自分を知り、 自分のなかで何が起きているか、 それはどこから生じているかを理解する。
人間の本性を知るということ人間の本性を知るとは幼い子どものころの体験が重要な理由あなたは自分をよく見ていますか
第一章 いつ人間の本性はつくられたのか
教育という課題は、人間の理解が重要な学問であると気づき、それを体験して習得しようとする人たちすべてにとって豊かな鉱脈なのです。
それは書物から得る知識ではなく、実際の場で学ばれるものだからです。
精神世界のあらゆる現象を、いわばともに体験して受け入れ、相手の喜びや不安に寄りそっていく必要があります。
これは優れた画家が、肖像画を描こうとする相手の顔つきに、自分が感じとったものしか投影できないのと同じようなことです。
こうして見ると、人間を知ることは十分に道具のそろった芸術と考えられます。
しかし同時に、ほかの芸術と同列に並んで、詩人という特定の人間によってとても価値のある使われ方をしてきた芸術とも言えます。
人間の理解は第一に、わたしたちの知識を増やすために使われるべきものです。
そうして、よりよい成熟した形で精神を成長させる可能性をだれもがつかめるようにしていくのです。
この過程でよく見られる困難は、わたしたち人間が人間の本性を知るという点において非常に敏感なことにあります。
研究をしたことがなくても、自分は人間を知っていると考える人は多くいます。
人間性への理解を得る手助けをしようとすると、すぐさま傷つけられたように感じる人はもっと多くいます。
こうした人々のなかで本当に人間を知ろうと望む人は、自分の体験や他者の精神の苦しみに対する共感から、なにかしら人間の価値に気づいた人だけです。
この状況からは、わたしたちが仕事をする際になんらかの戦略を立てる必要性も生じてきます。
相手の精神から得た認識を無遠慮に突きつけるほど嫌みで批判的に見られる行為はないからです。
嫌われたくない人には、この点に気をつけるよう忠告します。
人間性への理解を不用意に扱い、悪用し、会食の場などで自分が隣の人の内面をどれほど理解したり読みとったりしているかを示そうとすれば、たちまち評判をわるくします。
同じように危険なのは、人間の本性についての基本的な見解を完成品として他者に当てはめることです。
人間を知る学問についてすでに多少知っている人でも、そんなことをされれば傷つけられたように感じるでしょう。
この点についてわたしたちは、最初に伝えたことをもう一度言います。
人間を知るにはつつしみ深さが要求されるのです。
子ども時代に身につけたうぬぼれでしかないような認識を、軽率かつ不必要に披露したり、もうなんでもできると誇示したりすることは許されません。大人であれば、なおさら憂慮すべき行為です。
ですからわたしたちは、立ち止まり、自分をよく見て、人間の本性を学ぶ過程で得た認識で他者を妨げないよう、ここで提言したいと思います。
そうしなければ、わたしたちは若者のあさはかな考え(ただし、熱狂的な若者)からしか生じないような誤りを犯すことになり、進行中の学問とその目的に対して単に新たな困難を生むだけになってしまいます。
わたしたちは慎重でいるべきですし、判断を下す前にせめて大まかに全体を把握すること、だれかのプラスになると確信できるときにだけ判断を下すことを肝に銘じておくほうがいいのです。
なぜなら、たとえ正しい判断でも、つたない方法で、あるいはふさわしくない場で口にすれば、多くの害をもたらすことがあるからです。
人間の本性の「もう一つの側面」
このまま話を続ける前に、多くの人の頭に浮かんでいるだろう異議に答えなければなりません。
つまり、人間の人生のラインは変わらないという先ほどの主張は、多くの人にとって理解できないらしいのです。
その理由は、人の態度を変えるような経験を人生でたくさんすることにあります。
しかし、経験というのはさまざまな意味に解釈されることを考慮しなければいけません。
2人の人間が同じ経験から同じ教訓を引きだすことはほぼないのはわかるでしょう。
ですから、人は経験から賢くなるとは限りません。
特定の困難を避けることを覚え、困難に対して特定の態度をとるようにはなるでしょう。けれどそのことで人の動きのラインは変わりません。
この先を読んでいけば、人間が多くの経験からいつも特定の教訓しか得ないことがわかります。
こうした教訓は、くわしく調べると、決まってどこかしら人生のラインにそったもので、人生のパターンを強めるものだと証明されます。
ドイツ語では、この言語特有の感覚で、経験することを「経験を作る」と言います。これは、経験をどのように利用するかは、その人次第であることを暗示しています。
実際、人が経験から非常にさまざまな結論を引きだす様子は、日常的に観察できます。
たとえば、なんらかの誤りをくりかえす人がいます。誤りを認めさせることができたとしても、その後の結果はさまざまです。本人自らもう誤りから脱しようと考えることもあります。ただしこの結論はまれです。
あるいは、もうずっとこうしてきたから、いまさら変えられないと答える人もいます。
別の人は自分の誤りを親のせいだと言ったり、漠然と教育のせいにしたりします。
そして、自分にかまってくれる人がいなかったとか、甘やかされたとか、ひどく厳しく扱われたとか言って、誤った認識にとどまるのです。
けれど、この態度からわかるのは、ただ隠れていたいという思いだけです。こうしていれば、いつも用心深くうわべを正当化して、自己批判から逃れられるのです。自分は責任を負わず、達成できなかったことはいつでもすべて他の人のせいにします。このような人は、誤りを克服する努力を自分ではほとんどしていないことに気づいていません。
むしろ、ある種の情熱をもって誤りに固執しながら、自分が望むときだけひどい教育のせいにしているのです。
経験がさまざまに解釈され、そこから異なる結論が出される可能性を知ると、なぜ人間が人生の歩み方を変えられないのか、なぜ体験をねじ曲げて歩み方に合わせてしまうのかがわかります。
人間にとって自分を知って変えることは、もっとも難しいことのようです。
それでもこの点にとりくんで、よりよい人間を育てようとする場合、人間の本性を知る学問の経験と見立てがなければ途方に暮れることになるでしょう。
従来どおり表面に手をつけて、事態が新たな様子を見せたり別のニュアンスになったりすれば、いくらか変えられたと思ってしまうかもしれません。
実際の症例を見れば、こうしたとりくみでは人間はあまり変わらないこと、精神の動きのラインそのものが変わらないかぎり、すべてはまた消える見せかけにすぎないことが認められます。
人を変えるプロセスは簡単なものではありません。人を変えるには、慎重さと忍耐、そしてなんと言っても個人的な虚栄心をわきにおくことが必要になります。
わたしたちの虚栄心の対象となるべき義務など、相手にはないのです。また、人を変えるプロセスは相手の気に入る形でなければなりません。
いつもはおいしく口にする料理を、正しく用意されなかったせいで拒否するのは当然のことです。
人間の本性を知ることには、同じように重要なもう1つの側面、いわば社会的な面があります。
人間がお互いをもっと理解すれば、もっとずっと調和してお互いの距離が近づくことは間違いありません。
そうなれば、お互いに思い違いをすることはなくなるからです。
この思い違いのなかには、社会にとっての非常に大きな危険の可能性が含まれています。
わたしたちはともに学ぶ医師たちにこの危険を示す必要があります。
医師たちは、人生で意識されないあらゆること、あらゆる隠されたこと、仮面、策略、悪巧みを見わけ、目の前の患者に気づかせて手助けをしなければなりません。
それに役立つのは、意識して使われる人間性への理解だけです。
「罪人」ほど価値が高い理由
もう1つ興味深い問いは、人間に関する知識を集めて使うのにもっとも適しているのはどのような人物なのかというものです。
人間に関する知識を理論だけでは使えないことはすでに述べました。
あらゆるルールを手に入れるだけではだめで、それを研究から実践へ、そして全体をまとめて理解する次の研究へとつなげることも必要です。
そうすることで、自身のいままでの経験で得られる以上のするどく深い洞察力を学べます。
これが、わたしたちが人間性への理解を理論的に使う動機です。
しかし、この学問に血を通わせられるのは、わたしたちが人生に踏みだし、得られた原則をそこで調べ、応用したときだけです。
先ほどの問いが出てくるのは、教育で提供されるものからはあまりにもわずかな人間性への理解しか得られず、正しくない知識しか得られないことも多いからです。
つまり、現在の教育は人間性への役に立つ理解を伝えるようなものではないのです。
子どもがどこまで成長するか、学んだことや体験からどれほどの教訓を引きだすかは、もっぱら子どもたち 1人 1人にゆだねられてしまっています。
人間の本性を知る学問を育てる伝統もありません。
そのための教えはまだなく、この学問は化学が錬金術だったころと同じ状態にあるのです。
教育を受けるわたしたちの混乱のなかで、もっとも人間の本性を知るチャンスがある人を探すならば、それはつながりを忘れていない人、周囲や人生との接触をなんらかの形で保っている人です。
つまり、まだ楽観的な人か、闘う悲観論者、悲観主義がまだあきらめになっていない人です。
けれど、接触のほかにも、身をもっての体験がなければいけません。
ここでわたしたちは1つの結論に達します。
現在の不十分な教育では、人間の本性を理解できるのは、あるタイプの人間だけだということです。
そのタイプとは「悔い改める罪人」で、人間の精神世界におけるあらゆる過ちにはまり込んで、そこから抜けでた人、あるいは少なくともそれに近い状態になったことのある人です。
もちろん、人間をよく知る人が別のタイプの場合もあります。
人から具体的に手本を見せてもらっていたり、他者の気持ちがわかる才能が特別に備わっていたりする場合などです。
けれど、もっともよく人間を知る人とは、確実に、身をもって困難の克服を味わったことのある人でしょう。
「悔い改める罪人」は現代でも、あらゆる宗教の発展の時代でも最高の価値を認められ、あまたの心の正しい人よりも優れているとされるようです。
その理由を考えたときに出てくる答えは、人生の困難から立ちあがって泥沼からはいだした人、困難をすべて乗り越えて立ちあがる力を見つけた人は、人生のよい面もわるいも一番よく知っているに違いないということです。
人間を知る学問で「悔い改める罪人」に並ぶ人はいません。とくに、よい面しか知らない人はかないません。人間の精神について知ると、自ずとやるべきことが見えてきます。
要するに、人間の型、パターンが人生に適していないと判明するときにはそれを打ち壊し、人生の道を迷わせる視点を除くのです。
そして、他の人と生きて幸せになる可能性により適した視点をすすめ、哲学で言うところの思考の節約、いえ、不遜にならないためにやはり型という言葉を使いますが、他の人と生きる共同体感覚が中心となる型をすすめることです。
わたしたちは精神の成長の理想形を得ようとしているわけではありません。
けれど、こうした視点があるだけでも、迷う人や誤る人にとって大きな助けになるのはわかるでしょう。
間違えたときに、どの方向に進んで誤ったのか、きっと感じられるからです。
そう考えると、人間に起こる出来事はすべて原因と結果が積み重なって決まると考える厳格な決定論者も、あながちわるくはありません。
もし人間のなかにある力や動機が活発になることで、自分を知り、自分のなかでなにが起きているか、それはどこから生じているかを理解するようになれば、因果関係はまったく変わり、体験の影響がまったく別のものになることは確実だからです。
その人は別人になり、その自分を手放すことはもう決してないでしょう。
第一章 いつ人間の本性はつくられたのか
動物と植物を隔てるもの
精神があるというのは、そもそも、動くことができて生きている有機体にだけ言える状態です。精神は自由な動きと強く関係しています。
地に深く根を張る有機体には、生活のうちの精神的な面である精神生活はほぼありませんし、不必要でもあるでしょう。
根を張る植物に感情や思考を期待する恐ろしさを考えてみてください。
まったく動けないまま、事前にわかっているのに逃げられない痛みを待ちうけなければならないのです。
あるいは、植物に理性や自由意思があると言うなら、その意思を用いることは最初から不可能です。
植物の意思や理性は永久に実らないでしょう。
こう考えると、精神生活がないことで植物と動物をはっきり区別できるとわかります。そして、動きと精神生活の関連に大きな意味があることがにわかに見えてきます。
ここからはほかにもいくつかのことがわかります。
まず精神生活の現象では、動きに関係するすべてを把握する必要があること、動くことがすでに難しい場合があること、精神生活は、人生で実際に動くのに役立つように、先を読み、経験を集め、記憶を作っていくためにあるということです。
ですからまず、精神生活の成長は動きと結びついていると言えます。精神活動のあらゆる面が育つには、生物が自由に動けることが欠かせないのです。
なぜなら、こうした動きが刺激となって、精神生活の絶え間のない強化がうながされ、また求められるからです。
もしだれかに動きを禁じられたらどうなるでしょう。
その人の精神生活は静止してしまうはずです。
「自由だけが偉人を生み、強制は人を殺しゆがめる」のです。
人間の長所と短所はどう育つのか
以上のように考えて精神生活の機能を眺めると、1つの生まれつきの能力を育てていることがわかります。
個人の状況により攻撃と防御のどちらが求められるか、それに応じて精神器官を攻撃器官や、防衛・防御・防護の器官にする能力です。
つまり、精神生活というのは攻撃と防御の双方に備える手段であり、世界に反応して個人の存続と成長を確保する手段と考えられます。
この条件を把握しておけば、わたしたちが精神と考えるものを理解するために重要な条件もわかります。
それは、孤立した精神生活は想像できないということです。
精神生活は周囲のすべてとつながり、外界の刺激を受けてなんらかの反応を示します。
そこには、環境に対抗して、または環境と連携して個人を守り生命を確保するのに必要な能力と力があります。
こうして見えてくる関連は多様です。
まず個人そのもの、つまり人間の独自性や身体性、長所や短所に関連します。
ただし、長所や短所というのは相対的な考えです。
なんらかの能力や身体器官が長所なのか短所なのかは、人によってまったく異なるからです。
長所も短所も、個人がどのような状況にあるかで決まってきます。
人間の足は、ある意味で退化した手と言われています。
この足は木に登る動物などには大きなマイナスでしょうが、地上を移動する人間には大きな利点です。
足の代わりにふつうの手がほしいと思う人はいないでしょう。
だいたいからして劣った部分とは、個人の人生においても、あらゆる民族の人生においても、つねに短所であるというまったくの負担のように見るべきものではありません。
劣った部分が短所になるかは状況によって決まってくるのです。
また、人間の精神生活は、昼と夜の転換、太陽の絶対的な影響、原子の運動といった広大な自然の要求にも関係しています。
この関係についても、はてしなく広い領域を観察する必要があるでしょう。
自然の影響もわたしたちの精神生活に深くつながっています。
人間の性格はいつつくられるのか
精神の動きで最初にわかるのは、目標に向かって進む動きがあるということです。
ですから、人間の精神を静止した1つの全体のように思うのは誤りなのです。
それぞれに動く力が、一貫した同じ理由から生まれ、一貫した目標を目指すのだと考える以外にありません。
「適応する」という概念にはすでに目標の追求の要素が含まれています。
目標のない精神生活は考えられません。
精神生活のなかにある動きや活力が向かう先には目標があります。
つまり、人間の精神生活は目標によって決まるのです。
考えるにしても、感じるにしても、望むにしても、そして夢を見るにしても、ぼんやりと浮かぶ目標によって決められ、条件がつけられ、制限され、方向が定められるのです。
これは、個人の要求や外界の要求、また要求に対して返す必要のある答えと関連して、ほぼ自然に行われます。
人間の身体や精神の現象は、この基本的見解と符合しています。
精神はこうした枠にはまって展開し、力の作用から自然と生まれてただよう目標へ向かうとしか考えられません。
その目標は変わることも、固定していることもあります。
ですから、精神の現象はすべて、これから起こることに対する準備のようにとらえることができます。
精神器官にはまず目標があるとしか思えません。
個人心理学では、精神の現象はすべて、目標に向けられているととらえます。
ある人の目標を把握し、世間のこともある程度知っていれば、その人が現す動きがなにを意味しているかもわかります。
目的に対する準備ととらえることができます。
すると、目標を達成するために、その人がどのような動きをするかもわかります。
石を落としたときの軌跡が想定されるのと同じようにわかるのです。
ただし、精神には石の落下のような自然法則などありません。
ぼんやりと浮かぶ目標は定まったものではなく、変わることもあるからです。
ところが、人がなにか目標を思い浮かべると、まるで従わなければならない自然法則が働いているかのように、精神は強制的に動かされます。
これは精神生活に自然法則があるということではなく、人間が自分で法則を作っているということです。
自分で作った法則を自然法則のように思っているのなら、それは認識をごまかしていることになります。
法則は変わらない決まったものだと証明しようとするとき、人は自分でそのように事態を仕向けます。
たとえば、絵を描こうとする人には、描くことを目標にした人がとるあらゆるふるまいが見られます。
まるで自然法則があるかのように、絵を描く手順が徹底的に一貫してとられるでしょう。
けれど、本当に絵を描く必要はあるのでしょうか? 要するに、自然の運動と、人間の精神生活における動きには違いがあるのです。
ここに関連してくるのが、人間の意志には自由があるかという争点です。
この点については現在、人間の意志は自由でないと言われているようです。
けれど正しく言えば、意志は目標と結びつくと自由でなくなります。
目標はたいてい、宇宙的、生物的、社会的な制約から生まれてくるため、精神生活が絶対に変わらない法則に従っているように見えてしまうのです。
でも、たとえば、人が共同体とのつながりを否定して封じ込め、事実に適応しようとしない場合、精神生活のうわべの法則性はすべて打ち捨てられ、新しい目標による新しい法則性が登場します。
同じように、人生に絶望して他者と生きる感覚を消し去ろうとする人には、共同体の原則は効力のあるものでなくなります。
ですから、まず目標が立てられ、そこから必然的に精神生活の動きが起こるということをしっかり頭に入れておかなければなりません。
反対に、人間の動きから、ぼんやりと浮かぶ目標を推し量ることができます。
多くの人は目標を自覚していないので、こちらの手法のほうが重要になるでしょう。
実際これは、わたしたちが人間の本性への理解を育てるために必ずとるべき手法です。
動きはさまざまな解釈が可能ですから、目標がわかっている場合ほど簡単ではありません。
けれど、人の動きをいくつかとりあげて比較し、線でつなげることはできます。
人生の異なる時点の態度や表現の形式を線でつないでいけば、その人を理解することはできるのです。
一定の道筋が見えてきて、それをたどると、方向性が一貫しているという印象が得られます。
そして、幼いころの型が、ときに驚くような形で、大きくなってからも見られることが発見できるのです。
例をあげるとわかるでしょう。
婚約解消を恐れる男性の子ども時代
30歳の非常に勤勉な男性は、育ちに難しいところがありながらも、名声を得て成功していました。
医者を訪ねたときにはひどいうつ状態で、働くことにも生きることにも気力を失ったと訴えていました。
もうすぐ婚約するけれど、この先うまくいくとは思えないと言います。
激しい嫉妬にとらわれ、じきに婚約解消となる恐れがあるとのことでした。
男性が語る事実は、必ずしも確かなものではありません。
相手の女性にはやましいことなどありませんでした。
男性が見せた奇妙な不信感からは、1つのことが強く疑われます。
相手に向きあい、魅力を感じながらも、攻撃態勢をとって、これから築いていくものを不信感のために壊す多くの人の 1人なのではないかという疑いです。
この疑いを線でつなぐため、彼の人生から1つの出来事を抜きだして、いまの態度と比べてみましょう。
これまでの経験から、わたしたちはいつも患者が人生で最初に受けた印象へとさかのぼります。
ただし、わたしたちが聞く話が客観的に確かめられる話であるとは限らないことは承知しています。
男性の最初の思い出は、次のようなものでした。
彼は母親と弟とともに市場にいました。
ひどく混んでいたので、母親は兄である彼を抱きあげました。
けれど間違いに気づくと、彼をおろして弟を抱きあげたのです。
彼は悲しい気持ちでその横をついていきました。
4歳のときのことです。
ここで気づくのは、男性がこの記憶を思い返すときと、自分の苦悩を語るときには似たような響きがあることです。
つまり、男性は自分が優先して選ばれると確信できず、別の人が選ばれる可能性を考えずにはいられないのです。
この状況を伝えると、男性はとても驚きながらも、最初の思い出との関連をすぐに認めました。
なぜ引っ込み思案になるのか
人間が表現するすべての動きは、目標に向かっているものだと考える必要がありますが、この目標は、外界から子どもに伝わる印象に影響されてできあがります。
理想像である目標は、すでに人生の最初の数カ月で作られています。
なぜならそのころにはもう、子どもが喜びをもって、あるいは不快を感じて反応する印象が存在しているからです。
たとえごく単純な形にすぎなくても、世界観の最初の痕跡が現れるのです。
ですから、精神生活でわたしたちがアクセスできる要素の大本は、乳児期にすでにあると言えます。
こうした土台はどんどん強化されますが、変化したり、他からの影響を受けたりします。
きわめて多様に作用して、なんらかの態度をとって人生の要求に応えるよう強いるのです。
そう考えると、人の性格がもう乳児期に認められたと強調する研究者が間違っているとは言えません。
性格は生まれつきだと主張する人はたくさんいます。
けれど、性格は親からの遺伝だという考えは社会の害になると指摘できます。
この考えは教育者が確信をもって課題にとりくむのを妨げるからです。
性格の遺伝などという考えが信じられる背景には、たいてい、教育者はわるくない、責任はないと示すために利用しているという状況があります。
もちろんこれは教育の課題に反することです。
目標が作られるときの大事な条件には、文化も影響しています。
文化によって、いわば囲いが作られ、子どもの力は何度もそこにぶつかります。
そして、通れそうに見える道、願望をかなえてくれそうな道、未来のための安全確保と適応が望めそうな道を見つけていきます。
子どもがどれほど強い安全を求めるか、文化に献身することでどれほど安全を確保するかはすぐにわかります。
これは単に危険からの保護だけではありません。
よくできた機械のように安全率を高めに設定して、人間という有機体をよりよく維持していこうということなのです。
そのために子どもは適切な程度を超え、そのままのおだやかな成長に必要な程度以上に、安全の確保、欲求の充足、プラスを求めます。
けれど、こうして求めることで、精神生活には新しい動きが生まれます。
ここで見られる動きのラインは、明らかに不遜なものです。
子どもは大人と同じように人より多くを得ようとし、優越を目指します。
優越によって、最初から目標だった安全と適応を手に入れようとするのです。
すると、精神生活にざわざわと波が立ち、ざわめきはどんどん増していきます。
宇宙の作用でいっそうの反応が求められると考えればいいでしょう。
あるいは、苦境のときに精神が不安になって自分には課題を解決する力がないと思えば、やはり意識にずれが生じて、優越を求める様子がよりはっきりと現れてきます。
その際、個人が比較的大きな困難を回避して逃れようとする形で目標を決めることがあります。
このタイプの人には、わたしたちが知っているもっとも人間らしい要素があります。
つまり、困難を前にして後ずさるか、自分に向けられる要求を一時的にでもはねつけるために逃げ場を探すのです。
ここからわかるのは、人間の精神の反応は深く考えて確定したものではないこと、反応はいつも一時的な答えでしかなく、完全な正しさを求めるものではないということです。
とくに、大人のものさしで測れない子どもの精神の展開では、わたしたちが目にするのは一時的な目標ばかりだということを頭に入れておく必要があります。
子どもと並んで先を見て、精神に働く力が子どもをどこへ運ぼうとしているかを想像しなければなりません。
自分を子どもの精神にそわせれば、子どもが力を働かせているということは、最終的には現状や未来に適応することを意識のなかで多少なりとも決心したということがわかります。
これに関連して、子どもは気分の状態を2つの方向で示します。
1つが楽観主義で、子どもは課題が生じても円滑に解決できると信じています。
このとき子どもは、課題を解決できると思う人間に見られる性格を自分のなかに育てます。
勇気、開放性、信頼、勤勉さなどが育つのです。
この逆が、悲観主義の性格です。
課題を解決できると思わない子どもの目標を考えれば、こうした子どもの精神がどのような状態なのかも想像できます。
そこに見られるのは、気弱、引っ込み思案、閉鎖性、不信など、自分を守ろうとする人がもつ性格です。
子どもの目標は達成できる範囲を外れて、人生の前面から遠く退くことになります。
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