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第五章 立ち居振る舞いからタイプを見極める

第五章 立ち居振る舞いからタイプを見極める

内面の格好をつける生き方 「自分を売る人」は格好が悪い 「心の装い」を解けば楽になる 人工の明るさ、天然の明るさ 〝狂〟の世界に迷い込んだ人々 社交的な人と詐欺師の境界線 服装ひとつで見抜ける心性 一方的に話すのは寂しさの反映 無口な人は怖さを知る人 クールな人、熱い人 やたら謙虚な人、高飛車な人 自分に厳しい人、他人に厳しい人 すぐ根に持つ人の真実 人の悪口しかいわない人 お調子者は是か非か 上から目線の人の正体 愚痴をいう人は「愚図」な人 わがままな人は格好の反面教師 言い訳癖の人は不安逃避型の人 「存在感がある」とはなにか

内面の格好をつける生き方 格好をつけている人に対して、「外見ばかり気にしてるんじゃないよ」という人がいる。

しかし、はたしてそうだろうか? 格好も大切ではないのか。

見せかけの演出、ファッションというのも必要なことではないのか。

私は、〝格好をつける〟ことは大切なことだと思う。

だが、それだけに囚われず、内面の格好をつけることも忘れてはならない。

私は外見の格好よさとともに、そこに隠された内面をも見るようにしている。

その人の外見が結果だとすれば、内面は内容だ。

私は、結果より内容のほうを重視しているから、どんなに着飾ろうと、内面の伴っていない外見はちっとも格好いいと思わない。

普段の服装は、とてもこざっぱりとしていて清潔な印象を受けるのに、いざその人の部屋に行ってみたらとても汚れていて驚いた。

そんな経験をしたことはないだろうか? 部屋というのはその人の内面世界を表すものだから、そこが汚れているということは、やはり、その人の心のまとまりのなさが出ているのだと思う。

心の軸がないから、心も部屋もいつもまとまりがなく、散らかった状況になってしまっているのだ。

おしゃれを意識するのは忘れてはいけないことだ。

ただ、こだわりすぎるのもいただけない。

臨機応変、適材適所。

それをうまく使いこなすと〝センス〟になる。

サラリーマンが着ているスーツにしても、格好よく着こなしている人もいれば、あまり様になっていない人もいる。

いったい、この差はどこから来るのか? 様になっていない人は、スーツに着られてしまっているのだ。

これはなにも、スーツに限った話ではない。

「男らしさ」を表に出そうとしても、その「男らしさ」に着られている人はやはりどこかが噓っぽい。

男らしさのほかにも、強さ、優しさ、思いやりといろいろあるが、どれも着こなしてしまっているほうが断然格好いい。

着こなすとはつまり、身に染み渡っているということ。

意識しなくても自然とそうなり、できてしまう。

それが着こなすということなのだ。

ブランド品を着ていても、それがブランド品に見えない人もいる。

これは〝格好いい〟とはちょっと違う。

ブランド品のほうが本人より目立って見えてしまうのを〝ブランドに負けている〟というが、ブランド品を持っているのになぜか安っぽく見えてしまうのも、また負けているのだ。

そういう人たちは、やはりセンスがまだそのブランドに追いついていないから、ブランド品に負けてしまうのだろう。

ブランドに頼りすぎ、依存しすぎというのも考えものだ。

「自分を売る人」は格好が悪い 格好悪い人が格好よくなりたいと思っても、今の世の中は、社会全体が格好悪くなってしまっているからなかなかそれも難しい。

社会がいろいろな意味で歪み、曲がってしまっている。

そんな凸凹だらけの環境の中で生きていくには、人間もその凸凹に合わせなければならない。

その結果、どんどん格好悪い人が増えていく。

格好よかった人まで格好悪くなっていく。

出世し、仕事で成功を収め、抜きん出た存在になったとしても、そこに全体的な格好よさを感じることは少ない。

現代社会がつくった価値観ばかりに囚われていると、どこかで自分を見失ったり、あるいは自分を売らなければならなくなる。

媚を売る、努力を売るなど、なにか売っている人は、やはりどこから見ても格好悪い。

「売らなきゃ給料がもらえないし、生活もできない」と反論したい人もいるだろう。

しかしその価値観だけに囚われてしまったり、その価値観が前面に出てきてしまっている人はどうしたって格好悪いのだ。

人間誰しも、若い頃のほうが格好いいような気がする。

学生時代くらいがピーク。

それ以降は、だんだんとみんなが格好悪くなっていく。

仕事に就いて格好悪くなる。

結婚して格好悪くなる。

子どもが生まれて格好悪くなる。

端から見ると順調にどんどん先に進んでいるようだが、じつは格好の悪いほうへ後退してしまっている。

世の中に溢れる情報、当たり前だと思っている動き、考え方、それ自体が格好悪いのであって、そうではないほうが格好いいということはたくさんある。

知識や情報をたくさん身につけていることが仮に格好いいとされることだとしても、そうではないほうが格好いい場合だってあるのだ。

知識や情報をあてにするのではなく、インスピレーションを大切にして自然体で生きる。

究極の格好よさとは〝素のままの自分で生きる〟ことだと私は思っている。

「心の装い」を解けば楽になる 最近は〝男〟を感じさせる男性をあまり見かけなくなった。

しかし、ごく稀に女性で、男からすらもあまり感じない〝強さ〟を醸し出している人がいたりする。

そういう女性には、いわゆるキャリアウーマンと呼ばれる女性のような毅然としたところや凜としたところはあまりない。

逆に、私の印象からするとふにゃっとしている。

心の柔軟性というものが表に自然に出てきているから、とても柔らかい印象を受けるのだ。

男性・女性という人間の〝型〟に囚われていないことも理由のひとつかもしれない。

もちろん、そういう強さを持った女性は、柔らかさの中にも芯をしっかり持っている。

しっかりとした芯、資質のようなものが血として体を巡っている。

その一方で、凜として自立しているように見える女性が、じつは裏ではぐしゃぐしゃだったりする。

これは男性・女性問わずいえることだが、意識してつくっているポーズは、しょせん「装い」でしかないのだ。

優しさも強さも、人は装うことができる。

みんなが裸、あるがままでいればいいのに、優しさのシャツを着たり、強さの鎧をまとってみたりする。

恥ずかしいところ、汚れているところはパンツで隠したり。

そのような衣装は、結局のところ、その人の本質を隠すベールのようなものでしかない。

中には、幾重にもいろいろな種類の服をまとっている人もいるから、歩くだけでもたいへんな思いをしているに違いない。

だから私は、道場生の中で衣装をまとっている人間がいると、「裸になれよ」と衣装を引っぱがす。

最初は抵抗を示す者もいるが、その相手に合わせて一枚一枚脱がせてやる。

するとその相手は、衣装を脱いだほうがどれだけ楽か、素直に生きられるかに気づくのだ。

サラリーマンのスーツにネクタイ、野球選手のユニフォームだって一種の装いだ。

人は誰もが必ず装っている。

私にだって、日々の中で装っている一瞬があるかもしれない。

ただ、私の場合は、装っていない時間のほうがはるかに長いので、これまで己が己らしくいられたのだと思う。

なんでもかんでもデジタルな世の中にあって、デジタルな波に揉まれた人たちは、思考もどこかデジタル的な装いになっている気がする。

私はといえば、自他ともに認めるアナログ人間だ。

そんな私に接すると、すっかりデジタル脳になってしまっている人もアナログっぽくなってくるから不思議だ。

かつてはそうであったであろう、その人の本質、アナログな部分が徐々に出てくるのだ。

自分が素直になれたら誰でも一瞬気分がよくなる。

私は、そうやって相手の気分をよくしてやる。

ただ、そんな相手も、デジタルな現実に戻れば、また元のデジタル脳に戻ってしまうのだろうが……。

人工の明るさ、天然の明るさ 世の中には明るい人もいれば暗い人もいる。

「明るくてテンションが高いように見えるけれどもじつは暗い人」というのもいる。

明るい人は大きくふたつに分けられる。

ひとつは天性の資質で明るい人。

もうひとつは人工的に明るい人だ。

人工的に明るい人とは、本など外から知識を得て、人工的な明るさを無理に放っている人のことだ。

天然の明るさが太陽だとすると、人工的な明るさは電気のライト。

同じ明るさに見えてもやはり電気のほうには無理がきて、いつか切れてしまう。

点けたり消したり、当然、そこには表裏も出てくる。

一人になると暗くなってしまったり、なにかあると暗くなるのは人工的な明るさを放っている証拠だ。

いい人、楽しい人を演じていることにたまに疲れてしまうのだ。

子どもでいえば「親が喜ぶから、先生が喜ぶから、いい子でいよう」というタイプ。

自分で進んでやっていることではないから、この人工的な演出もいつかどこかに無理がくる。

明るい人、いい人、楽しい人を演じてしまうのは、人生の中に損得勘定が入ってしまっているからなのかもしれない。

しかし、明るい人でいるのは得のうちだけで、損になってしまうとガラッと変わってしまったりする。

優しさも明るさも人工的なものは、いつかどこかでボロが出てくるのだ。

だから、子どもは小さなうちからなるべく明るいままでいさせてあげるのがいい。

子どもが明るさを出したときに、「無茶するな」とか、「うるさい」などといって押し止めないで、そういうときは好きなようにさせてやる。

本物の明るさ、天然の明るさを育むためには、そうやって子どもの明るさを育てていかないといけないのだ。

躾だとか、隣近所に迷惑だからといって、必要以上に押さえ込むのは子どもにとってマイナスでしかない。

〝狂〟の世界に迷い込んだ人々 私は、危険なことにどうしても惹かれてしまう。

子どもの頃は鉄橋を渡ったり、急流で泳いだり、危険なことを平気でしていた。

今でもサメやワニを見ると無性に触りたくなる。

子どもの頃にさんざん危険なことをしてきたから、幼いながらに普通の人が感じる危険は、本当は大したことがないということに気づいてしまった。

本当の危険や脅威といったものがどういうものなのかがわかってきたのだ。

だから、まわりの子どもたちが怖がっていた〝威張る大人〟や〝怒鳴り散らす教師〟なども、私にとってはまったくもって大した存在ではなかった。

中学生の頃は、そんな大人たちの化けの皮を剝がすのをある意味日課にしていた。

恐怖を感じないまでも、私が常々気をつけなければいけないと思っている人は、〝狂〟の世界に迷い込んでしまった人だ。

〝狂〟の世界へ行ってしまった人は、なにをするかわからない。

彼らは人の区別もつかなければ、幻想と現実の区別もつかない。

私が危惧するのは、現代社会にはそういった〝狂〟の世界に行ってしまった人が明らかに加速度的に増えているということだ。

さらに今後、〝狂〟の世界の住人はますます増えていくことだろう。

〝狂〟の世界へ行ってしまった人は、存在自体が溶けてしまったかのような人が多い。

視線も、動きも、言葉も、どこかとろ ーっとしているのだ。

もうひとつのタイプは、それとは反対になにかにつけて〝先走る〟人。

「そこで先走らなくてもいいのに」というところで必要以上に先走る。

目の動き、指の動き、足の動き、思考、すべてが神経質に先走っているのだ。

最近は、一見ごく普通っぽく見える人が残虐な事件を起こしたりするようになったといわれている。

しかし私から見れば、電車などに乗っても半分以上はそういう事件を起こしかねない人に見える。

〝狂〟を感じさせる人が本当に増えている。

〝狂〟の世界の人というのは、外見で明らかにそうだとわかる人ばかりではない。

勉強もできる、社会の仕事もバリバリこなす、しかし心には深い病を抱えている……。

我々はそういう人がたくさん存在していることを理解し、彼らの振る舞いが演技なのかどうかを観察、判断する力を養っていかなければならない。

心の病にならないためには、素直になることが大切だ。

私は、道場生たちにもいつも「素直になるんだよ」といっている。

素直になるということは、なんにでも従順に従えということではない。

よいところ、悪いところを含め、素直にすべてをさらけ出すことだ。

もちろん、それには勇気も必要だ。

道場生たちが勇気を出して素直になれるよう、私も素っ裸になっていつも接している。

社交的な人と詐欺師の境界線 世の中には、内気な人もいれば陽気な人もいる。

内気な人はすぐに緊張してしまうし、人見知りもするから、なかなか初対面の人と打ち解けるというのは難しいだろう。

逆に陽気な人は物怖じしないし、自分からどんどん対人関係も広げていく人が多い。

内気な人からすれば、誰とでも気軽に話のできる陽気で社交的な人というのはうらやましく見えたりするのかもしれない。

引きこもりやニートと呼ばれている人たちの生き方は内向きだが、社交的な人の生き方は外に向いている。

引きこもりやニートと呼ばれる人たちは、その内・外のバランスが大きく内側に崩れてしまったがために自らの世界にこもるようになってしまったのだろう。

社交的な人も、このバランスには気をつけなければならない。

外見上はまったく問題のない、それよりむしろ生き生きとして見える社交的な人の中にも、そのバランスが外側へと大きく崩れてしまいかねない人がいるのだ。

人間は誰しも、知らず知らずのうちに〝動と静〟のバランスをとっている。

引きこもりの人が静のほうへ倒れ込んでしまったように、社交的な人も動のほうに傾きすぎないように気をつけなければならない。

自然に昼と夜があるように、人間の内側にも明るい昼もあれば、暗い夜もあっていいのだ。

一日中〝動〟で生きていたら、それこそ行き詰まってしまう。

〝静〟のほうへいったんバランスを移し、一呼吸置くことも大切なことなのだ。

社交的に見える人の中にも、ちょっと癖のある人もいる。

いわゆる〝八方美人〟というやつだ。

「人によく思われたい」という気持ちが強すぎると八方美人になりやすい。

誰にでもいい顔をしているのだが、結局は自分のことしか考えていない。

本人としては善を追い求めた結果、そうなってしまったのだろう。

しかし、端から見ると嫌な人にしか見えなかったりもする。

誰の中にも善と悪はあるのだから、それをお互いにきちんと認識してつき合うべきなのだ。

最近よくいわれる教育方針の中で「褒めて伸ばす」というのがある。

叱るより、褒めることでその子の性格を伸ばしていこうというものだが、この「褒めて育てたほうがいい」と思うような人も、性質的に八方美人型になりやすい。

こういうタイプも、人間の善の部分しか見ていない人が多いからだ。

八方美人も、行きすぎると言動が詐欺師のようになってくる。

こういうタイプは、会社の営業などをやらせればきっとそつなくこなすことだろう。

しかし、いっていることは噓八百。

しかも、本人は噓をついていることに気づいていない。

八方美人のタイプは総じて要領がいい。

計算高くもあるし、自分を演出するのにも長けている。

しかし、そういう様子を俯瞰すると、逆に内面が丸見えで、こちらが気恥ずかしくなることのほうが多い。

それが見えないレベルの人がたくさんいるから、八方美人の人に遊ばれてしまうのだ。

行きすぎた八方美人タイプの人間には、きちんとそのことを指摘してあげるべきだと思う。

本人は自覚がまったくないから、こちらからそれを指摘してやる。

「あなたのいっていることはいいとこどり。

そんなものがあるわけないでしょう」と。

人の人生、いいことばかりが続くわけではない。

山もあれば谷もある。

人とつき合うときだけいいことばかりいっているのは日和見主義にすぎない。

そういうことを教えてあげるといいかもしれない。

服装ひとつで見抜ける心性 世の中にはいつも同じ服を着ていたり、着るもののカラーがいつも同系色だったりする人がいる一方で、ファッションにしろ髪形にしろ、会う度に変わっているという人もいる。

対極とも思えるそれぞれの傾向の裏側には、どのような精神的作用が働いているのだろうか。

着ているものがいつも同じという人には、固定観念の強い人が多い。

固定観念が強すぎると、どうしてもひとつのものにしがみついてしまうようになる。

私服がまるで制服かのように、いつも同じ傾向の服を着ている人がいる。

そういう人はたぶん、あまり変化を楽しめない人なのだろう。

本当は、もっと変化を楽しめるはずなのに。

なにかを専門にして働いている人、専門家と呼ばれる人などにもそういう傾向がある。

ひとつの道を突き詰めるあまり、こだわりが強くなりすぎてファッションにもその傾向が表れてしまうのだ。

漫画家には奇抜なファッションをしている人が意外と多い。

漫画の世界では空も飛べるし、変身することだってできる。

とてつもないパワーを発揮できたり、いろいろな妄想を現実として表現していく。

そんな妄想の世界にどっぷりと浸かっていると、現実社会と折り合いがつかなくなり、それが奇抜なファッションとして表れてきてしまうのだ。

それが地味なものにしろ、奇抜で派手なものにしろ、ひとつの型に染まっていくのは〝囚われ〟と同じで、人間の思考を固めてしまう。

警察官だって、家に帰っても制服を着ているわけではない。

制服を着るのは統一を図るとか、まわりの人にわかりやすくするとか、機能的にするとか、いろいろな意味があるのだろうが、その中に〝公〟と〝私〟の切り替え、さらにその切り替えによってふたつのバランスを保つという意味合いもあるように思う。

ファッションの傾向がいつも同じ人について述べてきたが、それとは逆に、ファッションがしょっちゅう変わる人の場合はどうだろう。

着るもの、髪形などをしょっちゅう変える人には、優柔不断な人と臨機応変な人がいる。

優柔不断な人は流行に流されやすく、自分というものを持っていない。

こういう人は、着るものによって気持ちも変わってしまう。

もう一方の臨機応変な人には芯があるから、着るものが変わっても気持ちは変わらない。

人間が〝動く〟ということは変化するということ。

その変化に間に合わせるためには変わり身も必要だ。

臨機応変な人は、よい意味での変わり身が巧みな人といってもよいだろう。

いずれにせよ、ファッションがしょっちゅう変わる人には、ほかから少しでもよく見られたいという思いがあるのも確かだ。

しかし、本来は装いだけよい方向へ変わるのではなく、中身もよい方向へと変わっていかなければならない。

素の自分をよい方向へと変えていくというのが本来あるべき変わり方なのだ。

ファッションをしょっちゅう変えるのは極端にしても、人は誰しも変身願望を多かれ少なかれ持っているものだと思う。

もう少し目が大きければ、背が高ければといった望み。

劣等感まで行かなくても、自分自身で納得していない部分を変えたいという思いは、心のどこかにあるはずだ。

そもそも人間というのは、歳を重ねれば変わっていくものだ。

二〇歳のときの自分と三〇歳のときの自分ではまったく違っている。

顔も体つきも否応なく変わっていく。

女優さんなども、美しさには相当こだわっているのだろうが、歳をとったらぼろぼろになってしまっている人もいる。

〝変わる〟ということは自然なことなのだ。

それを「私は変わらない」といって変にがんばっている人は、端から見ると格好悪い。

いくら若づくりしたところで、それはつくられたものでしかないから不自然極まりない。

〝あるがまま〟でいることは難しいことかもしれないが、変わっていく自分を受け止め〝あるがまま〟に生きていくことが本当は望ましい。

一方的に話すのは寂しさの反映 まるで機関銃のようにのべつ幕なしにしゃべってきて、コミュニケーションのコの字もとれない人がいる。

一方通行で、話している人は口だけがよく動いているわけだから、言い換えれば心身のバランスが乱れているといえる。

誰かの話を聞くということもできないから、五感も使っていない。

使っているのは口だけ。

人と会話をする場合、最低でも耳と口が必要だ。

しかし、一方的にしゃべる人というのは、えてして口ひとつしか使っていないものだ。

人と人のコミュニケーションには〝待つ〟という感覚を持つことも大切だ。

そうしないと思考のキャッチボールが続かない。

待つ感覚を持つことでお互いの言葉が連動し、美しい流れになっていく。

また、一方的にしゃべる人の根底には寂しさもあるような気がする。

自分の中でどんどん広がっていく寂しさを抑えられずにしゃべり続けてしまうのだ。

さらにもうひとつ、自己主張もある。

誰かに認めてもらいたい、社会に認めてもらいたい、その一心に囚われてしまっている。

もしかしたら、このタイプの人物は、なかなか認めてもらえなかった不遇時代を長く過ごしてきたのかもしれない。

親に認めてもらえなかったとか、先生に認めてもらえなかったなどと、周囲の人に認めてもらえない経験が重なり合って、それが表に出てきてしまっているのだ。

そんな内なるものが強すぎるがゆえに「聞いてよ、聞いてよ。

認めてよ、認めてよ。

ねえ、ねえ、ねえ」というふうになってしまうのだ。

そういう人にとっての会話は、一方的なキャッチボール、つまり〝壁当て〟をしているようなものだ。

だからこそ、たまにその球を捕って、認めてやる。

少しずつ「認めていますよ」ということを伝えてあげるのだ。

そして、「他人のことをもう少し思ったらもっとおもしろいよ」ということも教えてあげる。

そうすれば、徐々にではあるが、会話らしい会話ができるようになるはずだ。

無口な人は怖さを知る人 無口な人と話す場合、私は、しばらく言葉が出るまで待つようにしている。

無理にこじ開けるようなことはけっしてしない。

「この子は、どういうときに言葉を発するんだろう」と見ていく。

同じ無口な子でも、それぞれにしゃべりやすい瞬間、しゃべりやすい雰囲気というものがあるのだ。

私は、それがなんなのかをじっと観察する。

そして相手の「こういうときだったらしゃべるんだな」というポイントをまず見つけて、そこから始めるのだ。

これをせず、無理に「おまえ、無口だなあ。

しゃべんなきゃダメだよ」とやったところで、その子は閉じていた自分の殻をさらに強く閉じてしまうだけだ。

無口な人の中には、人生において人間の怖さ、言葉の怖さをどこかでたくさん味わってきたという人もいる。

言葉は伝導するものだから、自分の中の不安とか怖さに響いてくる言葉に囲まれていた時期があったのだろう。

だから、言葉にはなるべく触れたくないと殻に閉じこもってしまったのだ。

職人さんにも、無口な人は多い。

接客することのない職人なら、しゃべる必要なんてまったくない。

もともとが人と話すのが苦手という人もいれば、その職業についてから〝モノ〟といっしょにいる時間が長くて、無口になっていった人もいるのだろう。

〝目は口ほどにものを言う〟というが、無口な人の目は、あまりものを語ってはくれない。

表情がないのだ。

だから我々がまずすべきことは、その人にとって話しやすい瞬間、話しやすい雰囲気を観察し、その会話の入り口を見つけることだ。

「対話」は、そこから始まる。

クールな人、熱い人 人の気持ちというのは、潮の満ち引きのように満ちたり、引いたりをくり返している。

常に気持ちが一定している人など一人もいない。

四季と同じで、人間の心というのは移り変わっていく。

季節に温度差があるように、人間の心にも温度差は生じる。

熱いとき、冷たいとき、いろいろあるから人間なのだ。

いわゆる〝熱血〟と呼ばれるタイプの人間は、自分のやっていることに熱中し、そこに快感を見出しているのだろう。

しかしこの〝熱血〟というのがじつは曲者で、私は熱血タイプの人を信じることができない。

〝熱しやすく冷めやすい〟という言葉があるが、熱血タイプの人はこれにあたる。

熱血タイプの人は、自分が熱中していたこと、ものから離れたとき、驚くほど冷たくなったりすることがある。

冷たくされてうれしい人はあまりいないだろうから、熱血タイプの人が冷めてしまったときにはちょっと用心したほうがいいかもしれない。

〝熱血〟とは逆の冷たい人、クールな人というのは、心のどこかに寂しさを抱えている。

寂しさは人間の誰もが持つ感情のひとつだが、それが強くなると冷たさが表に出てきてしまうのだ。

人間関係に挫折した人も冷たくなってしまったりすることがある。

人から置いていかれたような、社会に置いてきぼりを食らったような感覚になって、どうしようもない寂しさや不安に囚われる。

その結果、人と接したときにどうしても冷たい対応になってしまうのだ。

しかし、人間には客観的にものごとを捉えられる視点、言い換えれば〝冷めた見方〟も必要だ。

一時的に熱くなったとしても、心の一部分には冷めた部分も持っ

ていなければならない。

つまり人には、熱くならなければいけないときと、冷たく、冷静にならなければいけないときがあるということだ。

どちらがよくてどちらが悪いということではない。

精神のバランスをとることが大切なように、心の熱さ、冷たさも、コントロールすることが重要だ。

熱すぎてもいけないし、冷たすぎてもいけない。

状況に応じて適温になるよう、そのときどきで自ら調整していくことが肝心だ。

やたら謙虚な人、高飛車な人 やたらに謙虚な人を見かけることがある。

気持ち悪いくらいに謙虚な人。

そういう人は譲るし、遠慮するし、自己主張がない。

こういう人も、じつは要領で生きている。

謙虚なことを一〇年、二〇年と続けている人には、〝要領によって計算された謙虚〟が染み込んでいる。

もちろん中には、本当に謙虚な人もいる。

だから私は、謙虚な人と会ったときは、それが本当の謙虚さか、要領から来るつくられた謙虚さかを見極めるようにしている。

つくられた謙虚さの人は、いくら謙虚にしていてもその作為の部分を突いていくと、だんだんと堪えられなくなってボロを出す。

本当に謙虚な人は、どこをひっくり返しても謙虚なものだ。

やたら謙虚な人には、宗教、哲学、道徳などの知識を得たうえで自分をよく見せようとしている人が多い。

私の経験からいうと、学校の先生などにとくにそういう人が多いように感じられる。

謙虚な人とは逆に、やたら高飛車な人もいる。

今風にいえば〝上から目線〟ということになるだろうか。

高飛車な人は、なにをするにしても「やってやるよ」というスタンスだ。

私は、テレビ局の取材なども受けたりすることがあるが、テレビ局の人間にも高飛車な人がたくさんいる。

私のところに取材に来ても、「撮ってやるよ」という感じなのだ。

一事が万事そういう姿勢だから、どこに行ってもそうなってしまうのだろう。

だから私は、彼らが取材で道場に入ってくると、「なにしに来た、おまえら。

また、くだらねえもん撮りに来やがったな」という顔をするようにしている。

彼らの高飛車な態度を最初に消し飛ばしてしまうのだ。

すると、彼らもその空気を察して急に遠慮がちになる。

「すみません、すみません」といいながら、こそこそと撮影を始めることになる。

しかし、それは私の立場だからできることであって、普通の人はなかなかそういう対応はできないだろう。

立場が上の人間に楯突くわけにもいかないし、無視したところでその高飛車な言動にはかなわない。

では、どうすればよいのか? それは相手の懐に飛び込んでいってしまうのがいちばんいい。

敬遠したり無視したりするのではなく、あえて飛び込んでいってしまうのが打開策になったりすることもあるのだ。

私が会社員をしていた頃、社長がとにかく怖い人で、私以外の社員はみな、社長のことを恐れていた。

私は「そんなもん、どうってことない」と思っていたから、わざと社長に怒られるようなことをした。

でも、やることだけはきちっとやる。

人の二倍三倍のことをする。

そういうことをくり返していると、だんだん社長も私を怒らなくなった。

私がいると、社長も明るくなった。

高飛車な上司、傲慢な上司、怖い上司など〝嫌な上司〟は世の中に無数にいるが、そういう人たちには、暗い過去があったり、家庭に問題を抱えていたりといったことがあるのだと思う。

なにか〝暗いもの〟を心に抱えているのだ。

だから、そういう人に対しては、無視したり反抗したりするのではなく、極力明るく振る舞ってやるのだ。

すると、相手も人間だから気持ちがよくなってくる。

媚を売ったり、イエスマンになるのではなく、その人の奥底にある明るい部分を照らしてやるのだ。

もしかしたら、それをくり返すことで、上司も自分が明るかった頃のことを思い出し、明るさを取り戻すかもしれない。

陰湿なもの、暗いものには明るさで対抗するのが最良の策だと思う。

自分に厳しい人、他人に厳しい人 仏頂面で不機嫌そうに見えるのに本当は優しい、という人がいる。

私が子どもの頃にも、近所のおじさんでそういう人がいた。

そのおじさんは桶をつくる職人だった。

三六五日、毎日ひたすら板の間で桶だけをつくっている。

映画を観に行くとか、夜飲みに行くとか、そういった遊びもまったくしないような人だった。

私たちが工場の前で遊んでいても見向きもしない。

ただ黙々と桶をつくっている。

商売をするために愛想をよくするということなどもなかった。

質の高い桶をつくり、それを何年も使ってもらい、その結果お客に喜んでもらえればいい、そう思っているようだったから、愛想のいいことなどする気もなかったのだろう。

だから口数が少なかった。

その代わり、つくるものは確かだった。

私たちもその工場のまわりでさんざん悪さをしたが、一度として怒られたことがなかった。

そのおじさんは黙々と仕事をしながら、こちらを見ていないようで、じつは私たちがなにか危険なことをしないか見ていてくれるような人だった。

本当の優しさを持っていた人だと今でも思う。

優しく見えるけれども、じつはとても厳しい人というのもいる。

一見優しく見えるが、端々でなにか厳しさを感じさせる人だ。

こういう人は、自分には厳しいが、人にはそこまでの厳しさを求めていないことが多い。

だから、優しく感じるのだ。

それが逆だと、たちまち嫌なタイプとなってしまう。

いわゆる自分に甘く、他人に厳しい人だ。

自分に厳しく生きている人はいいが、自分に甘く、他人に厳しい人は質が悪い。

昔の親には、そういう〝自分に厳しい〟人が多かった。

逆に現代の親たちは、自分はいい加減なのに、子どもに厳しく接している人が多いような気がしてならない。

自分たちが厳しい人生を歩まず、得られなかったものを子どもに得させようとしている。

「おまえは厳しく生きて、勉強して、得るんだ」というような育て方だ。

格好つけていえば、「自分が叶えられなかった夢を子どもに託す」ということになるのだろうが、そんな言葉にごまかされてはいけない。

親がいい加減なのにそんな育てられ方をしたら、子どもだって納得するわけがない。

いつか反発を招くことになるだけだ。

「だらしないようで自分に厳しい人」というのもいる。

私も、普段はかなり砕けた格好をしているから、このタイプに入るかもしれない。

しかし、まわりからいわれるほど自分は厳しい人間だとは思っていない。

端からだとかなり厳しく生きているように見えるようだが、自分にとってはこれがノーマル。

過去にも自分に厳しくしたことはないし、努力もたいしてしていない。

ただ、その場その場で自分にとって必要なこと、やりたいことをやってきただけなのだ。

自分のやっていることを〝厳しい〟と思うか、〝好きでやっている〟と思うかの違いかもしれない。

厳しいと感じることでも、できるだけ楽しくやろうと思えば、かなり気分は和らぐと思う。

それに私は、苦しい道と楽な道、ふたつの道があれば迷わず苦しいほうを選ぶ。

私は苦境が好きなのだ。

だから私の場合は〝自らを苦境に追い込む〟のではなく〝自ら苦境に飛び込む〟タイプといえるかもしれない。

すぐ根に持つ人の真実 なにかあるとすぐに根に持つ人がいる。

こういう人は、よくいえば真剣、熱心なタイプだ。

なにごとにも真剣で熱心だからこそ、そこに執着し、こだわってしまう。

裏切られたり、自分の意に反した結果になると、あきらめきれないから根に持つ。

人が真剣になったり、熱くなったりするのは、なにか努力をしているときだ。

それも、身になる努力より身にならない努力をしているときのほうが人は真剣で熱い。

しかし、あまりにも熱くなっている人には用心が必要だ。

熱ければ熱いほど、その根は深くなる。

〝熱しやすく冷めやすい〟人も根が深くなりがちだ。

熱血教師のようにいつも熱い人より、普段は冷めた感じなのに突然熱くなることがある。

そんな人にこそ注意

したい。

熱い人に根に持たれないようにするには、一定の距離感を保っておかなければならない。

ストーブはある程度の距離で温まるのがいいのであって、近づきすぎれば誰でも火傷をする。

人間関係もそれと同じで、熱い人に近づきすぎると火傷をすることになる。

だから火傷をしない距離感を摑むことが大切なのだ。

ただ、人間が生きるうえで熱さというのは必要だ。

でも、熱くなりすぎてはいけない。

熱い人に近づけば火傷をすると先に述べたが、自分が熱くなりすぎれば、今度は己が燃えかすになってしまう。

ものごとに真剣に取り組む人は、生真面目な人が多い。

翻せば、生真面目な人ほど熱くなりやすいともいえる。

ものごとに真剣に取り組むことは大いにけっこうだが、どこかで息抜きをすることも、人間が生きていくうえで必要なことなのだ。

人の悪口しかいわない人 口を開けば他人の悪口しかいわない人がいる。

よくもまあ、そこまであら探しができるものだと、こちらが逆に感心してしまうような人もいたりする。

悪口ばかりいう人は、人生のどこかで発生したトラウマを抱えている。

そのときの〝許せない〟という気持ちが心のどこかに引っかかっているから、なにもかもが気に入らない状態に思えてしまうのだ。

そういう人は、自分がまわりからきちんと評価されていないという気持ちも強いのだろう。

人間の評価などそんなに簡単にできることではないのに、割り切れない思いを抱え、モヤモヤした気持ちのまま不平不満を募らせていく。

考えてもみてほしい。

自分を理解することさえ難しいのだ。

人を評価するなんてことは、それ以上に難しい。

正当に評価されなかったり、理解されなくて当然なのだ。

人の悪口ばかりいっている人は、そういう割り切り方がなかなかできない。

自分よりもまず最初に他人を見てしまう。

そして人を責める。

本当は、自分をよく見つめてから話さなくてはならないのに。

悪口、陰口の多い人に限って、逆に自分が悪口や陰口を叩かれると異常な反応を示し、激高したりする。

これは自分が助かりたい、幸せになりたいという気持ちの表れだ。

悪口ばかりいう人は、自分をできるだけ高い位置、上の立場に持っていこうとする。

努力もせずに、自分を高い位置に見せることで救われた気になっている。

高いところから人を見下してひとり悦に入っている。

その人の持っている弱さや不安が、助かりたい、幸せになりたいという気持ちを引き出しているのだ。

世に出回っている週刊誌も、その記事のほとんどは〝悪口〟だ。

その雑誌が売れている理由、それは人間の心の「知りたい」という好奇心の裏側に「のぞき見たい」という欲があるからだ。

のぞき見たことによってなにかを得る喜び、快感。

多かれ少なかれ、誰もが深層心理として持っているこの欲を、週刊誌やテレビは巧みに突いてくる。

その深層心理を商売として利用している人たちは、週刊誌やテレビといったメディアに限らずたくさん存在する。

そういう卑しい商売をしている人間に利用されないためにも、自分の好奇心の裏側に潜むもうひとつの欲を認識することが大切だろう。

お調子者は是か非か 学校のクラスや会社の部署に一人はいる「お調子者」。

お調子者の特徴は、要領ばかり計っているということだ。

元来、調子というのは三味線や雅楽における音律の高低のことで、とても重要な要素とされてきた。

「調子」と「拍子」は同義語で用いられるときもあるし、「調子を合わせる」という言葉もあるように、集団でなにか事を成していく場合は〝調子〟というものがとても大切になってくる。

お調子者と呼ばれる人は、そうした調子の大切さをなんとなく知っているのだろう。

要領がいいから察しもいい。

なんでも要領でやってしまうから、どんどんとお調子者に変わっていく。

しかし、要領ばかり計っていると、本当の〝容量〟が量れなくなってしまう。

実際のものごとを的確に摑むことができなくなる。

〝要領がいい〟という言葉の中には、ずるさもちょっと入っている。

みんなにとってのちょうどいい、加減がいいというのとは異なり、〝要領がいい〟というのは、あくまで個別のもの。

だから、お調子者には自己満足で終わっている人が多い。

お調子者というのは、自分だけ満足できればそれで十分なのだ。

お調子者をやや否定的に述べてしまったかもしれないが、私はけっしてお調子者を悪い人だとは思っていない。

お調子者は総じて明るい。

ものごとには陽と陰があって、どちらがいいかといえば陽のほうがいいに決まっている。

陰でなく、陽を持っているだけ、暗い人よりはお調子者のほうがまだいい。

お調子者がいることで場が明るくなるのは、この陽があるからだ。

お調子者が鬱になるというのはあまり聞いたことがない。

お調子者の引きこもりというのも見かけない。

だとすればお調子者は、陰の中にいるときこそ美しく光ることができるのではないだろうか。

陽の中でお調子者が調子に乗るとちょっと危なっかしい。

そう考えると、お調子者は砂浜に埋もれた瓶の破片のようなものかもしれない。

明るい陽差しに照らされた中で見ると鋭く尖って危険なものだが、月明かりの中で見るとキラキラと宝石のように輝いて見える。

ただ、お調子者は地に足がついていないために軽く見られてしまいがちだ。

まわりを明るくしたり、盛り上げたりしているのに、どうしても軽く見られる。

お調子者というのはけっこう損な役回りなのだ。

もし、あなたの身の回りにお調子者がいたら、たまにはちょっとぐらい感謝してあげてはどうだろう。

そのお調子者はそれでまた調子に乗るかもしれないが……。

上から目線の人の正体 人が発する言葉というのは、ときにその人の生きざまが如実に表れる。

たとえば「バカ」という言葉ひとつとっても、ある人が口にすると格好よく聞こえるときもあれば、とても傷つく場合や、ただ単にバカにしているようにしか聞こえない「バカ」もある。

いっている本人はまったく自覚していないから、その人の生きざま、人格、人間性といったものがその言葉に凝縮して出てくる。

必要以上に人を貶める「バカ」を発する人には、高飛車な人が多い。

先にも触れたが、〝上から目線〟の人物だ。

確かに今の世の中には、人を見下したような態度をとる人が増えている。

〝上から目線〟の人は、結果だけでものごとを判断する。

お金を持っていれば偉い。

勉強ができれば偉い。

よい会社に入っていれば偉い。

小さい頃からそうやって育ってきたから〝結果〟の前に存在する〝過程〟を見ることができない。

固定観念だけに囚われ、ものごとの本質を見ようとしない。

なにごとも自分の判断が基準となっているから、どうしたって〝上から目線〟になってしまうのだ。

社会には親、教師、上司など、いろいろな上の立場の人間がいる。

こういった上の立場にいる人間も〝上から目線〟になりがちだ。

だから、上の立場の人間は、自分が〝上から目線〟にならないように気をつけなければならない。

見せかけだけの〝上の立場〟はすぐにボロが出る。

下の立場の者から、「じゃあ、あんた、裸になったらどうなのよ?」と、いわれたときに、「生意気いってんじゃない。

私に従っていればいいんだ」と、つい本音が出てしまう。

これでは、上の立場の人間は軽蔑される一方だ。

真の上の立場の人間は、〝素〟の対応で相手を納得させる力を持っていなければならない。

愚痴をいう人は「愚図」な人 こんな世の中だからなのか、最近愚痴をいっている人を多く見かけるようになった。

人はなぜ、愚痴を口にするのだろう。

寂しいから? 話せば不満な気持ちを紛らわせられるから? 同情してほしいから?

「私の愚痴、聞いてくれない?」といわれたことのある人もいるだろう。

もちろん私もある。

でも、あえていう。

愚痴は聞かないほうがいい。

いろんなことに疲れているから、人は愚痴をいいたくなるのだろう。

会社の愚痴、上司の愚痴、亭主の愚痴、妻の愚痴、恋人の愚痴……愚痴にもいろいろある。

しかし、愚痴というのは私にいわせれば「愚図」みたいなもの。

子どもがいうことを聞かず泣き出したりすることを〝愚図る〟というが、愚痴をいっている大人も、愚図っている子どももたいして変わらない。

いくら喚いても、泣き言をいっても、そこから次の展望が開けることはない。

いっている本人は愚痴と思っているかもしれないが、それは愚図なだけなのだ。

そんな話を聞いていたら、こちらまで愚図になってしまう。

愚痴に相槌を打っているのが優しさだと思ったら大間違いだ。

愚痴に合わせるということは、自分にもやはり、その愚図な部分があると認めてしまっていることの証なのだ。

愚図の深みにはまりたくないのならば、相手の話が愚痴だと思ったら、すぐに相手の口を閉ざしたほうがいい。

その話が相談なのか、愚痴なのか、そのレベルを測ることも必要だろう。

愚痴だと判断したら、その話はすぐに打ち切る。

愚痴とそれへの相槌からはなにも生まれない。

愚図二人が揃い、愚図愚図になるだけだ。

愚痴をいっても、気分を紛らわせることはできないし、なにかを発散させることもできやしない。

愚痴というのは引きずっていくものなのだ。

だから、なるべく早く、そういう思考を断ち切らなければならない。

それでも愚痴をいいたいのであれば、真剣にいうのではなく、軽い相談のような形にするとか、ジョークっぽくしてしまえばいい。

真剣に話せば話すだけ、その考えにますます囚われていく。

笑いながらジョーク交じりに愚痴をいえば、多少は気分も晴れる。

聞いているほうも、そのほうがストレスがたまらない。

愚痴をいうならジョーク交じりに、あるいは軽い相談っぽく。

これが私のおすすめする方法だ。

わがままな人は格好の反面教師 自分の考えを押し通す、まわりのことを考えない、いうことを聞かない。

そういう「わがままな人」というのは、集団の中に一人はいるものだ。

わがままな人を無視して放っておける状況ならばよいが、会社などで同じ組織に属している場合はそうはいかない。

関わらざるを得ない状況で、そのわがままな人に搔き回されるだけ搔き回されることになる。

私が会社員だったとして、同じ部署に目にあまるわがままぶりを発揮する人がいたら、「おまえのしていることの汚さがわからないのか?」と正面からぶつかる。

会社での仕事というのは、一人でできることではない。

いろいろな人のサポートがあってものごとが成し遂げられていくわけだから、たった一人のわがままで搔き回されてはたまらない。

雀鬼会にもわがままなタイプの道場生はいる。

なにをするにも自分本位の考え方しかできず、上から目線。

そういう道場生に、私はことあるごとに「そうじゃないだろ」という球を投げる。

くり返し、くり返し、認めていないという球を道場生に投げるのだ。

同じ「わがまま」であっても、タイプによっていろいろな球を私に返してくる。

私は、その返ってきた球を「そんなのは受け付けないよ」とまたはね返す。

すると、そのわがままな道場生は、だんだん気づくようになる。

「あれ? 会社では通るのに」「家では大丈夫なのに」と。

ほかでは通っていたことが雀鬼会では通らないことに少しずつ気づき、わがままが収まっていく。

しかし、わがままはそんなに簡単に直るものではない。

「通らないな」と思っても、自分がわがままだということを自覚するにはかなりの時間を要するからだ。

だから私は、その道場生のわがままな部分をほかの道場生たちに確認させ、そこからみんなが学んでいけばよいと思っている。

わがままな道場生を変えようとするのではなく、そこからみんなで学んでいく。

家庭がいかに大切か。

親はどういう教育、躾を子どもにしていくべきなのか。

道場生それぞれに考える機会を与え、学ばせるのだ。

わがままの根が深い道場生にも、この方法はとても効果がある。

それだけでかなりわがままが収まる。

雀鬼会ではそうやって「人のふり見て我がふり直せ」を実践している。

言い訳癖の人は不安逃避型の人 なんでも人のせいにする人、なにをやっても言い訳をする人がいる。

もうほとんど癖といっていいくらい、口から出てくるのが言い訳ばかりという人もいる。

言い訳をする人の言い分、それはその人にとっての真実なのだ。

真実というのは人の数だけ存在する。

噓も、その人にとっては真実だし、言い訳も真実。

真っ当に生きるというのも真実だし、噓をつかないというのもその人の真実なのだ。

言い訳している人にとっては言い訳が真実で、それを全うしているにすぎない。

だから、同じことをくり返す。

いつ、なにを聞いても、言い訳が口をつく。

人間には、「嫌なことから逃れたい」という気持ちがある。

嫌なことには不安がつきまとい、不安になると恐怖心にも襲われる。

これは人間のみならず、動物すべてにいえることかもしれない。

不安なことはなるべく避けようとする本能があるのだ。

その不安なことからちゃんと逃げればいいものを、言い訳癖のある人は、それをごまかして逃げようとするから言い訳が発生する。

つまり、言い訳は「言い逃れ」でもあるのだ。

言い訳癖は、嫌なものから早く去るために身につけたテクニックといっていいだろう。

しかし私は、言い訳癖のある人を責めたりはしない。

少しずつなにかの機会に「逃げなくていいんだよ。

大丈夫なんだから」と気づかせてやるようにしている。

ただ、言い訳癖のある人が言い逃れをくり返すことによって、周囲の人間が不平不満を募らせてしまう場合もある。

私の道場でそういったことがあった場合、私が言い逃れをしている人物にあれこれ指導をしたりすることはない。

では、どうしているのかというと、道場生同士で指摘し合える状況に持っていくようにしている。

上の立場の人間から指摘されれば言い訳癖のある人は再び言い逃れをすることになってしまう。

だが、同じレベルの人間から指摘されるとなにかが心に響いたりすることがあるからだ。

言い訳癖というのはなかなか直らないが、徐々に収め、まとめていくことはできる。

そこで大切なのが信頼関係だ。

信頼関係がなければ、いくらこちらが「キミのことを思っているんだよ」といっても、「そんなの口だけじゃないか」となってしまう。

普段接する中で信頼関係をつくり上げていかないと、言い訳、言い逃れを収めていくのは難しいだろう。

「存在感がある」とはなにか 俳優やタレントを評するときに、「あの人は存在感がある」というような言い方をすることがある。

私のまわりにも、「存在感のある人間になりたい」という人がいたりする。

でも、存在感というのは誰もがもともと持っているものなのだ。

その存在感の幅を広げるには、日常生活の中で、なにごとに対してももっと〝当たり前〟という感覚を持つことが必要だ。

最近よく耳にする「あり得ない」ではなく、「すべてあり得るんだよ」という感覚だ。

そういう感覚を持ち続け、自分の人間としての間口を広げて対応できる心構えをつくっていけば、存在感というものは自然と滲み出てくるものなのだ。

存在感には、「いい存在感」もあれば「悪い存在感」もある。

人それぞれに配分は違うだろうが、誰もがその両方の存在感を持ち合わせている。

強い存在感もあれば、ダメな存在感、弱い存在感もある。

さまざまな性質の存在感が合わさることで、その人の存在感ができあがっていく。

そういう話をすると、「桜井さんには〝弱い存在感〟はないでしょう」などといわれる。

しかし、私にだって弱い存在感はあるのだ。

各人の存在感の違いというのは、それらの分量の違いだけだ。

自分の目指す存在感があるのであれば、その目指す存在感の割合を増やしていけばよい。

そうすれば、その人なりの「いい存在感」というものが、内側から彫り出されるように姿を現してくるものなのだ。

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