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第1章 交渉を失敗させる三つの誤解・交渉を成功させる三つの原則

まえがき最近では、交渉やコミュニケーションに関心が集まっています。

交渉学では、交渉を『対話』としてとらえています。

対話は、お互いの立場の違い、価値観や文化の相違、そして利害の違いを前提にした上で、何らかの解決策を作り出す議論の技法です。

最初から、相手の意見に迎合してしまうのは、対話ではありません。

また、相手を説き伏せて、自分の思い通りにする、あるいは、自分がひたすらしゃべり続けて、相手に話す機会を与えない、といった「パワープレー」の交渉戦術も、対話を目指す交渉ではありません。

交渉は、お互いが親しくなるため、微妙な話題に触れず、楽しい雰囲気を持続させるようなコミュニケーションではありません。

交渉では、お互いの意見の違いや利害の相違、そして立場の違いを乗り越えて、何らかの合意を形成しなければなりませんので、会話だけでは合意できないのです。

ただし、交渉でも、最初の挨拶や、本題に入る前の雑談では、会話の要素が重要となります。

交渉相手と食事をして、会話を促進すると、交渉場面での対立を和らげる効果があることも、日本では、「接待の効用」などとしてよく知られていることです。

国際交渉でも、交渉相手との会食は、双方の対立を和らげる効果があるので、積極的に活用することもあります。

しかし、会話だけで交渉はできないのです。

どれほど会話を続けていても、いずれは、お互いの主張や要求が交わされます。

その段階でもまだ、意見の対立を避けようとすれば、問題をはぐらかして結論を先送りしようとしているのではないか、と誤解されてしまいます。

どこかで必ず立場や利害の対立に直面しなければならないからこそ、相手との意見や立場の相違を前提にした対話の技法を身につけることが重要なのです。

この対話の技術を身につけていないと、たとえば、「その場の雰囲気を壊したくない」という理由から安易に譲歩する危険を冒すことになります。

また、対話に慣れていないと、意見の対立に過剰に反応してしまい、次第に、感情的になってしまうという危険性があります。

交渉相手を好き・嫌いで判断するようになり、交渉が暗礁に乗り上げるだけでなく、お互いの人間関係まで破壊してしまうことにもなるのです。

交渉で必要とされる対話の技法を学ぶこと、それが交渉力をアップさせる秘訣なのです。

交渉学は、米国のハーバード・ロースクールで誕生しました。

もともとは、法律家を養成する法科大学院で生まれた学問です。

アメリカの弁護士の競争は、日本では考えられないほど激しいことで有名です。

アメリカの司法試験は、合格者数の制限を設けていないため、毎年多くの弁護士が誕生します。

彼らの中で熾烈な競争が繰り広げられます。

そのため、法律の知識が豊富だというだけでは、差別化できず、成功できないのです。

その激しい競争を勝ち抜くためには、自分たちの問題解決能力をアップさせるしかありません。

そこで、必要とされるのが、交渉による問題解決能力です。

ハーバード・ロースクールのProgramOnNegotiation(日本では交渉学研究所、といわれることもあります)では、法律家が直面する困難な問題を交渉によって解決するための方法論の研究に始まり、今では、様々な分野における交渉について研究が行われています。

私たちは、この交渉学の方法論について、研究を進めています。

特に、私たちは、研究と実務の接点を得る機会を作り、交渉の実践例をヒアリングしてきました。

それを理論的に分析し、本当に有益な教訓や方法論を導き出す作業を続けてきたのです。

その中で、様々な交渉場面で応用可能な手法を見つけ出していきました。

この作業は現在も続いています。

このような理論と実際の実務との接点を作り出していくことが交渉学研究のおもしろさなのです。

今回、この本でご紹介する内容は、交渉学の一般的な方法論に加えて、社会心理学や様々な隣接領域の研究成果、そして私たちがヒアリングや調査によって分析した実際の交渉事例を取り入れました。

本書を通じて、交渉を通じた問題解決への関心が高まり、交渉学が幅広く受け入れられることによって、現在、日本や世界が抱えている論争や紛争の解決に貢献することができればと思っています。

二〇一四年一月田村次朗隅田浩司

戦略的交渉入門────[目次]まえがき第1章交渉を失敗させる三つの誤解・交渉を成功させる三つの原則1─交渉はストレスである2─発想の転換──交渉に対する三つの誤解3─交渉を成功に導く三つの原則

第1章交渉を失敗させる三つの誤解・交渉を成功させる三つの原則1交渉はストレスである私たちは、交渉することなしに生きていくことはできません。

しかし、人間の悩みやストレスの原因は、対人関係から生まれるとさえいわれています。

多くの人にとって、交渉は、面倒でやっかいなもの、できれば交渉せずに問題が解決できればいいと思っているものなのです。

ましてビジネスでは、交渉の負担はさらに大きくなります。

なぜなら、単に合意するだけでは済まされないからです。

ビジネスの交渉では、自分たちの利益が最大限、合意に反映されているかどうかが問われます。

譲歩するだけなら誰でもできますが、交渉できちんと成果を出すということになると、そのためには、かなりの戦略と工夫が必要となるわけです。

交渉前の不安感は誰もが同じたとえば、「交渉相手には、我々以外に別の取引先の候補がいるのだろうか」「大きな値引きの要求をされたらどうしよう」「いままでの取引関係を解消したいといわれたら、どうやって引き留めようか」など、交渉する前にはいろんなことが頭に浮かびます。

また、「交渉の最中に相手が怒り出したらどうしよう」とか、「交渉が決裂したら社内でなんといわれるだろう」といった不安もつきものです。

事実、交渉しているときよりも、その前のほうが、交渉に対する不安が大きいといわれています。

交渉前には、あまり交渉のことを考えたくない、と思うのも無理もないことです。

集中力は消耗する最近の研究では、交渉のようなコミュニケーションのストレスは、精神論で克服できるほど単純なものではないことがわかってきました。

特に、人間の集中力・忍耐力は、ストレス状態では短時間で消耗してしまい、その結果として、意思決定の質は低下してしまうのです。

そこで、最近の交渉学の研究では、常に神経をとがらせて集中し続けるよりも、重要なところにだけ集中力を振り向けるにはどうしたらよいか、を考えるようになっています。

人間の集中力のマネジメントに関心が向けられているのです(たとえば、ロイ・バウマイスター『意志力の科学』インターシフト、2013年を参照)。

特に交渉は、大きなストレスにさらされますので、集中力は消耗します。

これは、精神論で片付けられるものではありません。

そこで、この限られた集中力を温存する工夫が必要となります。

交渉学では、交渉でいかに消耗せずに大事なところで集中力を発揮するか、そのための手法を生み出そうとしているのです。

ではここで簡単にその基本的な考え方を紹介しましょう。

考えなくてもいいところはどこか第一に、その場で考える負担を減らすことが大切です。

すなわち、交渉前に最低限、必要な事実関係を整理しておくことが重要です。

事前の状況把握のやり方については、第4章の事前準備の方法論で詳しく解説します。

ここで大切なのは、本来調べればわかることを調べず、交渉の中で初めてその情報に触れるという事態を避けるということです。

なぜなら、人間は新しい情報を目にすると、その情報に目がいってしまい、ほかの情報を十分に吟味しなくなる傾向があるからです。

交渉前に知り得るはずの情報を入手しておけば、交渉相手が提示する情報の中で、本当に注目すべき情報か、否か判断することが容易になります。

交渉中に事実関係の整理をしながら、合意内容について考えるというのは、負担の大きな作業です。

人間は、複雑なマルチタスクを行うとミスをしがちです。

事前の簡単な準備で避けることができる負担を避けずに、過度なマルチタスクに追い込まれると、意思決定のクオリティは低下してしまいます。

交渉現場で考える負担を減らし、マルチタスクをできるだけ少なくすることが重要なのです。

迷ったとき、どう決断するか第二に、交渉の最中で迷ったときに、何をよりどころに決断するか、その決断を支える判断基準が大切です。

これを私たちは、ミッションと呼んでいます。

部品の調達交渉、海外進出のための事業提携交渉、そして特許のライセンス交渉など、交渉には様々な類型がありますが、すべての交渉には、その交渉を通じて何かを実現しなければならないという使命(ミッション)があるはずです。

「なんのためにその交渉をするのか」「合意した結果、何を得ることができるのか」という問題に対する自分なりの答えを用意して交渉に臨みましょう。

しかし、一般には、このミッションを十分に考えず、「通常の業務だから交渉しているだけ」とか「とにかく売り込むことができればそれでOKなのだ」と簡単に考えている人が意外と多いのです。

ミッションを真剣に考えることができないのであれば、交渉の主導権は相手のものです。

交渉中、相手の条件提示に振り回され、最終的には、たいした利益も得られず、納得感も薄いものの、「合意できたからそれでよいか」などと自己満足して終わるという寂しい結果が待っています。

このような結果を避けるためには、ミッションを中心に交渉をコントロールすることが重要なのです。

交渉相手の『揺さぶり』にあわてない第三に、交渉相手は、あなたの期待通りに行動してはくれません。

この当たり前の事実を認識しましょう。

交渉学では、交渉相手の理不尽な要求への切り返し方、不愉快な態度への対応、さらには、交渉戦術や脅しのテクニックへの対処法についても学んでいきます。

このような交渉戦術、心理的な揺さぶりには、一定のパターンがあります。

このパターンを事前に知っておくと、交渉中に冷静な対応が可能になるのです。

このような予備知識がないと、相手の態度や言動に振り回され、その都度、感情的になったり、ムキになって反論しようとしてしまい、自分の集中力を消耗してしまうのです。

最後には、疲れ果てて、どうでもよくなってしまい、安易な譲歩に応じたり、交渉相手を許すことができず、交渉を決裂させて終わりにする、という結果につながります。

2発想の転換──交渉に対する三つの誤解誤解その1──交渉は勝ち負けという誤解交渉が終わった後、「今日の交渉は勝ったかな」とか、「今日は相手にやられてしまったかな(負けてしまった)」と思ったことはありませんか。

このような感想を持ってしまうのは、交渉をゼロサムゲーム(参加者全員の利得を足し合わせるとゼロになる、つまり誰かが得をするとその分誰かが損をするゲーム)、だと思い込んでいるからなのです。

確かに、交渉は一種の知的なゲームです。

しかし、すべての交渉がゼロサムゲームというわけではありません。

交渉は、そう簡単に白黒つけられるようなものではありません。

たとえば、サッカーや野球といったスポーツであれば、勝ち負けは簡単に決めることができます。

点数をより多くとった方が勝ち、という明確な基準があるからです。

しかしビジネス交渉に、そのような明確な勝敗の基準はありません。

厳しい言い方をすると、交渉を、勝った、負けたと評価しようとするのは、言い換えれば、「勝ったつもり」になりたいと思っているだけか、交渉結果に自信がないので「負けたかもしれない」と不安を感じているにすぎないのです。

賢明な合意とは交渉学では、交渉結果については、最終的に「賢明な合意」ができているか否か、という基準で判断します。

賢明な合意とは、「当事者双方の正当な要望を可能な限り満足させ、対立する利害を公平に調整し、時間がたっても効力を失わず、また社会全体の利益を考慮に入れた解決」(ロジャー・フィッシャー他著『新版ハーバード流交渉術』阪急コミュニケーションズ、1998年、6頁)を意味します。

自分の利益が最大限、反映されていることが賢明な合意の第一条件です。

交渉をゼロサムゲームだと思い込んでいる人は、「自分の利益の最大化」イコール「相手の利益を奪い取ること」であると考えてしまいます。

しかし交渉では、まず自分の利益は主張しつつも、相手に対しても何らかのメリットを提示することが可能です。

交渉の基本原則はギブ&テイク、すなわち、応報(reciprocity)の原則が支配します。

贈り物にはお返しする、というのは人間の文化の本質でもあるのです。

したがって、交渉において賢明な合意を目指すのであれば、相手の利益に資する提案を我々が与えない限り(ギブ)、相手から利益を引き出す(テイク)ことができないと考えるべきなのです。

自分の利益を最大化したい、しかし交渉相手も同じことを考えている、したがって、お互いが納得するためには、相手にもメリットがなければ合意はできない、と考えるのです。

交渉を勝った、負けたと評価するのは、ほとんど意味がないのです。

それよりも、自分の利益を最大化できたか否か、そしてこの交渉で相手の利益はどこまで反映されているか、それによって、合意は持続可能なものになっているのか、に焦点を合わせることが、交渉の成功確率を引き上げるのです。

「落としどころ」さがしのリスク「落としどころ」という言葉が、交渉ではよく出てきます。

「今日の交渉の落としどころは何か」を考えて交渉しなさい、というアドバイスもあります。

しかし、この「落としどころ」という普段使い慣れている言葉にも注意が必要です。

この言葉を何気なく使っているときに、本当は何を考えているのかを分析してみると、意外な落とし穴があります。

たとえば、「落としどころ」という言葉を聞くと、自分の目標を落とす、すなわち譲歩することをイメージしがちです。

最初から、落としどころを探してもいいと思ってしまった段階で「今日は、譲歩してもかまわない」、あるいは「交渉では、譲歩以外に選択肢がない」と思い込んでしまう危険性があるのです。

「落としどころ」という言葉を使う人の中に時折見られる傾向なのですが、たとえば、「この取引先の部長は、ちょっと値引きすると喜んでくれるので、値引きするしかない、これ以外に方法はない」と考えてしまいがちです。

しかし、交渉のプロセスや合意結果に唯一の正解はないのです。

「落としどころ」として、値引きして譲歩する以外に道はないと考えることで、自分で、合意の幅を狭くしてしまっているのです。

「落としどころ」という言葉それ自体が持つ、落としていく、すなわち譲歩していくというイメージを我々はメタファーと呼ぶことがあります。

交渉では、本来考慮してはいけないメタファーに引きずられて意思決定をしてしまうと自分に不利な状況を作り出してしまうのです。

ちなみに、「落としどころ」という言葉を使い慣れてしまうと、合意だけはすぐにできるものの、今ひとつ結果が出ない、という状況に陥ります。

うまく合意したと思っていても、後になって、「全然、利益が生み出せない」という結果に陥ってしまいます。

売り上げはあるのに利益が出ない、といった状況です。

これを避けるために、交渉学では、ミッションを重視した交渉を行うだけでなく、合意することを最優先に考え、譲歩してでも話をまとめることを評価してしまうという「合意のバイアス」から脱却することを推奨します。

特に、後述する二分法のわなに注意することが重要となるのです。

誤解その2──準備は無駄、という誤解交渉学では、交渉前に準備することが成功への近道であると説明します。

準備で八割方成功するとも言うので、準備することが交渉学の唯一の教えだ、と思われるくらいです。

しかし、実際に日本の多くの交渉者は、ほとんど準備をしないで交渉に行く傾向があります。

また交渉を依頼する際にも、その内容がきわめて曖昧であるという問題も多く見受けられます。

確かに、細かいことまで部下に指示をすると、交渉中に臨機応変に対応することができなくなるという不安もあるので、すべて細かく指示をするのも得策ではありません。

しかし、部下に交渉を依頼する際には、適切な指示を与える必要があります。

そこで、正確な事前準備が必要となるのです。

準備の方法論がわかっていないと、その指示が曖昧になってしまいます。

このようなとき、もし、「とりあえず」という言葉が出てきたときは要注意です。

「とりあえず」はメニューのオーダーぐらいにしておきましょう。

たとえば、「金額については、とりあえず先方の意見を聞いてから判断する」とか、「とりあえず、相手の腹を探ってきてほしい」といった曖昧な指示は、一見まともな交渉の指示のように見えて、実はかなり問題があります。

部下に交渉を依頼する際には、第4章で詳しく説明する事前準備の方法論が示す5つの要素、①状況把握の共有化、②ミッションの共有、③強みの把握と④ターゲティング、そして、⑤BATNA(後述しますが、合意が成立しなかった場合の代替案のこと)を共有する必要があるのです。

現場での柔軟性を高めるためにこそ、準備が必要となるのです。

誤解その3──Win-Win交渉を目指すのが交渉学だ、という誤解交渉学の研究者の中で、故ロジャー・フィッシャー氏の名前を知らない人はいません。

彼はハーバード・ロースクールの教授であり、交渉学という分野を開拓し、普及させたいわば交渉学の創始者です。

このフィッシャー氏の有名な本GettingtoYes(RogerFisher,WilliamL.Ury,BrucePatton,GettingtoYes:NegotiatingAgreementWithoutGivingIn,PenguinBooks;Revised(2011)、邦訳では、ロジャー・フィッシャー、ウィリアム・ユーリー『ハーバード流交渉術必ず「望む結果」を引き出せる!』三笠書房、2011年)は、いまでもベストセラーに名を連ねています。

机上の空論かしかし、このフィッシャー氏の交渉学のスタイルには批判もあります。

その批判の中で最も多いものが、「交渉学は机上の空論である」「Win-Win、つまり相手にとっても自分にとっても得な合意などあり得ない」という批判です。

この批判は、必ずしも妥当ではありません。

それは、Win-Winという言葉のとらえかたに問題があるからなのです。

確かに、様々な実際の交渉例を分析していくと、双方が100%満足できているような交渉結果を目にすることはほとんどありません。

大半の合意は妥協や譲歩の産物と言ってもいいものばかりですし、お互いの不満が完全に解消されているわけでもないのです。

しかし、フィッシャー氏の提唱する、「賢明な合意」(WiseAgreement)に近づこうとする努力、すなわち、お互い100%満足するWin-Winな合意ではなく、お互いの正当な要望をできる限り反映させようとする努力をしている交渉と、単に駆け引きで終わっている交渉の差の大きさだけははっきりとしています。

交渉学が提唱しているのは、短絡的な駆け引きや譲歩に陥ることなく、お互いがより満足できる合意の可能性を探すために必要な方法論なのです。

いつも笑顔を浮かべながら、お互いのことを尊重し、そしてすばらしい合意のための建設的な提案が次々登場して、最後は、理想的な合意に達するといった夢物語を語っているわけではありません。

「Win-Win交渉などあり得ない」という批判それ自体が、ある種のレトリックに陥っているともいえます。

相手の意見を意図的に拡大解釈したり、言葉の一部をとって、それをその意見のすべてであるかのように批判するという議論の仕方を、「わら人形」(Strawman)のレトリックといいます。

このようなレトリックに陥って、交渉学の方法論を使わないのは、非常にもったいないことだと思います。

交渉学が提唱する方法論は、合意の質をできるだけ引き上げるという考え方です。

Win-Winかどうかといった曖昧な言葉でごまかすのではなく、自分たちの利益がどの程度反映できたかどうか、それを具体的に評価すべきなのです。

賢明な合意とは交渉学では、交渉結果については、最終的に「賢明な合意」ができているか否か、という基準で判断します。

賢明な合意とは、「当事者双方の正当な要望を可能な限り満足させ、対立する利害を公平に調整し、時間がたっても効力を失わず、また社会全体の利益を考慮に入れた解決」(ロジャー・フィッシャー他著『新版ハーバード流交渉術』阪急コミュニケーションズ、1998年、6頁)を意味します。

自分の利益が最大限、反映されていることが賢明な合意の第一条件です。

交渉をゼロサムゲームだと思い込んでいる人は、「自分の利益の最大化」イコール「相手の利益を奪い取ること」であると考えてしまいます。

しかし交渉では、まず自分の利益は主張しつつも、相手に対しても何らかのメリットを提示することが可能です。

交渉の基本原則はギブ&テイク、すなわち、応報(reciprocity)の原則が支配します。

贈り物にはお返しする、というのは人間の文化の本質でもあるのです。

したがって、交渉において賢明な合意を目指すのであれば、相手の利益に資する提案を我々が与えない限り(ギブ)、相手から利益を引き出す(テイク)ことができないと考えるべきなのです。

自分の利益を最大化したい、しかし交渉相手も同じことを考えている、したがって、お互いが納得するためには、相手にもメリットがなければ合意はできない、と考えるのです。

交渉を勝った、負けたと評価するのは、ほとんど意味がないのです。

それよりも、自分の利益を最大化できたか否か、そしてこの交渉で相手の利益はどこまで反映されているか、それによって、合意は持続可能なものになっているのか、に焦点を合わせることが、交渉の成功確率を引き上げるのです。

「落としどころ」さがしのリスク「落としどころ」という言葉が、交渉ではよく出てきます。

「今日の交渉の落としどころは何か」を考えて交渉しなさい、というアドバイスもあります。

しかし、この「落としどころ」という普段使い慣れている言葉にも注意が必要です。

この言葉を何気なく使っているときに、本当は何を考えているのかを分析してみると、意外な落とし穴があります。

第1章交渉を失敗させる三つの誤解・交渉を成功させる三つの原則1交渉はストレスである私たちは、交渉することなしに生きていくことはできません。

しかし、人間の悩みやストレスの原因は、対人関係から生まれるとさえいわれています。

多くの人にとって、交渉は、面倒でやっかいなもの、できれば交渉せずに問題が解決できればいいと思っているものなのです。

ましてビジネスでは、交渉の負担はさらに大きくなります。

なぜなら、単に合意するだけでは済まされないからです。

ビジネスの交渉では、自分たちの利益が最大限、合意に反映されているかどうかが問われます。

譲歩するだけなら誰でもできますが、交渉できちんと成果を出すということになると、そのためには、かなりの戦略と工夫が必要となるわけです。

交渉前の不安感は誰もが同じたとえば、「交渉相手には、我々以外に別の取引先の候補がいるのだろうか」「大きな値引きの要求をされたらどうしよう」「いままでの取引関係を解消したいといわれたら、どうやって引き留めようか」など、交渉する前にはいろんなことが頭に浮かびます。

また、「交渉の最中に相手が怒り出したらどうしよう」とか、「交渉が決裂したら社内でなんといわれるだろう」といった不安もつきものです。

事実、交渉しているときよりも、その前のほうが、交渉に対する不安が大きいといわれています。

交渉前には、あまり交渉のことを考えたくない、と思うのも無理もないことです。

集中力は消耗する最近の研究では、交渉のようなコミュニケーションのストレスは、精神論で克服できるほど単純なものではないことがわかってきました。

特に、人間の集中力・忍耐力は、ストレス状態では短時間で消耗してしまい、その結果として、意思決定の質は低下してしまうのです。

そこで、最近の交渉学の研究では、常に神経をとがらせて集中し続けるよりも、重要なところにだけ集中力を振り向けるにはどうしたらよいか、を考えるようになっています。

人間の集中力のマネジメントに関心が向けられているのです(たとえば、ロイ・バウマイスター『意志力の科学』インターシフト、2013年を参照)。

特に交渉は、大きなストレスにさらされますので、集中力は消耗します。

これは、精神論で片付けられるものではありません。

そこで、この限られた集中力を温存する工夫が必要となります。

交渉学では、交渉でいかに消耗せずに大事なところで集中力を発揮するか、そのための手法を生み出そうとしているのです。

ではここで簡単にその基本的な考え方を紹介しましょう。

考えなくてもいいところはどこか第一に、その場で考える負担を減らすことが大切です。

すなわち、交渉前に最低限、必要な事実関係を整理しておくことが重要です。

事前の状況把握のやり方については、第4章の事前準備の方法論で詳しく解説します。

ここで大切なのは、本来調べればわかることを調べず、交渉の中で初めてその情報に触れるという事態を避けるということです。

なぜなら、人間は新しい情報を目にすると、その情報に目がいってしまい、ほかの情報を十分に吟味しなくなる傾向があるからです。

交渉前に知り得るはずの情報を入手しておけば、交渉相手が提示する情報の中で、本当に注目すべき情報か、否か判断することが容易になります。

交渉中に事実関係の整理をしながら、合意内容について考えるというのは、負担の大きな作業です。

人間は、複雑なマルチタスクを行うとミスをしがちです。

事前の簡単な準備で避けることができる負担を避けずに、過度なマルチタスクに追い込まれると、意思決定のクオリティは低下してしまいます。

交渉現場で考える負担を減らし、マルチタスクをできるだけ少なくすることが重要なのです。

迷ったとき、どう決断するか第二に、交渉の最中で迷ったときに、何をよりどころに決断するか、その決断を支える判断基準が大切です。

これを私たちは、ミッションと呼んでいます。

部品の調達交渉、海外進出のための事業提携交渉、そして特許のライセンス交渉など、交渉には様々な類型がありますが、すべての交渉には、その交渉を通じて何かを実現しなければならないという使命(ミッション)があるはずです。

「なんのためにその交渉をするのか」「合意した結果、何を得ることができるのか」という問題に対する自分なりの答えを用意して交渉に臨みましょう。

しかし、一般には、このミッションを十分に考えず、「通常の業務だから交渉しているだけ」とか「とにかく売り込むことができればそれでOKなのだ」と簡単に考えている人が意外と多いのです。

ミッションを真剣に考えることができないのであれば、交渉の主導権は相手のものです。

交渉中、相手の条件提示に振り回され、最終的には、たいした利益も得られず、納得感も薄いものの、「合意できたからそれでよいか」などと自己満足して終わるという寂しい結果が待っています。

このような結果を避けるためには、ミッションを中心に交渉をコントロールすることが重要なのです。

交渉相手の『揺さぶり』にあわてない第三に、交渉相手は、あなたの期待通りに行動してはくれません。

この当たり前の事実を認識しましょう。

交渉学では、交渉相手の理不尽な要求への切り返し方、不愉快な態度への対応、さらには、交渉戦術や脅しのテクニックへの対処法についても学んでいきます。

このような交渉戦術、心理的な揺さぶりには、一定のパターンがあります。

このパターンを事前に知っておくと、交渉中に冷静な対応が可能になるのです。

このような予備知識がないと、相手の態度や言動に振り回され、その都度、感情的になったり、ムキになって反論しようとしてしまい、自分の集中力を消耗してしまうのです。

最後には、疲れ果てて、どうでもよくなってしまい、安易な譲歩に応じたり、交渉相手を許すことができず、交渉を決裂させて終わりにする、という結果につながります。

2発想の転換──交渉に対する三つの誤解誤解その1──交渉は勝ち負けという誤解交渉が終わった後、「今日の交渉は勝ったかな」とか、「今日は相手にやられてしまったかな(負けてしまった)」と思ったことはありませんか。

このような感想を持ってしまうのは、交渉をゼロサムゲーム(参加者全員の利得を足し合わせるとゼロになる、つまり誰かが得をするとその分誰かが損をするゲーム)、だと思い込んでいるからなのです。

確かに、交渉は一種の知的なゲームです。

しかし、すべての交渉がゼロサムゲームというわけではありません。

交渉は、そう簡単に白黒つけられるようなものではありません。

たとえば、サッカーや野球といったスポーツであれば、勝ち負けは簡単に決めることができます。

点数をより多くとった方が勝ち、という明確な基準があるからです。

しかしビジネス交渉に、そのような明確な勝敗の基準はありません。

厳しい言い方をすると、交渉を、勝った、負けたと評価しようとするのは、言い換えれば、「勝ったつもり」になりたいと思っているだけか、交渉結果に自信がないので「負けたかもしれない」と不安を感じているにすぎないのです。

賢明な合意とは交渉学では、交渉結果については、最終的に「賢明な合意」ができているか否か、という基準で判断します。

賢明な合意とは、「当事者双方の正当な要望を可能な限り満足させ、対立する利害を公平に調整し、時間がたっても効力を失わず、また社会全体の利益を考慮に入れた解決」(ロジャー・フィッシャー他著『新版ハーバード流交渉術』阪急コミュニケーションズ、1998年、6頁)を意味します。

自分の利益が最大限、反映されていることが賢明な合意の第一条件です。

交渉をゼロサムゲームだと思い込んでいる人は、「自分の利益の最大化」イコール「相手の利益を奪い取ること」であると考えてしまいます。

しかし交渉では、まず自分の利益は主張しつつも、相手に対しても何らかのメリットを提示することが可能です。

交渉の基本原則はギブ&テイク、すなわち、応報(reciprocity)の原則が支配します。

贈り物にはお返しする、というのは人間の文化の本質でもあるのです。

したがって、交渉において賢明な合意を目指すのであれば、相手の利益に資する提案を我々が与えない限り(ギブ)、相手から利益を引き出す(テイク)ことができないと考えるべきなのです。

自分の利益を最大化したい、しかし交渉相手も同じことを考えている、したがって、お互いが納得するためには、相手にもメリットがなければ合意はできない、と考えるのです。

交渉を勝った、負けたと評価するのは、ほとんど意味がないのです。

それよりも、自分の利益を最大化できたか否か、そしてこの交渉で相手の利益はどこまで反映されているか、それによって、合意は持続可能なものになっているのか、に焦点を合わせることが、交渉の成功確率を引き上げるのです。

「落としどころ」さがしのリスク「落としどころ」という言葉が、交渉ではよく出てきます。

「今日の交渉の落としどころは何か」を考えて交渉しなさい、というアドバイスもあります。

しかし、この「落としどころ」という普段使い慣れている言葉にも注意が必要です。

この言葉を何気なく使っているときに、本当は何を考えているのかを分析してみると、意外な落とし穴があります。

たとえば、「落としどころ」という言葉を聞くと、自分の目標を落とす、すなわち譲歩することをイメージしがちです。

最初から、落としどころを探してもいいと思ってしまった段階で「今日は、譲歩してもかまわない」、あるいは「交渉では、譲歩以外に選択肢がない」と思い込んでしまう危険性があるのです。

「落としどころ」という言葉を使う人の中に時折見られる傾向なのですが、たとえば、「この取引先の部長は、ちょっと値引きすると喜んでくれるので、値引きするしかない、これ以外に方法はない」と考えてしまいがちです。

しかし、交渉のプロセスや合意結果に唯一の正解はないのです。

「落としどころ」として、値引きして譲歩する以外に道はないと考えることで、自分で、合意の幅を狭くしてしまっているのです。

「落としどころ」という言葉それ自体が持つ、落としていく、すなわち譲歩していくというイメージを我々はメタファーと呼ぶことがあります。

交渉では、本来考慮してはいけないメタファーに引きずられて意思決定をしてしまうと自分に不利な状況を作り出してしまうのです。

ちなみに、「落としどころ」という言葉を使い慣れてしまうと、合意だけはすぐにできるものの、今ひとつ結果が出ない、という状況に陥ります。

うまく合意したと思っていても、後になって、「全然、利益が生み出せない」という結果に陥ってしまいます。

売り上げはあるのに利益が出ない、といった状況です。

これを避けるために、交渉学では、ミッションを重視した交渉を行うだけでなく、合意することを最優先に考え、譲歩してでも話をまとめることを評価してしまうという「合意のバイアス」から脱却することを推奨します。

特に、後述する二分法のわなに注意することが重要となるのです。

誤解その2──準備は無駄、という誤解交渉学では、交渉前に準備することが成功への近道であると説明します。

準備で八割方成功するとも言うので、準備することが交渉学の唯一の教えだ、と思われるくらいです。

しかし、実際に日本の多くの交渉者は、ほとんど準備をしないで交渉に行く傾向があります。

また交渉を依頼する際にも、その内容がきわめて曖昧であるという問題も多く見受けられます。

確かに、細かいことまで部下に指示をすると、交渉中に臨機応変に対応することができなくなるという不安もあるので、すべて細かく指示をするのも得策ではありません。

しかし、部下に交渉を依頼する際には、適切な指示を与える必要があります。

そこで、正確な事前準備が必要となるのです。

準備の方法論がわかっていないと、その指示が曖昧になってしまいます。

このようなとき、もし、「とりあえず」という言葉が出てきたときは要注意です。

「とりあえず」はメニューのオーダーぐらいにしておきましょう。

たとえば、「金額については、とりあえず先方の意見を聞いてから判断する」とか、「とりあえず、相手の腹を探ってきてほしい」といった曖昧な指示は、一見まともな交渉の指示のように見えて、実はかなり問題があります。

部下に交渉を依頼する際には、第4章で詳しく説明する事前準備の方法論が示す5つの要素、①状況把握の共有化、②ミッションの共有、③強みの把握と④ターゲティング、そして、⑤BATNA(後述しますが、合意が成立しなかった場合の代替案のこと)を共有する必要があるのです。

現場での柔軟性を高めるためにこそ、準備が必要となるのです。

誤解その3──Win-Win交渉を目指すのが交渉学だ、という誤解交渉学の研究者の中で、故ロジャー・フィッシャー氏の名前を知らない人はいません。

彼はハーバード・ロースクールの教授であり、交渉学という分野を開拓し、普及させたいわば交渉学の創始者です。

このフィッシャー氏の有名な本GettingtoYes(RogerFisher,WilliamL.Ury,BrucePatton,GettingtoYes:NegotiatingAgreementWithoutGivingIn,PenguinBooks;Revised(2011)、邦訳では、ロジャー・フィッシャー、ウィリアム・ユーリー『ハーバード流交渉術必ず「望む結果」を引き出せる!』三笠書房、2011年)は、いまでもベストセラーに名を連ねています。

机上の空論かしかし、このフィッシャー氏の交渉学のスタイルには批判もあります。

その批判の中で最も多いものが、「交渉学は机上の空論である」「Win-Win、つまり相手にとっても自分にとっても得な合意などあり得ない」という批判です。

この批判は、必ずしも妥当ではありません。

それは、Win-Winという言葉のとらえかたに問題があるからなのです。

確かに、様々な実際の交渉例を分析していくと、双方が100%満足できているような交渉結果を目にすることはほとんどありません。

大半の合意は妥協や譲歩の産物と言ってもいいものばかりですし、お互いの不満が完全に解消されているわけでもないのです。

しかし、フィッシャー氏の提唱する、「賢明な合意」(WiseAgreement)に近づこうとする努力、すなわち、お互い100%満足するWin-Winな合意ではなく、お互いの正当な要望をできる限り反映させようとする努力をしている交渉と、単に駆け引きで終わっている交渉の差の大きさだけははっきりとしています。

交渉学が提唱しているのは、短絡的な駆け引きや譲歩に陥ることなく、お互いがより満足できる合意の可能性を探すために必要な方法論なのです。

いつも笑顔を浮かべながら、お互いのことを尊重し、そしてすばらしい合意のための建設的な提案が次々登場して、最後は、理想的な合意に達するといった夢物語を語っているわけではありません。

「Win-Win交渉などあり得ない」という批判それ自体が、ある種のレトリックに陥っているともいえます。

相手の意見を意図的に拡大解釈したり、言葉の一部をとって、それをその意見のすべてであるかのように批判するという議論の仕方を、「わら人形」(Strawman)のレトリックといいます。

このようなレトリックに陥って、交渉学の方法論を使わないのは、非常にもったいないことだと思います。

交渉学が提唱する方法論は、合意の質をできるだけ引き上げるという考え方です。

Win-Winかどうかといった曖昧な言葉でごまかすのではなく、自分たちの利益がどの程度反映できたかどうか、それを具体的に評価すべきなのです。

なお、現在の交渉学では、交渉の中で合意しないことも賢明な選択のひとつになることを、かなり強調するようになりました。

また、Win-Winな合意という言葉も誤解を招くのであまり使いません。

自分の利益の最大化そしてもう一つ大事なことは、ビジネスにおける交渉では、なんといっても自分の利益の最大化が最重要課題だ、ということです。

しかし、交渉相手も同じように考えていたらどうなるでしょう。

お互いが立場をぶつけ合って、どちらが強いか、弱いかを競っているだけでは、相手があきらめるまで徹底して戦うか、こちらが譲るかというやりかたしかなく、次第にデッドロックに陥ってしまいます。

もし、それ以外の他の方法を使うことで、お互いの利益を反映した合意が作れるのであれば、それを選択すべきではないか、そして交渉学はそのやり方を提案したい、ということなのです。

もちろん、お互いの利益を反映させる合意であっても、そこにできるだけ自分の利益を反映させていく工夫が必要です。

そのためには多少の駆け引きや、心理戦術も必要となります。

これが交渉学の基本的な考え方なのです。

3交渉を成功に導く三つの原則第一の原則──大事なところは、論理的に提案には突き詰めれば二種類あるビジネス交渉に限らず、あらゆる交渉における提案や条件は、究極的には、相手に何かをしてもらうか(行動要求型)と、相手がしていることをやめてもらうか(中止要求型)に分けることができます。

このような枠組みで考えると、相手が行動するメリットは何か、相手がその行為をやめなければいけないのはなぜか、という理由が常にセットになって交渉に登場することになるわけです。

このとき、その理由は合理的か、ということを見分けることができる思考力が求められます。

論理的思考力、あるいは相手の提案のメリット・デメリットを批判的に見抜く力が求められるわけです。

その合意にメリットはあるのか特に、ビジネスの場合は、その合意からどのような利益が生まれるのか、明確なビジネスモデルが作られていなければなりません。

ある条件に、どのようなメリット、デメリットがあるのか、どのようなリスクがあるのか、ということを曖昧にすることは許されないのです。

もちろん、交渉結果の成否は、未来のことですから、現時点ではわからないことがあり、確実なことははっきり見えてこないものです。

ここでは現時点で、どのような理由でその条件を作ったのか、ということを明確化しておくことが重要です。

その理由がはっきりしていると、状況の変化に対して柔軟に対応することができるようになります。

その場の雰囲気に流されない交渉では、論理よりもその場の雰囲気に流されやすくなる傾向があります。

これを、私たちは、「合理性からの離脱」と呼ぶことがあります。

たとえば、合理性の離脱は、次のような場合に生じやすくなります。

第一に、「決まり文句」によって自動思考に陥るという危険性です。

例を挙げると、「損して得取れ」「今後のよいおつきあい」、そして先ほど取り上げた「落としどころ」といった単語が、交渉相手の提案の中に織り込まれてくると、ついその言葉に反応してしまいます。

このような交渉の決まり文句の困ったところは、たとえば交渉相手に対して、「いま、おっしゃった、『今後のよいおつきあい』とはどういうことですか」と聞くわけにもいかず、その言葉に引きずられてしまうことです。

人間のコミュニケーションは、社会常識や決まり文句によってその大半が支配されています。

そのため、この種の決まり文句が出てくると、深い意味を尋ねることなく、その言葉を前提に曖昧な会話が続いてしまう危険性があるのです。

これ以外にも、のちほど登場するヒューリスティクスのような人間の心理のバイアスや、じっくり考えることよりも近道をして深く考えるのを避けるような思考法も、思考停止による条件反射的な対応を生み出しやすくなるので注意が必要です。

詭弁に要注意第二に、的外れな不規則発言です。

たとえば、知的財産権のトラブルの現場で、当事者が細かい技術の内容について双方の言い分を主張しているときに、あまり細かい技術に詳しくない人間が、双方の言い争いだけを問題にして、「くだらない言い争いはやめろ」と言い始めたらどうでしょうか。

このように細かい議論について双方が対立していたとしても、それが「言い争い」かどうかは判断が難しいところです。

しかし一言、あなた方の発言は「言い争い」にすぎない、というレッテルを貼ることによって、その議論の継続を封じてしまうような場合、それ以上議論が続けられなくなります。

不適切なラベリングこれは、いわゆる不適切なラベリングといわれるものの典型例です。

日本の会議では、この種の不適切なラベリングが非常に多く、建設的な議論の対立を安易に封じてしまったりします。

この種の不適切なラベリングの例としては、細かいサービスの条件について話し合っているのに、突然、「そんな細かいことよりも、お客様の声を大切にすべきだ」とか、会社の方針について議論しているときに、「そんな大上段な議論をしている暇があれば、売り上げアップを考えるべき

だ」といった文脈を無視した議論があげられます。

論理的に説明しようとすると、「所詮、理屈に過ぎない」とか、「ロジックとしてはすごいですね」といった、発言内容とは何の関係もないコメントをして、「交渉相手をやりこめたぞ!」とばかりに自己満足している交渉相手も少なくありません。

そして、このような発言をされてしまうと、つい、我々は一瞬、ひるんでしまいます。

特に、この種の不適切なラベリングに弱い、というのが交渉の初心者の特徴です。

相手の議論の詳細を聞かず、我々が丁寧な説明をしているにもかかわらず、「まあまあ、そう興奮しないで」とか、「難しい話はよくわからないのでね」といったかたちでこちらの話を唐突にさえぎってしまうという詭弁もあります。

また、「そんな言い訳をするなんて、あなたはそれでもプロですか」とか、「立て板に水、といった感じで、すばらしい説明ですね、いつも優秀だといわれるでしょう」など、こちらの話の腰を折って、勢いを封じるレトリックが登場します。

どうすれば、このような状況を打開できるのでしょうか。

一言で言えば、不適切なラベリングは、無視してかまいません。

いちいち、それに対して、反論したり、そのラベリング自体を話題にしてはいけません。

なるべく無視して、そのまま話を続けることです。

この種のレトリックや詭弁に対する適切な対処法は、まともに取り合わないことなのです。

「合意したい」という思いを悪用される第三に、希望的観測です。

相手の提案に一抹の不安を感じながらも、合意したいという思いを抑えることができないとき、私たちは、相手の一言にすがりたくなります。

交渉相手が大丈夫だと言っている、とか、ここは重要ではないと相手が言っている、というように、自分で判断することを回避して、相手の言葉に頼ろうとするわけです。

人間の意思決定は、すべての選択肢を数値化して、最善の選択肢をするというような形では行われないのです。

はじめから結論ありきで、それを後押しする一言がほしい、というタイプの意思決定は非常に多いのです。

少なくとも、私たちは、自分たちの意思決定のよりどころが、この曖昧な交渉相手の一言に依存することがないように最後まで、合理的な判断を手放さないことが重要です。

何でも引き受けるタイプの危険性第四に、特に優秀な人に多くみられるものとして「とりあえず合意して、条件変更については、私が内部で処理すればいい」と考えてしまう傾向があります。

自分の優秀さへの過信と、交渉相手に対して自分をよく見せたいという自己顕示欲があいまって、安易に自社の社内調整を引き受けてしまうのです。

そして、当事者はこのことに気づかないことが多いのです。

交渉現場では、お互いの思惑や、どちらが主導権を握るかという駆け引き、そして自分がいかに優れているかを証明したいといった欲求や、相手に認めてもらいたいという承認欲求が相まって、外から見ているとびっくりするような約束が形成されていくことがあります。

自分自身が交渉中は、冷静さを欠く場合があるのだということを理解し、それを受け入れると、交渉力は確実に増していくことになります。

第二の原則──交渉の前の下ごしらえ(事前準備の方法論)敵を知り、己を知る交渉に自信のある人は、その場で対応することを重視する傾向があります。

準備することでかえって、「先入観を持ってしまうのではないか」と考えてしまい、先入観を持つくらいなら、あえてまっさらな状態で交渉すべきだ、と考える人もいます。

そこで最小限、見積書などの準備はするものの、交渉の具体的な戦略や、目標設定をおざなりにしてしまうのです。

相手に振り回される危険性しかし、交渉前の準備を軽視すると、次のような致命的なミスを犯します。

第一に、交渉相手と自分を強いか、弱いかといったパワープレーの図式でとらえ、せっかくの合意のチャンスを逃してしまうというミスです。

事前の交渉戦略が十分ではないと、交渉前に不安が高まります。

不安を解消するために、自分が有利だと思えるような材料だけを重視します。

そして、交渉相手と自分との関係を強い、弱いという関係でとらえ、自分を強いと思い込むか、強いと見せかけようとするパワープレーの戦術に頼るのです。

この弱いか強いか、という二分法が頭を支配すると、交渉相手の発言を誤解したり、自分の主張だけを繰り返してしまい、結局、交渉相手との合意のチャンスを逃してしまうのです。

知ったかぶりは禁物第二に、交渉で話が込み入ってきたとき、準備不足の人は、交渉の要点の把握が難しくなるので、何でも単純化したくなります。

必要以上に、「要するに」といった表現が増えてくると要注意です。

物事をシンプルにとらえるのはとても大切なのですが、短絡的に単純化すべきではありません。

また準備不足だと交渉相手の提案に対する理解が不足しますから、何を質問したらいいのか、わからなくなります。

準備不足の場合、相手にそれを悟られないように「知ったかぶり」をするというリスクもあります。

このように準備不足によって、交渉に対する理解不足という状況に陥り、不必要な譲歩や、詰めの甘い合意をしてしまうのです。

不安の餌食になるまた、交渉前の準備をしていないと、どれほど交渉経験が豊富であっても、不安になります。

その不安がもたらす影響も考慮しなければなりません。

不安を感じると、相手を警戒するようになります。

そのため、相手の行動や態度すべてが気になって仕方がないという状況になるのです。

準備不足なので、現場での相手の対応以外に、自分の交渉がうまくいっているのか否か判断ができなくなってくるため、交渉相手の微妙な対応に過剰に反応してしまいます。

このような状態で交渉に臨むと、その場の雰囲気や相手の提案に右往左往し、最終的に、相手の思うつぼになります。

相手の些細なしぐさを見て、過剰にその

意図を探ろうとしたり、相手が感情的になると慌てたり、あるいは逆に、こちらも感情的に相手を批判してしまったりと、常に交渉相手の出方に対して反応するというかたち、すなわち後手に回るのです。

このような状態に陥ると、交渉相手を冷静に分析することができなくなり、交渉相手の提案を、過大評価したり、逆に過小評価したりしてしまいます。

日本人の美徳につけこまれるな特に、日本人は、交渉相手が時折見せる交渉中の態度、特に、怒りや不満の表明、さらにこちら側の提案に対するあからさまな不同意、不快感の表明に非常に弱いといわれています。

このようなとき多くの人は、この気まずい雰囲気から一刻でも早く抜け出したいと思うのです。

そのとき、相手の機嫌をとるような譲歩をするという致命的な過ちを犯してしまいます。

「交渉=ゲーム」という感覚実際にヒアリングをしてみると、日本企業の担当者は、海外での取引に際して、どれほど長い継続的な関係のある企業であっても、時折、相手が怒り出すとか、不快感をあらわにして譲歩を迫るといった心理戦術に直面するといいます。

海外では、継続的な関係にあったとしても、時々、ゲーム感覚で、交渉相手に揺さぶりをかけることがあるのです。

相手があわてて譲歩するかどうかを試している、ともいえます。

あまり感心しないやり方でありますが、私たちはその犠牲になってはいけません。

中身に集中せよこのような交渉相手に対する対処法としては、十分な準備の結果、持ち込んだ条件については自信を持って提案し、相手の表面的な態度ではなく、相手の発言に注目するといいでしょう。

交渉では、相手の言語以外のメッセージももちろん重要です。

しかし交渉の場合、非言語のメッセージ以上に、相手が何を発言したかに着目する方が効果的です。

ちなみに交渉相手の表情から、相手の意図、特に嘘を見抜いたり、何を感じているかを判断するという研究(表情分析)があります(ポール・エクマン『顔は口ほどに嘘をつく』河出書房新社、2006年)。

この手法は犯罪捜査などでも活用されており、確かに有効です。

しかし、表情を読み取るためには、相当なトレーニングが必要です。

ちょっと練習してみたという程度ではなかなか身につかないものなのです。

交渉で結果を出す、ということに焦点を絞るのであれば、交渉相手の表面的な態度にではなく、何を言っているかということに注意深く自分の集中力を傾ける方が合理的です。

感情的な揺さぶりへの対処法としては、たとえば、相手が急に態度を豹変させて怒り出したときでも相手をなだめようとしない、さらに、相手をなだめるために譲歩しない、と決めておくとよいでしょう。

現時点の研究成果から見ると、このやり方が一番簡単であり、そして最も効果的な解決法だといえます。

「合意したからすべてよし」で済まされない最後に、準備不足の場合は、合意に対する事後評価が甘くなる、という問題があります。

準備せずに交渉をすると、とりあえず合意がまとまれば成功したことになります。

そもそも事前の目標がないのですから、「合意すればすべてよし」というわけです。

交渉の成功と失敗を分ける基準が、合意したか否かになってしまうため、「ほかにもっとよい合意の形はなかったのか」とか、「この条件で合意して本当によかったのか」というところを反省する気分ではなくなります。

「合意したのだから、いいじゃないか」という一言で片付けてしまうわけです。

準備のない交渉の後で、合意内容を振り返ったとしても、ほとんど得るところはないのです。

もし準備して交渉に臨んだ場合、合意内容と準備した目標との差が出てきます。

そのとき、その差が気になりますね。

そこで、なぜこのような差になったのだろう、と自問自答することになるわけです。

これによって自分の交渉結果を振り返ることができます。

この結果として、「次の戦略はどうすればいいか」とか、「今後交渉のスキルアップを目指すためにどのような準備をすべきか」という反省点が浮かび上がってくるわけです。

実は、私たちが、交渉学の研修や授業を行うとき、最も重視しているのが、この準備と交渉、そして結果のフィードバックを一気に行うことができる模擬交渉(RoleSimulation)による学習です。

研修では、短時間で一気に教育効果を作り出すために、密度の濃い模擬交渉とフィードバックを行うことで、交渉スキルを身につけさせることを目指します。

日常の交渉でも、準備、交渉そして事後評価(フィードバック)を繰り返すことでかなりの学習効果が得られます。

第三の原則──利益に焦点を合わせる交渉をコントロールし続ける交渉に際して、多くの人が見逃している二つのポイントがあります。

第一に、裁判のように第三者に問題解決をゆだねることは、自分自身が問題解決するよりもリスクがあるということ、第二に、交渉で正義を振りかざしたとしても、相手が降参するわけではないのだ、ということです。

交渉のケーススタディの調査をしていて、知的財産権、特に特許に関する紛争事例をみていくと、実際の紛争例の多くが、交渉による和解などで解決されていることがわかります。

最初に私たちが調査したときには、これは新鮮な驚きでした。

なぜなら、特許紛争の場合、現在でも世界中の企業がアメリカや欧州そして日本の裁判所で激しい戦いを繰り広げています。

裁判では、弁護士たちが、文字通り必死で戦っているのです。

他人に解決を任せるリスクしかし、実際に裁判になったとしても、大半の事件は和解で解決しているのです。

この要因にはいくつかあるのですが、一つ重要な事実は、裁判の場合、最後の判断は裁判官(アメリカでは陪審員も関与しますのでさらに複雑になります)が行うのだということです。

裁判官は、公正で中立な立場かもしれませんが、自分たちの主張をどの程度認めてくれるかは、裁判官の頭の中の判断に任せるしかありません。

裁判の結末は、ある程度予想はできるものの、どんでん返しや期待外れな結果に終わってしまうことも少なくありません。

たとえば、「ほぼ勝訴するだろう」と思っていても敗訴だったり、勝訴はしたものの、損害賠償額が大きく減額されてしまっていたりといったことはよくあります。

これが紛争解決を外部にゆだねたときのリスクなのです。

これに対して、交渉当事者ですべて決めることができるほうが、はるかに柔軟で、合意内容をコントロールすることが可能になります。

自分たちの運命を手放さず、最後まで合意内容をコントロール可能にするためには、第三者の裁定は最後の手段であることを認識すべきなのです。

交渉は、何が正義かを決めるところではない次に、交渉の中で、自分の正しさを証明することに躍起になる人がいます。

自分たちがいかに正当かということだけを強硬に主張し、それ故に相手は誤りを認めるべきだというスタイルです。

しかし、相手も同じように自分の正当性を疑わない場合、合意することは不可能です。

水戸黄門というテレビの時代劇ドラマは、最後に印籠を見せると、悪役がみんなひれ伏してその非を認める、というストーリーでした。

しかし正義の味方が最後に登場し、悪人も最後には観念するというのは、ドラマの世界だけの話で、現実にはあまりあり得ない想定です。

実は、ビジネスに限らず、一般に世の中の交渉では、正しい・間違っているというタイプの二分法的な主張や、自分の正しさを証明したいという欲求が、交渉を最悪の方向に導いてしまいます。

このやりかたでは、何も結果を生み出さないのです。

利益と損失にフォーカス私たちは、現在交渉によって解決しようという問題をこれ以上悪化させて、損失が大きくなることは本来、望んでいないはずです。

損失の拡大を防ぎ、合意によって損失を最小化する、すなわち、利益と損失に焦点を合わせた方がはるかに効果的な合意が形成できます。

もちろん、その過程においては、自己の正当性を主張したり、正論を声高に述べて、相手と激論になること自体はありうることです。

正義を振りかざしても相手は屈服しないしかし、「正論だから受け入れるべきだ」という思いだけで交渉しても、結果はついてきません。

これはプロフェッショナル、すなわち特定の専門領域での知識が豊富な人、いわゆる専門家といわれている人は、特に気をつける必要があります。

なぜなら、専門家は「この問題に関して、私はプロなのだから私の主張が正当であり、相手は間違っている」という思いを抱くことが多いからです。

このような専門家の視点が交渉にマイナスの影響を与えます。

弁護士が依頼人の主張を十分聞かなければ、適切な助言ができないのと同様に、自分がある分野の専門家であるという場合は、特に正しい・間違っているという二分法のバイアスに注意して、相手の言い分をよくかみしめるように聞くこと、そしてすぐに相手を責める前に相手の言い分を理解するための質問をする姿勢を持つべきです。

交渉とは、自分の利益の最大化を目指すゲームです。

しかし、そのために相手にも何らかの利益を提供しないと、持続性のある合意を作ることができないのです。

だからこそ、相手の利益にも配慮した交渉の選択肢を準備する必要があります。

自分の利益を最大限反映した合意にしたいのであれば、逆説的ですが、自分の提案が相手にどのような利益があるのかをきちんと説明することが重要なのです。

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