前の章では、心を欲望・思考・智慧の三つに分けて考えてきましたが、次は瞑想の主なテーマとなる思考についてより詳しく考えていきましょう。
日常的な思考の働きを観察してみると、大きく二つの性質があることが分かります。一つは分析すること、もう一つは比較することです。
例えば、仕事などで何か問題が起きたとき、「この問題を解決するにはどういう方法があるだろうか」と分析したり、買い物をするとき「さっきのA店よりこっちのB店の方が安いな」というように、何かを比べたりします。
こういった思考の働きは日常生活の中で頻繁に起きています。このように、思考の働きは私たちの生活に必要不可欠なものですが、一方で思考は様々なストレスも引き起こしています。
まずは、思考が起こす問題について具体的に考えてみましょう。
思考は自分の思い通りには動かない
「心は私ではない」という点についてはすでに何度かお話ししていますが、もう一度この問題について考えてみましょう。思考は自分の意志に反して勝手に動いています。
私たちは必ずしも考えたい事に対して自由に考えることができるわけではなく、考えたくない事に対しても思考は引き寄せられてしまうのです。
例えば、仕事で頼まれていた発注をうっかり忘れて上司に怒られた場合を考えてみましょう。
もちろん、悪いのはうっかりしていた自分ですから、「私は忘れっぽいから、ちゃんと指示されたことをメモしてディスクに貼っておけば良かった」というように原因を分析して、また同じことが起こらないように反省することができます。
さて、本来は反省すればそこで思考の役割は終わりですが、思考はなかなか止まってはくれません。
「上司はきっと自分のことを仕事のできないやつだと思っているだろう」「なぜちゃんとメモしておかなかったんだ」「自分の発注ミスのせいで現場に迷惑をかけしまった。現場の人は自分に腹を立てているだろう」など、様々な後悔や憶測が起きてきます。
こういった思考は仕事が終わった後も、帰宅途中の電車の中や夕食の間、寝る前などにも度々生じます。また数日間は事あるごとに思い出されたりします。
別の例を考えてみましょう。大好きだった恋人と別れてしまいました。仕事が忙しくてなかなか会う時間が取れなかったり、趣味の違いでケンカした事など、原因はたくさんあります。
このようなとき思考は、「ちゃんと会う時間を作れていれば別れなかったのかな」とか、「相手の趣味にうまく合わせておけばケンカしなかったかも」「本当は別に好きな人がいて、自分のことなんかそんなに好きじゃなかったんだ」などといろいろ理由を考えます。
こういった思考も自分ではなかなか止めることができません。恋人のイメージが浮かぶごとに考え込んでしまって、苦しくなってしまうことがあります。
思考の働きの一つの問題は、このように自分では「もう考えたくない」と思っているにもかかわらず、思考はその対象に引き寄せられて勝手に考え事を始めてしまい、自分ではその動きを止めることができないという点です。
これは「分析する」ときだけではなく「比較する」場合にもよく起こります。
例えば、会社で仕事をしていると「この人は仕事が早くて優秀だな」とか「この人は仕事が遅いしミスも多いな」というように、同僚を見るといつのまにか自分と比較していることがあります。
あるいは、ママ友で集まったときなど、旦那の年収や持っている車の車種、子供の学力などをいつの間にか比べて、嫉妬したり見下してしまったりすることがあります。
このように、見たら比べてしまうという思考の働きも、一見自発的に行っているように思われるかもしれませんが、実は反射的なもので、思考が自分の意志に反して勝手に比較を行なっているのです。
こういった比較によって、必要のない劣等感に悩まされたり、優越感を得るために無理をしなければならない事もあります。誰だって、他人と比べて嫌な思いなどしたくないと思っているでしょう。
しかし、心は勝手に比較を始めてしまい、場合によっては大きな悩みを引き起こしてしまうのです。
思考の作りだすストーリーには臨場感がある思考が作り出す様々な印象は、考えている間はそれが実際に起こったり、真実であるかのように感じられます。
例えば、電車に乗り遅れて会社に遅刻しそうな場合、上司に怒られたり、同僚から非難されるといった場面を映像のように見ることがあります。
こういったイメージが起こるとき、それは非常に臨場感があり、あたかもそれが現実に起きているように焦りや不安を感じています。
しかし、これらのイメージは頭の中で作り出した幻想にしかすぎません。つまり、上司や同僚が怒ったりするかどうかは、実際に会社に着いてみないと分からないからです。
このように、思考は事あるごとに様々なストーリーを作り出し、私たちの意識にその印象を投げかけています。日常生活の中でよく起こる問題は、こういった思考が作り出すストーリーが原因となることが多いのです。
具体的に考えてみましょう。
例えば、会社の入り口で同僚のAさんに会ったので挨拶しました。いつもは普通に挨拶を交わす仲なのに、今日はなぜか無視されてしまいました。
すると思考は、「Aさんに嫌われているんじゃないか」「私のことをなナメてるんじゃないのか」と考え始めます。さらに、「Aさんに嫌われるようなことを何かしてしまったかな」と思考は加速していきます。
そして、「Aさんが私のことを嫌いなら、次は私もAさんに冷たく接してやろう」と考えたりします。Aさんがなぜ無視したのかは理由を聞かなくては分かりませんが、単に聞こえなかっただけかもしれません。
しかし、思考が「私はAさんに嫌われている」というストーリーを作れば、それは私にとっての一つの現実となります。そして、Aさんに実際に嫌われたかのように怒りや不安が起きてくるのです。
このように思考の働きのプロセスを見たとき、私たちが怒りや不安を感じる主な原因はその事実にあるのではなく、思考の働きの方にあることが分かります。
この場合、事実は何でしょうか。「Aさんに挨拶をしたけど返事がなかった」という事だけです。
しかし、思考が「私は嫌われている、ナメられている」と考えたとたん、事実に思考が作り出したストーリーが加わります。このように、私たちは常に思考のフィルターを通して世界を見ています。思考が作り出した世界で、私たちは喜んだり悲しんだり怒ったりしているのです。
ですから、私たちがこれから瞑想で取り組むのは、できるだけこの思考のフィルターを外していくことなのです。思考が作り出すストーリーさえなければ、私たちが悩んだり苦しんだりする必要はなくなるからです。
思考が作り出す印象はそれほど正確ではないさて、ここまでお話ししてきたように、思考は日々様々なストーリーを作り出しています。
しかし、思考が作り出すストーリーはそれほど正確ではありません。
例えば、新しい仕事の面接などを受けるとき、初めて訪れるその場所をあれこれ想像した経験はないでしょうか。
オフィスはこんな感じで、面接する人はこんな人で、こんな事を聞かれるだろうというように、頭の中ではまるで実際に面接を受けているような映像を見ます。
しかし、実際その場に行ってみるとどうでしょう。頭の中でありありと想像していたその場面が、全く違っていたという経験をしたことがあるのではないでしょうか。頭の中で思い描いているイメージは、それほど正確ではないからです。
また、恋人とデートの約束をしたとき、数日前からその日の出来事や相手の反応などを色々と想像してワクワクしたり楽しくなったりすることがあります。
しかし、当日になると、天気が悪かったり、予定していたお店が閉まっていたり、喜んでくれると思っていたのに相手の反応が悪かったりして、がっかりしたり不安になったりした事はないでしょうか。
このように、想像した事と実際に起きた事を注意深く観察してみるなら、その多くが思考の作り出した幻想であって、実際は思い通りにならないということがよく分かります。
瞑想に取り組むにあたって、思考が作り出す印象の不確かさについて理解しておくことはとても大切です。もしあなたの思考がいつも未来を正確に予測しているなら、私がこのように瞑想をすすめる道理などあるでしょうか。
もし思考が十分に信頼できるのであれば、私は次のように助言するでしょう。
「よく考えれば必ず答えにたどり着きますよ。問題が起きたらできるだけ注意深く、そして長い間考え続けてください。そうすれば問題は解決するのですから」しかし、そうではないことが分かれば言い方は変えなければいけません。
「できるだけ考える時間を減らしてください。思考が作り出す印象は結局は当てにならないし、あなたを疲れさせるだけなのですから」このようにお伝えするでしょう。
では、一体どちらの立場が正しいのでしょうか。このことは、これから瞑想を始めようとする皆さん一人一人が実際に自分の思考をよく観察してみなくてはいけません。
私は経験上、自分の思考がいつも手当たり次第、好き勝手に想像を繰り返し、私を喜ばせたり悲しませたり不安にさせたりして疲れさせてしまうこと、かといって実際に起こる事と言えば、全く彼の言う通りにならないということを良く知っているのです。
ですから、皆さん自身が自分の思考の声に従ったとき、少なからずそれらが期待外れであったり、ぬか喜びさせられたり、起きもしない事で不安にさせられていることに気がついたなら、そこには瞑想をする意味があります。
つまりそのとき、「思考の言う通り心配したところで、全く当てにはならないのだ。だから、問題が起きるまでは考える事をやめて、問題が実際に起きたときにどうするか考え始めればいい」と思えばよいからです。
もちろん、私の思考が信頼できないと言ったところで、皆さんの思考まで信頼できないと決めつけてしまえば、それはいささか乱暴でしょう。皆さんの思考は、正確に予測を的中させるかもしれません。ですから、この事はご自身で観察してみなければいけません。
そして、「思考の働きは自分の心を騒がせているだけだ」ということに気がついたなら、初めて瞑想をする意味が分かってくるでしょう。
思考は決めていない思考は日常的に比較や分析を行なっていますが、私たちが行動するときは、欲望や智慧の働きの方により強く影響されています。
特に人生の岐路に立つとき、自分がどの方向に進もうとするかを決めているのは智慧の働きが大きいのです。
思考はいつも何かを分析したり比較したりしているので、私たちが行動を起こそうとするとき、「思考によって私は行動している」と思いがちです。しかし、実際はそれほど大きな原動力は持っていないのです。
例えば、道を歩いているとラーメン屋さんがあります。そこには美味しそうなラーメンの写真が貼ってある看板と、いい匂いがしています。すると、欲望はそこにグッと引き寄せられ、「美味しそうだな、食べてみたいな」という衝動が起こります。このような一連の心の動きの中で、思考はあまり関係がありません。
むしろ、このように欲望が動いた後、「写真は美味しそうだけど値段が高いな」とか「今はあまりお腹が空いていないから今度食べに来よう」というように比較や分析が始まれば、それは思考の働きです。
つまり、行動するかどうかの動機づけは欲望にあって、思考はその状況を分析して判断しているにすぎないのです。
また別の例について考えてみましょう。ピアノコンサートに行きました。
演奏が素晴らしくとても感動し、「自分もあの人と同じようにピアノを弾いてたくさんの人を感動させたい」と思います。このように、感動したり何かをやってみたいと胸の内で決意するときも、思考の働きは関係がありません。
考えて感動したり、決心することはできないからです。感動は何かを見た時や聞いた時、自然と胸の奥から湧き起こってきます。
決心する時も、様々な迷いや不安が起こったとしても「よし、色々不安はあるけれど、これでやってみよう」と心の奥底で頷く何かがあるのです。これは智慧の働きです。
以上のように考えたとき、もちろん思考が何も決めていないと言うことはできませんが、多くの場合行動原理にはなっていないし、問題に対して様々な想定を繰り返して悩んでいるだけのことが多いのです。
このような傾向は、恋愛などで特に顕著ではないでしょうか。
例えば、恋人とケンカをして、この先一緒にいるか別れるか悩んでいます。このようなとき、思考は様々な想像を始めます。
「別れ話をしたら相手は引き止めてくれるだろうか」「我慢して何事もなかったように接したら上手くいくだろうか」「この人と別れたら自分はどうなるだろうか」このように四六時中考えたとしても、別れるかどうかという決断をすることはできません。
しかし、電話で話したり実際に会って相手の反応を見てみると、「もうこの人とこれ以上一緒にいるのは無理だ」とか「やっぱりこの人と一緒にいたい」ということが直観的に分かったりします。
このように相手の反応を見て決心が起こるまでは、私たちはただ悩むだけで行動することはできないのです。
以上のように考えると、多くの場合私たちは直感的に自分の人生の道筋を決めていて、思考はそれに対して様々な比較や分析をしているに過ぎないということが分かります。
例えば、何か人生の選択を間違えたと思って後悔することがあるでしょう。
「あのときあの人と別れなければ、今頃結婚して子供も二人ぐらいいたのに」とか「あのとき思いつきで会社を辞めてなければ、今こんなに苦労することはなかったのに」と考えます。
このように、何かに後悔するということは、自分の人生は思考の選択で自由に変えることができると思っているからです。
しかし、人生の選択は智慧が行っていると思えば、智慧の働きは思考では捉えられないものですから、私たちは智慧の選択を信じてそれに従うことしかできないと考えることもできます。
結局、このような後悔は思考が作り出す幻想なので、ただ自分を苦しめているだけなのです。こういった過去の過ちなどについてずっと悩むことは、小さな子供が積み木の玩具で遊ぶようなものです。
子供たちは、積み木で一つの形を作ったら壊して、次は別の形を作っては眺めて楽しみます。そして、寝る時間が来れば一旦全ての玩具を片付けて、翌日またそれを広げて同じように遊びます。
同様に、私たちが悩んでいるとき、思考の力によって悩み事の形や見る角度を少しずつ変えて眺めながら怒ったり悲しんだりしていますが、本質的に問題を解決しようという意志を持ってはいないのです。ですから、このような思考は私たちをただ消耗させているだけであり、できるだけ止めた方が良いのです。
さて、以上で思考の問題について学んできました。今度はそれをどのように止めるかという点について考えいきましょう。ここからが、瞑想の実践的な方法になります。
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