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第一章 「癖」は心を丸裸にする

人を見抜く技術 20年間無敗、伝説の雀鬼の「人間観察力」桜井章一

はじめに この本は初めから終わりまで、ひと言でいえば〝人間〟に関しての話に終始している。

人体の動き、癖、格好といった外見的なことからなにを読み取るか、さらには人間の内面、心や精神の構造とそこから派生するさまざまな問題まで、幅広い話題を取り上げさせていただいた。

キーワードをあえていうならば〝人間洞察力〟となるだろうか。

しかし本当のところ、人が人を観察するというのはたいしたことではない、とも思っている。

なぜなら、人が人を見るとき、そのほとんどは自分の思考や価値観、そして体験値といった〝モノサシ〟を当てて見ているにすぎないからだ。

つまり、人は相手主導ではなく、自分主導で他人を見るものなのだ。

その事情は、人を観察するプロフェッショナル、たとえば占い師にしても、精神科医にしても同じである。

人を見る、観察するということは、相手の体の動きや言葉から、微妙なリズムや調子、あるいは違和感を感じ取ってそうしているのだが、これは、いってみれば自分のモノサシを使って相手の絵を描くようなものだ。

モノサシには一二色のものもあれば二四色、三六色と、人それぞれにいろいろあるものだ。

用意された色が多ければ多いほど、相手の本当の姿に近い絵を描くことはできる。

でも、どんなに大きなスケールのモノサシを持っていたとしても、相手の色を正確に捉えることはできない。

どんなにたくさんの色を揃えていようとも、相手は必ず自分のモノサシからはみ出てしまう。

人が人を計るモノサシなど、しょせんその程度のものだ。

だから、相手を正確に見るには、そんなモノサシはあまり必要ない。

では、どうすればいいかというと、当たり前のように使っているそのモノサシをいったん捨て去り、本能に近い感覚で素直に相手を捉えることが重要なのだ。

自分の目で捉えられるこの世のありとあらゆるものは、絶えず変化し、新しい色を生んでいる。

二四色や三六色のモノサシを使った固定観念や既成概念に縛られた観察力では、けっしてその変化を捉えることはできない。

大切なのは、自分も変化しているのだという自覚と、目の前の変化に対応しようとする柔軟さだ。

自分のモノサシに囚われることなく、目の前の変化を感じ取り、柔軟に対応していけば、たえず新しいものが生まれていることに気づき、それを発見することができるだろう。

幼い子どもは、大人に比べまだ本能に近いところで生きている。

だからそんなモノサシもなく、考え方も柔らかいから、時として直感で正しいことを見抜いたりすることがある。

多くの人は、もともと持っていたそんな柔らかい観察力を忘れてしまっているだけなのだ。

最初にお断りしておくが、この本は俗にいう「自己啓発書」のように、なにかの〝答え〟を示したものではない。

私が読者のみなさんに望むのは、答えを簡単に得ようとするのではなく、絶え間なく変化していく物事に対応できる柔軟な観察力を磨いていってほしいということだ。

柔らかい思考で観察力を磨いていけば、その先にはきっと新しい発見があるだろう。

多くの人に、そんな新たな発見がもたらされることを私は願っている。

二〇〇八年一二月桜井章一

目 次はじめに

第一章 「癖」は心を丸裸にする

癖はその人の真実を表す 誰も癖からは逃れられない 精神のメタボ癖がついた現代人 無駄な力みで両手の親指が反る 自然に生きる人は癖が少ない 〝酔い癖〟が人を愚鈍にする 対局相手の心理は動き癖で読める 性格ではなく癖を直す

第一章 「癖」は心を丸裸にする

癖はその人の真実を表す 人間にはいろいろな癖がある。

髪を触ったり、指の爪を嚙んだり、貧乏揺すりをしたり……。

癖は癖であってなんの意味もない、と思う人もいるかもしれない。

しかし、〝目は口ほどにものを言う〟という言葉があるように、癖にもまた、〝癖は口ほどにものを言う〟という側面があることを覚えておいて損はない。

癖というのは、その人のうちに隠された真実を図らずも語ってしまうほどの重要な仕種なのだ。

だから、癖を侮ってはいけない。

わかりやすい癖からわかりにくい癖まで、その人の持つ癖のひとつひとつを見ていけば、「ああ、この人は今、こういう状況にあるのか」とか、「口ではこんなことを言っているけれど、真意はこうだな」とか、「過去にこんな扱いを受けてきたのか」とか、本当にさまざまなことを知ることができるのだ。

癖とは習慣だ。

習慣の積み重ねで癖はつくられる。

習慣は、人それぞれ置かれている環境で違ってくる。

習慣を表しているのだから、見方を変えれば、癖は、その人自身の日常を表すといってもいいだろう。

もちろん、癖が形づくられるのは環境要因からだけではない。

その人の資質、性格、価値観等々、さまざまなものが組み合わさって形成され、表れてくる。

たとえば、ひとつ屋根の下に暮らす兄弟にしても、その癖はまったく異なる。

同じ環境で育っても、性格、価値観はそれぞれ違うから、癖も同様に違ってくる。

いくつかの要素によって習慣化されたものが癖として表面に表れてくるのだ。

緊迫した場面や切羽詰まった場面で、その人の本当の姿が現れるといったりもするが、実際に人間が生きていく中で、そういう場面に出くわすことは意外に少ない。

つまり、我々が意識しなければならないのは、そういった〝死ぬか、生きるか〟のような切羽詰まった場面ではなく、何気ない日常のほうだ。

何気ない、リラックスした状態のときにこそ、「その人」が表れる。

私は、麻雀の裏プロを引退した後、「雀鬼流麻雀道場・牌の音」を開き、麻雀を通じて人としての道を後進に指導する「雀鬼会」を始めた。

雀鬼会にはたくさんの若者が道場生として在籍しているが、彼らも緊張した対局の場面より、対局が終わってホッとしているときにこそその素顔を覗かせたりする。

意識的な行動が習慣化されれば、それはやがて無意識の行為となり、そこにその人の特徴的な動きや思考が表れるようになる。

日々の暮らしの中で習慣化され、ごく自然に動きや思考となって出てきてしまう。

たとえそれが、端から見て不自然なものであったとしても、その人にとってはそれが自然な姿なのだ。

誰も癖からは逃れられない 習慣とは、時間の中で形づくられる。

一年、一ヵ月、一週間、そういった期間の中で形づくられていく。

太古の世界で期間といえば、せいぜい雨季や乾季、もしくは四季があったくらいだろう。

しかし暦が生まれ、時計が生まれ、人間は一年を細かく区切って生活するようになった。

計画を立てるにしても約束するにしても、どこかで区切らないとわかりにくい。

さらに、人間は、日常のそういった区切りの中でいろいろな決まりをつくっていった。

ものごとを円滑に運ぶためであったり、あるいは統一を図るためであったりと、理由はいろいろあるのだろうが、その根本にあるのは「決めておかないと不安」という人間の心理だ。

区切りや決まりの中で生きている人間は、おのずとあるパターンに基づいた行動や考え方を形成していくようになる。

それが癖になるわけで、その意味で人は、毎日の習慣の中で癖をためているのだと思う。

だからこの世に生きている限り、癖と無縁ではいられない。

それに、癖にもいろいろある。

必要なもの、不必要なもの。

よい癖、悪い癖。

そして残念ながら、癖というのは往々にして悪いほうに出てくる。

これは、我々の身体の中に流れている血がそうさせるのだろう。

ほかの生き物に比べ、自然に反する生き方をしている〝人類〟の血。

自然の観点から見ると必ずしも質がいいとはいえない血が、癖となって表層に表れるのだ。

赤ん坊にだって癖がある。

大人に比べれば数こそ少ないが、たしかに癖を持っている。

私には孫が何人かいるが、彼らを見ていてもそれははっきりとわかる。

これは、親の影響がもっとも大きい。

赤ん坊は、親のすることを見て育つ。

親に依存しながら生きていく中で、いちばん身近な両親のやっていることを見ながら育っていく。

そして癖がひとつ、ふたつとついていく。

そういう意味では「癖も遺伝する」といえる。

それが表面に表れることがなくても、子どもの心身の奥深くにしっかりと刻み込まれる。

あなたにも、知り合いからこんなことをいわれた経験はないだろうか。

「なんだか最近、お父さん(あるいはお母さん)に似てきたね」と。

これは、必ずしも顔かたちが似てきたということだけではないと思う。

親から遺伝した癖というものが知らず知らずのうちに滲み出てきているから、旧知の間柄の人がその癖を認識している、いないにかかわらず、なんとなくわかるのだ。

そのくらい、私たちは癖というものから逃れられないものなのだ。

精神のメタボ癖がついた現代人 インターネットの普及で社会は広がった。

たしかに、社会というものは広がっていくものだし、広がっていくことでそのよさ、利点を人々が享受できるようになる。

そしてインターネットの出現は、過去に例のない急速なスピードで社会を拡大させた。

世界中の情報を瞬時に手に入れることなど、一〇〇年前、いや五〇年前には考えられないことだった。

じつはここに、広げることの怖さが潜んでいる。

人間は、広がることを〝良〟とする感覚がとても強い。

だから無条件に、広がることは善であり、力であり、能力であると思い込んでしまう。

精神の「広がり癖」とでもいおうか。

コマーシャルにしろ、ものが流行るにしろ、あたかも「広がっていれば勝ち」という風潮がある。

その一方で、「広がることが本当によいことなのか」と疑問に感じる人はあまりに少ない。

〝広がる〟ということには、ネットワークやお金、物流の広がりなど、〝量〟として目に見えるもののほかにも、心の中の広がりなど、目に見えないものも存在する。

そしてそれらには、よいもの、悪いものが混在している。

悪いものはそこで閉じ込めて広がりを抑え、よいものは急激にではなく、少しずつ広げていく。

そういう感覚が必要なのだが、人は無条件に広がることを求めてしまうから、結局のところ、犯罪なども簡単に広がっていってしまう結果になる。

「今までこんな犯罪はなかったのに」という事件が増え、そこで、「では、犯罪を減らしましょう」といったところで、表向きはみんな〝広がりっこ競争〟をしているわけだから、事はそんなに都合のいいようには運ばない。

インターネットが世界を隈なく網羅したことで、現代社会には情報が氾濫するようになった。

ひと言でいえば情報過多。

「呼吸」や「飲食」という行為を見てもわかるように、人間というものは、体内に取り入れたものの中から必要なものを吸収し、それ以外のものは外に出すことで生を全うしてきた。

しかし情報過多となってしまった現代は、一人ひとりに入る情報があまりに多すぎて、それを嚙み砕いて不用なものを外に排出するのが間に合わなくなってしまっている。

情報の氾濫、飽食の時代などといわれる現代は、さまざまな意味で人間の調子が悪くなってしまっているのだ。

つまり、現代は人間の体だけでなく、社会全体が「メタボリック症候群」とでもいうような状態になってしまっている。

テレビをはじめとするマスメディアやインターネット業界は、その象徴的存在といえるだろう。

短期間で太って巨大化し、その太ったことが〝成功〟だともてはやされる。

そして、人間だけでなく、もっと大きな枠組み、たとえば社会にしても、国家にしても、急激に肥大化するとさまざまなところで問題が発生する。

現代の人間は、肉体的にも精神的にもメタボになってしまった。

肉体的なメタボならば、食事制限など対処方法がいろいろあると思うが、精神的なメタボを改善するとなると、これは一筋縄ではいかない。

情報が世の中にあふれていて、これを自分の力だけで制限することはほぼ不可能だからだ。

本気で情報を制限しようと思ったら、電気も通じないような人里離れた山奥か無人島にでも行くしかない。

情報や知識といったものを詰め込みすぎた人間は、精神が肥大化する。

そして、その先に待っているのは精神の破裂だ。

そうならないためにも、情報も、食べ物も、ゆっくりと自分の中で嚙みしめながら、時間をかけて消化していく。

量は腹八分で抑える。

現代を生きる人間には、そういった自己制御力が必要とされている。

無駄な力みで両手の親指が反る 世の中には、「私は ○ ○大学卒です」といった看板だけを掲げ、恥ずかしい言動をしたりしても平気な顔をしている人がいる。

片や、学歴がないということがコンプレックスになってしまっている人も多い。

学歴に関することだけでなく、なにかにコンプレックスを感じ、過剰な羞恥心を抱えて生きている人には、どこかに無駄な力が入っている。

そして、その無駄な力の入る身体部分として私が多く見かけるのは両手の親指だ。

親指に力が入りすぎ、反ってしまっている人が多いのだ。

パソコンやテレビゲームをやりすぎても親指が反ってしまうと聞いたことがあるが、過剰なコンプレックスを抱えて生きている人の親指は、自然に反ってしまったのだと思う。

力んで生きているから指に変な力が入ってしまう。

さらに力んで体を硬直させると、精神的にも影響が出てくる。

固定観念に囚われ、心が固まってしまうのだ。

固定観念は、あらゆるものの本質を見えにくくしてしまう。

しかし、固定観念というものは、人間なら誰もが持っているものだ。

だから私は、固定観念をそのつど消し、新たにまた書き直すという作業をくり返している。

はたして、あなたの親指は反っていないだろうか? 反っているとしたら、まずは自分の内面と向き合い、コンプレックスを認識し、固定観念と上手につき合っていくことをおすすめしたい。

そうすれば徐々に、無駄な力が抜けていくはずだ。

自然に生きる人は癖が少ない 私は自然に触れたいがために、たまに海外へ出かけることがある。

それは海だったり山だったりするのだが、行った先々で会う〝大自然の中で生きる人々〟に驚かされることが度々ある。

フィジーでは険しい山々を現地の人と巡ったことがある。

そのとき、現地の人が馬一頭を連れてきて、「あなたは馬に乗りなさい。

この山を徒歩で巡るのは絶対に無理だから」という。

私は裸馬に乗せられて、現地の人はその脇を裸足で跳ねるように並走していく。

山といってもほとんどジャングルのようなもので、道中は川あり、体が埋まるような沼地あり、濃霧ありと、地形も気象もかなり厳しかった。

しかし、現地の人はまったく平気。

「私たちだったら靴を履いていても痛いだろうな」と思うようなごつごつした岩場も、裸足でどんどん行ってしまう。

そういう〝大自然の中で生きる人〟は、いわゆる癖が少ない。

癖がない、といってもいいかもしれない。

〝静か〟といえばよいのだろうか、その現地の人もそうだったが、ドタドタしたところがないのだ。

大自然の中でふわ ーっと、流れるように生きている。

癖が少ないと、動きというのはなめらかになるのだ。

私は彼らを見て、我々が失ったものを持っていると感じた。

かつての日本人も、彼らのように自然の中で生き抜いていく能力を身につけていたはずなのだ。

大自然の恵みを享受するには、森や海や川がささやきかけてくるその声を聞き分ける力がなければならない。

人間に備わった五感という大事な感覚機能を使って。

ダーウィンの進化論では生物はよい方向へと進化していくらしいが、我々人間は、どう見ても後退している。

たとえば、目で見える情報だけ追いかけるような一感人間が増え、人間の五感は衰退していく一方だ。

できるだけ自然と触れ合う機会をつくり、五感を刺激する。

そんな努力が必要だと思う。

〝酔い癖〟が人を愚鈍にする 酒を飲んですぐに酔ってしまう人がいる。

酒が好きなのはいいが、とくにアルコールに弱いというわけでもないのに、酒に呑まれてすっかり記憶をなくしてしまったりする。

こういう人は、普段も酒以外のなにかに酔っていることが多い。

しかし、こうした人に限った話ではない。

人間はみんな、なにかに酔って生きざるを得ない面がある。

女に酔う、金に酔う、仕事に酔う、趣味に酔う。

酒を飲むことだけが酔いに繫がるわけではない。

誰にでも、こうした広い意味での〝酔い癖〟があるのだ。

〝酔う〟というのは、自分のことがわからなくなったり、自分の存在すらも消えてしまうほどの状況になることだ。

いわゆる〝自分を見失う〟という状態は、多かれ少なかれ、誰の身にもあることではないだろうか。

日常の生活において、ずっと連続して〝自分〟や〝時間〟を意識しているわけではない。

誰にでも、ぽつんぽつんと埋没した時間、自分をあまり意識していない時間があるはずだ。

現代社会には、人間を酔わせるさまざまな要因が存在している。

一生懸命生きること、がんばることが大切とされている世の中で、なにかに酔っている人というのは、じつはたくさんいるのだ。

私のまわりにも〝酔っぱらい〟がたくさんいる。

仕事に酔っている人、金に酔っている人、知識に酔っている人。

権力に酔い、自国を誤った道へと進めてしまう国の長も、世界のいたるところに存在する。

がんばっている人ほど酔っている人が多いのも事実だ。

そして、その誰もが、自分が酔っていることに気づいていない。

しかも、往々にして酔っぱらっている状態を「偉い」と思っているから始末が悪い。

私にしても、実際に酒で酔ったこともあるし、船で酔ったことだってある。

いずれにしても、この私も、やはり日常生活でなにかに酔ったことがあるということだ。

ただ私の場合、こだわりはしてもけっして囚われないという生き方を貫いてきたから、酔いも軽度で済んだのだと思う。

私は、ものごとにはこだわる。

こだわらないと選別できないし、方向性も決まらないからだ。

しかし、そのときに囚われるという感覚にはならない。

酔う人は囚われるから酔ってしまう。

「こだわる」と「囚われる」は同じようなものだけに使い分けは難しいところだが、ものごとにこだわってもけっして囚われてはいけないのだ。

柔軟性を付加したこだわりを持ち、囚われに繫がる固定観念はできるだけ消し去るようにする。

ものごとには表があり裏がある。

こだわりを持ちながらも、その両面を見ていくことが大切なのだ。

車酔い、船酔いは別にして、酔っているときはたしかに気持ちがいい。

しかしその逆で、酔わない気持ちよさというのもちゃんとある。

私の場合の酔わない気持ちよさとは、自分を覚醒させること。

〝酔い〟は人を鈍感にするが、〝覚醒〟は人を冴えさせる。

かつて私が、裏麻雀の世界で代打ちをしていた頃、大一番の前になると飲まず食わず、さらに寝ずという生活をくり返していた。

別に自分を追い込むためにやっていたのではない。

体が自然とそうなったのだ。

眠くならないから寝ないし、腹が減らないから食べない。

今、考えると、本能的に体が反応していたのだと思う。

自分を覚醒させるために。

五感を冴えさせるために。

対局相手の心理は動き癖で読める かれこれ四〇年以上、私は麻雀と関わってきた。

そんな中で、麻雀卓を囲んだときの対戦相手の癖もいろいろと見てきた。

牌の取り方、捨て方それぞれにも癖は表れるし、大一番の緊迫した場面で癖によって馬脚を現し、大逆転を食らってしまう人もいた。

そうやっていろいろな癖を見てきたが、けっこう目にすることが多い「ありがちな癖」というのもあることに気がついた。

わかりやすい癖は、貧乏揺すりであるとか、肩がちょっと上がるとか、逆に体が縮こまっていくとかの肉体的な癖だ。

肩から指先にかけての動きが固くてスムーズではない人は思考が詰まってしまっている人。

打ち始める前からそれはわかるから、こちらも対応しやすい。

たとえば、ある前評判のよかった対局者は、打ち始めると意外といろいろと癖を持っていて、勝負の先が見えてしまったということもあった。

肩から指先の動きは、その人の心理状況を如実に物語る。

動きというものは、関節と筋肉が連動することで「動き」となる。

牌を打つだけでも、よく考えると肩の関節、肘の関節、手首の関節、指先の関節、それらの関節と筋肉を連動させている。

そして、緊張したり、なにかを隠そうとしたりといった心理作用がその動きを乱すことになる。

自分では普通にしているつもりでも、どこかに違和感のある動きが生じるのだ。

ただ、相手の癖を意識したら勝てるなどと思ったら大間違いだ。

相手の癖を見ることだけに囚われたら負けてしまう。

感覚的に捉える程度がちょうどいい。

性格ではなく癖を直す 人にはいろいろな癖がある。

その中には、直したいのにどうしても直らない癖というのもある。

でも、それは本当に直す必要がある癖なのだろうか? 私は、「別にいいじゃん、癖があったって」と思っている。

「その癖も含めてあなたなのだから」と。

人間から癖を失くすということは、性格の一部を失くすようなことではないだろうか。

日常の生活、習慣から生まれたものが癖なのだから、それは性格と同じようなもの。

この世の中に性格のない人がいないのと同様に、癖も誰にでもあるものなのだ。

だったら、癖があることを認めてしまって、できるだけよい癖になるようにすればよい。

癖と性格、本当に直すのなら、性格より癖のほうが直しやすいと思う。

だから昔、「性格を直したいんです」といってきた道場生に、「自分の性格の嫌な部分を癖だと思え。

癖だったら直るかもしれないよ」と返したことがある。

癖は出てきたときに意識できるものだから、性格もそのように意識すれば直しやすいと思ったのだ。

すると案の定、その道場生から性格の悪い部分が徐々に減っていった。

もし、自分の性格の悪い部分を直したいと思っている人がいるならば、そのように意識するとよいのではないだろうか。

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