第 4章/友だち、恋人、家族……親しい相手の本心を見極める
43 人間関係の基本はギブアンドテイクである 44 恋愛の前では友情は薄っぺらなもの? 45 どんなに親しくてもお金のトラブルは避けたい 46 類は友を呼ぶの法則でいい友人をつくる 47 困ったときに助けてくれるのが本当の友達だ 48 異性の心を見抜く方法とは…… 49 ダメ男・ダメ女と別れられない本当の心理 50 ケンカは先に謝ったほうが勝ち! 51「かわいいね」を間接的に言う方法 52 セクハラにおびえているのはむしろ男性である 53 本当に喜ばれるプレゼントは贈る人の「気持ち」54 女性はレディファーストで男性の心をはかっている 55 結婚後こそ相手を尊重する気持ちを忘れない 56 子どもの心を自分の心と同一視してはいけない 57 子どもは本当に「友達親子」になりたがっている? 58「早く大人になりたい」と思わせることが成長を促す 59 子どものウソはケースバイケースで受け止めよう
43 人間関係の基本はギブアンドテイクである 人間関係の基本はギブアンドテイクである。
それが友達づきあいならなおさらだ。
どちらかが優位に立ち、どちらかがそれに従うような関係は、友達同士のつきあい方としては非常に不健全だといえよう。
この点、あなたは大丈夫だろうか? 第 1章でも紹介したベストセラー本、『「甘え」の構造』の「甘え」理論によれば、私たち日本人は口に出さずに相手の厚意を期待しがちである。
初対面の相手に対してさえ「甘え」るのだから、友人関係にある相手に対して「甘え」ないはずがない。
確かに仲のいい友人同士であれば、お互いの性格はある程度把握しているし、いくばくかのワガママも許されるだろう。
しかしそれに「甘え」て相手に依存し続けていれば、必ず破綻が生じるときが来るはずだ。
「これくらいの頼みならきいてくれるはずだ」「これくらいの遅刻なら許されるだろう」、「これくらいの面倒ならかけてもいいだろう」……。
しかし、その「これくらい」が相手にとって「どのくらい」なのかは、実は正確にはわからない。
そこに相手とのギャップがある。
あなたが迷惑をかけたとき、その友人は本当に心からあなたを許しているだろうか? 自分を振りかえって、心当たりのある人はぜひ今日から改善しょう。
たとえば、頼みごとをしたとき、「アイツだからいいや」と、軽い気持ちで用件を押し付けるのはやめたほうがいい。
どんなに仲のいい間柄であっても、なにかをしてもらったときにはきちんと感謝の気持ちを告げたほうがお互いに気持ちいいに決まっているからである。
友人同士のギブアンドテイクは、何も物と物や利益同士を交換しあう必要はない。
相手がなにかしてくれたら、それに対して感謝し、その気持ちを告げることで十分にギブアンドテイクが成り立つのである。
44 恋愛の前では友情は薄っぺらなもの? 恋愛の前では友情なんて薄っぺらいものである―――そんな言葉に頷いてしまう人は多いのではないだろうか。
これは、現実にある程度正しいことで、たとえばクリスマス・イブに恋人のいない者同士が集まってパーティを開こうと前々から計画していたにも関わらず、当日までにイブを過ごす相手が見つかった人は、次々とパーティ名簿から名前を消す。
そしてこういう場合は、約束を破ってもどこか許されてしまう雰囲気があるものだ。
とくに女同士の友情は、男の前では軽いものだと言われることが少なくない。
それは、友達同士で同じ男性を好きになってしまった場合、 2人とも片思いの間は仲良くその男性のことで騒いでいるのに、いざどちらかとその彼がつきあうことになったら途端に友達関係は壊れ、男を取ったの取られたのと周りをまきこんで大騒ぎすることがあるからだろう。
もちろん、世の女性はそういうタイプばかりではないし、男性でもこのような恋愛劇を演じる人たちはいることを忘れてはいけないが。
とにかく、男も女も色恋沙汰を前にすると、友情は脇に追いやられてしまうことが少なくないのが現実であることは否定できない。
友人と一生を過ごすよりも、しかるべき相手と結婚して一生を過ごす人が世の中の大多数を占めていることを考えれば、しかたのないことだとも言えるだろう。
だからこそ、ほとんどの人は友情より恋愛を優先されたとき、口では文句を言っていても、おとなしく引き下がるのである。
しかし、だからといって恋愛ばかりを大事にして友情をおろそかにしていては、後で泣きをみることがある。
なぜなら、友情に比べて恋愛のほうがずっと壊れやすいからだ。
そして、恋人にふられてしまったとき、慰めてくれるのは友人である。
「結局、最後に残るのはオトコより女の友情よね」「オンナがなんだ! 男同士の友情のほうがずっと気楽だ!」 などと悟ったように言い、ここぞとばかりに友人との時間を増やすのである。
しかし、ほとぼりがさめたころにはまた恋愛に夢中になって友情をないがしろにする……これを何度も繰り返す人はそうめずらしくない。
また、恋人とうまくいっていても、「オンナには男の気持ちはわからない」「オトコには女の気持ちは理解できない」 と言って、同性の友人とつるみたいときがあるだろう。
つまり、恋愛も友情も、どちらもなくてはならないものなのだ。
それでこそバランスのとれた人付き合いができる。
しかしついそれを忘れ、恋愛にばかりかまけてしまいがちなのも現実。
いざというときにそっぽを向かれないように、友情のほうもしっかりつかまえていて欲しい。
45 どんなに親しくても金のトラブルだけは避けたい「すまない――」 もしあなたがお金に困って、友人に借金の保証人になって欲しいと頼みに行ったら、こんなふうに頭を下げられるかも知れない。
「親の遺言で、保証人にだけはなれないんだ」 これで「なんて友達がいのない奴だ!」と腹を立ててはいけない。
どれだけ親しくとも、旧知の仲でも、お金のトラブルにだけは関わりたくないというのが誰しもの本音だからだ。
保証人になるくらいならなにがしかのお金を用意して、それを貸すなりくれてやるなりして帰ってもらったほうがまだいいとまで言われる。
お金というものは魔物である。
うまくいっているときはいいが、ひとたび歯車が狂い出すとあらゆるものを崩してしまう。
もちろん、友情もだ。
友情というものは、基本的に無償で親愛の情をかわすものである。
損得勘定なしでつきあえるからこその友人関係ということだ。
そのため、ここに金銭的な問題が絡んで来ると、純粋な友情ではなくなってくる。
それどころか、お金が引き金になって、あなたとその友人との友情が壊れてしまう可能性があるのだ。
たとえ保証人が必要なほどの借金ではなく、小さな額であっても、もしそれが返済されずに積み重なっていけば、それに反比例してあなたへの信用が減っていくはずだ。
友人でいたい相手からは金を借りるな、というのは正しい。
逆に言えば、友人でいたい相手にはお金を貸さないほうがいい。
なぜなら、お金よりももっと大切なものを失うことになりかねないからだ。
46 類は友を呼ぶの法則でいい友人をつくる「類は友を呼ぶ」ということわざがある。
これは、人は自分と似たタイプの相手と知らず知らずのうちに友達になるという意味だ。
ケチな人にはケチな人、陰険な人には陰険な人、のようにあまり良くない
ない意味で使われると「同じ穴の狢(むじな)」と同じ意味になる。
この「類は友を呼ぶ」の法則を上手く使って人と仲良くなる方法がある。
「類は友を呼ぶ」というのは「類 =似たような人」が「友」になる。
ならば、「友」になりたいなら「類」になるのが近道だということだ。
たとえば、同じ会社にはいるが、あまり親しくない Aさん。
彼と 2人でチームを組むことになり、これからは毎日のように彼と顔を合わせてつきあっていかなくてはならなくなったとしよう。
あなたは Aさんに積極的に話し掛けるのだが、何を話せばいいかわからず、いつも気まずい雰囲気になってしまう。
どうせチームを組むのだから仲良くなったほうが気持ち良く仕事ができるとあなたは考えるのだが、どうすれば仲良くなれるのだろうか。
こういう場合は、相手と同じ趣味を持つのが手っ取り早い。
他の社員から Aさんに関する情報を聞き、その中から自分に近い趣味や嗜好を探すのだ。
そしてさりげなく Aさんに自分も同じ趣味があると伝える。
そうすればたちまちあなたと Aさんはその趣味の談義で盛り上がることができ、いつのまにか気心が知れた仲になっているだろう。
人は、自分と共通する部分がある相手を好む。
もし自分と共通するものが見当たらない相手であっても、どうしても仲良くなりたいと思ったら、無理にでも同じ趣味を持つことだ。
これが、逆説的な「類は友を呼ぶ」の法則の利用法である。
特にビジネスの世界では、取引先の相手の趣味などをリサーチし、それを話の糸口として相手の心を摑むことができる方法だ。
47 困ったときに助けてくれるのが本当の友達だ あなたには本当の友達が何人いるだろうか? 普段仲良くつきあっている相手はたくさんいても、あなたが真に困ったときに力になってくれる「本当の友達」と言えるのは、実際には片手で数えられるくらいなのではないだろうか。
イソップ物語にこんな話がある。
『2人の友達が一緒に旅をしていると、いきなりクマに出会った。
ひとりは素早く木に登って逃げたが、もうひとりは逃げることができず、とっさに死んだふりをした。
クマは死体を襲わないと言われていたからだ。
クマは死んだふりをした男に近付き、においをかいでいたが、やがて離れていった。
木に登っていた男が下りてきて「クマは何か言っていたのかい」と尋ねると、死んだふりをしていた男は、「危なくなったときにひとりでさっさと逃げてしまうような人間とは一緒に旅をしないほうがいいと教えてくれたのさ」 と答えた。
』 この話は、本当の友情とは何かを教えてくれている。
この話に登場する 2人が本当の友達であれば、片方を置いて自分だけ助かろうとはしなかったはずだ。
木に登った男は結局自分だけが良ければそれでいいという考えの持ち主であることがわかったのである。
日常生活でクマに出会うような窮地に追い込まれることは滅多にないが、似たようなケースには遭遇するはずだ。
たとえば友達と 2人でショッピングに出かけ、一緒に食器を選んでいたとする。
そのとき、友達が手に持っていた食器を受け取ろうとして、あなたが手を滑らせてその食器を割ってしまった。
当然、食器は弁償することになるだろう。
このとき、友達はどういう行動を取るだろうか? 割ったのはあなたなのだから、弁償も当然あなたがするべきだという態度で、何も言わないだろうか。
それとも「私の渡し方が良くなかったのかも……。
ごめんなさい、半分弁償するわ」と申し出るだろうか。
この場合、割ったのはあなたなのだから、確かにあなたが弁償しなくてはいけない。
しかし、友達の態度であなたの気持ちには大きく違いが出るはずだ。
前者のように「我関せず」の態度を取られると、自分が悪いのはわかっていつつも、(自分だって一緒に見ていたくせに。
渡し方が乱暴だったから私が手を滑らせたんじゃない!)という気持ちが生まれるだろう。
しかし後者のような態度を取られれば、「ううん、私が悪いんだから気にしないで」 と気持ち良く申し出を断ることができるはずだ。
つまり、問題は食器を弁償するかどうかではなく、その責任を分かち合おうとしてくれるかどうかなのである。
困ったときにこそ、「友達」の本音は見える。
48 異性の心を見抜く方法とは…… 気になる異性の気持ちを知りたいと思うのは当然のことである。
そういうとき、異性に緑がなく、相手の心がよくわからないという人は、とりあえずマニュアルで勉強しようとするだろう。
しかし、これが間違いの第一歩なのである。
なぜかと言えば、こういった指南書には「男」と「女」というカテゴリーしかなく、非常にステレオタイプの「男」と「女」について書かれているからである。
あなたに意中の異性がいるとして、雑誌で女心・男心を研究し、「女とはこういうものだ」「男はこうすれば喜ぶ」と思い込んで、その通りにアプローチをするのはとても危険なことだ。
なぜなら、あなたが射止めたいのはその人という個人であり、「男」や「女」という生き物ではないからである。
そう考えれば、異性の心を知るということよりも、ひとりの人間としての心を知ることのほうが大事だということに気がつくだろう。
それは言ってみれば人と人との付き合いであり、異性を意識する必要はないのである。
もちろん、マニュアルがまったく役に立たないということはない。
しかし、それらがすべてと思ってしまうのはいけない。
固定観念に囚われると相手が予測と違う行動に出たときに対処できないばかりか、「こんなはずではない」と脳がパニックを起こしてしまう。
相手が、自分の望んだリアクションを取らないことを相手のせいだと思ってしまい、自分こそが正しいと盲信し、それが高じるとストーカーが誕生することになってしまうのである。
男も女も、それ以前に「個人」である。
人がひとりひとり違うのは当然のことで、「男だから」「女だから」という枠で考えていてはいつまでたっても相手の気持ちはわからないだろう。
49 ダメ男・ダメ女と別れられない本当の心理 誰が見ても「ダメ男」「ダメ女」だとわかる相手と、どうしても別れられないという人がいる。
たとえば、「近い将来、俺は周りをアッと言わせるような大きなことをやってみせて、大成功する男だ」と言いつつ、普段はなにもせずに、恋人である女性に生活を頼りきっている男。
これは明らかに「ダメ男」と言えるだろう。
しかしこの恋人の女性に対し、いくら周囲の友人が「あんな男とは別れたほうがいい」、 と口をすっぱくして諭しても、彼女は、「みんなはそう言うけれど、私だけは彼の良さをわかっている」 と断固として譲らない。
この状態が長引くと、ますますその人は相手と別れられなくなってくるものである。
なぜかと言えば、それだけ自分がこだわり、時間や愛、場合によってはお金をつぎ込んできたものが、本当は何の意味もないものだったと認めることが難しくなってくるからだ。
固執すればするほど、その相手にかけた労力が大きくなるため、次第に「私がこんなに愛を注いでいるのだから、彼はかならず大成功するはずだ」と思い込むようになるのである。
これは、値下がりを続ける土地をいつまでも手放せないでいる状況に似ている。
買ったときは高値であったうえ、下がり続けている間もずっと手放さなかったため、「いつかはまた価値が出てくるはずだ」という考えに囚われ、正しい判断が下せなくなっているのだ。
恋愛の話に戻るが、冷静になれば、その「ダメ男」と別れたほうがいいということくらい、女性にはわかるはずである。
相手の男は女性の収入を食いつぶしているだけで、近い将来どころか、いつまでたってもその状態から抜け出せるとは思えない。
彼女はもっと早くに見切りをつけるべきだったのである。
同じような状況は、あなたにも起こらないとは言い切れない。
こういう状況に陥ると、人は現実から目を背けようとする。
自分が愚かであったことを認めたくないからだ。
しかし、それを認めなければ更なる悪循環が待っている。
この悪循環を断ち切るためには周りの意見をよく聞くこと。
そしてなにより、客観的で冷静な視点で自分を見つめ直すことだ。
「恋は盲目」という。
恋愛は夢中になると周りが見えなくなるものだが、病的な思い込みで本当に幸せになれるものだろうか。
ときには冷静になってよく考えてみたい。
50 ケンカは先に謝ったほうが勝ち! 男女間のケンカは「痴話喧嘩」と言われる。
痴話喧嘩とは、「痴話から起こるたわいない喧嘩」という意味で、「痴話」とは「愛し合う者同士がたわむれてする話」という意味である。
「夫婦喧嘩は犬も食わない」ともよく言われるが、恋人同士や夫婦のケンカはほうっておけばそのうち仲直りしているものであるとされる。
しかし、周りから見れば痴話喧嘩でも、当の本人たちにはそれなりに深刻なケンカであったりもするものだ。
些細な行き違いから本当に別離が待っていることもある。
そう考えると、さっさと仲直りしてしまったほうがいいに決まっているのである。
とくに、感情的なケンカは「先に謝ったほうが勝ち」とも言われる。
なんらかの危害関係が絡むケンカならばともかく、なんの損得もない、純粋に感情的な行き違いから生じたケンカであれば、先に謝ったほうが気が楽だということだ。
相手に先に「ごめんなさい」を言われると、「ほら見ろ。
僕の言った通りだろう」とふんぞり返ることは逆に難しくなる。
むしろ「いや、僕も悪かった」と謝らなくてはいけない気持ちになるものだ。
そして相手が先に折れてくれたという事実は、より長く怒っていたほうをなんとなく居心地悪くさせる。
このように、ケンカが感情的であればあるほど、相手に先に冷静になられると対応に困るものである。
なんせ、さんざん感情に任せて相手を責めていたのだから、我に返れば後ろめたくなって当然だ。
だから、「先に謝ったほうが勝ち」なのである。
また、相手に先に謝られると、謝られたほうはそれが負い目になる。
そして相手に何かをしてあげて、埋め合わせをしようという心理が働くのである。
このため、ケンカをしたあとの「おねだり」はすんなりいくことが多い。
この意味でもケンカは先に謝ったほうが「勝ち」なのである。
51「かわいいね」を間接的に言う方法 いくつになっても女性が言われて嬉しい言葉は「かわいい」と「きれい」だと決まっている。
よって男性は、相手に気に入られたいと思ったら、この言葉でアプローチするのが良策である。
しかし、面と向かって「かわいいね」と言うのはなかなか難しい。
いかにも口説いています、下心がありますと言っているような気がしてためらってしまうだろう。
女性側にしても、面と向かって褒められればもちろん嬉しいだろうが、あまりにもストレートすぎると面食らってしまうはずだ。
あまりにも露骨すぎると「いやらしい」と思われるし、下手をすると、「からかわれているのかしら?」とも思われかねない。
警戒心を抱かせずに相手に好意を伝えることが重要なのである。
そのためには、「間接的」に「かわいいね」と言うテクニックが必要になってくる。
「間接的」とは、女性の容姿そのものではなく、彼女が身につけているものや言動を褒めて、それを通じて女性を褒めるということである。
「○ ○ちゃんみたいな髪型ってかわいいよね」 こういう褒め方をしてみるのはどうだろう。
「○ ○ちゃんみたいな」と言ってはいるものの、本人に対して言っているのだから、実際には本人の髪型を「かわいい」と言っているのと大差ないことになる。
また、たとえば大阪弁で話す女性に対して、「関西弁の女の子ってかわいいよね」 と言ったり、華奢なサンダルを履いている女の子に、「女の子のクツって小さくてかわいいよね」 と言ったりするのも手だ。
こういう言われ方をすると、女性は自分が直接褒められたわけではないが、間接的に褒められていることは理解し、嬉しくなる。
「かわいい」と言われたのは自分ではないが、わざわざ自分にそう言ってくるということは、自分を含めて「かわいい」ということなのだと理解するのだ。
女性はそういうところに敏感なのである。
これによって、あなたが彼女に好意をもっていることもしっかり伝わるはずだ。
とかく日本の男性は女性を褒めるのが下手だと言われる。
確かに恥ずかしいという気持ちはあるだろうが、このような間接的な褒め方であれば、あまり抵抗なく口にできるはずだ。
女性は褒めれば褒めるほど美しくなるとも言うのだから、褒めない手はない。
52 セクハラにおびえているのはむしろ男性である セクシャルハラスメントの略語、「セクハラ」が一般的に使われるようになって随分たつ。
男女平等が唱えられている現代、確かに男尊女卑は排除されるべきであるし、性的犯罪は絶対に見過ごされるべきではない。
そのため、近頃は学校(主に大学)や会社などでもセクハラ対策の窓口が設置されていることが多く、なにかあればそこに相談することができるようになっている。
しかし、こういった取り組みが、女性ではなく男性を迫害するといった弊害が出てきているのだ。
「○ ○ちゃん、ちょっと痩せたんじゃないか?」 この一言には、実は2つも「セクハラ発言」とされるものが入っている。
ひとつは「痩せた」。
これはわかりやすいだろう。
むやみに異性の容姿やスタイルを話題にするのはセクハラだと言われている。
もうひとつは「 ○ ○ちゃん」の「ちゃん」の部分である。
男女平等の見地からすると、「 ○ ○君」もしくは「 ○ ○さん」と呼ぶのが好ましいそうだ。
しかし、言った本人としては、「痩せた」というのは褒めたつもりであったし、「 ○ ○ちゃん」というのは親しみを込めた呼び方のつもりだったのである。
こういったものにまで目くじらをたてて、「セクハラだ!」と糾弾するのは本当に正しいのだろうか。
極端な例になると、女性に「彼氏に料理を作ってあげるとしたら何を作ってあげる?」と聞いただけで、「女性に家事を押し付けている」 =男女差別だ、というのである。
しかし、料理は男性でもするものであり、この質問は「彼女に料理を作ってあげるとしたら何を作ってあげる?」として、男性に問うこともできるものだ。
そういったものまで男女差別だと言いはじめたら、何が言って良くて、何が言ってはいけないのか、わからない社会になってしまうだろう。
すでにその兆しは見えはじめており、近頃は何か言うとすぐにセクハラで訴えられかねないため、最初から何も言わないようにしている男性が増えているという。
これは人間同士のコミュニケーションを失わせることである。
セクハラだと言われることを恐れて、最初から何も言わないのは正しい選択なのだろうか。
デリケートな問題であることは確かだが、過剰反応しすぎるのも良くないはずだ。
同性同士であれば、太ったの痩せたの、恋人がどうしたこうしたと、何の垣根もなく話すのだ。
異性間だというだけで、そういうレベルのものがセクハラになるというのもおかしな話である。
「セクハラにおびえる男性」というのは本末転倒としか言えないだろう。
53 本当に喜ばれるプレゼントは贈る人の「気持ち」 女性にプレゼントを贈るとき、あなたは何を基準に選ぶだろうか。
金額だろうか。
それとも流行のものだろうか。
はたまた花束のようにロマンチックなものを選ぶだろうか。
なんにせよ、相手の女性が喜ぶと思われるものを選ぶに違いない。
しかし、女性が本当に喜ぶプレゼントというのは、実はプレゼントそのものではない。
女性は、相手が自分に何か贈ってくれようとする気持ちそのものを嬉しいと感じるのである。
たとえば、恋人の誕生日デートに贈る誕生日プレゼントを、仕事が忙しくて買えなかったとする。
そういうときに、彼女が欲しがっていたバッグのことを思い出して、慌てて誕生日当日に電話をかけ、「あとで代金出すからあのバッグ買っておきなよ」 などと言ったとしたら、その途端、相手の女性の機嫌を損ねることはまず間違いない。
彼女はべつに、どうしても誕生日にバッグが欲しかったわけではないのだ。
それよりも、誕生日当日に「ハッピーバースディ」の一言を、心をこめて言ってくれたほうがよっぽど嬉しかったはずである。
忙しくてプレゼントを買えなかったのならば、後日あらためて贈ればいいのだし、贈ろうと思っていてくれたことだけで心は十分満たされたはずなのだ。
プレゼントは形ではなく、心である。
言い古された言葉だが、これは真理なのだ。
逆に言えば、「心よりも形になったプレゼントが欲しい」と言う恋人は、本当にあなたを愛しているのか疑わしい恋人である。
54 女性はレディファーストで男性の心をはかっている 意外と知られていない事実だが、レディファーストは、最初は今とはまったく逆の目的で生まれている。
レディファーストの起源は中世ヨーロッパ。
暗殺が横行していた時代であったので、騎士が自分の身を守るために女性を先に立たせたり、先に食事を取らせて毒見役とした事が始まりなのである。
それがいつのまにか女性を守るためのマナーとして変化し、現代の欧米ではレディファーストはごく当然に行われている。
日本でも、近代までレディファーストの習慣はなかった。
女性は「三歩下がって夫の影を踏まず」が良しとされてきたのである。
しかし、この現代においては、レディファーストができる男性のほうが女性に歓迎されるのが現実だ。
それは、社会の風潮ももちろんあるが、女性が実際にレディファーストをされたときに嬉しいと感じる気持ちが働いているからに違いない。
レディファーストと言っても、その内容は多岐にわたる。
ドアを開けてあげる、女性を先に通す、車道側を歩かせない、レストランでメニューを見るのは女性から……。
いくつかはマナーとして「常識化」されてはいるが、絶対にそれにこだわらなくてはいけないというものでもない。
基本的には、女性を優先させ、エスコートしてあげれば良いのである。
実際、レディファーストを心がけてくれる人とそうでない人とでは、女性に対するアピールカがかなり違う。
たとえば、もっとも簡単なレディファーストのひとつ、「歩調を合わせる」。
女性は、一緒に歩いているとき、自分にかまわずさっさと歩いてしまう男性に対し、「この人は私のことを気遣ってくれない人だ」という認定をする。
逆に、歩調を合わせてくれる人は「優しい人だ」と思う。
これだけで随分と評価に格差が出る。
女性は、なんでもない顔をしながら、心の中では冷静に男性を分析しているものなのである。
女性にとって、レディファーストをしてくれる人というのは、「自分に優しくしてくれる人」と言える。
自分と一緒のときは自分を他より特別扱いしてくれる、心地良い相手なのだ。
また、近頃はレディファーストされるのに慣れた女性も増えてきており、そういうタイプの女性の前でレディファーストを欠くと、「なんて失礼な人」という評価すら受けかねない。
そういうパターンは少々行き過ぎかも知れないが、女性が、自分にレディファーストをしてくれるかしてくれないかで相手の気持ちをはかりがちだということは、事実である。
ただしやりすぎると妙に媚びている印象を与え、下心を疑われるので、あくまでさりげなくスマートに行うのがミソである。
また、前々項でセクハラについて述べたが、レディファーストは確実に男女不平等の振る舞いである。
そのため、オフィスでのレディファーストはセクハラだと見なされることもあるので注意したい。
55 結婚後こそ相手を尊重する気持ちを忘れない「釣った魚に餌はやらない」という言葉があるが、結婚するとこれに当てはまる男性が多いという。
なぜ「釣った魚に餌はやらない」のかと聞くと、「もったいないから」だそうだ。
結婚するまでは、相手に好かれるためにいろいろなものを贈ったり、バカ高いレストランに行ったり、涙ぐましい努力をしていたというのに、結婚してしまえばそれまでなのだ。
しかし、女性からすれば、たとえ釣られた魚であっても餌がなければ死んでしまう、と言いたいはずである。
この行き違いが、夫婦間の不協和音を生んでいるのだろう。
男性は、結婚して恋人が妻になってしまうと、相手にアプローチしようという情熱を失い、なにもしないでも妻は妻のままでいると思っている。
それが間違っているのである。
女性はいくつになっても褒められたいし、愛されていたいと思っているものである。
愛されていなければ、どうして妻をやっているのかと不満に思うし、そのフラストレーションが溜まれば夫婦喧嘩や、最悪の場合は離婚話にまで発展する。
夫からすると、別に妻が嫌になったわけではないし、別れたいと思っているわけでもない。
ただ、「餌をやる」ことを怠けてしまうだけなのである。
しかし、それを怠けたせいで、魚が他に餌を求めて逃げていってしまう可能性があるとはあまり思わないようだ。
魚が逃げてしまってあとの祭り、とならないように、結婚後こそ相手を大切にする気持ちを新たにするべきなのである。
夫婦仲は悪いよりも良いほうがいいに決まっているのだ。
方法は筒単である。
結婚前と同じことをすればいいだけだ。
56 子どもの心を自分の心と同一視してはいけない 子どもは親の影響を受けて育つものである。
まっさらな状態で生まれ、周囲からさまざまなものを学んで成長していく子どもにとって、最も身近な存在である親の影響を受けるのは当然のことと言えよう。
親がよく使う言葉は子どもも使うようになるし、親がすることは子どももする。
よくしつけがなっていない子どもに対し、「親の顔が見てみたい」という言い方をするが、この言葉は、いかに親の影響が子どもにとって大きいかを伝えているのである。
では、親がしっかりしつければ、子どもが望んだ通りの子どもになってくれるかと言うと、そうではない。
一日のほとんどを家の中で過ごす幼児期はともかく、成長するにつれて小学校、中学校と、子どもを取り巻く環境は常に拡大を続ける。
その中で子どもは親以外の影響を受け、自我を確立し、自分の考えというものを持つに至るのである。
すると、子どもはかならずしも親の望む姿にはなっていないだろう。
しかし、それが自然なのである。
なぜなら、子どもはその子どもとしてひとつの人格を持つからである。
だから親と同じはずはない。
「子は親を映す鏡」とは昔から言われることだが、この意味を履き違えて、「私の子どもなのだからこうあるべきだ」と思い込まないことである。
子どもには子どもの意志があり、親が完全にコントロールすることなどできないのだ。
それを無理にやろうとすると、「親ばなれ」「子ばなれ」ができない親子が生まれてしまう。
子どもの心は子どものものであり、「他人」のものとして尊重しなくてはいけないのである。
57 子どもは本当に「友達親子」になりたがっている? 近頃、若い親の間では「友達親子」がもてはやされている傾向がある。
「友達親子」とは、文字通り友達のような親子のことである。
これは基本的に思春期以降の子どもと親の関係で使われる言葉であり、なんでも本音で打ち明けあい、お互いの悩み相談をしたり、友達同士のように買い物に出かけて遊んだりするのである。
そういった親子関係が旧来の親子関係とは違っていい、と言うのだ。
しかし、この「友達親子」には問題がある。
そもそも、思春期以降の親の役割というものは、子どもが大人になるために立ち向かうべき壁である。
思春期を迎えた子どもは親に隠し事をするようになり、親よりも友達に秘密を打ち明け、ときには親に反抗したりする。
親は「大人」として社会のルールを子どもに「押し付け」、子どもはそのルールに従うのをよしとせず反旗を翻し、ときに勝利し、ときに敗北して大人としての階段をあがっていくのだ。
しかしここで壁となるべき親が「友達親子」だったらどうなるだろう。
子どものやることのすべてに理解を示し、一緒になってそれを楽しむような親だったら、子どもは立ち向かうべき壁を見つけられなくなるのだ。
そうして出来上がるのは、やっていいこととやってはいけないことの区別がつかない「大人」である。
思春期にやりたいことを禁じられることがなかったため、我慢することを覚えず、挫折を知らない「偏った」人間になってしまうのである。
子どもにはちゃんと子どもの友達がいるものだ。
親がその代わりを務める必要はない。
子どもには、彼ら友達と一緒になって親に反抗したり秘密を持ったりする時期が必要なのである。
「友達親子」となることはそれを取りあげ、子どもの成長を阻害することに他ならない。
親は親としての役割を果たすべきなのである。
58 「早く大人になりたい」と思わせることが成長を促す タバコは 20歳になってから。
飲酒も 20歳になってからというのが日本の法律である。
これは、若年の喫煙や飲酒が身体の成長に害を及ぼすからだと説明される。
しかし、なぜそれが「 20歳」なのだろうか? 19歳でも 21歳でもいいようなものなのに、なぜ 20歳なのか。
それは、明確な線引きが必要だからである。
20歳はまさしく線引きの歳である。
成人式を迎え、喫煙や飲酒が許されるようになり、社会的な責任を負うことによって一人前と認められる。
これによって「子ども」は「大人」になるのだ。
こういった線引きは重要なものである。
たとえば、小学校の間は夜 9時までに寝ること。
中学校の間は門限が夜 7時。
高校生の間は小遣いが月に 5千円。
そういった決まりごとも一種の「線引き」である。
家庭内のルールなのでもちろん法的拘束はないが、厳粛に守られるべき「一線」なのだ。
こういったルールを、子どもは疎ましく思うだろう。
クラスの友達は夜 9時からのドラマを見ているのに、自分は見られないからである。
ここで、子どもが「どうして 9時より起きていちゃいけないの」「周りの友達はみんなもっと起きているよ」と主張したとしよう。
それでも親は「よそはよそ、ウチはウチだ」と断固としてルールを変えないべきなのである。
中学生になった娘が、門限を破って夜の 8時に帰ってきたとする。
門の前には父親が立っていて、帰った娘はひどく怒られる……。
しかし、それこそが必要なことなのだ。
このときに「まぁ 1時間くらいなら仕方ないか」とルールを曲げ、叱らずに済ませてしまうと、娘は「なんだ」と肩透かしを食らってしまい、それからは夜の 8時まで帰ってこなくなるだろう。
娘にとって、門限を破ることは「ルールからはみ出すこと」である。
それをなにも罰せられなければ、それをきっかけに他のルールも破っていいと思うようになる。
そして未成年にもかかわらず酒を飲んだりするようになるのである。
エスカレートすれば、もっと重大な犯罪――万引きや無免許運転など――にも罪悪感を抱かなくなる。
家庭内のルールは社会のルールの予行練習だと思っていい。
ここで「線引き」を守る習慣をつけなければ、社会に出たときにもルールを守れない人間が出来上がってしまう。
もちろん、成長するにつれ、子どもは反抗するだろう。
親に隠れて学校をさぼってみたり、ウソをついて恋人と外泊したりするだろう。
しかし、そうすることがルール違反であることを知っているかいないかが重要なのだ。
自分がルール違反をしているという罪悪感を感じていれば、多少の家庭内ルール違反は自立心のあらわれだと肯定的にとらえていい。
59 子どものウソはケースバイケースで受け止めよう
小さな子どもはよくウソをつく。
このウソにはいろいろあって、大人はそのときどきによって正しい対応をしなくてはならない。
「猫さんが、ママのこと好きだって言ってたよ」「きのう、ご本からモモタロウが出てきて、いっしょにおにたいじしたよ」 このような話は、大人が聞けばすぐにウソだとわかる。
しかし、こういうウソは、子どもの脳や情緒が発達してきたバロメーターでもあるのだ。
「猫がママを好きだと言った」というのは、母親に懐いている猫の様子を見て言ったのだろうし、「モモタロウと鬼退治した」というのは、物語の内容をちゃんと覚えている証拠だ。
こういうウソは、年齢とともに減っていくので「それは違う」と訂正しなくても心配はない。
むしろこういうときは、「じゃあ猫さんに、ママも猫さんが好きよって言っておいてね」「鬼退治したの、えらかったわね。
きび団子は食べたの?」 と話をふくらませてやることが重要だ。
それによって子どもの発達をさらに促してやることができるだろう。
しかし、もし子どもが自分がジュースをこぼしたのに、ぬいぐるみのクマを指差して、「クマちゃんがこぼした」 などとウソをついたら、それは叱るべきウソである。
こういうウソを容認していると、責任を他人になすりつけるクセがつきかねないからだ。
ちなみにこういうウソは、本当のことを言うと怒られると思ってつくウソだが、普段から母親が厳しく叱りつけていると、それを怖がってこういうウソをつくことが多くなるという。
しつけとお仕置きは違うということを忘れず、子どもに恐怖心を抱かせないようにしたい。
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