Section 2 ステージ昇格の鍵は自分を知ること
さて、このセクションからは気づいてるステージへ昇格するための具体的な方法をお話しさせていただきます。
そのためにまず必要になるのが、「自分を知る」ことなんです。
ここで1つ質問があるのですが、あなたは RPGのゲームをされたことがあるでしょうか? やったことがない人のために簡単に説明をさせていただきますと、自分が扱うプレイヤーが、フィールドに出現する敵を倒して経験値を積んでいき、どんどんレベルアップし、最後はラスボスを倒すというゲームです。
RPGでは、自分よりはるかに弱い敵を倒し続けても、もらえる経験値は雀の涙です。
逆に、自分より圧倒的に強い敵に戦いを挑むと、瞬殺されます。
なので、今の自分のレベルに合った敵を倒し続けていく必要があるのですが、前提として扱うプレイヤーの特徴がそれぞれあります。
ゲームの種類によるのでケースバイケースではありますが、戦士を選ぶと魔法が使えず、体力と攻撃力と防御力を上げていくことでしか、戦士は強くなりません。
ほかにも、魔法使いを選ぶと攻撃力と防御力が弱いので、使える魔法の種類を増やしていき、魔力を強化することでしか魔法使いは強くならないといった具合です。
戦士はいくら魔法が使いたいと思ってもそれは無理なんです。逆に、魔法使いがでっかい斧を振り回して敵を倒したいと思ってもそれは無理なんです。
僕たちが生きている現実世界も、物理的に攻撃してくる敵がいないだけでまさしくこの RPGと同じなんですが、たとえば、ゲームの世界で自分の扱うプレイヤーのことを知らないとどんなことが起こるのか。
まず、自分のレベルがわからないので、自分がどれぐらいの強さかわかりません。
そして、プレイヤーの特徴が分からないので、どんな能力があるのかも、魔法が使えるのかどうかもわかりません。
さらに、プレイヤーのことをなにも知らないので、迂闊に行動するといきなり強い敵が現れて瞬殺されるかもしれないので、どこに行けばいいのかもわかりません。
これを人間に置き換えると、「自分のことを知らない」ということになるんです。
ゲームの世界はプログラミングされているので、手探りでもプレイヤーのことを知っていくことができますが、これが現実世界だと完全に迷子になります。
残念なことに、多くの人がそうやって人生の迷子になってしまっているんですね。それぐらい、自分のことを知らない人が多いというわけです。
もちろん、自分がどういった服装をすれば似合うのか、どういった髪型が似合うのか、そういった部分をちゃんとわかっている人はいらっしゃると思います。
しかし、ここでお話しする「自分を知る」ことは、そういった表面的な部分を知ることではなく、自分の内面や特性を深く知るということなんです。
ようは、「自分の内面や特性に興味を持ち、自分がどういう人間であるかを知る」ことが、「自分を知る」ことになります。
そうやってどんどん自分を深掘りしていくと、自分にできることとできないことを区別できるようになり、自分の適材適所が分かるようになるわけです。
では、具体的にどうやって自分を知っていくのか。
それはひたすら自分に問いかけることです。
次のワークをやってみましょう。
- 自分が嬉しいと感じるときはどういったときか?
- 自分が楽しいと感じるときはどういったときか?
- 自分が怒るときはどういったときか?
- 自分が悲しいときはどういったときか?
- 自分が好きなものはなんなのか?
- 自分の嫌いなものはなんなのか?
- 自分が心地良いと感じるものはなにか?
- 自分が熱中したことはなんなのか?
- 自分が得意なことはなにか?
- 自分が苦手なことはなにか?
- 自分ができることはなにか?
- 自分ができないことはなにか?
- 自分がしたいことはなにか?
- 自分がしたくないことはなにか?
- 自分がくやしかったことはなにか?
- 自分が恥ずかしかったことはなにか?
- 自分はどういった人に受け入れられてきたのか?
- 自分はどういった人に受け入れられなかったのか? etc.
といった感じで、どんどん自分に問いかけていきます。注意点としては、あくまでも自分の視点で考えること。
「世間ではこう言われてるから」とか「親がこう言ってたから」といった、世間体や人の評価じゃなく、あなたが「あなた自身」に問いかけてください。
そして答えが出れば、次はさらに出た答えに対し「なぜ?」と問いかけを増やしてください。
続いて「なぜ?」のワークです。
- なぜそれを嬉しく思うのか?
- なぜそれを楽しく思うのか?
- なぜそれで怒るのか?
- なぜそれを悲しく思うのか?
- なぜそれが好きなのか?
- なぜそれが嫌いなのか?
- なぜそれが心地良いのか?
- なぜそれに熱中したのか?
- なぜそれが得意なのか?
- なぜそれが苦手なのか?
- なぜそれができるのか?
- なぜそれができないのか?
- なぜそれがしたいのか?
- なぜそれがしたくないのか?
- なぜそれがくやしかったのか?
- なぜそれが恥ずかしかったのか?
- なぜその人たちは自分を受け入れてくれたのか?
- なぜその人たちに自分は受け入れられなかったのか?
etc. こうやって、自分に対し「なぜ? なぜ?」を繰り返していきます。ちなみに、この問いかけは「なんで?」でも「どうして?」でも「どういうわけで?」でもなんでもかまいません。あなたが一番しっくりくる問いかけを自分にしてみてください。
では、「なぜ」問いかけを自分に繰り返すことが必要なのか。それは、自分のことを深く知るためでもありますが、「考える力」を取り戻すためでもあるんですよ。
僕たちは子供のころ、両親や周囲にいた大人に対して「なんで? ねえ、これなんで?」って聞いてましたよね。
でも、大人たちが子供の質問に対して「そういうものだから」とか「しょうもないこと聞かないの」みたいな感じで「ないもの」にしていたら、子供はどんどん考える力をなくしてしまい、物事に対して「そういうものか」とか「しょうもないこと考えなくていいや」といった感じで、深く考えないようになってしまいます。
そのまま大人になると、すでに考える力をなくしているので、自分のことだけではなく、起こる出来事に対しても深く追求して「なぜ?」を考えなくなるんですよね。そういった人たちは、「なぜ?」じゃなくて「たられば」を考えるようになります。
たとえば、悪い出来事や逆境に遭遇したとき、「自分にとってこれはどんな意味があるんだろう?」と考えることができないので、怒りや悲しみといったネガティブな感情に流されるだけ流され、自分に課せられた試練を乗り越えられなかったときがわかりやすいですね。
その場合、「あのときこうしていたら」「あそこでこうしていれば」といった「たられば」ばかりを考えてしまうわけです。
逆に、考える力をなくしていない人や、考える力を取り戻した人は、もし試練を乗り越えられなかったとしても、「なぜ乗り越えられなかったんだろう?」と考えます。
いくら「たられば」を追求してもなんの解決にもならない上に、人間に平等に与えられた限りある財産である「時間」を垂れ流しのように無駄遣いしています。
だからこそ、常日頃から自分だけではなく色々な物事に問いかけ続けないといけないんです。
そうやって考える力を取り戻していくと、考えることが習慣になり、自分のことも色々な物事もどんどん深掘りしていけるようになるんですよ。
中には、考える力をなくさずにそのまま大人になった方もいらっしゃることでしょう。そういった人たちは、「なぜ?」に答え続けてくれた親や周囲の大人がいたのではないでしょうか。
答え続けてくれた人たちへの感謝を忘れず、どうか、これからも「なぜ?」と問いかけ続けてください。
とはいえ、中には「なぜ?」と考え続けるあまり、周囲の人たちから「そんなに難しく考えなくていいじゃん」とか「なに難しいこと考えてんの?」といった感じで考えることを軽んじられてしまい、「自分が考え過ぎなのか」と肩身の狭い思いをしている方もいらっしゃるかもしれませんね。
しかし、考えることを放棄した人間に明るい未来はやってきません。周りの人間がなんと言おうと、考えることを止めてはならないんです。
問いかけないから自分のことがわからないし、問いかけないから「たられば」ばかり考えるんですよ。そして、問いかけない人の大半が気づいていないステージにいるということを忘れてはいけません。
なので、気にせずそのまま自分に、物事に問いかけ続けてください。
もしかすると、「自分のことを知ることができれば、もう自分に対して問いかけなくてもいいのか」と思う方がいらっしゃるかもしれませんが、残念ながら自分を知ることは、 1週間や 1ヶ月でできる作業ではありません。
一生かかってする作業なんです。だってよく考えてみてください。
いろんな権威ある人たちが、僕たちが生まれるずっと昔から研究に研究を重ねている「人間の心」や「心理」を、一個人がたった 1週間や 1ヶ月そこらで解明できるわけがないんです。
もちろん、解明する対象は「自分」なので、人類の心や心理ほど大規模なものではありませんが、それでも自分のことを解明するためには莫大な時間が必要になります。
たとえば、今まで出会ったことがない人に出会って、これまでに芽生えたことがない感情を抱くこともあるでしょう。
今まで経験したことがないことに遭遇して、できないと思っていたことができるようになることもあるでしょう。
僕たちは例外なく、人や経験を通じてでしか「自分を知る手がかり」を得ることはできません。その手がかりをたくさん手に入れて、問いかけ続けることでどんどん自分のことを知っていけるんです。
あなたが今まで自分のことを知らず、何十年も生きてきたのだとしても、今からでも自分を知ることは決して遅くはありません。
自分の内面にもっと興味をもち、自分のことを知っていきましょう。
Section 3 自分にないものと悪い部分を知
▼今の自分は過去の自分の積み重ねである
「人間はどこまでいっても『今』の自分でしか勝負ができない」という真理があります。どういうことかと言うと、僕たちは例外なく過去の自分の積み重ねによって現在の自分を形成していますよね。
マザーテレサの言葉がわかりやすいと思いますので、左記に記載させていただきます。
- 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
- 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
- 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
- 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
- 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
ようするに、すべては自分の思考によって現在の自分が作られているということになります。
僕たちが自分の性格だと思っていることのほとんどが、元々は「考え方の癖」から生まれたものになりまして、なよなよしているのも、女々しいのも、優柔不断なのも、悲観的なのも、怒りっぽいのも、挙げればキリがありませんが、今の自分は「そういう考え方をしてきたから」という結果なんですよ。
というわけで、考え方の癖をなおしていきましょう、というそんな簡単な問題ではありません。それは、考え方を変えたからといって言葉と行動まで一気に変わるわけではないからです。
言葉は、長年自分が発してきた言葉のチョイスや話し方が癖づいているし、行動は、長年自分が行ってきた行動パターンが癖づいています。
なので、もし日頃から悪い言葉や行動が習慣になっているのであれば、その悪習慣を「自覚」した上で「矯正」していかないと、考え方が変わった時点ではなにも変わっていないということになります。
誰しも「理想の自分像」があるでしょうが、いくら理想の自分を演じようとしたところで人は習慣にないことを完璧にはできないですし持続できません。
部活でたとえると、練習していないことは本番で使えないのと同じことです。中には、自分をよく見せるのが異様に上手い人もいます。
こういった人たちはそういう自分を作り上げておけば相手が印象良く思ってくれることをわかっているので、最初は気に入られやすいのですが、自分が相手に受け入れられたとわかった瞬間からボロが出始めます。
その結果、周囲の人たちから「あの人って口ばっかりよね」とか「最初は良かったんだけどね」なんて言われてしまうわけです。
そういった理由から、演じようとしている「理想の自分」はできていない自分になりまして、「なんで私はいっつもこうなんだろう」というのが「現実の自分」になります。
この現実の自分を認めずに理想ばかり追いかけている人は、現実と理想の乖離がどんどん大きくなっていき、人生全般が上手くいかなくなっていくんですよね。
「こんなに頑張ってるのになにがいけないんだろう」という思考になることも多いのですが、そういった人たちがまず目を向けないといけないのは「現実の自分はこうである」という自覚です。
※見せ方が上手い人は注意
▼すべての過去と経験に意味がある
今の自分が幸福であれ不幸であれ、どれだけ無駄だと思った過去であっても、どれだけ経験したくないと思った過去であっても、その過去が1つでも欠けていると今の自分は存在しません。
色々な出来事を通じて幸せになった人が「あのとき、あんな無駄な経験をしなければ、もっと早く幸せになっていた」とか「あんなことがなければ、もっと幸せになっていたかもしれない」といった感じで自分の過去を残念がることがありますが、どんな過去であれ1つでも欠けていたら「絶対に」現在の自分は存在しないんですよ。
なぜなら、いろんな経験を通じて「気づき」を得たことによって幸せになれたのだから。もし1つでも過去が欠けていたら、現在の幸せは手に入っていないと思っていいでしょう。パズルのピースが1つでも欠けると絵が完成しないのと同じなんです。
逆に、「自分は不幸だ」と今思っている人もそうです。
彼らは生まれや育ちといった環境だけではなく、人のせいにしてずっと生きてきた過去があるので、それが今の不幸な自分を作りだしています。
前述したように「目の前に起こっている現実は、すべて過去の自分が選択した結果」であり、悪い出来事が起こるたびに責任の所在を自分以外のものに求め続けた結果が、今の不幸な自分というわけです。
そして、起こった出来事に対して自分がどう感じるかは「自分がどう受け止めて、どう解釈したか」だけなので、現実から目を背け続けた分だけ不幸な自分を作りだしています。
ただ、今がいくら不幸であったとしても将来的に幸せになったとき、自分が不幸の根源だと思っていた出来事がすべて幸せになるために必要な経験だったんだと気づくんですよね。
「あのときあんなことがあったけど、あの出来事があったから今の自分があるんだなあ」とか「あの人のことが大嫌いだったけど、あの人がいなければここまで努力してこなかったもんなあ」といった感じで。
現在、不幸のどん底にいる人からすると想像もつかないことでしょうが、これだけは覚えておいてください。
ないものねだりばかりしている人は「目を背けていた現実 =ないもの」をちゃんと自覚することが、新しい人生を踏み出すための第一歩になります。
▼現実を知ることは「自分の悪い部分」を自覚することでもある
冒頭でもお話しいたしましたが、人には誰でも光と闇の部分が存在します。この光が自分の良い部分になりまして、闇が自分の悪い部分になるんですよ。
そして、この悪い部分を自覚していない人は、日常で無意識に自分の悪い部分をちょいちょい出していることに気づいていません。
でも、はたから見れば丸わかりなんですよ。
なぜなら、見ている人は「視覚と聴覚」を通じてあなたのことを丸ごと見ているから。わからないのは「自分の悪い部分を上手く隠せている」と思い込んでいる本人だけです。
そして、悪い部分から目を背けている人に共通しているのが、「そういう部分はあるかもしれないけれど、今までそれで生きてこれたし、これからも今まで通りいけんじゃね?」とか「そういう部分はあるかもしれないけれど、誰々はもっと酷いし私はそこまでじゃない」といった感じで認めようとしないんですよね。
ですが、残念ながら自分の悪い部分というのは、自分が思っている以上に根深いもので深刻だと思った方がいい。
自分の悪い部分を自覚していない人は日常から「無自覚に」自分の悪い部分を出しているので、隠そうとしても「にじみ出ている」ということです。
それが行き過ぎると周囲の人たちに陰で「あの人ってああいうところよね」と噂されてしまうんですよ。噂されているのを知らないのは本人だけです。
自分で思っている以上に深刻で根深いといったのは、こういった理由からなんですよね。
なので、自分の悪い部分をしっかりと自覚した上で、その悪い部分と真逆の生き方を心がけることが必要になります。
では次に、悪い部分を自覚しないまま放っておくと、日常でどのように作用して連鎖するのかをお話しさせていただきましょうか。
▼身近にひそむ「そういうところやで?」という人たち
前述のように、自分の悪い部分を自覚していない人は、日常生活で自分の悪いところを無自覚で出しています。
もし、うっすらと自覚しているつもりでも、当の本人が完全に認めていないのであれば上手く隠しているつもりであっても、その悪い部分はしっかりと違和感となって相手に伝わってるんですよね。
そんなわけで、悪い部分を無自覚に出している「そういうところやで?」という人たちの特徴をお話しさせていただきます。
【相手への配慮が足りない】
まず、人に対して配慮が足りない人の特徴です。
- 自分の目的や願望が最優先
- とにかく人任せ
- 周りの状況や他人に無関心
- 自己愛が強い傾向にある
- 人の気持ちを考えない
- デリカシーがない
配慮のなさといってもいろんなケースがありますが、たとえば僕のブログにコメントを残してくださった方が書いている文章を見ていると、配慮が足りない人たちの文面は一発でわかります。
明らかに長いコメントを残した人たちに対して僕は「長いです」とはっきりお伝えしているのですが、これは決して公開処刑しているわけではなく、誰も言わないし今まで誰にも言われたことがなかったんだろうなと思って、おこがましいのを承知で代わりに言っているだけです。
改行をしない人に対しても同じように「改行してください」とお伝えしていますね。
ちなみに、この「長いです」の言葉の意味をぜんぶ書くのであれば、左記のようになります。
- 不特定多数の人たちが見ていることをちゃんとわかって書いていますか?
- その人たちが長いコメントを見てどんな気分になるか考えたことはありますか?
- そして、コメントを残してくださる方の文章量と自分の文章量を比較していますか?
- さらに、この方たちがどんなコメントを残しているのか見たことがありますか?
それからこのコメント欄はあくまでも交流を目的としたスペースで、今の悩みをすべて解決できる場所じゃないってわかっていますか? その上でハッキリ言いますね。
長いです。
残念ながら配慮が足りないのはコメントの文章量だけでなく、文面にも共通して特徴が出ています。
それはなにかと言うと、一方的に自分の感情がつづられた独りよがりな文章だということ。そして、自分の感情しか考えていないので、相手の都合や事情がまったく見えていないということです。
「無料のコメント欄なんだから好きに書かせてくれたっていいじゃん!」と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
しかし、コメント欄にかぎらず誰が相手であれどんな場所であれ、配慮することをおざなりにしてしまう人は、かならずと言っていいほど日常から人や物事に対しての配慮ができていません。
ようするに、ふだんから人に対しての配慮が足りない人はどれだけ隠しても言動すべてに表れていると言いたいんです。
ちなみに、相手を選んで配慮するかしないかを考えている時点で論外なので、相手次第で接し方を変えている人は自分の在り方を一度見つめ直した方がいいでしょう。
とはいえ、僕がコメント欄で指摘したあと素直に謝罪し、ちゃんと短文にしたり改行したりしてくださる方はものすごく好感が持てますしステキです。
その素直さを応援したいし、そういう良い部分がふだんからちゃんと出ればいいのになと思ってしまうんですよね。
中には嚙み付いてくる人もいますから。そんな、嚙み付く人をひっくるめての「そういうところやで?」という人たちが次のようになります。
【手のひら返し】
手のひら返しをする人の特徴です。
- タダでなんとかしてもらおうとして、やってくれないと怒る
- 思うような答えが得られなかったらスネる
- 自分の尊厳が傷つけられたと勝手に決めつけ激昂する
- 都合のいいときだけ媚びて都合が悪くなると逆ギレ
- 自分が承認されないとわかると感情的になる
- 自分の感情を受け入れてくれない相手は敵になる
自分の思うようにならなかったとき、今までの関係性を破壊するかのような勢いで手のひらを返す人たちですね。
よくあるのが、なにかの技術や専門に特化した友達に「いいじゃん、友達でしょ ~タダでやってよ ~」とお願いし、断られたら「なによ! ケチ! やってくれたっていいじゃない!」とキレたり、借金するときは頭を下げまくって感謝していたのに、後日、返済を要求すると「無い袖はふれないんだよ!」と逆ギレするような人たちです。
僕にも経験がありまして、以前、無料のメールカウンセリングをやっていた頃の話なんですが、 2回目のカウンセリングを無料で受けようとする人がたまにいたんですよね。
そのとき、「恐れ入りますが二度目以降は有料となっております」と伝えると、「結局金ですか。もういいです」とか。
「信用してたのに貴方もお金なんですね」とか「そうやって金儲け頑張ってください」なんて言われることがありました。
そのたびに、「今のままやったらこの人たち、絶対に上手くいかんやろなあ」と思っていたのですが、なぜ手のひら返しをする人がダメなのかと言うと、自分の望みどおりにならなかったからといって、急に態度を変えるその根性があさましく卑劣だからです。
ようは、態度を急変させれば自分の思い通りになるかもしれないと、無意識に思って行っているわけですからね。
じゃないと、そんな露骨に態度を変えることなんてできません。
それに、こういった人たちの多くは、手のひらを返す前から厚かましさや卑しさがすでにちゃんと言動に出ています。
なので、やっぱり悪い部分がぜんぜん隠しきれていないんですよね。
ちなみに、漫画原作者の小池一夫先生も仰っていましたが「そういう人だと思いませんでした」と言う人って、どんなイメージで自分のことを見ていたんだろうと思います。
勝手な理想を押しつけて勝手に裏切られた気になるなよっていう。
【上から目線】
そして、上から目線の人の特徴です。
- 言葉のチョイスがすでに上から目線
- できていないのに自分の存在を過大評価している
- 自分より劣っている人を見つけることで安心する
- 必死こいて守っているプライドがしょうもない
- 自分よりできている人を認めようとしない
- 人をほめることをしない
何度か誰かに「なんでそんな上から目線なの?」と言われた人は、どれだけ認めたくなくても、周りの人から見たら自分はそういう風に見えているんだとちゃんと自覚しましょう。
なぜなら、残念ながらふだん発する言葉のチョイスがすでに人を見下しているからなんです。
上から目線を指摘されたことがある人は、次のことに心当たりがないか思い返してみてください。
・否定系の言葉が多い例:「私、それ嫌い」「そんなの無理に決まってんじゃん」「絶対違うでしょ」
・偉そう例:「知らないかもしれないけど」「だから言ったよね?」「それくらいわかるでしょ?」
・自己主張が激しくなんでも自分に結びつける例:「俺の場合はさ ~」「私は違うと思うな ~」「自分が ○ ○してたときは ~」
・ストレートすぎる例:「絶対 ○ ○の方がいいって!」「だから上手くいかないんだよ」「アナタってそういうとこダメね」
・自慢話が多い傾向:誰か権威ある人にほめてもらったことをしきりにアピール
・過去の成功体験を今起こっている出来事かのように話す自分は「できているという前提」で能力誇示
といったところでしょうか。
上から目線の人の特徴として前置きを挟まないというものがあるのですが、どういうことかと言うと「ちょっと自分の話になるんだけどいいかな?」とか「自分の考えを言ってもかまわない?」とか「気を悪くしないでほしいんだけど」といった「ワンクッション」がないということです。
ちなみに、まったく上から目線のつもりじゃないのに、相手の受け取り方でそういう風に見られたりすることもありますが、それでも前置きを挟むだけで印象は大きく変わると思っていいでしょう。
それと、上から目線の人の中には「一体この人は誰と戦かってるんだろう?」と思うぐらい、自分を誇示することに必死な人がいます。
心の奥底を見られたくないあまり自己防衛本能が働いて「自分のほうが上だ」と証明したいだけなんでしょうが、自分を誇示すればするほど言い訳がましくなって、中身のなさや能力の足りなさが露呈されていることに当の本人は気づいていません。
しかも、自分よりできている人のことを認めようとせず、なんとか自分より下に持っていこうとあら探しばかりし、そのあらが見つかると鬼の首をとったかのごとくその人を全否定するためにたった1つのあらを突付きまくるのも特徴です。
さらに、上から目線の人たちが人をほめないのは、自分ができていなくて相手ができていたら、ほめることによって自分の無能感を認めることになるから、ほめるのが嫌なんでしょうね。
単純に、ほめると相手が調子に乗るのが嫌だからという理由もあります。
あと、上から目線の人は他者の意見を聞き入れません。
それが自分にとって改善すべき点であったり耳が痛いことだったりするほど、現実の自分を認めたくないから否定してしまうんですよね。
【感謝ができない】
続いては、感謝ができない人の特徴です。
- 不平不満が多い
- なにかしてもらうのが当たり前
- 人の時間を奪うことに罪悪感がない
- 「ありがとう」の言葉に心がこもっていない
- 自分の不平不満を満たしてくれる人間にしか価値を感じない
- 調子に乗っているとき周りが見えていない
各方面で感謝の重要性が説かれていますが、なぜここまでしつこいぐらいに言われているかと言うと、感謝ができない人が招く「そういうところやで?」という副産物が多いからなんだと思います。
前述の特徴4つがダイレクトに当てはまるのですが、怖いぐらい連鎖して次のようになるんですよ。
- 不平不満が多いということは、それぐらいないものねだりをしているということなので、ちょっとなにかをしてもらったぐらいでは物足りない
- その結果、してもらったことを当たり前だと思っている。してもらったことが、自分が望んでいるものと違ったり思うようなものでなかったりした場合、自分本位でしか考えていないので、相手が自分に費やしてくれた時間に対してなんとも思わない
- 一応してもらったからお礼は言うけれど、思ってもいないことだから「ありがとう」の言葉に心がこもっていない
- どいつもこいつも頼りにならないと思って、自分の不平不満を満たしてくれる人間をほかに探す
といった感じですが、感謝ができていない人ってどれだけ表面上は上手く取り繕っているつもりでも、接する側の人間からすると「口だけだな」ってバレています。
だって、態度とか雰囲気で「あ、思ってねえな」ってわかるから。
そして感謝ができない人の最大の特徴といっていいのが、自分は求めるばかりなのに相手になにも与えていないということです。
ギブ・アンド・ギブという言葉があるように、先に相手に与えないと返ってこないという事実があることを感謝ができない人はわかっていないんですよね。
お金と一緒で愛もちゃんと循環するんです。
ほかにも、感謝ができない人の特徴の1つに「自分一人で生きている」と思っているのも含まれますね。
こういう人たちは、自分は「みんな」によって生かされていることをわかってないんです。
たとえば、僕たちが今着ている服。
さかのぼると、この服を売ってくれた人がいて、お店に出荷してくれた業者さんがいて、服を作ってくれた工場の人がいて、その工場に布を届けてくれた業者さんがいて、その服をデザインしてくれた人がいて、といった感じでキリがありませんが、服 1着を着るのにその背景には多くの人々がかかわっているわけです。
衣食住に関するすべてにおいてかならず誰かがかかわっているので、自分一人で生きているわけではないんですよね。そして、一人で生きていると思っている人は、日本がどれだけ恵まれた国であるかも理解していないはずです。
とはいえ、これだけ恵まれた国に生まれているのに、先進国の中で幸福度がかなり低いのは、対比となるものがないことが理由の1つだと思います。
たとえば、仕事がないと休みの楽しみって生まれませんし、悲しみがないと嬉しさも生まれません。
こう言ってはなんですが、日本より治安の悪い国に住んでいる人たちの方が幸福度が高いのは、日本よりも危険と隣り合わせという対比があるからかもしれませんね。
あと、人間は調子に乗るとかならずといっていいほど感謝を忘れてしまいます。
なぜこういう状態になるかと言うと、高揚感から浮足だっていつもと違うことをしてしまい、自分のことも周りのことも見えなくなっているから、周囲の人たちへの配慮がなくなってそれが結果的に感謝を忘れるということにつながるわけです。
ケースバイケースではありますが、ハリウッド映画やドラマで一世を風靡した子役や、過去に日本で社会現象を起こした一発屋と呼ばれる人たちが、現在メディアメディアから姿を消しているのがその最たる例だと思っていいでしょう。
結局のところ、感謝ができる人って例外なく謙虚さを忘れていないんですよね。
【自意識過剰】
次に、自分は特別扱いされているという前提の人たちです。
- そんなに親しくない相手なのに自分は特別扱いされているという前提
- 自分の悩みは人よりも根深いもので崇高なものであると信じている
- よく知らない相手なのに自分のことをすべて知ってもらっているという前提
- なんの根拠もないのに「自分はみんなに嫌われている」と錯覚している
- 自分だけが大変で自分だけが損をしていると思い込んでいる
- 相手は自分の感情を受け止めてくれる存在であるという前提
実はこの「自意識過剰」が「そういうところやで?」の中で、かなり根深い部分に位置する悪いところでもありますね。
とくに女性の場合は恋愛になると途端に自意識過剰になる人が多いような気がします。
たった数回会っただけで、「自分は相手の彼女候補に違いない」と勝手に決めつけたり、相手には自分よりも付き合いの長い友達や長く続けている趣味があるのにもかかわらず、「自分はその中で一番重宝されている」と思い込んでいたり。
ようするに、具体的な根拠がなにもないのに「自分の優先順位が一番上のはず」という前提なんですよね。
その前提が招く悲劇として、ちょっと相手から連絡がこなかったり素っ気なくされたりしただけで、「なにか嫌われることしたんじゃないか」とか「あのときあんなこと言ったから嫌われたんだ」という風に相手の態度が思わしくないと、すべて自分に関連づけて考えてしまうんですよ。
なんの根拠もないのに「自分はみんなに嫌われている」と錯覚している人と同じで、「自分はそれだけ注目されている」という前提だということです。
とはいえ、恋愛においてだけ自意識過剰になる人は全然ましで、常日頃から自意識過剰な人はなかなか厄介なんですよ。
たとえば、とある人が体調を崩して病院に行ったとしましょう。
ここで、自意識過剰じゃない人は「相手は医師で自分は一患者」という線引きができています。
しかし、ここで線引きができていない人は、「自分のことは特別に扱ってくれるだろうし、自分のしんどさはほかの人よりも深刻な状態のはず」という前提を作ってしまっているんですよね。
その結果、医師と患者という距離感を無視してそれほど親しいわけじゃないのに親友に接するかのような態度で近づき、「先生は医者ですよね? だったらなんとかしてください」といった感じで図々しさと厚かましさを前面に出すといったような事例が日常でよく起こっています。
もちろん、ここまで露骨な人ってそんなにいないかもしれませんが、そうでなくても「ちょっとぐらいならいいよね」という謎の慢心が、図々しさと厚かましさをにじみ出していることを当の本人は気づいていません。
なぜ、こういう慢心が起こるのかと言うとおそらく、「相手は自分のことをよく知ってくれているに違いない」という前提があるからではないでしょうか。
百歩ゆずって2度目ならまだしも、初めて会う相手にこの前提をつくっている人が世の中にはいるんですよね。
相手からするとどこまでいっても「いやいや、そんなにアンタのこと知らんがな」なんですが、やっぱり本人は気づいていません。
そして自意識過剰に近づき相手に拒絶されるとブーブー文句を言うわけです。
こういう人は、病院の待合室で自分だけが待たされているわけじゃないのに、「俺はこんなにしんどいのに、一体いつまで待たせるんだ!」といったことを平気で怒鳴ったりもします。
ほかにも、 2 ~ 3回お店に行っただけなのに、常連ヅラして店員さんに横柄な態度を取る人もこれに該当しますね。
「相手は自分の感情を受け止めてくれる存在である」という前提の人も同じで、すぐ感情的になってしまう人は心のどこかで「自分のつらい気持ちをきっとわかってくれるはず」とか「自分の怒りをきっとわかってくれるはず」といった甘い期待を相手に抱いています。
しかし、彼らの多くはそれがいけないことだとわかっていても、感情的になることが止められません。
いつも感情的になってしまう人は、小さい頃の自分と親御さんとの関係を思い返してほしいのですが、幼少期に自分の感情をちゃんと親に受け止めてもらっていなかった人は、大人になってから他人に感情をぶつけるという巻き返しをはかることが多いです。
どういうことかと言うと、悲しいときに「泣いたってしょうがないでしょ! もう泣き止みなさい!」といった感じで悲しみをないものにされたり、怒っているときに「怒ったってどうにもならないでしょ! 諦めなさい!」といった感じで怒りをないものにされたりすることが続くと、子供は無意識に自分の親に対して「うちの親に感情をぶつけても無駄だ」と学習するんですよ。
そうすると感情を抑圧して我慢を繰り返してしまい、大人になってからそれが暴発するというわけですね。
なので、感情的になることが止められない人は、自分の過去を振り返ってみて「自分の親が感情を受け止めてくれなかった」という背景があるのであれば、「だから自分は感情的になるのか」とまず自覚する必要があるでしょう。
それから、ほかにも自意識過剰が招く悲劇として「自分だけが大変で自分だけが損をしている」という風に不公平を感じやすいというものもあります。
「自分はこんなに頑張ってるのに!」というやつですね。
しかし、残念ながらその頑張りはまったく相手が求めていないものだったり、頑張りどころがズレていたりすることがほとんどです。
なぜこういった状況を生み出してしまうかと言うと、不公平を感じやすい人のほとんどが、「自分の存在を証明するためには相手になにかをしないといけない」という固定観念があることが多いからなんですよ。
自分はなにかしないと承認してもらえないと思い込んでいて、「なにもしなくても承認してもらえるかもしれない」という別の現実があることが想像できないんですよね。
ようは、頼まれてもいないことを勝手にやって、それで承認が得られなかったり思うような結果にならなかったりしたときに、勝手に裏切られた気分になっていることが多いというわけです。
【逃げる】
最後が、「都合の悪いことから逃げる」人たちです。
- すぐに人や環境、過去のせいにする
- 都合が悪いことがあると無視したり話題を変える
- 責められる、否定される、注意されることを異常に嫌う
- 借りたお金や物を返さない
- 楽してなにかを成し遂げようとする
- 依存的で人に寄りかかって生きようとする
「そういうところやで?」の中でも、一番改善しなければいけない部分かもしれませんね。
逃げる人は、人とも自分とも向き合えないのです。
信頼関係というのは、お互いが自己開示をしあって約束を守りあい、ときには相手にとって耳が痛いことでも言葉を選んで指摘し、逆に自分にとって耳が痛いことを言われてもしっかりと受け止める、これらの繰り返しでしか築けないものだからです。
自分と向き合えない人は、自分にとって都合の悪いことからひたすら目を背けて、逃げ続けます。
この時点で、逃げる人といくら信頼関係を築きたいと思っても、逃げるから指摘することができないので、表面的な関係性を築くことはできても信頼なんて生まれないんですよね。
というか、そもそも自分と向き合う習慣がない人が他者と向き合えるわけがありません。
逃げる人はとにかく都合の悪いことから逃げるのですが、なぜ人や環境のせいにし続けるのかと言うと、自分にも責任があると認めたら、自分が今まで向き合ってこなかった部分と強制的に向き合わざるを得なくなるからなんです。
同じように、責められる、否定される、注意されることを異常に嫌うのも、いくら自分のためを思って言ってくれる人の発言だとしても、耳を傾けてしまうと、その時点で自分が今まで見たくなかったものを見てしまうことになります。
だから、逃げる方が彼らにとっては都合がいいんですよね。
そして逃げる人は現実からも目を背けています。
ようは、自分に「ないもの」をしっかりと自覚していないので、「自分がもっと ○ ○だったらもっとましな人生なのに」と、いつまでもないものねだりしているということです。
それから、逃げる人は完全に逃げることが習慣になっているので、人からお金や物を借りたとき、返したくないと思った時点で貸してくれた相手を平気で裏切ることが結構あります。
けだものフィールドにいる一部の人間でないかぎり、彼らにも一応人の心はあるので、「裏切ってはいけない人」に対してはちゃんと返すのですが、「どうでもいい人」と分類された相手に対しては、裏切ってなにか言われたとしても別に心が痛まないんですよね。
ここで「手のひら返し」の「そういうところやで?」がある人は、「返せよ!」と強く言われた瞬間から逆ギレすることも珍しくありません。
ほかにも、逃げる人は謝罪がちゃんとできない人も多く、たとえ自分が悪いことであっても、なにかのせいにして逃げようとします。
自分に非があることを認めてしまうと、自分が責任を取らないといけなくなるので、謝りたくないんですよね。
さらに彼らは、仕事や家族の一大事などのっぴきならない事情ではなくて、「なんとなく気分が乗らない」という完全なる自分都合でドタキャンする癖があることも。
こういった場合でも、やはりちゃんとした謝罪ができないのですが、その理由としては相手の貴重な時間を奪っているという感覚がなく、そこまで悪いことだと思えないからではないでしょうか。
若いときは「アイツはああいうやつだから」と笑ってくれていた人も、歳を重ねるごとに逃げる人のあり得なさが許せなくなり、「アイツはなにも変わらない」と見切りをつけて去っていき、気づけば親しい友人が誰もいなくなったというケースは決して珍しいことではありません。
あと、彼らは楽をすることばかり考えているので、目標達成のために「しんどいことをして基盤をつくる」「なりふり構わずに頑張る」といった「自分と戦う」という発想がないんです。
これも結局、逃げることが当たり前になりすぎて、「なにか楽して成功できる方法があるはずだ」と過剰な期待をしているんですよね。
言わずもがな、自分と向き合えない人が自分と戦えるわけがありません。
なので、今の自分を「お金持ちになりたい」「成功者になりたい」などのなりたい自分に引き上げてもらうため、自分より高い位置にいる他人に寄生しようとします。自分ではなにもできないので、誰かに寄りかかって依存することしかできないんですよね。
しかも、こういう人たちほど他人に依存して見合ったような対価が得られていない場合、「頑張ってるんだけど」と言います。
しかし、話を聞いている人が思うのは、「上手くいってないのはどこまでいってもお前の努力不足じゃん」です。
以上が代表的な「そういうところやで?」になります。
ちなみに、このようなことを書くと「どどどどうしよう……自分は、大丈夫かな……」と不安になる人がいらっしゃいますが、僕の経験上、大丈夫かなと思っている時点で「自分ではその心当たりが見当たらない」ということなので、不安になる人たちのほとんどは大丈夫だと思います。
逆に気にした方がいいのは、ドキッとしたりイラッとしたりしているのに平静を装うか否定的になる人。
だって、図星やからドキッとしたりイラッとしたりするねんで? ほかにも、「いるいる ~こんな人 ~」と楽観的に言っている人も「そういうところやで?」という部分を自分でわかっていない人が多いような気がします。
自分の悪い部分を自覚していてきっちり改善しようとしていたり、すでに実践している人たちは、「自分も気をつけないとな」という謙虚な気持ちになっているはずです。
▼よく思われたい自分は「できていない」自分
さて、ようやく核心部分がやってきました。
自分のことを受け入れてもらおうとするあまり、作った自分で勝負しようとする人は多いですが、この作った自分はなんなのかと言うと、「よく思われたい自分」なんです。
「○○な自分と思われたい」とか「××な自分と思われたくない」というのが作った自分ということです。
前者は理想の自分を「演じる自分」になりまして、後者はダメだと思い込んでいる自分を「封じる自分」になるといっていいでしょう。
この「封じる自分」というのは、当たり障りのない自分しか出さない、個性も毒もなくなんの面白みもない自分になります。
そして「演じる自分」はなにかと言うと、実は「できていない自分」なんですね。
ということは、「よく思われたい自分 =できていない自分」になります。
なぜそういう図式になるかと言うと、たとえば「男気があると思われたい男性」がいるとしましょう。
この男性は男気があると見られたいから、「意識して」男気がありそうな言葉を選び、義侠心ある行動をします。
しかし、意識してそう振る舞っている時点で完全に自分のものにしていないから、できているようで「できていない」んです。
逆に本当に男気がある男性は、ふだんからそういった言動をするのがすでに「習慣になっている」ので、男気があることが「当たり前」。
なので、誰かから「男気がありますよね」と言われても、当たり前にしていることだからあまりピンとこないし、人によっては「でしょ?」みたいになります。
ようは、「よく思われたい自分」は「習慣になっていないことをしようとしている自分」や「やったことがないことをしようとしている自分」になるので、見る人が見たら違和感にしかなりません。
よく、「合コンでサラダの取り分けをする女はあざとい」なんて言われていますが、あざとく見えるのは日常的にそういう気遣いができていないのが、ぎこちなさとなって見る人に伝わっているのであって、ふだんから気遣いができている女性は、たとえ合コンでサラダを取り分けたとしても、「当たり前にできている」から「自然」なのであざとくは見えないはずです。
いつもは優しくない人が急に優しくしてきたら気持ち悪く感じてしまうのもこれと同じで、優しい人は常にいろんな人に対して優しいんです。
ほかにも女性に対し、「俺にもっと甘えてほしい」って自分で言う男性っているじゃないですか。
「お前がもっとしっかりしてたらとっくに頼っとるわ」っちゅう話でして、「甘えてほしい」と言う男性は頼りないから自分でアピールするしかないんです。
本当に頼りがいがあったら、人望もあるしなにも言わなくても頼られていますからね。
自分で「俺は部下に慕われている」と言う上司も同じで、こういう人ほど陰で嫌われていることが多いです。
こうやって自分でアピールするけど実はできていない人って、心のどこかで自分はできていないとわかっているはずなんですよ。だから、相手に認めてもらうために自分で言うしか方法がないんです。
ちなみに、「信じて!」と自分で言う人も同じで、信用に足るような行動を常日頃から心がけている人ならいちいち自分で言いませんし、むしろ信じるかどうかの判断は相手に委ねるのではないでしょうか。
ということですから、「 ○ ○な自分」と思われたいなら、理想の自分になるために相応しい行動を常日頃から心がけて習慣化して完全に自分のものにし、息をするかのように当たり前にできないといけないわけです。
それが、人間はどこまでいっても「今」の自分でしか勝負ができないということでして、ないものねだりしているだけでは思い描く理想の自分はいつまで経っても「作られたできていない自分」止まりになるんですよ。
幸せになりたいなら、幸せになるために相応しい言動を心がける。お金持ちになりたいなら、お金持ちになるために相応しい言動を心がける。
なりたい自分を思い描いたなら、理想の自分になると「決める」ことが第一歩で、あとはひたすらその自分になるために相応しい言動を積み重ねていくだけです。
そのプロセスが次のようになります。
- 自分にないものを自覚して受け入れ、そのうえでどうするべきかと考える
- 自分の悪い部分を自覚して受け入れ、悪い部分と真逆の生き方を心がける
- 理想の自分になると決める
- 理想の自分に相応しい言動を習慣になるまで積み重ねる
身も蓋もないですが、どれだけ小細工に走ろうが自分を偽ろうが「最初から」今の自分で勝負するしか選択肢がないので、どうせバレますから取り繕うだけ無駄なんです。
今の自分に不満があるんだったら、「今」を変えていかないことには不満があるままの自分でずっと勝負しないといけないですし、気づいてるステージにも上がれないので、その点をお忘れなく。
Section 4 人間を縛る固定観念について
前セクションを読まれた人の中には、書かれている内容が自分に当てはまりすぎて、グサグサきたという方もいらっしゃるかもしれませんね。
でもご安心ください。
しっかりとないものを自覚し、自分の悪い部分を受け入れることができると、そこから人生は変わっていくんです。
逆に、自覚せず受け入れることもできないと、今までの人生となにも変わりません。過去の僕は本当に「そういうところやで?」を網羅したような人間でした。
中でも「逃げる」が自分の中で一番根深くて、どん底を経験して激しく頭を打ったことが大きく関係していますが、よく受け入れることができたなと自分でも思います。
どのようなどん底を経験したのかは、ブログのプロフィール欄や記事中で何度か触れているので本書では割愛させていただきますが、僕のように自分の悪い部分を全開に出して陰極ばりばりの人生を過去に歩んできた人はそうそういないと思うので、そうじゃない人たちは、変わるきっかけを手に入れられるかどうかなんです。
そのきっかけさえ手に入れることができれば、あとは新しい生き方に向けて最初の一歩を踏み出すだけなので、ステージアップすることはそんなに難しいことではないと僕は考えます。
とはいえ、その一歩を踏み出すことに強く抵抗があり、「変わりたいのに変われない」と思っている人が多いのは事実。というわけで、「なぜ人は変われないのか?」について、その理由を先にお話しさせていただきます。
まず、人がなりたい自分に向けて行動ができない理由が3つありまして、それが次のようになります。
- 恥をかくのが嫌だから
- 周囲に拒絶されたら嫌だから
- 結果が出るかどうかわからないから
それでは、1つずつ詳しくお話しさせていただきますね。
①恥をかくのが嫌だから
今まで経験したことがない新しい物事を始めるとき、周囲の人間にどう思われるかが怖くて、最初の一歩を踏み出せない人がいます。
たとえば、ライトなものだとイメチェンだったり、人生を大きく変えるものだと起業だったり。
新しいことをしている自分に自信が持てないせいで、今までの友人や職場の人たちの目や評価を過剰に気にしてしまい、恥をかくことを恐れて変わる第一歩を踏み出せないんですよね。
ようは、「アイツ、なんか必死こいてやってるけど、バカなんじゃねえの?」といった感じで思われたらどうしようと考えてしまうんです。
しかし、それは単なる決めつけでしかなく、もし否定されたとしても、何者かになろうとしている人間を馬鹿にする権利は誰にもありません。
それがたとえ、何の実績もない人が有名ユーチューバーを目指したり、成功を夢みてネットビジネスをやろうとしたりしていても、なにもしていない人よりかは遥かにましなんです。
だから恥をかくことを恐れずに行動しましょう、ということを言いたいのではなく、残酷な現実として、人間の心は筋肉と同じで傷つかないと強くならないという事実があります。
厳密に言うと、恥をかいた数と恥をかくことを恐れずに行動した数で、心が強くなるということなんですよね。
そして、どんなに立派なことをしようとしていても、かならず否定してくる人が世の中にはいます。
万人に好かれる人も物も歴史上存在しないのに、それでも万人に好かれようとしてしまい、自分を否定してくる人のことばかり気にする人が後を絶ちません。
それが、なりたい自分に向けて行動ができない次の理由になります。
②周囲に拒絶されたら嫌だから
これも一方的な決めつけから派生する考え方なんですが、なにかを始める前から周囲の人間に否定されることをあらかじめ想定して、できない言い訳を考えてしまうということです。
たとえば、就きたい職業があるのに「親が反対するだろうからできない」とか、やってみたいチャレンジがあるのに「友達に反対されそうだから怖い」だとか。
ようするに、自分の可能性を叩き潰してくるであろう「ドリームキラー」のことを気にして動けない人がたくさんいるんです。
しかし、なにをしても否定してくる人は一定数かならずいますし、ここでなにか新しいことを始める人がしないといけないのは、否定してくる人たちへの説得でも気に入られることでもありません。
しないといけないのは、自分のことを否定してくる人を黙らせるべく、「圧倒的力の差」を見せつけることです。
どういうことかと言うと、否定してくる人が想像もできないような偉業を達成するということなんですよ。
しかし、そこまでしても自分のことを否定してくる人はかならずいますし、身も蓋もないことを今から言いますが、どこまでいっても「そんなヤツらのことは気にするな」なんですよね。
そして、「恥をかきたくない」「拒絶されたくない」という考え方は、まさしく「世間体や人の評価」に縛られたものになります。
③結果が出るかどうかわからないから
人はわかりやすく結果が出るものじゃないと動けない生き物でもあります。
時間をかけてしんどい思いをして、その先にちゃんと望んだ未来が手に入るのであれば、日本人はもっと行動力にあふれた人種になると思うのですが、現実はそんなに生易しいものではなく、頑張ったからといってかならず報われるわけでもありません。
だから多くの人が、失敗するときのことばかりを恐れて、行動できないんですよね。
その結果、楽をして痩せるだの、楽をしてお金持ちになるだの、リスクが少なく、すぐ結果が出ることを売りにしている怪しい商品に騙されてしまう人が、いまだに大勢いるわけです。
しかし、成功者がよく言う「リスクをおかすことを躊躇する人間は成功しない」という発言はそのとおりなんですよ。
なぜかと言うと、失敗を経験しないとそこから新しいルートが見いだせないからです。
たとえば、プロサッカー選手になることを夢見て、毎日サッカーの練習をしている男性がいたとしましょう。
彼はその後、無事に夢を叶え、プロサッカー選手になることができたのですが、ある試合中に足を負傷してしまい、現役で活躍することができなくなりました。
時間がかかりましたが、彼は「もう現役プレイヤーとしては活躍できない」という現実を受け入れ、第二の人生を歩もうとします。
ここで未来の分岐点ができます。
サッカースクールを自ら設立してコーチになることもできるし、プロ時代のコネを活かしてスポーツ番組のコメンテーターになることもできるし、裏方に回り所属していたチームのアシストもできるし、さまざまな可能性があるわけです。
そして、選んだ道が自分にとって意味があり、世の中のためになっていることなのであれば、この人はそのときにようやく「俺はこの仕事をするために足を怪我したのか」と「本当の意味で」自分の運命を受け入れることができるんですよ。
しかし、彼がプロサッカー選手になっていなかったら、この可能性は存在しないですし、そもそも彼がサッカーをやっていなかったら、まったく別の人生を歩んでいたことになりますよね。
もちろん、中には「せっかく夢を叶えたのに、その夢を諦めることになるなら、最初から夢なんて追いたくない」と言う方もいらっしゃることでしょう。
無礼を承知で1つ言わせてください。
あのな。そんなこと言うてるから、いつまで経ってもメンタル強くならへんねん。
人生は、なにが起こるかわかりません。明日、いきなり死ぬかもしれないんです。
こういったことは昔から散々言われているのに、「生きづらい」だの「不幸だ」だのとぐちぐち言いながら、「今この瞬間」を変えようとせず、わかりやすく結果が出ることばかりを追い求める。
そんなことずっと繰り返していても、人生が大きく変わることなんてあるわけないじゃないですか。人は、傷つきながら心が強くなっていきます。
そして、失敗を繰り返しながら新しいルートを見いだして、なりたい自分や幸せに近づいていくのです。
断言いたしますが、楽をして自己改革はできないし、幸せにもなれません。時間をかけてしんどいことをしないと、理想とする自分になんてなれないんです。
とはいえ、ここまで発破をかけても、行動に移せない人がいることはわかっています。
なぜ、こういった人たちが動けないのかと言うと、「固定観念」に縛られて不安が消えないからなんですよ。
彼らの多くは、どれだけ不平不満や不公平を感じていても、「不安の感情」に勝つことができません。
この不安とはなにかと言うと、前述した「なりたい自分に向けて行動ができない3つの理由」でお話ししたことに直結するのですが、端的に言うと「今までと違う行動を起こして、どんな未来になるかわからない不安」ということです。
たとえば、ふつうに会社勤めをしていて、それほど裕福ではないけれど平凡な毎日を送っている男性がいるとします。
この人が感じる現在の不満と言えば、もうちょっとお金がほしいこと、そして、直属の上司がイヤなヤツで嫌いなことです。
そうこうしていると、この人の友人がある日突然、「一緒に飲食店をやらないか? 若い層をターゲットにした、洋風のお店なんだ。
数年前から構想を練りに練って考えたから、勝算はあると思う。軌道に乗ったらチェーン展開も考えてるし、ぜひお前に共同経営者になってほしい」と言ってきました。
ここで、「やるやる! やります! やらせてください!」となるのかと思いきや、固定観念に縛られている人は、この降って湧いたようなチャンスに一瞬心が動くのですが、不安の感情が出てきた途端、考え出します。
- 「でもなあ。今の会社は勤めて長いんだよなあ」
- 「上司はイヤなヤツだけど、もうちょい我慢してたら上司は異動になるかもしれないしなあ」
- 「それに、飲食店なんてやったことないし、そもそも俺は料理に疎いんだよなあ」
- 「もし会社やめてその飲食店が失敗したら、その間の時間が無駄になって、転職に不利だよなあ」
- 「ていうか、俺は馬鹿だから経営なんてきっと無理だろうなあ」
不安の感情に勝てない人は、こうやってできない理由ばかりを考えに考えて、不平不満を我慢するほうを選びます。
では、なぜこの男性がこんな大チャンスを棒に振り、元の人生に戻ってしまうのか。
それは、この人の固定観念が原因なんです。
そもそも固定観念というのは、今まで生きてきた中で根付いた、偏った価値観や変な思い込みのことなんですが、この固定観念が悪いほうに作用すればするほど、たちまち自分を縛る生きづらさの呪いになってしまいます。
そんな固定観念はどういった場合に根付くかと言うと、次のようになります。
- 親の価値観や常識と思っていること、主観を子供の頃から繰り返し植え付けられた
- 教師やクラスメートに心ない言葉を浴びせられた
- 交際相手の無神経な発言で傷ついた
- 友達(と思っている相手)に一方的に自分の人格を決めつけられた
- 上司のパワハラ etc.
ようするに、他者が「主観で」自分に向けて投げかけた言葉を鵜呑みにしてしまい、「きっと自分はそうに違いない」「 ○ ○が言ってたからきっとそうなんだ」と信じ込んでしまったものが、固定観念です。
とくに、親から植え付けられた固定観念は強烈です。なぜかと言うと、一緒に生活している時間が他人よりも長いため、その分すり込まれる言葉の数も多くなるからなんです。
子供にとって親はある意味、絶対的権力でもあるので、ほかにサンプルになる考え方を外部から得られない場合、どんどん親の価値観や常識が子供に根付いてしまいます。
たとえば、前述した大チャンスを棒に振る男性が、子供の頃から「アンタは弟と違って賢くないから、将来成功もしないだろうし、平凡な人生しか歩めない」と母親から言われ続けていたとします。
この男性が母親の言うことを信じてしまうと、「自分は賢くないし大成できない平凡な人間なんだ」と決めつけてしまうんですよね。
すると、この人は自分で決めつけた自分になるために、「賢くない」「成功しない」「平凡」である自分の証拠探しをして、なにか新しいことを始めようとしても、できない理由を先に考えるというわけです。
決めつけたのはこの人自身ではありません。
母親から言われ続けた言葉を事実と受け止めてしまい、「自分はそういう人間なんだ」と解釈してしまったのが原因です。
ほかにも、固定観念は厄介な性質を持っていまして、本人があまりにも強く信じ込んでしまっているので、誰かが「その考え方おかしいよ」といった感じで説明や説得を試みても、元々の考え方を改めることができません。
それぐらい、固定観念というのは人を縛る呪縛になってしまうんです。
実は、固定観念というのは見る人が見れば、「えっ、なにそれ、そんなこと信じちゃってんの? マジ? 洗脳でもされてんの? ていうか、その考え方を植え付けたその人ってあんたの神さまかなんかなの? じゃあその人が『今すぐ死んで』って言ったら死ぬんだ。へー」みたいな感じで、これ以上ないほどの馬鹿らしい思い込みのことでもあります。
しかし、他者から見てそれがいくら馬鹿らしいことであっても、信じ込んでいる本人からすると、それが「絶対的な法律」のようになってしまっているので、そう簡単に固定観念を外すことはできません。
では、なぜそんなに強く固定観念が根付いてしまったかと言うと、その原因は大きく分けて次の3つになります。
- 相手が、親や教師という「権威ある存在」だったから
- 相手が上司やカーストが上の、自分より優れている(という思い込みの)存在だったから
- 相手が、「自信満々に」言ってきたから
大前提として理解していただきたいことがありまして、相手が親であろうが教師であろうが、そこら辺にいるふつうの人です。それは、相手が上司であろうがカーストが上であろうが、まったく同じ。
さらに、自信満々に否定したり決めつけたりしてくるのは、その相手もまた、自分の固定観念に縛られているからです。
ここで思い返していただきたいのですが、日本人のほとんどが気づいていないステージの人間だと考えると、自分の親も、教師も、上司も、カーストが上の人も、そのステージの人間である可能性が非常に高いんです。
しかも、偏った固定観念を持っている人の親ほど、人でなしステージ・きつねフィールドの人間であることも多く、そういった親に育てられた子供は、大人になって親元を離れてからも、親がかけ続けた「呪いの言葉」に苦しみ、ひどく生きづらい人生を送っていることが多いですね。
そんな固定観念を解除するべく、次のセクションではその具体的な方法をお話しさせていただきます。
Section 5 固定観念の解除
▼物事の受け取り方は6つある
さて、このセクションでは人間の生きづらさの原因を作っている「固定観念の解除の仕方」をお話しさせていただくのですが、そのためにはまず、「客観的思考」を身につける必要があります。
どういうことかと言いますと、人間の「物事の受け取り方」は大きく分けると6つに分かれまして、それが次のようになります。
- 妥協
- 拒絶
- 不安
- 悲嘆
- 共感
- 客観的思考(合理的思考、哲学思考とも呼ぶ)
①~⑤はすべて、その人が主観で見た好き嫌いを元にした「感情ベース」になっていまして、 ⑥は感情を挟まない「客観的視点ベース」になっています。
具体的にどういった受け取り方になるか、例を挙げてお話しさせていただきますね。
たとえば、学校の校則によくある「登下校中は買い食いしてはいけない」というもの。
この規則に対して、 ①~⑤の受け取り方をした場合、以下のようになります。
- 妥協「まあそういうもんだよなあ」という諦め
- 拒絶「なんで買い食いしたらいけないんだよ!」という怒り
- 不安「えっ、買い食いバレたらヤバいじゃん」という焦りや恐怖
- 悲嘆「買い食いできないんだ……そっかあ……」という悲しみ
- 共感「そりゃそうだ、だって買い食いしたら学校だけじゃなくて自分の品位も落とすもんな」といった同意からくる喜び
ほかにも、驚きや嫉妬、羨望などの受け取り方はありますが、最終的な受け取り方は前述の5つに行き着くと思っていただいてかまいません。
次に、客観的思考でこの規則を受け取った場合、一例としてこのような考え方になります。
「なんで買い食いがダメなんだろ? 熱中症になりかけてフラフラしてヤバいと思ったとき、水を買うのもダメなのか? そんなことにならないために、水筒に水入れていつも持っておけよって言う人がいるかもしれないけど、水筒の中の水がなくなったらどうするんだろう。
そんときは水道水入れろって言う人がいるかもしれないな。でも、水道水が飲めない人はそのときどうするんだろう。ていうか、そもそもなんで登下校中の買い食いはダメって校則ができたんだろう? あ、そうか。生徒が歩きながらものを食べていたり、コンビニの前でたむろして買った商品を飲み食いしてたら学校としては都合悪いよな。
もしかしたら、空き缶とかペットボトルを道端に捨てるヤツもいるかもしれないし。
でも、そういう道徳に反する行いをしてないんだったら、非常事態もあり得るわけだから、なにがなんでも禁止にするのっておかしくないか?」 といった感じで、あらゆる角度から物事を考えることができるのが、客観的思考です。
ようは、つい感情ベースで考えてしまう物事に対して、そのまま感情で受け取るのではなく、それが本当に正しいものなのかどうか、「なぜ? と屁理屈をこねまくって仮説をたてる」という考え方なんですよ。
客観的思考を身につけることは、気づいてるステージへ昇格するための必須条件でもありまして、前述した考える力を取り戻していない人は、感情ベースの考え方から抜け出せていません。
なぜ、感情ベースの考え方だと気づいていないステージから抜け出せないのかと言うと、感情ベースの物事の受け取り方をしているうちは、「自分の主観」から抜け出せていないからなんですよ。
そもそも主観というのは、自分のものの見方や感じ方であり、その基準はどこまでいっても自分の中だけで完結する視点なんです。
そして、主観というのは「自分が今まで見聞きしたり、経験したことの統計」であり、自分が決める物事の良し悪しは、「自分という狭い範囲の中で出した答え」になります。
個人が「正しい」と思う感覚って「正しそうという、そのときの気分」であり、「今までの経験からそんな気がした」というぐらいのものでしかありません。
そういった理由から、主観がどれだけ当てにならないものかおわかりいただけたでしょうか。
▼主観にとらわれすぎている人ほど、人や環境に期待しやすい
それから、主観にとらわれすぎている人ほど自分の常識やルールに凝り固まっていて、こういう人は、無意識に「きっとほかの人も自分と同じはず」という「期待」を相手にしてしまっていることが多いですね。
その期待に相手がこたえなかったとき、主観から外れてしまうので、怒りや悲しみを感じてしまいます。
ようは、勝手に期待して勝手に裏切られた気になっているということです。
怒りや悲しみは自分が「勝手に期待した」ことが発端になっているので、相手と状況はまったく関係ないんですよね。
たとえば、道を歩いていて知らない人にいきなり暴言を浴びせられて、怒ったり悲しんだりするのは、「知らない人がまさか自分に向かって暴言は吐かないだろう」という期待の反動。
これがもし、相手があなたのことを知っている人であったとしても、この期待のメカニズムはまったく同じなんです。
むしろ、そういった相手に対してほど、「この人は私のことを知っているから、まさかそんなことしないだろう」という期待が強まってしまうのではないでしょうか。
とくに、主観にとらわれすぎている人ほど、他者や状況に期待しやすく、怒りと悲しみを感じやすいと言ってもいいのですが、中でも「ふつうは」「常識的に考えて」という発言が多い人はその傾向が強いです。
そういう人は「するべき」「しないといけない」という固定観念に縛られすぎているため、相手も自分と同じであってほしいという思いのあまり、主観を押しつけようとすることがよくあります。
そこで、主観を押しつけられた人が、感情ベースの考え方の1つである「共感」をすれば価値観の相違は起こりませんが、それ以外の受け取り方をしてしまうと、そういったことが続くたびに人間関係の歪みが生じてしまうわけです。
しかも、客観的思考の人だと「ちょっと待て、一体そんなこと誰が決めたんだ?」と感情で受け止める前に疑問が生じるんですよね。
そうすると、主観を押しつけた側の人間はその疑問に対し、「世間ではそう言われてるから」とか「誰々がそう言ってたから」といった感じで、なんの疑いもなくそれが人類の総意であるかのように、突き返してきます。
ちなみに、法律で決められていることを除き、世間で常識とされていることのほとんどが、「なんとなくそっちのほうが正しそう」という人たちの主観によって成り立っています。
ようは、多数決で多いほうが常識になってしまい、真逆の考え方は非常識になるわけです。
▼客観的思考を身につけるための訓練方法
しかし、倫理やモラルに反することでないかぎり、いくら非常識だと言われていても、その考え方を支持する人はかならずいて、そこに理由と根拠があるんだったら、それは仮説だけにとどまらず、その人なりに検証もしているので「思想」になるんですよ。
それに、時代が変われば常識なんて簡単に覆ります。
たとえば、「同じ仕事を 3年続けられないヤツはどこいってもダメだ」というかつては常識とされていたことも、現代では「やりたくない仕事を 3年も続けなくていい」といった感じのカウンター意見として、その理由と根拠が具体的に述べられていることが多いです。
それ以外にも、昔は運動中に水分をとったらダメだと言われたり、足腰を鍛えるためにウサギ跳びが推奨されたりしていましたが、現代では危険とみなされて禁止されていますよね。
人類の歴史でさえも、教科書に載っているからといってその情報が正しいわけではなく、どこまでいってもその時代を生きた人にしか真相はわかりません。
現に、鎌倉幕府成立の年代が 1192年から 1185年に記載が変わっていたり、「信長って実は延暦寺を焼き討ちしてなくね?」といったことを言い出す人がいることを考えると、僕たちがかつて学校で習ったことでさえも、もはや常識と呼べなくなっているのではないでしょうか。
しかも、日本人から見て倫理やモラルに反しているから悪だと決めつけられていることであっても、立場が変われば正義になります。
たとえば、ヒトラーにしても、彼は自分が正しいと思ったからこそあれだけの酷いことをしたわけです。
もちろん、正しいと思ってしたわけじゃないかもしれないし、もしかしたら側近の誰かにそそのかされたのかもしれないし、実はヒトラーはやってなくて影武者がやっていたのかもしれない。
こうやって、物事をそのまま受け取るのではなく、あらゆる可能性を考え、仮説をたてることが客観的思考を身につけるために必要な訓練となります。
ほかにも、客観的思考を培う方法として、あらゆる立場になって考えるという訓練方法もありますね。
たとえば、街中にそびえる巨大ビル。
このビルが建ったことによって得をしている店舗はなんだろう、逆に損をした店舗はなんだろう、今からこのビルの近くで商売をする人はなにを売りにするんだろう、といった感じで、あらゆる角度から物事を見る習慣をつけることです。
さらに、僕たちが日常で見るドラマや映画でも、この訓練法は活用できますね。
どう活用するかと言うと、登場人物の背景に思いをはせながら作品を鑑賞する人は多いと思うのですが、そこでもう一歩進んで、「自分がこの登場人物だったらどういう行動をとるのか?」「この登場人物はなぜこの行動を起こしたのか?」「そうしないといけない事情はなんだったのか?」といった感じで、客観視するんです。
登場人物の背景に思いをはせるだけだと感情移入してしまい、感情ベースの物事の見方になってしまうんですよ。
そうすると、鑑賞後の作品の感想が、「あのシーンで泣けた」とか「あの犯人が腹立つ」とか「あの場面で興奮した」という感情ベースの意見になるわけです。
「ドラマとか映画って娯楽だから別にそれでいいじゃん」と言う方もいらっしゃるでしょうが、それは考える力をなくしている人の意見でして、客観的思考が身についた人だと作品をあらゆる角度から見ているので、実はもっと深い観点で作品を堪能しています。
その結果、登場人物の何気ない台詞からびっくりするぐらいの気づきを得たり、「この考え方は自分の発想になかったな」と感心したり、「ああ、だからこういう人が世の中にいるのか」と納得したりできるんです。
自分の話で恐縮ですが、僕も物語を見るときはかならず客観的視点で見ているので、作品を見るごとにかならずなにかしらの発見がありますね。
こうやって客観的思考を身につけていくことができると、ようやく固定観念の解除ができるようになります。
▼固定観念を解除するにはどうすればいいか?
固定観念についてさんざん悪いことのようにお話ししてきましたが、実は喜怒哀楽すべての感情が湧く裏には自分の固定観念が原因としてあります。
前述のように、怒りや悲しみは期待から生まれるものですが、この期待は「 ○ ○しないといけない」「 ○ ○するべき」という固定観念が元となっているんですよね。
たとえば、仕事をサボっている部下に対して怒りを感じる上司の場合だと、さかのぼれば一例として次のような固定観念が出てきます。
「なんだよアイツ! 仕事サボりやがって!(怒り)」
「この仕事は楽しいしやりがいもあるから、みんな情熱もって取り組んでくれているだろう(期待)」
↓
「雇ってもらっているんだから、仕事は頑張らないといけない(固定観念)」 といった感じで。
では、嬉しさや楽しさはどういった固定観念が原因になっているのか。
ここに、恋人から誕生日にプレゼントをもらって喜んでいる女性がいるとしましょう。この場合だと、一例として次のようになります。
「やった! 彼氏が誕生日プレゼントをくれた!(嬉しい・楽しい・大好き)」
↓
「彼氏が誕生日にプレゼントをくれたらいいなあ(期待)」
↓
「ふつう彼氏は彼女の誕生日を祝ってプレゼントをあげるべき(固定観念)」
このように、さかのぼるとすべての感情の裏には固定観念が元としてあるのですが、少なくとも嬉しさと楽しさの原因となる固定観念の存在は悪いことではありませんよね。
自分の機嫌は自分でしか取れないので、嬉しさや楽しさを感じるための固定観念だったら、「 ○ ○しないといけない」「 ○ ○するべき」という思い込みも良い方向に作用しますから。
しかし、この「 ○ ○しないといけない」「 ○ ○するべき」が悪い方向に作用すればするほど、怒りや悲しみを感じやすくなり、生きづらさから抜け出すことはできません。
なので固定観念を解除しましょうと言ってしまうと、「でも固定観念を解除したら、感情がない人間になってしまうんじゃないの?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
これは鋭い質問ですが、いつも楽しそうにしていて、怒っているところや悲しんでいるところを見たことがない人がいるとします。あなたの周りにそういう人がいたら、「あ、あの人のことか」と思い浮かべてみてください。
こういった人は、人や環境に期待していないので、怒りや悲しみを感じにくいわけですが、そうすると固定観念がないことになり、無感情になってしまうはずです。
では、この人がなぜ喜びや楽しさを感じることができるかと言うと、固定観念と真逆のことも受け入れているからなんですよ。
前述した誕生日プレゼントをもらって喜んでいる女性の例だと、「彼氏は彼女の誕生日を祝ってプレゼントをあげるものだと思うけど、みんながみんなそういうわけじゃないと思うし、中にはプレゼントどころか誕生日を祝ったことがない人もいるかもしれない」といった感じになります。
なので、この人の場合だと、恋人からプレゼントをもらえなくても怒りや悲しみを感じないわけですが、多くの女性からすると、「いやいや、それはちょっと……」と思われるような極端な例かもしれません。
僕が言いたいのは、怒りや悲しみを感じることが悪だと言いたいのではなく、固定観念が原因となって生きづらさから抜け出せなくて、日常の行動が制限されてしまっているのであれば、その固定観念は解除したほうがいいということなんです。
そんな固定観念の解除方法とはずばり、「自分が信じ込んでいることと真逆のことを信じること」。
そのために、必要なプロセスは次のようになります。
①生きづらさの原因となっている固定観念に「気づく」
↓
②その固定観念を植え付けた相手が誰かを考える
↓
③固定観念を疑う
↓
④固定観念と真逆の事例がないか探す
↓
⑤その真逆の現実があることを信じる
それでは具体的に1つずつお話させていただきますね。
①生きづらさの原因となっている固定観念に「気づく」
たとえば、「自分はなにをやっても中途半端だし、ダメな人間だ」と思っている人がいるとしましょう。最初にこの人がしないといけないことは、「なぜそう思うのか?」に気づくことなんです。
固定観念に気づかないことには次に進めないので、この問いかけはかならず行ってください。すでに考える力を取り戻している人は、結構早い段階で自分の固定観念に気づくことができます。
自分に問いかけた結果、「一度決めたことはなにがなんでも最後までやりきらないといけない」「途中で投げ出す人間はダメだから最後まで頑張るべき」という固定観念がこの人に見つかりました。
次にこの固定観念を植え付けたのは誰なのか? を考えます。
②その固定観念を植え付けた相手が誰かを考える
過去を振り返って考えていると、「一度決めたことは最後までやりきりなさい」と子供の頃に母親に言われ続けていたことを、この人は思い出しました。
そして、なにかを始めて行き詰まって挫折をしたり、目標をかかげて達成できなかったりしたときは、「それはアンタの努力と頑張りが足りないからだ。そうやって途中で投げ出していると、ダメな人間になるよ」と母親に言われていたとします。
この人は途中放棄をして母親にそう言われ続けるたび、どんどん自信をなくしてしまい、なにかを始めようとしても目標ができたとしても、行動すること自体が怖くなっていたんですね。
なぜなら、行動して途中で投げ出すたびに「ダメ人間になる」と思い込んでいるからです。そこで、この人が行動できるようになるために、次のプロセスが必要になります。
③固定観念を疑う
ようするに、「自分でこれ信じちゃってるけど、これってほんとかなあ?」と疑うということです。
この人の場合だと、「一度決めたことは最後までやらないといけないってほんとかなあ?」「努力と頑張りが足りないって言うけど、それってほんとかなあ?」「途中放棄した人間は全員ほんとにダメ人間になるのかなあ?」と疑いまくるんですよ。
ここでのポイントは、「徹底的に疑うこと」です。
そして、次のプロセスに移ります。
④固定観念と真逆の事例がないか探す
徹底的に疑ったあとは、自分の固定観念と真逆の事例がないか探してみましょう。ご安心ください。自分が見ようとしていないだけで、真逆の事例は探せば「絶対に」あるので。
この人が探さないといけないのは、「一度決めたことを最後までやらなかったけど成功した人」や「ある物事を途中放棄したけど立派に生きている人」の事例です。
探す対象は、身近な人でも歴史上の偉人でも有名人でもなんでもかまいません。
現代ではグーグルという優秀な先生がいるので、ネットがなかった時代よりは簡単に真逆の事例である情報を手に入れられますし、昔に比べると固定観念の解除は簡単になっていると思います。
そうやって情報を探していると、「堪え性がなくていろんなことを挫折してきたけれど、一大企業を作った社長」や「志半ばで夢から逃げ出したけれど、第二の人生をしっかり歩いている人」など、多くの事例が見つかるはずです。
ここで注意していただきたいのは、あまりにも現在の自分とかけ離れた偉大な存在が真逆の事例として見つかると、「いや、これはこの人だからできたんだ」とか「自分にはそんな能力がないから無理だ」と諦めそうになることがありますが、いくら比較対象が大きな存在だからといって諦める必要はありません。
なぜなら、どんなスーパースターも大金持ちも中身はふつうの人間なので、彼らは自分のことを知った上で自分の適材適所を見つけただけだからです。
とはいえ、それでも自分とかけ離れた存在に対して比較することに引け目を感じてしまうという人は、一度成功したり有名になったりしたけど、転落して再起した人の事例を探してみてはいかがでしょうか。
⑤その真逆の現実があることを信じる
そして最後です。
真逆の事例がいくつか発見できたら、あとは自分の知らないところで自分が信じていた道と真逆の人生がちゃんと存在していて、自分にもその人生を歩むことができるんだと信じることです。
真逆の事例を発見した途端に「なんだ、こういう人だっているから自分にもできるんじゃん」と信じることができる人なら、固定観念の解除はここで終了します。
もちろん、固定観念とまではいかない思い込み程度のものも、この段階で解除できますね。
しかし、今までずっと解除できなかった根深い固定観念だと、いきなり真逆の事例を信じることは難しいと思います。
その場合は、「自分がこの真逆の人生を歩むためにはどうすればいいだろうか」を考えましょう。あくまでも建設的なことを考えないといけないので、「やっぱ自分には無理だ」といった諦めはなしです。
手前味噌ですが、僕には悲恋改善アドバイザーという肩書がありまして、やっていることはカウンセラー業務です。
まだ会社勤めだった当時、カウンセラー業でいずれ独立するとは決めたものの、ある難題が立ちはだかったんですね。
それは、カウンセラーで独立してもほとんどの人がそれ 1本で生活できないと言われている現実。月に 20万の金額を稼げている人はほんの一握りだと言われていました。
そこで僕はその一握り、いや、そのさらなる上に自分が行くためにはどうすればいいか、必死こいて頭から煙が出るまで考えに考えたんです。
このときは今ほど自分のことを知らなかったのですが、漠然と「人と同じやり方が自分に向いているわけではない」ということはわかっていたので、最初に考えたのは、「カウンセラーになるために自分に合った方法論はなんなのか?」でした。
先ほどの、「自分はなにをやっても中途半端だし、ダメな人間だ」と思っている人の場合だと、「一度決めたことを最後までやらなかったけど成功した人」や「ある物事を途中放棄したけど立派に生きている人」の事例を見つけるところまではいきましたよね。
この人が自分と真逆の人生を歩んでいる人と同じ方法で人生を歩んだとして、成功したり立派に生きたりすることはできるかもしれないけれど、残念ながら同じ方法をとったところで、他人のやり方がかならずしも自分に適したやり方であるとはかぎりません。
なので、「自分が信じたものと真逆の人生を歩むために、自分に適した方法はなんなのか?」を考えないといけないんです。
そうやって考えた結果、「このやり方だったらいけるかもしれない」という方法が見つかれば明るい兆しが見えているので、固定観念と真逆の現実があることを信じる入り口までもう来ています。
あとは、真逆の人生を歩くための最初の第一歩を踏み出すことができるかどうかにかかっていますね。
そして、そのまま行動していき、「いけるかもしれない」という確信を得るに従って真逆の人生を信じることができるので、そのまま突き進んでいきましょう。
もちろん、行動の途中で立ち止まってしまうこともあるかもしれない。本当にこのまま進んでも大丈夫なのか? という不安に苛まれることもあるかもしれない。ときには、進んで行き止まりになることもあるかもしれない。また試行錯誤しなければいけないときもあるかもしれない。
「なんだよ! 真逆の人生があるなんて期待した自分が馬鹿だったよ!」と投げ出したくなることもあるかもしれない。
だけど、これだけは言わせてください。
固定観念なんて、自分が信じた「ただのウソ」なんです。
そして、かならず真逆の人生は存在するし、あなたに合ったやり方でその人生を歩ける方法が存在します。
だって、自分を知るトレーニングと客観的思考を培うトレーニングをきちんと続けていたなら、それは決して難しいことではないのだから。
あなたが今、自分の固定観念が原因で生きづらさを感じているのであれば、今まで自分が信じてきたものをどんどん疑ってかかるべきです。
屁理屈をこね回して疑いまくるべきなんです。
それに、よく考えてみてください。
親であれなんであれ、他者が自分の主観だけで言ってきたことを信じ込むのってたとえて言うなら、どこからどう見ても冷蔵庫なのに、「これって電子レンジの役割できますよね」と言われてそれを信じるようなものですよ。
「絶対ウソだ ~」となることはあっても、「え? そんなんできるんですか?」ってならないし、そもそも、他者がどれだけ「い ーや! これは電子レンジだ!」って言おうが、冷蔵庫は冷蔵庫に変わりないし、冷蔵庫の価値はなにも変わっていません。
なぜ、これが冷蔵庫だと言い切れるのかと言うと、冷蔵庫はどんな役割を果たせて、できないことはなにかがわかっているからなんですよ。
まあ、冷蔵庫と電子レンジが一体型になったクッキング冷蔵庫というのが昔あったみたいだけど、今はそんな話どうでもいい。
なので、自分のことを知ってさえいれば、他者からなにを言われようが、自分は自分だし、自分の価値はなにも変わらないと思えるんです。
でも、ここで言われた言葉を気にしてしまうのは、自分のことを知らないからであり、前述したように、他者は自分の「主観だけ」で自信満々に否定したり攻撃したりしてくるから、なんとなく本当っぽく聞こえてしまうだけなんですよ。
そういうわけですから、自分の価値は自分でしか決められないことを忘れないでください。
ちなみに、ここまでやってもなかなか固定観念が外れないという人は、自分に固定観念を植え付けた人の事情を考えてみてください。
たとえば、「人間は裏切る生き物だから信じちゃいけない」と親に言われた人がいるとします。
この言われた人が「親の事情」を考えるにはどうすればいいかと言うと、「うちの親はなんで人間は裏切るって決めつけてるんだろう?」と考えることです。
そうすると、もしかしたら過去に信用していた人に酷い裏切り方をされたのかもしれないし、もしかしたら幼い頃に仲良くしていた子供たちに、なにかのきっかけで集団無視されたのかもしれない。
固定観念を植え付けた張本人にも、その考えにいたった事情がかならず存在するんですよ。
ようは、「自分に固定観念を植え付けた相手も、固定観念に縛られている」ということです。
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