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第2章認知心理学から見た「判断ミス」

目次

1「自動思考」を排除する ▼認知心理学は脳のソフトの質を高める

ここまでは、認知療法で言う不適応思考の例を取り上げた。

実は、認知療法以外に、認知心理学という別の分野があり、ここでもある種の不適応思考についての考察がなされている。

認知心理学というのは、脳のソフトウェアを研究している学問だ。

日本では今、たいへんな脳トレブームだが、脳科学というのは、脳のハードウェアの部分を研究する学問である。どうすれば、脳のハードウェアの性能を高められるか、そしてそれをどう実社会に応用するかを研究している。

脳トレによって、脳のハードウェアが鍛えられることで、脳年齢が若返ったりする。一方、認知心理学は脳のソフトウェアを研究する学問だ。

どんなに高性能なハードウェアでも、そこにインストールするソフトウェアの質が低ければ、高いアウトプットは出すことができない。

たとえば、脳トレによって、脳年齢を一八歳に若返らせたとしても、それで入学試験や資格試験に合格できるわけではない。

若返った脳を使って、ソフトウェアの質を高めていかないと、合格はできない。同様に、判断力を鍛えるには、脳のハードウェアの性能を高めるだけでは意味がない。脳に質の良いソフトウェアを入れることによって、初めて、高性能な脳のハードウェアが生きてくる。

▼自動思考とは何か? 認知療法の考え方の中で

最近問題になっているのが、自動思考と呼ばれるものだ。自動思考というのは、自分の勝手な思い込みによって、次々と、悪循環が起こっていくような思考法であり、それらのプロセスが自動的に起こっていくことである。

たとえば、「部長が呼んでいるよ」と言われたときのことを考えてみよう。

部長の用事にはいろいろなものがあるはずだ。現在の目標についての進捗状況を聞かれるのかもしれないし、資料の提出を求められるのかもしれない。あるいは、人事異動について、通達されるのかもしれない。場合によっては、お褒めの言葉をいただけることがあるかもしれない。

だが、自動思考のパターンを持っている人は、思い込みが激しいので、何の根拠もないのに、「そういえば、部長は最近冷たい。俺は、リストラされるに違いない」などと勝手に考えてしまう。

それ以外の選択肢を考えることができないのだ。その思い込みが悲劇を生む。

「どうせ、俺はリストラされるに違いない」という思い込みによって、それまでの部長との悪い思い出がいっぱい蘇ってくる。

「そういえば、あのとき、俺は部長に無視された」とか「あんな些細なことで、部長は俺を怒った」というように、ネガティブな出来事ばかりが頭の中を駆けめぐる。

そうすると、部長に対して、「俺をクビにするような部長は許せない」という怒りのような感情がこみ上げてきて、いざ部長の前に行ったときに、些細なことにキレてしまって、よけいなことを言ったりする。

「部長のほうが間違ってますよ」とか「部長だって、接待費で遊びまくっているじゃないですか」などと言ってしまい、それに部長が激怒して、本当にリストラされてしまうかもしれない。

「どうせ、俺はクビに違いない」という思い込みが、悪循環を生み出して、対人行動を悪化させ、クビという現実を自ら引き寄せてしまうのだ。

▼思い込みが会社を潰すことにもつながる

さらにこういう人は、クビになったときに、「やっぱり、俺はクビだった。俺は部長に嫌われていたんだ。俺の見方は正しかった」と、「自分の考えは正しい」という信念を強化してしまう。

こうして、思い込みの度合いはますます強まり、自分をさらに悪い方向に追い込んでいく。

だが、現実には、部長はその人をクビにしようと思って呼び出したわけではなかったかもしれない。

何か別の用件があって呼び出しただけかもしれないのに、本人が勝手に「一〇〇%クビだ」と思って、ネガティブな対人行動をとってしまい、クビになってしまう。

まさに、不適応な思考そのものである。

今挙げた例は、個人レベルの話だが、これが企業レベルの話やマネジメントレベルの話になると、自動思考が組織全体を揺るがしてしまうことになる。

たとえば、取引先銀行から「お会いしたい」という連絡があったときに、経営者が「これは、融資打ち切りの話に違いない」などと勝手に思い込んでしまったら大変なことになる。

取引先銀行に行ってきちんと話を聞くような冷静さを持っていればいいが、「融資打ち切りに違いない」「そういえば、あの担当者にはどうも、嫌われている気がした」などと悪循環の発想に陥って、実際のミーティングの場で、担当者に否定的な態度を示してしまったりすれば、本当に融資打ち切りにならないとも限らない。

個人が「クビだ」と思い込んで本当にクビになってしまうのも怖い話だが、経営者が「融資打ち切りに違いない」と思い込んで、本当に融資打ち切りになってしまうほうが、もっと影響力が大きい。

場合によっては、倒産に至り、経営者も社員もその家族も路頭に迷ってしまうかもしれない。

極端な例を挙げたが、経営者や管理職というのは、平社員よりもはるかに影響力が大きいだけに、そのクラスの人が自動思考によって、判断や行動を誤ると、重大な結果をもたらしてしまう可能性がある。

▼自動思考の治し方

このような自動思考に陥ってしまった人に対して、認知療法的なカウンセリングでは、固定的な思い込みをやめさせ、なるべく他の可能性を考えるように指導をする。

「あなたはまた二分割思考になっていますね」とか「これは、ちょっと過度な一般化と言えるんじゃないでしょうか」と指摘をしていき、本人が「ああ、確かにそうですね」と言って、自分の不適応思考のパターンに気づかせるような方法が採られる。

このときに、薬を使うこともある。

認知療法は薬を使わない治療法だと思われているが、それも思い込みの一つであり、薬が有効なときには、薬が用いられる。

カウンセリングというのは、そう即効性があるものではないので、普通はコロッと気分が変わることはない。それに対して、薬の場合は、わりと早い段階で勝負がつく。

著しい不適応思考の状態になって落ち込んでいる人に、いきなりカウンセリングを行っても、「どうせ、私なんかダメですよ。そんなことを言われても無理ですよ」という反応になることが多い。

悲観的になっている人に対して、カウンセリングをしても、有効に働かない場合があるのだ。

そんなときに、先に薬を処方して、ある程度通常の心理状態に戻してからカウンセリングを行っていくと、気分が軽くなったうえでのカウンセリングであるから、有効に働く場合が多い。

このほうが、再発予防につながりやすい。薬を使うかどうかは別にして、不適応思考をしている人に対しては、認知療法的なアプローチが求められる。

たとえば、ビジネスの場合においてであったなら、不適応思考をしている人に対しては、誰かがカウンセリング的なアドバイスをしてあげると、凝り固まった思考を修正しやすくなる。

自分ひとりで考えていると、先ほど言ったように、どんどんと悪いほうへ悪いほうへと考えてしまうからである。

2「スキーマ」の功罪 ▼スキーマとは何か?

認知心理学の世界では、不適応思考パターンの代表的なものに、「スキーマ」に縛られた思考というものがある。スキーマそのものは、決して悪いものではない。スキーマとは、物事の認知をするときのパターンだ。

たとえば、足が四本ついている台を見たときに、それがテーブルかイスかを瞬時に判断できるのは、スキーマのおかげだ。

「このくらいの高さだから、これはテーブルだろう」「これは背もたれがついているからイスだろう」と瞬時に判断できるのは、過去にたくさんテーブルやイスを見てきたことによって、頭の中にスキーマが作られているからである。

もし、スキーマがなければ、いちいち「これはテーブルですか?イスですか?」と聞いて確かめなければいけなくなる。

人間は、スキーマのおかげで、瞬時にイスだとわかるから、「これはイスですか?」と聞かずに、そこに腰掛けることができるのである。

スキーマは、このように思考のショートカットを行ってくれるので、物事を判断するときにとても便利なものだ。教育というのは、いわばスキーマを作ること、である。

知識を教え、経験を積ませることによって、頭の中にスキーマを作り、思考のパターンを作り上げて、無駄な思考をしないようにさせている。

「1+1=2」というのもスキーマであるし、ニュートン物理学もスキーマである。

そのようなスキーマのおかげで、「これは何だろう?」「1+1はいくつだろう?」という無駄な疑問を抱くことなく日々生活ができている。

▼頭がいい人ほど、スキーマに縛られがち

しかしながら、このスキーマが判断をゆがめてしまう場合もある。それは、スキーマにとらわれてしまったときである。

前述のテーブルとイスの例にしても、モダンアートなどの場合は、テーブルなのかイスなのかわからない作品もある。それなのに、勝手に「これはイスだ」と判断してしまう場合もある。

作者に対して、「すばらしいイスですね」と言って、「いや、これはテーブルなんですよ」と言われることがあるかもしれない。

アートの場合であれば、このような間違いも許されるだろうが、日常生活やビジネスの場面ではそういうわけにはいかない。

たとえば、売り上げがジリ貧になっているにもかかわらず、経営者が「うちは今まで、ずっとこのやり方で成功してきた」とか「うちの会社で不良品が出たことはない」というような自分のスキーマに縛られてしまっている、などという例は多い。

これはまさに、「あるやり方を採る」→「成功」というスキーマができあがってしまっている例だ。これらは「前例主義」と呼ばれることもあるが、まさにこれこそがスキーマに縛られた思考法そのものだ。

たとえば官僚には、前例主義の人が多いとされる。また、大企業ほど過去の成功体験を忘れられないとも言う。これは一般的に、官僚や大企業ほど高学歴の人が多いことと関係しているだろう。

高学歴なほど、知識は多い。物事をよく知っているし、過去のこともよく勉強している。逆に言うと、そうした知識によって、ガチガチのスキーマができあがってしまっているとも言えるのだ。

高学歴の人のほうが、知識にとらわれ、前例主義に陥り、柔軟な対応ができないことが少なくないのは、スキーマに縛られてしまっているためである。

▼スキーマが情報を見えなくしてしまう

スキーマに縛られると判断力がゆがめられてしまうが、実は、スキーマは、判断の基となる情報や知識にまでも影響を与えてしまう。

人間には、自分のスキーマに一致する情報だけを受け取り、一致しない情報は、受け取ろうとしない心理的傾向があるからだ。

たとえば、「血液型がA型の人間は几帳面である」というスキーマを持っていたとしよう。これ自体、根拠のあるスキーマとは言えない。

だが、それ以上に問題なのは、このようなスキーマを持っている人は、何でもその基準に当てはめて受け止めようとすることだ。

A型のある人がいつも待ち合わせに遅れずに来ると、「この人は時間に几帳面である」という部分にばかり目がいく。その人の机の上が散らかっていても、そういうところには目がいかない。

そして、「あの人はやっぱりA型だね。時間にきっちりしていて、几帳面だ」という判断を下してしまう。自分のスキーマと一致する情報だけを取り上げて、一致しない情報は目に入らなくなってしまうのだ。

そして、たまにA型の人で、几帳面でない人を見ると、「あの人は、A型だけど、例外なんだろう」とか「これは、一時的なもので、本当の彼は違う」というように思ってしまう。

たとえば、机の上が散らかっている人に対して、「時間に遅れないように出かけようとして、たまたま机を整理する時間がなかっただけじゃないか」などと好意的に解釈をするのである。

一致情報の記憶だけが促進されるから、机の上の汚さについての情報は忘れていき、「いつも時間に遅れない」という印象だけが残っていく。そんなことから、記憶のゆがみが生じてしまう。

「机の上が散らかっていると言うけど、あの人の机の上には、きちんとシステム手帳が揃えて置いてあった」というように、間違った記憶まで生み出していくのである。

■こんな思考に要注意!「あの人はA型だから、几帳面なんだよ」

▼そのスキーマには、ちゃんとした根拠があるか?

対人関係においても、スキーマとの一致情報だけが記憶に残り、不一致情報が切り捨てられる傾向がある。

仮に、「東大出は性格が悪い」というスキーマを持っている人がいたとしよう。その人がたまたま飲み屋で東大出の人と意気投合したとする。

「あなたは、東大出なのにこんなに性格が良くて、男っぷりも良くて、本当にすごいね。東大には、こんなやつは、滅多にいないだろうね」などと言い、相手も「そうですか。まあ、飲みましょう」などと答える。

次に、別の飲み屋で、また違う東大出の人と意気投合したとすると、「いやあ、俺ってなんてツイているんだろう。これまで二人しか東大出の人と会っていないのに、二人とも性格が良くて、例外で良かったよ」などと言いかねない。

それまでに東大出身者と会ったことがなかったのに、自分の中で勝手に「東大出は性格が悪い」というスキーマを作り出していたのである。

しかも、二人の東大出身者と会って、二人とも性格が良かったわけだから、自分のスキーマのほうを修正するのが自然に思えるが、自分のスキーマは修正しないで、「自分は運がいい。二人とも例外だった」などと考えてしまう。

笑い話のように思えるかもしれないが、同じようなことはよくある。

たとえば、「イタリア人は陽気で明るい。イタリア人みたいにならなきゃ、人生は楽しめない」と言っている人が、実は、人生の中で一人もイタリア人に会ったことがないということは、ありがちなことだ。

会ったこともないのに、勝手にイタリア人のイメージを作り出している。

テレビドラマなどでも、そのようなことは言える。テレビドラマに出ている俳優を見て、「この人は、こんな人だ」という思い込みを作ってしまうようなことだ。

悪役俳優などは特にその傾向が強いと思うが、実際に会ってみて「なんだ、こんなにいい人なんだ」という印象を持つ人も少なくない。

もちろん、その反対の人もいて、「テレビでのイメージはいいけど、実際には、こんな嫌な奴なのか」と思う人もいるに違いない。

いずれの場合も、自分は会ったこともない人なのに、自分の中で勝手にその人の性格などを作り上げて、それを信じ込んでいるのである。

そして、実はそれが違っていても修正しようとしない。こうしたスキーマをすべて改めなければいけないとは言わない。前述したように、スキーマは思考のショートカットを生み出すものであり、便利なものである。

だが、スキーマに縛られてしまったり、根拠のない思い込みをスキーマにしてしまったりしている可能性もあるので、ときどき自分のスキーマに疑いの目を向けることは必要だ。

特に、管理職や経営者の場合は、スキーマが経営判断に与える影響は大きいだろうから、意識的に、自分のスキーマを疑ってみる姿勢が大切だろう。

▼過去にこだわりすぎることも

スキーマのうちビジネスパーソンが判断をするときに、一番大きな影響力を持つスキーマとなるのが、過去の事例である。

先ほどの前例から抜け出せない経営者の例を出すまでもなく、よく勉強しているビジネスパーソンほど、古今東西の過去事例について詳しいので、その知識に縛られてしまう可能性がある。

また、経験豊富なベテランも、過去の事例に縛られて、柔軟な判断ができなくなってしまうことがある。たとえば、過去には規模を追求した経営をしてきてスケールメリットで成功した会社があるとしよう。

大量生産をするメーカーや、大量仕入れ・販売をする流通などがそれに当たるかもしれない。こうした会社の経営者は、過去の成功体験のイメージが強いために、それを踏襲しようとしがちである。

しかし、それが本当に現代のビジネス環境に適合しているかどうかを検討してみないと、うまくいかない場合も出てくる。

お客様のニーズが変化していて、スケールメリットよりも、小回りの利く、カスタマイズが上手なところのほうが成功しやすい環境に変わっているかもしれないのだ。大規模投資をしてスケールメリットを追求しても、成功できるとは限らない。

だが、過去の成功イメージが強いと、「スケールメリットで成功できる」という考え方がスキーマとなってしまって、判断を誤ってしまう場合もある。

第5章で事例として紹介するヤオハンや、一気に店舗数を増やしたためにその負の遺産を抱えて業績を悪化させたダイエーなどが、こういった例として挙げられるだろう。

だが、ここまで大きな例ではなくとも、「とにかく朝から晩まで電話をかけ続ければ売れる」「若者向けにはこの色を使えば売れる」など、比較的小さなスキーマが張り巡らされているような会社は特に注意をする必要がある。

スキーマは、人間の判断において、大きな要素を占めている。スキーマの重要性を知るとともに、自分のスキーマを疑ってみることも大切と言える。

■こんな思考に要注意!「俺はかつて、このやり方で成功したんだ」「若者には、この色が売れるんだ」

3認知的不協和を回避する ▼認知的不協和が判断をゆがませる

心理学でよく問題とされるものに、認知的不協和という現象がある。これは、自分の立場や思想信条に都合が悪いことを認めようとしないために、認知がゆがんでしまう現象である。

東大の社会心理学の授業では、第一回目の授業で次のようなことが行われるそうだ。

まず喫煙者と非喫煙者(ノン・スモーカー)に学生が分けられる。

「君たちの中で、たばこを吸う人はこちら側に座ってください。たばこを吸わない人は、こちら側に座ってください」と言うと、それぞれの人たちが教室の左右に分かれていく。

次に、たばこを吸う人と吸わない人のそれぞれに「日本人の愛煙家の割合はどのくらいだと思いますか」というアンケートを行う。

このアンケートを集計してみると、たばこを吸うグループでは、愛煙家の割合を高く見積もり、たばこを吸わないグループでは、愛煙家の割合を低く見積もるという傾向が出てくるのである。

喫煙者は、「みんなはたばこを好きなはずだ。愛煙家はけっこう多い」と考えるし、非喫煙者は「みんなはたばこを嫌いなはずだ。愛煙家はそれほどいないはずだ」と考える。

つまり、自分の立場や価値観によって、認知の仕方が違ってきてしまうのである。言い方を変えれば、自分の立場に都合の悪い認知をなるべく避けているのだ。

この例では、愛煙家の割合を答えてもらうというものなので、生活上の実害はないが、現実の生活においては、認知的不協和のために、健康上の問題も起こりやすくなってしまう。

禁煙者は、たばこを吸わないから問題はないが、喫煙者のほうは、「たばこが体に良くない」という事実を自分の認知の中に受け入れようとしない傾向がある。

たばこを吸う人のほうが肺ガンになる確率ははるかに高いのであるが、喫煙者たちは「たばこを吸っていても、ガンにならない人は、いっぱいいるじゃないか」「たばこを吸っていても、元気で九〇歳まで生きているお年寄りもいるじゃないか」と言って、たばこに害があるという情報を受け入れようとしない。

その一方で、「たばこを吸っているほうが痩せる」というような記事を見かけると、「そうだ、そうだ」と思ってしまう。「たばこはストレス解消につながる」というニュースを見れば、そのニュースに飛びついてしまう。要するに、自分に都合の良い情報だけを積極的に受け入れてしまうのである。

反対に、非喫煙者の場合は、「たばこを吸っているほうが痩せる」などというニュースを見ても、それを受け入れることができず、「たばこは百害あって一利なし」という信念は変わらない。

これもやはり、認知的不協和の影響が大きいと考えられる。

それぞれの側が、情報を得る時点で、自分の立場に左右されて、バイアスをかけて情報を受け取ってしまい、さらに、思考過程でもバイアスのために、どんどん自分の立場に都合の良い認知パターンを作り上げてしまうのである。

このように、自分の思想信条・立場などと不協和を起こす認知は受け入れず、自分に都合の良いように解釈していく傾向が、人間の心理的情報処理の特徴として挙げられている。それが認知的不協和というものである。

■こんな思考に要注意!「たばこを吸っていても、九〇歳まで生きている人だっているじゃないか」

▼イニシエーション効果に気をつける

認知的不協和が最も顕著に表れるのが、宗教などのイニシエーション効果と言われるものだ。

宗教の場合は、入るのが難しければ難しいほど、つまり、その宗教に多額の寄進をしなければいけないほど、その宗教のことを「良い宗教」だと思い込みやすい傾向がある。

悪徳宗教にだまされる人の多くは、心の中で認知的不協和が働いている。誰かに「この宗教はインチキだ」と言われても、それを信じたくない気持ちが強いから、信じようとしない。

インチキだと認めてしまうと、多額のお金を出した自分がいかにも愚か者ということになる。だから、認めようとはしないのだ。

そんなときに、教祖様とおぼしき人物が、「彼らは、わが宗教のことをひがんでいるだけだ。だいたい、良い宗教ほど迫害されるものだ。キリスト教を見てもわかるだろう」などと言うと、その言葉に飛びついて「そうだ。その通りだ」と思い込もうとする。

人間は、信じたくないことは信じないし、考えたくないことは考えないようにする傾向があるのだ。こうして、自分の過去の行動を正当化していこうとする。

開発のための初期投資に非常にお金をかけたため、後でその商品のニーズに疑問が出てきても、「ここまでお金をかけたのだから、今さらやめるわけにはいかない」という思いで、不利な情報を見ようとはしないなどということが、メーカーなどでは散見される。

後述する、モトローラによるイリジウム開発(第5章参照)などは、その典型事例と言えるかもしれない。

▼人間は信じたくないことを受け入れない

信じたくないことを受け入れないのは、イニシエーション効果に限らない。日常の議論でもよく起こる。

たとえば、政治家やマスコミが、増税議論をするときに、通常は、消費税の増税を議論しようとする。増税と言えば、消費税のことであり、誰も、「所得税を増税しよう」「累進税率をもっと高くしよう」という議論はしない。

だから、スウェーデン、デンマーク、フィンランドのように、国民負担率の高い国が国際競争力ランキングの上位に来ても、そうした情報はなかなか受け入れられない状態だ。

「北欧諸国と日本では、経済規模が違いすぎて、同じレベルで論じられない」という反論で一蹴されてしまう。

また、「実は累進税率が厳しかった時代のほうが経済成長率がはるかに高く、国民みんながよく働いていた」という議論をしようとしても、それも大方の政治家の認知には一致しないので、受け入れられないことが多い。

「敗戦の焼け野原から復興して発展を遂げた時期と、モノがあふれた成熟社会の現在では、まったく状況が違う」という見方で片づけられてしまう。

これらの情報は、数字のデータで示せるような情報だが、それでも、自分の認知と一致しない場合には、受け入れられない。

つまり、「数値」という客観性を持つと考えられるデータでさえも、作り上げられた認知の前では、無力同然であるということである。

これは、ビジネスパーソンが、判断力を養う上で、最も注意しなければならない点の一つだ。「数値でさえも、認知によって無力化される」という認識を持っておく必要がある。判断のために、心理学を知っておかなければいけないのは、こんなところにも理由があると言える。

▼人がやる気になる数値目標の示し方とは?

前項で例示した累進税率の問題に関しては、心理学的側面から言うと別の見方ができる。

心理学の世界では、目標の与え方に一定の原則がある。それは、到達不可能な目標を与えないということである。

マネジメントの場面に即して言えば、「売り上げを倍にしたら、給料を一〇倍にしてやる」と言って、不可能な倍増の目標を提示しても、誰もやる気にはなってくれない。

いくら給料を一〇倍にすると言っても、「そんなこと、できるわけない」と思われて、ほとんどの人が努力しようとしないのだ。

しかし、「来週の金曜日までにやるこの仕事を、もし、木曜日までにやってくれたら、一杯おごってやるよ」とか、「アポイントメントを取るために、電話の回数を倍にしたら、給料を少し上げてやる」というように身近な目標を示されると、やる気を出す人が多い。

「何日間か残業を多くすれば、一日くらい仕事を早めることはできる」と思えば、お酒をおごってもらえるだけでも、仕事を頑張ってしまうし、「電話の回数を増やすだけなら、やれないことはない」と思えば、わずかな給料アップでも頑張ってしまう。

同じことを、小学生のテストについて考えてみると、さらにわかりやすいと思う。

いつもテストで五〇点を取っている子供に「一〇〇点取ったらハワイに連れて行ってあげる」と言ってみても、子供はやる気を出さないし、一〇〇点が取れる可能性は少ない。

しかし、「じゃあ、次のテストで六五点とったら、少年ジャンプを買ってあげる」と言えば、そのほうが子供は勉強を頑張る。「六五点ならできないことはない」と思うから、頑張って勉強して、実際に六五点を取ったりする。ハワイよりもはるかに安い金額で、子供に勉強をさせることができるのだ。

もちろん、まれにハワイに行きたいと思って、頑張って勉強する子もいることはいるが、そういう夢想家タイプの子は、割合からすると非常に少ない。

要するに、目標を設定するときには、とてつもなく高い目標よりも、目の前の小さな目標のほうが、人はやる気を出す可能性が高いということである。

▼トヨタ社員のモチベーションが下がらない理由

これを先ほどの累進税率の話に置き換えてみると、累進税率が高くて、あまり差のつかない昔のような社会のほうが、人間のモチベーションは高まるということなのである。

「少し頑張れば、主任になれて、月給が一万円増える」「もう少し頑張れば、係長になれて、月給が三万円増える」といったような目の前の達成可能な目標のほうが、人のやる気を引き出すことが多い。

格差社会が進んで、「ものすごく頑張った人には、給料を今の一〇倍出す」と言われても、あまりやる気は起こらない。

一割くらいの人は、ものすごく頑張るかもしれないが、残りの九割の人は、初めからあきらめてしまう。九割の人があきらめてしまって働かなくなった社会のほうが恐ろしいのではないだろうか。

それよりも、累進課税を強めて、あまり格差を出さないようにしておいて、身近な目標を提示できる社会のほうが、活性化する可能性が高いのである。

その典型的な会社は、トヨタ自動車かもしれない。トヨタは、いまだに取締役と従業員の給料の差が小さいほうの会社だ。

海外の自動車会社や日産自動車などは、経営者と従業員の格差が大きいが、トヨタのように格差が小さい会社のほうが従業員がみな一生懸命に働く可能性がある。

一部の人に対する高い報酬は必ずしも、モチベーションのアップにつながらないのだ。

このように、格差を生み出す税制よりも、累進税率が高い社会のほうが、心理学的に見れば、モチベーションの高めやすい社会と言えるのだが、「累進税率を昔のように戻そう」という意見は、今の時代に賛同されることはまずない。

多くの人が、「累進税率をゆるめたほうが皆が働く」というスキーマを持っているためであろう。テレビ局のキャスターたちも、「累進税率を昔に戻そう」という意見には賛同しない。

ほとんどのキャスターにとって、それは手取金額の大幅なダウンになる。

それを意識しているわけではないと思うが、認知的不協和によって、自分の都合の悪い情報を避けようとする心理が働くため、累進税率強化には賛同しない、という見方もできるのだ。

▼自分のスキーマを検証してみると……

多くの人は、無意識のうちに、自分が得する情報を中心にして意見を組み立てようとする。

したがって、「自分が得する情報」か「自分が損をする情報」かを見極めることによって、自分自身のスキーマや思い込みを修正することができる。

たとえば、相続税の減税を主張する人には、自分が相続する財産をかなり持っている人が少なくない。相続税の減税をしてもらったほうが得をするので、相続税減税を主張しがちになる。

このようなときには、「相続税減税が自分にとって得であるか、損であるか」を考え、自分にとって得であると判断したら、そこに何らかの思い込みやスキーマがないかを疑ってみるといいと思う。

「相続税減税が経済を活性化する」とか「相続税よりも消費税に税源をシフトすべきだ」というような、自分にとって都合の良い情報や理論をもとにしてしまっていないかをチェックしてみるといいだろう。

私の場合は、相続税一〇〇%論者だが、それを主張するにあたって、自分にスキーマがないかどうかを考えてみた。相続税を一〇〇%にして、私が得をするかと言えば、はっきり言って損をする。

それなりの財産はあるつもりだが、子供に一円も財産を残してやれなくなるからだ。子供たちには申し訳ないと思うが、自分が損をする主張だから、あまりバイアスはかかっていないだろうと考えている。

また、教育問題に関しては、私は「もっと子供たちに勉強をさせろ」という意見を持っているが、その意見が自分にとって得か損かも考えてみた。

教育産業の会社を経営しているので、みんなが勉強をする社会になれば、私は得をする。そういう点では、私の主張には何らかのバイアスがかかっているのかもしれない。

だが、妻からは、「子供が大学に入ってから言えばいいのに」と言われている。みんなが勉強をするようになってしまえば、私の娘たちにとっては、受験競争が厳しくなるから、損である。

子供が大学に受かってから、「みんなが勉強をする世の中」になってもらったほうが、和田家としては得である。「精神科医として言わせてもらえば、勉強なんかさせていたら、子供がみんなおかしくなってしまう。教育ママたちは、子供の精神面に悪影響を与えている」と、テレビや本で主張をしまくり、その間に、家では娘に一生懸命に勉強させる。

そのほうが私にとっては得なことと言える。

▼自分に都合のよい選択をしていないかをチェックする

私が灘中、灘高にいたころ、マスコミではかなり強烈な受験批判が繰り返されていた。だが、なぜか朝日新聞記者の子供やNHKに勤務する人の子供が何人も灘高に来ていたのを覚えている。

メディアを通じて、他人には「あまり勉強させないほうがいい」と主張しつつ、自分の子には受験校で勉強をさせていたのだ。

ゆとり教育が導入されたころ、文部科学省は、公教育の授業時間を削減し、ゆとり教育を推進していた。

しかし、一部の文部官僚の子供たちは、中学受験をして中高一貫校に通って、ゆとり教育とは無縁の世界で勉強をしていたという。

このように見てみると、マスコミも官僚も自分の子供に都合よく、論陣を張っていたのではないかという穿った見方もできる。

私自身、自分の主張する「ゆとり教育批判」が自分にとって得か損かというチェックをしてみると、娘たちの受験が厳しくなって不利益を被る可能性はある。

しかし、娘たちが大学に合格するまで一〇年も待っている余裕はこの国にはないと判断した。日本の小中学生の学力が急速に落ち込み、中国や韓国の子の学力にすでに抜かれているのである。

一刻も早く立て直さないと経済まで抜かれてしまうと心配になったので、その危機を伝えるためには、ゆとり教育批判を展開せざるを得なかったのである。

自分の主張にまったくバイアスがないとは言えないけれども、それほど大きなバイアスはかかっていないだろうと考えている。

何かを判断する際、そこに気づかないうちにスキーマが潜んでいないかを確認することは、判断ミスをなくすだけでなく、自分の主張に説得力を持たせることにもなるだろう。

▼日本人は特に、スキーマに気をつけるべき

ここまで、二分割思考、スキーマ、認知的不協和などについて見てきた。

日本人と外国人、特に欧米人の特徴を比べた場合、日本人は二分割思考に陥る傾向は、比較的少ない。完全主義思考の人は少なくないが、白か、黒かにはっきり分ける二分割の発想法はわりと少ないのではないだろうか。

日本人は、曖昧な部分、グレーの部分で妥協することは得意である。落としどころを決めておいて、現実的な対応をするので、二分割のような思考パターンは少ないかもしれない。

曖昧で、白黒はっきりつけられないという欠点のほうが目立ちがちだ。二分割思考に関しては、それほど心配しなくてもいいのかもしれない。

ただ、郵政民営化の議論や拉致問題への対応等をみていると、日本人も危険になってきている気もする。

スキーマについてはどうかというと、日本の教育は、正解を教えて、それを疑うことを許さないタイプの教え方が多いから、スキーマは作られやすい。良きにつけ悪しきにつけ、教育において、スキーマ作りが熱心に行われている。

官僚機構や自治体の公務員たちは、前例主義を採ることが多いが、彼らに限らず、総じて日本人は前例踏襲主義の考え方が比較的強い。

認知的不協和に関しては、こちらは人間の性みたいなものだから、日本人であろうと外国人であろうとそれほど変わらないだろうと思う。

自分の立場や思想信条に左右されて、自分の都合の悪い情報を受け入れず、自分に都合良く情報を受け止める認知の仕方は、どの国の人でもあまり変わりはない。

そのほか日本人の特徴として挙げられるのは、次の項で紹介する「属人主義」だ。昔から日本人は「権威のある存在」「お上」にはまるで弱い存在だった。

なぜそうなのか、その理由を見ていこう。

4日本人の陥りやすい「属人主義」 ▼属人主義も不適応思考につながる

次に、社会心理学的見地から、不適応思考について見てみる。

社会心理学者の岡本浩一氏がかねてより強調しているのは、ものの考え方には、属人主義と属事主義の二つの考え方があるということだ。

属人主義というのは、「偉い人がこう言ったから、こうに違いない」「素人が言っているのだから、こんなことは間違っている」という考え方だ。

それに対して属事主義は、どんなに偉い人の理論でも、素人の意見でも、事実に即して是々非々で対応する考え方だ。

たとえば、「ケインズはこう述べているから、経済政策はこうすべきだ」とか、「フロイトはこう言っているから、人間の心理というものは……」というように、偉い人、権威者の言っていることだから正しいという考え方が属人主義である。日本人はこのような権威者の発言にとても弱い。

政府の委員会では、官僚が属人主義的な発想で審議会や諮問委員会の委員を選ぶので、委員のほとんどが教授や著名人になってしまったりする。

大学でのインセンティブ・システムを考えるなら、本当は教授よりも准教授(最近まで助教授と呼ばれていた)を委員にしたほうが有効ではないかと思われる。

教授は、いったん教授職を得てしまうと、セクハラのような問題を起こさない限り、その地位は安泰だ。

研究をしてもしなくても、実績を上げても上げなくても、教授でい続けられる。

しかし、准教授は、一生懸命に勉強して、実績を上げないと教授にしてもらえないから、その分野のことに関して非常に専門的である。

医学部などでも、教授よりも准教授のほうが、治療技術が高かったりするものだ。

だから、審議会委員には現役バリバリの准教授クラスの人を集めたほうが、最新の研究成果に基づいて、クオリティの高い審議ができるはずなのだ。

しかし、官僚たちは、実績を判断するという発想があまりない。

「准教授よりも、教授のほうが、世間が納得する」と考えて、教授クラスの人を集めてしまう。

■こんな思考に要注意!「第一人者である○○大学の○○先生はこう言っている」

▼「偉い人」ばかりを選ぶことの危険性

民間から登用する場合も同じことが言える。

たとえば、教育政策を審議するような会では、ノーベル賞学者がトップに選ばれたりする。

ノーベル賞を取るような人なら大丈夫だという発想だ。

だが、ノーベル賞を取っているのは、物理学の世界や化学の世界での話であり、教育で実績を残したというわけではない。

これは、野球界で絶大な実績を残した長嶋茂雄氏に、サッカー日本代表監督をお願いするような発想である。

アメリカでは、ノーベル賞受賞者がたくさんいるから、このような発想はない。

もっとも、教育再生会議座長の野依良治さんの場合は、教育面での実績もある。

しかし、選ばれた理由は、野依さんの教育実績ではなく、「ノーベル賞を取った野依さんだから」という要素が大きいと思う。

このような属人主義的な発想のため、安倍内閣では、三つも審議会を掛け持ちしている人がいると新聞で報道されていた。

つまり、偉い人は何をやらせてもできるだろう、という発想なのである。

事実に即して、是々非々で判断する属事的発想ではない。

世界の中には、まれにレオナルド・ダ・ヴィンチのように、何をやっても傑出した人物もいるが、そのような人は、世界中でも数えるほどしかいないはずだ。名前よりも、現在の実績を重視していかないと、人選の判断を誤るのではないかと思う。

▼企業における属人主義

企業内でも属人主義はまかり通っている。

たとえば、経営者が誰かの意見を参考にしようとするときに、一流のコンサルティング会社にコンサルティングを依頼することがある。

そして、現場の平社員の意見は、それが良い意見であろうと決して耳を傾けることをせずに、その一方で、著名なコンサルタントの意見はなんでも聞こうとしてしまう。これも属人主義的な発想の一つだ。

著名なコンサルタントの案が一番良い案とは限らず、社内事情をよく知っている平社員のほうが良い案を出すこともあるだろう。

だが、「平社員の言うことなんか聞けるか」という発想で、良い意見を出しても切り捨ててしまうのだ。

トヨタ自動車はこうした属人主義的発想とは違った発想を持っていると考えられる。トヨタの「カイゼン」というのは、現場の意見を聞いて、現場のアイデアでも「いいものはすぐに取り入れていこう」という発想である。

工場勤務の平社員が「この作業台はあと一〇センチ高くしたほうが作業がしやすいのではないでしょうか」とか「この作業台とこの作業台の距離を短くしたほうがやりやすいと思います」という案を出したとすると、それをなるべく取り入れて、やってみる。

「誰が言ったか」ではなく、あくまでも「何を言ったか」というアイデアの中身で判断する。平社員の言ったことでも、良い案なら取り入れていくのだ。

こうして、現場のアイデアで「カイゼン」を積み重ねてきたからこそ、あれだけの業績を上げているのだと思う。

私もトヨタの内部事情を詳しく知っているわけではないが、伝え聞く限り、「平社員のアイデアだから無視する」というような属人主義的な発想はあまりない企業のようだ。

それに対して、属人主義的な会社は、著名な心理学者や人間工学の専門家などにコンサルティングをしてもらい、「この作業台はもっと低くしたほうがいい」などと言われると、「先生のおっしゃるとおりです」と言って、そのアドバイスに従ってしまったりする。

現場では、「こんな高さじゃ、やりにくい」という声が出ていても、「第一人者の先生の言ったことだから、これが正しい」と言って切り捨ててしまう。

どちらがいいかは、実際にやってみなければわからないことだが、属人主義的な発想の会社では、下の人の意見は初めから門前払い状態になってしまう。

これでは、経営にとっては大きなマイナスのはずである。「属人主義」の経営者は、判断を下すときに、ミスを起こす可能性が高くなることを知っておく必要がある。

▼会議の場における属人主義

会議の場においても、属人主義的な発想で会議を行っている会社は少なくないのではないかと思う。たとえば、議長を務める部長が「これは誰の提案なの?」と聞くような会社は、属人主義的な会社と言えるだろう。

部下が「先日、社長がおっしゃっていた提案です」と言えば、「ああそうか。じゃあ、これはやろう」となってしまう。

「新入社員の○○くんが出した案です」と言えば、「新人の案か?新人たちはまだ仕事のことが何もわかっていないからな。まあ、意欲だけは認めておこう」と議論の対象にもされないかもしれない。

社長の案は良くて、新人の案はダメというのでは、本当に良い案を検討することはできない。

実際、論文の審査では、一般的に著者の名前の部分を外して審査するのだ。

また、「社長の案が常に正しい」ということになってしまえば、下の人間は社長の単なるイエスマンになって、みんなが社長の顔色をうかがうようになってしまう。世襲系の企業によくありがちなことだ。

一連の不祥事を起こした企業には、世襲系企業が多いが、こうした企業は、社員の大半が社長に気に入られようとするような属人的な企業だったと考えられる。

そもそも、「世襲」ということ自体が極めて属人的な発想である。属事的な発想であれば、実績を判断して誰が社長になるかを決めるはずだ。

もちろん、そこで二代目、三代目が申し分のない実績を上げているのなら何も言うことはない。だが、実績よりも、血筋が重視されているというのなら、属人的な発想である。

日本では国会議員の世襲がよく問題になる。議員の中には、二世議員、三世議員も多い。

こうした人の中には、実績を残している人もいるが、多くの場合は、初出馬する時点では、父が引退したり、他界したりしたために、その地盤を生かして立候補したような人たちである。

実績を残して、政策をアピールして当選したというよりも、後援会が「あの偉い先生の跡取り息子だから」とか「先代の先生には大変お世話になったから、息子さんにも一票を」と判断して投票をしている。

実力のある政治家が他界したあとの相続的な選挙区では、実績のない跡継ぎが、多大な票を取って当選してしまうことが多い。

つまり、属人的な投票によって支えられていると言っていい。日本では小泉純一郎前首相も安倍晋三首相も三世議員だ。アメリカでも、ブッシュ大統領は二世である。

選挙で選ばれているとはいえ、属人的な要素も否定できない。北朝鮮の世襲も、まさに属人的そのものと言える。共産主義国なのに、金日成のあとを金正日が継いでいて、さらにその息子の誰に継がせるかが話題となっている。

金一家で受け継がれてきた国なのである。

ただし、朝鮮半島の場合は、世襲に対する感覚は私たちとはやや違っているようだ。朝鮮半島は儒教が影響力の強い国だから、子が親を敬う文化が重視されている。

そのため、「金正日が金日成を受け継ぐのは当然である」という見方が、韓国内にもあるようだ。

韓国の一部の人たちの間では、「北朝鮮は子が親を敬う文化がまだ残っていて立派である」という肯定的な受け止め方もあるようだ。

話はそれたが、世襲というのは、基本的には属人的な発想である。

政治の世界ではこうした世襲が多いが、企業が存続をかけて闘うときに、本当に世襲でいいかどうかはまた別問題と言えるだろう。

■こんな思考に要注意!「この企画は、誰の企画なの?」

▼社外取締役も属人主義の典型

ひところ、日本の企業の間では社外取締役の話題が盛んだった。

大手企業でも、積極的に社外取締役を求めていたが、人材不足のためか、著名経営者がいくつもの企業の社外取締役を務めたり、大学教授などが社外取締役となって経営に参画した。しかし、著名な経営者が、業種が違う会社の経営をできるとは限らない。

流通の人がメーカーのビジネスで良い経営判断を下せるとは限らないし、その会社のことを何も知らない人が取締役として良い意思決定ができるとも思えない。

大学教授ならなおさらで、学問的にはすばらしい実績の持ち主でも、経営判断が下せるかどうかは未知数である。その上、多くの場合複数の会社をかけもちしているのだ。

そういう意味では、日本の企業は社外取締役については完全にはき違えていたと思う。また、経営再建のために著名経営者や著名人をトップに持ってくる会社もあるが、これも本当に成功するかどうかは疑問である。

ここでは名前は挙げないが、いくつかの会社で裏目に出ていることは、読者の方のほうがよくご存じではないかと思う。こうした人事もまた、属人的な人事である。属人的な発想法は、あまりメリットを生まないのだ。

経営者の判断は、企業の先行きに重大な影響を与える。

そういう点からすれば、属人的な発想になっていないかどうかをチェックしてみることは重要なポイントの一つと言えるだろう。それをチェックするだけでも、判断において、大きな間違いをする可能性が小さくなると思う。

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