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第2章 あなたの人生を一変させる「言葉の法則」

言葉が人生を決定する。ルー・タイスは、さまざまな機会を見つけては、このことを人々に伝えました。

言葉が持つ力を彼ほどはっきりと提示した人物を、私は知りません。

じつは、彼のコーチングの方法論は、「はじめに言葉ありき」という西洋キリスト教的な考えによって支えられています。

それが、彼のコーチングプログラム全体を支える、非常に強固な思想的土台になっているともいえます。

西洋キリスト教になじみの薄い日本人は、言葉の重要性を頭では理解しているかもしれませんが、敬虔なカトリック教徒であるルーの認識にはなかなか達することができないのではないかと思います。

そこで、言葉とは何かという点を、最初に少しばかりお話ししましょう。

「はじめに言葉ありき」というのは、『新約聖書』ヨハネの福音書第一章一節にある、次のような一節です。

「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった」 この一節は、キリスト教の知識がない日本人にはなかなか難しい内容です。

人間が話す言葉が人間よりも先に存在し、それがすなわち神であるというのです。

この本は宗教について述べるものではないため、簡単な説明にとどめますが、「はじめに言葉ありき」の「言葉」とは、宇宙をはじめとするもろもろの原理のことということができます。

たとえば、天体の運行、季節の移り変わり、昼夜の入れ替わりなど、宇宙は決まりごとによって成り立っています。

その決まりごとが、ここでいう「言葉」です。

だから、「言葉は神と共にありき、言葉は神であった」ということになるのです。

神と人間との関係でいえば、言葉とは、神との契約のことを指しています。

神との契約を行ったことで、それがキリスト教徒の思考や行動を規定するようになりました。

その決まりごとを指しているのが、ここでいう「言葉」というわけです。

キリスト教のこうした考え方は、私たちが生きる現代にまで、非常に強い影響を与えています。

たとえば、西洋社会で自然科学が発達したのは、神の存在を証明するためでした。

もちろん、社会科学や人文科学も目的は同じです。

アダム・スミスが『国富論』に「神の見えざる手」という有名な言葉を記さねばならなかったことも、その理由は「はじめに言葉ありき」にさかのぼることができます。

その意味で、西洋で発達したあらゆる学問は、神の存在の証明を目的に始められたとさえいえます。この点を見逃すと、日本人のキリスト教的世界観に対する理解は、決定的な誤りを招くことになります。

さて、「はじめに言葉ありき」という思想と無縁の日本においても、じつはあらゆることが言葉によって規定されています。

たとえば、クルマを運転していて、信号機に赤いランプが点ったときに止まるのは、横断歩道を渡る歩行者がいるから止まるのではありません。

その証拠に、歩行者がいないときでも、横断歩道の手前でクルマを停止させるはずです。つまり、道路交通法でそう決められているから、私たちは赤信号でクルマを停止させるわけです。

法律も、「はじめに言葉ありき」でいう「言葉」のひとつです。日本では明治維新以降、先を急ぐように西洋文明を移入していきました。

ほんの少し前の江戸時代には、法律を事細かく張り巡らせなくても社会を運営することができていました。それが、明治維新を迎え、何事も法律に照らして判断する世の中に一足飛びに変わったのです。

このように、キリスト教になじみの薄い日本においても、「はじめに言葉ありき」が浸透し、現代に至っています。しかも、現代の世界は、そのほとんどの国が資本主義によって経済を営んでいます。

資本主義は、そもそもプロテスタントが成功させ、世界に広めた経済システムです。そこでは、企業は利益をあげることが必要とされ、利益とは何かということが、企業会計原則によって定義されています。

この資本主義の経済システムに、現代ではイギリスの支配を受けていたバラモン教国のインドはもとより、中東のイスラム教国や、改革開放を進める中国、社会主義の旗を降ろしたロシアをはじめとする旧ソ連諸国が参加しています。

つまり、「はじめに言葉ありき」というキリスト教的世界観が、すでに地球規模で共通の社会システムになっているわけです。このことは、私たちが言語によって規定される世界に生きていることを意味しています。

一見すると、目の前に広がる現実はただの物理世界のように映りますが、そうではありません。

道路を走るクルマも、サラリーマンがすし詰めになっている通勤列車も、建設現場で組み立てられるビルも、あらゆる物事が「はじめに言葉ありき」という言語世界の法則によって成り立っています。

物理法則ももちろん「言葉」です。

また、それは人間ひとりひとりの選択と行動をはるかに超えて、私たちを規定しています。

その証拠に、個々人が自由にコントロールしていると思い込んでいる情動さえも、言語が規定しています。

たとえば、銀行の預金通帳の数字が増えるとうれしいと感じるのは、数字という言語によって規定された感情です。試験の成績が上がるとうれしいのも同様です。もちろん私たちは無意識のうちに法律や社会規範にしたがいます。

経済システムや条約や憲法にあたる近代民主主義システムの中で生きている以上、言語世界が私たちのすべてを規定することから逃れることはできません。

ルー・タイスがいう、「言葉が人生を決定する」は、じつは世界が言語によって成り立っているという確固とした認識によって生み出されています。

すべてを規定する言語世界に生き、その世界で人生のゴールを達成しようとすれば、言葉が与える人生に対する影響力を、そのくらい重く受け止めなければならないわけです。

そこで、ルー・タイスはあなたに、まず自らにこう語りかけるよう勧めます。

「私はもっと大きな人間になれる。もっと多くのことができる。もっと多くを手にすることができる。まずは自分のことから始めよう。自分に語りかけることで可能性を切り開こう」

これは、『アファメーション』の中で彼が最初に読者に示した、自分の可能性を引き出すためのアファメーションです。しっかり自分に語りかけることができたでしょうか。

自らに語りかけることが、まだしっくりとこないかもしれませんが、これはアファメーションを身につけるための第一歩です。

この本を読み終えるころには、自分に語りかけることに、もっと自然な感じでなじめるようになっているはずです。ルー・タイスは、「何を達成するかは、ほとんどの場合、何を信じるかによって決まる」と述べています。

「何を信じるかによって」というのは、どのようなブリーフ(信念)を持っているかによって、あなたが達成することが決まるという意味です。

ブリーフとは、脳科学的にいえば、その人の前頭前野や大脳辺縁系につくりあげられた認識のパターンのことです。

たとえば、学校で友だちのいじめにあい不登校となった子どもには、学校は命さえ落としかねない恐ろしいところという認識が生まれます。

いじめをする友だちがその子を殺そうとするわけではないでしょうが、いじめにあっている本人としては、これ以上やられると死んでしまうと感じるほどの強烈な恐怖体験を味わいます。

その子どもは、いじめをする友だちのことを思い出したり夢でうなされたりするたびに、その強烈な恐怖体験をくり返し追体験します。

すると、しだいに前頭前野に認識のパターンがつくりだされ、しまいにはお母さんとの会話の中に学校の先生の名前がでてくるだけで、大脳辺縁系の扁桃体が活性化し、からだに震えがくるような重い症状をきたすようになります。

学校に関連する物事を友だちの過酷ないじめに結びつける認識のパターンが生まれることによって、先生の名前を聞くだけでからだが震えるという反応が起こるわけです。

不登校の子どもの例は極端かもしれませんが、人間は例外なく、前頭前野や大脳辺縁系にいくつもの強固な認識のパターンをつくり上げています。

この認識のパターンが、人間が持つブリーフシステム(信念体系)です。ブリーフは、言葉を受け入れることによってつくられます。

その人に、「私には、難しいことはできない」というブリーフがあるとしたら、誰かがそう吹き込んだか、誰かに人々の面前でちょっとした失敗を口汚く罵られたか、そうした他人の言葉を受け入れたことによってそれが生み出されたといえます。

ちなみに、言語世界では他人が示す態度も言葉のひとつです。このように、外部の言葉を受け入れることによって生み出されたたくさんのブリーフが、人間のブリーフシステムを形づくっています。

ルー・タイスは、ブリーフシステムが私たちの行動を規定する、と考えます。

たとえば、企業社会で何事も達成度の低い多くのビジネスパーソンは、生まれながらにして備わっている動物としての人生のゴールしか持っていません。

それは何かといえば、いまの現状を維持し、生命を永らえていくことです。現状を維持することが最善という人生のゴールとブリーフがあるかぎり、人間が現状にとどまろうとするのは当然です。

そういう人は、現状にないことに取り組もうとはしないし、現状の外に無限の可能性が広がっていることに想像をめぐらそうともしません。

また、現状は固定化されたものだというブリーフを持っていれば、「いつも変わらない。これからも変わらない」という間違った考えにとらわれてしまいます。

私が面白いと思うのは、「もっと世の中を変えないといけない」と声高に主張する人たちの存在です。彼らは、世の中が変わらないために不都合を被っていると考えているわけですが、そんなことはありません。

世の中は、私たちの想像をはるかに超えるスピードで、めまぐるしく移り変わっています。じつは、変化しないのは「世の中を変えないといけない」と主張している人たちのブリーフシステムのほうです。

彼らは自分たちが変化のスピードについていけずにビジネスがうまくいかないことを、「世の中が変わらないからいけないのだ」と、社会のせいにしているのです。

現状は固定化されたものだというブリーフが、こうした甚だしい誤解を招きます。現状は、この瞬間にも極めて流動的なものであり、いつも変わらない現状など、本当はありえないのです。

あなたが現状から抜け出したいと考えているのであれば、その最も効果的な方法は、ブリーフシステムを変えることです。

ルー・タイスは、こんな話を紹介しています。

かつてオリンピックに出場した高跳びの選手で、「背面跳び」に最初に挑んだディック・フォスベリーという選手がいます。彼は国際大会で、バーを後ろ向きで跳び越えた最初の選手でした。

そのころ、陸上のコーチたちは子どもたちに「この選手の真似をしちゃだめだ。彼は変わり者だから」といっていました。

しかし、最近では、どの選手を見ても背面跳びです。

1954年までは、誰もが 1マイル(約 1600メートル)を 4分未満で走るのは不可能だと思っていました。ところが、ロジャー・バニスターがその壁を破りました。その後の 4年間に、 4分の壁は 40回以上も破られました。なぜでしょう? ランナーたちが 4分を切るのは可能だとわかったからです。

ブリーフシステムを変えることができれば、結果はついてきます。会社の中での立場も、家族の生活も、障害物を築いているのは、あなたのブリーフです。それを変えるだけで、これまでとは違う結果が生まれ、人生が開けてくるのです。

ブリーフシステムを変える方法は、2つあります。ひとつは人生のゴールを設定すること、もうひとつはビジョンを描くことです。なぜ、人生のゴールを設定したり、ビジョンを描いたりが、ブリーフシステムを変えることになるのでしょうか。

じつは、ゴール設定がなされていない人やビジョンを描くことのできない人は、現状を照らし出すサーチライトしか持っていないのと同じです。そのサーチライトがいま照らし出しているのは、昨日までの自分が見ていたことと同じものです。

昨日までと同じものしか目に入っていないとすれば、たとえどんなに目新しいことを考えついたとしても、あなたは昨日までと同じ現状をくり返さざるをえません。

現状の外側に出るためには、昨日までの自分が見ていなかったことを照らし出す新しいサーチライトがどうしても必要になります。

現状の外側に人生のゴールを設定することは、あなたが新しいサーチライトを手に入れる最も簡単な方法です。

ゴールを現状の外側に設定することができれば、その瞬間に、これまで後生大事に蓄えていた目的実現のための道具や手段は、まるで陳腐なものに映るようになります。現状維持のために毎日いそしんできた日課や習慣といったものも、たちまち輝きを失います。

ゴール達成のために何をすればいいか、具体的な方法はわからないまでも、昨日までと異なることをしなければならないとはっきり理解できるようになるのです。

現状の外側にゴールを設定すれば、あなたのブリーフシステムも変わります。それがあなたに、これまでとは違う結果と、新しい人生をもたらします。

このことは、あなたが人生のゴールをどのように設定するかという点にかかっているわけです。

ルーと私のコーチングプログラム TPIEでは、人生のゴールは現状の外側に設定しなければならないと教えています。

「現状の外側に」という言葉は、いささか理解しにくいかもしれません。すでにお話ししたように、いまの勤め先で社長になりたいという目標を持っていれば、それは現状の内側にある「理想的な現状」にすぎません。

「現状の外側に」というのは、たとえば A銀行に勤めている人が「 B国際機関で活躍する」というような、突拍子もないゴールのことです。

つまり、現状を懸命に維持していても、けっして達成することのないゴールが、現状の外側に設定されたゴールなのです。

ビジネスパーソンにとって現状の外側のゴールとは、仕事の面だけでいえば、いまの仕事のキャリアがまったく役立たない別の仕事についているか、起業していることになるのではないでしょうか。

それを考えるのは楽しい作業ですが、そのようにゴールを設定しなさいといわれて、すぐにできる人はとても少ないと思います。なぜかといえば、昨日までのあなたのブリーフシステムがその邪魔をするからです。

人生のゴールをどう設定するかについては後の章でくわしく説明していきますが、ここでは手始めに、その準備運動として人生のビジョンを描く練習をしてみましょう。

ルー・タイス自身も高校教師を辞めるに当たり、自らのビジョンを優先させました。

当時、コーチングという概念もビジネスもなかった時代に、彼は漠然とそういう仕事をやりたいと考え、確固としたビジネスプランもないままに職を辞しました。

ルーの行動は無謀に映るかもしれませんが、現状を脱しようとする人間というのは、多かれ少なかれこのようなものです。

ルー・タイスの言によれば、彼がそのとき一番に思い浮かべていた目標は収入でした。高校教師だったときの 2倍の収入を得たい。自分はそれだけの価値がある人間だ。

こうした考えが、彼が自らの将来のビジョンを描いていく、入り口になりました。ところで、ビジョンという言葉は、この 21世紀、すでに手垢にまみれた言葉になっています。

「ビジョンを説明してくれ」とか「あの人にはビジョンがない」とか、あらゆることにこの言葉が多用されています。そのいっぽうでビジョンとは何かという定義や内容は、嘆かわしいことに、ほとんど問題にされません。

ルーと私は、ビジョンを次のように定義しています。

「ビジョンとは、現状の外側にあるゴールを達成した将来に、その人が見ている自分と世界の姿のことである」 この定義が意味する重要なポイントは、現状を維持することで実現できる将来の「理想的な現状」をいくら思い浮かべても、それはけっしてビジョンになりえないということです。

とはいえ、人生のゴールの設定のしかたに慣れないうちに、私たちの定義に沿って厳格にビジョンを描きなさいというのは、いささか酷な話です。

そこで、あなたにはリラックスして、自由に、将来の自分の姿や、将来の自分が見ている世界の姿を思い浮かべることから始めてもらいたいと思います。

やり方は、あなたが自分の人生に何を望んでいるか、具体的に思い浮かべていきます。

まずは、どんな職業を望んでいるか。どれくらいの収入か。仕事ではどのような人々に囲まれているか。どのようなクルマに乗っているか。どのようなコミュニティに属し、どのような家に住んでいるか。家族はどのような様子か。そして、どのような精神生活を送っているか。

単に豪奢な生活がしたいとか、豪邸と高級車が欲しいといった、射幸心をもとにしてはいけません。

いまの 10倍の収入を得たいというのであれば、責任ある立場で辣腕をふるい、その対価として望みの収入を手に入れている自分の姿を具体的に思い浮かべていきます。

さらに、そのときのあなたはどういう人なのか、どんな行動をしているのか、周囲の人々にどのような影響を与えているのかなど、具体的により深く考えていきます。

これが、あなたが向かうことになる「目的地」決定への第一歩になるわけです。ビジョンを描くためには、自分の価値観を明らかにすることも、とても大切です。

たとえば、あなたは、なぜ働くのでしょうか。いうまでもなく、豊かな生活を築きたいからでしょう。では、なぜ結婚し、子どもをつくるのでしょうか。

あるいは、なぜ他人や社会のために自分の利益をすすんで犠牲にすることがあるのでしょうか。あなたの選択と行動に理由を与えているのは、価値観です。

自分だけ豊かになればいいという考えの持ち主なら、人間は必ずしも一生懸命に働かないのではないでしょうか。自分だけという発想であれば、悪事に手を染めたほうがよほど儲かると考える人が少なくないという気もします。

ところが、世の中のたいがいの人は、持てる能力を目いっぱい仕事に注ぎ、お金を稼ぎ、会社に利益をもたらし、家族を養い、地域の環境を改善し、他人にも自分と同様に幸せになってほしいと思っています。

価値観は十人十色といいながら、それは何に一番の重点を置くかという微妙な違いにすぎません。価値観をはっきりさせれば、あなたの将来のビジョンは、より鮮明に描くことができます。

そのためにルー・タイスは、次の5つのことを試すよう勧めています。

①自分の体から心臓を取り出して、手のひらに載せるところを想像してみる。目を閉じて、強くイメージします。あなたの心臓を取り出して、 2分間、手のひらに載せてください。その状態で、自分にこう問いかけます。

「私が自分の人生で最も望むことは何だろう?」 答えは、もっと長生きしたい、ということかもしれません。

では、もう一度、問いかけてください。

「どのような人生をどれだけ長く生きたいのだろう?」と。人生のクオリティも、人生の長さも、じつはあなたの選択次第だということをじっくり考えてみましょう。

②命が脅かされる出来事を想像(あるいは経験)してみる。

命が危険にさらされているとき、人間は自分にとって一番大切なものが何か、はっきりと理解します。もちろん、それは自らの命にほかなりません。命にもクオリティがあります。

病に侵されながら命を永らえるのではなく、精神的、肉体的に、健康に生き永らえたいはずです。そのために、人間は自分が快適に生活できる内的、外的環境をつくりだそうとします。それが、あなたが望む家族生活、社会生活、地域生活の根幹をなしている点に思いを馳せてください。

③痛みを経験する。

痛みを感じると、人間はそれを和らげて取り除くために必死になります。暴力、迫害、ストレス、病気。たとえ傷つき苦しむのが自らに関係のない他人であったとしても、平然とそれを許容できる人は少ないと思います。

自らの痛みを経験することは、相手の立場や人間性を慮る、一番のきっかけです。ルー・タイスは、痛みは自由や正義といった、その人間の核となる価値観に目を向けさせるといっています。その価値観が、あなたが自分だけでなく家族や周りの人に対して求める生活の質の基盤になっているのです。

④自分が本当に幸せだと感じるものは何かを考える。人間が心から幸せを感じるものというのは、えてして単純な事柄です。

たとえば、ルーはかつてこんなことをいいました。

「家族と夕飯の食卓を囲み、子どもたちが安心しきって食事を美味しそうにもりもりと口に運んでいる姿を見ていたときが、この上なく幸せだった」と。

子どもたちに安心と健やかな成長を与えている自分に、彼は心からの満足を味わったのです。

心からの幸せを感じる対象は人によって異なるでしょうが、その上位にくるものは、豪邸や高級車といった物質的豊かさを手に入れることではない場合がほとんどです。

むしろ、成熟した人間は、自分が何かを手に入れることよりも、他人に与えることに幸せを見出します。この傾向は、年齢を重ねれば重ねるほど強くなっていくようです。

あなたも、自分が本当に幸せだと感じるものは何かをよく考え、そこから自分が望む快適な生活、環境、人間関係などの将来ビジョンをイメージするようにしてください。

⑤厳しい質問を投げかける。

自分に厳しくこう尋ねてみましょう。

「私はこの人生で何に最も価値を見出すだろう?」、「何に対して闘うだろう?」、そして「何のためなら命を賭けられるだろう?」と。

自由、権利、愛する者、生活、健康、自然など、いろいろなものが考えられると思いますが、あなたも6つか7つ、自分にとって大切な事柄を挙げてください。

それらを大切な順に並べていくと、何を人生の目標にすべきかがはっきりしてきます。

ちなみに、ルー・タイスの場合は 1番が精神的生活であり、 2番は家族(家庭)、 3番目が仕事で、 4番目が健康、 5番目に地域環境でした。

それを決めるまでに相当の時間がかかったと、彼はふり返っています。

なぜなら、いくら精神的生活を優先させるといっても、家庭の状況が悪ければ精神的生活にも影響し、仕事の状況が厳しければ家庭にそれを持ち込まずにいるのは難しいし、健康にも影響せざるをえません。

列挙した大切な事柄は、それぞれが互いに深く関係しているため、よくよく思案しなければならないわけです。はっきりとした価値観は、あなたが「目的地」に向かうための鮮明な動機です。

ビジョンを描き、かつ価値観をはっきりさせれば、あなたはもう、目的地を目指すのに「 ○ ○しなければならない」とは考えずに、つねに「 ○ ○したい」と思うようになります。

じつは、何かを「したい = want to」という思考ほど重要なものはありません。なぜなら、「したい」という意識は、強烈な創造力を生み出すからです。

いっぽう、「しなければならない = have to」という意識は、人間にそれをするように仕向けるのではなく、逆に逃避や回避の行動をとらせます。

ここで、人間が現状を維持しようとして起こす創造的回避のことを説明しておきましょう。

人間は、「しなければならない」と考えると、それをしなくていい理由を潜在意識がいくらでも創り出してしまいます。

たとえば、ルー・タイスは、中学生のころにこんな経験をしました。

その当時に学校で行われたダンス大会は、男子生徒が、体育館の向かい側にいる女子生徒のところに進み出て、踊ってほしいと申し込むのが恒例でした。

ルー・タイスは、一緒に踊ってほしいお目当ての女子生徒がいながら、向こうまで行って誘っても断られると考え、仲間にこういいました。

「あんなぜんぜん可愛くない子と、誰がダンスなんか踊りたいと思うんだ?やめだ、やめ。もっと面白いことしに行こうぜ」 そして、断られたときの屈辱に遭わないように、ルーと仲間たちは体育館から逃げ出していきました。

本当は女子生徒とダンスをしたかったのに、拒絶されたときの恥ずかしさだけを考え、成功したときの喜びはまったく思いもしなかったわけです。

こうした行動の中に介在していたのが、「(ダンスを)申し込まなければならない」とか、「断られてはならない」という考えです。

そして、この「しなければならない」という思いが、「可愛くない子と踊りたくない」や「ダンスなんか面白くない」という、その場から逃げ出す都合のいい口実を創造することになりました。

潜在意識が行う、こうした創造的回避は、大人の世界でも日常茶飯事です。たとえば、「しなくてはならない」仕事を何かと理由をつけて先送りにする人は、そこここにいます。

なかには、仕事をやりたくなくてしかたがなくて、終いにはうつ病になってしまう人もいるようです。診断書をもらって会社を休むとケロッと治るのに、職場に戻るとたちまち具合の悪さがぶり返します。

「しなければならない」という考えは、潜在意識の力によって、その人を現状にとどまらせるように働くのです。

しかしながら、あなたが現状を抜け出して自らが目指す「目的地」に向かうことは、もはや「しなければならない」ことではありません。それは、あなたが「したい」ことにほかなりません。

そのためにあなたがとる必要な選択と行動は、そのすべてが「したい」「選ぶ」「好む」という気持ちから起こすことができます。

ポジティブな動機を持てば、問題の解決、対立の解消、満足できる最終結果というポジティブなイメージが潜在意識に刷り込まれます。

このことが、最終的な結果のイメージを満足感、達成感、喜びの感情と結びつけ、目標達成を楽しいものにしてくれるのです。

じつは、「しなければならない」を基準にすると、質の高い、自信に満ちた人生を築くことができません。「したい」にもとづいた選択と行動によってもたらされた結果は、すべてがベストの結果ということができます。

「したい」と考え、持てる力を注いだことに対しては、たとえどんな結果が出たとしても、その結果に責任を持つことができます。

いっぽう、「しなければならない」として行った選択と行動によって悪い結果が出たときは、すぐに「本当はやりたくなかった」という言い訳を生みます。

「しなければならない」という考えは、結果を受け入れ、責任をとる意思を欠いているからです。

これは私の決断だ。これは私のアイデアだ。私が善人なのは、私が善人であることを選んだからだ。私が働くのは、私が働くことを選んだからだ。法に従うのも従わないのも、すべて私の選択だ

これは、ルー・タイスがよく行うアファメーションのひとつですが、「しなければならない」という考えの持ち主は、ルーのこうした言葉が持つ確固とした人生の手ごたえを感じようがありません。

ルー・タイスがかつてコーチを務めた、キプチョゲ・ケイノというケニア出身の中長距離ランナーがいます。

彼は、メキシコオリンピック出場を目指していたのですが、レースの最終 400メートルでいつも激痛を感じることに悩んでいました。

その苦しみを克服するための心理学的訓練法がないかと、ルーは相談を受けました。「レースのそのポイントに差しかかったとき、何を考える?」 ルーは尋ねました。

「あと 400メートルも走らなければならない、と考えます」 キプチョゲは「しなければならない」を基準に考えることで、自ら痛みの原因をつくりだしているとルーは考え、こういいました。

「解決策はあるよ。最終ラップに入って、最後の 400メートルを走らなければならないとわかったら、そこで止まる。走るのをやめるんだ。そして、そこで止まって、トラックの内側に座り込むのさ」

「そんなのは、馬鹿げています。止まったら、レースに負けてしまいます」「そうだよ。でも、少なくとも君の肺は苦しくなくなる」

キプチョゲは、怒ったみたいでした。

「ぼくが何のために走っていると思っているんですか? オリンピックで勝てたら、牛がもらえるからです。ぼくの国では、それでずいぶん金持ちになれるんです。家族は、ぼくをアメリカの大学に送るために、自分たちの生活を犠牲にしてきた。だから、家族のためにも、国のためにも、金メダルを獲りたいんです」

「じゃあ、黙って走ったらどうなんだ? 君は走る必要はない。でも、走ることを選んだ。私に、なぜ走りたいかも話した。それは君自身の考えだ。本当は無理して走る必要はないし、レースを走りきる必要もない。いつだって止まることができるんだ」

「ぼくは、走って勝ちたいんだ」「じゃあ、そのことに気持ちを集中しろ。『したい』『選ぶ』『好む』を忘れずに練習しなさい」

ルーの言葉に従った彼は、 1500メートルでケニア初の金メダルを獲得、病気をおして出場した 5000メートルでも銀メダルをとりました。

ルー・タイスは、こう書いています。

敗者のほとんどは、自分の人生を「しなければならない」だらけの状況で過ごします。何をやるにしても、自分の行動に責任を持とうとしません。「しなければ」というたびに、個人的責任を放棄するだけでなく、自尊心も引き裂いています。

「しなければならない」は、「これは本来の私ではない。誰かが私をコントロールしている」を意味します。

「しなければならない」状況では、常に自分に「やるよ。でも、もし自分の好きにできるとしたら、別のことをする」と言い聞かせています。

それは、「私は自分の意思に反して、強制的にこれをやらされている」ということです。

ほとんどの人が「しなければならない」という考えを持っているのは、じつは誰かにそう聞かされ、刷り込まれていることが原因です。

はっきりいえば、その刷り込みを行ったのはたいていは親であり、学校の先生もそこに一枚噛んでいることでしょう。

その結果、ほとんどの人は目の前のあらゆる課題を、「しなければならない」というブリーフで捉えているといえます。

これを「したい」「選ぶ」「好む」に変える早道は、アティテュード(態度)を変えることです。

アティテュードとは、何か出来事が起こったときに、それに向かうか離れるかという行動の性向(方向性)のことを指しています。

なぜアティテュードが問題なのかといえば、アティテュードの背後にはブリーフシステムが存在しているからです。

ルー・タイスは、次のようなたとえをよく用います。

あなたが大学生で、「左利きの人間は我慢できない」というアティテュードをとっているとします。

そして、大学の学生課で寮の部屋の割り当てを見ると、恐ろしいことに、ルームメイトが左利きだとわかります。あなたにとって、これは大問題です。

そんなくだらないことに目くじらを立てる必要があるのかと、あなたは思うかもしれません。

しかし、それは「左利きの人間は我慢できない」とは思わない人の言い分です。さらに、判明したルームメイトが「右利きの人間は我慢できない」というタイプだったら、事態は最悪です。

日本人の私たちにはピンとこないかもしれませんが、アラブとユダヤ、南アフリカの黒人と白人、アイルランドのカトリックとプロテスタント、民族的あるいは同一民族内の深刻な対立は、これと同じ理屈によって生じました。

要するに、「相手のことが我慢ならない」というブリーフシステムが、歴史的対立のアティテュードを生み出しているわけです。

こうしてみると、古臭いアティテュードに縛られていることが、いかにつまらない時代錯誤であるかがわかると思います。

課題を目の前にして「しなければならない」と考えることも、これとよく似た愚かなアティテュードです。では、どうすればいいのか。いますぐ、それを変えてしまえばいいのです。

「アティテュードを変えるとして、どう変えたらいいのでしょうか?」 私はよくこんな質問を受けます。質問者は「変えるならば、その代わりとして獲得すべきアティテュードがあるはずだ」と考えているのです。

しかし、この場合は、変えることそのものに意味があり、次にどんなアティテュードを獲得するかに意味はありません。

課題に対してこれまでとってきたアティテュード、何か出来事が起こると必ずとってきたアティテュード、それをどのような方向でも構わないから、とにかく変えてしまうだけの話です。

たとえば、親からきわめて抑圧的な教育を受けたせいで、親や目上の人に一切逆らえなかった人が、あるとき親を初めて怒鳴りつけたという例があります。

すると、その人は、次の日からまるで別人のように自由に意見をいう活発な人に変わってしまいました。

極端な例かもしれませんが、親を怒鳴りつけるというアティテュードの変更によって、この人の場合は、親の言葉を受け入れることでつくり上げられたこれまでのブリーフシステムが壊れたのです。

アティテュードを変えると、このようにブリーフシステムに劇的な変化が訪れます。親を怒鳴りつけるような極端なことはする必要はありません。

というよりは、するべき行為ではありません。あくまでも極端な例として取り上げたということをご理解ください。

そうではなく、たとえば朝 7時に起床していたところを朝 5時に繰り上げたとか、喫煙の習慣を止めたとか、あるいは私がいつも例に出すように、毎日観ていたテレビを観ないようにしただけでも十分な効果を期待することができます。

とにかく、これまで当たり前のようにとっていたアティテュードを、がらりと変えてしまうわけです。現在のアティテュードのままビジョンを追求しようとすれば、ネガティブな情動を取り込んでしまうかもしれません。

あなたのブリーフシステムには、過去に経験した状況への情動的反応が記録されています。そのネガティブな情動が新しい取り組みへの反発や回避へ、あなたを駆り立てるからです。

そのためにも、アティテュードを変え、いまの現状のブリーフシステムを壊すことは、ブリーフを変え、将来のビジョンを思い描くための非常に大切な方法です。

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