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第一章 死ぬまで未完成

人間の本性

まえがき〜人間とは何者なのか『君たちはどう生きるか』(マガジンハウス刊)という本が、数年前からたいへん話題になっています。

この本は児童文学者でありジャーナリストでもあった吉野源三郎( 1899〜 1981)が「いかに生きるべきか」という倫理的な問いを少年少女に考えてもらうために、私の生まれる 2年前の 1937年に書いたものです。

数年前に漫画という新たな装いで出版されたところ、火がついたように話題が話題を呼び、大ベストセラーになっているようです。

いまの人に「いかに生きるか」という問いを発することは、意義のある素晴らしいことだと思います。

というのも、物質文明が全面開化したこの時代にあって、多くの人は物価がどうだとか GDP(国内総生産)がどれだけ伸びたかとか、目の前の形而下のものばかりに敏感に反応する印象があるからです。

そのことを象徴するような話を知人から聞きました。

なんでも 20代の女性起業家がテレビで「文学や小説をこれまでほとんど読んだことがなかったので、その価値を知ろうと試しに川端康成を選んで読んでみた。

そこでわかったのは文学とか小説といったものはコスパがきわめて悪いことでした」と発言していたというのです。

草葉の陰で川端は、この言葉に口をあんぐり開けているに違いありません。

ある意味では本人が意図しないところで文芸に対する批評にもなっていますが、そこまで時代が変わってしまったのかという奇妙な感慨を覚える人も少なからずいるのではないでしょうか。

「川端を読んで面白くなかった」というのなら、わかります。

小説を愛好する読者でも、川端は自分には合わないと感じている人だっています。

ノーベル文学賞という権威に惑わされて理解したふりをする必要もありません。

しかし、コストパフォーマンスという尺度で文学をはかってしまう感覚は、何か大きなものが欠けているような気がします。

そこにはコスパという数字では割り切れない人間のさまざまな面が、濃密に描かれているはずだからです。

コンピュータや A Iは目まぐるしいスピードで進化していますが、一方でそれらをコントロールするはずの人間への関心はどんどん希薄になっている気がします。

考えてみれば、人の思いや感情といった心のあり方は、ギリシア神話がつくられた古代ギリシアの時代も、『源氏物語』が描かれた平安時代も、いまとまったくといってよいほど変わりがないのではないでしょうか。

人間というものが時代の移り変わりとともに賢くなり、心が成長した形跡はどこにも見当たりません。

それは「人間の本質」、すなわち「人間の本性」そのものが、ずっと変化していないからなのかもしれません。

なのに科学技術は猛烈なスピードで進歩している。

科学技術と人間の落差が、至るところでいま、大きな問題となって表れています。

人間は所詮、動物です。

飢え死にしそうになったら、人の命を奪ってでも食べ物を得ようとする本能を持っています。

私はそれを「動物の血」と呼んでいます。

油断をすると、人間のなかに潜む「動物の血」が騒ぎ始めます。

怒り、憎しみ、暴力的な衝動を内包する「動物の血」が人間には流れていることを忘れてはいけません。

皆さんは、こんな経験はないでしょうか。

歳を重ねても誰かを妬んだり恨んだりと自己中心的な他人を見て落胆しつつ、同様に成長していない自分を見て愕然とする──。

本書では、そんな摑みどころのない「人間の本性」というものを、さまざまな断面から考察し、そんな人間といかに付き合い、生きるべきかを私の体験談も交えながら綴ってみようと思います。

人間として生まれたのに、肝心な人間のことをよく知らなければ、これからの A Iやロボットに使われる一方で、人間としての人生そのものさえ、まっとうできなくなるのではないでしょうか。

余計なお世話かもしれませんが、私は最近、そんなことをよく考えるようになりました。

今から 80年ほど前、ノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスのアレキシス・カレル( 1873〜 1944)は、生理学や医学を基にし、人間を科学的に考察した『人間この未知なるもの』を刊行。

同書はベストセラーとなり、数十カ国で出版されました。

人間というものは不可解で、動物に近い一面を消しがたく持っている。

その根底に流れているものは何か。

それは民族の血かもしれないという、現在では危険な方向といわざるをえない結末になろうとしていました。

80年前でも人間の本性は未知のままであったし、今もそれは変わりません。

2500年ぐらい前の孔子( B. C. 552〜 B. C. 479)、ソクラテス( B. C. 469〜 B. C. 399)、プラトン( B. C. 429〜 B. C. 347)、アリストテレス( B. C. 384〜 B. C. 322)、孟子( B. C. 372〜 B. C. 289)以来のテーマでもあり続ける〝人間とは何者なのか〟について、私はこれまでの仕事や人生経験、読書を通して、ずっと考えてきました。

人類誕生以来、人間は「動物の血」をうまくコントロールすることができず、長きにわたって同じ過ちを繰り返しています。

21世紀に生きる人たちがこれらを自覚し、過去の人間と違って、心の成長を示すような賢い判断がこれから先できるであろうか。

21世紀になったからといって人間が、何千年も前からのわれわれの先祖以上に急に賢くなることはありえないとはいえ、まったく不可能ではないのではないかという想いを持ち続けたい。

21世紀に生きるわれわれが、人間として少しは賢く生きるヒントを得られればとの思いで、これから筆を進めたいと思います。

二〇一九年五月丹羽宇一郎

人間の本性/目次

●まえがき ~人間とは何者なのか

第一章 死ぬまで未完成

●この世には善人も悪人もいない ●「人権派」がセクハラで告発されるという現実 ●「利他の精神」がなければ「人間」じゃない ●不自由な世界では人間として生きられない ●人は悩みがあるから生きていける ●人生の勝敗は最後に決まる ●年を取るほど得るものが増える ●ままならないのが人生 ●「最後」を意識すると、今日が変わる

第一章 死ぬまで未完成

この世には善人も悪人もいない 人間が生物界の頂点にいるのは、脳が極端に発達して理性という道具を手にしたからです。

ただ、基本的には動物ですから、「理性の血」の底には「動物の血」が流れています。

人間の悪い部分や弱さといったものは、この「動物の血」がなせる業ともいえるでしょう。

生物進化の歴史を辿れば、生命が誕生したのが 38億年前、人類の直接の祖先で新人類が誕生したのが約 20万年前、そして最古の文明が生まれたのが 4000年 ~ 1万年前といわれています。

ということは、「動物の血」のほうが「理性の血」に比べれば歴史が圧倒的に長く、それゆえ強靭といえます。

「動物の血」を抑え、コントロールしようとする「理性の血」は、いざとなれば簡単に消えてしまうでしょう。

他人を顧みない自分勝手な行動をしたり、自分の利益のために人を踏みにじったり、噓をついたり……。

そんな「動物の血」は、常に「理性の血」の下をマグマのように流れているのです。

いわゆる善悪というのは、「理性の血」が「動物の血」をコントロールできている状態が「善」、「理性の血」が姿を消し、「動物の血」が噴き出す状態が「悪」といってもいいでしょう。

ですから、世の中には善だけでできている善人もいなければ、悪だけの悪人もいません。

たとえば慈善活動に生涯をささげたマザー・テレサのような人でも、「動物の血」を内に秘めていたでしょうし、血も涙もないような凶悪事件を起こした犯人だって、「動物の血」を抑える善なる血も持っているはずです。

親鸞の悪人正機説ではありませんが、「動物の血」を自覚することで、人は善なる状態に向かうこともできるのだと思います。

大部分の犯罪者は、人としてやってはいけないことを頭ではわかっているはずです。

それでも罪を犯してしまうのは、人間は単に知識だけ、理性だけで動いているわけではないからでもあります。

その意味で、道徳教育といったものは、「動物の血」が引き起こす悪のいやらしさ、醜さを体でわかってもらう体験学習のような形で教えたほうが、よほどわれわれの記憶に残るものになるかもしれません。

自分に不都合なことが起きたり、他人を押しのけ自分の利益を得ようとしたりするとき、「理性の血」は姿を現しません。

一方で「動物の血」は常に理性の殻を破り、噴き出す機会をうかがっていますから、動物になる誘惑は絶えずあるといってもいい。

理性の力によって自らをコントロールするには努力が必要ですが、「動物の血」が姿を現すには努力は必要ありません。

「理性の血」より「動物の血」のほうが、ずっと力強いからです。

「人権派」がセクハラで告発されるという現実 世界的なフォトジャーナリストであり、雑誌「 DAYS JAPAN」の発行人である広河隆一のセクハラ疑惑が昨年末に問題となりました。

彼は世間的には「人権派」として名を通してきた人でもあるだけに、告発された卑劣な行為に落胆した人は少なくないはずです。

ことほどさように、人間は簡単に「動物の血」に負けてしまうのです。

有名なあるボランティアグループを率いているリーダーがこんなことをいっていたそうです。

ボランティアをしようとする者が集まると、それぞれの思惑があるのか、意見がまとまらないことが多い。

反対に一緒に悪いことをしようとしている連中なんかのほうが意見がすんなりまとまるのではないか、と。

たとえばグループで詐欺をやり、成功した連中はうまくいった後で仲間割れをしたりするかもしれませんが、詐欺の計画を話し合って決めるときには目的が同じなので、一致団結する力が強いかもしれません。

しかし、それだけ複数の人間が集まって行動するということは、たとえ社会のためになることでも、歩調を合わせるのが難しいのだと思います。

その反対の行いは「理性の血」を使う努力がいらない分、簡単にできてしまうのかもしれません。

どんな人でも「動物の血」をむき出しにする瞬間はあります。

善い人だなと感じる人を見て、足先から頭まですべて善でできているように思う必要はないし、反対にいかにも悪そうな人間を見て、まったくの悪人だと決めつけることもできません。

人間は「動物の血」と「理性の血」が入り混じった状態で生きていながら、ときにより善になったり、悪になったりする二面性を持っているのです。

だからといって、「動物の血」に戻るのは自然で仕方ないことと開き直ってはいけません。

「動物の血」がもたらす醜さを身をもって感じ、不条理をいかに思い留まるか、そこにこそ人間として理性を磨く鍵があるのではないでしょうか。

「悪小なれど、これを為すことなかれ」(どんな小さなことでも悪はするな)、「善小なれど、これを為さざることなかれ」(小さなことであっても躊躇せずによいことをしなさい)という、臨終に際し、子どもたちに話したといわれている劉備玄徳の言葉を私はいつも心に留めています。

われわれの大半はミーイズム(自己中心主義)であり、失敗などをしたときは何かしらの責任から逃れたい思いで日々生きているのが普通です。

そのため虚栄心でもって、かっこよく美しく化粧をして、立派な姿を周りに見せようとする。

このような「虚」の自分を人に見せ続けたいという「動物の血」が人間には流れているのです。

この「血」をいかにコントロールするのか。

人生の核心は、まさにこの一点に凝縮されているといっても過言ではないでしょう。

「利他の精神」がなければ「人間」じゃない 乗っていた客船が沈んで、海に投げ出された。

そのとき救命ボートがきたが、若干名しか乗れない。

しかし海に浮かんで助けを求めている人間は他にもたくさんいる。

あなたならどうする? あるいは、走ってくる電車の先に 5人の人間がいる。

このままだと線路上の 5人は確実に轢かれてしまう。

しかし、その手前で切り替え操作を行えば別の線路へ電車を進めることができる。

だがそちらの線路には一人の人間が作業をしている。

切り替え操作をして 5人を救うか、何もせずに一人を救うか、あなたが切り替えスイッチを操作できる立場にあれば、どうするか? 究極の状況を想定したこのような思考実験は、論理的思考や哲学的思考を促してくれます。

思考実験は他にもいろいろありますが、そのなかの一つに「大きな天変地異が起こって、あなたを除く全人類が死滅してしまった。

ただ一生生きていけるだけの食料はある。

さて、あなたはどういう人生設計をして生きていくか」という問いかけがあります。

この質問はサバイバルの方法ではなく、生き甲斐をどうやって見つけるか、という問いです。

人間という字は人と間と書くように、人との交わりがあったり、他人を意識することで「私」という自意識が生まれ、人間になるわけです。

人は他者を意識したり、交わったりすることで向上心を抱いたり、努力をしたり、喜びを感じたりします。

相手に共感したり、助け合って生きていくのが人間という生き物ですから、自分以外の人間がこの世に存在しないとなれば、人はいまの人間の風情を保つのが難しくなるのではないでしょうか。

人里離れた山奥に仙人のように住んでいる人であっても、生活上の必要からときどきは他人と接することがあります。

まったく人と交わらずに生きている人というのは、希有に近いでしょう。

仮に船の遭難でどこかの無人島に流れ着き、そこで一人で暮らす羽目になったとしても、海の向こうには無数の人が生きているという思いは抱けます。

つまり、どんな孤独な状態で生きていても、少なくともどこかで生きている他者の存在を意識しているはずなのです。

地球最後の一人になったらというこの質問では、自分以外の人間は誰一人として生存していないのですから、生きている他者を意識することはできません。

せいぜいできるのは、記憶のなかで過去に出会った人たちと交わることくらいです。

人は自分のためだけに生きるのではなく、他人を意識し、人のために何かをする「利他の精神」があってこそ、「人間」になるのだと思います。

ですから、自分以外の誰も生きていない状況においては、人間として死んでいるのと同じですし、動物に近くなっていることでしょう。

もしそんな状態になれば、「私」は人間としては存在していないといっても過言ではないと思います。

ですから、もし天変地異で「私」が地球最後の一人になったなら、「私」を含めその時点で地球には人間は誰もいなくなったといってもいいのかもしれません。

不自由な世界では人間として生きられない SF小説や映画では、誰しもが生きる悩みを持つことなく快適に暮らしているユートピアの世界が描かれることがあります。

究極の思考実験には、そんな夢のようなユートピアの世界と、苦悩や問題が山のようにある現実の世界と、どちらの世界に暮らしたいかという問いがあります。

私が考えるユートピアは、みんな仲良くお互いに助け合って、自由で平和に生きることができる世界です。

そんなユートピアであれば、もちろんそこで生きたいと思います。

でも実際にそんなユートピアが実現したとしても一瞬のことで、 1、 2年もすれば集団のなかで序列ができたり、権力を持つ者が横暴なことをやり始めたり、グループ同士の対立が起きたりするなどのさまざまな問題が出てきて、元の混沌とした現実世界に戻ってしまうことでしょう。

このようにユートピアは脆いかもしれませんが、それでも一つの理想であることは間違いありません。

SFの世界で描かれるユートピアは、私が思うユートピアとはかなり違うようです。

たしかに争い事はなく平和ですが、その世界はたいてい徹底的に管理された社会なのです。

巧妙に管理されているがゆえに秩序が保たれ、平穏な社会が実現しているわけです。

ですからその代わりに自由というものが制限され、公の秩序に反するような行為はまったくできないという、厳しい環境下におかれるでしょう。

自由のない世界がどんなに息苦しいか、想像できるでしょうか。

人間には必ず善と悪が同居していますが、 SF世界のユートピアは善の部分だけを表向き掬い取って成り立っているような社会です。

だから、みんな何かを抑制して生きていて、人間らしさがない。

善いものと悪いものの両方があってこその人間社会なのに、善いものばかりでつくられる世界は不気味ですし、絶対にあり得ないと思います。

人は悩みがあるから生きていける 私は常々、「生きることは問題だらけ、問題があるからこそ人間は生きているんだ」ということをいっています。

生きていれば、次から次へと問題が起こる。

仕事のトラブル、家庭の問題、健康のトラブル……人生は何か問題が収まったかと思えば、また次に別の問題が起こるという連続ではないでしょうか。

それなのに「問題はないのが幸せ」という前提で構えすぎる人が多いように感じます。

問題を大仰にとらえ、いざ問題が起こると、慌てて冷静さをなくしてしまう。

人生において「問題はあって当たり前」なのです。

悩みがあるから、人はそれを解決して前へ進もうと知恵を出したり工夫したりして頑張れるわけです。

そういうときにこそ、もっとも人間らしさが出てくると思います。

生きる醍醐味は、問題があればこそです。

私は悩み事を相談されたら、「悩みがないときは死ぬときしかない。

問題があることは生きている証しだ」と話します。

生きている限り、問題は常にあなたについてまわるのです。

SFで描かれるユートピア世界には問題が起きません。

問題がないので皆平和ですが、どこか胡散臭さが漂っています。

本当の平和とは、おそらくさまざまな問題を調整した、きわどいバランスの上に成り立つものだからでしょう。

ですから、そんな世界がもしあるとしても、想像上の理想郷です。

いろいろな問題があっても、苦しいことがたくさんあっても、現実の社会こそ、生き甲斐がある世界です。

それは、「人間」として生きられる、唯一の世界だからです。

ところで、今から数年前に若者を中心に多くの人の心をとらえたセカオワ( SEKAI NO OWARI)の「 Love the warz」の歌詞に、「不自由がなければ自由もない だから戦争がなければ Peaceもないのかい?(中略)僕らは幸福世代 僕らの平和を守るため 僕らの世代が戦争を起こします」という箇所があります。

私は、この歌詞に衝撃を受けました。

戦争ありきの Peaceなら、 Peaceもないほうがましですし、それ以前に戦争がないほうがいいのはあたり前のことです。

戦争と平和はシーソーゲームではないんだと、この機会にはっきり述べておきたいと思います。

人生の勝敗は最後に決まる 人は勝ち負けといったことに、とてもこだわります。

この競争社会に生きていると、勉強の勝ち負けから仕事の勝ち負けまで、勝つことにこそ生きる価値があると思っている人も少なくありません。

仕事で成功してお金持ちになれば人生の勝ち組、うまくいかなければ負け組のような価値観も根強くあります。

しかし、人生の本当の勝ち負けは、仕事でうまくいくとか、お金持ちになるとかなどの物差しだけではかれるものではありません。

それはおそらく人生最後の心安らかな安堵の一息に象徴されることだと思います。

死ぬ間際に、家族に感謝して「ありがとう」の一言を残し、「俺の人生は幸せだった。

人を傷つけることもなかった。

裏切ることもしなかった」──そう清々しく思えるなら、その人こそ最高の人生を送ったといえるのではないでしょうか。

反対に「俺は大金持ちになったけれど、誰かを傷つけたり、たくさんの人を欺く卑怯なこともやった」──そう悔いたり、反省するようなことがあれば、心残りのある人生の終着駅となってしまうことでしょう。

どれほど世間的に成功しようと、多くの人から尊敬されていようと、死ぬ間際に多くの心残りを感じるような生き方であれば、幸せな人生だったとはいえません。

たとえ仕事がうまくいかなくても、貧乏であっても、人生の最後に「人として過ちを犯すことはなかった。

ああ、よかった」と安堵して死んでいける人こそ、人生の勝利者だと思います。

生きていれば勝ち負けの局面といったものはさまざまなところにありますが、勝ち負けばかりにこだわっていると、人生の本質は見えてきません。

表面的な勝ち負けということにとらわれすぎるのは、どこか卑しいものです。

勝つとか負けるとかといった次元を超えたところで人間を見つめる視線を常に持っていないと、勝つためにはずるいことでも何でもしていいという人生観に陥りやすいものです。

勝ち続けても、最後に自分の人生を振り返って心に悔いが残ることがないだろうか。

仕事をはじめ、いろいろな競争に負けたかもしれないけれど、人間としては誠実に、ちゃんと生きることができたと思えれば最高です。

最後の最後に、われわれの死に顔が幸不幸を語ってくれることでしょう。

年を取るほど得るものが増える 人は年を取るとともに、さまざまなものを失っていく。

ほとんどの人はそう感じているようです。

以前、取材のインタビュアーも、「得ることばかりに人生の喜びや生き甲斐を見出していると、失うことに対して耐性が弱くなる。

年を取ると失うことのほうが圧倒的に増えるので、これからは失うことに対して平常心を持てるようにしなくてはと思っているんです」ということをいっていました。

しかし、私は反対に年を取るほど、得ることのほうが増えると考えています。

もちろんそれは財産など物質的なものではありません。

いろいろな人との出会いもあれば、本との出会いもある。

それらは新たな経験を増やしてくれるし、新たな知識を授けてくれる。

だから年を取れば忘れることも多いのですが、得ることは増えていくばかりです。

肉親や仲良くしていた友人が亡くなるということや、老いて肉体のさまざまな機能が衰えていくことはどうなのか。

それは失うことに他ならないのではないかと思われるかもしれませんが、こうしたことは失うという対象ではなく、自然現象として当然のことです。

もちろん寂しさという感情がそこには生起するでしょうが、「寂しさ =失う」ではないのです。

年を取ろうとも、好奇心を失わず、謙虚な姿勢でいれば、すべてのものは「師」になります。

子どもと遊んでいても彼らの素直な感性から学ぶものはたくさんありますし、ちょっと苦手な人と出会っても、反面教師的に学ぶ切り口はたくさんあります。

加えてこの世界のことをいろいろ教えてくれる本は読み切れないほどある。

そう考えると、得るものはたくさんあるのにそちらには目を向けず、失うものばかりが増えていくなどと思うのは、心のあり方を忘れた努力不足の生き方ではないでしょうか。

ですから本当は生きるほど得るものが増えていくはずなのです。

まさに年を取る暇もないほど増えていく。

年を取るたびに「増える」のか「失うか」は、まさに考え方次第、努力次第だと思います。

ままならないのが人生 人は自分が思い描いている通りに事が進まないとき、その思いが強ければ強いほど、イライラしたり、腹立ちを覚えたりします。

しかし、大きなことから小さなことまで終始イメージ通りになるなんてことは、冷静に考えればあまりないのです。

これまで何百冊と本をつくってきた、私と付き合いのあるベテランの編集者が「自分の思い通りになった本なんて、これまで一冊もなかったです」といっていましたが、ベストセラーをたくさん出している手練れの編集者ですらそうなのです。

タイトルは会議で皆で議論をしながら決めるし、装丁はデザイナーがこちらがイメージしているものをピタリと仕上げてくれるわけではない。

著者だって自分が思っているような原稿を書いてくれるわけではないし、売り上げだって望むような部数にはならないことのほうが多い。

よく売れる結果となっても、その過程の編集作業で思いもかけずひどく苦労するものだって少なくない。

もちろん、それぞれいい意味で期待を裏切ることもあります。

会社の全体の意見に従って決めたタイトルがしっくりこなくても、売れ行きがすごくいいことだってあるでしょう。

しかし、すべての面において一から十まで作業が思い通りに進み、イメージ通りの本になるなんてことは、ほとんどないというわけです。

ただ、一冊の本をつくるのにも何人もの人が関わるのですから、「思い通りにいかない」のは当然といえば当然です。

この編集者の例を引くまでもなく、どんな仕事でも完全に自分の思い通りにいくことなど、そうそうあるものではないと思います。

ひいては人生そのものもそうでしょう。

「プロ野球の打者と同じで、人生は 3割も思っている通りになれば上出来だ」。

そんなことをいう人もいますが、えてして人は自分に対する評価は甘くなるものです。

本人は 3割と思っていても、他人から見れば 1割ぐらいの出来かもしれません。

もっとも、仕事や人生が何割くらい自分の思い通りになっているだろうかなどいちいち計算する人なんていないでしょうけど、何かの問題に出くわしたときは「ままならないのが人生だ」と思い定めておくといいと思います。

そんな前提でいれば、問題にぶつかってもストレスに強くなるはずです。

さらに逃げることなく正面から問題に取り組めば、よりよい結果につなげることもできるでしょう。

そもそも自分の思い通りにしようという発想には、出発点において、どこかボタンをかけ違えているようなところがあるように感じます。

社会に生きている限り、人は一人で生きることはできないからです。

仕事は他人とキャッチボールをしながらつくっていく共同作業だし、日常の何気ない暮らしであろうと、そこには家族をはじめ、さまざまな人が関わっています。

たとえ孤独な一人暮らしであっても、その人の人生には無数のさまざまな人がからんでいる。

社会のなかで人がつくったモノや食を手に入れて暮らしていくことは、それだけでいろいろな人と直接、間接に関わることになります。

すなわち、どんな立場の人であろうと、人と関わらずに生きていくことは不可能なのです。

それを考えると自分の思い通りにしようとすることは難しいのが当たり前であり、何でも自分の力でやっていると自負する人は、どこか傲慢な匂いすらするものです。

思い通りにならないと嘆く暇があるのなら、さまざまな人との共同作業によって仕事や人生が成り立っていると思い、感謝する。

そんな気持ちを少しでもいいので、常に持っていることが大事だと思います。

仮にあなたの人生が反対に何もかも思い通りになったとしたら、あなたは心から満足するでしょうか。

そうなったら、きっとあなたは満たされるどころか、退屈を覚えると思います。

そんな人生は面白くないからです。

障害や苦労があっても、それを乗り越えてこそ、達成感や心からの満足が得られるものではないでしょうか。

その意味では、思い通りにいかないからこそ、人生は面白く、また生き甲斐も生まれてくるのだと思います。

「最後」を意識すると、今日が変わる 最後の晩餐は何にしますか。

著名人にそんな質問をする週刊誌の特集記事を見たことがあります。

私なら毎日食べている白いご飯に生卵と醬油、お漬物と味噌汁だけの食事を望みます。

最後だからといって豪勢な料理を食べたいとは思いません。

もっとも私だけでなく、特別なものを食したいという人は意外と少ないのではないかと思います。

多くの人は最後に味わいたいものとして、これまでの人生を振り返って一番心に残っているものを選ぶような気がします。

それは母親がつくってくれた味噌汁だったり、毎日食べているホカホカのご飯だったり。

件の週刊誌における著名人たちの回答もそんな枠におさまったものが少なくなかったように覚えています。

最後の晩餐の問いに近いものとして、人生最後の一日、あるいは最後の一週間に何をするかという質問をここで考えてみようと思います。

あなたなら今日が最後の一日なら何をしますか。

私ならやはり、最後の晩餐と同じで、ふだんと変わらぬ一日を望むと思います。

最後だからといって、いままでしたことがない貴重で珍しい体験をしたいということはない。

いつもと同じように早朝に起きて、近くの公園を散歩し、軽く朝ご飯をすませ、仕事をしていなければ、好きな本を選んで読む。

ときどき休憩をしてお茶をゆっくり飲んだり、ボーッとしたりする。

そんなふうにして一日を終えるのではないかと思います。

これが一日ではなく、一週間だったらどうするか。

一週間でも基本的に変わらないと思います。

ただ時間の余裕が一日よりはあるので、これまでお世話になった人に順番に会って御礼をいうかもしれません。

最後の晩餐であろうと最後の一日であろうと、いつもと変わらぬ日常の延長でいいと思うのは、何気ない日常、凡庸に思える日常が、実はものすごく非凡なものだということを意味しているのではないでしょうか。

ふだんわれわれは日常のそうした面になかなか気づきませんが、この世に生を享け、生きた時間を過ごしていることは、奇跡的な確率で起こっていることだと思います。

「今が大事」ということはよくいわれますが、言葉だけではピンとこなかったりします。

ですから「最後の一日をどう過ごすか」、つまり「最後」を意識して、自分の人生を見つめてみるのはいいことだと思います。

そうすれば切実に「今」という時間を見つめることができます。

それによって何気なく過ごしている「今」の大切さを、心から感じることができるはずです。

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