この章では、ヨガの経典『ヨーガ・スートラ』を読み解きながら瞑想について考えてみましょう。
経典というと非常に長いものを連想してしまいますが、実際は195節しかありませんから、それほど長いものではありません。
さて、この本を開いてみると、冒頭から「ヨガとは何か?」という主題が述べられています。それでは、ヨガの解説を始めよう。
ヨガとは心の動きを止めることである。そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。その他のときは、心の働きと同一化している。〔1章1~4節〕
非常に簡素ですが、これが『ヨーガ・スートラ』で説明されているヨガの目的です。
ヨガの目的が心の動きを止めることだと言われると、「一体何を言っているんだろう?」と思われる方が多いでしょう。
しかし、これまで学んできた二つの点、心は自分の本質ではなく勝手に動いているもの、そして、心の作用の一つである自我意識が様々な対象を私と同一化して悩んだり悲しんでいるということを考えれば、私たちの苦しみの原因は心にあり、心の働きそのものを制御することで私たちは苦しみから解放されるということが理解できるでしょう。
さて、この「心の働きを止める」ということですが、これは二つの意味で考えることができます。
一つは、心を一点に集中して余計な動きを止めること。もう一つは、心そのものの働きを止める、つまり心を失くしてしまうという意味です。
一点に集中することについては、瞑想の実践の章ですでに学びました。
呼吸などに集中して余計な思考を止めること、また、本を読むとか料理をするなど、思考をある対象に集中して悩み事などを想起しないようにするということでした。
二つ目の心そのものの働きを止めることに関しては、自我意識の章で学びました。「私」からあらゆる対象を離して、心の働きそのものを制御するのです。対象がないものに対して心が働くことはありません。
このように瞑想を深めていけば、心には一切の対象はなくなり、心の働きは完全に消えてしまいます。次に、「見る者はそれ本来の状態にとどまる」という点について考えてみましょう。
これまで、意識・心・体の三つの要素について考えてきましたが、この意識が「見る者」です。これをプルシャ(純粋意識)あるいはアートマン(真我)と呼びます。
一方で、心や体は「見られるもの」です。これはプラクリティ(根源物質)と呼びます。私たちの意識は通常、心を通して「見られるもの」と密接に繋がっています。
4節に「その他のときは、心の働きと同一化している」とあるように、意識が心を通して私を認識するとき、私は心の形を通して現れます。
「これは私の意見だ」「これは私の体だ」「これは私の仕事だ」「これは私のお金だ」というように、心の働きを通して私を認識することになるからです。これが私たちの苦しみの原因であるとヨガは考えているのです。
したがって、心の働きを止めてしまえば、つまり、心を通して世界を見ることをやめてしまえば、意識はそれ自体の状態にとどまり、世界に苦しみはなくなってしまうのです。
苦しみはアートマンである
「私」に起きているわけではなく、心に起きているだけだからです。ですから、瞑想をするときは、意識が心を見なければ苦しみは何も起きていないという点を良く理解して瞑想に取り組むようにしましょう。
また、『ヨーガ・スートラ』は次のように述べます。見る者と見られるものとの結合によってあらゆる苦しみが起きているので、この結合を切り離さなければならない。無知(アヴィディヤー)によって、この結合は起きている。この無知は、絶え間ない識別(ヴィヴェーカ)によって取り除くことができる。〔2章17、24、26節〕
無知とは、私の本質に気付かず、苦しみの原因である「見られるもの」(心や体)を私だと思い込んでいる状態です。この無知を取り除くためには識別を行う必要があります。
つまり、『ヨーガ・スートラ』で述べられているヨガの目的は、「私と私でないもの」を識別し、それらの結びつきを切り離し、「見る者」がそれ本来の状態に戻ることなのです。
しかし、心の働きを止め、この「見る者」をそれ本来の状態にとどめておくことに一体どんな意味があるというのでしょうか?次の章で考えてみましょう。
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