真贋を巡るドラマ
第一章「鑑定――『人を見る眼は、モノを観る眼』」の項でも少し話したが、美術品の取引を巡っては、真贋問題が付きまとう。
そして、特にスペシャリストとしては有っては為らない事だが、その判断を誤る事もごく稀に起こり得る。
美術品の売買に於ける真贋判断ミスには、実は二パターンが有る。
ひとつは、贋作を真作として売って仕舞う場合。
買い手に取っても、我々仲介業者に取っても最も避けたい事態だ(前述したが、クリスティーズでは万一こうした事が起きた場合、一定の条件下で代金を返還する制度を敷いている)。
一方でこの逆、謂わば「本物を贋作だと思って売って仕舞う」場合もある。
例えば、非常に綺麗な浮世絵版画が出てきて、その状態の良さ故に「明治時代の工芸品(コピー)であろう」と判断したとする。
当然、オークションではそれに見合ったエスティメイトを付けるだろう。
ところがいざ競売に出すと、約一〇倍の値で落札された。
要は、プロの買い手が見た際には江戸時代のオリジナルだと判断された訳である。
ある意味、誰も損はしなかったと云えるかも知れない。
しかし、美術品の取引は矢張り信用第一。
たとえ一度の間違いでも「あの人はそう云う事が有る」と評価され得る厳しい世界だ。
斯く云う私にも、二五年以上この世界で働き続けた中で、本当にごく僅かだが痛恨の判断ミスは有る。
二度と繰り返すまい、と思う。
さて、古美術の贋作に関しては、特に江戸末から明治時代に多かった。
より近い時代だと、有名な物に「春峯庵事件」が有る。
一九三四(昭和九)年に起きた、肉筆浮世絵の大規模な偽造事件だ。
この年、東京美術俱楽部では「春峯庵」なる旧家の所蔵品との触れ込みで、写楽、歌麿等の肉筆浮世絵の入札会が開かれた。
「世界の大発見」との新聞報道も有り注目されたが、やがて何と全て贋作と発覚したのである。
最終的に、これを持ち込んだ画商や贋作を描いた絵師等の集団が詐欺罪で摘発された。
また「永仁の壺事件」をご存知の読者も居るだろう。
一九五九(昭和三四)年に、「永仁二年」(一二九四年)の銘を持つ瓶子(壺の一種)が鎌倉期の古瀬戸の傑作として国の重要文化財に指定された。
だがその直後から贋作疑惑が持ち上がり、やがて陶芸家の加藤唐九郎がこの壺は自分が一九三七年頃に作ったと告白。
真相は諸説有れど、当時の文化財保護委員会が行ったX線蛍光分析等の結果、同作は鎌倉時代のモノでは無いと結論付けられた。
斯くしてこの壺は一度与えられた重要文化財の指定を解除されたのである。
これは行政、学界、美術界を巻き込んだ大贋作事件と云える。
こうした贋作騒動は、実はどの国でも何かしら起きている。
有名なのは、オランダの「天才的」贋作画家と云われたハン・ファン・メーヘレン。
彼は一九四五年に、フェルメール作とされていた絵画をナチス・ドイツの高官に売った罪で逮捕・起訴された。
当初、オランダ当局は文化財の略奪者として(つまりフェルメールの真作を売り渡した罪人として)長期の懲役刑を求めたが、メーヘレンは自分が売却した絵画群は自ら手がけた贋作だと告白。
法廷で実際にフェルメール風の絵を描いてもみせたと云う。
彼の贋作作りはその模倣ぶりに加え、当時の真贋判定を欺く為に画材選びから仕上げ迄徹底していた。
X線写真等の最新鑑定の結果、彼の主張通り一連の絵画は贋作だと証明される。
結果、メーヘレンは「売国奴」から一転、「ナチス・ドイツを騙した男」として英雄視さえされるように為った。
結局、詐欺罪で禁固刑の判決を受けたが、まもなく心臓発作に倒れて生涯を閉じた。
因みに、逮捕前にフェルメール作品と称して描いた《エマオの食事》は当時の研究家に真作と認められ、ロッテルダムのボイマンス美術館に購入された(今もメーヘレン作品として展示)。
彼の劇的な人生は、映画『ナチスの愛したフェルメール』(二〇一六年)でも描かれている。
進行形の現代美術の世界も、贋作問題とは無縁では無い。
人気作家の草間彌生や奈良美智の偽作品がたびたび出回り、二〇一八年に中国で開催された村上隆と草間彌生の二人展では、展示された草間作品は全て贋作だったと発覚。
現在は抗議を受けて中止されているが、作家本人がコメントを発表する事態と為った。
また、実験的な作風で知られる書家の故・井上有一の贋作も出回っている。
これらの多くはスペシャリストが目にすれば大概判断が付くものも多い。
しかし、例えば版画等は実物を見ただけでは見極めが難しいものも多いので、必然的に買う場所を選ぶ事が大切に為る。
私も骨董品等に就いて、オークション以外ではどういう所で買うべきか聞かれる時等、矢張り一流店を薦める。
老舗の一流店と云うのは、仮に同一の作品でも、そうで無い店に比べて高目の価格設定をするかも知れない。
だが、謂わばこれも信用を買うと云う事だし、こうした店は、一度其処で購入したものを後に手放す事に為った際も、比較的良心的な額で引き取ってくれたりするので、色々な意味で安心だと思う。
所謂「掘り出しモノ」を買う楽しみも勿論有るのだが、一定以上のクオリティの物を買おうと思った際は、きちんとお金を貯めて良い処で買う事をお勧めする。
「流転の極み」な屛風
さて、此処からは、日本美術スペシャリストたる私が出会った数々の「モノ」の中から、幾つか面白いエピソードを紹介してみようと思う。
「外国」、「美術品」と云った言葉と対に為っていると云っても過言でない言葉に、「流転」が有る。
本書で何回も出てくる「来歴」と云う物自体が「流転」の証拠なのだが、それに「海外」が含まれると、如何にも「流失した」感が有ってドラマティックに聞こえたりする物だ。
実際私が今から此処に書く屛風は、当に「流転の美術品」の名に相応しい作品である。
その屛風とは、長谷川等仁作二曲屛風三隻(二枚パネルの屛風が三枚でワンセット)、《雪景水禽図》。
今は「屛風」と云っているが、嘗ては六面の襖絵だった作品で、然も「明石城」に在った事が判っている重要作品だ。
それではこの「元襖」が辿った、流転の歴史を記してみよう。
明石城は、一六一八年に小笠原忠真によって築城され、この襖絵は本丸の豪華な藩主の三階建ての館に在り、元々は春夏秋冬の花鳥図が描かれた二四面が存在したと云われている。
しかしこの館は一六三一年に焼失し、その時に運び出されて助かったのが、現存する一二面の「冬から春」に掛けての絵の部分で、幕末迄小笠原家の蔵屋敷で保管されていた。
が、一八七三(明治六)年に明石城は廃城と為り、一八八三(明治一六)年に書かれた屛風の裏書の由緒書によると、その一二面の襖絵は先ず「六曲一双屛風」(六枚パネルの屛風ワンペア)に仕立て直され、その後「一二幅対」(一二本セットの掛軸)に姿を変え、最後は家臣に拠って「二曲六隻」(二枚パネルの屛風が六枚)の体裁に為ったと云う。
そしてこの屛風が最初に売り出されたのは、一九五九(昭和三四)年で、東京の有名古美術商がその六隻の内の一隻を、当時東京に住んでいたフランス人外交官に、二隻をこれも東京に住んでいたアメリカ人コレクターに、そして残りの三隻をアメリカ人ディーラーを通してワシントンD.C.のフリーア美術館に売却、現在もこの三隻はフリーア所蔵と為っている。
その後、このフランス人とアメリカ人が買ったそれぞれの屛風は、オーナー達の帰国と共に移って行き分蔵されていたのだが、一九九六年のサザビーズ・ニューヨークの日本美術オークションに、何と別々のロットとして同一セールに登場し、その時にまた別の日本人コレクターが両ロット、計三隻の屛風を落札したのである。
私がこの等仁の屛風三隻を観たのはこの時が初めてだった。
美しく歴史を感じる画風と共に、明石城に在った事が判っていると云う来歴に、当時は未だ東京勤務でニューヨーク出張中だった私は、何ともロマンティックな気持ちに為った物だ。
が、運命とは誠に奇妙なもので、その六年後スペシャリストとしてニューヨーク勤務をしていた私の処に、とうとうこの三隻の屛風がやって来た。
そしてこの屛風達はオークションに掛かり、二五万ドルから三〇万ドルのエスティメイトに対し、何と六二万六五〇〇ドルでアメリカの個人コレクターに落札されたのだった。
制作されてから約四〇〇年、その間に何度も離れたりくっ付いたりしながら、流転に流転を重ねたこの元明石城襖絵の現存する六隻一二面は、結局今は全てアメリカに在る……。
これ位何度も「海」を超えると、成る程「流転」と云う言葉が似つかわしく思えるし、私自身その歴史に関わったと云う感慨の有る、稀なる作品でした。
「命懸け」の網干図屛風
スペシャリストと云うのは因果な職業で、何しろ美術品に眼が無い(何の分野でも、そうでなければやってられないのでは無いか)。
どんなに美しい女性(或いはカッコ良い男性)とのデートの約束が有ろうとも、東に良い壺を持っている人が居ると聞けば東へ走り、西に堪らない味の仏像を持っている業者が居ると聞けば、西へと旅立つ(多分)。
それがスペシャリストの業なので、良い美術品と出会える場所には喜び勇んで飛んで行って仕舞うのだが、その「在る場所」が「安全な」場所とは実は限らない……と云う事で、この話は少し長くなるので悪しからず。
もう二〇年近く前、ニューヨークに渡って直ぐの頃の日本出張中の或る日、東京オフィスの女性スタッフから、「山口さん、明日の午後屛風を査定して欲しいと云うお客さんから連絡が有ったんですが、行けますか?」との電話が有り、予定が空いていた私が彼女に行き先を聞くと、都内某所だと云う。
「勿論OKです!」と気前良く答えたのが、その時はそれが恐ろしい「出会い」の発端だったとは、知る由も無かったのである。
翌日、メモした住所を手掛かりに某所へ赴くと、私は後悔し始めた。
何故なら、私の目の前にはスモーク・ガラスで全体を覆ったビルが建っていて、私の行き先はその最上階だったからだ。
住所で気付くべきだったのだが、後の祭り……。
これはどう見ても「別世界」の方々のビルではないか?私はエレベーターに乗って最上階で降り「●●経済研究所」と書かれた札の付いたドアの前で覚悟を決めて深呼吸をすると、ドアベルを押した。
ドアが半分開き、鋭い剃り込みの入った髪型の男が顔を出すと、「どちらさんで?」と私に聞く。
「あの、クリスティーズの山口と云います。
屛風の査定にお邪魔しました」と云うと、男は「お待ちしておりやした」と云って私を中に招き入れた。
その「研究所」の中の「所長室」に入ると、其処は如何にも、な造りで鎧が一領飾られ、床には虎皮の敷物が敷かれ、飾り棚の上の刀掛けには大小の刀、そして大きな机の後ろには額装された「仁義」の書。
もう映画で観たまんまの、「所長」為らぬ「会長」室なのであった。
そして部屋に通されて暫くすると、墨書で書かれた「所長」の肩書きの名刺を持ったパンチ・パーマの中年男性が現れ、私に「先生、では早速観て貰えますかね?」と告げ、入り口で立っていた若い衆には「おい、お前ら例のモノ早く用意しろ!」と命令した。
その時迄の人生に於いて「先生」等と呼ばれた事の無かった私はギョッとして、「世の中で〝先生〟と呼ばれる人とは、一体どんな職業の人だろう……大学や学校の先生、医者、弁護士、政治家、お茶やお花の先生か?」等と見当違いな事を考えながら、早速若い衆の運んできた六曲一双の屛風を開いてみた。
「網干図だ」……。
私の見立てではこの屛風絵の時代は一七世紀頃、狩野派らしき手によるモノに見え、中々宜しい。
「所長」にその様に告げると、「所長」は「おいお前ら、ちゃんと先生の云う事をメモしとくんだぞ!いいな!」と念を押した。
そして此方を見ると「で先生、大体お幾ら位なモンですかね?」と聞くので、正直者な私は「うーん、一〇〇〇万円出る位ですかね?」と告げたのだが、その瞬間、所長の顔が曇ったのを私は見逃さなかった。
「一〇〇〇万か。
こっちは貸した五〇〇〇万の金の〝カタ〟に、この屛風取って来たんですけどねぇ。
先生、何とか為りませんかねぇ?」此処で「何とも為りません」と云ったら、明日の朝、私の体は東京湾に沈んでいるかも知れない。
そんな恐怖が私を襲ったが、こう云う場合相手に負けて値を上げて仕舞うと、後々より厄介に為るので「所長、残念ですが、五〇〇〇万には到底為りません。
もう少し〝カタ〟を取っておくべきでしたね」と、変なコメントをしたら、所長の顔は緩み、「じゃあ。
もう少し観て貰いやしょう」と私を別室に連れて行った。
そして、其処には棟方志功の版画や上村松園の掛軸、焼物等が所狭しと並んでいて、幾つかを観ると皆本物らしく、「カタ」に付けた値段は兎も角「眼」は確りしている様で、その事を所長に告げると彼は凄く喜んでいた。
結局何ひとつ値段が折り合わず(念の為、当社は「反社会勢力」とは決してお付き合い致しませんので、悪しからず)、私は(幸いにも)手ぶらで帰る事に為ったのだが、帰り際所長は若い衆に「おい、先生を下迄お見送りしろ!」と命令し、私は角刈りの若い衆に挟まれて狭いエレベーターに乗り、無事一階に着くと若い衆が拾ってくれたタクシーに乗り込んだ。
結局私は、この仕事で何ひとつ「モノ」を得なかったが、人生で初めて「先生」と呼ばれた事と、タクシーに乗り込んで後ろを振り返った時、若い衆が「有難う御座いました!」と云いながらしていた深いお辞儀、そして無事にタクシーに乗れただけで十分だった仕事でした。
ビジネスシートに鎮座する壺
私の専門は日本美術だが、部門は「日本・韓国美術部門」だったので韓国の陶磁器や絵画を観る事も非常に多いし、当然韓国美術のスペシャリスト程では無いが個人的に大好きな事もあって、それなりの知識も持っていると思う。
さてその韓国の焼物に関して、忘れられない思い出が有る。
それは韓国経済が強く、韓国美術マーケットも陶磁器一点に何億円も使う程の好景気だった、九〇年代中頃の話だ。
未だ東京勤務だった頃、当時の日本・韓国美術部門長だった私のメンターSは、当時の韓国好景気を利用して、韓国ソウルの新羅ホテルに於いて韓国美術品の下見会を開催しており、私もよく手伝いに行っていた。
或る時、その下見会に素晴らしい《李朝白磁染付龍文大壺》が出展され、訪れた当時クリスティーズの大顧客だった韓国在住のC氏は、その壺を大いに気に入り是非買いたいと云う事に為った。
その壺は「五爪の龍」が本格的な絵筋で描かれ、大きさも高さ五二・五センチと史上最大級、そして染付の発色も文句の無い逸品だった。
そしてその数週間後、私はニューヨークのオークションを手伝いに行き、其処で開かれたオークション当日、C氏は見事その壺を一六六万ドルで落札したのだが、問題は落札後に、C氏がSにリクエストした「或る事」であった。
その「或る事」とは、C氏が買った大壺を、何と「ハンドキャリー」でニューヨークからソウル迄運んで欲しい、と云う事だった。
それはC氏が小柄だった事と、それでも一刻も早く持ち帰りたいからだったが、「ハンドキャリー」と云っても、陶磁器は壊れ易いので、トランクの様に預ける事は出来ない。
ではどうするのだろう?と首を傾げていたら、Sが私を呼んだ。
「カツラ、この壺をソウル迄運んで欲しい」「えっ!……だから、どうやって?」と聞くと、「心配するな、君をビジネスクラスに乗せてやる。
但し、この壺のお供だ。
壺の隣の席に君が座って、ソウル迄運ぶんだ」「はぁ?壺の隣に座る?」……何てこった。
こりゃ大変だ!早速私達は内側にクッションをくっ付けた特製風呂敷を作り、それで大壺を包んで持ってみたが、何しろ重い。
こんな大きくて重く、然も一六六万ドルもする壺を手持ちでソウル迄行くなんて、無理に決まってる!が、C氏とSの意思は固く、Sに至っては「気をつけろよ。
ソウルに着く迄に、もしチップ(欠け)のひとつでも作ったら、君は一生クリスティーズ・ニューヨークのトイレ掃除だからな、ハッハッハッ!」等と笑う。
未だ新人に毛の生えた様な立場だった私は、青ざめた。
そして出発当日の夜(当時の大韓航空便は、夜中の出発だった)、Sが用意した巨大なリムジンに厳重にパッキングされた壺を抱えて乗り込み、空港に着くとセキュリティでは尋問されたりして(そりゃ、そうだ)、冷や冷やの体でやっと飛行機に乗り込むと、機内には知った顔の韓国人ディーラーが勢揃いしていて、大荷物を持つ私を怪訝な目で見るので、此処でもまた冷や冷や。
汗だくに為って漸く生まれて初めてのビジネスクラスの席に座り、先ずは「お壺様」を窓側に座らせてシートベルトを確りと掛け、そして持って来た紐で「お壺様」をがんじがらめに縛る。
その最中にキャビンアテンダントがやって来て、私が汗だくで壺と格闘する様子を見ると、もうこれ以上無い位の不信感一杯の目付きで「お客様、これは一体何ですか?」と聞いてきた。
「壺です」と答えたら吃驚して文句を云いそうな雰囲気だったが、「お壺様」用のビジネスクラス・チケットを見せると、ニッコリ微笑んで去って行った。
そして私は、超高額な壺を運んでいる緊張の余り、折角生まれて初めて乗った「ストレッチリムジン」や「ビジネスクラス」の感動も一切感じられない儘飛び立ったのだが、飛行中はずっと隣に鎮座まします「お壺様」に右手を置き、当然一睡も出来ない(心配でトイレにも行けない!)。
もうひとつの悪夢は、この飛行機が何と「アンカレッジ経由」だった事だ!今ではもう考えられないが、当時ニューヨーク―ソウル便は未だアンカレッジで一度降り、給油をして再びソウルへと向かったのだが、問題は、この給油時に全ての乗客が一旦機外に出ねば為らない事だった。
あれだけ厳重に縛った紐を解き、シートベルトを外し、深夜疲れた体であの巨大で重い壺を抱えて外に出る。
そして周りの人達からは、相変わらず怪訝な目で見られながら、給油が終わると再び汗だくに為って壺を運び、シートベルトを掛け、紐でがんじがらめに縛る……もう悪夢としか云い様が無いではないか!
そんな「お壺様」とのフライトも、一睡もしない儘何とか終わりに近づき、後一時間程でソウル到着と云う頃、機長から「ソウル金浦空港が濃霧の為着陸出来ないので、我々は済州島に向かう」と云う、信じられないアナウンスが有ったのだ。
もうそれを聞いて失神しそうに為ったが、私に手立て等有る訳が無い。
そして飛行機は済州島に着陸したのだが、事態は一向に改善せず、私の乗った飛行機は滑走路に居座った儘、それから何と三時間も動かなかったのだ。
あの頃は若かったとは云え、緊張と疲労でもう心身共に疲れ切っていた私は、頭が変に為りそうだったが、やっと飛行機が飛んで金浦空港に無事着陸し、重い「お壺様」を税関迄運び終え、Cさんの「一六六万ドルのスマイル」で一杯の顔を見た時は床にへたり込んで仕舞った。
モノと旅するのも楽じゃありません。
「モノ」が「モノ」を呼んだ、室町絵画
ニューヨークに来て数年経った或る日の事。
私は他分野の同僚スペシャリスト達五人と共に、ニューヨーク某所に在るかなりのお金持ちの顧客のアパートメントに査定に行った。
其処には物凄い金額であろうジョルジュ・ブラックのキュビズム作品を始め、レンブラントの版画やヨーロッパ家具、中国陶磁器等が飾られていたが、日本美術品はたったの二点だけ。
花鳥を彩色で描いた双幅(掛軸一対)の片方らしい掛軸が、アクリル額装されて吊るされる形で飾られ、双幅のもう一本の方は、幸いにもクロゼットの中で古い箱に入って見つかった。
その作品の印章を見ると「藝愛」と読め、箱の方の箱書を見ると、此方には「小栗宗栗筆」と有る。
私は、「ウーム、藝愛か……」と呟いた。
何故なら「藝愛」は室町絵画に於ける非常に重要な絵師と云う事に為っているが、作品数も資料も非常に少なく、未だにその詳細が判っていない。
その上箱に有る「小栗宗栗」と云う絵師が実は藝愛だった、と云う説も長らく信じられているからで、中々良い絵ではあるが、正直この絵の作者が「藝愛」であるとは、到底信じられなかった。
私は二本の掛軸とその印章、箱の写真を撮り、サイズと素材をメモして会社に戻ると早速この作品を調べ始めた。
そして、京都国立博物館が出している研究紀要の或る号に、京博のY先生による「藝愛」に関する研究論文を発見し、読み始めたのだが、或るページで私の手がふと止まった……其処に掲載されていたモノクロ図版に、何処か見覚えが有ったからだが、その図版リストを見ると「川崎男爵家旧蔵」としかない。
もう一度図版をよく見てみると、この間見た「藝愛」にそっくりではないか!撮って来た写真を取り出し、比べてみる。
ウーム、この作品に違いない……何てこった!こりゃ本物の藝愛なのではないか?その内に作品が会社に送られ、研究・検分を進める内にこの作品が「行方不明」の藝愛であった事が確実と為り、その後オークションに掛かったこの作品は、何とエスティメイトの「五倍」で売れたのであった。
アメリカ富豪の膨大な美術品コレクションの中に「たった二点」在った日本美術品が、行方不明だった、然も室町時代の謎の絵師による作品だったと云う奇跡的な「モノとの出会い」だった訳だが、実は話は此処で終わらない。
その二年後の事である。
ラッキーにも非常にクオリティの高い個人コレクションを見つけた私は、その類い稀な作品群を検分している内に、蓮と鷺を描いた墨画の双幅を見つけた。
そしてその落款を見た私は、眼を疑った……何と「藝愛」ではないか!唯でさえ作品数が極めて少なく、重要極まりない藝愛の作品にこんな短期間で二作品も出会えるなんて、私には「藝愛」の神様が付いていたとしか思えない。
そして、この作品も調べ始めたら昔の重要な史料が出てきたりして、オークションに掛けた末、今度はエスティメイトの約三・六倍の価格と為って、無事売れて行った。
「類は友を呼ぶ」と云うが、「モノがモノを呼ぶ」事も有るのである。
「祟りじゃ!」な仏像
宝石には、よく「呪いのダイヤ」とか云われるモノが有ったりして、それは身に付けるモノであるが故に、持ち主の情念と云うべき物が作品に纏わり付き、何か事故等が起きた後、歴史を経るに連れ、その事故が「呪い」として伝説化するのだろうと思う。
そしてそれは美術品にも偶に云われる事で、特に古い時代の刀や甲冑、着物等には一寸注意が必要なモノが有る、とよく聞くが、私はその点そう云った事にはかなり強い方で、それは第二章に記した、母方の神社の家系のせいかも知れない。
なので、これから書く話は私に起こった事では無く、私の同僚に起こった事件である。
或る年の日本出張中に、私は二メートルに為らんとする非常に大きな或る仏像の出品契約を取った。
その仏像は鎌倉時代の作と思われ、寄木造(各ブロックを各々作り、後で組み立てる)の作品だった。
そしてその作品はニューヨークに運ばれ、オークション・カタログの為の写真撮影に入った。
仏像はフォト・ステュディオに運ばれ、フォトグラファーと打合せを始めたのだが、高額な事と、怖い程の迫力の有る大きな作品である事から、通常のショットと共に特別ショットを撮る事に決めた。
フォトグラファーXにその事を告げると、当時超多忙だった彼はその事を理由に当初反対したものの、結局折れ、嫌々ライトのセッティングを始めたのだった。
仏様の正面に廻った時にイライラしていたフォトグラファーが、汚い言葉(勿論英語)で「こんな●●●な仏像の撮影なんか、やってられっか!」と叫んでいるのを聞きながら、私はランチへと出掛けた。
そしてランチから帰り、ほんのりと暗くなった誰も居ないステュディオで私が見たのは、すっくと立つ仏様の前の床に広がる「血溜まり」であった……。
目の前の超シュールな情景が信じられず、呆然として立っていると、写真部の部長Rがやって来て、「カツラ、何処に行ってたんだ!?大変だったんだぞ!」と云うので、「何があったんですか?」と聞くと、「Xが怪我をして、救急車で病院に運ばれたんだ!」と云う。
さて、私の居ない間に起こった事件はこう云う事だ。
私が出掛けた後、Xはセッティングを続けていたが、上からのライトを当てる為、シャフトを伸ばした儘ライトを移動させていたらしい。
そして或る所でそのシャフトが仏像の「髻(髪を頭の上で束ねた部分)」にあたり、「寄木造」故、単に嵌めこんであった「髻」が外れ、何とXの額を直撃したと云うのだ。
その結果、Xの額は割れ大流血と為り、一〇針以上縫う大怪我と為ったが、その「髻」の方は、Xの頭を直撃後に床へ落ちたにもかかわらず、一片の欠けもできず、血痕も付いていなかったのである……。
幸いにもXは数日で仕事に復帰したが、それ以降この事故は社内中の噂と為り、その仏様の前を通る全てのアート・ハンドラー(作品を運んだり保管する業務のスタッフ)達は、一礼をして通る様に為った。
そしてこの仏像はオークションに掛かったが売れず、「これも祟りか?」等と思ったりもしたが、アフター・セール(オークションで作品が不落札だった時に、その直後にもう少し安い価格なら買いたい、とオファーする事)の申し込みが有った後売買が成立し、今はヨーロッパ某所に在る。
私は、骨董品には「持つ人」の思いが残ると云う可能性を否定はしないけれど、清い心で持てば何にも怖い事は無いと断言しよう。
そうで無ければこの仕事、命が幾つ有っても足りません!
「涙」を誘った南蛮屛風
東日本大震災が起きたのは、私が日本出張からニューヨークへと戻った、たった五日後の事だった。
偶々その帰りの機内で、クリント・イーストウッド監督の映画『ヒアアフター』(二〇一〇年)で、冒頭のスマトラの津波のシーンを固唾を吞んで観ていた私は、映画のその後のメイン・テーマである「臨死体験」を思い出しながら、NBCの朝のニュースで繰り返し流れる、津波が東北を襲う映像を観たのだった。
その一二日後、私の担当する春の日本・韓国美術セールが開催されたのだが、この「ディザスター」直後のオークションは、私に或る悪夢を思い出させた……二〇〇一年の「9・11」である。
そしてこの話も長く為りそうなので、覚悟して下さい。
さて、「9・11」が発生したあの日のあの時間、私は日本出張を終え、成田から当にニューヨークへ向かうANA一〇便に乗り、JFK空港に着陸するたった一時間一寸前の、シカゴ上空に居た。
そして機長からの「詳細は未だ判らないが、ニューヨーク市内で重大なテロが起こり、JFK空港が閉鎖されたので、何処か着陸出来る他の空港を探す」とのアナウンスが流れ、客席はどよめいた。
そしてあちこちでキャビンアテンダントが呼ばれ、対応している内に次のアナウンスが……。
「情報によると、旅客機一一機がハイジャックされ、二機がワールド・トレード・センターにぶつかった模様。
全米非常事態宣言が出され、現在飛行中の飛行機全てに即時着陸命令が出たので、これからカナダに向かう」と云う。
何てこった!進路を変えて更に一時間後位だろうか、再び機長のアナウンスが有り、今度は「カナダの空港は既に一杯なので、アメリカに引き返す」と云う。
引き返すって、何処に?減っていく燃料と、降りる場所の無い無数の飛行機が飛ぶ大混乱の空の上を行く恐怖、そして本当に何処かに降りられるのか?と云う恐怖を余所にANA一〇便は飛び続け、漸くデトロイトに空いていた滑走路を見つけ、着陸した。
が、着陸は出来たものの、機内で数時間待たされた末の入国審査の後は、三〇〇人を超える乗客が何の理由も無く二手に分けられ、強制的にホテルらしき施設にバスで連行された。
だが、大問題が有って、それはANAの乗務員達が全員、私が居た方では無いもうひとつのグループに入れられて仕舞った事。
それが理由で、私達が連れて行かれた宿泊施設(確かコンヴェンション・センターだったと思う)では、英語の全く出来ない乗客がチェックイン出来ず、結局私ら英語の出来る有志数人が通訳を買って出て助けたのだが、ムカつくのは大概の日本人が「助けが来ると、急に図々しく為った」事だ。
通訳をする前はホテル側の云いなりだったのに、私らが通訳を始めたら「全員同じ部屋じゃなきゃ嫌だって云え」「エクストラ・ベッドを入れる様に云え」だとか、通訳している此方が「この緊急時に、アンタ何云ってんだ?」とキレそうに為る要求ばかりをする。
「通訳してくれて有難う、助かりました」なんてお礼を云ってくれた人は、ほんの僅かであった。
そして、最後の最後に私らがチェックイン出来たのは、ホテル到着後六時間程経ってからで、日本の家族に電話が通じたのは、更にそれから数時間後だった。
夕食の時間等はもう「お通夜」状態だったが、ブッシュ大統領が「戦争宣言」をした為に、何時日本に帰れるか判らない状態だったので、仕方が無いと思う。
だがこの「お通夜な夕食」で、私は同じ丸テーブルに座った一〇人に、或る提案をした。
「皆さん、これから私達は此処に何日間も居なければ為らなくなるかも知れません。
せめて自己紹介位しませんか?」テーブルの皆は賛成して自己紹介を始め、出張でニューヨークに行く筈だったファンド・マネージャーや、ブロードウェイを観に行く予定のタカラジェンヌ達、孫娘へのお土産の米を担いだお婆ちゃん等が同志と為った。
結局私は彼等とこのホテルで眠れない夜を二晩過ごした末、テロの三日後漸くニューヨーク行きのバスが出る事に為ると、お婆ちゃんに託ったお米を抱え、一二時間半掛けて、未だ焼けたこげ臭い匂いが強烈に漂うマンハッタンに戻ったのだった。
やっと帰り着いたニューヨークの空を見上げると、摩天楼の間から爆音を響かせて空を飛ぶ戦闘機が見えた。
そしてマシンガンを背負った州兵が闊歩する戒厳令下の様な街を歩き、会社に行ってみるとスタッフの姿は疎らだった。
上司と会うと、その上司は何と、一週間後に控えた日本美術のオークションを含めた秋の「アジアン・ウィーク」を強行すると云うではないか!「アメリカはテロには屈しない」がその最大の理由だったのだが、当然の如くスタッフからの猛反対に遭い、オークションは一カ月後に延期されたのだった。
そして、これも覚えている方も居ると思うが、その後もクリスティーズが入っている「ロックフェラー・センター」に在るNBC放送等に「炭疽菌」入り封筒が届き、それを開けた人が死んだりして、その時はロックフェラーに於ける全館放送で「如何なる封筒も開けない様に!」とのアナウンスが有ったりして、オークションどころの騒ぎでは無かったのだが、一回延期された以上Auctionmustgoonと云う事で、「9・11」のひと月後、セールは実施されたのだった。
前振りが凄く長く為って仕舞ったが、これが「9・11」の時の状況で、そして二〇一一年の三月に起きた「東日本大震災」では日本からのビッドが無いかも知れないと云う危惧は有ったが、アメリカには被害が無かった為、オークションの延期は無かった。
だが私の気掛かりは当然そんな事ではなく、家族や友人達が今現在苦しみ、また起こるかも知れない地震・津波の被害に遭うかも知れない……でも私には何も出来ない、と云った「隔靴搔痒」の思いで一杯だった。
そしてこの時のオークションの目玉が、狩野内膳の工房作と思われる《南蛮屛風》六曲一双(六枚パネルの屛風一対)だった。
今でも日本美術オークション史上、二番目の高額(四七八万六五〇〇ドル:当時約三億八七〇〇万円)で落札されたこの作品は、一六世紀後半に交易をしに日本へとやって来た初めての西洋人(ポルトガル人やスペイン人)達を描いた、当時の日本人に取っての謂わば「未知との遭遇」的作品である。
そしてその広大な画面には、貿易船やキリスト教の伝道師、奴隷として連れてこられたアフリカの黒人、象や洋犬等の珍しい動物等が描かれ、現存する数からしても大人気だったらしいこれらの《南蛮屛風》は大量に作られ、或る物はヨーロッパに持ち帰られ、或る物は国内の武家や豪商の許に残された。
下見会を訪れた外国人達は、そんな「日本と西洋の出会い」をモティーフとした屛風を観ながら、口を揃えて日本美術と日本文化を称え、そして震災後の混乱で不自由な最中でも略奪も起きず、復興の為に黙々と協力して働く日本人への賞賛を私に告げ、時には涙を流しながら応援の言葉を口にしてくれた。
そうした事もあってか、結果を先に云えば、アメリカ各地やヨーロッパ、ロシアや中東、中国等、世界中から満遍なくビッドが入った末、この屛風をハイライトとしたオークションは総額二〇億円を売り上げて、大成功裡に終わったのだった。
このオークション終了後に、私は一体何人の顧客や同僚から肩を叩かれたり、握手を求められたりしたか判らない……。
そして私はそんな時、不覚にも泣いて仕舞ったのだが、それは何故なら、あんな状態の母国日本で親族や友人が、いや日本全体が苦しんでいる中、日本の文化的な「顔」である日本美術品が、これだけ世界から求められている事が嬉しくて、有り難くて、そして誇らしかったからなのだった。
因みにこの作品の売主は、その後売り上げの一部を震災復興の為に寄付をした。
世界と売主に大感謝のセールだった。
「モノ」と云う物は、人を介さねば出会えないし、人を介する以上、其処には必ずドラマが有る。
私の場合は仕事上の都合で書けない事も多いのだけれど、少しは楽しんで貰えただろうか!
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