上司の何気ない言動が部下の士気を落としているHRビジネスパートナーであるサカモトが対象にするのは、大日本エレクトロン出身の社員だけではない。ノルウェー・モバイルにもとからいる社員のエンゲージメントを高めることも、彼の重要な使命である。「サカモトさん。ちょっと相談に乗ってくれないか」ある日、調達ディレクターの桐山卓がサカモトのもとにやってきた。「ええ、もちろんですよ。どうされました?」「実は、物流課長の坂東のことなんだが。彼は、いわゆる鬼上司で、部下にやたらと厳しいんだ」「ほう、今どき、ちょっと珍しいですね」「うん。まあ、必ずしも悪いことではないかもしれないんだが。でも、彼の部下である物流課の課員たちと飲みに出かけたりすると、彼らはしょっちゅう坂東の悪口を言っては、私にどうにかしてくれと不満をぶつけてくるんだ」「なるほど。それは少なくとも、エンゲージメントの部分で問題が起きていますね」「どういうことだい?」「社員がいきいきとよい仕事をしている状態をエンゲージメントが高いというのですが、社内外で自分の会社や仕事のことをよく言っているか、それとも愚痴や文句ばかり言っているか。これはエンゲージメントを端的に示す指標の一つといわれています」「なるほど。確かにそうだな」「上司の前では従順でいながら陰では不平を言う、いわゆる面従腹背もエンゲージメントが高いとはいえません」「うん。今回のケースは、まさにそれだな」「それと、自分に求められている期待水準以上に頑張ろうと思っているかどうかも大切です」「なるほど。単に役割を果たしている、というだけではダメなんだ」「そうです。ただ命じられたことや役割定義に書かれていることしかしないという人の集団は、組織としてエンゲージメントが高いとはいえません」「そうそう、その点も気になるんだよ。坂東は時々部下たちを指差して、『お前たちは指示待ち人間だ』と怒ることがある。それに、課員たちはいつも、どことなく疲れた顔をしていて、お世辞にもいきいきとよい仕事をしているようには見えない」「そうですか。では、私が物流課に行って、皆さんの働き方を見せていただくことにしましょう」その日からサカモトは、一日に何度か物流課を訪れては、坂東課長と課員たちの行動を観察し始めた。まず一週間見て驚いたのは、全員の労働時間の長さである。課長はもとより、誰も夜遅くまで帰らない。「これでは疲れるはずだな」サカモトはつぶやいた。もっと突っ込んだ事情を知るため、彼らにインタビューしたい。そう考えたサカモトは、課員たちが週に一度、定時後に行っているQC(業務改善)活動の時間をもらって、話を聞いてみることにした。「先日の全社ミーティングでもお話ししたように、私の役目は、皆さんが今よりももっといきいきと働くことができ、かつ良い仕事ができるよう、あらゆる支援をすることです。そのため、きょうは皆さんに物流課の状況を、深く突っ込んだところまで伺いたいと思っています」課員たちは黙って顔を見合わせる。「きょう伺うお話は、あくまでオフレコ(内密)扱いにします。坂東課長はじめ他の管理職の方々に、皆さんのうち誰が何を言ったかわかるようなことはありません。ですから、安心して何でも話してください」課員たちの表情が、ようやく緩む。「それにしても皆さん、毎日夜遅くまで大変ですねえ。そんなにお仕事が忙しいんですか?」すると、課員の一人がおずおずと、こう切り出した。「うーん。いや、ノルウェー・モバイルはまだ日本ではシェアも低いので、物流課の仕事も本当はそれほど多いわけではないと、私は思っているんです」「私も」「まあ、そうだよな」他の課員たちも同意する。「そうなんですか。いや、それでわかりました。実は各国のノルウェー・モバイルの間で、物流課一人当たりの物流量を比べてみると、日本の数字はあまり高くはないんです(図2-1)」サカモトが言うと、課員たちは苦笑しながらうなずくそぶりを見せた。
「でも、皆さん労働時間は明らかに長いですよね。これは、どうしてなんでしょう?」「まあ……最大の原因は、単に帰りにくいからかなぁ」課員の一人が言う。すると別の課員が、「そう。たまに何かあって早く帰ると、課長がジロリと睨むんだよなあ」とこぼした。「そうそう。あの目、かなりキツいよね」「俺なんか、『ずいぶんとよいご身分だな』なんて言われたことがある」「帰り際にそんなことがあるくらいなら、課長が帰るまでは会社にいようと思ってしまうんです」「なるほど。課長が嫌子を使ってしまっているわけか」サカモトは言った。「ケンシ?何ですか、それは?」「えー、それは、あとで説明させていただきます。しかし、会社に長くいても、仕事はそれほど多いというわけでもないんでしょう?」「ええ……とはいえ、何かしていないと怒られますから、ともかく課長が帰るまで何らかのことは、やっています」「たとえば改善活動とか?」サカモトが聞くと、皆は顔を見合わせた。「改善活動は……やっています。いや、本当にやっているといえるのかどうか……」「どういうことですか?」「坂東課長は、私たちがQC活動をしないと怒るのですが、一方で、私たちが考えた改善策をやってみようとすると、『そんなことをするな』と怒るんです」「なぜですか?」「わかりません……」「そうですか。しかし、活動しないと怒られる、けれど活動から得られたアイデアを実行しても怒られる、というのでは、皆さんもなかなか動きようがないですね」「そう。そうなんです。一度、課長と話してみてもらえませんか?」サカモトは、坂東課長と次の日に話してみることにした。「きのうのミーティングでは、何か話は聞けたかね?」坂東課長は開口一番、サカモトに尋ねた。「ええ。皆さん、とても率直にお話しいただけました」「あの指示待ち集団が?ほう。普段はこっちが何か言わない限り、発言もしなければ行動もしないのに」「そうなんですか。課長もご苦労が多いですね」「そうだよー。わかってくれよう」坂東は少し嬉しそうに言った。サカモトは冗談めいた口調で、「ところで坂東課長は、桐山ディレクターによれば、いわゆる鬼上司なのだそうで」と尋ねた。「はっはっは。別に、わざと鬼になっているわけじゃないよ。だって、そうしないと連中が動かないんだもの」「そうですか。全然、動かないんですか?」「全然だね」「……それも、ちょっと変じゃないですか?」「どうして?」「皆さん、一定以上の経験者ですよね?」「そうだけど」「まったくの新人や素人なら、指示されないと動けないというのはわかりますが、かなりの経験がおありなのに動かないというのでは、やる気に問題があるのではないですか?」「いや、彼らには、やる気はあるよ」「そうでしょうか。坂東課長のお話を伺っていますと、いっそ全員を入れ替えてしまったほうがよいのではないかという印象も受けますが」サカモトが人事関係の人間であることを思い出した坂東は、慌てて否定した。「何を言っているんだ君は。彼らは毎日遅くまで働いているんだ。QC活動だって休まずやっているし。やる気に問題があるなんて、失礼だぞ」するとサカモトは、にっこり笑って、「そうですか。それは失礼しました」と謝った。「坂東課長は、鬼上司とはいっても、皆さんのことを信頼していらっしゃるんですね」「ま、まあね。彼らは、ほんとに頑張っているよ。……それで、サカモトさんは、彼らと話をして、どう思ったんだ?」「そうですね。確かに坂東課長のおっしゃる通り、皆さん毎日遅くまで働いていらっしゃることは間違いないようで。ですが、皆さん、どれだけいきいきと働いていらっしゃるのかなあと、その点がちょっと気になりました」サカモトがそう言うと、坂東はぐっと返事に詰まってしまった。「エンゲージメントというのですが。坂東課長は、課の皆さんがいきいきと働き、よい仕事をするために、どのような工夫をされていらっしゃいますか?」
すると、坂東は、ますます困った顔になってしまった。「うーん。それは……」「私は、坂東課長が仕事熱心で部下思いの方だとお見受けしたので、あえて率直に言わせていただこうと思いますが、聞いていただけますか?」「う、うん」坂東は、今やすっかり恐縮の体でうなずいた。「少し専門的な話になりますが、坂東課長は、皆さんが夜になって帰ろうとするのを、嫌子で弱化してしまっているのです。皆さんが遅くまで会社にいるのは、そのためだと思われます」「嫌子で弱化?」「はい。詳しいことはあとでご説明しますが、坂東課長は、皆さんが帰ろうとすると不快感を表して、帰りにくい雰囲気を作ってしまっているようなのです。この『不快感を表す』といったことが、一種の嫌子なのです」「つまり、人が嫌がることという意味か」「いえ、行動分析学で定義している嫌子の意味は、そういうものではありません。ですがまあ、実務的には、とりあえずそう考えていただいても結構です」「そうか。じゃあ詳しい理論はあとで聞くとして、話を続けてもらおうか」「ありがとうございます。嫌子は一般的に即効性が高いものが多いので、それはそれで使うべきシチュエーションというのはあります。ですが、嫌子というのは、人をいきいきと働かせる方向には向かわないことが多いのです。たとえば課員の皆さんは、遅くまで会社にいるだけでなく、いる間は何かしら仕事をしていますよね。あれは、何かしていないと怒られるという、嫌子を用いた行動のマネジメントが働いているのです。ですが、そのとき、皆さんはいきいきと働き、自分たちの潜在能力をフルに発揮しているでしょうか?」「うーん。そうなんだよな。実は、それが私を余計にイライラさせていることでもあるんだ。何だかダラダラと無目的に働いているように見えて」「お気持ちは、わかります。でも坂東課長、それは一概に皆さんだけに原因があるのではないと、私は思いますよ」「こちらが、そうさせている部分もあるということか。……じゃあ、一体どうしたらいいんだ?」「嫌子と対照的なものに、好子というものがあります。具体的には、褒める、評価する、報酬を与えるといったことです。これを使ってみてはどうでしょう。たとえば坂東課長は、課の皆さんがよい仕事をしたときに、どれくらい褒めたり感謝したりしていますか?」「褒めたり感謝したりって……あまりしていないかな。特に感謝なんて、したことがないと思う。もちろん、心の中では、しているんだよ。でも、それを口にすることはないなあ。部下を甘やかしてはいけないと思うし、仕事なんて、やって当たり前だと思うし」「なるほど。日本の管理職の方々は、そういう考え方をすることって多いですね。まあ、それは価値観の問題かもしれないので、ここで是非は論じませんが。でも、マネジメントの技術として、そうした好子が組織を活性化するのであれば、やってみる価値はあると思いませんか?」「そうだなあ。なんだか照れくさいけど……いきなり叱るのを一切やめて、褒めるだけっていうのは」「嫌子の使用をすべてやめる必要はないですよ。さっきも申し上げたように、嫌子は好子よりも即効性が期待できることが多いので、何かを徹底したいときなどは、嫌子が有効です」「そうか。実は課でQC活動をしているんだが、それは課員の自主的な活動という位置づけなので、原則的に私はノータッチなんだ。でも、彼らが考えたアイデアには、一見してよさそうでも、あとでお客様に迷惑がかかったり、安全性に支障が出てしまったりしそうなものが多いんだ。だから、そういうことを始めようとしているのを見ると、つい『やめろ』ときつく言ってしまうんだが、それは別によいんだね?」「そう思います。まあ、理由はきちんとご説明されたほうがよいと思いますが」「そうか。そうだね。じゃあ、サカモトさんを信じて、やってみるか」「さすが坂東課長!」「今のセリフは、好子かね?」坂東はニヤリとして言った。それからしばらくして、「物流課は変わった」という評判が、社内で聞かれるようになった。坂東課長を「鬼の上司」と呼ぶ人も減り、代わって「頼れる上司」と言われることが多くなった。解説第1章では、好子を使った行動の制御について解説した。第2章では、もう一つの刺激「嫌子」を使った行動の制御について解説しよう。第2章は、鬼上司でならしていた、坂東課長率いる物流課が舞台である。調達ディレクターの桐山から、坂東の部下に対するマネジメントで相談を受けたサカモトが、現場を視察し、課員の行動を観察して第一に気づいたことは、物流課員の労働時間の長さであった。この、「労働時間が長い」ということ自体は行動ではない。時間は生き物ではないから行動しない。これは、問題(problem)にすぎない。問題を発見したら、次にすることは、この問題に関与している行動を特定することだ。そのためにサカモトはQC活動の時間を利用して、物流課員にインタビューしたところ、課員たちの答えは次のようなものだった。帰りにくい課員が早く帰ると、課長がジロリと睨む自分たちが考えたQC改善策を実行すると、課長が「そんなことをするな」と怒る1.問題の捉え方:標的行動の定義「帰りにくい」という問題問題はたいてい、漠然とした言葉で表現されることが多い。「帰りにくい」というのもその典型だ。行動を随伴性で分析するには、問題をもっと具体的な行動レベルに落とし込む必要がある。漠然とした問題を行動の言葉に翻訳する作業を「行動的翻訳(behavioraltranslation)」という。具体的に翻訳できたかどうかの目安は、その行動が観察測定できるかどうか考えるとよい。「帰りにくい」かどうかは、本人はともかく、他者が見ても判断は難しいから、観察測定できない。では、「定時に帰社しない」という翻訳は可能か?それでは、「行動とは死人ではできないこと」という行動の定義に反する。「~しない」という非行動は死人の得意技だからだ。したがって、正解は「定時に帰社する」である。そしてこの行動がなぜ起こらないのかを分析するのである。「課員が早く帰ると、課長がジロリと睨む」という問題この問題には、行動が二つある。「課員が早く帰る」という行動と、「課長がジロリと睨む」という行動だ。この二つは、このままで十分具体的な行動であり、行動的翻訳の必要はないだろう。この問題で考える点は、課員と課長のどちらの行動を分析すべきかということだ。判断の目安は、問題解決すべき行動は何かという点にある。ここで変えたいのは課員の行動だから、分析するのは「課員が早く帰る」行動である。「課員が考えたQC改善策を実行すると、坂東課長が 怒る」という問題この問題も、と同じである。それぞれ別の人間の、すでに行動的に翻訳されている具体的な二種類の行動のどちらを分析するか。この場合も、課員の行動である。2.随伴性ダイアグラムの書き方行動随伴性で分析するときに有効な道具は、第1章にも出てきた三つの箱である。直前、行動、直後の三つからなるこの箱のことを、私たちは随伴性ダイアグラムと呼んでいる。行動随伴性を図示したものという意味だ。このダイアグラムを使うと、行動の直前直後の変化が視覚的にわかりやすい。定時退社しないのはなぜか?:嫌子出現の弱化ダイアグラムを書く際は、左から順番にではなく、真ん中の「行動」から始める。「課員が定時に帰社する」または「課員が定時退社の準備をする」などと書
き入れよう。書き方にはある程度の自由度はあるが、行動を書き込む以上、動詞であること、しかも、動詞の原形で書くことを習慣づけたい。また、慣れないうちは、誰の行動を分析しているかを明らかにするために、主語もつけて書くとよい。次に考えることは、この「定時退社準備行動」が繰り返されている(増加する)のか、それともやらない(減少する)のか、という点だ。もちろん、部下たちは帰らないのだから、この行動は減少していると判断できる。行動が減少していることを視覚的に表すために、下向きの矢印をつけるなど工夫する(図2-2)。その次に考えることは、この行動が減少する理由である。行動の理由は、直前直後の状況の変化にあるから、この行動の直前と直後に何が起こっているのかを考えるのだ。これをダイアグラムの両端に記入する。このとき、順序通りに、「直前」からではなく、「直後」に何が起こっているかを先に考えることがミソである。サカモトが課員にインタビューしたところ、直後に起こったことは、以下のようなことであった。坂東課長がジロリと睨む坂東課長が「ずいぶんとよいご身分だな」と言う直後を記入したら、それと対称的な出来事を「直前」に書く。「ない」「ある」の変化を明確にすることが重要だ。したがって、ダイアグラムは最終的に図2-3のようになる。課員が帰社準備をすると、直前から直後にかけて、「睨んでいない」「睨んでいる」、「嫌みを言っていない」「嫌みを言う」と状況が変化する。この変化が原因となって、定時退社準備の行動が起こりづらくなっていると考えられる。物流課員の定時退社行動は、出現の変化によって弱化しているのだ。行動直後に何かが出現したことにより、その行動が弱化した場合、出現したもののことを嫌子という。
嫌子行動の直後に出現すると行動を減らす刺激やできごとしたがって、物流課の勤務時間が長いのは、坂東課長が、課員の定時退社行動を嫌子出現で弱化していたからだと分析できる。嫌子出現の弱化行動の直後に嫌子が出現すると行動は減少するQC活動が停滞している問題最後にこの問題を随伴性で分析しよう。QC活動を始めようとすると、課長が「そんなことはするな」と叱責する。QC活動の直前直後に、「叱責されない」「叱責される」という出現の変化だ。その結果、QC活動は停滞する。ここにも嫌子出現の弱化の随伴性があったわけだ。ダイアグラムを書く手順以上のように、行動の原因を随伴性で考えるときは、ダイアグラムを書いてみることだ。ここで、ダイアグラムを書く手順をまとめておこう。1誰のどの行動を分析するのかを決め、真ん中の「行動」に書く。「行動とは死人にはできないこと」という定義を忘れずに。できるだけ具体的に書く。2行動の直後に起こったことを「直後」に書く。直後とは六〇秒以内である。3行動の直前に起こったことを「直前」に書く。このとき、直前直後は対称的に(「ある」「ない」またはその逆)。3.嫌子消失の強化好子を使った行動の制御は二種類あった。嫌子の場合も二種類ある。坂東課長がなぜ、部下に対して嫌みや叱責、批判的な目つきを日常的に繰り返すのかを分析するために、ダイアグラムを書いてみると図2-4のようになる。こうした随伴性で課長の行動は強化されている。強化の原因は直前直後の「消失の変化」であり、このとき、消失したものは「嫌子」である。坂東課長が鬼の上司であり続けたのは、部下による嫌子消失で強化されていたからだ。嫌子消失の強化行動の直後に嫌子が消失すると行動は増加する上司や教師に説教されると、内心は腹を立てていても、とりあえず「すみませんでした」とあやまることはよくある。「すみません」という行動が強化されているわけだ。理由は、あやまることで、直前から直後にかけて、「説教あり」「説教なし」に変化することにあるだろう。本心に忠実に反論したりすると、ますます説教がエスカレートするが、とりあえず、口だけは「すみません」と言えば、「わかったら、次から気をつけろ」と説教から解放される。この嫌子消失の変化が、とりあえずあやまる行動を強化する。4.四つの基本随伴性さて、第1章と第2章で解説した四つの随伴性──好子出現の強化、好子消失の弱化、嫌子出現の弱化、嫌子消失の強化──を、四つの基本随伴性という。これ以外にさらに四つの随伴性が定式化されているが本書では触れない。しかし、この四つをマスターすれば、相手はもちろん、自分の行動のほとんどの原因が理解できる。ややこしい専門用語が続出したので、記憶の助けとなるように、これを表2-1のようなマトリクスにして整理しよう。
好子と嫌子、出現と消失は、それぞれ対立概念である。だから、少なくとも「好子出現の強化」だけを覚えておけば、あとは論理的に判断できるはずだ。行動の原因を理解するには、まず、ダイアグラムを書き、それがどの随伴性で制御されているか判断する。慣れれば直観的に判断できるが、はじめのうちは、次のように順序立てて考えるとよい。1行動は「強化」されているのか、「弱化」されているのか判断する(ここで随伴性は二つに絞られる)2直前から直後の変化は「出現」か、「消失」か判断する(これで随伴性が決定する)3出現もしくは消失したものが、「好子」か「嫌子」か判断する。これで、現在繰り返される行動、逆にしなくなった行動が、どのような随伴性に制御されているか明らかになり、同時に対処の方法が見えてくる。行動は随伴性で制御されているのだから、行動を変えるには随伴性を変えればよい、という発想が生まれるのだ。5.嫌子による行動の制御の危険サカモトは、坂東課長に対し、嫌子よりも好子を使うことの重要性を説いていた。この問題は、ビジネスの世界だけではなく、人間が関わるすべての場面において古くて新しい問題である。嫌子を使う行動の制御は多くの問題があると言われ続けているにもかかわらず、人々は嫌子を使って相手をコントロールしようとする。部下に対しても、家族に対しても、子どもに対しても。嫌子を使うことの問題はいくつかあるが、主なものは以下の五つである。①嫌子出現を繰り返すと耐性がつく人は繰り返し与えられる嫌子に慣れ、いずれ行動を弱化できなくなる。いつも叱ってばかりいる上司の説教や叱責や嫌みは、だんだん聞き流すようになる。その結果、行動の弱化のために与える嫌子がエスカレートしていく危険が生じる。はじめは効果があった叱責や嫌みがだんだん効かなくなると、次はもっと強い嫌子、それにも慣れたらもっと強い嫌子とどんどんエスカレートする。相手次第では、これが虐待につながる可能性もある。②嫌子を与える人間を避けるようになる嫌子を与えるような人のそばには、誰だって近づきたくない。良好な人間関係を育むことは難しくなり、部下も進んで教えを乞うような気にはなれず、適切な教育はできなくなる。それどころか、嫌子を与える人に対しては情動反応が起き、攻撃を生み出す危険性もある。部下からの反撃であれば生命の危険はないだろうが、相手次第では危険な世の中だ。③行動が全般的に抑制され、新しい行動が生み出されにくい嫌子の出現で行動を抑制すれば、問題行動はしなくなる。しかし、それは同時に、行動全般を抑制することにもつながる。後に述べるように、動物は嫌子から逃げることができない状況に置かれると、活動性を失うことが知られている。嫌子を与えられた行動をしなくなるばかりではなく、新しい学習も阻害されてしまう。④その場面に適切な行動を何も教えていない問題行動を弱化したいのはわからなくはない。しかし、問題行動をしなくなることが本当の解決と言えるのだろうか。問題行動をしないだけではなく、その場にふさわしい望ましい行動をすることこそが求められているのではないだろうか。その場面で行うべき適切な行動を強化の原理によって教えていくことが、活気ある会社を作るためには必要だ。もし、問題行動と同時にはできないような望ましい行動があるとすれば、むしろ、その望ましい行動を強化するだけで、自然と問題行動はなくなる。行動分析学では、対立行動分化強化と呼ばれる手法である。⑤一時的な効果しかない行動分析学の創始者スキナーは一貫して、嫌子の使用による行動の制御に警鐘を鳴らし続けた。スキナーは一九七九年に来日した折、慶應義塾で「罰なき社会(nonpunitivesociety)」と題する記念講演を行ったが、それは嫌子を使うことなく、好子出現の強化による社会の創造について論じたものである。嫌子出現による弱化は一時的に効果があったとしても、長期的に見て何の解決にもならないのである。6.それでも人は嫌子を使うそれでも人は嫌子を使い続ける。嫌子を使う行動が強化されているからだ。坂東課長がジロリと睨んだり、嫌みを言ったりする行動は、嫌子消失によって強化されていたことはすでに見た(図2-4)。部下が帰り支度を始めたとたん、坂東課長がジロリと睨むと、一瞬、帰り支度の手が止まったり、部下がバツの悪そうな顔をしたりする。それが強化の随伴性となって、嫌子を与える行動を強化するのだ。したがって、坂東が嫌子を与える行動は、部下の行動で強化されている。部下をコントロールしていたつもりの坂
東もまた、気づかぬうちに、部下によってコントロールされているのである。
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