それでは、これから瞑想に取り組むにあたって、心とは何かについて考えてみましょう。
例えば瞑想をするためにリラックスして座り、体の力を抜いて目を軽く閉じ、外に向いていた感覚を体の内側に向けていきます。
次に、呼吸などに注意を向けて集中し、雑念を追い払おうとします。
しかし、最初は呼吸に集中していたとしても、しばらくすると、「明日仕事で必要な書類あったな」とか、「あの用事を片付けておかなきゃ」「今日のご飯は何にしようかな」などと考え事が始まってしまいます。
瞑想を始める前、私はよく「10分ぐらいは考え事を止めてみましょう」と生徒さんにお伝えしています。
しかし、10分間座ってみると、実際はなかなか集中することができず、すぐ考え事やいろんなイメージの想起が始まってしまうことに気がつきます。
これはなぜでしょうか?瞑想を始める前は「よし、10分ぐらいは考え事を止めよう」と思っているのに、なぜ心の動きをなかなか止めることができないのでしょうか。
はじめに結論から申し上げると、心はあなたのものではないからです。心はあなたの意志に反して勝手に動いています。
私がこうお話しすると、多くの方が府に落ちない顔をされます。しかし、それは正直な反応だと思います。
私たちは生まれてからこれまで、色々な考え事をしたり様々な選択をして、喜んだり悲しんだり悩んだりしてきました。
このような心の働きが私のものでないとするなら、私とは一体何なのでしょうか?これが瞑想の最初の問題です。
ヨガの教えでは、この「私とは何か?」を理解することが悟りだとされているからです。私とは何かでは、「私とは何か?」について考えてみましょう。
例えば「私」、つまり人間を全体で考えてみると、大きくは二つの要素があることが分かります。心と体ですね。
体は目に見えるもの、心は目には見えませんが何かを欲しがったり考えたりする精神的な働きです。この二つ、体と心は私たちにとって全く自分らしいものです。
朝起きて顔を洗うとき鏡で見ているこの顔、お風呂などに入った時に見る体、これらはまさしく私そのものでしょう。
そして、特に心はそうではないでしょうか。
心が働くとき私たちの中では「私は今考えている」「私はこれが欲しい」「私は怒っている」このような印象が常に生まれています。
しかしヨガの教えでは、この二つは私ではないと考えるのです。では何が私かと言えば、心や体を認識している「意識」が私なのです。
一般的な心理学では、意識は心の一つの状態だと考えられています。しかし、ヨガの教えでは心や体を見ている意識が私の本質であり、心がその中で働いていると考えます。
この心や体を見ている意識を、特に心と関わりのない純粋な意識状態を純粋意識と呼びます。ここが一般的な心理学とヨガの心理学の大きな違いです。
ヨガではこの純粋意識が私の本質であり、心や体は見られている対象物にすぎないと考えるのです。しかし、なぜ体も心も私ではないと言えるのでしょうか?この点についてもう少し考えてみましょう。

コメント