではないと思います。

仕事がもし楽しければ、長い時間働いていても、さほど疲れた気分にはならないはずです。

反対に労働時間が短くても、人間関係のストレスやら仕事に対する不満が大きければ、疲れに大きく影響するでしょう。

「疲れる」という状態になるには、さまざまな要因があると思います。

どのような質の疲れであれ、疲れを覚えたらまず休息しなければと普通は思います。

ところが私は、休息するとかえって落ち着かなくなったりして、逆におかしな疲れを感じたりするのです。

ですから、休むのが下手というより、休むこと自体が自分には合っていないんじゃないかと思っています。

こういうとやや自慢めいて嫌なのですが、前にも触れた通り、実は私自身はどんなに忙しくても、疲れというものをあまり感じたことがありません。

なぜ忙しくても疲れることが少ないのか、自分なりに分析してみると、実際には体が疲れていても、疲れるという意識をあまり持たないからだと思います。

しょっちゅう「疲れた」といっている人を見ていると、実際はいうほど忙しくないのではと思ったりすることがあります。

上司に苦手なのがいるとか職場の人間関係でストレスが多少あったりするかもしれませんが、そこまで「疲れ」を表現しなくてもいいんじゃないのかと感じることも多々あります。

つまり、体の疲れはそれほどでもないのに、仕事量よりも人間関係に「疲れた」という意識によって、疲れを必要以上に感じてしまうことが多いのではないでしょうか。

つまり、意識のあり方が疲労感の原因の一つになるわけです。

疲れるという意識をあまり持たないことの他にも、疲労感を減らすやり方はあります。

たとえば、ばりばり仕事をしているのにあまり疲れたように見えない人は、たいてい切り替えが早いものです。

仕事というものは雑用から始まって、いろいろな種類の内容や作業から成り立っています。

切り替えが早い人は、一種類だけの仕事を半日や 1日、ずっとやり続けるのではなく、多種類の仕事を 1時間、 2時間くらいの単位で、さっさっと切り替えながらやっている印象があります。

学校の授業でこんなことを想像してみてください。

一日 5コマの授業がすべて数学だとしたら、どうでしょうか? 数学が嫌いでない生徒でも緊張感がなくなり、疲れるのではないでしょうか。

それとは反対に 5コマの授業が数学以外に外国語や社会学や生物学など 1コマ、 1コマ違えば、コマが変わるたびに新鮮な気持ちになるので、ダレたりせず、その分疲労感も少ないはずです。

つまり、切り替えをうまくやれば、疲労感は減るのです。

ですから、何かをしていて疲れてきたなと感じたら、切り替えて別のことを始めると、そのこと自体がちょっとした休息になるわけです。

もう一つ、疲れと密接な関係がある、仕事の根本に関わる問題があります。

それは仕事を自発的にどれだけやっているか、という姿勢に関わることです。

仕事は会社からやらされているという気持ちでしていると、どうしても面白くないし、ストレスもたまります。

そうではなく、自分から仕事をしているという自立した考えを持つことが大事です。

自分の意思でこの仕事をしているのだと思えば、仕事の仕方にも面白くする工夫が出てきます。

たとえ会社から命令されて無理にやらされている感の強い仕事であっても、自分流にこの仕事のやり方を変えてみようという姿勢で取り組めば、仕事の質は変わり、ストレスも減るはずです。

たとえば接客の仕事をしている人が会社のマニュアルや上司のいう通りに従って動くだけだったら、つまらなくなると思います。

そのときマニュアルなんかには載っていなくとも、お客さんに喜ばれる接客をしようと努めれば、仕事を自分でつくっていく感覚になり、やり甲斐が出てくるのです。

定年退職した男性が奥さんにいわれて食事後の皿洗いを毎回することになったものの、同居している息子家族の分もあってけっこうたいへん。

ときには 30分近くかかることもあって少し苦痛なときもある。

そんなとき皿洗いを機械的に汚れを落とす作業だとは思わず、愛する家族が気持ちよく食事ができるように、あるいはきれい好きな自分の満足のためにお皿をピカピカに洗おうと思えば、ただの皿洗いも単調な作業ではなくなるかもしれません。

仕事による疲れといったものは、このように同じ仕事をするのでも、自分なりの工夫や努力でかなり軽減することもできるようです。

仕事が忙しくて疲れる。

だから労働時間を減らすようにしよう──そう考える前にするべきことは、疲れを減らす工夫をあれこれ考え、実行することではないでしょうか。

私なりの手抜き健康法 私はもう傘寿になります。

「何か健康法などしていますか」とよく聞かれますが、これという特別な健康法はしていません。

体によいといわれる食品や栄養剤を好んで積極的にとったりすることもありませんし、毎日決まった健康体操をすることもありません。

ただ習慣的に気をつけているのは毎日散歩をしたり、腹七、八分で抑えるようにしたり、睡眠を 7 ~ 8時間とったりすることくらいです。

お酒は以前はけっこう飲んでいましたが、最近はあまり美味しく感じなくなったので、それほどは飲まなくなりました。

散歩は早朝に起きて近くの遊歩道を中心に少し速めに歩くのですが、毎日時間を決めてやっているわけではありません。

気が向けば 1時間歩くこともあれば、 30分程度で終わることもあります。

毎回、何分、何歩でやると決めるとかえってストレスになるので、その日のコンディションに合わせて加減をし

ています。

頭の老化防止に何かをするなどということも、もちろんありません。

よく高齢者にパズルを解かせたり、塗り絵をさせたり、ボケ防止と称して子どもがするようなことをさせたりしていますが、ああいうのはけっして楽しいものではないでしょうし、高齢者に本当にプラスになっているのか疑問に思っています。

あんなことをしなくても、好奇心を絶やさず、本を読んだり、友人知人と積極的にコミュニケーションをとっていれば、ボケることなどないと思います。

身体と心の健康を保つにはこれとこれを毎日してこんなものを食べるといった杓子定規な健康法は、私にはどうも合いません。

ある程度振れ幅を持ったなかで、無理のないところで体によくないことはしないという心がけ程度でいいかと思っています。

そんな生活習慣が、私なりの手抜き健康法ともいえるのかもしれません。

なるべく自然体でいる 自分の実際の姿より賢く見せたり、格好よく見せたりする。

それこそ誰もいない島に一人で暮らしているような人にはそんなことは必要ないでしょうが、たいていの人は他人の目を気にして、そう振る舞っているのではないでしょうか。

これは虚栄心です。

もっとも虚栄心はけっして悪いものではありません。

虚栄心があるからこそ、人は向上しようと努力もするわけです。

自分を高めたい、より高い目標に近づきたい、そんな欲望は虚栄心が強い動力になったりします。

つまり、一人ひとりの虚栄心が合わさって、社会もまた前へ進み、発展していくわけです。

ただ、虚栄心は過ぎるとマイナスになります。

有名になって人から尊敬されたい。

お金持ちになりたい。

競争に勝って自分の優秀さを人に見せたい。

そんな虚栄心が強すぎると誰かを傷つけたり、関わりのある人の幸せを壊したりと、周りが往々にして犠牲になります。

他人の不幸の上に、虚栄の花を咲かせることになるのです。

ですから、虚栄心は常に行きすぎない注意が必要です。

ではバランスのいい虚栄心を持つにはどうすればいいか?「あえて自分のダメなところをさらけ出したり、バカな振る舞いをするというのはどうだろう」と思われる方もいるかもしれません。

しかし、わざわざ他人に自分の欠点をさらけ出したり、バカな行動をとる必要はないと思います。

酒の席などではそんな振る舞いが場を盛り上げたり、相手との距離を縮める効果を上げるかもしれませんが、仕事などふだんの付き合いにおいてそんなことをすれば、マイナスになりかねません。

ユーモアのセンスがあって、それを笑いの対象にできる話芸でもあれば、また別かもしれませんが。

自分のダメな部分がばれないことを意識するあまり、格好をつけたり、賢く振る舞ったりすることもあるでしょう。

ただ、自分のなかに欠点や賢くないなと思えるものがあるなら、それを自覚して克服していくほうが、それをごまかしながら生きていくより、いいに決まっています。

その上で自分でまずいなと感じる部分が相手にわかってしまうことがあるなら、それは仕方のないことです。

数人の人によく思われたり格好よく思われたりしても、それに何の意味があるのでしょうか。

私もようやくこの年になり、人生を達観できるようになりました。

人間は誰もが年相応になってきますから、人間性ということにおいては、もっと肩の力を抜いて自然体で生きていいのです。

動きたくないときほど、意識して動く 切り替えの上手な人は疲れをためにくいということを前にお話ししました。

この切り替える力は「疲れ」だけでなく、さまざまな局面において役に立つものです。

たとえば切り替えがうまい人は、調子がよくないときや窮地に陥ったときに、その状態から素早く脱することができます。

「まいったな、これはいかんともしがたい」──そんな袋小路に入った気分になったときは、うんうん唸ってもなかなかいいアイデアが浮かびません。

そんなときに、切り替える力があれば、状況は変わります。

これはちょうど劇で舞台が暗転して、場面が変わる感覚に近いものがあります。

場面が変わると俳優も入れ替わり、それまでとはまったく違う状況が出現します。

観客はそれまで演じられていたドラマは忘れ、新しい舞台で繰り広げられるドラマに見入っています。

現実も同じです。

仕事で行き詰まったり、掲げていた目標の途中で壁にぶつかったりしても、自分が主役の舞台を場面転換してしまえばいいのです。

しかし、さっと場面を切り替えるには、ただ気持ちを切り替えようとするだけでは、うまくいかないものです。

では、どうすればいいか? それには動くことです。

まず動くこと。

慎重に事を進めないといけない場合は安易にすぐ動かないほうがいいこともありますが、たいがいは考えながら同時に動き出すようにすると、新しい流れをつくるきっかけになるものです。

うんうん唸って考えたり、頭を抱え込んでしまう悩みを抱えたりしたときは、いったん考えることをやめてもいいと思います。

考えることをやめて、勇気を持って一歩行動に踏み出すのです。

ゴルフのプロ選手がスランプに陥ったとき、フォームをあれこれ調整したりします。

スタッフの助言を得たりしながら、何千、何万回とスイングを繰り返し、ボールを打つ練習をしたりしますが、かえって何が正しいのかわからなくなって混乱してしまうこともあるようです。

そんなときは思い切って切り替えをし、ゴルフそのものから離れたほうがいいのです。

水泳をしたり、テニスをしたり、別のスポーツをするのもいいかもしれませんし、落語を聞きに行くとかコンサートに出かけてもいい。

ゴルフとは関係のない時間をあえてつくって、挟み込むわけです。

そうやって違う流れの時間をつくり出した後に再びゴルフに戻ると、スランプになる前の感覚が自然と戻っていたりします。

仕事でどうも調子がよくないなという状態が続くときも同じです。

そんなときは、さらに頑張るようなことはせず、仕事をいったん脇に置いて別のことをしてみるといいと思います。

学生時代の友人と久しぶりに会ったり、泊まりがけで温泉に行くようなことをしてもいいし、とりあえず仕事という舞台を別の舞台に転換させるのです。

そうやってスランプの状況から離れて自分を振り返ると、冷静に自分とその周りの状況を眺めることができます。

そして、そこに新しい流れを生むきっかけとなる気づきがあるかもしれません。

さっと切り替えるには、考え込んではいけません。

考え込んでしまうと、ますます煮詰まり、動けなくなってしまいます。

スイッチを切り替えるようにぱっと動き出して、新しい流れをどんどんつくっていく。

小さな流れでもいいのです。

それをいくつもつくっていけば、やがて大きな流れとなって、それまでとはまったく違う舞台に立っていることに気づくはずです。

母親の死で体重が 6キロ落ちる 喜怒哀楽の感情について先に触れましたが、悲しいときはどうすればいいのか? 私の場合、そんな気持ちになったときは無理に抑えようとはしませんが、どちらかといえば忙しさに紛れて、そのうち薄くなって消えていくという感じです。

これまで生きていて、もっとも悲しかったことといえば、母親が亡くなったときです。

このときは相当ショックでした。

母親には心配ばかりかけて親孝行してこなかったという思いも手伝って、余計に悲しかった。

母は、私たち兄弟を一生懸命に支えてくれた大きな存在であって、その喪失感はたとえようがありませんでした。

このときは体重が 6キロは落ちたと思います。

涙が止まらないほど悲しかった出来事ですが、 1年、 3年、 5年と年月がたつにつれて、徐々に悲しみも薄らいでいきました。

時間というのは偉大だなと思います。

それは薄情ということではなく、人の記憶とはそのようにできているのです。

人工知能とはそこが違う。

人工知能はそんな感情形態をデジタル信号に変換して入力すれば、永遠に記憶し続けます。

しかし人間は機械と違って生で悲しむことができ、時間とともに忘却することができる。

それが人間の強さであり、よさといえます。

強い怒りであっても、時間の恩恵を受ける点では同じです。

私はかつて信頼していた人から手ひどい裏切りに遭ったことがあります。

当然のごとく怒りましたが、同時に騙された自分がバカだったのかな、甘かったのかなという悔いも湧きました。

そのときの怒りと悔しさはかなりのものでしたが、これだって時間がたてば薄らいでいきます。

ただ許せるかといえば、私は神様のように許すことはできません。

裏切りという行為は私の信義に根本から反することです。

反対に人から受けた恩義は一生忘れません。

多くの諸先輩をはじめ、お世話になった人々の墓参はできる限り時間を見つけ、どんなに遠い地方であろうと出かけて線香をあげています。

人は忘れやすい生き物ですが、死ぬまで忘れてはいけないことはあるのだと思います。

悲しみにせよ、怒りにせよ、自分でどうにもしようのない感情のなかに落ちてしまったときは、そこから無理に抜け出ようと思わないほうがいい。

ある程度時間の流れに任せ、自分のするべきことを日々の判断でこなしていく。

どうにもできない感情であっても、自然と変化していきます。

少なくともそう思っていれば、時間が必ず恩恵を与えてくれるはずです。

「ただの人」として懸命に生きる「これからは普通の人になります」といって引退していった芸能人が、昔いました。

それにしても「普通」とは一体何なのでしょうか。

人によって普通に対するとらえ方は違うかもしれませんが、私が考える普通とは、世間の平均値といったニュアンスではなく、肩書や見栄、世評といったものを取り払った等身大の姿のことです。

その意味では、「普通の人」は「ただの人」といい換えてもいいでしょう。

そもそも人は「ただの人」として生まれ、「ただの人」として死んでいきます。

ところが、生まれてから死ぬまでの間にさまざまなものを飾りのようにつけ、自分の存在を主張し続けることで、普通がどのようなものだったかを忘れてしまうのです。

私は生まれるときと死ぬときだけ「ただの人」になるのではなく、その間においてもずっと「ただの人」で生きたいと思ってきました。

社長になると黒塗りの運転手付きハイヤーが与えられるものですが、私はそれを断って片道 1時間の電車通勤を続けました。

そりゃあハイヤーのほうが楽だし快適ですが、人から押されたりしながら満員電車に揺られ、多少しんどかったり不愉快な思いをしたりしないと、普通のサラリーマンの気持ちがわからなくなります。

経営者が普通の人の目線に立てなくては、心の通う経営はできません。

社長になったから偉いと思ったことはまったくありませんし、給与が少しいいから贅沢をしようなどと思ったこともありませんでした。

我が家の車は長年カローラでした。

社長になったばかりのときに、取材をしに自宅に来た新聞記者から、「社長の家が見つかりません」と電話でいわれたので、「周囲は高級車ばかりだから、カローラのある家を探しなさい」と伝えると、すぐに〝ピンポン〟と呼び出し音が鳴りました。

「ヒラのサラリーマンでも乗っていそうな車で恥ずかしくないですか」といわれたこともあります。

社長なら社長にふさわしい高級車に乗るべきだというのは馬鹿げた発想です。

カローラは安くて小回りが利いていい車です。

いまはそのカローラも売り払って、移動手段はもっぱら自転車と電車です。

ニューヨークの駐在時代は、髪もワイフにバリカンで刈ってもらっていましたが、後頭部を刈りすぎて一部ハゲみたいになったことがありました。

それを同僚から指摘され、刈りすぎた箇所があると墨を塗って出社したこともありました。

このように一事が万事、外見にこだわらないのは私の性分ともいえますが、根底には「普通の人」でありたい、等身大の感覚でいたいという気持ちが常にあったのだと思います。

仕事をリタイアした人が新たな居場所を求めて、地域コミュニティや趣味のサークルなどに溶け込もうとする際、以前の肩書やこんな仕事をしてきたというプライドが邪魔をして、周囲の人たちと軋轢を起こして孤立するという話をよく聞きます。

地元の自治会に顔を出しては「俺が俺が」と場をやたらに仕切りたがり、そのくせ実際の活動では汗をかこうとはせず、皆から煙たがられるという会社時代のタテ感覚を定年退職後も持ち続けるようなタイプの人もけっこういると聞きます。

再就職の面接に来た定年退職者が「前は何の仕事をしていましたか」と聞かれ、「部長をしていました」という笑い話もあります。

肩書や前職にアイデンティティを置きすぎると、こんな勘違いも実際に起きたりするのでしょう。

人は他人と自分を比べて、「あいつはあんな立派な家に住んで贅沢な暮らしをしているのに、俺は何でこんなに貧乏たらしいんだ」とか「同じような努力をしているのに、なんで彼ばかり評価されるんだ」とか、妬みややっかみの感情をつい抱いてしまう。

反対にお金持ちになったり、成功して称賛されたりすると、自分が優秀な人間であることをことさらアピールして威張りたがる。

これらは皆「動物の血」がなせる業ですが、そうした表面的なことは人間の本当の価値を決めるものでもなんでもありません。

むしろ、社会的な評価や肩書、資産といったものは、その人本来の姿を見えにくくするものですし、またそれにしがみついていると、人間に対する理解も表面的なものに留まってしまいます。

相手の地位や肩書、職業といったものはいったん脇に置いた上で向き合う。

一方、自分自身も肩書や社会的な立場といったものを外したところで、懸命に生きる。

そうやってはじめて人は互いを深く理解し合え、また人間的な成長もはかれるのではないでしょうか。

だからこそ私は、社長としてたかが数年、人もうらやむ(?)生活をしてもまた「ただのおじさん」の生活に戻るのだから、社長時代も「ただのおじさん」の生活を続けるほうがよいと思い、そのようにしていたのです。

実際、生身の姿は「ただのおじさん」です。

人生にまつわる多くの問題は、社会的な評価や肩書、地位といったものへの執着から始まります。

肩書や周りの評価が自分の実力だと思い込んでいる人は、生の本当の人生を生きていないのではないでしょうか。

そういったものにいかにとらわれずに生きていけるか。

「動物」ではなく「人間」として成長するために、私はいつも「普通の人」「ただの人」であるということを忘れないでいたいと思っています。

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