「ずれ」による摩擦
韓国では、箸とスプーンを使って飯を食う。厳密には箸でおかずを食し、スプーンで飯を食ったりスープを飲んだりする。食事の際には食器を持ち上げてはいけない。だいたい金属の食器であるから、熱くて持ち上げることはできない。
日本では、箸ですべての食事を済まし、茶碗は持ち上げなければマナー違反となる。
韓国の食事のルールを日本人俳優に伝えて実際に演技をさせてみる。俳優であるから、もちろん言われたとおりに演じることができる。
しかし、そこに台詞が入ってくると、やがて知らず知らずに、左手で茶碗を持ち上げていたりする。そしてそのとき私たちは初めて、自分たちが「どのように」食事をしているかを認識することができる。
私たち日本人が、「自分たちは茶碗と箸で飯を食っているのだ」ということを自ら認識したのは、一四〇年前、ナイフとフォークで食事をする西洋人と出会ったときだろう。
これは、「What」に関する認識である。しかし、それだけでは俳優の演技の根拠としては物足りない。私たちは「How」を知りたいのだ。
そしてこの「How」の認識は、近い文化との「ずれ」から得られることが多い。文化摩擦や誤解など、ネガティブな事柄も同様だ。
私たち日本人は、靴を脱いで上がり框に足をかけるとき、脱いだ靴をくるりと反転させる。
しかし、聞くところによると、韓国の方たちはこれを嫌がるらしい。「そんなに早く帰りたいのか」と思うのだそうだ。
この現象は、靴を脱いで家に上がるという文化を共有しているからこそ起こる摩擦だろう。
西洋人との間なら、「ここは靴を脱いでください」という言語コミュニケーションが介在するから、摩擦は顕在化し、その都度解消される。
しかし、靴の向きを変えるか変えないかといった些細な事柄は、私たちの日常の中では見過ごされがちだ。
両国にいまだに根強い嫌韓、反日の感情も、こういった近親憎悪的な事例、あるいはそこに由来・派生する事柄が多くある。
日韓だけではない。世界中を見渡しても、隣国同士はたいてい仲が悪い。
その原因の一つは、文化が近すぎたり、共有できる部分が多すぎて、摩擦が顕在化せず、その顕在化しない「ずれ」がつもりつもって、抜き差しならない状態になったときに噴出し、衝突を起こすという面があるのではないか。
「そんなに早く帰りたいのか」と思う韓国人に対して、「そんなふうに悪くとらなくてもいいだろう」と日本人は思うだろう。
実生活では、この程度で止まっておけば問題がないが、こういった「ずれ」が蓄積し、鬱積し、「だから日本人は信用できない」「韓国人は日本人のことを何でも悪くとる」といった一般化が始まるとやっかいなことになる。この小さな「ずれ」が、いくつもの亀裂となって文化摩擦が起こる。
だから、そうなる前に私たちは、文化の違いというものを正しく自覚し、またそれを丁寧に丁寧に解きほぐしていかなければならない。
銀のサモワール
演劇の世界でも、実際、これが「ずれ」ではなく、大きな「違い」だったら、私たちはもう少し注意深くなるのではないか。アントン・チェーホフは、約一〇〇年前のロシアに生きていた近代戯曲の父である。
日本の多くの演劇人が一度はチェーホフの戯曲を演じるわけだが、これが一〇〇年前のロシアが舞台になっているから、私たちには意味のわからない台詞がよく出てくる。
たとえば、「銀のサモワールでお茶をいれてよ」という台詞がある。
さて、では読者諸氏の中で、実際にサモワールでお茶をいれたことのある人が何人いるだろうか?私は二〇年のワークショップ講師の経験の中で、実際にサモワールを使ったことがあるという人間に、累計で二七人と出会った。
これを多いと見るか、少ないと見るかは人それぞれだろうが、ある一定数は確実にいるのだ。二七人のうち、五人はロシア人だった。二人はリトアニア人、一人はポーランドからの留学生。あとは日本人だった。
その一九人の日本人のうちの一人は、大阪芸大の教授を長く務められ、劇団☆新感線や南河内万歳一座を育てた劇作家の秋浜悟史先生だった。
昔の新劇の方は真面目だったから、わからないことがあると百科事典を調べたり、ロシア料理店に行ってサモワールなるものを使わせてもらって事態の把握に努めた。
そこまでのことはしなくても、俳優なら、このような意味のわからない台詞にぶつかったときに、「サモワールって何?」と考えて、何らかの方法で想像を巡らすことだろう。
しかし、「旅行ですか?」という台詞は、意味がわからないわけではない。
「『旅行』って何?」「『旅行ですか?』って、どう言えばいいの?」とは考えない。考えないで、ぽろっと言ってしまうから、存外、うまくいかない。意識のできないコンテクストの「ずれ」にこそ、落とし穴がある。
バルコニー
シェイクスピアでも同様だ。
シェイクスピアの作品中もっとも有名な『ロミオとジュリエット』、その中でもさらに名にし負うバルコニーのシーン。
さて、しかし、読者の中にバルコニーのある家に住んでいる人が、どれほどいるだろうか?もちろん、バルコニーの意味はみんな知っている。
だから「バルコニー」は、「サモワール」よりは「旅行ですか?」に近い。だが私たち日本人には、よくわからないことがある。バルコニーのある家というのは、一体どのくらいの金持ちなのだろうか。そして、そのことがわからなければ、ジュリエットの哀しみはよくわからない。
『ロミオとジュリエット』は、よく知られているようにモンタギューとキャピュレットという二つの名家が仲違いをしており、その息子と娘が、決して添い遂げられない恋に落ちることから悲劇が起こる。
そしてこの物語を、人類は四〇〇年以上も見続けている。
これが、そこら辺の商店街の仲の悪い八百屋と魚屋の娘と息子の話なら、人びとはこれほどの関心を示してはこなかっただろう。
では、それほどの金持ちとはどのような生活をしているのか。バルコニーの高さは?ロミオが忍び込んで夜のやみに紛れるうっそうとした庭とは、どれくらいの広さなのか?私たちにはわからない。
しかし、わからないから考える。イメージの壁があれば意識をする。これは、コンテクストの「ずれ」ではなく、「違い」である。
「ボウリングに行こうよ」
シェイクスピアは四〇〇年前、チェーホフは一〇〇年前だが、もっと身近な例もある。
二〇世紀のアメリカを代表する劇作家テネシー・ウィリアムズの作品が日本に紹介されはじめたのは、一九五〇年代だった。
のちに杉村春子さんの名演で評判をとる『欲望という名の電車』の中に、何度か「ボウリング」という単語が出てくる。しかし、当時の日本の俳優たちは、ボウリングを知らなかった。
先ほど読者子の多くが、おそらく「サモワールって何だ?」と思ったのと同じように、当時の俳優たちは、「ボウリングって何だ?」と考えた。
困った彼らは、翻訳した大学教授のところをわざわざ訪ねて、「ボウリングって何ですか」と質問したそうだ。
しかし、その教授先生も、いまのように自由にアメリカに行ける時代ではなかったので、ボウリングを見たことがなかった。
そこでその先生はあらためて辞書で調べて、「どうもボウリングというのは鉄の球で棒を倒す遊びらしいよ」と答えたという。
これでは、「ボウリング」の意味はかろうじてわかるかもしれないが、「ボウリング」のイメージはちっともつかめない。
イメージがつかめなければ、この台詞のコンテクストは理解できない。
たとえば、話をわかりやすくするために、「ボウリングに行こうよ」という台詞があったとしよう。この台詞を劇作家が書くということは、ボウリングに行くことが大事なわけではない。
台詞の発話者と、その相手が、「ボウリングに行こうよ」と言いあう間柄であるということを、劇作家は客席に伝えたいのだ。
いま、この文章を読んでいる多くの皆さんは、おそらくご自身がボウリングをするしないにかかわらず、「ボウリングに行こうよ」という言葉が、どんなときに、どんな間柄で発せられるかを想像できるだろう。
初対面の人に、「つかぬ事をお伺いしますが、今日ボウリングに行きませんか?」とは聞かないし、一八歳の男の子が一七歳の女の子をデートに誘うのに、「ねぇ、これから将棋指さない?」とは言わない。いや、たぶん、滅多に言わない。
「田中先生が大好き」
台詞のコンテクストとは、すなわち、劇作家がその台詞によって、観客に何を伝えたいのかを意味する。
こういった事柄について、大阪大学の大学院生、特に理系の学生たちに興味を持ってもらうのがいまの私の仕事なので、たとえば授業では以下のような話をする。
いま、この「コンテクスト」という概念は、人工知能や人工言語の世界でも注目を集めている。コンテクストを理解するコンピューターを開発しようとしている研究室は、阪大の中にも多数ある。
逆に言えば、コンピューターはコンテクストを理解するのが苦手だ。
ここでクイズを出す(このクイズ自体も、人工知能の開発者から聞いたものである)。皆さんに小学校一年生くらいの子どもがいるとしよう。
その子が、学校から嬉しそうに走って帰ってきて、「お母さん、お母さん、今日、僕、宿題やっていかなかったんだけど、田中先生、全然怒んなかったんだよ」と言ったとする。
私は学生たちに問いかける。
「さぁ、皆さんはいいお母さん、いいお父さんです。何と答えますか?」学生からの答えはまず、「宿題は、やんなきゃダメでしょう」といった類のもの。それから、「よかったね」というもの。そして、「どうして怒られなかったんだろう?」といった疑問形型に大別される。
さて、コンピューターに子どものこの発言をインプットすると、主に二つの情報がCPU(中央処理装置)に伝わる。
「宿題をやらなかった」そして、「にもかかわらず怒られなかった」コンピューターは、過去の蓄積からしか答えが出せないので、「宿題をやらなかった」に対しては、「宿題はやらなきゃダメ」という答えが返ってくる。
一方、「にもかかわらず怒られなかった」に対しては、「よかったね」「儲かったね」という答えが返ってくる。
さて、しかし、本当に子どもがお母さん、お父さんに伝えたかったことは何だろう。クイズだと書いたのには、訳がある。要するに落とし穴、引っかけがあるのだ。
この問題の落とし穴は、「嬉しそうに走って帰ってきた」という点にある。
嬉しそうに走って帰ってきてまで、「宿題やらなかったのに、怒られなくって儲かっちゃったよ」ということを親に伝えたいひねくれた小学校一年生はあまりいない。おそらくその子が、走って帰ってきてまで伝えたかったのは、「田中先生は優しい」「田中先生が大好き」という気持ちだろう。そうでなければ、「嬉しそうに走って帰ってきた」という理由を説明できないから。
「胸が痛いんです」
一般に、子どもに接するときの優れたコミュニケーションとは、子どものコンテクストを受け止めて、さらに「受け止めているよ」ということをシグナルとして返してあげることが肝要だと言われている。
もとより、子育てや教育に一般解はないのだが、クイズとしたからにはあえて回答を作るとすれば、「あぁ、田中先生優しいね。でも明日は怒られるかもよ」と答えてあげるのが、一番いいとされる。
ここで、「宿題はやらなきゃダメ」といきなり宿題の話をすると、子どもはきょとんとしてしまうのだ。その子どもは、田中先生の話をしているのであって、宿題の話をしているつもりは毛頭ないのだから。
あるいは、私を阪大に呼び寄せた鷲田清一前阪大総長の文章にあった以下のような話。ダメな看護師さんというのはわかりやすい。
患者さんが「胸が痛いんです」と言ってくると、「大変だ、先生呼んできます」と自分もパニック状態になってしまうような人。これはダメだ。
標準的な看護師さんは、「胸が痛いんです」と言われると、「どう痛いんですか?」「どこが痛いんですか?」「いつから痛いんですか?」と問いかける。これは当たり前の行為。
しかし、患者さん受けのいい、コミュニケーション能力の高いとされる看護師さんは、そうは答えないそうだ。患者さんから「胸が痛いんです」と言われると、そのまま「あぁ、胸が痛いんですね」と、まずオウム返しに答える。
ただの繰り返しに過ぎないのだが、これが一番患者さんを安心させるらしい。おそらく、このことによって、その看護師さんは、「はい、私はいま、あなたに集中していますよ。忙しそうに見えたかもしれないけれど、いまはあなたに集中していますよ」ということをシグナルとして発しているのだと考えられる。
患者さん受けのいい看護師さんは、こういったノウハウを暗黙知として身につけているのだ。
ホスピスでのコミュニケーション
あるいは、私の同僚の医療コミュニケーションの専門家から聞いた話。ホスピスに末期癌の患者さんが入院してきた。五〇代の働き盛りの男性で余命半年と宣告を受けている。
奥さんが二四時間、つきっきりで看護をしている。さて、この患者さんに、ある解熱剤を投与するのだけれど、これがなかなか効かない。
奥さんが看護師さんに、「この薬、効かないようですが?」と質問をする。ホスピスに集められるような優秀な看護師さんだから、患者さんからの問いかけには懇切丁寧に説明をする。
「これは、これこれこういう薬なのだけれど、こちらの他の薬の副作用で、まだ効果が上がりません。もう少し頑張りましょう」奥さんはその場では納得するのだが、翌日も、また同じ質問をする。
看護師さんは、また親切に答える。それが毎日、一週間近く繰り返されたそうだ。やがて、いくら優秀な看護師さんでも嫌気がさしてくる。
ナースステーションでも、「あの人はクレーマーなんじゃないか」と問題になってくる。
そんなある日、ベテランの医師が回診に訪れたとき、やはりその奥さんが、「どうして、この薬を使わなきゃならないんですか?」とくってかかった。
ところが、その医師はひと言も説明はせずに、「奥さん、辛いねぇ」と言ったのだそうだ。奥さんは、その場では泣き崩れたが、翌日から二度とその質問はしなくなった。要するに、その奥さんの聞きたかったことは、薬の効用などではなかったということだろう。
「自分の夫だけが、なぜ、いま癌に冒され、死んでいかなければならないのか」を誰かに訴えたかった、誰かに問いかけたかった。しかし、その問いかけへの答えを、近代科学、近代医学は持っていない。
科学は、「How」や「What」については、けっこう答えられるのだけれど、「Why」については、ほとんど答えられない。
もちろん、大ざっぱな答えは、いくらでも出せるだろう。
「この人、タバコの吸いすぎでした」「この人は、食生活が悪かった」しかし、同じだけタバコを吸っていても癌になる人もいれば、ならない人もいる。
遺伝子の研究などがもっと進んでいけば、その説明はもう少しましにはなるのだろうが、やはり究極のところでは、「Why」に答えることは難しい。なぜなら、人間存在それ自体に、理由がないのだから。
では、「奥さん、辛いねぇ」と言ったところで癌が治るかと言ったら、これはまったく治らない。しかし、ご承知のように、ホスピスは癌を治す医療機関ではないのだ。
治らない癌の患者さんとその家族に、残りの半年間を充実して過ごしてもらうのが、この医療機関のスタッフの役目となる。
ただ、想像してもらえばわかると思うが、「余命半年」と言われて、「それでは、この半年間は、こうこうこの様に過ごしたいです」と理路整然と言ってくれる患者さんや家族の方が稀だろう。
たいていの方たちは、そのような宣告を受ければ、泣いたり、叫んだり、パニック状態に陥ったりする。終末医療の従事者は、その声なき声の中から、コンテクストをくみ取らなければならない。
実際、私は、最初に大阪大学に呼ばれたときに、医学部出身の幹部の方から次のように言われた。
「医者や看護師というのは、昔は病気や怪我を治してあげれば、患者からも家族からも感謝されたいい商売でした。貧乏だったけど、誇りの持てる仕事でした。でもいまは、医療が高度化しすぎて『治す』ということ自体が、医者自身にもよくわからなくなってしまった。患者さんや家族の気持ちも複雑だ。
一分一秒でも長く生きたいのか、痛みを緩和したいのか、家に帰りたいのか、一瞬でも職場に戻りたいのか、家族と一緒にいたいのか、一人になりたいのか。さらに、そういった気持ちも、一人に一つではない。それらをできる限りくみ取れないと医療行為にあたれないという時代になっている。
ならば阪大では、できる限りそれをくみ取れるような医者や看護師を育てたい。そのためにこのコミュニケーションデザイン・センターを作り、あなたを呼んだのだ」
どのコンピューター学者に聞いても、あるいは脳科学者に聞いても、人間と同じようにコンテクストを理解するコンピューターを開発するのは、今世紀中は無理だろうと言われている。
もちろん限定的な場面では、そのような能力を持った機械はいくらでも開発できるだろうが、人間と同じようにというのは、なかなか難しいらしい。
ということは、今世紀中、すなわち私たちが生きている間は、子育てや教育や、看護や介護は、やはり人間がせざるをえない。
ロボットやコンピューターは、その手助けは、いくらでもできるかもしれないが、直接的には、我々人間が、この仕事を担わざるをえない。
なぜなら、子どもに代表される社会的弱者は、他者に対して、コンテクストでしか物事を伝えられないからだ。
「田中先生が好きなら、田中先生が好きって言えばいいじゃないか」と私たち大人は思うのだが、それを子どもたちは「宿題の話」で伝えようとする。そして、その「気持ち」を理解できるのは、いまのところは人間だけだ。
弱者のコンテクストを理解する
東日本大震災以後、リーダーの資格ということが多く問われてきた。大学でもリーダーシップ教育が、声高に叫ばれている。
通常、そういった場面で言われるリーダーシップとは、人を説得できる、人びとを力強く引っ張っていく能力を指す。
しかし、私は、これからの時代に必要なもう一つのリーダーシップは、こういった弱者のコンテクストを理解する能力だろうと考えている。
社会的弱者は、何らかの理由で、理路整然と気持ちを伝えることができないケースが多い。いや、理路整然と伝えられる立場にあるなら、その人は、たいていの場合、もはや社会的弱者ではない。社会的弱者と言語的弱者は、ほぼ等しい。
私は、自分が担当する学生たちには、論理的に喋る能力を身につけるよりも、論理的に喋れない立場の人びとの気持ちをくみ取れる人間になってもらいたいと願っている。
強いリーダーシップへの疑義と、その危険性については、第五章で詳しく述べた。
どちらのリーダーシップが社会を幸福にするかは、私にはわからない。しかし私は、弱者のコンテクストを理解する能力を持ったリーダーを望む。また、そのような学生を育てたいと強く願う。
コンテクストを理解する能力
授業の中では、ここでも学生たちを安心させるために、私は次のような話もする。
「ここまで聞いてきて、皆さんは『コンテクストを理解すること』の大事さについて考え、そしてそれを、たいへんなことだと感じているかもしれません。しかし、この能力は誰にでも備わっているもので、特殊な能力ではないのです」
たとえば、先に掲げた「ボウリングに行こうよ」という台詞。
一八歳の男の子が、一七歳の女の子に、「ボウリングに行こうよ」と言っていたとする。あなたは、それをたまたまそばで聞いてしまった。
さてあなたは、「この男の子は、本当にボウリングが好きなのだなぁ」と思うだろうか。もし思ったとすれば、それはそうとうに野暮な人間だろう。
実際には誰もが、この男の子は、女の子をデートに誘っているということが、簡単に理解できるはずだ。だが、コンピューターは、こういった会話を理解するのが苦手だ。
「ボウリングに行こうよ」には、好きも嫌いも書かれていないから。
おそらくこれからは、統計処理などを使って、このような事柄を類推するコンピューターが出てくるのだろうが、いまのところ、この分野ではまだ人間の方が若干勝っている。
コンピューターは、自分自身では、その情報がどんな価値を持つかを判断することが苦手なのだ。もちろん人間の中にも、こういったことが苦手な人はいる。
一つの典型例は、自閉症の方たちだ。
自閉症の特徴的な症状として、他者の言葉に対して、類推、応用が利かないという点が上げられる。
だから、自分が本当に好きな人から「ボウリングに行こうよ」と誘われたとしても、「ごめんなさい、私はボウリングは嫌いなんだ」と答えてしまう。
こういった症状は、脳の機能障害が原因だと言われているので、治療や、その他の方法でその機能を補っていくしかない。
逆に言えば、脳に障害でもない限り、私たちはみな、コンテクストを理解する能力を持っている。どんなにKY(=空気が読めない)と言われる人でも、実際には、それなりの能力は兼ね備えている。
コンテクストを理解するというコミュニケーションの基礎的な能力は、みなが持っているのだ。
問題なのは、ビジネスの世界のように時間が限られていたり、医療の現場のようにアクシデントやパニック状態が起きやすかったり、あるいは狭い研究室のように権力構造が厳しかったりすると、普段はできているはずのコンテクスト理解のサイクルが遮断され、そこにコミュニケーション不全が起こる。
おそらく問題の多くは、個々人の能力ではなく、組織やシステムの側にあるのだ。
他人が書いた言葉を話す
では、そのようなコミュニケーション不全を回避するためには、どんな方策が必要なのだろう。高校生たちは、「旅行ですか?」という他人に話しかける台詞を、なかなかうまく言えない。
それは、その子のコンテクストの外側にある言葉だからだということを、ここでは、二度、三度と書いてきた。うまく台詞が言えないと、たいていの演出家はいきなり怒り出す。
だいたい演出家というのは怒りっぽいものと相場が決まっていて、「なんで、こんな簡単な台詞が言えないんだ!」「ダメだろう、そんなふうに他人に話しかけちゃ!」と言い出すわけだが、しかし、高校生の大半は、普段、ほとんど自分からは話しかけないのだ。
これがもし、まったく文化的な背景の違う台詞、たとえば以前出てきた「銀のサモワールでお茶をいれてよ」という台詞だったらどうだろう。
演出家からいきなり、「ダメだろう、そんなふうにサモワールでお茶をいれちゃ!」と言われても、言われた方も困るだろう。言われた側の俳優は、「すみません、うちはティーバッグでしかいれてないんで」と答えるかもしれない。
だが、「旅行ですか?」はあまりに簡単な台詞なので、何となく言えない自分が悪いような気になってしまう。演出家も、うまく言えないのは俳優個人の責任だと思ってしまう。
しかし演技というのは、もともと他人が書いた言葉を、どうにかして自分の身体から出てきたかのように言う技術なのだ。
だから、「旅行ですか?」も「銀のサモワール」も、高校生にとっては等価に難しいはずなのだ。ただ、「旅行ですか?」は、あまりに簡単な言葉なので、発語に際しての違和感を持ちにくい。その持ちにくいままで台詞を言ってしまうところに落とし穴がある。
まずは、こういった「ずれ」の認識が出発点となる。
話しかける要素は何か?
ではさらに、いったいどうすれば、この「ずれ」の問題を解決できるのだろう。
問題となっている台本では、知りあいであるAさんとBさんが話をしていて、そこに他人のCさんがやってきて隣に座る。
そこからAさんが「旅行ですか?」という台詞を発するところまでがポイントだった。
従来のコミュニケーション教育や演劇教育、あるいは日本人が等しく受けてきた国語教育では、「旅行ですか?」と発話をするのはAさんだから、Aさんの役をやる人間が、どうすればその台詞をうまく言えるかを考えてきた。
たとえば朗読の時間なら、教師は必ず、「気持ちを込めて丁寧に読みなさい」と言っただろう。
あるいは演劇の世界なら、腹式呼吸できれいに言う、身体を鍛えてパワーとスピードで言うといった対応が考えられる。
丁寧も、きれいも、パワーもスピードも、いずれもAさんの努力、あるいはAさんの資質によるところが大きい。
しかし、これまで見てきたように、現実社会では、この「旅行ですか?」を発話する大きな要素は、そこに入ってきたCさんにあった。
ワークショップで参加者に、「他人に話しかける場合はどんな場合ですか?」と問いかければ、九割方の人が「相手による」「タイミングがあえば」と答えるのだ。
「気分がいいとき」といったAさんの内面に依拠する答えは、ほとんど返ってこない。
しかし、ではCさん役を演じる俳優はどうすればいいのだろう。
「話しかけられやすい演技って何?」ということになる。もちろん身体を鍛えてもダメだ。身体を鍛えて頑丈になったら、いっそう話しかけにくくなってしまうから。
そこで、こういった問題を、関係や場の問題として捉えていこうというのが、九〇年代以降に出てきた新しい演劇教育、新しいコミュニケーション教育の考え方だ。
要するに、発話がうまくいかない場合、その原因を個人(ここではAさん)にのみ帰するのではなく、いったい、そこは話しかけやすい環境になっているのかを問うていくという考え方だ。
コミュニケーションをデザインする
さて、私が現在勤務している大阪大学コミュニケーションデザイン・センターは、まさにこのような哲学、このような思想によって設立された、世界でも珍しい教育機関である。
私たちは、ペラペラと説明のうまい医師や看護師や科学者たちを育成したいわけではない。
説明がうまいに越したことはないが、それだけが大事なのではないということは、先に書いたホスピスの例でも明らかだろう。
医者の説明の仕方も、もちろん大事だが、同じくらいに大切なのは、たとえば、患者さんがお医者さんに質問のしやすい椅子の配置になっているかどうかといった事柄だ。
壁の色はどうか、天井の高さはどれくらいが適切か、あるいは受付から診察室までの道のりが患者さんを緊張させていないかどうか……これらはみな、デザインの問題だ。
医療過誤が起きにくいような組織になっているかどうか。
事故が起きたときには、現場から上層部へ、きちんと情報が伝わるかどうか……これらは組織や情報のデザインの問題になる。
さらに、病院の建物自体が患者さんを威圧していないかどうか……これは建築のデザインの問題。そもそも病院は、町のどこら辺にあればいいのか。交通アクセスは何がいいのか。
駐車場はどれくらいあればいいのか……まちづくりや交通行政とも関わる問題になる。
お医者さんがどんなに優しく振る舞っても、患者さんの側からどうも質問が出ないのは、患者さんがバス三台も乗り継いできてへとへとになっているからかもしれない。
コミュニケーション不全の原因は、どこにあるのかわからない。落とし穴は、意外なところに掘られている。このように、原因と結果を一直線に結びつけない考え方を一般に、「複雑系」と呼ぶ。
コミュニケーションの問題を複雑系の考え方で捉えたのが、「コミュニあるいはもっと簡単に言えば、コミュニケーションをデザインする、コミュニケーションの環境をデザインするという視点を持つということだ。
もちろん私たちはこれを、ただの体験の積み重ねではなく、認知心理学や情報工学といった最新の知見を取り入れながら、体系化していかなければならない。
逆に、もしもそれが少しでも可能になれば、新しいコミュニケーション教育の地平が広がるはずだ。
私は、医師や看護師の技量を高めてあげることはできないし、そんなことは期待されていない。
しかし、癌告知の朝に、部屋の花瓶の花を活けかえる心遣いを持った看護師を育てる、そのお手伝いくらいはできるかもしれない。
コミュニケーションをデザインするとは、ともかくもそのようなことだ。
会議をデザインする
こういったコミュニケーションデザインの考え方は、たとえば一般企業などでも導入可能だ。私は仕事柄、よく企業の管理職養成講座などに招かれる。そこで聞かされるのはたいていが愚痴ばかりだ。
曰く「近頃の若者たちは何を考えているかよくわからない」「新人たちが会議で意見を言わない」。もちろん企業もバカではないから、会議のやり方を工夫する。
ただ、ダメな企業は、社長が急に思いついて、「なんだかアメリカでは立って会議をするらしいぞ、よしうちでも月曜日から立って会議だ!」となる。
そんなもので意見が出るようになるなら楽なのだが、たいてい、こういう小手先の改革は失敗する。本当の改革に取り組もうとする企業は、会議のレンジを様々に設定する。
また、そのための試行錯誤を厭わない。
通常の会議も行うが、たとえば、・取締役と新入社員だけの会議(中間管理職を省いた形の会議)・女性だけの会議・一対三くらいの小規模のミーティング・一対一の面接型・以前からも行っていたであろう焼き鳥屋さんでのコミュニケーション列車の中で他人に声をかけるかどうかが、人それぞれであるように、意見を言いやすい環境も人によって異なる。
たくさんの人がいた方が意見が言いやすいという人もいる。気心の知れた仲間が数人いれば、あるいは同性のみの場だったら、年上に対してでも率直な意見が言える場合もある。
普段は他人の目がとても気になるのだけど、一対一になると素晴らしい意見を言う若者も多い。さらに「やっぱりちょっと、お酒が入った方が本音で話しやすいですね」という者も、常に一定数はいるだろう。
第一章で触れたように、若者たちの育った環境が多様化したために、それぞれが得意とするコミュニケーションの状況も複雑化しているのだ。
もちろん、社会人になれば、どのような場面でもきちんと自分の意志や意見を表明できるようになるべきだ。
私は大学院の教員だから、そのような学生を一人でも多く育て、社会に送り出したいと切実に思う。
しかし、日本のコミュニケーション教育が、そういった社会のニーズに追いついていないこともたしかなことだ。追いついていないから意見が出ないのだろう。
企業は利潤を追求する場所だ。
そして、管理職が、本当に若者たちの多様な意見を欲しているとすれば、彼らが意見を言いやすい場所をセッティングするのが、管理職の責務である。
もしもそれを怠って、「近頃の若者は……」と愚痴をこぼしているだけなら、それは、「はい、私は、会議もデザインできない無能な管理職です」と公言しているようなものだ。
若者の側が、この理屈に甘えていいわけではない。若い世代は、個々人のプレゼンテーション能力をもっと伸ばす努力もするべきだろう。
だが果たして、意見が出ないという状況は、どちらにより責任があるかと問われれば、それは当然、数倍の給与をもらっている管理職の側ということになる。
「サッカー好きなんですか?」
実際の授業やワークショップでは、こういった説明をしたあとに実例を見せる。「旅行ですか?」となかなかうまく言えない高校生に、この台詞だけを考えさせても意味がない。
そこでたとえば、この高校生A君が、現実生活においてサッカーが好きなら、話しかけられる対象であるCさんにサッカーの雑誌を持たせて、「サッカー好きなんですか?」というところから話を始める。
具体的な会話は、以下のような感じになる。
「サッカー好きなんですか?」「えぇ、まぁ」「あぁ、どうですかね、ザックジャパンは?」「さぁ、どうでしょう、頑張って欲しいけど」「……旅行ですか?」このような会話の流れだと、たいていの高校生がスムーズに、「旅行ですか?」という台詞を言えるようになる。
あるいは、他の方法も試して、言わざるをえないような状況を作ってみるといったことも行う。
さらに、次の段階では三人ひと組のグループワークで、自分はどういった場面なら話しかけられるかを考え、台詞にしてもらって練習し発表まで進んで行く。
このような作業を通じて、「あぁ、他人に話しかけるのは意外にエネルギーのいるものだな」とか、「エネルギーのかけ方や、その方向性も人によってずいぶん違うんだな」ということを実感してもらう。
高校生は、滅多に他人に話しかけない。しかし、絶対に、人と話さないというわけではないだろう。相手が何か床に物を落としたら拾ってあげるだろうし、そのときに無言ということはまずないはずだ。
どうすれば話しかけられるかを考えるのではなく、話しかける環境、話しかけやすい状態について考えるのだ。
シンパシーからエンパシーへ
日本ではどうも、「演じる」ということは、「役になりきる」「のりうつる」といったイメージで捉えられがちだ。もちろんそういった憑依系タイプの俳優さんもいることはいる。
だが、多くの俳優が、その内面でしている仕事は、そういったものではないだろうと私は考えている。
俳優の本当の仕事は、「普段私は他人には話しかけないけれども、話しかけるとしたらどんな自分だろうか」と探ることだ。
すなわち、俳優という自分の個性と、演じるべき対象の役柄の共有できる部分を捜しだし、それを広げていくという作業が求められている。
実はこういった考え方は、教育学の世界でも注目を集めている。
これを通常、「シンパシーからエンパシーへ」と呼ぶ。エンパシーという英語は翻訳が難しいのだが、私は「同情から共感へ」「同一性から共有性へ」と呼んでいる。
この事象のもっともわかりやすい例は、いじめのロールプレイだ。
いま小中学校の総合的な学習の時間などで、いじめに関するロールプレイがよく行われている。いじめる側、いじめられる側を、交互に演じてみようという試みだ。
こういった場面でも、経験の浅い教員ほど、「ほら、いじめられた子の気持ちになってごらん」と子どもたちに声をかける。
だが、少し考えてもらえばわかると思うのだが、いじめられた子どもの気持ちがすぐにわかるのなら、おそらく、いじめはあまり起こらない。いじめられた子どもの気持ちは、簡単にはわからない。
しかし、いじめっ子の側にも、他人から何かをされて嫌だった経験はあるだろう。その二つの気持ちを、「それは似たものなんだよ」と結びつけてあげるのが、本来のロールプレイの意味あいなのだ。
シンパシーからエンパシーへ。同情から共感へ。これはいま、他の分野でも切実な問題となっている。
医療や福祉や教育の現場で、多くの有為の若者たちが、「患者さんの気持ちがわからない」「障害を持った人たちの気持ちが理解できない」と絶望感にうちひしがれて、この世界を去っていく。
真面目な子ほど、そのような傾向が強い。患者さんや障害者の気持ちに同一化することは難しい。同情なぞは、もってのほかだ。しかし、患者の痛みを、障害者の苦しみや寂しさを、何らかの形で共有することはできるはずだ。
私たち一人ひとりの中にも、それに近い痛みや苦しみがきっとあるはずだから。
コンテクストの摺りあわせ
こういったエンパシー型の教育には、演劇的な手法が大きな効果を示す。
なぜなら演劇は元来、異なるコンテクストを抱えた人間が集まって、一定期間内に何かをアウトプットするという営みを繰り返してきたから。
ここで重要なのは、実は「一定期間内に」という点だ。およそ、どんな共同体でも、このようなコンテクストの摺りあわせを、長い時間をかけて行う。
五〇年、一〇〇年とかかって、企業や学校の中だけで通じる言葉や、その地域の中だけで通じる方言などが生まれてくる。
夫婦などはその典型で、最初のうちは異なる文化、異なるコンテクストで育った二人が衝突を繰り返しながら、家の中の様々な事象に共通の名前をつけていく。
たとえば電子レンジという家電製品は、「電子レンジ」と呼ぶ家と、「レンジ」と呼ぶ家と、そして「チン」と呼ぶ家が必ずある。
しかし、二〇年も連れ添った夫婦で、夫はそれを「チン」と呼び、妻はそれを「レンジ」と呼ぶような家は少ない。
育った家での呼び名は違っても、長年一緒に暮らすうちにコンテクストの摺りあわせが起こって、共通の呼び名が固定される。
夫婦、家族のような小さな共同体でも、こういったコンテクストの摺りあわせは、ゆっくりと時間をかけて行われる。
しかし演劇においては、たかだか数週間の稽古を経ただけで、あたかも家族のように、あたかも恋人同士のように、あるいはよく知っている劇団員同士でも、あたかも他人のように振る舞うことができる。
私たち演劇人は、ごく短い時間の中で、表面的ではあるかもしれないが、他者とコンテクストを摺りあわせ、イメージを共有することができる。
そこに演劇の本質がある。そして、このノウハウ、このスキルは、これからのエンパシー型の教育に大きな力を発揮するだろうと私は考えている。
ここで言うエンパシーとは、「わかりあえないこと」を前提に、わかりあえる部分を探っていく営みと言い換えてもいい。
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