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第二章 体の動きを見ればすべてわかる

人は「擬態」する生き物 不要で違和感ある動きの警告 揺れは心身の支点が外れた証拠 増える「動かない」人々 横に開いた目の人が増えている 「目力」を失った日本人 大局を捉える「全体眼」を磨け 「第一印象」は日々に移ろうもの 現代人の偏った歩き方の理由 囚われが地から足を浮かせる 衝突せず都会の雑踏を歩ける秘密 〝歩く〟ことにもレベルがある 貧乏揺すりが秘める意味 なぜ欧米人は身振りが大きいか? 牌を捨てる行為に美醜が表れる 一流でも勝利の一歩手前で震える 「柔らかさ」こそ本当の「強さ」 気配を消せば相手の隙を衝ける 少年時代の私が魅了された男

第二章 体の動きを見ればすべてわかる

人は「擬態」する生き物「擬態する生物」と聞いて、あなたはいったいなにを思い浮かべるだろうか。

チョウ? ヒラメ? カメレオン? 広い意味でいえば、生物は擬態しないと生きていけない。

それは生きる知恵であって、その知恵が遺伝子として受け継がれていく。

自然界の生物たちは擬態しないと天敵に見つかって捕まってしまう、あるいは食糧となるエサが捕れないということがあって、それに応じて進化を遂げ、色や形を変えるようになった。

もちろん人間も例外ではない。

人間も常に擬態、カモフラージュをして生きている。

家で、学校で、仕事場で、日々の暮らしの中で、人はそれぞれ擬態している。

人間の中にも、生物の擬態本能のようなものが残っているのだ。

日々流行が変わるファッションも、人間の擬態のひとつといえるだろう。

美容や整形もそう。

教育や〝学ぶ〟ということも一種の擬態かもしれない。

社会という枠組みに同化するための擬態。

よい学校へ行き、よい会社に入らなければいけないという社会通念と、擬態できる才能・技術に長けている人ほど社会から評価される仕組みが、「擬態する人」を次々と生み出している。

中には社会と同化するのを嫌い、擬態せずにありのままで生きていきたいと思っている人もいるだろう。

しかし、この世の中で生きていく以上、社会制度の枠組み、一般の常識から外れることは容易なことではなく、擬態せざるを得ない方向へと追いやられる。

それが成功だとか、出世だとか、豊かになるとか、ものを食えるとか、いろいろなことに繫がっていく。

こうして人間も、日々の生活の中でほかの生物と同じく、擬態化しているのだ。

しかし、自然の生物の擬態と人間のそれとの間には大きな隔たりがある。

生物の擬態は生きるため、生命のためであって、それが結果的に自然界のバランスを保つことにも繫がっている。

一方、人間の擬態はといえば、擬態することによって本当の自分を見失い、それぞれがニセモノになっていく。

よい学校、よい会社へ入るのはいいが、擬態すればするほど、多くの人が自然の摂理に反したニセモノの人間になってしまっているのだ。

本来人間は、自然の摂理に則り、あるがままに生きていかなければならないのに、多くの人がそれとは正反対の生き方をしている。

今の世の中は、ニセモノで儲ける人がたくさんいる。

その最たるものが食品偽装だろう。

自然界の生物たちは自然の摂理に則して擬態するが、人間は必ずしもそうではない。

善悪などを無視して擬態を続け、その擬態がやがて欲と結びつき、ニセモノが氾濫する世の中をつくり出した。

現代のように偽装が横行する社会になってしまったのも、そう考えると当然の帰結なのかもしれない。

不要で違和感ある動きの警告 習慣から癖が生まれると先に述べたが、この習慣も、時代の移り変わりとともに変化してきている。

世界中に資本主義の影響によるある種の「結果至上主義」が蔓延し、日本も右へ倣えですっかりギスギスした社会になってしまった。

人々は計算高くなり、すべての判断基準の根底にあるのは腹黒い損得勘定ばかり。

〝損か、得か〟その考えに囚われてしまっている人々があまりに増えてきたために世の中のバランスが崩れ、悪い方向へと向かっているような気がしてならない。

要は、人々の考え方の〝加減〟が悪くなっているのだ。

社会全体の加減が悪いから、「いい加減にしろ!」と思わず叫びたくなるようなことも増える。

しかし、社会の中で「いい加減にしろ!」といえるのはあくまでも〝上の立場〟の人であって〝下の立場〟の者からはなかなかいいづらいものだ。

それは、会社でも家庭でも同じ。

〝下の立場〟の者は「いい加減にしろ!」という気持ちを自ら押さえ込み、目をつぶってしまう。

そうなると上の立場の者は、「俺のいうことだけ聞いていりゃあいいんだ」とさらに横暴になる。

その結果どうなるか? 押さえつけられていた〝下の立場〟の人間の中から、突如としてその鬱憤を晴らすかのように爆発する者が出てくることになる。

上司に対して、親に対して、あるいは社会全体への恨みとして対象を選ばず無差別に……。

現代社会は、まさしく悪循環にはまってしまっている。

人間には思い通りに動かせる、働かせられる体というものが与えられている。

手足はもちろん、目、耳、口、鼻もそう。

動く使命を負っているのが体なのだ。

動く体があるというのは、あらゆる動物に共通する自然の摂理でもある。

そして体は、その場、その場に応じて必要な動きをとれるようにできている。

それは「生きていくために必要な動き」ともいえるだろう。

しかし〝加減〟の悪くなった現代社会に生きる人々を見ていると、じつに不必要な動きをしている人が多い。

その場に対応した適切な動きではなく、不要な、違和感のある動きをしているのだ。

頭を前後にグラグラと揺らしたり、右に振ったり左に振ったり。

違和感のある動きは、ある種の警告だ。

たとえば頭を揺らしたり、振ったりする傾向のある人の場合、その揺れや振れの根底にあるのは〝震え〟だったりする。

人間が震えるのは寒さや恐怖に対してだ。

つまり頭を揺らす傾向がある人の場合、その心の内にどうしようもない寂しさや克服しがたい恐怖心を抱えていることが少なくないのだ。

生きとし生けるもの、地球上の生物すべてが〝自然の波長〟、あるいは〝宇宙の波長〟といってもいいかもしれないが、その波長の中で生きている。

我々人間も、その波長の中で生命として生き、体を使って動いている。

その中であまりに不必要な動き、違和感のある動きをしていると波長を感じることができなくなり、自然の波長とは遠く離れた無駄な動きばかりになってしまう。

揺れは心身の支点が外れた証拠 揺れる、振れるといえば、〝地震〟もそのひとつだ。

大きな地震は大災害をもたらし、小さな地震でもそれが重なれば崖が崩れたり、地面が陥没したりと、さまざまな影響が表れる。

自然の波長の中で考えた場合、地震の揺れも人間の揺れも同じ。

大きな揺れは危険だし、小さな揺れでもそれが重なれば、どんどん危険な状況へと陥っていく。

緊張や恐怖に由来した〝揺れる〟動作、これは、心身の支点が外れてしまっている証拠でもある。

椅子に座っても頭だけ、上半身だけが揺れていたりする。

こういう無駄な動きが多いのが現代人の特徴だ。

意味もなく体を動かしている。

波長に合わせて流れるように動いている人が本当に少ない。

意味もなく動く人というのは、意味のないことを突然してしまう危険性をも孕んでいる。

秋葉原で起きた無差別殺人にしてもそうだ。

あの犯人も、毎日の暮らしの中で意味のない動き、無駄な動きをしていただろうと私は思っている。

たとえば、ロッカーを開けるにしても、まったく関係のないところを一度触ってから開けたり、衣服を着るにしても、なにか無駄な動きがそこに入ったり。

しかし、そのような人は端から見ると真面目な人が多いので、危険信号を発しているにもかかわらず放置されてしまうことが多い。

そしてそれが、やがて取り返しのつかない事件へと繫がってしまうことがあるのだ。

大きく揺れるということは、人にもとてつもない揺れを与えてしまうのである。

増える「動かない」人々 逆に動かない人にも注意が必要だ。

現代社会には不登校や引きこもり、ニートなど、自らアクションを起こすことができなくなってしまった人がたくさんいる。

彼らはなぜ、動かなくなってしまったのか。

その理由のひとつに、「失敗を過度に恐れている」ということが挙げられるだろう。

彼らには、ミスなんてあって当たり前だという感覚、ミスを教訓にそこからなにかを学ぶとか、ミスをきっかけに修正するといった感覚が欠けている。

これには、結果至上主義の影響も少なからずあるように思う。

社会全体を包み込むミスを許さない雰囲気、さらに自分の子どもに失敗を許さない親たち……。

動かなくなってしまった人たちは、幼い頃からミスの許されない環境で育ってきた。

そのため、まわりがいくら「大丈夫だ」といっても、「失敗したら終わり」という思いの呪縛から逃れられないでいる。

地震に本震と余震があるように、人の心にも「本震」と「余震」がある。

この場合は本震 =本心、余震 =余心と理解してもらってもいい。

本心は表面に表れる揺れ。

余心はまわりの人がなかなか気づかない小さな揺れ。

しかしこの余震 =余心にこそ、まわりが気づいてやらなければいけなのだ。

地震は断層のずれによって引き起こされる。

本震の後に余震が起こるように、人間の心のぶれにもまた、本震と余震、さらにつけ加えるなら前兆がある。

噴火の前兆となる火山性地震といってもいいかもしれない。

しかし、その人の体のぶれをちゃんと見ていれば、次になにが起こるかある程度想定できるのだ。

「いつかたいへんなことをしでかすかもしれない」とか、「もうすぐつぶれてしまうかもしれない」といったような前兆をときに摑むことができる。

心のぶれと体のぶれは繫がっている。

心のぶれは信号となって体のどこかに出てくる。

確かに、心の中を見ることはできない。

しかし不思議なもので、心の発する声というのは、必ず体のどこかに出てくるようになっている。

二次災害、三次災害などと災害を広げることなく、一次災害で被害を食い止めるためには、周囲の人間がその人の発している前兆、および余震 =余心に気づいてやることも肝心なのだ。

横に開いた目の人が増えている「目は口ほどにものを言う」という言葉の通り、目は赤裸々にその人の内面を物語る。

目の表情、視線などを見れば、その人の生活ぶりが見えてくる。

日常の生活、職業などによっても目にその特徴が表れるのだ。

たとえば、タクシー運転手とトラック運転手を比べた場合、その視線の違いは明らかだ。

タクシー運転手は走行中、歩道のお客さんを見逃すまいと四方八方に隈なく視線を走らせているはずだ。

トラックの運転手は傲慢な人が多いなどという話も聞いたことがあるが、これは普段、トラックの運転席という高いところから眺めているために、知らず知らずのうちにいわゆる〝上から目線〟になってしまった可能性もある。

目にはいろいろな表情が表れる。

麻雀をしていても、目を見るだけで相手がなにを狙っているのかわかるときがある。

目に表れた裏側の力みを探っていくのだ。

大きな手で上がろうとすればするだけ力んでしまい、その無駄な力が目に表れる。

実際、多くの人が、無駄な神経を使いすぎているような気がする。

ポーカーフェイスといわれる人でも、目に表れる微妙な変化を隠すことはできない。

落ち着いた風を装っていたとしても、目やそのまわりにほんの一瞬、チラッと表情の変化を見せることがある。

喜怒哀楽、人間には多様な感情があるから人間なのであって、感情がなかったらロボットと同じだ。

感情があるから心も体も動く。

現代社会は理性によってそういった感情の動きを抑えることが〝よし〟とされる風潮がある。

息苦しさを感じながら、たくさんの人が自分の感情を押し殺して生きている。

だから、社会全体に不自然な動きをする人が増えるのも当然のことなのかもしれない。

たとえば、日本人の目は、昔と比べてかなり変わってきている。

今の人たちは、私にいわせれば〝横に開いた目〟が多くなった。

〝横に開く〟というのはつまり、目を薄く開き、細めて見るということ。

小さい文字ばかり見ているからなのか、パソコンや携帯電話が原因なのか、はっきりした理由は私にもわからない。

ただ、目を細めて見るということは、そうせざるを得ない対象が多くなってきたということと同時に、本当は見たくないものが世の中に溢れているということへの無意識の反応の表れではないかと思う。

花は汚い空気の中より、大自然の中でこそ綺麗な花を咲かせることができる。

淀んだ空気の中では花の魅力を十分に咲かせられぬばかりか、咲いていた花さえもしおれてしまうに違いない。

人間にも、花と同じことがいえる。

息苦しさを感じる現代社会の中で、人間は感情を抑えながら生きている。

感情を抑えるにはあらゆることに鈍感になったほうが楽だ。

その結果どうなったか? 鈍感になるために、多くの人が五感をどんどん閉じていってしまったのだ。

人間の体は五感を使ってこそ正しく機能するようにできているのに。

五感を使わなければ心身のバランスが崩れ、人間が人間でなくなってしまう。

〝横に開いた目〟というのも、そのひとつの表れに違いないのだ。

五感を使い、その人なりの花を咲かせるにはどうしたらよいのか? 社会全体がそのことをもっと真剣に考えるべき時期にきているのではないだろうか。

「目力」を失った日本人〝最近の若者は〟などと講釈を垂れる気は毛頭ないが、現代の若者を見ていると、無気力でだらだらと生きている人が多くなっているような気がする。

今風にいうと〝まったりしている〟とでもいえばいいのか。

まず気づくのは、若者たちの目に力がないということだ。

目力のない人は、あらゆるものごとに対して、「一点から見る」ということしかできていないのだと思う。

ひとつのものごとを凝視してしまうから目が疲れる。

そうなってしまったきっかけがゲームにあるのか、インターネットにあるのか、携帯電話にあるのか、なんなのかはわからない。

視覚的にも思考的にも、ひとつの対象を多角的に眺めたり、考えたりすることは大切なことだ。

しかし、今の若者は、そういった多方面から見る、考えるといったことがどうも苦手なようだ。

目が疲れたときは遠くを見る、地平線を見るというようなことが息抜きになったり、目を休めることに繫がったりするのだが、今はビルが林立して、地平線を望むことができるような場所が少なくなってしまった。

精神的な部分でいえば、現代社会の中に息抜きのできる場所が少なくなってきたことの表れでもあるのだろう。

目力を持つにしても、一点集中型の目力より、全体を俯瞰する目力のほうがいい。

一点集中型だと、そこに囚われたままになってしまうので、柔軟な対応もなかなかできないことになる。

視野をふんわりと広げて見るのがよい。

一点集中型はなにかと問題も生じやすい。

子育てを例にとると、「勉強しなさい。

勉強だけしていればいいんだ」というような育て方になる。

そうやって育てられた子は、必ずどこかに歪みが生じてくることになる。

そうではなく、ちょっとだけ視野を広げて、「遊びながら、勉強もするんだよ」と教えてやる。

勉強だけに焦点を当てるのではなく、そのまわりのことにも光を当ててやる。

この場合の視野を広げるとは〝ながら感覚〟を取り入れることだと解釈してもらってもいい。

ひとつのものごとに囚われてしまうと、そのほかの変なもの、違和感のあるものを見落とす原因にもなる。

なにが起こるかわからない今の世の中において、変なもの、違和感のあるものに気づかないというのは致命傷になりかねない。

私の場合は、全体を被写体として俯瞰して捉え、その中のどこに違和感があるのかを感じるようにしている。

景色の中に生じる微妙な揺れを捉えるのだ。

海の中でサザエやカレイを見つけるにしても、広い視野で見ることのできる目力が必要だ。

もちろん違和感を感じる力もなければならない。

自然と触れ合っている中で違和感を感じたとき、はたして違和感はどっちにあるのか? 自分か? 向こうにか? それをまず考える。

海の中にいるときならば、自分に違和感があるならこちらが避けなければならないし、向こう(魚)が違和感を感じていれば私を避けるだろう。

当然、自然界の生物たちが〝違和感〟という言葉を使うことはない。

それぞれの感覚や器官を働かせることで常にまわりからなにかを察し、感じているにすぎない。

人間は、文明の発逹とともに、そうした野性的な感覚を少しずつ失っていった。

現代の若者から目力が失われつつあるのも、いわば当然の流れなのかもしれない。

失った感覚を取り戻すためにも、その第一歩として、視野を広げるという作業から始めてみてはどうだろうか。

大局を捉える「全体眼」を磨け

相手の体の動きを見て違和感を感じたとすれば、その違和感は必ず、なにかを示唆している。

違和感を突き詰めていけば、相手がどのような状況にあるのか、あるいはどのような生き方をしてきたかということなどがわかってくるのだ。

以前、ある編集者と仕事をしたときに、私がその人の右肩に違和感を感じたのでそのことを指摘すると、「じつは過去にスポーツで肩を壊したのだ」という。

文字を書くときに右肩に力が入り、不自然に上がっているように見えたので私はそう指摘したのだが、その場に居合わせた第三者には、その人の右肩の不自然さはまったくわからなかったらしい。

こんなこともあった。

それは、卓球女子オリンピック日本代表の平野早矢香選手の試合を観戦していたときのことだった。

彼女とはひょんなことから親交を持つようになり、その日は横浜で試合があるというので応援に出かけた。

相手は強豪国・韓国の選手。

しかも平野選手は、その韓国の選手に今まで一度も勝ったことがなかった。

試合は、序盤から平野選手がやや劣勢だった。

ところが二セット目、ある瞬間に私は韓国人選手に違和感を感じた。

彼女の頭の位置が下がったように見えたのだ。

頭が下がったということは重心が下がったということ。

スタミナ切れで足にきたというわけでもなさそうだったが、明らかに頭の位置は下がっていた。

すると案の定、韓国人選手の打つ球がことごとくネットに引っかかるようになり、平野選手はその試合で勝利を収めた。

韓国人選手は、自分の打つ球がネットに引っかかるようになってから頻繁に首を捻っていたから、きっと自分の頭が下がっていることには気づいていなかったのだろう。

もちろん、その場にいた韓国チームのコーチやスタッフたちも。

今、ここで述べたような〝違和感を感じる〟ということ、それをどう感じ取っているのかということを言葉にするのはかなり難しい。

そこには多分に、感覚的なものが作用するからだ。

だから、残念ながらすべての人がそういう微妙な違和感を感じ取れるようになるとも思わない。

一部分を見るのではなく全体を見つつ、過去の動きの残像と照らし合わせて違和感を炙り出す。

それにはまず、全体を捉える視力を磨かなければならない。

視力といっても、この場合の視力は、一・二とか二・〇といった視力検査の視力ではない。

全体を見る力、「全体視」「全体眼」とでもいおうか。

私は、雀鬼会の道場にいるとき、隅から見ているだけで各卓の流れを全体として捉えることができる。

数卓あるテーブルそれぞれで、なにが起きているか全部見えている。

しかし、麻雀の DVDを製作したりする際、テレビの画面の中で展開している対局を見てもそこでなにが起きているのかはまったく理解できない。

小さな画面の中のものがまったくわからないのだ。

テレビ画面という一部分だけ切り取られたものを見ていると、こちらの目まで切り取られてしまったかのような錯覚すら覚える。

自然に則した全体を見る力はあるが、人工的に切り取られた一部分を見る力は私にはない、ということなのだろう。

でも、その〝人工的に切り取られた一部分を見る力〟だけになっているのが現代の生活ではないだろうか。

現代社会では、テレビ、パソコン、携帯電話といったものが必要不可欠な存在だ。

だから、ほとんどの人が「パソコン眼」「携帯眼」になってしまっている。

小さな枠の中を見る力はあっても、大局として全体を大きく捉えることができず、いろいろなことを見落としてしまう。

私は、パソコンも携帯電話も持っていないし、使い方だってもちろんわからない。

テレビ画面の中で起きていることが理解できないのだから、携帯電話など推して知るべし。

もちろん、これは視力の問題ではない。

その代わり私は、海などに行っても、ほかの人には見えない魚や貝が見える。

麻雀も生で見ていれば遠くからでもその展開が手に取るようにわかる。

かつての人間、自然界と触れ合って生きていた頃の人間は、そういう「全体眼」を持っていたはずだ。

現代に生きる人々は、その持っていたはずの力を失ってしまっているだけなのだと思う。

「第一印象」は日々に移ろうもの「人を外見で判断するな」とよくいうが、私は、外見で判断できる部分もあるし、できない部分もあると思っている。

だから、「第一印象がすべてだ」などという考え方に対しても、私は必ずしもそうとはいえないと思っている。

人の気持ち、心というのは天気と同じで、日々移り変わっていくものだ。

頭が痛かったり、胃が痛かったり、体調だって日によって違うだろう。

たとえば、初めて会った人がどこかイライラしている感じがあったとして、次に会ったときにはそのイライラが解消していて、だいぶ違った印象を受けるということはよくあることだ。

私だって冴えている日もあれば、調子が今ひとつの日もある。

つまり、第一印象というのは、その日、その瞬間に感じた印象にすぎないのだから、それがすべてではないということだ。

調子のよいとき、悪いとき、一〇回、二〇回と何度も会う中でいろいろなことを含めてその人を見て、その存在を確認し、「あ、この人は、だいたいこんな人だな」というのがわかるのだと思う。

第一印象に限らず、私が人を見るときのポイント。

それは全体を見るということだ。

話す言葉、表情、体の動きを全体として捉えれば、「神経質だな」とか、「細かいな」とか、あるいは「ずぼらだな」とか、その人の性格や思考というものをある程度摑むことができる。

神経質な人というのは視線を逸らすことが多い。

見ているようで見ていない。

すぐに視線を逸らしてしまう。

なにか大切な話をしているときでも、あらぬほうを見ていたりする。

神経が細かすぎるがゆえに、対象となる人やものを見ながらしゃべるということができないのだろう。

ただ、人の目を見て話をしない、話を聞かないという人は、恥ずかしがり屋の場合もあるので〝神経質〟とひとくくりにはできない。

たとえば、だまされやすい人というのは固定観念に縛られてしまっている人が多い。

人を見分ける力、人生において正しい選択をしていくためには、固定観念に縛られることなく、全体を見て判断しなければならない。

そういうことをくり返していくことで、人の性格のみならず、ものごとの本質も見えてくるようになるのだ。

現代人の偏った歩き方の理由〝歩く〟ということは人間の基本動作だが、基本中の基本の動きなだけに、そこに意識を置いている人はあまりいないだろう。

意識しない動きとは、無意識のうちに思わず出てしまう癖と同じで、その人の生き方や生活習慣が出てくるということ。

都会と農村、それぞれで生きる人の歩き方もおのおの違うし、明治以前の日本人が、左右同じ側の手足が同時に出る「ナンバ歩き」だったといわれることからもわかるように、時代によっても歩き方は変わってきている。

では、現代はどうかというと、今の人たちは踵を摺るように歩いたり、つま先に重心がいってしまっていたりと、ちょっとおかしな歩き方をしている人が多い。

足の裏全体をバランスよく使って歩いている人が意外と少ないのだ。

本人は普通に歩いているつもりでも、端から見ると重心がどこかに偏ってしまっていてバランスが悪い。

これは、本能的に自分でどこかにストップをかけてしまっていることの表れでもある。

障害物に出くわしたり、あるいは目標に達して動きを止めるのならともかく、なにもないのに自分でブレーキをかけてしまっている人が多いということだ。

そういう人たちは、自分の人生においても事あるごとにブレーキをかけ、なにかを避けるように、あるいはなにかから逃げるように自分の本心を隠しながら生きている。

なぜ、知らず知らずのうちに心のブレーキをかけてしまうのか? それは、その人の過去に、自分の心の動きを止めてしまうような出来事があったからなのだと思う。

親から虐待を受けていたとか、酷いイジメにあっていたとか。

そこで自分の心の動きを止めてしまっているのだ。

さんざん勉強したのに志望校に入れなかった、といった目標のズレ、期待のズレをきっかけに動きを止めてしまった人もいるかもしれない。

理由はいろいろあると思うが、その過去に引っかかったまま、身動きがとれなくなってしまっている人が多いということだ。

過去を引きずって歩いている人たちは、魚の骨が喉に引っかかったままのような違和感を感じながら歩き続けている。

そうなると精神のバランスも崩れてしまうから、人ごみを歩いていても他人にぶつかってしまったりする。

偏った歩き方にならないようにするには、まず自分の喉になにが引っかかっているのかを知る必要があるだろう。

人によって、それはかなり辛い作業になるかも

しれない。

でも、「違和感のない歩き方」をするための第一歩は、そこから始まるのだ。

囚われが地から足を浮かせる ちょこちょこと落ち着きなく歩く人も本当に多くなってきた。

〝急ぐ〟ということを履き違えている人たちもいる。

たとえば駅のホーム。

電車一本乗り損なったところでどうってことはないのに、駆け足で乗り込んでいく。

時間に余裕があっても、目の前に電車が停まっているのを見ると反射的に急いでしまう。

それに意味があるのかというと、大した意味はない。

〝急ぐ〟ということを勘違いして、ただただ焦って生きている。

現代社会の中で生きているとそうなってしまうのも必然なのかもしれないが、焦らないよう、忙しなくならないように自分を上手にコントロールすることも大切だ。

緊張感やプレッシャーに弱いというのは、すべて〝焦り〟からきている。

なにか目標に向かってがんばっているのだけれど、そこになかなか行きつかない。

だから、焦る気持ちが強くなってしまう。

焦る気持ちをコントロールできるようになれば、緊張感やプレッシャーというものはかなり軽減できるはずだ。

その点、いわゆる〝田舎〟へ行くと人々の歩き方も違うし、なにより焦りがあまり感じられない。

これは田舎の〝地〟が土に近いからなのだと思う。

土は生きているから、その土に触れることで生を実感できる。

逆に都会のコンクリートは自然のものではなく、息をしていないからどうしてもそこに違和感が生じてしまう。

生きているものと触れ合う空間が少なくなってくると、生命に対する考え方も当然変わってくるだろう。

無差別殺人などという残酷で意味のない事件が増えているのも、そういった時代背景が深く関わっている気がしてならない。

また、心を病んだ人の歩き方はどこかぎこちない。

つま先や踵に重心を偏らせた歩き方になっている。

「地に足をつける」という言葉があるが、この言葉を借りれば、そういった人たちは「地に足がついていない」のだ。

本来は、地に足のついた生き方が望ましい。

他人から見たらどんなにくだらない生き方でも、地に足のついた生き方のほうがいい。

人間はそういうふうに生きるべきなのだ。

地に足のついていない人は、結局のところなにかに囚われてしまっている人が多い。

たとえば、幼い頃から勉強一辺倒で生きてきた人は、大人になっても勉強に囚われ、どこか歩き方もぎこちない。

そして、そういう人たちがやがて親となり、自分の子どもにも同じようななにかに囚われた教育をしてしまうのだ。

こういった「負の連鎖」を断ち切ることは本当に難しい。

しかし、本人はもちろん、まわりの人間がそれに気づいてやることで「負の連鎖」をわずかでも軽減させていくことはできる。

それにはまず、自分自身に対して地に足のついた歩き方、生き方をしているかを問わなければならない。

さて、どうだろう? あなたの足は地についているだろうか?衝突せず都会の雑踏を歩ける秘密 世の中にはさまざまな職業があるが、その職業によって人々の仕種や振る舞いも変わってくるものだ。

教師、政治家、経営者など、その職業や立場によって、体の動きが形づくられていくことがある。

「環境に染まる」というのはそういうことなのだろう。

しかし、それはまたすぐに元に戻る。

環境が人をつくることはあるかもしれないが、それはメッキみたいなもので、すぐに剝がれ落ちてしまう。

メッキが剝がれれば、再び地が表に出てくる。

環境なんてその程度のものなのだ。

職業という環境の違いは、その程度の影響しか人間に及ぼさない。

しかし、これが「地域」という環境の違いになってくると話は別だ。

全国各地、地域によって、言葉も異なれば、生活習慣も異なる。

生活習慣は癖を形づくるものだから、地域の違いは人間に大きな影響を及ぼす。

それは、人の歩き方ひとつとってみてもよくわかる。

都会と地方でも歩き方は異なるのだ。

大勢の人が行き交う都心の街中を見ていると、人間はすごい能力を秘めているのだと実感する。

たとえば大きなスクランブル交差点で、向こうから一〇〇人、こっちから一〇〇人が歩いてきて交錯してもぶつかることがない。

一人ひとりがバラバラに歩いているにもかかわらずぶつからない。

都会で暮らす人は、そういう歩き方ができるようになっている。

仮にぶつかりそうになったとしても、瞬間的に避ける能力を身につけているのだ。

しかし、これは歩くという動作自体が、ぶつからない間隔、距離感を保てる動きだからだ。

走りながらその間隔を保てといっても、なかなかそうはいかないだろう。

一〇〇人と一〇〇人を走って交錯させたら、一人もぶつからないというわけにはいくまい。

都会で暮らす人というのは、街中を歩く中で人とぶつからない距離感を知らず知らずのうちに身につけてきたのだ。

それとは逆に、地方で暮らす人には地方の間隔、距離感がある。

歩いている人の数も少ない。

地方の人が都会に来たときに戸惑うのは、そういった自分の距離感が保てないからなのだと思う。

〝歩く〟ことにもレベルがある 街を歩いているとあまり神経を使わずに歩いている人をよく見かける。

ボーッとしているというのか、注意散漫というのか。

歩きながら携帯電話のメールばかりしている人は、そもそも人間に興味がないのかもしれない。

周囲のことを気にしないばかりか、人間が歩いていることすら頭から抜け落ちているような気がする。

歩道で女性と対峙したとき、「女性はあまりこちらを避けようとしない」という男性の話を耳にしたことがある。

これは女性のほうに「男性が避けてくれる」という先入観があるのだと思う。

私は女性と歩道などで対峙したとき、なるべく車側に避けるようにしている。

これは相手が子どもなどでも同じだ。

夜の場合はさらに気を遣う。

女性というのは、夜道を歩いているときは警戒心の固まりで緊張感がみなぎっている。

その緊張を少しでも解いてもらうために、私は女性が向こうから歩いてくるのに気づいたら道の反対側に移るようにしている。

男たるもの、女性にはそのくらいの気遣いをしてあげなくてはいけない。

「大丈夫だよ」と先にこちらが示してあげるのだ。

女性が前を歩いているときは、そのすぐ後ろを歩くようなこともしてはいけない。

前を歩く女性とある程度距離を置くのがマナーというものだ。

追い抜く必要がある場合は、一定の間隔を置きながら足音を大きくしてこちらの位置を示しながら追い抜く。

人間の基本動作である〝歩く〟ことひとつをとっても、それほど簡単なことではない。

先に述べたように、いろいろと観察しなければならないし、神経も遣うのだ。

貧乏揺すりが秘める意味 人の癖の中でも多いのが「貧乏揺すり」だ。

貧乏揺すりというのは不自然な動きだから、まわりの人も気づきやすい。

見ていて不自然だし、違和感を覚えるから、まわりの人間もその動きが気になるのだ。

しかし、たいていの人間は貧乏揺すりに限らず、頭や肩、腕、指など、体のどこかを不自然に揺らして生きている。

不必要な動きがくり返されると、それはやがて癖となり、違和感の元になる。

必要な動きであればまったく問題ないが、不必要な動きは自然な動きではないから、いろいろな問題も生じてくる。

たとえば人間は、〝まずいな〟と感じたときに不必要な動きが出てくることが多い。

仕事上のまずいこと、金銭的にまずいことなど、日常生活で頻繁に起こる「まずい」と思う気持ちが無意識のうちに動作として表れるのだ。

「まずいな」と思ったときに出てくる不必要な動作は誰にでもあるものだ。

出ない人はほとんどいないといっていいだろう。

この社会で生きていて〝まずいこと〟

がない人はいない。

ただ、〝まずいこと〟が多い人は、それに心が囚われてしまい、不必要な動きも必然的に多くなってくる。

不必要な動きを収めるには、〝まずいこと〟は大した問題ではない、全然どうってことないと思うことが大切だ。

世の中には美味いものもあればまずいものもある。

そう思えば〝まずいこと〟もどうってことのない問題になる。

いつもよいもの、美味いものばかりを狙っていると、まずいものに出くわしたとき、その対処法に戸惑ってしまう。

そしてその焦りは不必要な動きとして体に表れる。

「焦るなよ、落ち着けよ」とよくいわれる人は、いつもよいもの、美味いものばかりを狙っているからそうなるのだ。

世の中まずいものがあって当たり前。

多くの人がよいもの、美味いものの幻想を抱いているだけで、じつは、世の中にはまずいものの数のほうが圧倒的に多い。

そのことに気づけば、貧乏揺すりをはじめとする体の不必要な動きは徐々に減っていくはずだ。

なぜ欧米人は身振りが大きいか? 人と人とがコミュニケーションをとる際、身振り手振りで意思を伝えることを「ボディ・ランゲージ」というが、欧米人と日本人のボディ・ランゲージを比べた場合、欧米人のほうが圧倒的に身振りが大きい。

日本人から見ると欧米人のボディ・ランゲージは大げさなのだ。

では、なぜ欧米人の身振りは大きくなったのか? それは、欧米の国々が歩んできた歴史が物語っている。

多様な民族がひしめくヨーロッパでは、紀元前から国盗り合戦が繰り広げられ、異文化の交流も盛んだった。

新大陸・アメリカにはそんなヨーロッパからさまざまな人種が上陸し、多民族国家を形成した。

つまり、違う言葉を話す人と接する機会が多かったがために、相手になんとか真意を伝えようとして自然とジェスチャーが大きくなったのだ。

体を使って言いたいことを伝える「ジェスチャー・ゲーム」を見たり、やったりしたことのある人は多いだろう。

あのゲームを見ていると、まったく見当外れな動きをしているのにもかかわらず、まわりの人がいいたいことを当てたりすることがある。

これは、あることを真剣に伝えようとすると、体の動きだけでも(それが多少見当外れだとしても)、十分に伝えることができるというよい例だろう。

欧米人のような渡り歩く民族は開拓民族とでもいうのだろうか、彼らのような歴史を持っていれば、身振り手振りが大きくなって当たり前なのだ。

グローバル化が急速に進む現代において、彼らのような適応力の優れた人種が世界中で活躍するのは必然である。

今後は、インターネットの普及に伴う仮想現実社会の影響で、全人類的に身振りや手振りは小さくなっていくのかもしれないが、彼らの DNAに埋め込まれた適応能力の高さは、さまざまな場面でこれからも発揮されていくに違いない。

牌を捨てる行為に美醜が表れる 麻雀では、四人のプレイヤーが一三個の牌を手牌として持つ。

そして、山から順に牌を一個ずつ取っては、手牌の中から一個を捨てていくという行為をくり返す。

各プレイヤーの人間性が出るのは、山から牌を取るときではなく、捨てるときだ。

一三個ある牌の中からどの牌を捨てるか。

その「捨てる」という行為の中に、いろいろな意味が含まれている。

勇気や的確な状況判断によって牌を捨てることができればよいのだが、実際の勝負の中ではそれがなかなかできない。

捨てるという一打一打の中に、その人の危うさ、汚さ、緩さ、曖昧さ、臆病さが入り交じってくる。

捨てる、あるいは切るという行為は、臨機応変で、適材適所で、柔軟で……と、すべてを備えていないとできないのだ。

牌を捨てるという行為には、弱気、疑い、損得勘定など人間が持つ欲、いやらしい部分がすべて出てくる。

だから、雀鬼会ではその捨て方、切り方が少しでも美しくなるよう、牌を切る練習ばかりしている。

まずは動き、そしてその次に考え方。

思考、動作といった心身の両面で、できるだけよい形で牌を切れるように、メンバーたちは日々鍛練に励んでいる。

切り方を練習していると、だんだん麻雀に対して美意識というものが出てくる。

動作を磨いていくことで徐々に思考にも美しさが出てくるのだ。

人間なら、誰もが大なり小なりいやらしい部分を持っているものだし、ましてや、それをなくすことなんて誰にもできやしない。

それならば、そういった気になる部分が少しでも表に出ないように収めておくようにする。

収めたうえでさらに、少しでも美しい動き、思考となるように修正をしていく。

それが大切なのだ。

それが大切だと思うからこそ、雀鬼会では今日もまた、牌の切り方を練習している。

一流でも勝利の一歩手前で震える あなたにも緊張したときに手が震えたり、足が震えたりした経験があると思う。

人前で字を書くときに手が震えたり、大勢の前でなにかをしなければならないときに膝がガクガクと震えたり。

極度の緊張状態に置かれたときに交感神経の作用で手のひらに汗をかくのと同様に、神経の作用で人間の体は震えてしまうのだ。

将棋界で数えきれないほどの激戦を制してきたあの羽生善治氏でさえ、対局の終盤に手が震えることがあるのだそうだ。

タイトルなどがかかった大一番の戦いの中で勝ちを確信した瞬間、彼の手は震えだすのだという。

これはたぶん、勝ちが見えているのだけれども、「どこかに見落としがあるのではないか?」という怖さからきているような気がする。

彼は命を削るような戦いを幾度も繰り広げてきた。

そういう戦いの中で、たったひとつの見落としがあったがために逆転されたりしたこともあったに違いない。

「これはもういけるな」と思ったところで不意打ちを食らう、あるいは虚を衝かれるといったことが。

そういう経験を何度もしているからこそ、希代の勝負師である羽生善治氏の手は震えるのだと思う。

数多くの戦いを経てきた本当の〝勝負師〟だからこそ、勝ちを確信したときに恐怖を感じるのだ。

人間というものは、勝ちを確信したときにどうしてもそこに隙ができてしまう生き物だ。

プロ野球では、あと一人抑えればノーヒットノーラン達成というときに相手バッターに打たれてしまい、さらにその後逆転までされてしまった投手がいた。

サッカーでは、残り時間わずか五分の間に二点差、三点差をひっくり返され逆転負けすることがあるし、格闘技でもラウンド終了間際に逆転の一発を食らい KOされてしまうことがある。

人は、どうしても最後の最後でぶれてしまう。

過信したり、守りに入ったりして、それまで一貫して保ってきた姿勢を崩してしまうのだ。

でも、これは人間なら当たり前のことだ。

ぶれるから人間なのだ。

誰にだって弱さがある。

どんなに強そうに見える人でも、心の中に弱さというものは必ずある。

この弱さがぶれを生む。

人間にはぶれがあるから、いろいろな場面で幾多のドラマが生まれるのだ。

だから、そのぶれが原因で負けてしまったとしても、その程度のことで人を責めてはいけない。

「人間なら当たり前。

この負けを次に生かそう」、そう思いながら勝負を続けること、むしろこのほうがずっと大切なことなのだ。

「柔らかさ」こそ本当の「強さ」「柔能く剛を制す」という言葉がある。

弱者が強者を倒すたとえとして使われることが多いが、字面から察するに、しなやかさで剛強なものの矛先を逸らしつつ、あるいはその剛強なものの力さえも逆に利用しつつ勝利を得る、ということを意味しているのだろう。

これは、各種スポーツや麻雀、将棋などに限らず、あらゆる勝負事に通じる言葉だ。

とりわけスポーツの場合、強さやスピードを求め、ただがむしゃらに筋力などを鍛えている人がいるが、これは大きな間違いである。

〝動〟的なものが強さにつながる、と勘違いしがちだが、じつは〝静〟的な柔らかいものにこそ本当の強さが秘められている。

私はプロの格闘家と交流があり、たまに体の動きを教えたりすることがある。

そのときに〝静〟の強さを示すために、私は体重一〇〇キロもある選手を押さえ込む。

押さえ込む。

〝動〟に頼った力だけの押さえ込みなら、簡単に跳ね返されてしまうことだろう。

でも、私に押さえ込まれた選手はまったく身動きがとれない。

〝静〟的な柔らかさでもって〝動〟的な剛を制しているのだ。

しかし、この道理を言葉で説明するのは難しい。

あえていうならば、「体全体で相手の重心を押さえ込むような感覚」となるだろうか。

中国に古来から伝わる代表的な武道のひとつに太極拳がある。

太極拳の動きはみなさんご存じのように、ゆっくりとした静かな動きの連続だ。

あのしなやかな動きを体現するには、体力のみならず、精神面や呼吸法といった内面的な鍛練もかなり必要とされる。

あの動きにも〝剛〟を制する〝柔〟の強さの秘密が隠されている。

柔らかい動きは、同じ力を出すにしても、余分な力を必要としないため効率がよく、スタミナ切れもしにくい。

動きの〝省エネ〟といってもよいだろう。

さらに、柔らかい動きは次の動きに入りやすいし、相手の変化にもついていくことができる。

私が考える勝負の三原則は、「臨機応変」「適材適所」「柔軟性」だ。

臨機応変はどんな状況にも動じず冷静に対応するということ、適材適所はその場その場にふさわしい行動、動きをとらなければならないということ。

そして最後の柔軟性は、肉体的な柔軟性ということではなく思考的な柔軟性、「どう攻めようか、どう受けようか」という考え方の柔らかさを示している。

つまり動きの柔らかさとともに、思考の柔らかさも持っていなければならないということなのだ。

ところが日本では、トップアスリートと呼ばれる人たちの中にも、これが固いままでトレーニングを積んでいる人が少なくない。

思考の固い人は筋肉や関節の動きなど体のいたる箇所が硬い。

そして体の硬い人は心も固くなってくる。

「固い意志」を持つことが日本では美徳とされるようなところがあるが、本来は柔軟な「柔らかい意志」のほうがいい。

アスリートでも、精神的、肉体的に柔軟性を欠いているために、才能があるにもかかわらず伸び悩んでいる人もたくさんいる。

柔軟性というのは、あらゆる勝負事においてとても大切な要素なのだ。

気配を消せば相手の隙を衝ける 私の観察力、洞察力というものは、子どもの頃に身につけたものだ。

子ども同士で遊んでいる中で、相手の隙がわかるようになってきて、その隙を衝いて遊ぶようになった。

やがて、その対象が子どもだけでは飽き足らなくなってきて、次に大人の隙を観察するようになった。

そこで気づいたのは、「なんだ、大人にもけっこう隙があるんだな」ということだった。

八百屋さんが天井からぶら下げている釣り銭入れのザル。

あの中から十円玉を取ったこともあった。

店員さんもいればお客さんもいる。

たくさんの大人がいる中で、私はザルから十円玉を抜き取った。

別にお金が欲しくてやったわけではない。

「これだけ大人がいるのに気づかれなかったらおもしろいな」という気持ちだけ。

だから抜き取った後、十円玉を再びザルに戻した。

それでも誰にも気づかれなかった。

そうやって隙をうかがう遊びをしているうちに、自然と気配も消せるようになっていった。

ジュース会社のジュースを盗み出したこともある。

最初は一本、二本だったのが、だんだん飽き足らなくなり、一ケース持ち出したこともあった。

いずれも守衛室の前を通らねばならない。

でも、守衛さんたちの目に私は映っていなかった。

ガチャガチャと音をさせながらケースをかつぐ私が見えないのだ。

相手の隙を衝く、見えているものが見えなくなるタイミングを衝く。

そうやって私は、いろいろな隙を衝いては遊んでいた。

しかし、いずれも立派な犯罪なので、読者のみなさんはどうか真似をなさらぬように。

今でも、そうやって相手の隙を衝いて遊ぶことがある。

パーティ会場などで気配を消して相手に近づいて脅かしたりするのだ。

私は身長が高いほうなので、会場では当然目立つ。

しかし、そんな私に相手は気づかない。

視界に入っているにもかかわらず見えていない。

相手の隙を観察していると、体の隙がいろいろと見えてくる。

隙というのは、言い換えれば盲点だ。

人間はたくさんの盲点、弱点を抱えて生きている。

私にだってもちろん隙はある。

二四時間神経を張りつめているわけにはいかない。

「油断したな」という瞬間は誰にでも必ずあるのだ。

つい最近までは、寝ていたとしても瞬間的に起きるということができていた。

しかし齢を重ね、近頃は寝覚めがとても悪くなった。

そこで初めて気づいたのだ。

「今まで俺が瞬間的に冴えていたのはなんだったんだろう」と。

そういう意味では、私もかなり鈍感になってきていると思う。

その証拠に、電車の中でも寝られるようになった。

電車の中での居眠りは、まさに隙の固まりだ。

だから昔は、電車の中で居眠りなど絶対にしなかった。

そもそも、人前で寝るということすらできなかったのだから。

これは、私の生活の中で「隙を見せない」ことの需要が減ってきたことの証でもあるように思う。

勝負師としての習い性か、「隙を見せない」という身の処し方に必然性がなくなってきたのかもしれない。

ともかく、そういう時代は、もう終わったのだと本能が告げている。

昔だったらなんてことはないケガが長引いたりする。

弱さが長引くのだ。

若い頃は弱い部分もあったのだろうが、その弱さが長引かなかった。

それが弱くなって初めてわかる。

齢を重ねるとはそういうことなのかもしれない。

少年時代の私が魅了された男 今でこそ〝雀鬼〟と呼ばれ、こうやって本なども出している私だが、別にこういうふうになりたくて生きてきたわけではない。

自分の求める生きざまを追い続けてきた結果、今、こうして私は生きている。

こういう生きざまが好きだから、たまらなく好きだからやってきただけなのだ。

それはまた、「こんな生きざまはいいなあ」と思う人が、年上のガキ大将や大人の中にいたことも大きい。

「好きで好きでたまらない。

ああいう生きざまがたまらなく好き」 そのくらいの気持ちを持つと生きざまは変わってくる。

「たまらなく好きだ」という気持ちになっているときは、そこに近づくことができる。

だが、ただ遠目に見て「ああいうのがいいな」「ああいうふうに生きられたらいいな」と思っているだけでは、いつまでたってもそこに近づくことすらできない。

今の時代、スポーツ選手や芸能人に憧れるということはあるのかもしれないが、自分の身の回りにいる一般の人に憧れるということは滅多にないだろう。

しかし、私たちが子どもの頃は、スポーツ選手や映画スターでなくても、現実に、まわりに憧れることのできる人がいたのだ。

私は、そういった人たちに少しでも近づくために、子どもの頃から自分なりの生きざまを追い求めてきた。

私が子どもの頃に「たまらなく好きだ」と思った大人、それは肉体労働をしている近所のおじさんだった。

スーツを着て、鞄を持って、というようなサラリーマンではなく、朝から夕方まで体を使って仕事をしている人だった。

その人は、「なにかあったらやるだろうな」という雰囲気を醸し出していた。

なにかあったときに、体を張って対処できる風格を漂わせていた。

ガキ大将をしていた私にとって、その人はひとつの理想だった。

きっとその人の持っているリーダーとしての資質のようなものに、少年だった私は魅せられていたのだろう。

私が子どもの頃の映画スターといえば、石原裕次郎だった。

もちろん私も、石原裕次郎を見て「格好いいなあ」とは感じた。

しかし、その憧れはあくまでも憧れであって、近所のおじさんに抱いた「こういう生きざまがたまらなく好きだ」といった感情とはまったく異質のものだった。

私が子どもの頃はモノがなにもない時代だった。

しかし、身近に、「たまらなくいいなあ」と思わせてくれる大人がたくさんいたことは、とても恵まれていたことなのだと今、実感している。

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