悟りたいという願望を捨てる
この章では、瞑想を行うときの注意点についてお話ししたいと思います。
繰り返しお伝えしておきたいのは、私たちの本質であるアートマンはすでに至福であり、悟っているという点です。この至福や悟りは私たちの本質である意識に本来備わっているものなので、これから手に入れるものではありません。
ですから、何も期待せずに、悟りたいという願望すら捨てて瞑想に取り組む姿勢がとても大切です。あなたはすでに最高の至福と悟りを得ているので、これ以上何も求める必要がないからです。
しかし、瞑想をすると聞くと、「瞑想を続ければいつか悟りが開ける」とか「瞑想によって神秘体験をすれば人生は一変し、至福が得られる」という印象を持つ方が少なくありません。
実際、これは大きな障害なのです。このような願望を持って瞑想するなら、心は何かの体験を探し続け、至福を感じるどころかひどく落ち着かない時間を過ごすことになるでしょう。
私は、瞑想にそのような神秘体験が全くないと言っている訳ではありません。
しかし、神秘体験によって「私は悟った」というように自己顕示欲が強くなってしまったり、あるいはその願望によって心が乱れてしまうことに対しては十分に注意を促しておきたいのです。
そのような神秘体験の誘惑から、かえって道を踏み外す人が非常に多いからです。瞑想に取り組むにあたって、この点は特によく理解していただきたいと思います。
私たちの本質であるアートマンが至福であると言うとき、そこには何も条件を必要としません。
もしこの至福にとどまること、つまり悟りに修行や体験が必要であるなら、悟りや至福が条件付けられてしまうことになります。
アートマンにおいては、ある体験の間は悟っており、その体験が終われば悟りがなくなるということは認められません。アートマンは変化せず、ずっと存在しているからです。
ですから、本質的には私たちが悟るために努力をする必要はないのです。むしろ、悟りに様々な条件を持ち込むことで、結局はその人自身の束縛を深めてしまいます。
また、様々な修行や神秘体験によって「私はこれだけの修行をしたぞ」「私はこんな経験をしたので悟りました」といった自己主張や、「あなたの体験している至福は本物ではない」とか「あなたの悟りは正しくない」といったような論争の種を植えることになります。
結局、体験はいずれ失われてしまうものなので、このような経験に執着したり期待してはいけません。
「私はまだ悟れていない」「あんな体験が起きないと悟りとは呼べない」という迷いを捨てて、私の本質はすでに悟っていることを理解して瞑想するべきです。
瞑想はとにかく、波のように揺れ動く心を意識に映さない努力です。
本来は至福であるアートマンであっても、心を見ればそこにある様々な問題と自分の見分けがつかなくなってしまいます。このように悩みや苦しみが起きているのです。
私たちは本来皆が悟っており至福であるのに、意識に心が映っているので「私はまだ悟っていない」とか「幸せになりたい」と思うのです。
この点によく注意して瞑想に取り組んでみてください。
心の制御に取り組む「意識に心が映らないなら、私は至福である」というお話をしてきましたが、一方で自分自身の心の性質を変えていくことはとても大切です。
瞑想でどんなに至福を体験したところで、日常の生活に戻って心を通して世界を見るなら、そこに様々な問題が生まれてくるからです。
もちろん、ずっと瞑想をしていれば問題はないわけですが、社会生活をおくるためには心で世界を見なければなりません。
ですから、瞑想をするだけでなく、心を識別し、心の働きを制御するという努力もしなければなりません。
この点について『ヨーガ・スートラ』では、繰り返し取り組むこと、諸々の執着の対象から離れることが大切であると述べています。
心の働きは、アヴィアーサ(繰り返し練習すること)とヴァイラーギャ(執着から離れること)によって止めることができる。
アヴィヤーサは、繰り返し心の働きを止めようとする努力の事である。アヴィヤーサを注意深く長い間、休みなく行うなら、瞑想のためのしっかりした基礎ができる。
ヴァイラーギヤとは、見たり聞いたりした対象へ執着しないことである。
自分がプルシャ(純粋意識)であると悟り、物質に対する執着から完全に離れたとき、それは最高のヴァイラーギヤとなる。〔1章12~16節〕
心の識別や制御は、このように繰り返し注意を払い少しずつ心の性質を変えていくこと、そして、できるだけ執着を手放していくことが大切です。
つまり、あれこれとすぐ考えてしまう心の働きを抑え、考えるべき事だけに集中するのです。
お伝えしたいことは、心の支配とは地道なものであるということです。
また、私を心や体などの様々な対象と同一化せず、アートマンである私から何か失われるものはないと念想して、少しづつ不安を取り除いていくのです。何かの体験によって心の性質が一変するということはありません。
まず自分の心の性質をよく知り、「あ、また勝手に人と比べていた」とか「今、悩みに支配されたてな」というように、気づきを繰り返しながら修正していく必要があります。私は心の主人であり、召使いではありません。
例えば、あなたが何か悩み事を抱えていて、ずっとそれに苦しめられているとすれば、あなたは心に支配されているのです。そうではなく、あなたが心を支配しなければいけません。
必要でないと思えば、すぐその思考から離れたり、必要な思考に対しては一心に集中したり、心を自分の意志で自由に使えるように練習すべきです。
まだ何も制御されていない心は小さな子供のようなもので、あっちに行って笑ったりこっちに行って泣いたりと、あわただしく動いています。
それを、きちんと座って一つの事に集中できるように、自分自身の心を指導していかなくてはいけません。これは、あなたがこの人生で取り組むべき最大の仕事でもあります。
この課題に果敢に取り組んでいただきたいと思います。
また、思考は瞑想によって単に止めておけば良いというものではなく、その思考のエネルギーを何に差し向けるのかということも大事なことです。
心の性質の章で愛や直観などの智慧についてお話ししましたが、こういった智慧の実践、つまり他者貢献や自分の直観にしたがって行動することに思考のエネルギーを使うことも大切です。
智慧には苦しみが伴うこともあるというお話しをしましたが、あなたがこの苦しみを乗り越えてでも実現したいという目標があるのなら、それは価値のあることです。
一方で、欲望の対象だけに思考を使ったり、過去の事をずっと思い悩んだり、他人にどう思われているかなどと心配すること、このような馬鹿げたことだけに思考のエネルギーを無駄使いしてはいけません。
悩み事に使う思考のエネルギーも、智慧のために使う思考のエネルギーも、結局は同じものだからです。
「これは私が本当に考え続けるべき事だろうか?」という観点でよく思考を吟味し、あなたが本当に有益だと思うことだけに使うように心がけてみてください。
おわりに
心地よい姿勢で座り、意識を呼吸などに向けて集中し、「私は心でも体でもなく永遠不変のアートマンであり、苦しみはなく、常に至福である」と念想するとき、たとえ世界でどんな問題が起きていようと、あなたに不安や苦しみが起きることはありません。
しかし、あなたの意識が心に目を向けて、心を通して世界を見るなら、そこには数々の悩ましい問題、苦しみを見出すでしょう(もちろん、喜びもありますが)。
そして、あなたは思考を使ってその問題をさらに深刻にするか、あるいは解決するか、いずれにしろ一つの問題が片付いたら、また次の問題を探しに出かけるのです。
私は、このような心の旅が、価値のないものだと言うつもりは全くありません。喜んだり悲しんだりすること、これが人生の面白さであるとも言えるでしょう。
しかし、もしこの旅に疲れたら、そろそろ旅を終えて家路についても良いのかもしれません。これが、瞑想を始める最初の動機となるでしょう。
そして、あなたが帰る家とは、もちろん自分自身の内側にある至福のことです。
瞑想の実践STEP1~3は、一度行えばそれを習得したというものではなく、繰り返し何度も行う必要があります。そして、日常生活の中で、特に嫌いな人や苦手な人と関わるときほど自分の心の性質に気が付くことでしょう。
誰かに言われた一言が頭の中にこびりついて離れなかったり、自分の犯した失敗が何度も想起されるようなとき、むしろ積極的に瞑想に取り組み、それらの印象を意識のスクリーンに映し出さないように練習しなければなりません。
このような苦境においてしっかり瞑想することができれば、日常の些細な思考の働きなど容易く止められるでしょう。瞑想は、単に長く我慢して座っていれば良いというものでもありません。
たとえ2~3時間集中して座っていることができたとしても、瞑想の後、あなたの心が誰かの言ったことに腹を立てたり、色々と心配事を始めたりするなら、まずは自分の心そのものに目を向けてみた方が良いでしょう。すでにお話しした、ヴァイラーギヤ(執着から離れる)を心掛けてみてください。
心が制御され様々な執着から離れ、常にあなたが心に惑わされなくなっているなら、瞑想はすでに確立されており、わざわざ座る必要はありません。
悟りについて、最後にもう少し付け加えておきたいと思います。
『ヨーガ・スートラ』が述べているのは、「あなたの本質はすでに悟っているので、あなたの平安を乱す心の働きさえ止めてしまえば、いつでもどこでも至福を実現することができる」ということです。
ですから、私たちが悟るために努力する必要は一切ありません。しかし、心を制御するためにはあらゆる努力をするべきです。これを逆に考えてはいけません。つまり、悟るためにあらゆる努力をし、心を制御しないということです。
もしこのような努力を続けてしまえば、瞑想やヨガの練習の中に様々な願望や欲望を持ち込むことになるでしょう。制御しなければならないのは、むしろその心の方です。
心が制御されれば、至福は自然と訪れるのです。それでは、これで今回のお話しを終わりにしましょう。最後までお読みいただきありがとうございました。本書が皆さまの日常に少しでも平安をもたらすものであれば幸いです。
岡本直人
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