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1章 ネーミングしだいで物事はここまで変わる―「トヨダ」さんがつくった会社がなぜ「トヨタ」なのか

はじめに知ったら納得、誰でもできそうな「その名づけ方」の秘密・売れなかった商品が、違う名になったら国民的ヒット商品に・芸名を変えたとたんに、人気歌手になった・「大阪○○製造○○会社」のような長い社名を、関係者みんなが短縮して呼んでいたら、いつかそれが正式名称に……同じことをやっていても、同じモノをつくっていても、「名づけ方」しだいで印象度、認知度、有名度、愛され度はガラッと変わってしまう。古今東西、日本全国、誰がそんな名を思いついたのか、どんな偶然がそこにあったのか、なんでこんな表記をしたのか──名称ひとつで世の中すら動かした事例が山ほどある。そんなネーミングの成功例・失敗例、悲喜劇は、今日もまたどこかで生まれているだろう。一度見たら忘れない、一度聞いたら覚えてしまう……ワクワクする世界へご案内しよう。

■もくじ■はじめに──知ったら納得、誰でもできそうな「その名づけ方」の秘密1章ネーミングしだいで物事はここまで変わる──「トヨダ」さんがつくった会社がなぜ「トヨタ」なのか〝改名〟しただけで信じられない大ヒット!海外ではNGとなってしまう商品名「カタカナ外来語+日本語」の組み合わせがブームなワケ名前やロゴに入った数字の〝意味〟とは「すぐやる課」をつくった人は何をやらせてもすごい「愛されるキャラクター」になる方法アイドルグループの「名づけのルール」「国誉」「郡是」「和江留」……どの会社かわかりますか?「商品名に『ダ行』がつくモノは売れる」というジンクス「戒名」を社名にしていいの?2章〝あの名〟はいったいどうやって生まれたのか──ヨーグルトを何語でいうと「ヤクルト」になる?こんなところにあの人の名が!?合併すると名前はどうなる?世界企業をつくる男の〝ネーミングセンス〟なぜ「1粒300メートル」なのか数ある動物からあえてそれを選んだ理由東京を彩る「エスペラント語」プロ野球、サッカー……このこだわり3人で会社をつくるとこうなる3章有名になるのには「法則」がある──多くの人に好かれる「ユニ」「ヤマト」「王」……「ユニ」ってナニ?「私は大阪生まれです」「三本の矢」のすごい威力日本人は「ヤマト」が好き「長い名称」はみんな縮めて呼んでいるなぜ、食品会社に「日清」が多いのか「ハット」を日本語に訳すと……同じ「王」でも、違う「王」「アサヒ」をめぐる謎と真実本家「アップル」と元祖「アップル」の闘い4章そんなにすごい「いわれ」だったのか──「三菱グループ」でないのに「三菱鉛筆」とは「トルコ」だけどあのトルコではない!?こんな駅名はサギにならないか?飛行機でもないのに「パイロット」〝ご当地〟にあやかるのは自由「ギリシヤ神話の女神」をいただいたすごい社名社名が物語る意外な「ルーツ」中国四千年の歴史から生まれた化粧品メーカー

はじめに知ったら納得、誰でもできそうな「その名づけ方」の秘密・売れなかった商品が、違う名になったら国民的ヒット商品に・芸名を変えたとたんに、人気歌手になった・「大阪○○製造○○会社」のような長い社名を、関係者みんなが短縮して呼んでいたら、いつかそれが正式名称に……同じことをやっていても、同じモノをつくっていても、「名づけ方」しだいで印象度、認知度、有名度、愛され度はガラッと変わってしまう。古今東西、日本全国、誰がそんな名を思いついたのか、どんな偶然がそこにあったのか、なんでこんな表記をしたのか──名称ひとつで世の中すら動かした事例が山ほどある。そんなネーミングの成功例・失敗例、悲喜劇は、今日もまたどこかで生まれているだろう。一度見たら忘れない、一度聞いたら覚えてしまう……ワクワクする世界へご案内しよう。

これはうまい!〝造語の妙〟ビジネスにも「言霊」が……5章見た人、読んだ人へのこの強烈な「インパクト」!──「マツダ」と「ミツカン」は同じことを考えた?「グーグル」は気恥ずかしいミスから生まれた「キャ」なのか「キヤ」なのかド真ん中~〝Z〟「ビッグ」と「ビック」の大違い社名をアルファベットにしたら世界的企業?「大日本果汁株式会社」が社名を変えたら同じ文字を〝3つ〟並べる効果「まつたけ」が「しょうちく」に?「明星」は〝みょうじょう〟か〝めいせい〟か「ウィンドウズ7」「8」、その次は「9」のはず「トマト」から生まれた「ももたろう」「トンボ」という名にしたくてできなかった会社6章「名は体を表わす」──ようになる!!──目指すは「日本一」か「世界一」か「東洋」に変えたら大躍進!「サン○○○」──さすがスケールが大きい「みなさまに愛される」名前とは「富士山」とは無関係でも名乗ってOK?「あやかる」にもほどがある?「名作の主人公」ここに蘇る7章これぞ「ネーミングセンス」の見せどころ──「こだわり」「思いつき」から「パクリ」まで「本名」を明かせない人、明かしたい人〝超高級腕時計〟のブランド名はどうやって決まるのか「スター・ウォーズ」に高田馬場(東京都新宿区)が!「ホワイトハウス」「ブラックハウス」「ピンクハウス」「シルバーシート」──もし、布の色が違っていたら……「ファミリーレストラン」は日本産厚木にないのにどうして「アツギ」?日本酒の銘柄に「正宗」が多いのは、なぜ?ラーメン店に「○○家」や「○○軒」が目立つのは「亀無」が「亀有」に変えられたある事情なるほど、これが当時の「最先端」本文イラスト:前野コトブキ/本文図版:美創

〝改名〟しただけで信じられない大ヒット!お~いお茶、BOSS、通勤快足、井上陽水ほかネーミングの良し悪しによって、成果に大きな差が生じる。実際、ある調査によると、商品がヒットするか否かは、ネーミングが断トツの1位、以下は「スローガン」「パッケージ」の順だったという。名前のつけ方ひとつで〝爆買い〟ならぬ〝爆売れ〟する可能性がある。たとえば、伊藤園の「お~いお茶」。この世界初の缶入り緑茶として成功した商品が発売されたのは、1985(昭和60)年2月のこと。当時、缶入りウーロン茶は発売されていたが緑茶はなかった。茶葉を発酵させるウーロン茶と違って、緑茶の場合、酸素にふれたり熱を加えたりすると色が黒ずんでしまう上に風味も落ちる。そのため、商品化が難しかった。伊藤園は、これらの難題をクリアし、世界初の缶入りの緑茶をそのまま表現し、「缶入り煎茶」というネーミングで発売したのである。しかし、この画期的商品は発売当初、ほとんど売れなかった。それが1989(平成元)年以降一転、売れはじめたのである。商品名を「お~いお茶」に変えたことがきっかけだった。この親しみやすいネーミングが功を奏し、売上げが前年度の2倍に伸長。その後、ペットボトル化にも成功して、一気にヒット商品となった。「お~いお茶」というネーミングは、当時、ほかの茶葉商品のテレビCMで俳優が口にしていたキャッチフレーズで、これをそのまま商品名に流用したのである。同様の名称変更によって売上げが伸びた飲料には、缶入りコーヒー「BOSS」もある。今や缶コーヒーのトップブランドへ成長した「BOSS」が発売されたのは1992(平成4)年7月のことだった。製造・発売元のサントリーは、それまで「ウエスト」という商品名の缶コーヒーを販売していたのだが、売上げは今ひとつ。そこで、「働く人の相棒コーヒー」というコンセプトの下、この「ウエスト」を見直すことに。商品名を「BOSS」と変えると、人気が爆発したのである。年間約900万ケースの売上げを見込んでいたところ、わずか1カ月で400万ケースも売上げたという。成功の秘訣はインパクトとイメージ!?飲料以外では、「フレッシュライフ」から名称変更して、売上げが10倍になった抗菌防臭靴下の「通勤快足」がある。候補には「清潔民族」「清潔太郎」などの案が並んだが、当時JRや私鉄各線で採用されはじめた通勤快速列車にあやかったネーミングが受けた。ほかにも、「モイスチャーティッシュ」という名前から、柔らかさと高級感を重視した「鼻セレブ」に変更して売上げが8倍になったという例もある。インパクトがあり、かつ消費者がイメージしやすい商品名は、成功につながりやすい。この点を強く意識していると思われるのが、次々とユニークな商品名を打ち出す小林製薬だろう。「熱さまシート」や「のどぬ~る」「トイレその後に」など、聞いた瞬間、見た瞬間にどんな商品かがイメージできる。同社は全社でネーミングにかなり力を入れ、とにかく〝わかりやすさ〟を徹底的に追求しているという。ネーミング変更で成功した例は、商品だけにとどまらない。有名人の芸名でも同様のことが起きている。あの井上陽水は、もとはといえばアンドレ・カンドレという芸名だった。陽水は当初、韓国語で泥酔した状態を表わす「カンドレ・マンドレ」にちなみ、マンドレという芸名にしたかったらしいが、ラジオディレクターに諫められてアンドレ・カンドレとしてデビューした。やがて1972(昭和47)年に芸名を井上陽水と改めると、売れはじめたのである。また、松山まさるという芸名でデビューし、3回の改名を経て大ブレイクした五木ひろしもいる。作家・五木寛之にあやかった名前で、この名前に改名してからヒット曲を連発するようになった。ほかにも、ひとし・まさしから改名したダウンタウンなど、改名を経て成功した芸能人は数多い。商品も人も、名前ひとつで運命が変わるのだ。

これはうまい!〝造語の妙〟ビジネスにも「言霊」が……5章見た人、読んだ人へのこの強烈な「インパクト」!──「マツダ」と「ミツカン」は同じことを考えた?「グーグル」は気恥ずかしいミスから生まれた「キャ」なのか「キヤ」なのかド真ん中~〝Z〟「ビッグ」と「ビック」の大違い社名をアルファベットにしたら世界的企業?「大日本果汁株式会社」が社名を変えたら同じ文字を〝3つ〟並べる効果「まつたけ」が「しょうちく」に?「明星」は〝みょうじょう〟か〝めいせい〟か「ウィンドウズ7」「8」、その次は「9」のはず「トマト」から生まれた「ももたろう」「トンボ」という名にしたくてできなかった会社6章「名は体を表わす」──ようになる!!──目指すは「日本一」か「世界一」か「東洋」に変えたら大躍進!「サン○○○」──さすがスケールが大きい「みなさまに愛される」名前とは「富士山」とは無関係でも名乗ってOK?「あやかる」にもほどがある?「名作の主人公」ここに蘇る7章これぞ「ネーミングセンス」の見せどころ──「こだわり」「思いつき」から「パクリ」まで「本名」を明かせない人、明かしたい人〝超高級腕時計〟のブランド名はどうやって決まるのか「スター・ウォーズ」に高田馬場(東京都新宿区)が!「ホワイトハウス」「ブラックハウス」「ピンクハウス」「シルバーシート」──もし、布の色が違っていたら……「ファミリーレストラン」は日本産厚木にないのにどうして「アツギ」?日本酒の銘柄に「正宗」が多いのは、なぜ?ラーメン店に「○○家」や「○○軒」が目立つのは「亀無」が「亀有」に変えられたある事情なるほど、これが当時の「最先端」本文イラスト:前野コトブキ/本文図版:美創

はじめに知ったら納得、誰でもできそうな「その名づけ方」の秘密・売れなかった商品が、違う名になったら国民的ヒット商品に・芸名を変えたとたんに、人気歌手になった・「大阪○○製造○○会社」のような長い社名を、関係者みんなが短縮して呼んでいたら、いつかそれが正式名称に……同じことをやっていても、同じモノをつくっていても、「名づけ方」しだいで印象度、認知度、有名度、愛され度はガラッと変わってしまう。古今東西、日本全国、誰がそんな名を思いついたのか、どんな偶然がそこにあったのか、なんでこんな表記をしたのか──名称ひとつで世の中すら動かした事例が山ほどある。そんなネーミングの成功例・失敗例、悲喜劇は、今日もまたどこかで生まれているだろう。一度見たら忘れない、一度聞いたら覚えてしまう……ワクワクする世界へご案内しよう。

■もくじ■はじめに──知ったら納得、誰でもできそうな「その名づけ方」の秘密1章ネーミングしだいで物事はここまで変わる──「トヨダ」さんがつくった会社がなぜ「トヨタ」なのか〝改名〟しただけで信じられない大ヒット!海外ではNGとなってしまう商品名「カタカナ外来語+日本語」の組み合わせがブームなワケ名前やロゴに入った数字の〝意味〟とは「すぐやる課」をつくった人は何をやらせてもすごい「愛されるキャラクター」になる方法アイドルグループの「名づけのルール」「国誉」「郡是」「和江留」……どの会社かわかりますか?「商品名に『ダ行』がつくモノは売れる」というジンクス「戒名」を社名にしていいの?2章〝あの名〟はいったいどうやって生まれたのか──ヨーグルトを何語でいうと「ヤクルト」になる?こんなところにあの人の名が!?合併すると名前はどうなる?世界企業をつくる男の〝ネーミングセンス〟なぜ「1粒300メートル」なのか数ある動物からあえてそれを選んだ理由東京を彩る「エスペラント語」プロ野球、サッカー……このこだわり3人で会社をつくるとこうなる3章有名になるのには「法則」がある──多くの人に好かれる「ユニ」「ヤマト」「王」……「ユニ」ってナニ?「私は大阪生まれです」「三本の矢」のすごい威力日本人は「ヤマト」が好き「長い名称」はみんな縮めて呼んでいるなぜ、食品会社に「日清」が多いのか「ハット」を日本語に訳すと……同じ「王」でも、違う「王」「アサヒ」をめぐる謎と真実本家「アップル」と元祖「アップル」の闘い4章そんなにすごい「いわれ」だったのか──「三菱グループ」でないのに「三菱鉛筆」とは「トルコ」だけどあのトルコではない!?こんな駅名はサギにならないか?飛行機でもないのに「パイロット」〝ご当地〟にあやかるのは自由「ギリシヤ神話の女神」をいただいたすごい社名社名が物語る意外な「ルーツ」中国四千年の歴史から生まれた化粧品メーカー

海外ではNGとなってしまう商品名カルピス、ポッキーネーミングしだいで、その商品の人気や売行きに大きく差がつくのは、外国でも同じこと。日本の商品が海外進出をする際、企業側は検討に検討を重ねて〝外国名〟を決めることになる。中にはやむを得ない大人の事情が働くときも……。そのひとつが「カルピス」だ。1919(大正8)年に発売され、「初恋の味」のキャッチフレーズで大ヒットしたこの国民的飲料は、今では日本のみならず海外でも愛される世界的飲料である。カルピスの生みの親は、大阪府箕面市出身の三島海雲という人物だ。浄土真宗・教学寺の跡取りとして誕生した海雲は、20代半ばに中国大陸へ渡り、モンゴルで羊毛の商売を行なう。だが当時の清の滅亡とともに羊毛事業が頓挫し、無一文になって1915(大正4)年に帰国した。しかし裸一貫となっても海雲の事業熱は冷めない。モンゴルで飲んだ「酸乳」をヒントにして、新たな乳飲料を開発して事業化しようと思いつく。そして試行錯誤の末、脱脂乳に砂糖とカルシウムを加えた飲料の開発に成功したのである。ネーミングは、牛乳に含まれているカルシウムの「カル」と、サンスクリット語で五味の最高位を意味する「サルピルマンダ(醍醐味)」を合わせることにした。この2つを合わせただけなら「カルピル」となるはずなのだが、「赤とんぼ」の作曲で有名な音楽家の山田耕筰やサンスクリット語の権威である渡辺海旭に相談し、「カルピル」では語呂が悪いため「カルピス」と命名した。山田耕筰は、カルピスというネーミングについて、発展性が感じられ、きっと繁盛する名前という趣旨のコメントを残している。こうして誕生したカルピスはまたたく間にお茶の間へ広がり、1960年代後半からは海外進出も果たした。ただ、その際、この名前が問題になる。英語圏で「カルピス」というと、「カウのピス」(牛のおしっこ)と聞こえてしまうからだ。せっかくおいしい飲み物でも、牛の尿を連想されては商品イメージが悪くなる……。そこで北米などでは、「カルピコ」と少し名前を変更して販売されている。「ポッキー」の偽物!?マレーシアの「ロッキー」事情により、商品名を変えて海外で販売されている商品はほかにもある。江崎グリコを代表するヒット商品「ポッキー」もそのひとつ。「ポッキー」は1966(昭和41)年に誕生した。開発時は、チョコレートスティックと、テクテク歩きながら食べるスナックという意味から「チョコテック」というネーミングにする予定だったが、この商品名が他社によって商標登録されていたため、食べるときに鳴るポッキンという折れる音にちなんで「ポッキー」と名づけられた。この軽快な響きのネーミングは大いに受け、ポッキーは今やチョコレート市場の1割を占めるほどの人気商品へと成長している。ところが、ヨーロッパへ行くと、ポッキーは「ミカド」という名前で売られている。ポッキーが英語で男性のアノ部分を意味してしまうからだ。そのため、ヨーロッパでポピュラーなテーブルゲームのひとつ「ミカドゲーム」で使う棒に似ていることから、ミカドという名がつけられた。さらにマレーシアでは、今でこそポッキーで売られているが、2014年まで「ロッキー」という名前で売られていた。イスラム教を国教とするマレーシアでは、ポッキーがイスラム教で禁じられているポーク(豚肉)を連想させるためである。せっかくのネーミングを変えなければならないのは残念だが、世界展開を行なうためには仕方のないこと。海外に行って「カルピコ」や「ミカド」を見つけても、パクリ商品ではないので、念のため。

「カタカナ外来語+日本語」の組み合わせがブームなワケ有楽町イトシア、渋谷ヒカリエ、バスタ新宿ほかマンションやホテルなどの建物には、○○コーポやハイツ○○などの名前がつけられることが多い。このコーポやハイツなどは英語がルーツである。コーポは、住民の組合が建てる集合住宅を意味する「cooperativehouse」が語源。また、ハイツは、高さを意味する「heights」で、高台の住宅を指す。ほかにもフランス語で森を意味するラフォーレや、古代ローマの別荘が語源のヴィラなどもよく施設名に使われる。しかし近年、外国語ではないにもかからわず、カタカナを使った外国語風の施設名が増えている。東京のJR山手線の有楽町駅の中央口を出ると、目の前の広場の奥に上部がガラス張りの大きな商業施設が見える。2007(平成19)年に誕生した「有楽町イトシア」だ。地下1階から8階までは有楽町マルイが入り、ファッション、雑貨からレストラン、カフェ、娯楽施設まで、さまざまな店舗が揃っている。このイトシアという名前、一見すると外国語のネーミングのように見えるが、じつは日本語である。「愛しい+ia(場所を表す名詞語尾)」という造語で、来てくれる人や利用する人たちにとって「愛しい街」になるようにという願いを込めてつけられた。今ではその願いどおり、有楽町の顔としてすっかり定着している。このように、外国語のような日本語由来のネーミングが近年のブームになっているのだ。東京ソラマチ(空+街)、あべのハルカス(晴るかす=人心を晴らす、晴れ晴れとさせるという古語)、エソラ池袋(E=いい+空)など、近年オープンした都市部の施設名に、このパターンが多い。東京・渋谷駅東口にある「渋谷ヒカリエ」もそのひとつ。地上34階、地下4階のビルの中にはミュージカル劇場やイベントホールなどの文化施設、商業施設、オフィスなどが入っている。ヒカリエは日本語の「光へ」をカタカナ表記にしたもので、渋谷から未来を照らし、世の中を変える光になるという意志を込めてつけられた名称である。その場所は、かつて時代を先取り、世の中を変える存在であり続けてきた東急文化会館の跡地であることから、東急文化会館のように、新たな価値を創造、発信する渋谷のシンボルタワーになるべく、この名前がつけられた。あの話題のスポットも……2016(平成28)年4月には、東京・新宿に「バスタ新宿」が誕生した。新宿駅周辺に分散していた高速バスの発着所を1カ所に集約した、日本一の規模を誇るバスターミナル施設だ。新宿駅南口、タクシー乗降場とも直結させた交通の複合ターミナルでもあり、乗降客の利便性のみならず、駅周辺の道の渋滞解消なども期待されている。では「バスタ」っていったい何?と思う人もいるだろうが、ここの正式名称は新宿南口交通ターミナル。バスタ新宿はあくまでも愛称である。管轄している国土交通省は、「新宿南口交通ターミナル」では名前が長いため、愛称を募集することに。すると、1733通もの応募があり、バスマチ、バスポート、サウスクロス、サザンデポ、ノルバ……など、多種多様な名前が集まったという。その中からバスタが選ばれたわけだ。バスタという言葉の響きはどことなくラテン風に聞こえるが、じつはバスやタクシーの乗降場という意味で、「バス」とタクシーの「タ」を合わせた造語である。ただ、バスタという言葉には、スペイン語やイタリア語などで「うんざり」「いいかげんにしろ」などというマイナスイメージの意味があり、採用には慎重な意見も出されたらしい。それでも最終的には「濁音が耳に残りやすい」という理由で選ばれたという経緯がある。これら大型施設のイメージ先行のネーミングが浸透していることから、外国語でも日本語でも、インパクトと親しみやすさが重要といえそうだ。

名前やロゴに入った数字の〝意味〟とはセブン‐イレブン、SHIBUYA109、マルイほか〝セブン〟や〝ファミマ〟と愛称で呼ぶほど、今やコンビニエンスストアは、私たちの生活に欠かせない存在となっている。その名前にはどのような由来があるのか。青地に白の牛乳瓶マークの看板がおなじみの「ローソン」は、前身であるアメリカ・オハイオ州で生まれたミルクショップの名残。ローソンという名前は、このミルクショップの創業者の名前だ。「サークルK」のKは、前身であるアメリカ・テキサス州の食料雑貨店「Kay’sDriveInGroceryStore」の頭文字のKがルーツである。一方、日本発祥のコンビニのネーミングはどうだろう。西友の一部門だった「ファミリーマート」は、企業と加盟店、そして顧客とが家族のような関係性を築いて成長していきたいという願いを込めてつけられた。世界初のコンビニの店名日本のコンビニの草分け的存在といえば、現在店舗数、売上高ともにトップを独走している「セブン‐イレブン」だ。発祥の地はアメリカ・テキサス州のオーククリフという小さな町。サウスランド・アイス社から氷小売販売店を任されていたジョン・ジェファーソン・グリーンが、「氷だけでなく、卵や牛乳、パンなども売ってくれたら便利なのに」という顧客の声を本社に提言し、これを受けて日用品の取り扱いをはじめたことがきっかけだ。これは便利と大評判となり、「コンビニエンスストア(=便利な店)」が誕生。アメリカでチェーン展開され、やがて日本にも上陸したというわけである。「セブン‐イレブン」という店名は、アメリカでの当時の営業時間が朝7時から夜11時までだったことにちなんでいる。アメリカでも24時間営業が普通になった(地域による)今でこそ、実態とは異なるが、当時としては朝7時から夜11時までの営業でも類のない長時間営業であり、店名にうたうほど画期的なことだったのだ。24時間営業が当たり前の日本には、営業時間が朝7時から夜11時までのセブン‐イレブンは、見当たらない。しかし、店名につけられた営業時間を今も守っている施設が、大都会東京・渋谷に存在する。それは、若者に大人気のファッションビル「SHIBUYA109(シブヤイチマルキュウ)」である。注目すべきは、「109」という数字の部分。営業時間は、午前10時から午後9時まで。それらの数字を並べると、「109」となる。セブン‐イレブンと違い、名前と実態が一致している。また109は、運営会社である東急グループの「トウキュウ」を「10」と「9」の数字で表わしている。現在、109の店舗は東京都町田市や静岡市など各地で展開されている。渋谷の店が名前通りの営業時間である一方で、町田は朝10時30分から夜20時30分まで、静岡は10時30分から20時までとなっており、地域によって微妙にずれている。SHIBUYA109のように、0の部分を電話番号のように「マル」と読ませるネーミングの施設はほかにもある。商業施設のマルイである。「○一○一」というロゴが特徴的だ。109のように読めば、マルイマルイと繰り返して読めてしまうが、なぜ「○一」が2つも並んでいるのだろうか。じつはもともと丸の中に井を描いたロゴを使っていたが、1973(昭和48)年に変更した。当時、マルイ全店の電話番号の下4ケタを0101に統一したため、それに合わせて、ロゴも「○一」を2回くり返す現在の形となったのである。数字を入れた名前やロゴ……このような記憶に残りやすいネーミングは、多くの人に親しまれる秘訣かもしれない。

「すぐやる課」をつくった人は何をやらせてもすごいマツモトキヨシ、すぐやる課、見せる課ほか〝マツキヨ〟の愛称で知られるドラッグストア「マツモトキヨシ」は、創業者の松本清が1932(昭和7)年に千葉県松戸市に「松本薬舗」を開いたのがきっかけだ。順調に業績を伸ばし、その後、マツモトキヨシ薬店と改称した。いくら自分の店とはいえ、フルネームをそのままカタカナで店名にするのは珍しい。たしかにそのおかげで、誰しも一度聞いたら忘れない名前である。なぜ、このような大胆ともいえる店名に変えたのか。じつは松本は、薬屋を営むかたわら、政治活動にも熱心だった。1947(昭和22)年の千葉県県議会議員選挙で初当選して以降、2期目、3期目の当選も狙って選挙活動をその都度展開していた。その過程で松本は、選挙で「松本清」と名前を連呼するのと同じように、店名を「マツモトキヨシ」にすれば、自分の名前も自然に覚えてもらえると考え、フルネームを店名にしたのである。やがて松本は、1969(昭和44)年に松戸市長選挙に当選した。市長になった松本清は、役所内に「すぐやる課」というユニークなネーミングの部署をもうけて話題となった。これは松本市長の「市役所は市民の役に立つ人がいるところ」の信念のもと、「すぐやらなければならないもので、すぐやり得るものは、すぐにやります」というモットーを掲げて新設したものだ。当時は人口が急増し、これに対して道路や下水道などのインフラ整備が追いつかず、不便を強いられていた時代。多様化する住民の声に、組織の壁を超えて素早く対応することで、行政を身近でわかりやすいものにしようと設置されたのである。内容は「市政についての要望等の緊急処理及び連絡に関すること」で、もちろん「何でも屋」ではないため、家の掃除や庭の草取りなどの個人的な依頼はNG。具体的には道路や側溝、雨水管などの補修に加え、道路の清掃やスズメバチの巣の駆除をはじめとした動物対策など広範囲にわたる。当初は土木関係が多かったが、1990年代以降はスズメバチの巣の駆除の依頼が激増したという。今も大活躍する「すぐやる課」「すぐやる課」はもちろん今も健在で、2014(平成26)年には設立45周年を迎え、発足から14万件以上の案件を処理してきた。このお役所仕事らしからぬネーミングの「すぐやる課」は全国の注目を集め、東京都葛飾区や埼玉県寄居町、広島県安芸髙田市などいくつかの自治体でも存在している。ほかにも全国の役所には、ユニークなネーミングの部署がある。原発事故の風評被害払しょくのために農産物の情報開示を目的として設立された福島県いわき市の「見せる課」や、高齢者福祉を行なう群馬県太田市の「長寿あんしん課」、沖縄県那覇市の「ちゃーがんじゅう課」(方言でいつまでもお元気でという意味)など多様だ。青森県弘前市の「りんご課」や宮崎県小林市の「チョウザメ・キャビア課」など地域の名産品を専門で扱うユニーク部署もある。フルネームを店名にした「マツモトキヨシ」市長がつくった「すぐやる課」が、全国のユニークな部署の先駆けとなったのである。

「愛されるキャラクター」になる方法トイザらス、ドラえもん、くまモンほか人は不思議なもので、実際に目にしていても、見えていないことや記憶としてインプットしていないものがある。じつはおもちゃの専門店「トイザらス」の名前、「ら」だけがひらがなで書かれている。気づいていただろうか。「トイザらス」の創業は1957(昭和32)年。アメリカ・ワシントンでベビー用家具店を経営していたチャールズ・ラザラスが、客の要望に応じる形でおもちゃを置くようになり、やがておもちゃの専門店を創業した。このとき、ラザラスの名前と「Toysareus」(おもちゃといえば私たち)というイメージをかけ、「are」と発音が近い「R」に置き換え、「TOYSRUS」という店名にした。さらにラザラスは2号店のオープンに合わせ、この名前にもうひとつ大きな仕掛けを施した。「R」を左右反転させ、鏡文字〝Я〟にしたのである。これは、文字を習いはじめた子どもがよく間違えて書いてしまう文字。子どもたちに、より身近に感じてもらいたいという理由で、この表記を考えたのだ。この鏡文字の〝Я〟が、日本語表記に影響する。1989(平成元)年の日本支社設立の際、社名の日本語表記に悩むことになった。「トイザラス」という読みはそのままに、鏡文字の〝Я〟のニュアンスをどのように表現すればよいか……。そこで「ラ」を左右反転させるところを、よりかわいい細工をしたいということで、「ら」のみをひらがなにしたのである。ドラえもん、過去の秘密カタカナにひらがなが混じるケースで有名なのは、社名だけではない。国民的漫画ともいえる藤子不二雄の「ドラえもん」は「えもん」だけが、なぜかひらがなだ。見慣れてしまった名前なので違和感なく読めてしまうが、おかしな表記である。じつは『コロコロコミック』で連載されていた『ドラえもん百科』で、カタカナとひらがなが混じっている名前の謎が明かされている。あるとき、ロボット戸籍調査員に名前を聞かれたドラえもん。しかし、どうしても「えもん」のカタカナを思い出せず「ドラえもん」と書いた。戸籍調査員もあやしんでいたものの、それがそのまま名前になってしまったのである。ドラえもんのように、親しまれるキャラクターには、「もん」や「どん」がつくことが多い。近年、盛り上がりを見せている〝ゆるキャラ〟では、熊本県の「くまモン」、北海道礼文町の「あつもん」がいる。ほかにも、石川県能登半島の「のとドン」や、和歌山県白浜町の「くえどん」などだ。この「もん」「どん」は音声学的にもゆるキャラに適した名前らしい。最後に「ん」がつく名前は、舌を弾ませるように発音するため、軽快な雰囲気が伝わり、かつ鼻濁音とともに発音されるため、かわいらしく聞こえるといわれる。

アイドルグループの「名づけのルール」AKB48、℃‐ute、SMAP、嵐ほかアイドル戦国時代といわれる昨今、新しいユニットが続々と登場している。全国的な知名度を誇るものから地下アイドルまで、数えきれないほどあるが、いったい彼らのユニット名にはどのような意味が込められているのか。アイドルの筆頭として紹介すべきは、秋元康プロデュースの「48グループ」だろう。中核の「AKB48」や名古屋で活躍する姉妹ユニットの「SKE48」など、多数のユニットが所属しているが、それらのネーミングはじつにシンプル。AKBは秋葉原、SKEは栄、NMBは難波といった具合に、活動拠点を表わしている。このネーミング方式は、タイ・バンコクの姉妹ユニットはBNK48、インドネシア・ジャカルタではJKT48と、海外でも一貫している。では末尾の48という数字には、どのような意味が込められているのだろう。この数字、AKB48結成当初の人数を示しているといわれているが、じつはそうではない。結成当初の所属事務所Office48の芝社長が、48が好きな数字だったためにつけられた数字なのだ。自身の名字「シバ」が「48」にかかっているためだという。AKB48の姉妹ユニットとしてこれまた人気のある乃木坂46は「AKB48より人数が少なくても負けないという意気込み」を込めて、48ではなく、46になっている。AKBグループだけではなく、女性アイドルユニットには興味深いネーミングがある。AKBグループと双璧をなすハロー!プロジェクトに所属する「℃‐ute」は、英語でかわいいという意味のcuteが由来。頭文字のCが温度を表わす単位「℃」に替わっているのは、メンバーの情熱の高さを表わしている。一方、男性アイドルの大御所であるジャニーズ事務所所属のユニットにも、それぞれの名前に意味が込められている。解散がニュースにまでなった国民的アイドルの「SMAP」は、「SportsMusicAssemblePeople」の頭文字を並べたもの。スポーツと音楽のために集まった人々、という意味だ。ジャニーズには頭文字を並べたユニット名が多く、東西南北の方角(North・East・West・South)を並べた「NEWS」や、メンバーの名前の頭文字を並べた「Kis‐My‐Ft2」などもある。Kis‐My‐Ft2という名前には、加えてもうひとつの由来がある。タップダンサーのグレゴリー・ハインズが、自分が尊敬するサミー・デイビス・ジュニアの靴にキスをしたという逸話から、この話のように、尊敬されるグループに育ってほしいという願いと、ショービジネスの先人への敬意が込められている。このようにアルファベットを使った名前のユニットばかりの事務所の中で、異彩を放つグループが「嵐」である。彼らは「芸能界に嵐を巻き起こす」という、そのままの意味で名づけられた。かなりストレートな名前であり、当初はファンからも不評だったようだ。しかし超人気アイドルになった今、ファンはもとより誰もが違和感なく受け入れている。ダサい名前、カッコいい名前、老若男女から支持される名前──。それらの判断を的確に行ない、時代に合わせたアイドル名を考え続ける芸能事務所のネーミングセンス恐るべし。

「国誉」「郡是」「和江留」……どの会社かわかりますか?コクヨ、グンゼ、ワコールカタカナだと親しみやすいが、漢字で見ると思わず姿勢を正したくなる、そんな社名のひとつに「コクヨ」がある。学校や会社でもおなじみの、文具・オフィス用品メーカーのコクヨが創業されたのは、1905(明治38)年のこと。越中富山出身の黒田善太郎が、大阪で和式帳簿の表紙をつくる「黒田表紙店」をはじめた。やがて1913(大正2)年には洋式帳簿の販売もはじめ、1917(大正6)年に新しい商標「国誉(コクヨ)」を定めた。コクヨとは「国の誉れ」という意味である。国誉を社名にしたのは、「国の誉れとなるような会社になる」との思いを込めてのことだった。ただ、この場合の「国」とは日本国のことではなく、黒田の故郷・富山のことである。家族や懇意の人々の恩に報いるためにも、いつも心の片隅にあった故郷の誉れとならなければいけない、よこしまな汚い商売をして故郷の名を汚さないように、という決意に満ちた名前だった。「国誉」はその後、「コクヨ」とカタカナ表記になり、1961(昭和36)年には社名に冠されるようになった。オシャレなインナーウェアの会社名にもコクヨと同じく、ほかにもカタカナではわからないが、漢字にすると深い意味に気づかされる社名がある。インナーウェアや靴下など、アパレル事業で知られている「グンゼ」だ。漢字にすると「郡是」。京都府何鹿郡(現在の綾部市)出身の波多野鶴吉は、教員として働きながら、事業を志して蚕糸組合に加入し、1896(明治29)年に蚕糸会社「郡是」を創業した。「郡」とは、鶴吉の出身地で、事業をはじめた何鹿郡を指す。一方、「是」とは道理にかなっており、それに向かって努力すべしことを表わしている。その頃、政府は国是として生糸産業を奨励していた。そこで鶴吉は、自分の事業を何鹿郡にとっての是とすべく、「郡是」を社名にしたのである。鶴吉は社名に恥じぬよう生糸の品質向上に打ち込み、1900(明治33)年のパリ万国博覧会では郡是の糸が金牌を獲得。これにより、海外との取引も順調に進むこととなった。その後は下着メーカーとしても成長し、現在はメンズインナーで国内トップのシェアを誇っている。男性用メーカーであるグンゼに、質実剛健な由来があっても違和感はない。では、女性用下着メーカーの「ワコール」はどうだろうか。一見するとフランス語のように思えるオシャレな社名である。ワコールの創業者・塚本幸一は太平洋戦争に出征し、激戦のインパール作戦で九死に一生を得てようやく復員してきたという壮烈な経歴の持ち主だ。日本へ帰国後は、「女の人が美しいときは平和なんだ、だから女の人を美しくしなくてはいけない」と考え、1946(昭和21)年に「和江商事」を設立して女性用下着の製造販売をはじめた。この「和江」という名前は、塚本の父が滋賀県近江(別名・江州)の出身であるため、「江州に和す」を意味する。さらにそれだけではなく、塚本自身の戦争体験から、「揚子江の江畔で和を契り合った戦友たち」という意味も込められていた。1953(昭和28)年、当初の商標だったクローバー印から新商標へ切り替えるとき、塚本は、「和江の名を留める」という意味で、「ワコール(=和江留)」という造語を商標とした。そしてこの名が浸透し、1957(昭和32)年には社名となった。カタカナの裏に、深い意味が込められていたわけだ。

「商品名に『ダ行』がつくモノは売れる」というジンクスドラゴンクエスト、トヨタ誰がいいはじめたかわからない都市伝説やジンクス。ネーミングの世界にも、そんなまことしやかにささやかれる噂がある。「ドラクエ」こと「ドラゴンクエスト」といえば、誰もが知るロールプレイングゲームの金字塔である。1986(昭和61)年に1作目を発売して以降、シリーズ全体で6500万本以上という驚異の売上げを誇ってきた。その人気の秘密は、日本初のロールプレイングゲームであったこともさることながら、ネーミングのジンクスに秘められていたともいわれている。制作者の堀井雄二は、「タイトルにはダやドなど濁音をつけたほうがファンに受ける」と、恩師・小池一夫からアドバイスを受け、1作目の「竜王を倒し、世界の平和を取り戻すこと」というテーマにちなんで、濁音ではじまる「ドラゴン」を使うことにした。さらに「求めて探す」という意味を持つ「クエスト」を合わせて、「ドラゴンクエスト」と命名。その結果、「ドラクエ」の愛称で親しまれ、たちまち圧倒的な人気を集めたのである。「ダ」を「タ」に変えて成功した例もこのようにジンクス通り、濁音を用いて人気となったゲームがある一方で、あえて名前から濁音を外して成功した企業がある。それは世界的自動車メーカーの「トヨタ」だ。トヨタ自動車のはじまりは、豊田佐吉が興した豊田自動織機製作所の自動車部だった。このときの社名の読みは「豊田(トヨダ)」。それがなぜ「トヨタ」になったのか。社名を変更した転機は、自動車メーカーを設立したときのことである。1936(昭和11)年に同社が生産型乗用車をつくったときには「トヨダ号」だったが、翌年設立された会社は「トヨタ自動車」になっている。このとき、新車のマークを全国に公募したところ、濁音のない「トヨタ」と表記されたデザインが採用されたのだ。その理由は、デザイン的にスマートであり、かつ総画数が8画で縁起がいいことと、創業者の名字から離れることで個人企業から社会的企業へ発展するという意味を含ませたためだ。この社名変更のおかげかどうかは定かではないが、「トヨタ」は世界的な自動車メーカーになったのである。

「戒名」を社名にしていいの?竹中工務店、大成建設大手ゼネコンの中で、「竹中工務店」の名前はユニークである。一般にゼネコンの社名には「○○建設」や「○○組」という言葉が使われることが多いからだ。この竹中工務店という社名がつけられたのは1909(明治42)年のことだが、創業はそれよりもはるかに古い。ルーツは、宮大工であった初代・竹中藤兵衛正高が1610(慶長15)年に名古屋で設立した「大隅屋」だ。1610年といえば、その10年前に天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いがあった時代である。社名がつけられた当時、施工請負業者は一般に「○○組」と名乗っていた。しかし、大隅屋が竹中組と名乗らなかったのは、「私たちは施工だけでなく、設計も行なっている」という自負からである。明治時代、業界では、設計と施工は各専門業者が別々に行なうのが常識だった。しかし、設計施工を一貫して行なう宮大工の棟梁のプライドが脈々と受け継がれていた大隅屋では、「竹中組」とは名乗らず、設計と施工を合わせた意味の「工務」という言葉にこだわり、「竹中工務店」としたのである。実際、竹中工務店では、「建築を業とするものは建築の職人であって、営利のみを追求する建築の商人であってはならない。利害は超越すべし」と、職人気質の精神を謳っている。宮大工の伝統を受け継ぐ、古きよき職人魂を大切にしている。「建設」という言葉をつくった第一号竹中工務店のように、自らの事業内容にこだわり、新たな言葉を生み出したのが「大成建設」である。施工業者は「○○組」と用いることが多かったと紹介したが、大成建設は、そういう時代に「組」ではなく「建設」を名乗った。大成建設のルーツは、明治から昭和にかけて大倉喜八郎によって築かれた大倉財閥。大成建設の前の社名は、「大倉土木」で、1946(昭和21)年に現社名へ改称した。じつは、当初の新社名案は「大成土木」だった。しかし、引き受けている工事の内容を比べると、土木工事よりも建築工事のほうが多かった。にもかかわらず、「土木」を社名に入れるのは業態と一致しないという意見が出たのである。そこで、考え出されたのが英語の「construction(構造、組み立て、建造)」を訳した「建設」という言葉だった。今でこそ普通に見られる「建設」は、このときつくり出された〝新語〟で、大成建設がはじまりである。以後、他社でもこの「建設」という言葉を社名に取り入れるようになった。では、「大成建設」の「大成」の由来は何かというと、創業者・大倉喜八郎の戒名「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」にちなんでいる。大成とは『孟子』の「万章下篇」に「衆の長所を集めて一大長所をつくる」の「集大成」のことで、「成し遂げること」「多くのものを集めて、ひとつにしてつくりあげること」といった意味になる。大倉さんなのだから「大倉建設」にすればよさそうなものだが、終戦後のGHQ統治下で行なわれた財閥解体を前に、旧財閥の名である大倉は社名から消すことにしたのである。「大成建設」の社名は、このように、さまざまなアイデアを集め、それらの思いをひとつの形にした結果である。

「SEIKO」が忘れなかった〝原点〟世界に名だたる時計ブランド「SEIKO」。その前身は、時計の販売・修理を手がけていた服部時計店だ。店主の服部金太郎は、1892(明治25)年に旧ガラス工場を買い取り、製造工場「精工舎」を設立し時計の製造へ進出した。「精巧な時計をつくる」という思いから命名されたのである。以後、国産初の懐中時計、国産初の目覚まし時計、国産初の腕時計を製造して業績を伸ばしたが、1923(大正12)年の関東大震災により、工場や営業所が全焼。生産停止に追い込まれたが、懸命な努力を重ね復興にこぎつける。1924(大正13)年に震災後の再スタートを切るにあたって、「精巧な時計づくり」の原点に戻るべく、新製品九型腕時計を精工舎の名からとった「セイコー」として売り出した。これが今に続くブランド「SEIKO」の誕生なのだ。

こんなところにあの人の名が!?トクホン、ロート製薬、ドトール、スターバックスほかネーミングの王道として、人物名を由来とするものは数多い。たとえば、大学の施設。早稲田大学の大隈記念講堂(大隈重信から)、昭和女子大学の人見記念講堂(人見圓吉から)のように、創立者の名前をつけているものをよく見かける。また、安田財閥の創始者・安田善次郎の名を冠した東京大学の「安田講堂」のように、寄付者の名前を由来にするものもある。ほかには、競馬ファンなら誰でも知っている年末の大イベント「有馬記念」は、日本中央競馬会第2代理事長の有馬頼寧の名前から。有馬の考案で、1956(昭和31)年の年末に第1回中山グランプリが開催されたものの、翌年1月に死去したため、その功績をたたえて第2回からは有馬記念となった。医学の先人にちなんだ「ありがたいネーミング」大学の施設や特定のイベントだけではなく、意外なところにも人物名は隠れている。たとえば、全国的に名前が知られている製薬会社の名前だ。筋肉痛になったときに使う貼薬で有名なメーカーのひとつに、「株式会社トクホン」がある。製薬会社で働いていた鈴木由太郎が1901(明治34)年に設立した鈴木日本堂が前身である。社名は、1933(昭和8)年に発売したトクホンという貼薬がもとになっている。では〝トクホン〟というちょっと変わった商品名はどこから来ているのか。戦国時代から江戸時代初期にかけて実在した医者・永田徳本という人物名が由来。永田徳本は大永・享禄年間(1521~32)に甲斐の武田氏より招かれ、武田信虎と信玄の主治医をしていた医者である。その後諸国を渡り歩き、多くの庶民の治療を行なった。どんな高価な薬を処方しても、18文(現在なら約450円)以上の薬代は受け取らなかったといわれ、多くの人から尊敬を集めた人だ。そんな永田徳本の生き方に感銘を受けた鈴木は、開発中の貼薬の商標をトクホンにしようと考えた。徳本のトクは、人々に恩恵を与える「徳」だけでなく、炎症を「溶く」、痛みを「解く」などの意味にもつながる……。まさに貼薬にはぴったりの名前だった。このトクホンが大ヒットとなり、鈴木日本堂は消炎鎮痛貼布薬のトップメーカーにまで成長。1989(平成元)年に社名を株式会社トクホンに変更した。医学の先人にちなんで社名をつけた企業はトクホンだけではない。目薬や軟膏のメンソレータムでおなじみの「ロート製薬」もそのひとつだ。「ロート」は、20世紀初頭の眼科医界の権威であったドイツ人医学者・ロートムント博士にちなんでいる。同社は、1899(明治32)年、山田安民が信天堂山田安民薬房として開業したのがはじまり。山田は当時流行していた感染性の眼病を解決するため、東京眼科病院の井上豊太郎の協力を得て目薬を開発する。完成した目薬は、井上がドイツ留学中にロートムント博士より習った処方をもとにしてつくられたため、博士の名前にちなんだ「ロート目薬」と名づけられた。この商品名が1949(昭和24)年に社名となったのである。「博士」を名乗る有名コーヒー店医薬品を扱う会社が、医学の先人の名前を冠するのは何も不自然な話ではない。しかし中には、医薬品に無縁のコーヒーショップの名前に、博士の名がついている例がある。国内に1000店舗以上を構え、海外にまで進出している「株式会社ドトールコーヒー」だ。「ドトール」は、ポルトガル語で「博士」という意味。どんな関係があるのか。同社の創業者は、喫茶店の店長であった鳥羽博道。20歳になった鳥羽は「小さな店の店長で終わりたくない」と、1959(昭和34)年にコーヒーの本場・ブラジルへ2年半の修業に出る。場所はサンパウロ。「ドトール・ピント・フェライス通り85番地」、つまり「ピント・フェライス博士」という人物名がつけられた通りにあるアパートを借りての修業だった。ピント・フェライス博士とは、ブラジルの医学界(一説には法学の分野も)に多大な貢献をした博士で、彼をたたえて通り名となっていた。日本へ帰国した鳥羽は、1962(昭和37)年にコーヒー豆の焙煎会社を設立する。社名は、初心を忘れないため、ブラジルで修業していた日々を思い起こさせるよう、住んでいたアパートの住所「ドトール」からとったのである。ちなみに、「スターバックスコーヒー」の社名は、アメリカの作家ハーマン・メルヴィルの名作『白鯨』に登場する一等航海士「スターバック」が由来だ。創業者のひとりが社名に白鯨に登場する船の名前「ピークォッド」とつけようとしたが、知人に「ピー(小便)+クオッド(刑務所)」みたいだと止められたという逸話が。人物名にちなんだネーミングの数々。もしかすると将来、あなたの名前がつけられる可能性もある。偉大な業績はもちろん、多額の寄付をするのはひとつの手かも!

合併すると名前はどうなる?丸善ジュンク堂書店、ハヤシライスほか企業のM&A(合併、買収)が進む時代、新会社の社名がどうなるかは世間の注目を集める。どちらを残すか、旧社名をつなぎ合わせるか、まったく新しい社名をつけるか……。新社名は会社の顔となるだけに、非常に重要だ。ニチメンと日商岩井が合併してできた「双日」や、山之内製薬と藤沢薬品が合併した「アステラス製薬」、日本興業銀行と富士銀行、第一勧業銀行が合併して誕生した「みずほ銀行」などは、まったく新しい社名をつけている。その一方で、旧社名をつなぎ合わせた新社名も少なくない。三井銀行(合併時は、さくら銀行)と住友銀行の合併でできた「三井住友銀行」や、東京三菱銀行とUFJ銀行の合併で誕生した「三菱東京UFJ銀行」、タカラとトミーが合わさった「タカラトミー」などがそうだ。ちなみに、三菱東京UFJ銀行の英語表記は「TokyoMitsubishiUFJ」となり、東京が先にくる。2015(平成27)年に丸善とジュンク堂書店が合併した際も、旧社名を残した。2つを合わせて「丸善ジュンク堂書店」となった。まったく新しい名前にしなかったのは、両者にとって歴史ある書店名を残したかったからに違いない。それぞれの名前にはユニークないわれがあるからだ。東京・池袋と大阪に本店を持つ「ジュンク堂書店」は、1963(昭和38)年に神戸・元町で工藤淳の手で「大同書房」として開業した。その後、1976(昭和51)年に跡を継いだ息子の工藤恭孝は、これを機に別の店名に改称したいと考えていた。そこで社員らとともに思いつくだけのアイデアを絞り出した。結果、数百もの案が出て、さらに5、6個の案に絞ったものの、「三宮ブックス」「神戸ブックセンター」など、どれも今ひとつパッとしない名前ばかり。そこで落選したほかの候補を改めて見直してみたところ、目に入ったのが「ジュンクドウ書店」だった。ここでピンときた人もいるだろう。「ジュンクドウ」は、恭孝の父親、工藤淳の名前と名字をひっくり返したもの。「ジュンク」がカタカナ、「藤」を「堂」として「ジュンク堂」としたのである。書店の創始者はハヤシライスの考案者!?一方の「丸善」の名前の由来も興味深い。創業したのは岐阜県出身の早矢仕有的という人物だ。早矢仕は医師だったが、東京に出て福沢諭吉の慶應義塾にて蘭学や英学を勉強した。ここで貿易に興味を持つようになった早矢仕は、1868(明治元)年11月に横浜で「丸屋商社」を開く。形は書店だったが、医薬品や医療機器の輸入なども扱っていた。この丸屋商社の「丸」は、地球を意味する。世界を相手に商売するという意味から当初は「球屋(まるや)」としたが、マリヤやタマヤと誤読されるため、「丸」に変えたという。その丸屋商社が、なぜ丸善になったのか。じつは「善」という文字は、早矢仕が会社を立ち上げる際、会社名義人として「丸屋善八(日本橋店では善七)」という架空の名前を使っていたことに由来する。この「善八」は、早矢仕の故郷・岐阜の恩人である高折善六という人物名にちなんでいる。善六は、早矢仕が上京するとき、旅費として餞別を与え、さらに紹介状まで用意して早矢仕を快く送り出した。「善八」とは、善六への恩を忘れないように、とつけた名前なのである。この「丸屋善八」という名前がいつしか定着。顧客や取引先などが「丸善さん」と呼びはじめたことから、1880(明治13)年に丸善商社と改称した。こうして丸善が立ち上げられたわけだが、この早矢仕有的という人物の名前が、料理名の由来になっているという説がある。早矢仕が医師をしていた際、牛肉と野菜のごった煮をつくってご飯にかける料理を病院食として考案した。これが「ハヤシライス」の起源だというのだ。ただほかにも諸説あり、真偽のほどは不明だ。ちなみにカレーライスは、インドのタミル語の「カリー」と、宗主国イギリスのライス(米)が混ざった造語。カリーは、ソースや汁という意味で、カレーライスを直訳すると「汁かけご飯」である。

世界企業をつくる男の〝ネーミングセンス〟カシオ計算機、ブリヂストン、Mizuno創業者の名前が、そのまま会社やブランドの名前になっていることは珍しくない。その中には、ちょっと工夫をこらすことで、世界に通じる普遍性を持たせた会社もある。機械メーカーの「カシオ計算機」もそのひとつである。言葉の響きが、外国語のような雰囲気を与えるが、創業当時の社名は「樫尾製作所」。つまり世界のCASIOは「樫尾さん」のことだ。「樫尾製作所」は高知県出身の樫尾忠雄によって1946(昭和21)年に東京都三鷹市で設立された。そして、「世界中の人に計算機を使ってもらいたい」という思いから、英字のブランド名CASIOを考案した。これは、名字の樫尾をそのままローマ字表記にしたKASHIOより、スマートで世界中の人々が覚えやすいのではと考えたからである。創業者の名のアレンジあれこれ世界シェア№1のタイヤメーカー「ブリヂストン」も、創業者の名前が由来である。創業者の石橋正二郎は、兄とともに父の家業である仕立屋を継いでいたが、1907(明治40)年に工場を建設して足袋の大量生産をはじめる。さらに、ゴム底の足袋、ゴム靴と事業を拡大したのち、タイヤ事業に乗り出した。当時、日本国内を走行していた自動車はわずか5万台ほどで、その多くが外国製。当然のことながらタイヤも外国メーカーのものがほとんどだった。しかし石橋は、日本の自動車産業の発展を読み、国産タイヤをつくることを志す。さらに海外へ輸出することも視野に入れていたため、英語風の商標を考えていた。外国のタイヤメーカーは、ダンロップ、グッドイヤー、グッドリッチなど、いずれも創業者や発明者の名前がつけられていた。それにならい、「石橋」を英語にしたストーンブリッヂというネーミングを思いついたが、どうにも語呂がよくない。そこで「石橋」をさかさまにして、「橋」と「石」の順にした「ブリヂストン(BRIDGESTONE)」としたのである。こうして1930(昭和5)年にブリヂストンの名をつけたタイヤが誕生。翌年にブリヂストンが社名になり現在へ続いている。また、スポーツメーカー「Mizuno」も創業者名を変化させてつけられている。Mizunoの創業者は岐阜県出身の水野利八。これだけでは普通に名字が社名になったように思われるが、会社の正式名称は「水野」ではなく、じつは「美津濃」だ。本名ではなく、わざわざ画数の多い美津濃にしている。「美津濃」の名が初めて登場したのは、1910(明治43)年。4年前に弟の利三とともに大阪柴田町で「水野兄弟商会」をスタートさせた水野利八が、梅田新道へ同店を移転させ、「美津濃商店」と改称したときだった。これは、自分が岐阜県の出身だったため、旧国名の「美濃」と、港を意味する「津」を組み合わせたネーミングだ。「津」には、港の町・大阪にちなみ、自分の会社が広く人材の集まる港になってほしいという思いを込めている。またこのとき水野は、「将来、店が発展したとき、自分の子孫以外から立派な人材が出て店主になるかもしれない。そのとき、自分の個人名の水野ではふさわしくない」と語ったという。ただ現在の社長は水野さんだ。創業者・水野利八の孫にあたる。

なぜ「1粒300メートル」なのか江崎グリコ、カルビー大阪・道頓堀がテレビに映る際に登場する、白いランニングシャツを着た笑顔の男性。そう、菓子メーカー・江崎グリコの大看板だ。じつは「グリコ」は、「食品を通じて、人々の健康の役に立ちたい」という創業者・江崎利一の思いを強く反映したネーミングなのだ。この「グリコ」は、ブドウ糖が多数結合した栄養素「グリコーゲン」のこと。生命活動維持のため、グリコーゲンがブドウ糖に分解され、エネルギーとして供給される。江崎が、グリコーゲンに着目したきっかけは、郷里の佐賀で、漁師たちがカキをゆでているのを見たときである。多量のグリコーゲンが含まれるカキなら、ゆで汁にも、グリコーゲンが流れ出しているのではないか……。もし、この推測が正しければ、漁師たちが捨てているカキのゆで汁を生かした商品開発ができるはず……。折しも、この研究の最中に、長男の誠一がチフスにかかっていた。江崎は祈る思いで、開発中のグリコーゲンを誠一になめさせることにした。医者の許しはもらったものの、効能があるかどうかは誰にもわからなかった。すると、誠一は次第に体力を回復していったのである。効果を実感した江崎は、なんとしてもグリコーゲンを含んだ商品を販売したいと決意し、商品開発に励んでいくことになる。考えたのが、誰でも摂取しやすくすることだった。薬だと病人しか口にしないだろう。子どもが食べられる菓子にすれば、大人も口にするのではないか……。そして菓子づくりはまったくの素人だった江崎が、苦心の末になんとかキャラメルとして商品化したのである。当時のキャッチコピーは「1粒300メートル」。このコピーに合わせて、300メートル走れる栄養価になるように、1粒の量を調節したという。江崎は、社名のネーミングだけでなくキャッチコピーの重要性もわかっていたわけだ。同社のホームページによると、1粒は16・5キロカロリーで、20歳男性が分速160メートルで約300メートル走ることができるエネルギーだという。「カルシウム」と「ビタミン」が社名の由来グリコと同様に、栄養素の名前を社名にしたのが、「かっぱえびせん」などで知られる菓子メーカーの「カルビー」である。広島で「松尾糧食工業」という菓子メーカーを営んでいた創業者の松尾孝が1955(昭和30)年に「カルビー製菓」へ改称したのが、カルビーという名前のはじまりだ。カルビーと名づけたのは、栄養価が豊富な菓子をつくりたいとの思いからだった。当時の日本人の体格は、欧米諸国と比べてかなり劣っており、その原因はカルシウム不足にあるといわれていた。また、白米を主食にしている関係から脚気を患う人が多く、ビタミンが足りないことが原因とされていたのだ。菓子を開発するかたわら、理念を社名にも採用。「カルビー」の「カル」は「カルシウム」、「ビー」は「ビタミン」の「B(ビー)」である。スナック菓子や間食の食べすぎが取り沙汰されている昨今では考えられないが、昔は社名に掲げるほど、日本人の栄養素が欠乏していた時代だったのだ。

数ある動物からあえてそれを選んだ理由ライオン、ゼブラ、キリン商品のイメージが消費者に伝わりやすいからか、動物名を使った会社は多い。歯磨き粉や台所用洗剤など、家庭ではよくお目にかかるのが「ライオン」の製品。同社の前身は、1891(明治24)年に創業された小林富次郎商店である。当初はほかのメーカーの石鹼の販売などを行なっていたが、創業者の富次郎が歯磨き粉の製造に乗り出し、1896(明治29)年からは自社製品の発売をはじめた。このときに売り出したのが、ライオンの絵をトレードマークとした「獅子印ライオン歯磨」だった。ライオンを商標にするというアイデアは、クリスチャンであった小林と親交のあった牧師の助言による。当時は、象や虎、キリンなど、動物をマークにした歯磨き粉が流行していたため、「牙が丈夫なライオンなら歯磨き粉にうってつけでは」といわれ、富次郎も「百獣の王だから縁起もよい」と、ライオンを採用したのである。その後もライオン銘柄の製品を世に出し続けた小林商店は、1919(大正8)年にライオンの名を冠した別会社「ライオン石鹼」を設立。どちらも数度の社名変更を経て、1980(昭和55)年に両社が合併して現在のライオンに至った。百獣の王ライオンの名を冠した会社がある一方で、ライオンと同じく、サバンナを代表する野生動物の名が使われている会社がある。文具メーカーの「ゼブラ(シマウマ)」だ。シマウマはサバンナではライオンに捕食される側。そんな動物が社名に冠されているのはいったいなぜだろうか。創業者の石川徳松は、シマウマの群れのように社員が団結して筆記具の製造に邁進することを願い、ゼブラの名を社名にした。またシマウマの漢字表記のひとつ「斑馬」にも意味がある。「斑」の字は「文」と「王」が組み合わさってできているため、そこから「文具の王」が連想され、文具メーカーにはふさわしいとされたのだ。ライオン、シマウマ……。この並びだけでサバンナの情景が目に浮かぶが、ほかにも社名になった野生動物がいる。キリンである。キリンはキリンでも、動物園にはいないキリン!?ビールや清涼飲料水などを手がける「キリン株式会社」も動物の名。しかし、首が長くて動物園で見るあのキリンではない。古代中国の想像上の動物、「麒麟」である。キリンのビールや発泡酒のラベルには、馬や龍にも似た不思議な生き物の姿が描かれている。麒麟は太平の世に現れるという聖なる霊獣。縁起がよい動物であることは間違いない。麒麟がはじめて登場したのは1888(明治21)年。当時、西洋から輸入されていたビールは、ラベルに猫や狼など、動物の図柄が描かれたものが多かった。さらに東洋市場開拓を見据えていたこともあり、東洋の霊獣である麒麟を商標にして「キリンビール」として売り出したのである。今度、ラベルに描かれた麒麟の図柄をよく見てほしい。麒麟の毛の中に「キ」「リ」「ン」の三文字が隠されている。隠し文字がある理由は、偽造防止やデザイナーの遊び心の発露など諸説あり、はっきりしていない。

東京を彩る「エスペラント語」ヤクルト、丸の内オアゾほか突然だが、「エスペラント語」をご存じだろうか。1887年にポーランドのユダヤ人眼科医、L・L・ザメンホフによって考案された〝世界共通語〟のこと。国際補助語として今も存在している。なんと、我々もこのエスペラント語を使っている。乳酸菌飲料の代表格であり、傘下のプロ野球球団「東京ヤクルトスワローズ」でもおなじみの「ヤクルト」という名前。じつはエスペラント語でヨーグルトを意味する「ヤフルト(jahurto)」から誕生したものだ。ヤクルトの創始者である代田稔博士は、1899(明治32)年に長野県で生まれた。険しい山にはさまれ土地もやせていた地元では、多くの人々が貧しい生活を強いられ、栄養不足で死亡する子どもも少なくなかった。そんな状況を見て育った代田少年は貧しい人たちを病から救うために医学博士となり、京都帝国大学で講師をしているとき、後にヤクルト菌と呼ばれる「L・カゼイ・シロタ株」の培養に成功する。彼は「日本だけでなく、世界の人々を健康にしたい」という意味を込めて、世界共通語であるエスペラント語で商品名をつけたのだ。エスペラント語はほかにも、多くの人々が利用する施設名にも用いられている。東京・丸の内の商業ゾーン「丸の内オアゾ(OAZO)」の「オアゾ」がその例。その意味は、エスペラント語で「オアシス」。加えて、前後の「O」は、「丸の内」の「○(マル)」と、大手町の「O(オー)」で、間にある「AZ」は「すべての都市機能」(A~Z)を表わす。つまりオアゾは、「丸の内と大手町をつなぐすべての都市機能を持った憩いのオアシス」という意味が込められているのだ。あの『銀河鉄道の夜』の世界も……丸の内のような都心にもエスペラント語が隠されていたが、一方で旅先でも見ることができる。それが岩手県の花巻市と釜石市を結ぶJR釜石線だ。じつにロマンチックな形でエスペラント語が使われている。釜石線の24個のすべての駅の駅名標には、日本語やアルファベットと書かれた駅名表示だけでなく、全体に美しい絵が描かれている。さらにその下には、それぞれの駅につけられた愛称がある。この愛称がなんとエスペラント語なのだ。たとえば、花巻駅なら「Ĉielarko(虹)」、新花巻駅は「Stelaro(星座)」、小山田駅は「LunaNokto(月夜)」といった具合。駅名標の絵は、これらの単語をモチーフにして描かれたものだ。これは、釜石線の前身である岩手軽便鉄道が、花巻出身の童話作家・宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』のモデルになっていたことにちなんでいる。作中でエスペラント語が多用されていたことから、各駅にエスペラント語の愛称がつけられたというわけだ。駅名標を見るだけでも楽しい釜石線。しかも、駅名標の絵を最初から最後まで横に並べると、連続した一枚の絵になるという。

プロ野球、サッカー……このこだわり東京ヤクルトスワローズ、広島東洋カープ、鹿島アントラーズほか日本でとくに人気のあるプロスポーツといえば、野球とサッカーだろう。ニュースのスポーツコーナーでは、連日試合結果が報道され、新聞のスポーツ欄では大きく取り扱われている。ここで、野球やサッカーのチーム名には、どんな意味が隠されているのか見てみよう。まずプロ野球のチーム名から。ルーツをたどると意外な意味があることに気づかされる。たとえば、「東京ヤクルトスワローズ」の名前は、前身である国鉄スワローズ時代にさかのぼる。じつは、1950(昭和25)年から国鉄で運行されていた「特急つばめ号」からつけられた名前だ。つばめを英訳すると「スワロー」である。一部の巷でささやかれている「当初はコンドルズを予定していたが、それだと『混んどるず』になってしまうため、『座ろうず』にした」という話は、漫才のネタから生まれた逸話である。プロ野球のチーム名で異彩を放っているのは、「広島東洋カープ」だろう。カープは、英語で鯉を意味する。ライオンズやタイガース、イーグルスなど、強そうな動物をチーム名にするのはわかるが、なぜ鯉なのか。じつは広島城が別名・鯉城と呼ばれていることから名づけられている。カープの上に東洋がつくのは、1968(昭和43)年に東洋工業(現在のマツダ)の社長が球団の筆頭株主になったためで、社名がマツダになったあともそのまま残されている。ほかにも、1958(昭和33年)年に就任した千葉茂監督の異名「猛牛」が由来の「オリックスバファローズ」など、チーム名をひも解くと面白い発見がある。〝うどん〟のように粘り強いチームを目指す!?ではサッカーのチーム名はどうか。野球に劣らず、こちらもネーミングには深い意味がある。たとえば、毎年のように優勝争いを繰り広げる「鹿島アントラーズ」は、茨城の地元の鹿島神宮にちなんだ名前である。鹿島神宮では、鹿を神の使い「神鹿」として崇めている。境内にも鹿が飼われているほどだ。この鹿にちなみ、英語で「鹿の枝角」を意味する「アントラー」がチーム名となった。「名古屋グランパス」は、名古屋のシンボルである名古屋城の金の鯱が由来だ。グランパスは、英語でシャチを意味する。「ヴァンフォーレ甲府」の場合は、地元の戦国武将・武田信玄の旗指物の通称「風林火山」にちなみ、フランス語で「風」を意味するヴァンと「林」のフォーレを合わせたものだ。「水戸ホーリーホック」のホーリーホックは、英語で「葵」。徳川御三家が治めていた水戸らしく、徳川家の葵の御紋からとられている。このように地域に根差した名前のチームが多い中で、最も異彩を放っているチーム名が、もとの高松FCから2006(平成18)年に現在の名前になった香川県の「カマタマーレ讃岐」だろう。カマタマーレは、讃岐名物「釜玉うどん」にイタリア語で海を意味する「マーレ」を合わせた造語。2005(平成17)年に新チーム名を一般から公募したところ、75歳男性が考えた「カマタマーレ讃岐」が採用されたのだ。「うどんのようになめらかにパスを回し、粘り強いチームになってもらいたい」という願いが込められているとか。まさに讃岐うどんの本場・香川県ならではのネーミングである。カマタマーレ讃岐は、チーム名だけでなく、エンブレムも釜玉うどん推し。白い麺の上に卵の黄身を表わした黄色いサッカーボールが乗ったデザインとなっている。うどんを心から愛する県民性が、サッカーチームとうどんという意外なマッチングへと導いたといえる。

3人で会社をつくるとこうなる紀尾井坂、小岩井乳業、幸楽苑ほか東京の赤坂という都会の真ん中にありながら、ホテル・ニューオータニや東京ガーデンテラス紀尾井町が建てられ、閑静な雰囲気を漂わせている町、紀尾井町。この町名ができたのは、明治に入ってから。町内にある「紀尾井坂」が由来だ。1878(明治11)年に、維新政府の中心人物・大久保利通が、馬車に乗って出仕の途中に暗殺された「紀尾井坂の変」が起きた場所だ。江戸時代この周辺には、紀伊和歌山藩の上屋敷、尾張名古屋藩の中屋敷、そして近江彦根藩井伊家の中屋敷があった。やがて、江戸時代中期の元禄の頃から、これら3つの屋敷地の間にある坂道が、それぞれの屋敷の1文字ずつをとって「紀尾井坂」と呼ばれるようになったのである。「いいとこ取り」のプラス効果3つの要素から1文字ずつ抽出して並べたネーミングは、地名だけにとどまらない。企業名にも同様のパターンが存在する。乳製品でおなじみの「小岩井乳業」も3つが合体して生まれた名前である。小岩井乳業は、1888(明治21)年に現在の岩手県を訪れた鉄道庁長官の井上勝が、大農場を拓こうと考えたことにはじまる。井上はこのアイデアを日本鉄道会社副社長の小野義眞に相談し、小野は三菱社社長の岩崎彌之助と井上を引き合わせた。そして岩崎は、井上の考えに共感し、出資を快諾したのである。こうして1891(明治24)年、岩手山の南山麓の広大な地に、3人の尽力によって大農場が開設された。このときの名前が「小岩井農場」。小岩井とは、小野の「小」、岩崎の「岩」、井上の「井」と、それぞれの姓から1文字ずつとったのである。こうしてできた小岩井農場では、西洋式の農法が積極的に導入され、機械化、効率化した農業の実践がはかられた。1899(明治32)年には、経営が岩崎家に引き継がれ、畜産が主軸となり乳製品の製造が盛んに行なわれる。そして1976(昭和51)年には、キリンの出資で小岩井乳業が設立されて現在に至る。さらに身近なところにも、3つの言葉をひとつにしたネーミングがある。それは全国に展開する中華料理チェーンの「幸楽苑」だ。じつは「幸楽苑」という店名には、「幸楽飯店」「後楽園」「新宿御苑」という3つの要素が盛り込まれている。幸楽苑を創業した新井田傳は、若い頃に東京の「幸楽飯店」という中華料理店で修業をしていた。店は後楽園球場(現在の東京ドーム)の近くで、住み込みの宿舎が新宿御苑のそばにあった。やがて、独立して店を出すにあたり、新井田は自身の修業時代に縁があったこの3つの場所にちなんだ店名にしようと考えたのである。新井田は、幸楽飯店のように、自分の店も来店した人の全員が、幸せに楽しく食事ができるようになってほしいと考えた。また、後楽園球場のように、知名度の高い場所になってほしい、そして、新宿御苑の「苑」という言葉が表わすように、多くの人が集まる場所になってほしい、という3つの願いを込め、3つの場所の名前を合わせて「幸楽苑」としたのである。ちなみに、後楽園は、水戸藩の庭園の名前で、水戸光圀によって名づけられた。ネーミングのルーツは、北宋の文人・范仲淹が書いた『岳陽楼記』の一説「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」の中の「後楽」である。ここで気になるのは、後楽園球場と並ぶ、プロ野球の西の聖地「甲子園球場」だ。1924(大正13)年に完成した施設で、その年は「十干」と「十二支」が60年に一度重なる「甲子」の年だった。そのため、甲子園球場というネーミングになったのである。名前の裏に歴史あり。親しまれるネーミングには、時間の波にも耐える力がある。

外国製品に負けたくなかったらまず名前からおなじみの接着剤「セメダイン」。じつは物理学の単位名からきている。後ろ3文字の「ダイン」の部分。これは力の大きさを示す単位「dyn(ダイン)」を表わしている。では、「セメダイン」の「セメ」は何かというと、接合材の「セメント」を指している。こうして接合材と力の単位を合わせ、「強い接合・接着」という意味を込め、新たな言葉「セメダイン」とネーミングしたのだ。このネーミングには、じつは、もうひとつ別の由来がある。それが、創業者・今村善次郎の強い〝決意〟だった。今村が創業した大正時代、日本の化学工業は外国に大きく遅れていた。当時の日本では、国産の接着剤といえば、でんぷんが主原料の、いわゆる「のり」である。接着力も弱く、しかも冬になると、気温が低くてなかなか固まらず、使い勝手が悪かった。そのためこの分野の市場は、イギリス製やアメリカ製など外国製品の独擅場だった。今村も当初は、個人商店で外国製の接着剤を販売していた。しかし、市場が外国製品の独占状態にある現状に我慢できなくなり、国産品の普及を目指して自身で研究開発に乗り出す。そして1923(大正12)年、国産初の化学接着剤を完成させたのである。当時、外国製品の中でも一番人気だったのがイギリス製の「メンダイン」という製品だった。そこで、今村は、「(市場から、外国製品の)メンダインを攻め(セメ)出せ」との思いも込め、「セメダイン」と命名したのである。外国製品を駆逐するというじつに闘志あふれるネーミングであるが、セメダインは現在、タイやフィリピンに関係法人を持ち、海外市場の開拓に励み、海外へ攻め込んでいる。

「ユニ」ってナニ?ユニクロ、三菱鉛筆ユニ、ユニ・チャーム低価格でおしゃれなファストファッションが世界を席巻しつつある。そのブランド名には、独創性あふれるものも少なくない。スウェーデンのアパレルメーカー「H&M」は、Hennes&Mauritzの頭文字を取ったもの。1947年設立当時の社名は、「Hennes」だけで、「彼女のもの」を意味するスウェーデン語がルーツである。その後買収した狩猟具店「MauritzWidforss」から一語を取り、現在の名前になった。スペインの人気アパレルブランド「ZARA」の由来も独創的だ。創業者のアマンシオ・オルテガは、映画「その男ゾルバ」に感銘を受け、ゾルバというブランド名にしようとしたが、同名のバーが近くにあったため、仕方なく音が似ているZARAにしたという。このようなオシャレな名前が並ぶ中で、日本にも世界を席巻するファストファッションのメーカーがある。国内でも800店舗を超え、海外でも900近い店舗を持つつ世界最大級のアパレル企業となった、ファーストリテイリンググループの「ユニクロ」だ。この全世界的な認知度を誇るユニクロという名前には、いったいどんな由来があるのか。「ユニクロ」とは、「uniqueclothingwarehouse(ユニーク・クロージング・ウエアハウス)」の略で、「独創的な衣料品の倉庫」という意味だ。1949(昭和24)年に山口県宇部市で創業された当時は「メンズショップ小郡商事」という名前だったが、1984(昭和59)年6月に広島市に「ユニクロ」第1号店がオープン。この店が広島で大人気となり、1998(平成10)年11月に満を持して東京・原宿に進出したのである。「メンズショップ小郡商事」のままでは、世界を席巻するような今の成功はなかったかもしれない。「独創的」だけでなく、「世界的」「統合」の意味もファッションブランド以外の分野でも、「ユニーク」を由来とした名前がある。三菱鉛筆で製造されている鉛筆「ユニ」もそのひとつ。ユニは、鉛筆の芯から木材、色、デザインなどすべてにこだわった高級鉛筆がコンセプト。発売するにあたり「最高、唯一」という意味を持つ「ユニーク」の「ユニ」を冠した商品名としたのである。しかし、同じユニでもユニークだけが由来ではないケースもある。生理用品・紙おむつメーカーの「ユニ・チャーム」の場合、「ユニーク」のほかに「ユニバーサル」「ユナイテッド」の意味も含まれている。「独創的」「最高」に「世界的」「統合」も足すとは、スケールが大きい。「世界的に通用するユニークな商品やサービスを提供する統合した会社でありたい」という思いを表現している。さらに「チャーム」は、「女性にはいつも魅力的(チャーミング)でいてほしい」という気持ちが込められているという。同じ言葉でも、企業によってヒットにかける思いは多種多様なのだ。

「私は大阪生まれです」ダイハツ工業、ダイキン工業、ダイエー太閤・秀吉の時代から、大阪には独特の文化が根づいているといえよう。これが不思議なことに現代のビジネス社会にも続いている。ムーヴやコペン、ミライースなど、スマートな軽自動車が人気の自動車メーカー「ダイハツ工業」は、1907(明治40)年大阪生まれの歴史ある会社だ。大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)の校長・安永義章と機械科長の鶴見正四郎が、実業家とともにエンジン(発動機)の国産化を目指して設立した。じつはこの会社、設立当時はそのものズバリの「発動機製造株式会社」という社名だった。しかし、この社名はあまりにもシンプルすぎたようだ。その後、次々と「発動機」を社名につけた同業他社が生まれ、単なる「発動機製造」という社名では、他社とまぎらわしい状況になってしまった。そのため、取引先などからは「大阪の発動機製造」を省略した「ダイハツ(大発)さん」と呼ばれており、1951(昭和26)年、結局はこの呼び名がそのまま「ダイハツ工業株式会社」として正式な社名となったのである。会社の所在地が大阪だったことから、「ダイ○○」の社名がついた会社はほかにもある。空調機器メーカーの「ダイキン工業」だ。ダイキン工業は、日本で初めて空調機器を製造した会社。現在では住宅空間のみならずオフィスやショッピングセンター、レストランなどの業務用空調設備を幅広く手がけ、とくに業務用空調設備では国内シェアの約40%を占める。1924(大正13)年、大阪の軍工廠の技術者だった山田晁が独立してつくった金属加工技術の会社を興したのがはじまりである。設立当初は「大阪金属工業所」で、その後、「大阪金属工業株式会社」へ社名変更。軍で培った金属加工技術を駆使して飛行機部品の製造販売や一般金属加工などを行なっていた。そして日本初のフロンガスの合成に成功し、冷凍・空調設備の分野に進出を果たした。1951年には日本初のパッケージ型エアコンの生産を開始するなど、会社の業態は設立当初の金属加工から、空調機やフッ素化学へと比重が移っていた。こうなると、「大阪金属工業株式会社」では、社名と業態がマッチしないということで、社名変更を決断。周囲から社名を略して「ダイキン(大金)さん」と呼ばれていたことから、1963(昭和38)年に「ダイキン工業株式会社」に社名変更したのである。大阪生まれだから「ダイ」がついた「ダイハツ」や「ダイキン」だが、では1号店が大阪で開業したダイエーはどうだろうか。大きく栄えたいとの望みを込めた「ダイエー」流通革命や価格破壊など、日本のスーパーマーケット業界を変えたともいわれるダイエー。その1号店は、1957(昭和32)年に京阪本線の千林駅前にオープンした「主婦の店・ダイエー薬局」だ。こうなると、もちろんダイエーの「ダイ」も「大阪」がキーワードになっているのだろうと思ってしまうのだが、じつはまったく大阪とは関係がない。「ダイエー」は、オープンの半年前に創業者・中内が神戸で興した「大栄薬品工業」という会社名のカタカナ表記が由来である。つまり、一号店は大阪でも発祥は神戸であり、「大栄薬品工業」の「大栄」も、当然ながら大阪とは無縁である。「大栄」とは、「大きく栄える」という願いを込めて名づけられた名前だ。社名が「ダイエー」に変更されたのは1970(昭和45)年のことである。その後ダイエーは、日本の小売業で初の年間売上げ1兆円を突破。「Dマート」や「グルメシティ」など数多くのスーパーを展開しながら、さらにプロ野球球団やホテルなどさまざまな分野にも進出して文字通り大きく栄えることとなった。しかし、その後衰退。2015(平成27)年1月からダイエーの親会社となったイオングループは、ダイエーのスーパー名を、2018年(平成30)年をメドに廃止するとの方針を発表した。大きく栄えすぎるネーミングも考えものかもしれない。

「三本の矢」のすごい威力サンフレッチェ広島、ユナイテッドアローズ、三ツ矢サイダー広島に「サンフレッチェ広島」というプロサッカーチームがある。一見するとこのチーム名、外国語のように思えるが、じつは広島ゆかりの戦国武将・毛利元就の「三本の矢」の故事に由来する。元就といえば中国地方の覇者となった戦国武将。晩年、長男・隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景にあてた遺訓の中で、3人が一致団結して毛利家を盛り上げるように繰り返し綴っている。元就は「1本の矢ではすぐ折れるが3本束ねたら折れない。その束ねた矢のように3人が団結するように」といい聞かせたという。「サンフレッチェ」はその故事にちなんで命名された名前で、「サン」は数字の3、「フレッチェ」はイタリア語で「矢」を意味している。そして「三本の矢」の結束にちなみ、広島の「市民、行政、財界」の三位一体、チームスポーツにおける「技術、戦術、体力」の三要素、さらには選手個人の「心、技、体」の3原則にもかけている。この「三本の矢」の故事に影響を受けた名前は、サンフレッチェだけではない。1989(平成元)年に重松理らがスタートさせたアパレルメーカーの「ユナイテッドアローズ」の社名も、束ねた矢が由来だ。共通の志に向かって1人ひとりの従業員が直進するあり方を、矢(アローズ)にたとえ、それらを束ねた(ユナイテッド)会社という意味が込められている。直接的に毛利元就の「三本の矢」をモチーフにしているわけではないが、束ねた矢のように力を合わすという理念は同じだ。平安時代の伝説に由来する三ツ矢サイダーこの「三本の矢」の故事と深い関わりがありそうな商品に「三ツ矢サイダー」がある。発売以来100年を超え今なお愛され続けるロングセラー商品だ。この由来は元就とはまったく関わりがない。平安時代にルーツがある。発祥の地、多田(兵庫県川西市)は、平安時代に清和源氏の祖である源経基の子・満仲が居館を置いた場所。居館を定める際、3本の矢を放ち、矢が落ちたところに決めたという言い伝えがある。このとき、満仲は矢を見つけた孫八郎という地元衆を重臣に取り立て、領地と三ツ矢の姓、そして3本の矢羽根の家紋を与えたという。その後、満仲は鷹狩りの最中に多田村平野で霊泉を発見。このときに見つけたのが平野の天然鉱泉だった。それがやがて明治時代に三ツ矢サイダーと結びつく。平野の霊泉は、1881(明治14)年に英国の理学者ウィリアム・ゴウランドによって「理想的な飲料鉱泉である」と評価されると、平野鉱泉として一躍有名になった。そこに商機を見出した明治屋が1884(明治17)年、平野鉱泉の水を「三ツ矢平野水」「三ツ矢タンサン」として売り出した。満仲の伝承にちなみ「三ツ矢」の商標をつけたのである。これが三ツ矢サイダーのルーツとなった。やがて1907(明治40)年に「三ツ矢」印の「平野シャンペンサイダー」の製造販売がスタートした。1996(平成8)年には「三ツ矢」ブランドはアサヒ飲料に譲渡されたが、三ツ矢サイダーは今でも好評だ。ロングセラーのネーミングには、なんとも悠久の歴史が隠されていたのである。

日本人は「ヤマト」が好き大和市、ヤマト運輸ほか「大和」とは、日本を表わす別名である。大和言葉や大和魂など、日本固有のものを指すときに使われる。これは4世紀頃に奈良盆地で興った大和政権がルーツだ。そのため奈良は、昔は大和国と呼ばれていた。奈良県においては、大和郡山市など、自治体名に大和が冠されているほか、大和八木駅や大和西大寺駅のように駅名にも大和がつく例がある。しかし、この大和という地名は、じつは奈良県だけではない。神奈川県にも大和市という自治体がある。じつは神奈川県の大和は、元からある土着の地名ではなく、1891(明治24)年に新しくつくられた地名である。奈良県と関係ないのになぜか。当時、この一帯は1889(明治22)年の市制・町村制施行によって、下鶴間村、深見村、上草柳村、下草柳村が合併して鶴見村が誕生したばかりだった。しかし、合併はうまくいかなかった。合併前の下鶴間村は商家や宿屋の並ぶ街道沿いのにぎわいのある村だったのに対し、ほかの3村は農村地域。地勢や民情、主義主張が大きく違い、意見が合わないことだらけだった。さらに村議会議員選挙でも下鶴間村出身者が全員当選するなど、ほかの3村にとって納得のいかないことが続いた。結局、溝は深まるばかりで、3村は下鶴間村との分村運動を開始。大陳情団を結成して県に願い出た。しかし、神奈川県は分村を認めず、調停案として出したひとつが村名の改称だった。こうして、村内紛争を解決した状態にふさわしい「大きく和する」という意味を込めた「大和村」となり、現在の大和市へとつながったのだ。クロネコヤマトの「ヤマト」は「大和」ではない!?地名には関係なく、大和を冠した企業もある。「ヤマト運輸」だ。1919(大正8)年に「大和運輸株式会社」として東京・銀座で誕生している。じつは社名に冠された大和は、創業者の小倉康臣が幼少時代を過ごした、姉の嫁ぎ先の薪炭商「山登屋」が由来である。山登屋は、小倉が会社設立の準備を行なった場所でもあった。その山登屋の「やまと」と、日本の旧称の「大和」にかけて、「大和運輸」としたのがはじまりである。トレードマークの黒猫は、1957(昭和32)年に業務提携したアメリカのアライド・ヴァン・ラインズ社が使っていた親子猫のマークに共感した小倉が、同社の許可を得て取り入れたものだ。親猫が子猫を口にくわえて優しく運ぶように、お客様の荷物を丁寧に取り扱う気持ちが込められているのだという。親子猫のマークには特別に名前をつけていたわけではないが、いつしか「クロネコヤマト」と呼ばれるようになった。このヤマト運輸が生み出したサービス名に「宅急便」がある。この名前は「一軒一軒のお宅に急いで配達する」という意味からつけられた。しかし1976(昭和51)年のサービス開始当時は、社員の中から「ピンポン(卓球)みたいだ」と不評だったらしい。いわれてみれば音の響きからたしかにそうだが、今ではすっかり配達の代名詞となっている。それどころか各家庭の呼び鈴をピンポンして訪ねるのだから、これもまた的を射た名称といえるだろう。

「長い名称」はみんな縮めて呼んでいる三越伊勢丹かつての三大財閥のひとつ「三井財閥」の流れを汲む三井グループといえば、三井物産・三井不動産・三井住友銀行など一流企業を多く有する日本最大級の企業グループ。そんな三井グループが最初に手がけた事業は、貿易でも銀行でもなく、現在の百貨店「三越伊勢丹」につながる呉服業だった。グループを興した三井家の事業は、1673(延宝元)年、伊勢の商人だった三井高利が江戸へ出て呉服店「越後屋」を創業したことにはじまる。三井家はもともと武士の家系であったが、高利の祖父・高安が織田信長に敗れたため、伊勢松阪の地へ流れ、刀を捨てて商人になった。そこで、高利は武士だった祖父が名乗っていた越後守にちなんで「越後屋」とした。そして高利が考案した「店前現銀掛け値なし」(ツケ払いをせずに現金払いのみで売る方法)という画期的な商法によって、越後屋はたちまち繁盛店となり、三井家も豪商の仲間入りを果たした。やがて明治時代になると、政府高官から「銀行をつくってほしい」との要望が出て、銀行業と家業の呉服屋は別の組織にすることになった。そこで1904(明治37)年、それまで越後屋であった呉服屋の屋号を、三井家の「三」と越後屋の「越」をとって、「三越呉服店」とすることに。その後、三越は、呉服業だけでなく百貨店としての道を歩み、1928(昭和3)年には、三越呉服店から正式に「三越」に変わった。つまり、「三井家」が経営する「越後屋」だったために「三越」というネーミングになったというわけだ。この「三越」の名の下に「伊勢丹」がつくのは、両社が経営統合した2008(平成20)年のことだ。「伊勢丹」の創業者は伊勢商人ではなかった!?三越は、デパートの中でも老舗中の老舗で、比較的年齢層の高いお客が多い。一方、伊勢丹は流行のファッションをいち早く提案し、とくに30代から40代に人気がある。この両者のコラボは、興味深い試みとして話題を呼んだ。この2社がスムーズに統合できたのは、もしかすると「ルーツが同じだから」と勘違いしている人がいるかもしれない。前述したように三越の創業者・三井高利は、松阪の伊勢商人である。伊勢丹も「伊勢」という名をつけているくらいだから、当然ながら、伊勢商人の三井家がルーツだろうと思われがちだ。しかし伊勢丹は、三井家とまったく別のルーツを持っている。伊勢丹の創業者は、伊勢商人ではなく、神奈川県生まれの小菅丹治という人物。丹治は、奉公先の呉服店に出入りしていた米穀商「伊勢又」の小菅又右衛門に商才を見込まれ、小菅家に婿養子に入った。やがて分家し、1886(明治19)年東京神田に呉服店を開店。屋号は、「伊勢又」にちなんで「伊勢屋」を冠した「伊勢屋丹治呉服店」としたのである。そして多くの人々に認知され、店名を縮めて「伊勢丹さん」と呼ばれるようになり、1930(昭和5)年には「株式会社伊勢丹」としたのだ。まったく違うルーツを持った三越と伊勢丹だが、不思議な「伊勢」つながりでひとつになり、新たな歴史をつくっている。

なぜ、食品会社に「日清」が多いのか日清食品、日清オイリオ、日清製粉世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を開発し、人類の食文化の発展に寄与した安藤百福。安藤が立ち上げた会社が「日清食品」である。「チキンラーメン」のほかにも、「出前一丁」「カップヌードル」「U・F・O」など多彩な商品を発売。インスタント麺のパイオニアとして国内外から支持されている。この「日清」という社名は、創業者の安藤百福の「日々清らかに豊かな味をつくる」という信念からつけられた名前だ。ところが、同じ「日清」を冠した食品関係の企業でも、まったく無関係の企業がある。サラダ油やごま油、キャノーラ油などでおなじみの「日清オイリオ」だ。1907(明治40)年、大倉財閥の大倉喜八郎と実業家の松下久治郎により「日清豆粕製造株式会社」として設立された。当時は日本の東京に本社があり、清国(中国)の大連に支社と工場があったため、国名の「日」と「清」を合わせて日清と命名された。その後、1918(大正7)年に日清製油株式会社と改称。他社と経営統合して、2004(平成16)年に日清オイリオグループ株式会社となった。日清オイリオのほかにも、「日清」を名乗りながら、別のルーツを持つ企業がある。小麦粉やパスタなどで有名な、製粉業界トップの「日清製粉」だ。日清製粉の前身は、1900(明治33)年に群馬県の館林で正田貞一郎が設立した館林製粉である。この貞一郎は美智子皇后陛下の祖父。正田家はもともと米穀問屋を営んでいたが、当時、貞一郎の父は醤油醸造業に進出していた。そして貞一郎は、館林が国内有数の小麦の産地だということに注目し、郷土の振興を目的に製粉会社を設立した。その後、館林製粉が横浜の旧・日清製粉を合併したとき、合併されたほうの社名を引き継いで現在に至るというわけだ。一説によると、横浜の旧・日清製粉の由来は、日清オイリオと同じく、日本と清国で事業があったためだといわれている。同じ食品関係の会社で同じ「日清」でも、まったく関連がないとは驚きである。

「ハット」を日本語に訳すと……イエローハット、リンガーハット、ピザハット、ピザーラ英語の「Hat(ハット)」は帽子を意味する。「○○ハット」というネーミングがついていれば、何か「帽子」を意味しているとすぐに思い至るだろう。その代表例がカー用品販売会社の「イエローハット」だ。その名の通り、社名は「黄色い帽子」を表わしており、ロゴマークにも登場する。これは小学生が登下校時にかぶる交通安全のための帽子が由来だ。その黄色い帽子から「人と車が安全に心地よい関係でいられるように」という願いを込め、社名にしたのである。では、ほかの「ハット」がつく企業はどうか。たとえば、長崎ちゃんぽんのチェーン店「リンガーハット」。長崎といえば、オランダと貿易を行なっていた幕府の玄関口。そのような場所なら、ハイカラな西洋帽子が流行し、それにちなんで社名をつけたとしても不思議ではない。ところが同じ「ハット」という言葉でも、帽子とはまったく関係がない。リンガーハットは、1962(昭和37)年、長崎の米濱豪が弟3人と「とんかつ浜勝」を創業したのがはじまりで、とんかつとは別事業として1974(昭和49)年、「長崎ちゃんめん」を開店。そして1977(昭和52)年、故郷の長崎で活躍したイギリス人事業家フレデリック・リンガーの名にあやかり、店名を「リンガーハット」としたのである。リンガーは、製茶業や製粉業を営みながら、石油備蓄、発電など多くの事業を手がけ、長崎経済界の発展に大きく寄与した長崎の名士である。ではハットは何なのか。じつはリンガーハットの英語表記は「RingerHut」。帽子の「Hat」ではなく、小屋を意味する「Hut」である。リンガーハットと同じく、小屋の「ハット」が社名の由来になっているのが、アメリカで生まれた世界ナンバーワンのピザチェーン店舗数を誇る「ピザハット」だ。ピザハットのロゴマークは、一見すると、赤い帽子のようにも見えるが、じつは、赤い小屋の屋根をモチーフにしている。これは、創業者のカーニー兄弟が開いたピザレストラン1号店が赤い屋根だったことにちなんだものだ。「ゴジラ」が由来のピザ屋?ピザハットのライバル会社・ピザーラ(PIZZA‐LA)のネーミングも興味深い。ピザに「ラ」をくっつけただけのシンプルな名前に見えるが、こちらは「ピザ」と「ゴジラ」を合わせたネーミングである。ピザーラは、1987(昭和62)年にできた日本生まれの宅配ピザチェーン。創業者の浅野秀則会長が、「日本人が食べても飽きないピザ」を目指し、10年をかけてピザのノウハウを集めて開業した。コンセプトに沿って、ネーミングにも日本らしさを盛り込むことを考えた結果、世界に誇る日本生まれの怪獣「ゴジラ」を「ピザ」に足して「ピザーラ」としたのである。「ゴジラ」を選んだ背景には、「会社がゴジラのように大きく成長して、どんどん発展するように」との願いも込められている。今やピザーラは、年間で約400億円を売上げ、宅配ピザ業界で国内トップをばく進している。その圧倒的な姿はまさに宅配ピザ業界のゴジラといえるだろう。

同じ「王」でも、違う「王」餃子の王将、あまおう、花王どんな名前であっても、それをつける際、さまざまな願いが込められる。中華料理チェーン「餃子の王将」が、社名に「王」の字を使っているのは、外食産業の中華料理での「王様」になりたいとの願いからだ。同社が創業した1967(昭和42)年、餃子の人気店は「珉珉チェーン」だった。そこで、いつか珉珉チェーンに追いつき、やがては追い越して日本一の餃子屋になる、との思いをこの「王将」という社名に込めたのである。王将と同じく、その業界での王様という意味を込めてつけられたのが、福岡県産のイチゴ「あまおう」である。「イチゴの王様になるように」という願いが込められている。さらに「あまおう」は、王様という意味に加えて「あかい・まるい・おおきい・うまい」の頭文字を並べた、シャレを効かせた名前でもある。社名に「王」の字がつく花王は?このように、「王」という文字を社名や商品名に盛り込むのは「その分野の王様となる」という強い意思が込められている。では、家庭用品・化粧品メーカーの「花王株式会社」の由来も同じなのだろうか。花王といえば、石鹼やシャンプーはもちろん、洗剤、紙おむつ、生理用品、食用油、化粧品、産業用化学製品や業務用製品など、多種多様な商品を販売している。とはいえ、創業時の主力商品はなんといっても、現在の社名の由来ともなっている化粧石鹼の「花王石鹼」である。花王の歴史は、1887(明治20)年、創業者の長瀬富郎が小売店「長瀬商店」を開業したことにはじまる。当時、外国産の石鹼は高価で、一方、国産の石鹼は低質のヤシ油とソーダ水を凝固させただけの粗悪品が多かった。そのことに不満を覚えた長瀬は、安価で高品質な国産石鹼の開発に着手。石鹼職人や薬剤師に協力をあおいで日夜試作を重ねた。そして1年半にわたる開発期間を経たのち、ついに1890(明治23)年に高品質の化粧石鹼を完成させた。そのときに長瀬が考えた商品名が「香王石鹼」だった。当時、化粧石鹼は顔石鹼とも呼ばれていたため、「顔」の音をもじって「香王」としたのである。どちらもローマ字表記では「KAO」になる……。このとき長瀬と交流があった永坂石埭医師が、同じ「KA」であれば、「香」よりも「華」という字のほうが「輝く・美しい」といった意味があるため、ふさわしいのではないかと進言。しかし長瀬は、「華王」では読みづらい上に書くのも面倒だと感じ、「華」よりも字画が少ない「花」という文字を採用して「花王石鹼」として売り出した。1954(昭和29)年に花王石鹼株式会社に、その後1985(昭和60)年には花王株式会社へ改称して現在に至っている。つまり、花王の「王」は、王様といった意味ではなく、「顔」の音(KAO)を別の漢字に置き換えたことから生まれたネーミングだったのである。

「アサヒ」をめぐる謎と真実朝日新聞社、旭硝子、アサヒビール日本を代表的する新聞社のひとつである「朝日新聞社」は、1879(明治12)年に大阪で創刊されたのがはじまりだ。その社名は、毎日、日が昇るとともに配達され、何よりも早く手にする新聞という意味から名づけられた。企業の成長を願うとともに、毎朝配達して届けるという新聞の有り様をうまく表わした社名といえるだろう。このように、昇る太陽を想起させる朝日はイメージもよいことから、朝日という名を冠した企業は多い。三菱グループの「旭硝子」の由来も朝日にある。創立者は三菱財閥の創業者一族の岩崎俊彌である。岩崎家は次男以下を財閥本社に入社させなかったため、財閥の祖・岩崎彌太郎の甥にあたる俊彌は自ら事業を手がけ、1907(明治40)年に兵庫県尼崎市に旭硝子を設立し、わが国初の窓ガラスの本格生産に成功。本来であれば設立時には三菱硝子とするところだが、公私をはっきり分ける岩崎家の家風に加えて、万一、事業に失敗して三菱の名に傷をつけるわけにはいかない、と創立者自らが「三菱」の名を外して、旭硝子という社名にしたのである。「旭」については昇る太陽になぞらえたという説が一般的。しかしもうひとつ、9月9日が創立予定だったため、「九」と「日」を組み合わせた旭にしたという説もある。「旭」という名がつく場所が多かったビールメーカーの雄、「アサヒビール」も昇る太陽になぞらえた名前のひとつだ。前身は、ビールの市場占有率6割以上という戦前の大会社・大日本麦酒。それが東西分割され、東が日本麦酒(現・サッポロビール)、西が朝日麦酒(現・アサヒビール)となった。朝日麦酒は、1989(平成元)年にはアサヒビールへと改称された。なぜ「朝日」をつけた企業が誕生したのか。じつは、大日本麦酒の前身・大阪麦酒が、1892(明治25)年に製造した本格国産ビールに「アサヒビール」と名づけられていた。つまり、アサヒビールの社名のルーツは、この商品名にあったのだ。「アサヒ」は、日出づる国に生まれたビールへの誇りと、昇る太陽のような将来性を願って名づけたものだとされている。しかしその裏に、アサヒのもうひとつの由来があるという。それは創業地周辺に「旭」の名のつく場所が多かったためである。創業地のあった南海本線堺駅の近くには、旭川が流れており、そこには旭橋がかかっていた。そして旭川をはさんだ西側には「旭の家」という茶屋があり、かなりにぎわっていた。「旭」という地名や店が多かったからか、大阪麦酒をつくる前に、創業者の鳥井駒吉はこの地に財界人や政府高官らと交流を図るために設立したクラブを「旭館」と命名している。その鳥井が念願のビールの製造に成功して、その命名を考えたとき、身近に存在する「旭」という言葉が浮かんできたのかもしれない。しかしこの旭川だが、埋め立てられ、残念ながら今はもう見ることはできない。それぞれのルーツと名前に込められた思いは多種多様の「アサヒ」。太陽にあやかっているだけに成功するネーミングのひとつといえよう。

本家「アップル」と元祖「アップル」の闘いアップル(米)、マッキントッシュ、アップル(英)、リンゴ・スターiPhone、iPadなどの製品を開発し、世界中にファンを持つアメリカ「アップル社」。アップルはもちろんリンゴのことで、ロゴマークもかじった跡のついたリンゴである。アップル社の創業は1976年。このときのマークは意外に思えるほど古めかしいデザインである。まるで中世の写本のようなタッチで、木の下で本を読んでいる人物が描かれている。その頭上をよく見ると、輝く1個のリンゴがある。この読書中の人物はニュートン。それならアップルという社名は、ニュートンが万有引力の法則を発見するきっかけとなったリンゴにちなんだものと考えられる。リンゴにちなんでいるのは、社名だけではない。アップルを大きく発展させた主力商品のパソコン、「マッキントッシュ」の名前も、カナダ産のリンゴの品種に由来している。マッキントッシュの開発者のジェフ・ラスキンが、自分の好きなリンゴの品種「McIntosh」という綴りを少し変えて、「Macintosh」と名づけた。まさにリンゴづくしのアップル社だが、じつは社名の由来は公開されていない。スティーブ・ジョブズがドライブ中にリンゴの木を見て思いついたという説や、ダイエット中にリンゴばかり食べていたという説など、諸説飛び交っている。よくいわれているのが、ジョブズがビートルズの大ファンだったため、ビートルズが設立したイギリスのレコード会社、アップル社と同じ名前をつけたというものだ。アップル社の名は指輪からついた?そのビートルズの「アップル社」は1968年に設立され、こちらのマークもリンゴで、命名の由来にも諸説ある。そのひとつが、ドラマーのリンゴ・スターの名から出たものだという。リンゴとは英語圏でも珍しい名だが、これは彼の本名ではなくニックネーム。本名はリチャード・スターキーだが、指輪(リング)が大好きで、両手の指すべてに指輪をはめているほどだったため、リングがなまってリンゴと呼ばれるようになり、名字のスターキーが省略されてスターとなった。そしてこのリンゴ・スターというニックネームを、ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコが、リンゴを日本語にするとアップルの意味になるとジョンに教えたところ、語呂もイメージもよく、誰もがよく知る言葉だからとして、ジョンは「アップル」を自身のレコード会社の名前にしたといわれている。こうして、イギリスとアメリカにアップル社が存在する状況が生まれたのである。こうなると、当然問題が起きることは容易に想像がつく。1978年にはイギリスのアップル社がアメリカのアップル社に対し、商標権を巡って訴訟を起こした。いったんはアメリカ側が和解金を支払い、商標はコンピューター分野に限って使用するということで決着した。しかし、その後アップル社が音楽機能を搭載した製品を発売したため、争いが再燃し、法廷闘争は続いた。20年以上にわたる法廷争いの末、ようやく2007年に両社は和解。2010年にはアメリカのアップル社が運営する音楽配信サービス「iTunes」でビートルズの曲が配信されるほどにまで、両社の溝は埋まったのである。

懸賞金つきで名前を公募してみたらきのこの総合企業である「ホクト」のロゴマークは、「HOKTO」の「T」がキノコの絵になっている。Tの縦棒が芯で、横棒がキノコの傘となった見事なデザインだ。「T」の傘の部分に十字の切り込みが入っているが、これは星を意味している。じつは「ホクト」は、北斗七星を略した社名だ。キノコの傘に描かれた星は、7つの星の中で柄の部分にあたる第7星を表わしている。この星は「揺光」と呼ばれ、一昼夜に十二方向を指すことから、古来はこの星で時を測っていた。その揺光のように、「業界の指針として仰がれる企業になる」という思いが込められた社名というわけだ。星といえば、沖縄の「オリオンビール」も、星座にちなんでいる。モチーフとなったのはもちろんオリオン座。中央に3つの星が並んでいるのが特徴の星座で、オリオンビールのロゴにも3つの星が描かれている。じつはこの名前は、一般公募で決められたものである。オリオンビール株式会社は、1957(昭和32)年5月に、戦後沖縄の社会経済復興には第二次産業を興さなければいけないという理念の下、「沖縄ビール株式会社」として創設された。このとき、新たに発売するビールの名前を、新聞を使い懸賞金つきで一般公募したのである。賞金は1等B軍票1万円、2等B軍票3000円、3等B軍票2000円だったという。1等のB軍票1万円は、現在の価値にすると40万円程度。かなりの高額賞金だったために応募が殺到し、2500通余り、823種類にも及んだ。その膨大な数のアイデアの中から選ばれたのが「オリオン」だったというわけだ。オリオンが選ばれた理由は、南の星であるオリオン座が沖縄のイメージにマッチしていることや、当時沖縄を統治していたアメリカ軍最高司令官の象徴が「スリースター」だったためである。

「トルコ」だけどあのトルコではない!?トルコ石、トルコギキョウ、天津甘栗濃い青色が美しいターコイズは「トルコ石」とも呼ばれ、そのエキゾチックな雰囲気が人気の宝石だ。その名の通りトルコが原産地と思いきや、肝心のトルコではトルコ石は採掘できない。じつはその産地はイランやエジプトのシナイ半島なのである。にもかかわらず、なぜトルコ石と呼ぶのか。理由はその昔、アジアや中近東の産物がトルコを通ってヨーロッパへ渡っていた点にある。トルコ石も同様にトルコ経由でヨーロッパへ運ばれていたため、ヨーロッパで「トルコ石」と呼ばれ、その名が定着したのだ。そして、1990年代半ば以降、エジプトでも安価な中国産の模造品が出回り、シナイ半島産は少ない。もはや中東産でもないのが現実である。トルコの名を冠しながら、トルコ産でないものはほかにもある。美しいカラーバリエーションの花「トルコギキョウ」だ。原産は北アメリカの乾燥地帯。花の形がターバンに似ているためにトルコと冠されたとの説がある。また、元来の色である青紫の花色が、前述のトルコ石を連想させたためともいわれている。そもそも、トルコギキョウはリンドウ科の植物であるため、キキョウ科ではない。トルコばかりか分類からして間違っている。どうやらキキョウに似ていたために、日本へ入ってきたときに名づけられたらしい。近年は勘違いを避けるため、あえて「ユーストマ」という名前で表わされることもある。このように、産地と名前が一致していないものはほかにもある。屋台などで見かける「天津甘栗」。これもじつは名前に反して、中国の天津が産地ではない。天津甘栗の実際の産地は北京の北、河北省の燕山山脈付近だ。天津は北京の南西の町。産地の燕山山脈とは無縁だが、この天津の港から日本に運ばれていたため、いつしか天津甘栗と呼ばれるようになった。そのため天津を中継せずに流通する中国国内では、天津甘栗ではなく「糖炒栗子」と呼ばれているのだ。

こんな駅名はサギにならないか?学芸大学駅、都立大学駅、大泉学園駅ほか首都圏の住宅地を走る東急東横線には、「学芸大学」と「都立大学」という名前の駅が、隣り合って存在する。ところが、どちらの駅の周辺を見渡しても「学芸大学」も「都立大学」も存在していない。なぜこの駅名になったのか。学芸大学駅が開業したのは、1927(昭和2)年のことで、当時はあたりの地名から「碑文谷」駅と名づけられた。その後、1936(昭和11)年に青山師範学校がこの地に移転してきたことから「青山師範」駅となり、その学校の名称が変わったため「第一師範」駅となった。1952(昭和27)年には、学校名が東京学芸大学となったのに合わせ、現在の「学芸大学」駅が誕生している。都立大学駅も学芸大学駅と同時に開業し、そのときの駅名は周辺の地名に合わせて「柿ノ木坂」駅だった。しかし、東京府立高等学校がこの地に移転してきたことから、1931(昭和6)年に「府立高等前」駅となり、その後は「府立高等」「都立高校」と名を変え、1952年に「都立大学」駅となった。ところが、学芸大学は1964(昭和39)年に小金井市に移転。都立大学も1991(平成3)年に八王子市南大沢に移転し、2005(平成17)年には「首都大学東京」と名を変えている。つまり、学芸大学駅からは、もう50年以上も前に学芸大学は引っ越し、都立大学駅はその名前の大学そのものがなくなっているのだ。駅名が実際と食い違った状態をどうすべきか、東急電鉄としても考えていたようだ。1999(平成11)年、地元住民を対象にして、改称の是非を問うアンケート調査を行なっている。その結果、両駅とも改称は否決。「長年親しんだ駅名なので愛着がある」「駅名がすでに付近一帯で定着しており、商店街やマンションにも使われている」などの理由があげられた。地元住民の意向を尊重する形で「学芸大学」「都立大学」の2つの駅名は、そのまま用いられ続けることとなったわけだ。幻に終わった学園都市計画の名残同じく東京の西武池袋線にも学校名らしい名前の駅がある。「大泉学園」駅だ。だが、ここに大泉学園はないし、それどころか、東急の「学芸大学」駅、「都立大学」駅と違って、大泉学園という学校すら存在したことがない。では、この「大泉学園」とはいったい何なのか。この駅は1924(大正13)年に武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の駅として開設された。当時の駅名は「東大泉」。この周辺は学園都市開発が進められていた。のちに西武鉄道の社長となる堤康次郎が、東京商科大学を誘致して、大泉を緑豊かな学園都市にしようと開発していたのである。東京商科大学は当時、神田区一ツ橋通町(現在の千代田区)にあったため、いまは「一橋大学」という名前になっている。そして堤は、この地のインフラを整備して大規模な分譲地をつくり、「大泉学園都市」という名で土地分譲を開始。これに合わせて駅の名も1933(昭和8)年には、「大泉学園」駅と改称された。ところが、肝心の東京商科大学は、大泉ではなく北多摩郡谷保村(現在の国立市)に移転してしまう。その結果、大泉は当初もくろんでいた学園都市ではなくなり、「大泉学園」という駅名だけが宙に浮くことになってしまった。つまり、「大泉学園」駅というネーミングは、大泉という地に学園都市をつくろうとしていた名残なのだ。それでも駅周辺には、「大泉学園小学校」や「大泉学園中学校」などの学校がある。名前だけ聞くと、あたかも「大泉学園」という法人が運営する学校のようだが、実際は練馬区立の公立学校である。ところで、ほかの大学のネーミングにはどのような由来があるのか。「早稲田大学」や「駒澤大学」などは、所在する地名がそのまま大学名になっている。しかし国立大を除けば、地名を冠する私立大学は意外に少なく、多くは設立の理念などの伝統が盛り込まれている。福沢諭吉によって創設された「慶應義塾大学」は、慶應年間につくられた強い絆を持つ仲間(義塾)という意味だ。同様に、京都で新島襄によって創設された「同志社大学」も、国家にとらわれない強い意志の同志が集う場所という意味である。また、「上智大学」はギリシャ語のソフィア(最上の叡智)を表わしている。

飛行機でもないのに「パイロット」パイロット、シャープ、三菱鉛筆、シヤチハタ文具メーカーの「パイロット」といえば、近年、消せるボールペン「フリクションボール」を開発し、日本のみならず世界で知られている企業だ。不思議なのは、この社名。普通パイロットは、航空操縦士のことだ。同社は、1918(大正7)年に「並木製作所」として東京・日本橋で誕生。創業者は商船の機関士・並木良輔と航海士の和田正雄。同じ商船学校の卒業生だった。その後、母校で製図の指導を行なっていた並木は、ペン先の摩耗が激しく、たびたびインクを補充しなければならない万年筆の改良の必要を感じ、丈夫で内側にインクを溜めることができるペン先の開発を志す。この時、資金援助をしたのが和田である。やがて完成した万年筆につけられた名前が「パイロット」だった。この言葉には操縦士のほかに水先案内人という意味があり、船乗りだった2人が、「大海へ」という思いを込めてつけた名前である。また、ロゴの浮き輪のマークには、「どんな荒波にも不沈であれ」という「難関突破」の気持ちが込められている。そしてパイロット万年筆は1930(昭和5)年、ロンドンで開かれた軍縮条約の調印で使われたことをきっかけに世界へと広がった。その後の1938(昭和13)年に、会社名をパイロット萬年筆株式会社に変更。1989(平成元)年には株式会社パイロットとなった。パイロットの売上げのうち、今も半分以上が海外である。「大海へ」という創業者の願いは見事に実現している。なんとも「奥深い」ネーミング一方で、今や誰も文具メーカーとは思っていないが、もともと文具からスタートし、それが社名の由来となっている企業がある。エレクトロニクスメーカーの「シャープ」だ。創業者の早川徳次は、金物職人として奉公先で腕を磨いた金物細工師。1915(大正4)年に、当時はもろかったセルロイド製の繰出鉛筆(シャープペンシルの原型)を改良し、金属製の丈夫な早川式繰出鉛筆を開発した。早川式繰出鉛筆は、当初まったく売れなかったが、第一次世界大戦によってドイツ製の繰出鉛筆が品薄になったのをきっかけに、横浜の商館から大量に注文が入り、欧米市場で人気が爆発。これで国内でも評判が上がった。世界へ飛び出したことを機に、1916(大正5)年に商品名を「常備芯突鉛筆」を意味する「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」へと改称。のちに「シャープペンシル」に改めた。文具から電機メーカーへと発展したきっかけは、1923(大正12)年に起きた関東大震災だった。この地震で工場が大打撃を受け、再起を図るために大阪へ移った早川は、大阪・心斎橋の時計店で、アメリカから2台だけ輸入されたラジオと出会う。これを1台だけ購入した早川は、早川金属工業研究所を設立し、小型鉱石ラジオの生産をスタートさせた。これが国産ラジオ受信機の第1号となり、エレクトロニクスメーカーとしての第一歩を踏み出したのである。やがて1970(昭和45)年には、すでにブランド名となっていた「シャープ」を冠した「シャープ株式会社」へと改称したというわけだ。このような異業種への転身を歩んできた企業がある一方で、文具一筋という質実剛健な会社もある。「uni」(参照)で有名な「三菱鉛筆」だ。三菱鉛筆は、創業者の眞崎仁六が1887(明治20)年に新宿で創業した会社。そのマークは眞崎家の家紋である「ミツウロコ」をアレンジしたもので、形が3つの菱形となっているため「三菱」と命名された。眞崎はそのマークと「三菱」の商標を1903(明治36)年に商標登録しており、三菱財閥の商標登録より10年も早い。ロゴも同じであるため、三菱鉛筆は三菱グループの会社だと思われがちだが、じつはまったく関係がない。三菱同様、印鑑一筋の「シヤチハタ」の由来も、他企業に劣らずユニークだ。シヤチハタは当初、創業者・舟橋高次の名字を冠した舟橋商会という企業だった。やがてスタンプ台に日の丸を商標登録しようとするが、国旗であるため許可が下りなかった。次に目をつけたのが、出身地名古屋の象徴である名古屋城の金の鯱だったのだ。そして「鯱を描いた旗」を商標として、略してシヤチハタ印としたのである。日本の文具メーカーには、奥深いネーミングが隠されている。

〝ご当地〟にあやかるのは自由丸亀製麺、丸亀製麺株式会社、はなまるうどんご当地グルメブームの昨今、さまざまな食べものが口コミやSNSで広がりを見せている。そうした中、全国制覇を果たし、もはや別格の地位にあるのが「讃岐うどん」。その讃岐うどんが手軽に食べられるチェーン店として知られるようになったのが、「丸亀製麺」である。2000年(平成12)年11月に兵庫県加古川で1号店を開いて以来、讃岐うどんが安く手軽に食べられると評判になり、一気に店舗数を増やして2011(平成23)年には全都道府県への出店を達成した。同年には初の海外店としてハワイのホノルルにも出店。これを皮切りにタイや香港、中国・上海、韓国、台湾、オーストラリア、ロシアなどにも相次いで進出を果たしている。2016(平成28)年8月現在、国内の店舗数が856、海外に151店舗を展開するまでに広がっている。この丸亀製麺、「丸亀」というからには当然、讃岐うどんの本場・香川県丸亀市に由来していると思うだろう。ところが、丸亀製麺を経営しているのは株式会社トリドールという兵庫県神戸市にある企業。それどころか、香川県内では高松市に2店舗あるものの、丸亀市には1店舗もないのである。丸亀に縁もゆかりもないうどん店が、いったいなぜ丸亀を冠しているのか。丸亀市には存在しない「丸亀製麺」丸亀製麺を経営する株式会社トリドールは、1985(昭和60)年に創業者の粟田貴也が焼鳥居酒屋を開業したことからはじまる。そのときの店名が、「鳥」と人形の意味の「ドール」を合わせた「トリドール」で、これが社名になったのである。そんな焼鳥屋が新たに讃岐うどんの店をはじめることに至ったのは、粟田の父親が香川県坂出市出身だったからだ。「本場・丸亀市の製麺所の風情を再現しよう」というコンセプトのもと、丸亀と製麺を合わせて「丸亀製麺」と名づけた。丸亀市に出店しないのは、本場の丸亀市では丸亀製麺よりはるかに安い価格でうどんを提供している店舗が多く、出店しても勝算が見込めないからだ。実際、2012(平成24)年に香川県第1号店として高松市内にオープンした「栗林公園店」は、2015(平成27)年1月、開店からわずか3年で撤退を余儀なくされている。トリドールが丸亀製麺を名乗っていることで、思わぬ余波に見舞われている会社がある。丸亀市には、「丸亀製麺株式会社」という製麺所があり、ここがトリドールの丸亀製麺と間違えられてしまうのだ。こちらは、お客にうどんを食べさせる店ではなく、ホテルやレストラン、病院、学校給食などへうどんの麺を卸している専門の製麺所。中でも多いのが、丸亀製麺の本社だと思い込んだ間違い電話。問い合わせやクレームの電話が来るそうで、応対に苦慮しているという。街中で目にする丸亀製麺とは別なので、くれぐれもお間違えなく。ちなみに、同じく讃岐うどんが人気の「はなまるうどん」を運営する「株式会社はなまる」は東京が本社。あの牛丼チェーン「吉野家」と同じ吉野家グループである。

「ギリシャ神話の女神」をいただいたすごい社名ナイキ、アディダス、プーマアメリカのスポーツメーカーの「ナイキ」と聞くと、流線形のあのロゴを思い浮かべるかもしれない。この印象的なロゴマークは、前身のブルーリボン社の商標としてポートランド州立大学の学生がデザインしたもの。じつはただの曲線ではなく、ナイキの名前を端的に表わしている。このナイキという名前、ギリシャ神話に登場する勝利を擬人化した女神「ニケ」にちなんでつけられた。前述のロゴマークは、このニケの翼を表現しているのである。では、なぜ社名は「ニケ」ではなくて「ナイキ」なのかというと、ニケは英語表記で「nike」。読み方は「ナイキ」となるからなのだ。海外スポーツメーカーにはナイキのほかにも、「アディダス」や「プーマ」など有名な会社がある。この2社には意外な過去があったことをご存じだろうか。じつはアディダスとプーマはもともと同じ会社だった。前身は1920年代にドイツのヘルツォーゲンアウラハで創業された「ダスラー兄弟商会」。兄のルドルフ・ダスラーと、弟のアドルフ・ダスラーが立ち上げた。ダスラー兄弟商会はスポーツシューズを製造販売し、そのシューズは「アディのシューズ」として大人気を博した。アディとは弟のアドルフの愛称で、アドルフが製品製造を行ない、兄のルドルフが販売を受け持っていた。ところが1948年、兄弟は会社のことをめぐって対立。結局収まりはつかず、兄弟は事業資産を分配して、それぞれが会社を興すことになった。弟のアドルフの会社は、愛称のアディと名字のダスラーを組み合わせて「アディダス」、兄のルドルフは、躍動感と力強いイメージを連想させる「プーマ」を立ち上げたというわけである。両社はその後、壮絶なライバル争いを展開した。この激しい競争が両社を世界トップブランドへと押し上げたことは間違いない。名前からはまったくわからない、隠れた「兄弟バトル」がそこにはあった。

社名が物語る意外な「ルーツ」千趣会、ロイヤル・ダッチ・シェル、DHC社名を見れば何をしている会社かわかるのが通常だが、中には意外な〝過去〟を持つものがある。ファッション、インテリアから食品まで、幅広いジャンルの商品を扱う通販カタログ「ベルメゾン」を運営する「千趣会」。なんと「こけし」販売からはじまった。創業者の高井恒昌は全国の銘菓を頒布形式で販売する「味楽会」を手がけていたが、商品にカビが発生するなどしてうまくいかなかった。そのとき創立メンバーのひとりが提案したのがこけしの頒布だったのである。やがて1955(昭和30)年にこけしの頒布がスタート。「こけし千体趣味蒐集の会」から仕入れていたため、千と趣の字をとり、社名を千趣会とした。「千の趣の会」であれば、将来いろいろな分野に進出できるとの思いも込められていたという。斬新でかわいいこけしのデザインは人気となり、事業は発展した。狙い通り、さまざまな趣味用品の頒布を手がけるようになり、1976(昭和51)年には「ベルメゾン」を創刊。衣料品を中心とした実用品のカタログ販売に乗り出したのである。千趣会のように、現在の商売からかけ離れたルーツの社名が痕跡に残る社名といえば、石油精製販売で知られる「ロイヤル・ダッチ・シェル」もそのひとつだ。同社で有名なのは、何といってもガソリンスタンドの看板として掲げられている貝殻(シェル)のマークだろう。石油と貝とは無関係のようにも思えるが、じつは創業者のマーカス・サミュエルがもともと貝細工の加工・販売を手がけていたことに由来する。彼の貝細工は評判を呼び、店は「シェルショップ」と呼ばれるようになり、やがて貿易商へと発展した。それを受け継いだ息子が油田開発に成功して石油事業専門の「シェル・トランスポート・アンド・トレーディング」を設立。その際、マーカスが貝殻によって事業の礎を築いたことにちなみ、社名に「シェル」を冠し、貝をロゴマークに用いたのである。貝のマークは、最初はムール貝だったが、のちにホタテに改めて今に至る。これは同社の出資者の家紋がホタテだったことにちなんでいる。化粧品とは無関係の業界からの転身このほかにも意外な前身を持つ会社がある。化粧品・健康食品を手掛ける「DHC」だ。この社名、ただのアルファベット3文字ではない。なんと化粧品とはまったく関わりのない「大学翻訳センター」の略である。同社は当初、大学生向けに出版事業や翻訳の通信教育を行なっていた。それが化粧品業界に進出したのは1980(昭和55)年。創業者の吉田嘉明がオリーブオイルの魅力と出会い、これを精製したオリーブバージンオイルをはじめとする化粧品販売に乗り出したのだ。化粧品の会社が「大学翻訳センター」では、あまりにも会社名と事業の開きが大きすぎる。そこで翌年、社名の頭文字をとり、「DHC」へと社名変更したのである。なお、翻訳事業は今も続いている。社名を読み解けば、その会社の意外なルーツが隠されているのだ。

中国四千年の歴史から生まれた化粧品メーカー資生堂、コーセー、ちふれメーキャップ・スキンケア製品メーカーとして、日本のみならず海外の女性たちからも圧倒的な支持を受けている「資生堂」。だがその社名には、華やかなイメージとはほど遠い、堅実な思想が込められている。創業者の福原有信は安房国(現在の千葉県)で生まれ、1865(慶応元)年に幕府の「医学所」に入所して西洋薬学を修めた。明治維新後は海軍病院の薬局長などの官職にあったがそれを辞し、1872(明治5)年、東京銀座に「資生堂薬局」を開いた。これは、わが国初の洋風製剤薬局だった。資生堂という名は、中国の古典の四書五経のひとつ『易経』にある「至哉坤元万物資生」から。すべてはここから生まれるという意味である。やがて資生堂薬局は、1897(明治30)年に本格的に化粧品業界へ進出し、1917(大正6)年には化粧品部を独立させて、これが今日の資生堂となった。資生堂のように、化粧品メーカーには堅実な由来を持つ会社がほかにもある。「雪肌精」などの製品で知られる「コーセー」だ。創業者の名前は小林孝三郎。「小林合名会社」を設立し、1948(昭和23)年に「株式会社小林コーセー」へと改称。商標もKOSEIと改めた。由来は、孝三郎の「孝」と、小林の基本理念である誠実の「誠」を合わせた言葉から。また、ギリシャ語で装飾・アレンジの技術を表わす「KOSMETIKOS(コスメティコス)」の意味も含まれている。その後、商標は「KOSE」から「KOSÉ」となった。これは「KOSE」だと、英語圏でコーセーではなくコウズと読まれてしまうためである。「ひらがな」なのにお堅い名前化粧品メーカーで、異色の命名由来を持つ企業が「ちふれ化粧品」である。「ちふれ」の前身となったのは、1947(昭和22)年に設立された「アゼリア薬品工業」で、1955(昭和30)年には「東京実業」と改称される。創業者の島田松雄は、海外視察におもむき、欧米ではわずか1ドルの化粧水が売られているのを目にする。そこで日本の女性にも安価な化粧品をと、1962(昭和37)年に100円化粧品を発売する。これは話題にはなったものの、なかなか売れなかった。化粧品は高価なものと思い込んでいる女性たちから見ると、安すぎたのである。それでも売上げは徐々に伸び、雑誌『暮しの手帖』に他社の高価な化粧品との比較記事が載ったことから、注目を浴びる。やがてそれを見た消費者団体の「全国地域婦人団体連絡協議会」が賛同し、会員への販売を開始。東京実業と提携をはじめ、1968年(昭和43年)に「ちふれ化粧品」が誕生した。つまり、「ちふれ」とは、「全国地域婦人団体連絡協議会」の略称「地婦連」の「ちふれん」から「ん」をとったものである。クールでオシャレなイメージがある化粧品メーカーだが、社名には創業者たちの熱い思いが込められていたのである。

これはうまい!〝造語の妙〟ダスキン、スキンレス「ダスキン」といえば、掃除用品のレンタルが有名だが、最近ではハウスクリーニングや家事代行サービスなどが、働く女性たちに人気となっている。同社は1963(昭和38)年に大阪で開業した化学ぞうきんのパイオニア。創業者の鈴木清一は、濡れぞうきんを使って掃除をする主婦を助けたい一心で化学ぞうきんを開発。吸着剤を含ませているため、水に浸さなくてもそのまま使うことができ便利なのだ。さらに、価格を抑えるため、レンタルという仕組みを取り入れた。「スキン」という言葉がついているからには、きっと肌に関係があると思いがち。たとえば、コンドームで有名な「オカモト」の人気商品「スキンレスシリーズ」は、「スキン」に「……のない」という意味の「レス」をつけた商品名。まるで装着していないかのように感じる商品の特徴を表わしており、じつにわかりやすい。当然ながら「ダスキン」も、「スキン」がついているので肌に由来すると考えられなくもないのだが……。じつは「ダスキン」は、英語で塵や埃を意味する「ダスト」の「ダス」と、ぞうきんの「きん」を合わせた造語がルーツである。ぞうきんは英語で「ダストクロス」「ダステックス」といった具合に頭に「ダス」がつく。一方、日本語では「ぞうきん」「ふきん」など末尾に「きん」がつく。そこで英語と日本語を組み合わせたというわけだ。ただ、最初から「ダスキン」だったわけではない。鈴木清一は当初、会社名を「株式会社ぞうきん」にするつもりだった。しかし、その案を社内で発表すると、「恥ずかしくて名刺が出せない」「結婚相手に嫌がられる」と、社員たちが大反対。なんとか別の社名にしてくれと懇願され、「ダスキン」に落ちついたという。

ビジネスにも「言霊」が……敷島製パン、Pasco、ゆかり「言霊の国」日本ならではのネーミング手法が、ビジネス社会で成功している例を紹介しよう。パン党の人に愛される「超熟」シリーズ。食事用パン市場でナンバー1のシェアを獲得しているほど全国で普及している。その「超熟」シリーズを販売しているのが「敷島製パン」という会社だ。こういうと、「超熟」は「Pasco」じゃないのか、という人も多いに違いない。でも、パンの袋をよく見てほしい。メーカー名のところには「敷島製パン」と書かれているはずだ。「Pasco」は敷島製パンのブランド名で、「PanShikishimaCompany」の頭文字から「Pa」「S」「Co」をとった造語である。敷島製パンの歴史は古く、1919(大正8)年に名古屋でスタートした。創業者は盛田善平という人物。「敷島」というのだから、多分、敷島さんが創業者だろうと想像してしまうが、じつは敷島という名前は、同社とはまったく関係がない。なぜ何の関係もない敷島をつけたのか。じつは盛田は江戸時代中期の国学者・本居宣長を崇拝しており、宣長が詠んだ和歌に「敷島」という言葉が登場する。「敷島の大和心を人とはば朝日に匂う山桜花」盛田は、広く日本中にパン食を広めたいという思いから、大和(日本)の枕詞として使われている敷島を拝借したのである。ただ、この敷島という言葉は、ちょっと発音しにくいという欠点があった。関西では、すでに「シキシマ」ブランドで名が通っていたが、1969(昭和44)年の関東進出時に「Pasco」というブランド名に変えて販売することにしたのだ。たしかに「パスコ」のほうが「シキシマ」よりかなり発音しやすいし、イメージもオシャレである。「縁」を大事にしたいという思いから和歌を由来としてネーミングされた商品は、ほかにも身近に存在する。お弁当やおにぎりによく使われる赤紫色のふりかけ「ゆかり」だ。「ゆかり」は赤しそを乾燥させたふりかけで、広島県の三島食品株式会社が1970(昭和45)年に発売して以来、安定した人気を誇っている。ネーミングの由来となったのは、古今和歌集にある作者不明の和歌である。「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」これは「むらさき草が1本咲いているという縁(ゆかり)だけで、武蔵野の草花すべてがいとおしく身近に感じられる」という意味だ。平安時代の貴族にとって、紫色は高貴な色とされており、「縁のあるもの、ゆかりのあるもの」の象徴としてむらさき草が詠まれた。この和歌にちなみ、ふりかけがむらさき草に似た赤紫色であることと、消費者との縁を大事にしたいという願いを込めて、三島食品は赤しそのふりかけに「ゆかり」と名づけたのである。こうしてさっそく「ゆかり」は販売されたわけだが、じつはこの「ゆかり」という名前は、愛知県の株式会社中埜酢店(現・ミツカングループ)によって1960(昭和35)年に商標登録されていたことが判明。三島食品はあわてたが、三島食品と中埜酢店の間に酢の取引があったことから、中埜酢店が商標の使用を許可し、販売することができたのである。1999(平成11)年にはミツカングループ本社から正式に商標が譲渡され、今では「ゆかり」は三島食品の登録商標となっている。先に商標登録をしていたのが「縁」ある取引先の会社だったからこそ、商標を使用することができたわけだ。ちなみに「ゆかり」というネーミングのロングセラー食品は、これだけではない。明治以来続く老舗の煎餅メーカー坂角総本舗の商品にも「ゆかり」がある。これは原型となった「えびはんぺい」という海老のすり身のあぶり焼きが、徳川家献上品となっていたことから、人と人の「縁」を結ぶ、贈り物となる商品という意味でつけられたネーミングである。ロングセラー商品の成功の一因には、「言葉の力」が潜んでいるといえるだろう。

「一」と「人」を組み合わせると「大」になる日用品から食料品まで、何でもそろう百貨店。高級志向であるため、今や気軽に行けるショッピングモールに押され気味な感もあるが、「デパ地下」グルメや各地の物産展などの催し物など、各社さまざまな戦略で集客増を図っている。これら日本の百貨店は、江戸時代の呉服商がルーツになっているところが多い。1904(明治37)年に三越が百貨店事業をはじめて以降、大丸、松坂屋、そごうなど、呉服店が次々と百貨店へ変わっていった。大丸は1717(享保2)年、京都・伏見で下村彦右衛門が創業した呉服屋「大文字屋」がルーツだ。彦右衛門の天下一の商人でありたいという志を込め、「一」と「人」を組み合わせた「大」という字と、宇宙・天下を示す「〇(丸)」を組み合わせたマークを用いた。これが「大丸」と呼ばれ、やがて店名になった。一方、大丸と経営統合した松坂屋は1611(慶長16)年に伊藤源左衛門祐道が名古屋に創業した「いとう呉服店」が前身。1768(明治5)年に江戸上野松坂屋を買収して江戸に進出し、1910(明治43)年に百貨店化した後、「松坂屋」と改称した。また、そごうは1830(天保元)年に大坂で十合伊兵衛が開業した古着屋が元祖である。その名の通り、十合伊兵衛がネーミングの由来だ。そして昭和に入ると、江戸時代からの老舗に加え、西武百貨店、京王百貨店、小田急百貨店、近鉄百貨店、阪神百貨店、阪急百貨店……など鉄道資本の百貨店も多数開業。現在の百貨店業界ができあがった。

「グーグル」は気恥ずかしいミスから生まれたGoogle、キーラ・ナイトレイ、中川翔子IT業界の雄である「Google(グーグル)」社の名は、今や誰もが知っている。しかし、その社名の意味を探っても、Googleという言葉からは何も導き出せないだろう。それもそのはず、存在しない言葉。スペル間違いから生まれたといわれている。グーグル創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、当時大学院生だったショーン・アンダーソンが検索エンジンの名前を検討していた際、アンダーソンが「Googol」(ゴーゴル)という名前を提案した。これは10の100乗を表わす数の単位で、膨大な情報を扱う会社にふさわしいとして、ペイジも賛成。「googol.com」というドメインを登録することになったのだ。ところがそのとき、アンダーソンが間違えて「google.com」と入力して登録してしまい、それがそのまま定着したというのである。しかし、Google創業直後に入社した、ダグラス・エドワードの回想録『I’mFeelingLucky』によれば、「Googol」で登録しようとして検索したところ、じつはすでにこのドメイン名が登録されており、しかも、数の単位は商標登録できないという2つの理由があったからだと記されている。真相は不明だが、数の単位を表わすGoogolから生まれたことには間違いない。今や単位よりもGoogleのほうが、よほど知られている。本名なのに書き間違い!?実在しない言葉が、そのまま定着してしまったのは、社名だけではない。記入ミスで自分の名前が間違ったままの有名人もいる。映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズで世界的な人気女優となったキーラ・ナイトレイ。彼女の名前は「Keira」という綴りだが、じつは本来この綴りでキーラとは読まない。女性の名前としてのキーラは、本来は「Kiera」が一般的だ。彼女の名前を決めたのは父親だったが、出生届を出したのは母親だった。その母親が書き間違えてしまい、それがそのまま登録されてしまったのだという。キーラ本人いわく「スペルミスこそが自分」と、スペルミスの名前をそのまま受け入れている。このような出生時の書き損じは海外だけでなく、日本のタレントにもある。人気アイドルの中川翔子だ。本名は「中川しようこ」。「しょうこ」ではない。本来小さい「よ」にすべきところを、大きな「よ」に書き損じたのである。彼女が生まれたとき、両親は「薔子」と書いて「しょうこ」と読ませるつもりだった。ところが、いざ役所に出生届を出そうとすると、「薔」という文字が人名用漢字ではなかったために使えず、そこで仕方なく平仮名で「しょうこ」とした。しかし、出生届に書いた文字がまぎらわしかったのか、役所側で「しようこ」と登録してしまったという。本人も、自分の名前は「しょうこ」だと思い込んでおり、「しようこ」であることは成人するまで知らなかったと、あるテレビ番組で語っている。「しょこたん」で親しまれている彼女だが、本来は「しよこたん」なのである。

「キャ」なのか「キヤ」なのかCanon、キユーピー、三和シヤッターほか人、会社、商品……の名前。大事なものだけに書き間違い、読み間違いしないように気をつかう。それでも、誤ってしまって気まずい思いをすることがある。カメラやプリンターメーカーとして世界に誇る存在の「キヤノン」。ここでよくその社名を見てほしい。カタカナで書かれた文字を見ると、おやっと思うだろう。カタカナの社名表記では、「ヤ」が大きい「キヤノン」となっているのだ。もちろん読み方は「キャノン」である。なぜ、表記では「ヤ」の文字を大きくしているのか。それはデザイン上の理由である。社名を横書きで表記したとき、「ヤ」が小文字だとその字の上にすき間ができたように見えて何とも全体のバランスが悪い。そこで「ヤ」を大きくして文字のサイズを統一したのである。この「キヤノン」という名前、カメラの設計者・吉田五郎が「観音様」に篤い信仰を寄せていたことに由来する。1934(昭和9)年に1号の試作機ができた際、観音様の慈悲にあやかり、世界最高のカメラをつくる、という願いを込め「KWANON」(カンノン)と命名したのである。そのため、当時のマークにはしっかり千手観音も描かれていた。やがて、カメラの本格的な発売に向けて世界に通じるブランド名が必要になり、「Canon」へと転じた。Canonには英語で「標準」という意味もあり、世界の標準を目指したいという思いも込められていた。「キヤノン」の発音が「カンノン」と似ていたことも幸いし、名称変更はスムーズに行なわれた。こうして今に至る「キヤノン」の名前が誕生したのである。老舗シャッター会社ならではのこだわりじつは「キヤノン」のように文字のバランスを統一するため、拗音の表記が並字になっている社名は少なくない。マヨネーズやドレッシングで国内トップシェアの「キユーピー」もそのひとつ。前身の「食品工業株式会社」がマヨネーズの製造をはじめた1925(大正14)年頃は、セルロイド製のキューピー人形が子どもたちの間で絶大な人気を誇っていた。同社は、かのキューピー人形のように広く愛されてほしいと、マヨネーズにキューピーと命名した。そのため読みは人形と同じく「キューピー」だが、表記は「キユーピー」。これも名前を横書きした際、小文字だと「ユ」の上がへこんで見えてしまうため。デザインのバランスを意識して、ユを並字にしたのである。さらに「三和シヤッター」や「東洋シヤッター」など老舗シャッター会社の社名も同様だ。読み方はもちろん「シャッター」なのだが、表記する時には「ツ」は小文字であるものの「ヤ」だけは並字になっている。こちらも「シャッター」の「ヤ」と「ツ」の2つの小さい文字が並ぶと字のおさまりがよくないことから、デザイン的な見栄えを考えて「ヤ」のみ並字にしているのである。日ごろ当たり前のように呼び慣れている社名も、じっくりその文字を観察してみれば、新たな発見に出会うことも少なくない。誤表記にはくれぐれもご注意を。

ド真ん中~〝Z〟ミツカン、マツダ誰もが知る超有名企業でありながら、その名に〝隠された秘密〟が──。「ミツカン」(参照)といえば、江戸時代から続く老舗の食酢メーカーである。創業者の中野一族(4代目以降は「中埜」姓)は、代々愛知県・知多半島で酒造業を営んでいたが、初代・中野又左衛門が江戸を訪れたとき、江戸前鮨が流行っていることに気づき、酢づくりをはじめた。やがて1804(文化元)年、酒粕を原料とする製酢技術を世界で初めて開発。幕末になると、酒造業をやめ、食酢の製造に専念するようになった。社名のミツカンは、いつ頃から登場するのか。もともと中野家は「酢屋勘次郎」という屋号で、「○」の中に「勘」の字を入れた丸勘マークの商標をつけて酢を販売していた。しかし、1884(明治17)年の商標条例公布時、丸勘マークを商標登録しようとしたところ、わずか3日の差で、ほかの酢屋に丸勘マークを先に登録されてしまったのだ。困った中野家は、新しい商標を考えなくてはならなくなった。このときに参考にしたのが同家の家紋である。「○」の中に「三」の字が入った「丸に三引き両」といわれる家紋を分解して、「三」を上に「○」を下に移動させて新たなマークをつくったのである。これが「三ツ環」マーク。社名の「ミツカン」の誕生だった。現在も、ミツカンのロゴはそのまま受け継がれている。しかし、アルファベット表記は2004(平成16)年、「mitsukan」から「mizkan」へと変更された。「ツ」のアルファベット表記を「tsu」から「z」に変えたのである。その理由は、綴りの文字を短くすることで覚えやすく、さらに「z」という文字が中央にあることでの視覚的なインパクトを狙ったという。社内からは「ミズカン」と誤読されるのでは、といった指摘もあったそうだが、あえてこの形にすることで、変革と挑戦のシンボルにしようと考えられる。一方で、この「z」は酢づくりと関わりが深い「Zymurgy(醸造学)」の頭文字をとったらしいとも伝わるが、公式な由来ではない。

「ツ」のアルファベット表記を「z」にミツカンのように、「ズ」と読み間違われる可能性がありながらも、あえて「tsu」を「z」で表わしている例はほかにもある。広島の自動車メーカー「マツダ」だ。マツダの英語表記は「Matsuda」ではなく「Mazda」。いったい「z」にはどのような意味が隠されているのか。マツダの社名は、創業者の松田重次郎の姓にちなんでいる。それならMatsudaとなりそうなものだが、あえて「z」を用いた意図はほかにもあった。ゾロアスター教の主神アフラ・マズダー(AhuraMazda)も同時に表わしていたのだ。同教は西アジアでの文明発祥とともに誕生した古い宗教で、アフラ・マズダーは叡智・理性・調和を司る神である。この東西文明の源泉的シンボルであるアフラ・マズダーを「自動車文明の始原的シンボル」ととらえ、会社を自動車産業の光明とするべく、神の名から「Mazda」を拝借したのである。社名に叡智の神の名を用いているとは、なんともスケールの大きなネーミングだ。

「ビッグ」と「ビック」の大違いビックカメラ、ブルドックソースほか「まぁるい緑の山手線♪」というCMソングでおなじみのヨドバシカメラは、インバウンドブームが続く中、外国人にも大人気の大手家電量販店だ。その名の通り、もともとはカメラの販売会社である。1967(昭和42)年に渋谷から現在の新宿西口付近に移転。当時、ここ一帯の地名だった「淀橋」を社名にしたのである。そんなヨドバシカメラのライバルが、同じ新宿西口にもある「ビックカメラ」だ。お気づきだろうか。社名が「ビッグ」ではなく「ビック」となっている。「BIG」と勘違いしてしまうが、正しくは「BIC」。いったい何を表わす言葉なのか。「BIC」とは、インドネシア・バリ島のスラング。大きい=BIGという意味を持つ一方、それ以上に中身を伴なった偉大さという意味を持つ言葉である。小さくても光り輝くダイヤモンドのような企業になりたいという思いを込めて命名されたものだ。ほかにも「グ」とすべき文字を「ク」にした名前がある。「ブルドックソース」だ。マークの図柄は犬のブルドッグがモデルになっており、社名が犬に由来することは明らか。それなのになぜか「ク」になっている。同社は1902(明治35)年に酒と缶詰の卸売業の三澤屋商店として創業。3年後にソース製造をはじめ、大正末期頃に新商標のソースをつくった。その際、ウスターソース発祥の地イギリスのシンボル犬であり、当時日本でもペットとして人気を博していたブルドッグに注目。ソースも人々に愛されてほしいと命名された。あえて「ク」としたのは、明治時代で、英語に慣れていない日本人が多かったため、その感覚に合わせ、濁音が続く語感をあえて避けたのだ。たしかに、小さな「ツ」の後の濁音は、発音しづらい。それを当初の意味を持たせたままで文字を変えるとは、大胆な試みだ。

社名をアルファベットにしたら世界的企業?SONY、YONEX「SONY」といえば、音響機器やカメラ、パソコン、ゲーム機などを開発している世界的エレクトロニクスメーカーである。SONYの前身は、井深大と盛田昭夫が1946(昭和21)年に設立した「東京通信工業株式会社」。わずか二十数名の会社ながら、1950(昭和25)年に日本初のテープレコーダーを発売し、知名度は高まっていた。しかし、海外ではまだ無名。そこで、本格的な海外進出に向けて、アルファベットのブランド名をつけることになった。当初は東京通信工業の頭文字をとった「TTK」を考えていたが、「TK」がつく他社とまぎらわしい。試行錯誤を繰り返し、結局ラテン語の「音(SONUS)」と「坊や(SONNY)」を合わせた4文字の造語「SONY」とした。1955(昭和30)年から東京通信工業の製品すべてにSONYとつけ、その3年後には社名もソニー株式会社に改め、ブランドイメージを確立していったのである。一方、このSONYをヒントにして、社名変更をした世界的企業がある。テニスやバドミントンのラケットでおなじみの「ヨネックス(YONEX)」だ。1958(昭和33)年に米山製作所として設立され、ラケットの製造を行なっていたことから1967(昭和42)年に社名を「ヨネヤマラケット」に変更。以来、ブランド名はYONEYAMAだったが、その後海外との取引が増えたため、外国人が発音しやすい名称に変える必要が出てきた。そこで名称変更の際に参考にしたのが、当時海外にも進出していたSONYやPENTAXであった。従来の社名からYONEを引き継ぎ、その後ろにSONYを真似てYをつけ「YONEY」にするか、PENTAXのようにXをつけ「YONEX」にするか。このY案、X案で社内の意見は二分されたという。最終的には、ドイツにYONEYという企業がすでに存在することがわかり、X案が採用され、現在に至ったというわけだ。海外で成功するネーミングには英語の表記と発音のしやすさ、この2つのポイントは外せないようだ。

「大日本果汁株式会社」が社名を変えたらニッカウヰスキーNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」で、人気が再び高まった日本国内のウイスキー。じつは日本産ウイスキーは、世界からも注目されている。2015(平成27)年ニッカウヰスキーが、ウイスキーの国際大会「ワールド・ウイスキー・アワード」のブレンデットモルトウイスキー部門で2年連続世界一に輝いた。今や日本のウイスキーは世界5大ウイスキーのひとつに数えられる名酒なのだ。そのウイスキーの製法を本場スコットランドに学び日本に持ち帰ったのが、ニッカウヰスキーの創始者「マッサン」こと竹鶴政孝である。竹鶴は日本のウイスキーの父という存在だが、彼が興した「ニッカウヰスキー」の社名はなんと、リンゴジュースが由来だ。「ニッカ」は、竹鶴が1934(昭和9)年に北海道の余市に設立した、リンゴジュースなどを製造販売する「大日本果汁株式会社」の略称「日果」をのちに、そのままカタカナにして社名に用いたのである。ウヰスキーの「ヰ」にも理由がある。当初、ウイスキーは水が命なので、井戸の「井」を使ってニッカウ井スキーと登記を申請した。ところが当時は漢字とカナを混ぜて登記することができなかったため申請できなかった。そこで発音が英語の〝ウィ〟に近い「ヰ」に変え、「ウヰスキー」と表記したのである。「大日本果汁」を設立した理由スコットランドに渡り、理想のウイスキーづくりを目指していたはずの竹鶴が、帰国後なぜ果汁会社を経営していたのだろうか。じつは竹鶴は本場スコットランドと気候が似ている北海道余市町でウイスキーづくりに取り組んだが、ウイスキーは蒸留してから5年から10年ほど熟成させる必要があり、すぐに売り出すことができなかった。熟成を待つ間、竹鶴は地元のリンゴを使用したリンゴジュースやワインなどの製造販売を行なって食いつなごうとしたのである。竹鶴の熱心さはここでも発揮される。果汁に対してもこだわりを持ち、本物の味を追求した100パーセントのリンゴジュースのほか、アップルワインも開発した。ところがサイダーが1本18銭の時代に、30銭のリンゴジュースは高すぎたためか売行きは芳しくなかった。資本家たちも逃げ腰になり、あの果汁会社はつぶれそうだという噂も立つほど、苦節の創業期となった。しかし、そんな苦難を経て1940(昭和15)年、ついに竹鶴は念願の国産の自社製第1号の「ニッカウヰスキー」を発売したのである。ニッカというカタカナ表記はこれが最初だ。その後も「大日本果汁」の社名でウイスキーをつくり続け、1952(昭和27)年には本社の東京移転に際し、社名を「ニッカウヰスキー」へ変更した。ウイスキーの販売によって業績は好転したが、苦節時代を支えたリンゴ果汁の名残は今も残されている。青森県の弘前にて特産リンゴを用いてつくられている「ニッカアップルワイン」である。ネーミングの由来となった果汁、興味のある人は一度飲んでみてはいかがだろうか。

同じ文字を〝3つ〟並べる効果3M、スリーエフ、AAAネーミングの世界には、同じアルファベットを3つ並べて覚えやすくする手法がある。たとえばふせんや両面テープで有名な「3M社」。粘着テープなどの文具から、電気部品、バスのラッピングまで、幅広い分野の製品を開発する、アメリカの化学・電気素材メーカーだ。このスリーエムと読む社名は、字面通り3つのMという意味である。その3つのMとは、「MinnesotaMining&Manufacturing(ミネソタ・マイニング&マニュファクチュアリング)」の頭文字。もともとはミネソタ州で鉱物を採掘する企業としてスタートしているので、直訳すれば「ミネソタ鉱業製造」だ。長すぎるため、のちに頭文字のMをまとめて、3Mという社名にしたのである。スリーエムはいわば地名と業種と会社の形態がたまたま3つのMで表わすことができる名前だったが、中には同じアルファベットを並べることで意味を持たせたネーミングもある。首都圏で展開するコンビニエンスストア「スリーエフ」だ。現在、神奈川、東京、千葉、埼玉と首都圏のみの展開ながらコンビニ業界で5位につけるスリーエフは、1979(昭和54)年に富士スーパーのコンビニ事業部としてスタートした。同年横浜市磯子区に第1号店をオープンし、2年後に分社化して「株式会社スリーエフ」とした。社名もこれまたそのまま、「3つのF」を表わしている。そのエフとは「FreshFoodsFriendly」の頭文字。すなわち新鮮(フレッシュ)な食べ物(フーズ)を気持ちよく買える親しみやすい店(フレンドリー)という3つのFに集約された思いが込められていたのである。ユニット名に由来する〝AAA状態〟とはアルファベット3文字が並ぶのは企業だけとは限らない。Avexから2005(平成17)年にデビューした「AAA」もそのひとつだ。彼らは男性メンバー5人、女性メンバー2人からなる男女7人組のパフォーマンスグループ。AAAの名称は、すべてのことに挑戦するという意味の「AttackAllAround」の頭文字を並べたものだ。近年このユニット名にちなんだ「AAA状態」という言葉がある。飲み会などで女性比率が少なく、女性が多くの男性に囲まれてお姫様状態になったときを指すらしい。この「AAA状態」というシチュエーション、合コンだったら男子にとってはかなり厳しい状況だろう。

「まつたけ」が「しょうちく」に?松竹、リンナイ、HP最近、「キラキラネーム」といわれる特殊な名前を子どもにつけるケースが増えているが、見た相手が読めずに困ってしまうことが多いのではないだろうか。ネーミングにいわれがあることは大切だが、とくに企業の場合、多くの人に読んでもらうために、親しみやすさ、なじみやすさもポイントになるだろう。「松竹」といえば、映画や歌舞伎で有名な日本の興行界になくてはならない企業だ。松竹梅にちなんだ、なんとも縁起のよい名前に見えるが、じつはこの社名、創始者の名前を合体してつけられている。松竹の創業者は白井松次郎、大谷竹次郎の双子の兄弟である。1877(明治10)年12月13日に京都の芝居小屋で売店を経営していた大谷栄吉の息子として誕生した。12月13日は、京都では松飾りの準備をはじめる、じつに縁起のよい日。これにちなみ、2人の名前は松次郎、竹次郎と名づけられたのである。2人の姓が違うのは松次郎がのちに白井家の婿養子となったためだ。1895(明治28)年に弟の竹次郎が京都の阪井座という芝居小屋を買収して興行主になり、7年後の1902(明治35)年に兄弟で京都に明治座を開業した。これが松竹のはじまりなのだが、社名はひょんなことから誕生した。大阪朝日新聞京都版が、25歳の若き兄弟の将来性についての記事を掲載した際、2人の名前にちなんで「松竹の新年」という見出しをつけたのである。すると2人はいつしか巷で「松竹」と呼ばれるようになり、そこから「松竹合資会社」を設立した。やがて東京の興行界を仕切るほどにまで発展し、映画界に進出。その1920(大正9)年頃に「しょうちく」という読み方に変わったという。この読みの変化は、誰が言い出したのかわかっておらず、親しみやすかったせいか、なぜかそのまま定着し今に至っている。社名をコイントスで決めてしまった会社創業者の名前を合体させた企業名は、ほかにもある。給湯器やガスコンロなどの製造、販売を手がけ、台湾や韓国など海外市場でも圧倒的なシェアを誇る、ガス機器の国内最大手「リンナイ」もそのひとつ。リンナイの前身は、1920年に設立された林内商会という会社である。創業は、名古屋瓦斯(現・東邦ガス)で働いていた初代社長となる内藤秀次郎が、名古屋市内の今川焼の店にあった石油コンロの青い火に魅せられ、自分でもつくってみたいと会社を辞めて自宅内で開発をはじめたことがきっかけだ。2年後には、幼なじみでかつ元・同僚の林兼吉(のちの2代目社長)とともに「林内商会」を設立。ガス機器メーカーの頂点になるまでに至った。つまり「内藤」の「内」と、林の「林」をくっつけて「林内(リンナイ)」。会社設立のきっかけをつくり、初代社長となった内藤の名前が先に来ないのはちょっと不思議だが、どうやら「内林」(ナイリン)では語呂が今ひとつよくなかったためらしい。海外にも創始者の名前を合体させた社名がある。世界有数のコンピューター会社「HP」(ヒューレット・パッカード)だ。創業者はウィリアム・ヒューレット(WilliamR.Hewlett)とデビッド・パッカード(DavidPackard)の2人。スタンフォード大学電気工学科を卒業した2人は1939年1月、サンフランシスコ郊外パロアルト市の小さなガレージを借り、538ドル(当時の物価から計算して現在の日本円で約200万円の価値)の運転資金を元手に、自分たちの手で事業運営に乗り出した。2人は起業する際、社名に2人の名前をつけることは決めたものの、どちらの名前を先にするかで大いに迷ったという。そこで、彼らがとった方法はなんとコインを投げて表裏で決めようというもの。結果、ウィリアム・ヒューレットがコイントスに勝って、HPの順番になった。もし勝敗が反対だったら、PH(パッカード・ヒューレット)となっていたことになる。たしかにPHでは「ペーハー」と読め、酸性・アルカリ性を表わす化学の単位を想像させてしまい、パソコン会社とはほど遠いイメージになっていたかもしれない。

「明星」は〝みょうじょう〟か〝めいせい〟か明星食品、明星学園、明星学苑インスタントラーメン「チャルメラ」で有名な「明星食品」。2006(平成18)年より日清食品ホールディグスの傘下となった食品会社で、チャルメラのほかにも、「中華三昧」「一平ちゃん」など数多くのヒット商品を生み出している。この明星食品が誕生したのは1950(昭和25)年3月28日。創業の地は東京都武蔵野市の吉祥寺である。明星食品という社名は、当時、吉祥寺一帯が「明星台」という通称で呼ばれていたことにちなんでいる。また金星である「明けの明星」に発展の願いを込めて、「製麺業界で大きくなる」という創業者・奥井清澄の思いも込められている。この社名の由来となった「明星台」という土地。これは古くから地域に根づいた伝統的な地名というわけではない。明星台と呼ばれていたのは、この場所に「明星学園」という学校があったからだ。明星学園は、1924(大正13)年5月15日に、井の頭公園の南面台地に開校された。赤井米吉、照井猪一郎をはじめとする4人の教師が、「個性尊重・自主自立・自由平等」を掲げて創立した小学校がはじまりだ。開校前のあるとき、創業者らが井の頭公園内からとても美しい星空を見た。その星空を見上げながら浮かんだのが、金星を意味する「明星」という言葉。「子供たちの心の明星になる」「輝く星(=夢や目標)に向かって伸びようとする人、高まろうと努力する人間を育てたい」という思いにぴったりとマッチするということで、「明星学園」と名づけられたのである。こうしてつくられた明星学園は、当初、生徒数はわずか21名だけの小さな小学校だった。その後は1928(昭和3)年に中学部と女学部が開設され、戦後になると小中高一貫教育へと体制を変えて現在に至っている。この学校名が、この地の通称となり、さらに食品会社の社名にまでなったというわけだ。チャルメラの会社は、この学校の誕生なしには語れなかったのである。同じ「明星」の文字を持つ2つの学校明星学園と同じ武蔵野の地に、もうひとつ「明星」を冠した学校がある。府中市に中学校・高等学校があり、多摩市にある大学を持つ「明星学苑」だ。ここで注意してほしいのが、両校の読み方。吉祥寺の明星学園は「みょうじょう」と読むが、こちらの明星学苑は「めいせい」である。名前があまりに似ているので、明星学園と明星学苑は姉妹校か何かのように勘違いしてしまいそうだが、じつは両校はまったく関係ない。明星学苑は、1923(大正12)年に、元成蹊学園教師の児玉九十が明星実務学校として創立したのがはじまりである。「明星」の由来は、児玉の思想である「学天の明星」だ。欧米スタイルを取り入れた寄宿教育や体験教育など、時代の先を見据えた教育を行なってきた。東京西部にある同じ「明星」。両校のどちらかに進学を希望している人は、進路を決める際に間違えて出願しないよう、くれぐれもご用心を。

「ウィンドウズ7」「8」、その次は「9」のはずウィンドウズ、アクオス「インターフェースマネージャー」と聞いて、何のことかわかるだろうか。じつは、アメリカ・マイクロソフト社のOS「ウィンドウズ」は、当初、「インターフェースマネージャー」というネーミングにする予定だったのだ。しかし、「ウィンドウズ(=窓)」のほうが複数のウィンドウを同時に画面に表示する特徴をシンプルに表わしているため、こちらが採用された。このウィンドウズシリーズにはいろいろなバージョンがある。それぞれにつけられた数字やアルファベットには、どんな意味や由来があったのだろうか。「Windows95」「Windows98」などは、それぞれ発売年の西暦を表わしていた。それが突然「XP」が登場する。「XP」は、「Experience(エクスペリエンス)」にちなんだ「経験、体験」という言葉。「ウィンドウズを使って、最高の経験をしてほしい」との願いが込められた。ところが、「XP」のあとの「Vista」の次からは、「Windows7」「Windows8」と、シンプルな数字表記に。この数字が示すのは、何番目のバージョンかということだ。現在最新版は「Windows10」だが、その前に「9」がないのは、世に出回っているソフトウェアの多くが「Windows9」を、同じ9からはじまる「Windows98」などと誤判定してエラーを起こす可能性があるためだといわれている。「アクオス」と「ウィンドウズ」の意外な関係とはこのように、マイクロソフト社のOS・ウィンドウズには、これまでさまざまなバージョン名があり、名前が浸透しているといっていい。「ウィンドウズ」と聞くと、間違えなくパソコンをイメージするだろう。ところがそのために、はじめは「ウィンドウ」という名前だったにもかかわらず、間違われてしまうという理由で改称した製品がある。シャープの液晶テレビ「アクオス」だ。2001(平成13)年にアクオスを発売する前から、シャープは同じグレードの液晶テレビを「ウィンドウ」という名前で販売していた。しかしパソコンの「ウィンドウズ」とまぎらわしいため国内でしか流通させていなかったのである。そして2001年に改称する際、なめらかな液晶画面を水にたとえて、水を意味する英語「aqua」から「アクオス」という造語を誕生させた。もしウィンドウのままだったら、シャープの「新たな未来」はどうなっていたのか。

「トマト」から生まれた「ももたろう」トマト銀行、桃太郎トマト岡山へ旅行に行ったことのある人は気づいたかもしれない。岡山市の駅前のメインストリートには「桃太郎大通り」、岡山の銘菓はもちろん「きびだんご」、JR吉備線は「桃太郎線」という愛称で呼ばれているなど、とにかく桃太郎づくし。岡山県が桃太郎ゆかりの土地となったのは、この地に桃太郎の昔話のもとになった伝説が伝わっているためだ。かつてイサセリヒコという、桃を自分の守り神にしていた皇子がいて、人々が彼のことを「桃太郎」と呼んでいた。桃太郎は吉備の国(岡山県)へ温羅という鬼を退治するためにやってきてそのまま移り住んだという。ところが、そんな岡山県を代表する地方銀行の名前はなんと桃ではなく「トマト銀行」。前身だった山陽相互銀行がトマト銀行へ改称したのは1989(平成元)年のこと。公式発表によると、みずみずしく新鮮で栄養価が高く、明るく健康的で親しみやすいトマトのイメージが、企業が目指すイメージと合致するためだという。しかし、名づけ親である当時の吉田憲治社長は「朝食でトマトを食べていてひらめいた」とも述べている。ネーミングのきっかけは朝食のトマトだったようだ。カタカナ名の銀行は当時珍しく、全国的に大きな反響を呼んで「トマト銀行」はその年の流行語大賞の新語部門で銅賞に輝いている。社名変更後、半年で預金残高が3割増しになるなど業績も好調になった。こうして定着したトマト銀行だが、「ももたろう支店」という名前のインターネット支店があるし、定期預金に「きびだんご定期預金」というユニークな名前もある。桃太郎の里であるにもかかわらずトマトを冠した銀行がある一方で、トマトなのに桃太郎を名乗っているトマト品種がある。タキイ種苗が開発し、1985(昭和60)年に発売した「桃太郎トマト」だ。桃のように甘いことと、誰もが知っているフルーツ感覚の名前を目指したことによるネーミングである。トマト銀行よりも早く世に出た桃太郎トマト。ひょっとしたら、トマト銀行のきっかけをつくった朝食に出たのは、桃太郎トマトかも!

「トンボ」という名にしたくてできなかった会社ヤンマー、トンボ鉛筆「ボクの名前はヤン坊、ボクの名前はマー坊~」の歌が流れた「ヤン坊マー坊天気予報」。2014(平成26)年に終了するまで、なんと50年以上にわたり放送されていたという超長寿番組だ。そのスポンサー企業が、1912(明治45)年に山岡発動機工作所として創業された「ヤンマー」である。1933(昭和8)年、世界初のディーゼルエンジンの小型化・実用化に成功し、船舶、農業、空調機器のほか、発電システムからバイオマス発電装置など、エネルギー関連商品事業まで手がけている。ただ、一般の人々にとって、ヤンマーといってすぐに思い浮かべるのは農業用の赤いトラクターだろう。それもそのはずで、創業者の山岡孫吉は、「過酷な農作業の負担を少しでも減らしてあげられれば……」という思いで、創業したのである。そうした背景もあり、「ヤンマー」という名前も、農業と大きく関係している。古来、トンボが多く現われる年は豊作になるといわれ、トンボは豊作の象徴。そこで山岡は、この縁起のよいトンボを、自社のエンジンのブランドにしようと考えていた。ところが、別の会社がすでにトンボを商標に掲げていたのである。そのため山岡のトンボ案は却下され、別の商標を探すことになった。そこで新しくひらめいたのが、トンボの王様「ヤンマトンボ(オニヤンマ、ギンヤンマなどの総称)」にちなんだ「ヤンマ」だった。山岡の「ヤマ」にも通じるため、これが採用されることになった。発音しやすく、またカタカナ表記の際、文字の印象を整えるために、この「ヤンマ」に音引きを加えて「ヤンマー」としたのである。文具メーカーがなぜ昆虫の名をつけたのか?では、いったいどんな会社がトンボの商標をすでに社名にしていたのであろうか。じつは私たちが子どもの頃から親しんでいる「トンボ鉛筆」である。農機具とも関係のない会社がなぜトンボ印を?その由来は、はるか昔『古事記』にまでさかのぼらなければならない。トンボは秋になると現われるため、古来「秋津」と呼ばれていた。『古事記』によると、初代天皇である神武天皇が天から日本列島を見下ろしたとき、その形が、トンボが交尾している様子に似ていた。そこで、日本列島を「アキツ(トンボ)の島」「秋津島」と名づけた。この神話をもとに、日本を代表する鉛筆に育てる意味を込めて、トンボ印を商標に掲げ、1939(昭和14)年に社名へ採用したのである。日本が「アキツ島」といわれていたから「アキツ鉛筆」とするのではなく、現代語の「トンボ」を社名にするあたり、創業者の小川春之助のセンスが光っていたというわけだ。このトンボ鉛筆のアルファベット表記は、「TOMBOW」となっている。じつは英語で「TOMB」が墓を意味するため、「TOMBO」の1字違いでは誤読される恐れがある。それを避けるためあえて無発音の「W」をつけたのである。昭和初期に、今日のグローバル社会を予見したかのような社名のつけ方。しっかり商標もとっているし、永続する企業はやはり見る目が違う。

「5‐56」とは何の暗号かサビ取りスプレーとして今や欠かせない製品が「KURE5‐56」だ。これはアメリカの化学メーカー「CRCインダストリー」が開発した製品である。この製品は、1962(昭和37)年から呉工業が日本に導入して販売したところ、防錆と潤滑作業が一本のスプレーで一度にできてしまう汎用性の高さに、機械の整備・保守作業のプロたちが驚いたというすぐれもの。プロたちばかりか、一般家庭においてもドアの開閉や自転車のチェーンのサビ落としなどに重宝され、広く浸透していったのである。それにしても、気になるのはKURE5‐56というネーミング。呉工業が輸入元であるため、「KURE」と冠しているのは容易に理解できる。問題はそのあとに続く数字のほうだろう。これは、開発したメーカーであるCRCの創立時の住所に由来する。そのときの住所が1丁目16番地だったため、最初の製品を1‐16と命名したのである。これ以降に売り出された製品名に、1‐16に続く番号が振られた。2番目の製品が2‐26、3番目は3‐36と、末尾の6を除いて数字が増えていき、5番目の製品が5‐56になったという次第。呉工業が5番目の製品を導入したため、日本ではKURE5‐56が最初に販売されたのである。もちろん数字の違う製品は同じ用途というわけではなく、2‐26は電気機器用防錆・接点復活剤、3‐36は工業用防錆剤となっている。さらに現在では5‐56の次の製品である6‐66もあり、船舶用の防錆、防湿、潤滑剤として売られている。呉工業によると6‐66の次の製品となる7‐76は、今のところ発売される予定はないという。このままいけば2ケタに突入したらどうなるのか、という心配は当分なさそうである。

「東洋」に変えたら大躍進!東洋水産、東洋紡、TOTO「あ~かいきつねとみどりのたぬき♪」のCMでおなじみの「赤いきつねうどん」「緑のたぬき天そば」をはじめ、「麺づくり」や「マルちゃん正麺」など、〝マルちゃん〟ブランドのヒット商品の数々。これらを生み出しているのが、東京都港区に本社を置く食品メーカー「東洋水産」である。同社は、1953(昭和28)年に「横須賀水産株式会社」という社名で設立された。当初は築地魚市場内にあり、冷凍マグロの輸出や国内水産物の売買を行なっていたが、その後は冷蔵事業や加工食品事業へと次々に拡大。1956(昭和31)年に「東洋水産株式会社」と社名を変えた。わずか3年で、「横須賀」から「東洋」へと社名のスケールが大きくなったことになる。事実、社名に東洋をつけた理由は「横須賀から、日本を飛び越えて、東洋一に」という願いが込められていたという。その願いは見事に叶い、今や東洋水産の商品はアジアだけでなく世界中に浸透している。なかでも、日本と同じブランド名で「Maruchan」で売り出されている即席麺は、アメリカ・メキシコ両国ではトップブランドとなるほど人気を博している。〝東洋〟という名前で世界に飛躍した会社にもうひとつ、「東洋紡」がある。東洋紡は1914(大正3)年、日本最初の大紡績工場として発足した「大阪紡績会社」と、第一国立銀行などの設立で知られる渋沢栄一の支援によってつくられた「三重紡績株式会社」の合併によって生まれた。この時、両社の相談役を兼ねていた渋沢が、「東洋一の大紡績に」という願いを込めて「東洋」をつけたのである。その東洋紡は、1931(昭和6)年に大阪合同紡績を吸収合併し、世界最大規模の紡績企業に躍進。事業は繊維会社の枠を超えて広がり、現在、東洋紡の製品は液晶テレビのパネルやスナック菓子などの包装フィルム、自動車のドア等のプラスチック部品など、生活のさまざまな分野で使われている。また中東では、東洋紡が開発した海水淡水化膜が高い支持を得ており、とくにサウジアラビアにおいては85%という圧倒的なシェアを占めている。もはや東洋を飛び越え、世界に躍進しているのだ。東洋から世界へとはばたいた日本文化の神髄東洋を冠して世界に躍進した企業といえば、世界中から絶賛されているウォシュレットを開発したトイレメーカー「TOTO」の存在も見逃せない。一見しただけではわからないが、じつはこのTOTO、旧社名の「東洋陶器」を略した名前だ。同社は1917(大正6)年に、日本陶器合名会社(現・ノリタケカンパニーリミテド)初代社長の大倉和親によって設立された。社名の「東洋」は、大倉が海外旅行中に西洋の文化的な生活に感銘を受け、これを東洋に広めたいと名づけられた。その後、「東陶精器」へと社名が変わり、1969(昭和44)年に、パッと目に入りやすい「TOTO」へと商標変更した。TOTOの場合も当初の理念は「東洋へ」という思いだったわけだが、その影響は世界にまで拡がったことになる。まさに「東洋」のパワーおそるべし。

「サン○○○」──さすがスケールが大きいサントリー、サンスター、サンガリア「サン」と聞けばほとんどの人が太陽を思い浮かべるだろう。サン○○○という企業名もほとんどが太陽を由来としている。日本の洋酒業界を黎明期から育て上げてきた「サントリー」もそのひとつだ。創業者の鳥井信治郎が1899(明治32)年に大阪市で開業した「鳥井商店」がはじまりである。そこで発売されたのが「赤玉ポートワイン」。輸入したワインに、甘味料や香料を加えて日本人好みの甘い葡萄酒にしたもので、これが大ヒットした。ポートワインとはポルトガル産ワインを意味し、現在は「赤玉スイートワイン」に改称されている。1921(大正10)年には社名を「寿屋」と改め、1924(大正13)年には京都と大阪の境となる天王山麓の山崎に日本初のモルトウイスキー蒸留所・山崎工場を立ち上げて国産ウイスキー製造を開始したのである。そして、1929(昭和4)年に日本初の本格ウイスキー「サントリーウイスキー白札」の発売を皮切りに「角瓶」、「オールド」、「ローヤル」などのウイスキーを次々に発売。国産ウイスキーの歴史を刻んだ。寿屋は1963(昭和38)年に「サントリー株式会社」へ改称した。「白札」を販売した際にすでに使われていたブランド名を社名としたのだ。一説によると、創業者の「鳥井さん」を逆さまにして「さん鳥井」→「サントリー」となったといわれているが、どうやら俗説にすぎないらしい。実際には、「赤玉ポートワイン」の赤玉が表わす太陽=サンと、鳥井のトリーをくっつけてサントリーとしたようだ。サントリーのように、太陽を由来として、社名に「サン」をつけた会社はほかにもある。歯ブラシや歯磨粉などオーラルケア商品のトップメーカーである「サンスター」だ。サンスターは名前の響きから外国企業に思えるが、もともとは意外にも自転車用ゴム糊を製造・販売する「帝国合同ゴム工業」として1941(昭和16)年に設立された日本の会社だ。そこで誕生したのが、自転車用のゴム糊を入れていた金属チューブに歯磨きを入れるというアイデア。こうして1946(昭和21)年、「サンスター歯磨」第1号が誕生したのである。この「サンスター」という名前は、「サン(太陽)」と「スター(星)」を合わせている。第1号の歯磨きが発売されたのは戦後間もない時代で、人々は生きるだけで精一杯。歯磨きなどする余裕さえなかった。そんな時代だからこそ、「朝晩歯を磨こう」という思いを込めて、朝を連想させる太陽と、夜を連想させる星を名前にしたのである。一方で、「サン」はつくものの、太陽とはまったく関係がない会社が、大阪に存在する。ただのダジャレ!?大阪人のセンスが光るユニークな社名「いちにいサンガリア♪」というCMソングでおなじみの清涼飲料水メーカー・サンガリアの正式社名は、「株式会社日本サンガリアベバレッジカンパニー」である。この会社も名前の雰囲気から外資系のようなイメージを受けるが、大阪市東住吉区に本社を置く日本企業だ。この社名の由来は、じつに興味深い。なんと中国唐代の詩人・杜甫の漢詩「国破れて山河あり」からつけたのだ。「山河あり」→「サンガリア」というわけだ。社長の石山豊の作詞によるCMソングのフルバージョンの後半にも「国破れてサンガリア♪」と歌われており、いかにも大阪人らしいネーミングである。しかし、一見ダジャレのように思える社名の背景には、杜甫の詩の背景にある哲学や人生観が、厳しい研究姿勢を貫く同社の企業体質に通じる。サンガリアの原動力は熱心な研究開発にあり、1999(平成11)年には業界初の加温できるペットボトル入り緑茶「あったかいお茶」、2003(平成15)年には業界初の冷凍対応ペットボトル「氷晶」シリーズを発売するなど、画期的な商品を生み出し続けている。真面目に取り組みながらも、ちょっとした笑いも忘れないサンガリア。大阪ならではの社名といえるだろう。

「みなさまに愛される」名前とはフジッコ、フジテレビ、アルプス電気「ニッポン」の象徴ともいえる富士山。標高3776メートルという日本一高い山なだけに、ネーミングの世界で人気が高い。昆布から出発し、今や総合食品メーカー、さらに食品科学分野にも進出している「フジッコ」も、富士山にあやかった社名である。1960(昭和35)年に創業したとき、業界の頂点、味覚の頂上を目指すという願いを込め、社名を「富士昆布」とした。それが「フジッコ」へと転換したきっかけは、1966(昭和41)年の塩昆布「ふじっ子」の発売である。この名前は社内公募で決まったものだが、「富士昆布」という会社が生んだ子どもにあたる、という意味を込めている。そして1985(昭和60)年には、昆布製品の枠を越えて総合食品メーカーへと発展するため、主力商品の「ふじっ子」をカタカナ書きで社名にした。いわば「フジッコ」の社名には、創業時に託した富士山への思いが今もしっかり受け継がれているといえる。このように会社を創業するとき、会社を大きくして業界の頂点に立ちたいという壮大な願いを持つのは当然のこと。そのため地理的に富士山と直接関係があるわけではないが、「日本一」の象徴として富士山にあやかった社名は当然数多い。1959(昭和34)年に開局し、今も老若男女から親しまれている民放テレビ局「フジテレビ」もそのひとつ。覚えている人は多くないのかもしれないが、もともと「富士テレビ」として出発した。開局の2年前に放送免許を申請する際、人々に愛されなければならないテレビゆえに、日本で一番ポピュラーな名前は何かと考えた。その結果、日本一高い山「富士山」を冠した「富士テレビ」と命名したのがはじまりである。翌年、漢字では子どもが読むのが難しく、広く親しまれないと考え、カタカナの「フジ」に変更された。それが奏功して、大人から子どもまで広く親しまれるテレビ局になったわけだ。当時、テレビ朝日は「日本教育テレビ」、TBSは「ラジオ東京」、テレビ東京も「日本科学技術振興財団テレビ局」と呼ばれていた時代。ポピュラーな放送局を目指してフジテレビが台頭したのである。このように日本一を目指して富士山の名前を冠した一方で、富士山を飛び越えて、世界的な山の頂を目指した企業も存在する。富士山を飛び越え世界の山を社名に世界的名山の名前を冠しているのは、総合電子部品メーカーの「アルプス電気」である。自動車、家電製品、情報通信機器、スマートフォン、ゲーム、ヘルスケア機器など広汎な分野の電子部品を顧客企業に提供するメーカーだ。同社はもともと、東芝の航空機用無線の技術者だった片岡勝太郎が、ラジオのスイッチと可変コンデンサーの製造販売を行なう企業として、1948(昭和23)年に自らの名をつけた「片岡電気」として創業したのがはじまり。そして開発したスイッチのブランド名に「アルプス」と名づけた。じつは社長の片岡はつねづね松下のナショナル、早川のシャープはうまく考えた名前だと感心していた。そこで、世界を相手にする電子部品メーカーになるためヨーロッパ最高峰のモンブラン(標高4810メートル)を擁するアルプス山脈の名前をつけたらよいではないかと考え、ブランド名に採用した。そして1964(昭和39)年にブランド名との一致を狙って、社名も「アルプス電気」に改名した。その願い通り、今では世界トップシェアを誇る製品も多く、世界中の2000社を顧客に持つ世界的大企業に成長している。

「富士山」とは無関係でも名乗ってOK?富士重工業、富士そば、富士通富士山は日本の象徴にして唯一無二の山であるため、日本一を目指して、その名を冠した社名をつけるケースは前項のように多い。自動車「スバル」のブランドで知られる世界的な総合輸送機器メーカー「富士重工業」もそのひとつだ。富士重工業の前身は、戦争中に軍用飛行機を製造した「中島飛行機」だ。創業者の中島知久平は、富士山をこよなく愛していた。中島は、戦時中に開発していた航空エンジンの名前を、富士山の別名である「富嶽」と命名したほどである。また戦後、GHQによって中島飛行機が解体され12社に分裂した際には、「富士工業」や「東京富士産業」など、その多くに富士を冠している。やがてそのうちの5社が1953(昭和28)年に再び統合し、富士を冠した富士重工業を設立した。富士重工業の名前は、2017(平成29)年4月、同社のブランド名であるスバルとなる。富士山への愛から「富士」とつけた会社がある一方で、富士山の美しさに感動して、富士を冠した名前をつけたのが、首都圏で展開しているそば・うどんチェーン店「名代富士そば」である。創業者・丹道雄は不動産業からそば屋へと転進した。大きなお金を動かしていた不動産業とは勝手が違い、挫折しかけていたある日、夕日に照らされたきれいな富士山を目にして、「富士山もあんなにきれいではないか。自分も足元を見直してがんばろう」と勇気づけられたことから、「富士そば」という名前をつけたという。その名前のおかげか、今では60店以上を展開し、海外にも進出するなど成功をおさめている。頭文字に由来する「フジ」「富士」と名がつく会社でも、中には例外もある。たとえばエレクトロニクスメーカーの「富士通」。富士山の富士にパソコン通信の通信を組み合わせた社名かと連想させる。ところが、これが違う。会社の起源は明治時代にさかのぼる。足尾銅山などを擁して古河財閥を築いた古河市兵衛が設立した「古河電気工業」がルーツである。電線製造などを手がけていたが、発電機の国産化を目指し、ドイツの大手電機メーカー「シーメンス社」と技術提携を結んだ。そして1923(大正12)年、新会社として誕生したのが富士電機と富士通の前身である「富士電機製造」だ。この「富士電機製造」の「フジ」は、古河の「フ」とシーメンス社のドイツ語読みであるジーメンスの「ジ」の頭文字を合わせて名づけられたもので、いわば2社の頭文字をとった名前だったのである。偶然にもこの読みが富士山に通じるため、ブランドイメージのよい「富士」を漢字にあてて新会社を富士電機製造と命名した。やがて富士電機製造は、1935(昭和10)年には電話機の通信部門を独立させ、「富士通信機製造」を設立した。これが現在の富士通である。最初は「富士山」とはまったく関係ないところから「フジ」と名づけられたわけで、「富士」は後づけだったというわけだ。

「あやかる」にもほどがある?富士急行、富士フイルム、フジロックフェスティバル日本の象徴として、縁起のいい「富士山」の名前にあやかった社名は前述のように多いが、それに加えて富士山近くに立地しているがゆえに、地域名としての「富士」を名前に取り入れた例もいくつかある。今では富士急ハイランドを運営していることでも有名な電鉄会社「富士急行」も、富士山や富士五湖へ向かう鉄道のため富士の名をつけた社名となった。当たり前といえば当たり前だが、まさしく名は体を表わす企業である。設立時には「富士山麓電気鉄道」というそのものズバリの社名だった。また、日本最大のフィルムメーカー「富士フイルム」も同様に、富士山の麓である神奈川県足柄で創業したのが由来である。同社は「大日本セルロイド」(現・ダイセル)のフィルム開発部門が1934(昭和9)年に分離独立する形で、富士写真フイルムとして設立された。このとき、フィルム製造に不可欠な清浄な空気と良質な水を探し求めた結果、足柄の地が適しているとして工場が建てられた。富士箱根連峰の雪解け水が地下水として湧き出るこの地は、フィルム製造に絶好の場所だった。そのため、「富士」を社名に冠することになったのだ。今でも国内工場の大半は富士山周辺にあり、社名の通り、富士山の恵みを受け続けている。苗場のロックフェスと富士山との関係?一方、現在は富士山と関係なくなり、富士というネーミングだけが残った例もある。それが、野外音楽フェスの元祖ともいわれる「フジロックフェスティバル」だ。フジロックは、「今年も苗場でフジロック」というコピーで知られるように、毎年苗場スキー場で行なわれている。苗場スキー場は新潟県湯沢町にあり、富士山とはまったく縁もゆかりもない。しかしフジロックのロゴマークは富士山で、「フジ」も富士山に由来しているのは明らかだ。これはいったいどういうことなのだろうか。じつは第1回目の1997(平成9)年は富士山の麓である、山梨県の富士天神山スキー場で開催されたのである。ただしこれがトラブル続出のイベントだった。というのも1日目にいきなり台風の直撃を受け、豪雨に見舞われてしまったのである。ラフな服装で来ていた参加者にとって、台風の雨や寒さは耐え難く、倒れる参加者が続出。おまけに会場への道が一本道だったため、渋滞がひどく交通はマヒ状態に。参加者は何時間も歩く羽目になり、別荘地や私有地に入り込んで用を足したり、キャンプしたりする人も出て、富士山麓は混乱をきたした。そして運営側は警察や自治体から抗議を受け、2日目のイベントは中止に追い込まれたのである。結果、富士山の麓における以降の開催は不可能と判断され、翌年は東京、そしてその次の年からは、新潟の苗場・スキー場で開催されるようになったのだ。ただし日本の象徴である富士山で開催したかったという運営側の思いから、「フジロック」という名前と、富士山をあしらったロゴマークだけは残されたのである。富士山での体験を乗り越え、今では「世界一クリーンなフェス」を標榜し、お客さんのマナーのよさ、運営の安定感などは「世界のフジロック」と賞賛を受けている。

「名作の主人公」ここに蘇るドン・キホーテ、ロッテ「ドン・キホーテ」と聞いて、何を思い浮かべるか。2つに分かれるだろうが、世代ギャップや地域差が出て面白いかもしれない。ひとつは、ディスカウントストアの「ドン・キホーテ」。まるで倉庫のようにところ狭しと商品を並べて販売するスタイルが特徴だ。また、深夜営業を前面に打ち出し、とくに若年層に人気となり、最近では、外国人観光客の「爆買い」スポットとしても有名だ。このように、商品陳列や営業時間など、既成概念を打ち破る手法が高く評価されたドン・キホーテ。じつはその革新を求める精神は、社名にも表われている。ドン・キホーテとは、スペインの文豪・セルバンテスの名作『ドン・キホーテ』の主人公の名である。そう、もうひとつのドン・キホーテだ。スペインのラ・マンチャに住む郷士アロンソ・キハーノは、騎士道物語に熱中するあまり、この世の不正を正し、弱い者を助けたいという理想に燃え、ついには実際に旅に出る。そしてアロンソは自らを正義の騎士ドン・キホーテと名乗り、波乱万丈の冒険をするという話だ。もちろんドン・キホーテことアロンソは本物の騎士ではないから、実際は騎士道物語の中の騎士のように活躍するというわけにはいかない。しかしどんな困難にぶち当たっても、その〝正義感〟をなくすことはない不屈の人なのだ。ここから、現実世界の権威やそれまでの常識に屈しなかったドン・キホーテのように、自らの信じるままに新しい流通業態をつくっていきたいとの願いを込めて社名にしたのである。ドイツの名著『若きウェルテルの悩み』にちなんだ社名「ドン・キホーテ」と同じく、外国の名作の登場人物にちなんだ社名をつけたのが「お口の恋人」というキャッチフレーズでおなじみの菓子メーカー「ロッテ」だ。日本では菓子のほかにもロッテリアやプロ野球チーム「千葉ロッテマリーンズ」を経営し、韓国にも多くの系列企業がある。日韓両国からの知名度は高いが、そのロッテはいったい誰に由来するのか。ロッテという名称は、創業者である韓国出身の重光武雄(本名・辛格浩)会長が、愛読書だったゲーテの『若きウェルテルの悩み』に登場するシャルロッテから拝借している。『若きウェルテルの悩み』は、婚約者のある女性・シャルロッテに想いを寄せる青年・ウェルテルの心の葛藤を描いた作品。作中でヒロインのシャルロッテは、心の温かい家庭的な女性で、誰からも愛される存在として描かれている。そこで重光は、シャルロッテのように誰からも愛される会社にしたいという願いを込め、シャルロッテの愛称である「ロッテ」を社名にしたのである。ロッテは、日本では菓子と野球チームが有名だが、韓国でも野球チーム「ロッテジャイアンツ」を経営している。それ以外にもロッテデパート、ロッテホテルなど、多くの系列企業を持つ。社名に託した願い通り、日韓両国なら誰もが知り、親しまれている企業グループとなっている。

「象」と「タイガー」の80年にわたるバトルネーミングに動物名は多いが(参照)、ライバル社がともに同じような動物の名前にあやかって成功している例がある。「象印マホービン」と「タイガー魔法瓶」だ。象印マホービンは、1918(大正7)年に愛知県出身の市川銀三郎、金三郎の兄弟が創立した「市川兄弟商会」が前身。当時、日本でつくられていた魔法瓶は、生産量の約9割が東南アジアへの輸出に向けられていた。国内では魔法瓶はまだまだ贅沢品だったが、水道施設が十分ではなかった東南アジアでは、一度沸かした湯を飲料用として保存するため魔法瓶が必需品だったのである。販路を拡大したい銀三郎は、金三郎や家族と相談して、魔法瓶に象のマークをつけることを思いつく。大きな体で、ゆったり動く象は、子どもたちに人気。さらに主要な輸出先である東南アジアで神聖視されていることから、商標としてふさわしいと考えたのである。こうして、象のマークをつけた魔法瓶が海外へ輸出されていった。1961(昭和36)年、社名に採用され、現社名・象印マホービンの名が生まれた。その前年に提供したテレビの歌番組「象印歌のタイトルマッチ」が大人気となったため、象印といえば魔法瓶と、全国に広く浸透したからである。一方、ライバル会社の「タイガー魔法瓶」。この虎は、1923(大正12)年に設立された同社の前身「菊池製作所」が、その創業時から売り出していた「虎印魔法瓶」がはじまりだ。創業者の菊池武範が、会社設立を後押ししてくれた父の干支である寅と、そして主な輸出先の東南アジアで最強の動物である虎にちなんで、「虎印」とした。当時は、内瓶がガラス製の魔法瓶は壊れやすいものとされていた。そこに強いイメージを湧かせる虎は、製品の強度をアピールするのにぴったりだったのである。創業と同じ1923年には関東大震災が起こったが、このとき問屋の倉庫にあった魔法瓶は1本も割れなかったという。この評判が広がり、タイガー魔法瓶の強さは全国に知られることになった。

「本名」を明かせない人、明かしたい人スターリン、O・ヘンリー、伊達みきお古今東西の歴史をひもとくと、成功の裏に名前をめぐる隠された人間ドラマがある。ロシア革命を主導し、レーニンの死後、旧ソ連の最高指導者となったスターリン。その名前は、歴史の教科書にも載るほど有名だ。しかし、じつは本名ではない。本名は「ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・シュガシヴィリ」である。革命家であった彼は、7回も逮捕され流刑を繰り返す前半生を送ってきた。身を守るために、ダヴィド、ソセロ、イワノフ、ノワノビッチ、ベンシノベソなど数々の偽名を使っていたのである。そんな数ある偽名の中でも本人の一番のお気に入りが「鋼鉄の人」を意味するスターリンだった。そのため、好んでこの名を用いていたようだ。スターリンを使いはじめたのは、党中央委員となり機関紙『プラウダ』の編集に携わった頃からで、ロシア革命を経て独裁権力を握り、首相にまで上り詰める過程でもこの名で通した結果、スターリンという名が広まったのである。革命家であれば、偽名を使っていたのはある意味当然だろう。しかし中には革命や政争とは無縁ながら、本名を明かせなかった人物もいる。『賢者の贈り物』などで知られ、生涯に280編もの珠玉の短編小説を残したアメリカの作家O・ヘンリーである。彼の本名は「ウィリアム・ポーター」という。作家がペンネームを使うことは珍しくないが、彼は売れっ子作家になっても自分の住所と本名を明らかにせず、出版社とのやり取りも友人経由で行なうという徹底ぶりだった。今でいう覆面作家のようだがそれとも少し違う。ある苦い過去ゆえに、自らの素性を隠したい理由があったのだ。彼は銀行員だった時代に公金横領の罪を犯し、逃亡生活の末に逮捕され、3年間の刑務所生活を送った前科があった。その後にニューヨークで執筆生活に入り、売れっ子作家になったが、自分の過去を恥じてどんなに売れても表に出ることはせず、隠遁生活のような日々を送っていた。それでも執筆意欲は旺盛で一時期は1週間に1本というスピードで次々と作品を世に送り出した。彼は実際に見聞きした題材をもとに小説を書き上げたが、中でも有名な『賢者の贈り物』に登場する妻のデラは、早くに病死したヘンリーの妻・アソルをモデルにしていたともいわれる。前科持ちでありながらも、作品は人々の共感を呼び、後世にまで残ったのである。伊達政宗ゆかりの芸人!?ヘンリーのように名乗りたくても名乗れない人がいる一方で、周囲から「名乗るな」といわれたにもかかわらず本名を名乗ってしまった人もいる。M‐1グランプリでチャンピオンに輝き、今や実力派芸人として知られる芸人「サンドウィッチマン」の伊達みきおである。本名は伊達幹生で、仙台市出身。仙台で伊達といえば想像がつくように、彼は伊達政宗で有名な伊達家の血筋である。祖父や父は裁判官や銀行幹部を勤めるお堅い家柄だったせいか、芸人を目指して上京するとき、父親から「伊達の姓は使うな」と申し渡されたという。ところが1998(平成10)年に高校時代の同級生・富澤たけしとコンビを組んで芸人デビューすると、あえて「伊達」姓のままで押し通した。しかも「サンドウィッチマン」に改名する前のコンビ名は「親不孝」。親の意見を聞かずに伊達姓のままでデビューした、まさに親不孝なスタートだった。それでも改名してメジャーとなったことを考えれば、ネーミングで人生が変わったといえよう。

〝超高級腕時計〟のブランド名はどうやって決まるのかロレックス、フランク・ミュラー、フランク三浦ほか「ロレックス」といえば、高級腕時計の代名詞である。スイスの時計商・ハンス・ウィルスドルフが1905年にロンドンでハンス&デービス社を創業し、その2年後にはスイスに移転、1908年にはロレックスというブランド名の時計を誕生させた。ロレックスという名はいかにも由緒ありげに感じられる。しかし、じつは何の意味も持たない言葉だったというと驚くだろうか。ウィルスドルフはネーミングにあたり、いくつかのポイントを考えた。造語であること、発音しやすく記憶に残ること、国によって読み方が変わらず万国で同じ発音となること、文字をデザインした場合に美しいこと……などである。また腕時計の小さな文字盤に収まる、短い言葉であることも重要だった。こうした条件の中からアルファベットの組み合わせを数百通りも考え、思案を重ねたが、なかなかこれといったものは見つからなかった。考えあぐねていたある日、ロンドンで乗合馬車に乗っているとき、突然に「ROLEX」という名をひらめいたのだという。まさに天啓というにふさわしい出来事だった。同じく高級腕時計として知られる「オメガ」には、言葉自体に意味がある。創業は1848年。時計師のルイ・ブランがスイスで時計工場を設立したのがはじまりだ。そして1894年になって発売した新作に、Ω(オメガ)という名称をつけた。ΩはアルファベットのZに対応するギリシャ語の文字で、これ以上はないもの、究極、至高、といった意味が込められていた。この新作がヒットし、1903年には社名もオメガとなったのだ。パクリかパロディかロレックスやオメガほどの老舗ではないが、新時代の高級時計として脚光を浴びているのが、1992年に創設されたスイスの腕時計ブランド「フランク・ミュラー」である。天才時計技師として早くから名を馳せていたフランク・ミュラーが、自らの名を冠してブランドを展開。なかでも全体的に曲線を生かし、クラシカルな数字を配した文字盤の腕時計は、世界的に人気を博している。このフランク・ミュラーのパロディながら、独自のセンスとユーモアで話題になったのが、日本の「フランク三浦」ブランドだ。名前の発音が近いだけではなく、一見するとフランク・ミュラーに似ている。しかし、文字盤の中央には堂々と「フランク三浦」の文字が記され、さらに裏ブタには「完全非防水」と刻まれた、ユーモラスな時計だ。フランク三浦を展開しているのは、大阪の時計メーカー、ディンクス。「謎の天才時計師・フランク三浦」が製作しているという〝設定〟で、2010(平成22)年から販売していた。すると、独特のユーモアと4000円ほどという手軽感で多くの人々の支持を得て大人気となった。これに対し、当然フランク・ミュラーとしては黙っていなかった。2015(平成27)年9月、特許庁に対して「フランク三浦」の商標差し止めを要求。ディンクス側も商標無効化の取り消しを求める訴訟を起こした。そして翌年4月、知財高裁は、価格帯や盤面の文字が大きく異なるため両者の混同はありえない、としてフランク三浦の商標を認めたものの、フランク・ミュラー側は先の判決を不服として5月末に最高裁へ上告している。このようなフランク三浦騒動に似たネーミング争いが、過去にも起きたことがある。全国的な地名度を誇る北海道の銘菓「白い恋人」にあやかって、吉本興業の子会社が「面白い恋人」というパロディ商品を販売した。一字つけ足しただけの名前や、パッケージのデザインも当初はそっくりだったことから、白い恋人を製造販売している札幌の石屋製菓が、2011(平成23)年に商標権侵害で吉本興業へ訴訟を起こしたのである。その後、2013(平成25)年に両社で和解が成立。面白い恋人のパッケージデザインを変更し、関西6府県限定商品とすることで決着している。ネーミングは重要な知的財産。何かを参考にするときは本家を侵害しないような、高度なユーモアセンスを求められるようだ。

「スター・ウォーズ」に高田馬場(東京都新宿区)が!ジェダイ、タコダナほか2015(平成27)年末に10年ぶりに「スター・ウォーズ」シリーズの新作映画『フォースの覚醒』が上映されて話題を呼んだ。初登場から約40年、今なお多くのファンを持つSFシリーズの金字塔ともいうべき作品である。このシリーズの初代監督ジョージ・ルーカスが黒澤明の大ファンであり、「スター・ウォーズ」も日本映画や文化の影響を多大に受けたことは有名な話だ。この作品には黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』がベースにある。ジェダイの騎士が持つ「ライトセーバー」は日本刀がモチーフで、衣装もサムライを思わせる。またダース・ベイダーの姿は、伊達政宗の黒漆五枚胴具足をモチーフにしている。じつは登場人物のネーミングについて、興味深い説が存在する。ジェダイの騎士の「ジェダイ」とは、時代劇の「時代」からとったというのだ。またハリソン・フォード演じる「ハン・ソロ」は、服部半蔵の「半蔵」から、アミダラ女王が「阿弥陀如来」から来ているとか。ほかにも一説によると、ジェダイの騎士である「クワイ=ガン・ジン」は「開眼人」が由来で、「オビ=ワン・ケノービ」は、「帯で一番は黒帯」が由来だといわれているが、監督本人は肯定も否定もしていない。このように日本語由来のネーミングが随所でささやかれている「スター・ウォーズ」シリーズだが、『フォースの覚醒』には、公式に認められた日本の名前が使われている。それは、作中に登場する「タコダナ」という惑星。じつは東京都新宿区の「高田馬場」に由来するのである。『フォースの覚醒』を監督したJ・J・エイブラムスが初めて来日したときに泊まったホテルが高田馬場にあったからだ。監督自身が来日会見でこの秘話を明かし、その初来日の思い出を入れて名づけたと明かしている。高田馬場の「Takadano」から「Takodana」を思いついたらしい。日本と関わりの深いスター・ウォーズシリーズ。ほかにも日本由来のネーミングが隠れているかもしれない!

「ホワイトハウス」「ブラックハウス」「ピンクハウス」白バイ、ホワイトハウス、ピンクハウスネーミングの中には、意外と「見た目の色」そのままに表わしているものが多い。たとえば「白バイ」は、白いオートバイだからという具合だ。ところが、最初から「白バイ」だったわけではない。交通取り締まりのためにバイクを導入したのは1918(大正7)年だったが、そのときはボディーからハンドルまで真っ赤にペイントされた「赤バイ」だったのだ。当時は黒や濃紺などの地味な色の車が多かったため、目立つ色ということで赤を使っていたという。赤バイが白くなったのは、1936(昭和11)年のことである。時代とともに赤い車が増えて目立たなくなってしまったことから、ヨーロッパ諸国の例にならって視認性の高い白色に変えたのである。白バイのほかにも、今は白いが、もともとは白くなかったものがある。アメリカの「ホワイトハウス」もそのひとつだ。見てわかる通り、建物の色が白いためにホワイトハウスと呼ばれているのだが、1800年の完成当時から白いわけではなかった。では、いつから白くなったのだろうか。そのきっかけは米英戦争である。戦争のさなかの1814年、大統領官邸はイギリス軍の攻撃の影響で真っ黒に焼け焦げた。いわば「ブラックハウス」だったわけだ。終戦の翌年に改修されたが、その際、焦げ跡を隠すために白く塗られたという。その後、第26代大統領のセオドア・ルーズベルトが便箋にホワイトハウスという文字を入れたことから、正式にホワイトハウスと呼ばれるようになったのである。現在でもホワイトハウスの一部には、戦争の悲惨さを後世に伝えるために白く塗られていない部分があるといわれる。大統領が住むのはピンクの館!?このホワイトハウスに対抗しているかのように存在しているのが、南米アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスにある「ピンクハウス」だ。夜になってライトアップされると、ピンク色が鮮やかに輝く。ピンクハウスと聞くと、ドールハウスのようにかわいらしい家か、はたまたちょっとHな場所か……などと想像する人もいるかもしれないが、ピンクハウスはホワイトハウスと同じ、れっきとした大統領府である。正式名称を「カサ・ロサーダ(バラ色の家)」といい、建てられて以来、現在まで歴代大統領の行政の場となっている。お堅い場所であるはずの大統領府がなぜ派手なピンク色をしているのか。これは19世紀当時のアルゼンチンの2大政党であった連邦主義派(連邦党)のイメージカラーの赤と中央集権主義派(統一党)のイメージカラーの白を混ぜ合わせたからだ。アルゼンチンでは、赤の党と白の党が対立していたという歴史があり、当時の大統領・ドミンゴ・サルミエントが2派のイメージカラーを融合したピンクを国のまとまりの象徴として選んだのである。われわれ日本人の感覚では少々奇抜と思われる色にも、じつはかなり深い理由があったのである。

「シルバーシート」──もし、布の色が違っていたら……マイルドセブン、ハイライト、シルバーシートほか不健康というイメージからか、昨今は何かと悪者にされがちなタバコだが、そんなさなかの2012(平成24)年にJTの人気銘柄「マイルドセブン」が「メビウス(MEVIUS)」に改称された。1969(昭和44)年に日本初のチャコールフィルター付きタバコとして、北斗七星を由来とする銘柄「セブンスター」が発売された。マイルドセブンは「軽い味のセブンスター」として1977(昭和52)年から販売されていたロングセラーの銘柄である。にもかかわらず、多くの人が30年以上もの間、慣れ親しんだマイルドセブンの名前がなぜ突然変更されたのか。じつは改称の理由は日本国内ではなく、欧州の事情が関わっていた。EUでは「マイルド」という表現を包装に使用したタバコの販売を禁止している。2003年実施のEU法では、「マイルド」のほかにも「低タール」や「ライト」などの表現を禁止対象として明記しており、「マイルドセブン」では販売できなかったのだ。こうして欧州市場へリベンジするためJTはメビウスという銘柄へ切り替えたのである。メビウスは、マイルドセブンのMとSを受け継ぎながら、進化(evolution)を意味するEとVに、自社のIとお客様のU(YOU)を入れた造語。今では国内でもすっかり定着した。タバコといえば、昭和の時代に大流行したのが「ハイライト(hilite)」だ。これはセブンスターよりも前の1960(昭和35)年の発売で、国産初のフィルターつきロングサイズのタバコだった。青と白を基調にしたパッケージのデザインはイラストレーターの和田誠によるもの。ハイライトという名前は、「光の当たる場所」や「もっとも明るい部分」「呼び物」を表わす「Highlight」という英語が由来である。このハイライト人気は、さまざまなところに影響を与えている。たとえば、スポーツ番組などでトピックスを紹介する際に「今週のハイライトは……」などというが、このフレーズはタバコのハイライトがヒットしてから使われるようになった。意外なところでは、東海道新幹線のボディーの色もハイライトのパッケージを参考にして決定したという。新幹線開業50周年を迎えた2014(平成26)年に、車体の色が決まった経緯が旧国鉄の内部資料から判明した。それによると、開業2年前の1962(昭和37)年に配色を決める会議が開かれた際、出席者のひとりが卓上にあったハイライトのパッケージを見て「この色でいくのはどうか」と提案。もともと白地に赤系か青系の色というのが候補だったが、「新幹線の、より新しい、速いというイメージにふさわしい」ということで青と白が選ばれたという。ある日、偶然決まった「シルバーシート」の名前新幹線の色といえば、使われていた布の色が、ある身近なモノの名前の由来となっている。電車やバスなどに設置されている優先席、通称「シルバーシート」だ。シルバーシートが初めて導入されたのは、JR中央線である。婦人子ども専用車の廃止にともない、高齢者向けの新しいサービスとして電車に優先席を設定することを決定。その際に一般席と区別するため、シートに違う色の布地を使おうと考えた。しかし、新たに布を探す時間がなかったため、工場で余っていた布を見つけて使うことに。それは東海道新幹線の普通車座席用に用意されたシルバーグレーの布。その色から、偶然、優先席の名称がシルバーシートに決まったのである。こうしてシルバーシートの登場によって、「シルバーパス」や「シルバー川柳」など、シルバーが高齢者を表わす意味を持つようになった。ちなみに京成バスには、70歳以上の高齢者向けに「ゴールドパス」「ダイヤモンドパス」という定期乗車券を販売している。これらのネーミングが「シルバー」の延長線上にあることは明らかだろう。これらのサービスやモノの名前のきっかけが、新幹線の座席の布だったとは驚きである。偶然の産物だったネーミングが、広まっていくこともあるのだ。

「ファミリーレストラン」は日本産すかいらーく、HOYA「丸亀製麺」は香川県の丸亀市とは何ら関係のない店名だが(参照)、世の中には地名を冠した社名や店名は少なくない。ただ、その中には、一見、地名が由来とは思えないネーミングの会社もある。たとえば、全国でファミリーレストランを運営する外食チェーン「すかいらーく」もそのひとつだろう。「すかいらーく」は1970(昭和45)年に東京・府中市の甲州街道沿いに第1号店を開いたファミリーレストラン・チェーンの草分け的存在だ。現在、その名の店舗はなく、「ガスト」や「バーミヤン」「ジョナサン」として展開されている。「すかいらーく」の名は運営会社の社名として残っている。どこが地名と関係あるのか。英語の「スカイラーク(Skylark)」は、日本語で鳥の「ひばり」を意味する。この会社の前身である乾物屋「ことぶき食品」が、東京の西武池袋線沿線のひばりが丘にあった。その地名から「ひばり」をとって、英語名を社名にしたのである。この地名の由来となったのは、1959(昭和34)年に完成した総戸数2714戸のマンモス団地「ひばりが丘団地」だ。かつてひばりが多い土地柄だったことから、この名前がつけられた。住宅難といわれた当時、この巨大な公団住宅は大いに注目を浴び、団地周辺にはビジネスチャンスを求めて多種多様な店舗が出店した。しかし、いざフタを開けてみるとどこも苦戦を強いられ、次々と撤退していった。そうして空いた場所を安く借りて乾物屋をはじめたのが、のちに「すかいらーく」のオーナーとなる横川四兄弟である。横川四兄弟は、冷蔵庫のない世帯のために食品を小分けして販売。さらに早朝や終電後の需要に対応するため、朝6時から夜23時まで営業した。このスタイルが受けて店は繁盛し、乾物屋はスーパーマーケットへと発展。多摩地区で6店舗を運営するまでに広がった。その後、大手スーパーがひばりが丘に次々に進出。横川四兄弟の「ことぶき食品」は、これまでとは違う業態で生き残ることを迫られた。そして、次の新たな商売として目をつけたのが、当時アメリカで急成長していたロードサイド型レストランだった。こうしてアメリカの郊外型レストランをモデルにした「すかいらーく」は誕生し、日本中にファミリーレストランブームが巻き起こったのである。「ファミリーレストラン」という名称も、当時の社長であった茅野(旧姓・横川)亮がつけた名前である。地名そのままの世界的光学ガラスメーカーひばりが丘団地の最寄り駅であるひばりヶ丘駅から、西武池袋線に乗って東へ一駅のところに保谷駅がある。駅の北側には下保谷という地名がある。ここの地名も、ある会社の名前になっている。カメラや眼鏡のレンズや、クリスタル食器のトップメーカー「HOYA(ホーヤ)」だ。HOYAは、1941(昭和16)年に山中正一、茂の兄弟によって保谷で設立された「東洋光学硝子製造所」が前身。同社は、カメラや望遠鏡用レンズの材料を製造しており、当時は世界に4カ所しかない最先端技術を持った企業だった。戦時中に軍の指定工場として急成長し、戦後は平和産業へと転換して家庭用電気コンロの製造を開始した。このとき、社名を同社創業の地である保谷市(現西東京市)の名前を冠して「保谷陶器製造所」と改称。同社の基礎を築いたといわれる光学ガラスにも「保谷BK72」という名称がつけられている。その後、「保谷硝子」に社名変更した後、1984(昭和59)年に「HOYA」となり現在に至っている。「すかいらーく」と「HOYA」は、それぞれの地名からとられた社名というだけでなく、ともに兄弟で創業し、企業形態を変えながら発展し続けるという共通点もある。西武池袋線で隣同士に並ぶひばりヶ丘駅と保谷駅には、何か不思議なチカラがあるのかも!

厚木にないのにどうして「アツギ」?川崎重工業、アツギ、厚木飛行場ほか地名がネーミングの由来になっている企業は多いが、誰もが知る有名企業で誤解を招きやすい〝トップ2〟がある。「川崎重工業」は、バイクや鉄道車両、さらに船舶や航空宇宙機器までも製造する総合重機会社。社名についている「川崎」から、京浜工業地帯の中心部である神奈川県川崎市と関わりがあると思うかもしれない。しかし同社は、川崎が創業地でもなければ、川崎に本社が置かれているわけでもない。1878(明治11)年に創業したときの本社は東京築地、のちに移転したのは兵庫県神戸市で、川崎とはまったく関係がないのである。じつはこの「川崎」は、創業者・川崎正蔵の名前から命名したものだ。川崎正蔵は薩摩藩出身の貿易商だった。明治を迎えた後は琉球糖(琉球産の黒糖)を扱う会社に入社。このときの大阪―鹿児島―琉球の往復で、何度も海難事故に巻き込まれ、そのたびに丈夫な西洋船のおかげで九死に一生を得た。これらの経験から川崎は、丈夫な船を造ることに執念を燃やすようになり、東京築地に川崎築地造船所を設立。造船業をはじめたのである。厚木にないのに、たくさんの「アツギ」この川崎重工業のように、実際の地名とは関係のない有名企業がほかにもある。ストッキングやインナーの製造で知られる「アツギ」だ。「アツギ」という名前から、神奈川県の「厚木」にある企業と思うだろう。しかし、なんと同社の所在地は厚木市ではなく、その隣の神奈川県海老名市なのである。厚木といえば第二次世界大戦後、GHQ総司令官マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、日本への第一歩を踏んだことで一躍その地名が世界に広まった場所である。アツギストッキングの前身「厚木編織」は1947(昭和22)年の設立。所在地は海老名市だったが、創業者の堀禄助は当時有名になった「厚木飛行場」のように世界に知られるように、という思いを込めて命名したのだ。面白いことに厚木を一躍有名にした厚木飛行場でさえも、綾瀬市と大和市にまたがるだけで厚木市には存在していない。戦前に軍事施設を建設する際、古くから宿場町としてその周辺で最も栄えていた近隣の厚木町の名を用いたといわれる。または軍事基地なので軍事上の理由からわざとあざむいて名づけたという説もあれば、大和基地にすると戦艦大和などと混同しやすいため避けられたともいわれ、飛行場の名称の由来ははっきりしていない。「厚木」とうたいながら厚木市にないのは、飛行場だけではない。鉄道でも小田急線の本厚木駅は厚木市内にあるが、相模川をはさんで反対側の厚木駅は海老名市にあるのだ。これは、1926(大正15)年に神中鉄道(現・相鉄線)がこの地へ駅を設ける際、将来的に横浜と相模川西岸の厚木を結ぶことを想定していたため、厚木への玄関口という意味で「厚木駅」と名づけたのだ。このように厚木という地は古くからにぎわい、あまりにも有名だったためか、その名称が一人歩きをするというなんとも不思議な場所である。

日本酒の銘柄に「正宗」が多いのは、なぜ?菊正宗、スキー正宗ほか飲兵衛のみならず、一般的にも広く知られている日本酒の銘柄「菊正宗」。生産元の菊正宗酒造は、1659(万治2)年に神戸の灘で創業された古くからの蔵元。「菊正宗」という名の酒を発売したのは1886(明治19)年のことである。当主の嘉納秋香が、庭に咲いた白菊を見て、「菊が霜雪をしのぎながら香りよく咲いているように、意気高くなるように」と願い「菊」をつけた。それでは「菊」の下につく「正宗」の由来は何だろうか。探してみれば、日本全国に似たような「○○正宗」という銘の日本酒がたくさんあることに気がつくだろう。「櫻正宗」や「鳩正宗」、「キンシ正宗」など正宗がついた銘柄がたくさんある。「○○正宗」が多いのは、江戸時代に灘の蔵元の山邑太左衛門が、「正宗」という名の酒を売り出したことがきっかけだ。山邑家も、1717(享保2)年創業の老舗である。その6代目太左衛門の時代、灘の酒の銘柄は、「助六」や「薪水」など、芝居からとったものが多く、太左衛門はこれを女性的だと感じ、より男性的なふさわしい名がないものかと考えていた。そしてある日、親交があった京都の元政庵瑞光寺の住職のもとを訪れたところ、たまたま机の上に開かれていた経典に書かれていた「臨済正宗」という文字が目にとまった。太左衛門は、その「正宗」の読みのセイシュウが、「清酒」に通じることから、1840(天保11)年に「正宗」を樽印とした酒を売り出したのである。この酒は大好評を博した。太左衛門はセイシュウと読ませるつもりで命名したが、人々はこれをマサムネと呼んだ。そして多くの蔵元が、正宗人気にあやかりたいと、「正宗」を売り出し、たくさんの「正宗」が市場にあふれることとなったのである。本家本元の「正宗」さえ商標登録ができずところが、あまりにも「正宗」と名乗る酒が増えすぎた。1884(明治17)年、明治政府によって商標条例が施行された際、「正宗」という銘柄での出願が全国から殺到したため、「正宗」は普通名詞とみなされて商標と認められなかったのである。そのため、正宗ブームの火つけ役となった、本家本元といえる山邑家の「正宗」でさえも商標登録が許されなかった。困り果てた山邑家では、国花である「櫻」をつけて登録した。これが現在の櫻正宗である。冒頭の菊正宗も、このとき「正宗」で申請したものの許可が下りなかったため、菊をつけて再び申請し、受理されたという経緯がある。このようにして生まれたたくさんの「○○正宗」の中で、異彩を放っているのが、新潟県上越市にある武蔵野酒造の「スキー正宗」である。名前だけ聞くと、最近の若者のニーズに合わせて売り出した季節限定商品のように思えるが、じつはそうではない。昭和の初期から約80年にわたって続く、伝統ある銘柄である。上越市は、1911(明治44)年にオーストリアの軍人レルヒ少佐によってスキーが伝わった、日本のスキー発祥の地である。昭和初期のこの地では、地元振興のためにと、スキーの名を冠した商品をつくることが奨励された。そこで武蔵野酒造では、「スキー正宗」という名前で日本酒を売り出し、現在に至っているというわけだ。

ラーメン店に「○○家」や「○○軒」が目立つのは家系、○○軒、天津飯日本全国には約3万軒以上のラーメン店があるといわれ、東京都内の新宿や池袋、高田馬場などは特に激戦区といわれている。街中のラーメン店を思い浮かべてほしい。○○家という屋号が多いことに気づかないだろうか。店名に「家(や)」がつくことから、「家系」と称されるこれらの店は、1974(昭和49)年に横浜の新杉田で創業した「吉村家」がルーツだ。この吉村家からのれん分けを許されて「杉田家」「末廣家」「厚木家」など、「家」を店名に冠したラーメン店が誕生した。さらに吉村家の直系ではないが、「六角家」「介一家」「横濱家」など、家系の派生は全国的な広がりを見せている。家系ラーメン店の台頭は比較的最近の話だが、ラーメン店や中華料理店の名前でもっと古くからあるのが「大勝軒」や「ホープ軒」などの「○○軒」という屋号だ。店名の「軒」は、1910(明治43)年に日本有数の繁華街だった浅草で開業した「来々軒」が元祖だ。創業者の尾崎貫一は、横浜中華街にいた中国人の料理人をスカウトし、ラーメンやシュウマイなどを庶民的な価格で提供。すると人々が殺到し、ラーメンが1日3000杯を超えるほどの人気となった。そして来々軒の盛況ぶりにあやかり、次々と誕生したラーメン店の多くが「○○軒」と名づけたのである。中には野球人気にあやかったホームラン軒という店もあったが、この店は現在、東京千駄ヶ谷にある「ホープ軒」の前身である。この来々軒がもたらしたのは、屋号だけではない。中華料理の「天津飯」もじつは来々軒発祥だ。これは中国・天津の郷土料理ではなく、広東料理の小エビ卵あんかけに似せた料理。戦後の食糧難の時代、庶民がおいしく食べられるよう、来々軒の料理人が天津の米を使って考案したために、天津飯と呼ばれるようになった。○○軒や天津飯のルーツとなった来々軒は1994(平成6)年に閉店。しかし現在は、千葉市稲毛区に来々軒で修業を積んだ人の「進来軒」があり、伝統の味を継承している。

「亀無」が「亀有」に変えられたある事情亀の子束子、亀有、カレッタ汐留ネーミングの世界で今も昔も人気の動物がいる。「鶴は千年、亀は万年」と長寿の喩えにされる亀だ(実際の寿命は、さすがに1万年というわけにはいかず、100~200年といわれる)。束子で有名な「亀の子束子」もそのひとつ。そもそも束子は、この亀の子束子をつくっている西尾商店の創業者・西尾正左衛門が1907(明治40)年に発明したものである。この発明は西尾のあるひらめきからはじまった。もともと西尾商店は、椰子の実からつくった靴ふきマットの製造販売を行なっていた。ところが何度も踏んでいるうちにマットの毛が足でつぶれるという欠点が指摘され、売行きが減少し、返品の山となっていた。そんな西尾はある日、妻がそのマットの棒状の切れ端を丸めて洗浄用具として使っているのを見かけ、新しい洗浄用具をつくることを思いつく。そのひらめきが亀の子束子の誕生のきっかけとなった。毛を束ねた2本の針金を巻いて丸め、棒状のたわしとブラシの中間の性質を持った束子を考え出したのである。ではこれをなぜ「亀の子束子」と名づけたのだろうか。まずはなんといってもその形。亀に似ていたことがあげられる。次に洗うための道具なので水に縁があることを、亀は万年で縁起がよいことから、西尾自らが「亀の子束子」と命名した。そして漢学者に相談して「たわし」に「束子」の文字を当てはめてもらったという。1908(明治41)年に実用新案特許をして「亀の子束子」と「亀のマーク」の商標権を登録。長寿の亀にあやかるかのように、今なお生活に根づくロングセラーとなっている。亀にちなんだネーミングといえば、この地名を外すわけにはいかない。人気漫画〝こち亀〟(正式には『こちら葛飾区亀有公園前派出所』)で知られる東京都葛飾区の「亀有」だ。じつは亀有と呼ばれている場所は、室町・戦国時代までは「亀梨」「亀無」と書き、カメナシと呼ばれていた。土地が亀の甲羅のように盛り上がっており、その形状から、亀の甲羅のような形を成す土地、という意味でカメナシと呼ばれていたのである。そのカメナシがカメアリと呼ばれるようになったのは江戸時代。縁起ものの亀のあとに「無」がくるようでは縁起が悪いという声があがった。そして1644(正保元)年、「無」の反対を意味する「有」へ正式に変更されたのだ。「カレッタ汐留」はウミガメが由来亀由来のネーミングは、意外なところでもお目にかかることができる。それは東京・新橋駅近くの電通本社ビル内にある「カレッタ汐留」だ。スローライフをコンセプトに大人たちの多彩なニーズを満たす多数の飲食店が集まった都市型複合施設で、週末になると4万人の人出でにぎわうという人気のスポットでもある。カレッタという変わった名前は、幸運を呼ぶ動物とされるアカウミガメの学名「カレッタカレッタ」からとられたもの。スローライフをコンセプトとする施設であることに合わせ、亀をシンボライズしたのである。その「カレッタ汐留」のシンボルとして親しまれているのが、地下2階のカレッタプラザにある『亀の噴水』というアート作品。中国人アーティスト蔡國強が製作した体感アートであり、ときおり亀の甲羅から水蒸気が出る仕掛けが施してある。癒しの空間を演出し、訪れる人々から人気を集めている。商品名や地名、施設名にしても、長生きをする亀の縁起のよさにあやかりたいものである。

なるほど、これが当時の「最先端」文化放送、文化シヤッター、デンキブランほか社名や商品名の中には、時代のブームとなった〝キーワード〟を取り入れたものも少なくない。今なら「スマート」だろうか。「スマートフォン」「スマートハウス」「スマートグリッド(次世代送電網)」など、よく耳にする言葉だ。これら「スマート」と同じように、戦前から戦後にかけて流行したのが、「文化」というキーワードである。そのひとつが今も続くラジオ局の「文化放送」だ。1952(昭和27)年に開局した当時、文化という言葉が流行っていたため、名づけられたものである。「文化」という言葉は、1920年代頃から知識人のあいだで使われはじめ、「文化住宅」「文化鍋」「文化村」など、オシャレでハイカラな、あるいは時代の最先端を表わすものとしてあるゆる場面で多用された。肉・野菜など幅広い食材に対応する包丁を「文化包丁」と称し、また大衆雑誌などでも「文化生活」というキャッチフレーズをトレンドとして喧伝するなど、文化というキーワードをつけるだけで、新しい時代の到来を予感させたのである。こうしてトレンドとなった「文化」という言葉をほかの会社が放っておくはずがない。文化放送以外にも社名に冠する会社は少なくなかった。1955(昭和30)年に創業した「文化シヤッター」もそのひとつ。防火、防犯、防風の機能を持つ店舗向けシャッターは当時まだ珍しく、時代の最先端をいくものだったため、それに合わせて「文化」という言葉をつけ「日本文化シヤッター株式会社」と命名されたのである。シャッターと「文化」とは関わりのないように思われるが、時代の最先端というイメージが両者をつないだというわけだ。さらにそれ以前にも、時代の最先端を表わすため「文化」と同じような使われ方をした言葉がある。それは意外にも「電気」である。「電気」のようにしびれる味!?明治時代、ランプからようやく電灯に切り替わった頃の電気がまだ珍しい時代。電気という、生活そのものを根底からくつがえす科学技術の登場に多くの人々が驚いたのは想像に難くない。さっそく目新しいものには「電気」の言葉を冠するのがブームとなった。そのひとつにまったく「電気」とは関係のない「デンキブラン」がある。呑み助ならご存じだろう、これは酒類の商品名である。デンキブランは1882(明治15)年に、東京・浅草の神谷バーの創業者・神谷傳兵衛が売り出して以来、今に続くロングセラー商品だ。ベースのブランデーにジン、ワイン、リキュール、薬草などがブレンドされ、ほんのりした甘味と芳醇な香りが特徴のお酒である。発売当初は、アルコール度数が45度(現在は30度と40度)もあった強いお酒で、口にすると体にビリビリとしびれる感覚のある刺激的な味わいが特徴だったという。神谷は、この商品を売り出すにあたって、当時まだ珍しい輸入ブランデーの先進さと、しびれるような刺激的な味わいをうまく表現できるネーミングを考えていた。そこで思いついたのが、ハイカラで同時にビリビリしびれるようなイメージのある「電気」という言葉だったわけだ。そこで、「電気ブランデー」と命名されたのである。やがて昭和初期にはブランデーを縮めて「電気ブラン」と呼ばれるようになり、現在では「デンキブラン」とすべてカタカナの商品名になっている。まさに時代の最先端としびれるような感覚という、両者をうまく表わしたネーミングだったといえる。

発見した星には好きな名前をつけていいスターウォーズに登場する「タコダナ」という惑星(参照)は映画の中だけの存在だが、「タコヤキ」という惑星が実際に存在する。北海道のアマチュア天文家の箭内政之と渡辺和郎が1991(平成3)年に発見した小惑星だ。2人はこの星の命名に際し、子どもたちに宇宙への興味を持ってもらいたいと名前を公募。2001(平成13)年に大阪で開かれた「宇宙ふれあい塾2001」の会場で、事前に公募した候補名から子どもたちによって選ばれたのが「タコヤキ」だったのである。この名前は「TAKOYAKI」として2002(平成14)年に国際天文学連合に正式に承認されている。「TAKOYAKI」は地球から約4億キロメートル、おうし座で18等星として今も宇宙で輝いている。(了)

◎参考文献『鉄道「歴史・地理」なるほど探検ガイド』川島令三、『最新のネーミング強化書』髙橋誠(以上、PHP研究所)/『あのネーミングはすごかった!』安田輝男(中経出版)/『あんまりな名前』藤井青銅(扶桑社)/『サランラップのサランって何?誰かに話したくてしかたなくなる〝あの名前〟の意外な由来』金澤信幸、『ヒット商品ネーミングの秘密』秋場良宣・竹間忠夫、『創業家物語』有森隆、『誰かに教えたくなる「社名」の由来Part‐1、2』本間之英(以上、講談社)/『ゼロから始める日本酒入門』野﨑洋光監修・君島哲至著、『図ですぐわかる!日本100大企業の系譜1、2』菊地浩之(以上、KADOKAWA)/『古地図で歩く江戸と東京の坂』山野勝、『思わず話したくなる社名&商品名の謎』田中ひろみ(以上、日本文芸社)/『誰かに話したくなる社名の話』ストックボイス編、岩本秀雄監修(実業之日本社)/『有名企業社名とマークの秘密』本間之英、『歴史群像シリーズ75熱き信念と決断の軌跡実録創業者列伝』、『歴史群像シリーズ77夢と涙と挑戦のドラマ実録創業者列伝Ⅱ』(以上、学習研究社)/『名前の秘密』ネーミング研究会(新潮社)/『タマケン。知のミュージアム多摩・武蔵野検定公式テキスト』社団法人学術・文化・産業ネットワーク多摩(ダイヤモンド社)/『トラベルMOOK東急電鉄の世界』(交通新聞社)/『ネーミング大全』木村和久監修(実務教育出版)/『屋号・商標100選CIのルーツをさぐる』島武史(日本工業新聞社)/『丸善百年史』(丸善株式会社)/『社名・商品名検定キミの名は』朝日新聞be編集グループ(朝日新聞社)/『秀作ネーミング事典』日本実業出版社編(日本実業出版社)/『東京・江戸地名の由来を歩く』谷川彰英(ベストセラーズ)/『日本を再興した起業家物語』加来耕三(日本経済新聞出版社)/『日本史100人ファイル近代日本の創業者100人』(世界文化社)/『売れた!国産30選実録ヒット商品誕生の裏側(現代編)』ヒット商品研究所編著(ナナ・コーポレート・コミュニケーション)/『平成22年度秋季特別展学園都市開発と幻の鉄道』くにたち郷土文化館編(財団法人くにたち・文化スポーツ振興財団)/『練馬・光が丘・大泉わがまち発見3』やまびこ社編(リブロポート)【ウェブサイト】AllAbout/CarMe/FMK/GIGAZINE/HARBORBUSINESSOnline/IImedia/gooニュース/Kmonos/livedoor/Mery.jp/NEWSポストセブン/NHK/Omps/SBSラジオ/Spotlight/TBS/THEPAGE/外食・biz/はまれぽ/リクルート/現代ビジネス/四国新聞/週刊プレイボーイ/中央日報/中京TV/朝日新聞/読売新聞/女性自身/東洋経済/神戸新聞/毎日新聞/日刊SPA!/日刊ゲンダイ/日本経済新聞/日本食糧新聞/文化放送ほか各社ホームページを参考にさせていただきました本書は、本文庫のために書き下ろされたものです。

博学面白俱楽部(はくがくおもしろくらぶ)日常の事象から、歴史上の出来事や文化論、ニュースまで、幅広い観点で研究、執筆するグループ。最新の話題も、通がうなるニッチな情報にも、多角的な視点からメスを入れる分析には定評がある。著書に『世界の名画仕掛けられたメッセージ』『眠れないほど面白い「道路」の不思議』『眠れないほど面白いインバウンド24時』(以上、三笠書房《王様文庫》)がある。今回は、商品名、ブランド名、会社名、芸名など、誰もが知る名称の「名づけ方」の奥深さ・面白さについて、斬新な切り口で展開する。

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