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6章チェックなくして目標なし

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6・1うまくいかないチェック

筆者は、目標管理を実施しているという会社では、必ずつぎの質問をしてみることにしている。それは、「チェックはどうしていますか」ということである。

そして、その返答は大部分の会社で申し合わせたように、「それが、忙しいものですから、つい……」というような返答である。

結局は目標の出しっぱなしなのである。

目標管理では、目標達成のためのやり方は問わない。どういうやり方でもよい、要は目標を達成することである。

だから、なるべく大幅に権限を任せて、自由に活動させ、創意を発揮させるべきである、という思想であり、この点筆者もまったく同感である。

仕事のやり方について、上からあれこれいうのは干渉である。間違っているのは、これからのちである。

つまり、自由に活動させるのだから、上司は包括的な管理をすればよいというのだ。包括的な管理とは、具体的にどのようなものであるかは教えてくれない。「まとめて包みこむような」管理では、なんのことかさっぱりわからない。

そして、その結果については、各人自ら評価と反省を行い(これが目標管理の特色なのだそうだ)、しかるのちに、その反省に対して上司との話合いがもたれ、つぎのよりよい目標設定のための動機づけを行うということである。

まさに、間然するところのない人間関係論である。なんという、春風駘蕩たる、平和と調和の世界であろうか。

その春風駘蕩の世界で、人間はナマクラになり、いかに実績が上がっていないか、先生がたはご存じないのである。

先生がたのいう人間関係は、人間の満足感をいかにして与えるか、そして満足感を与えれば、それで仕事の実績が上がると思いこんでいるところに、根本的な間違いがある。

人間という動物は、満足感を得た瞬間から努力しなくなるという、やっかいな習性をもっているのだ。

満足感はかえって安易感を生み、無意識のうちに仕事の質と量は落ちてゆくのだ。満足感の中ですぐれた業績をあげられる人間など、いるものではない。

これがわからないかぎり、人間関係論者は、本当の人間関係について考えてみようとはしないであろう。ここで、満足感について考えてみたい。

快適な環境のもとで、上司の細かな心づかいの中で、自分の能力に合った仕事をすることによって得られる満足感が本当の満足なのであろうか。

それとも、自分にはムリと思われるような高い目標と重い責任を負わされて、上司からつき放され、血の出るような苦労の末にその目標を達成したときの満足感が、本当の満足

感なのであろうか。

人間は、血の出るような苦労の末にかち取った結果にこそ真の満足感と幸福感を覚えるものなのだ。

人間関係論者が、本当に人間を尊重し、満足感を与えたいのならば、その人間に困難な任務を与えて、ギューギューしごきぬくべきである。

その過程で人間は鍛えられ、かち取った結果にかぎりない満足感を覚え、自分の能力に自信をもち、つぎのより高い、より困難な目標に挑戦する勇気と意欲がわくのではないだろうか。

平和と調和の世界からは、人間を本当に動機づけするものは得られないのである。

「目標は、各人の意志にしたがった自己統制による」といってみても、いささか理想論にすぎる。

人びとは、それぞれの仕事をもっていて忙しい。

目標を設定しても、それが自己統制ということで、上司からのチェックがなければ、しゃにむに目標を達成しようと努力するような、すぐれた人はあまりない。

普通の人間は、そのような殊勝な心がけには、なかなかなれないものなのだ。目標よりも日常の仕事のほうが優先してしまうのが、むしろ自然だ。

ときどき、上司によって報告会が開かれなければならないといってみても、上司も忙しい。報告会など開かなくとも、毎日の仕事に支障はない。

つい報告会が二のつぎになってしまう。これが、チェックがなかなか行われないという理由なのだ。そして、半年か一年後に反省するといっても、もう熱がさめてしまう。

目標が達成されなくとも、理由をいえば反省になるなら、何も苦労して目標達成に努力することもない。そんなことをしなくとも、毎日の仕事が目標達成につながっていることも事実なのだ、という理由がつけられる。

これではチェックが行われるわけがない。

一年後でも、上司のチェックがあればよいほうで、おおかたの会社ではチェックも行われずに尻切れトンボで、名前だけ残るようになってしまうのである。

このような現実を無視して、個々の成員のセルフ・コントロールに期待し、自ら評価と反省を行うというような、観念論で美化してみても、それができるのは、ごく一部の優秀な人材であって、大部分の凡人については、しょせん絵に画いたモチなのだ。

そして、管理論というものは、ごく一部の人材のためのものではなくて、大多数の凡人に適用できるものでなければならないのである。

企業は戦争なのだ。食うか食われるかの血みどろの戦なのである。その戦に何がなんでも勝ち残ることこそ至上命令なのである。

生き残る条件としての目標は、なみたいていの努力で達成できるものではない。その目標達成を、各人のセルフ・コントロールに任せておけばよいというような考え方は、上司の怠慢であり、自分から目標達成を放棄することなのである。

やり方は任せるのだから、上司が口を出すのは干渉になる。だから、やたらと口を出してはいけない。筆者も、まったく同感である。

各人は、自己統制を行いながら目標達成に努力する。まことにそのとおりである。

しかし、だからといって、まず本人の反省が大切であり、上司のチェックはその後で行うという目標管理の指導理念は、正しいということにはならない。

いや、筆者にいわせたら、まったくの間違いである。その間違いは、目標管理の思想そのものにある。

つまり、目標は各人の能力に合った、実現可能なものでなければならない、という思想である。目標を設定する時点で、すでに実現可能な見通しがあるのだから、実現はほとんど間違いないのだ。

だから、まず自己評価し、その後で上司が評価すればいいといえるのだ。

このような、「会社は絶対につぶれない」という前提条件がなければ成り立たない理論は、われわれには不要どころか、害になるだけである。

それでは、上司によってどのようにチェックをするのか、やたらにチェックをしたり、思いつきでチェックをするのでは、任せたことにならないし、だいいち、上司はわずらわしくて自分の仕事ができなくなってしまう。

では、どうしたらいいのであろうか。

6・2上司による定期的チェックが絶対に必要

目標は企業の生き残るためのトップの決意である。是が非でも達成しなければならないのだ。だからこそ、目標は上司によって強力なチェックが必要なのである。

実施を任せるということと、その結果をチェックするということは、ぜんぜん別のことなのである。ここのところが、目標管理の先生がたにはわからないらしい。やり方を任せるのはよい。

しかしチェックまで任せるのは、任せるのではなくて上司の責任の放棄である。企業にとって、仕事のやり方はどうでもいいのだから、任せればよい。そのほうが手数がはぶけてよい。任せられたほうも、そのほうがやりよいから、よい結果を生むことになる。

しかし、目標はどうでもよいのではなくて、なんとしても手に入れなければならない結果であるから、これがどうなっているのか、チェックをしなければならないし、しなければ怠慢である。

目標期間が過ぎてから、実績が目標と大幅にずれていることを発見しても、後の祭である。それについて、どのような反省が行われようと、実績はどうにもならないのだ。

だからといって、やたらにチェックをするのでは、結果において任せたことにならなくなる。任せながらチェックをするには、どうしたらよいか。

それは、定期的にチェックをすることである。これを、目標設定のときに明示しておくのだ。

そして、チェックとチェックの間は何もいわずに、完全に任せるのである。この間は、緊急事態以外は、口出しは厳禁である。

こうすれば、任せながら目標達成は判明するし、この機会を利用して、必要な指導や助言を与えてやればよい。

チェックのタイム・スパンは、目標のもっている性格と重要度に応じてきめればよい。

筆者の経験によれば、一般に、月次損益は毎月、それ以外の目標については三カ月に一回くらいが適当である。

ただし、特別に重要なプロジェクトについては、個別にチェックのタイム・スパンをきめるほうがよい。ところで、そのチェックはどうやったら効果的にできるのであろうか。

6・3チェックは報告会で

チェックは、階層別の報告会でやるのがよい。個人個人と相対でチェックするよりは、報告会でするほうが左右のコミュニケーションにもなるし、時間も節約される。

そのうえ表現力の訓練になる。

表現力は、これからの企業の幹部にとって、非常に大切な条件の一つである。上司に対し、同僚に対し、部下に対し、自分の考えを誤りなく伝えられずに、任務を果たすことはできないからである。

別の意味で、報告会は、それ自体が目標達成の推進力をもっている。それは、人間だれしも誇りをもっている。

その誇りにかけても、あまりおかしな結果を同僚の前で発表するのでは、メンツをつぶすことになる。これは、一回メンツをつぶすと、あとはこれにこりて努力をするからである。

ある販売会社では、毎月成績に応じて席次をかえている。これも効果的にする方法の一つであろう。

報告会の時間は経営計画に明示されているから、期日について数日前に通知をする。この会には、担当者が簡単な報告書をコピーして参加者全員に配布するのもよい。

報告会では、上司によってまず会社の成果が目標と対比されて報告される。

つぎに各自の目標について、必ず持ち時間をきめて、この枠の中で要領よく報告するよう工夫させることである。

これが訓練である。

持ち時間をきめないと、ダラダラして、けじめのつかない会議になる。

報告で大切なことは、報告事項として、一目標二実績三不達成事項の対策にかぎるということである。

ところが、先生がたは「不達成の原因を究明し」というような、まったく間違った指導をせよというのだから、困ったものである。

不達成の原因を究明することは厳禁しなければならない。不達成の原因をいくら究明してみても、不達成の事実を変えることはできないのだ。

これは、時間のムダだけでなく、大きな弊害をともなう。不達成の原因を追及した瞬間から、それは報告会ではなく、裁判になってしまうからである。

上司が検事兼裁判長、担当者が被告兼弁護士である。

この裁判は必ず被告兼弁護士が勝つ。というのは、どんなバカでも必ず満点の答えができる。

雨が降った、風が吹いたが、担当者にとっては、りっぱな理由になるのだ。

もしも、上司が満点の答えに対して、うなずいたり、意見をいわずにいたら、「上司が了解したのだから、これまでの不達成はご破算だ」と自分に都合のよい解釈をするのが人間なのだ。

このようになったら、不達成の責任は、いったい、だれにあるのかわからなくなってしまう。

それとは逆に、上司が担当者の述べる理由について、追及したり、反論したりすれば、上司はムリをいう、そんなに都合よくいかない、そんなにやさしいのなら、上司が自分でやったらいい、ということになる。

上司に対して不信の念を起こすのだ。

どちらにしても、不達成の理由をいわせると、責任の所在が不明になり、目標達成の至上命令がボヤケてくるおそれが多いのだ。

だから、不達成の原因や理由は、絶対にいっても、いわせてもいけないのだ。火事は、原因を調べることより消すことが先決なのだ。

不達成目標は、その理由をきくことではなくて、不達成事項を取り返すことなのである。だから、不達成目標に対しては、原因はきかずに、前向きの対策をいわせることなのだ。

では、原因の探求はしなくてもよいのか、ということになる。原因の探求は絶対に必要なのである。

筆者がいうのは、それを会議の席上でやってはいけないというのだ。会議は裁判ではなくて、前向きの決定をする場だからである。

原因の探求は、担当者が自ら報告会の前に行い、その対策を自ら考えるのである。これが自己統制なのだ。

担当者は、こうして自分できめた対策をもって会議にのぞむのである。

重ねて強調する。

原因の探求は、自己統制の段階で対策をねるときに行うことであって、報告会でやることではないのだ。

筆者の経験では、一〇社のうち九社以上は、不達成の原因を会議の席上で追及している。

そのために、後向きのつるしあげ会になってしまい、責任の所在があいまいになり、前向きの建設的討議がなされないでいるのは、はなはだ残念である。

報告会は、あくまでも、目標を達成する方策に焦点を合わせるべきである。上司の、目標達成の決意を示すものが対策をいわせる、ということになってあらわれるのだ。

したがって、その対策は抽象的なものは許されない。あくまでも具体的なものでなければならない。

もしも、この対策がいいかげんであったり、具体性がなかったら、どこまでも追及してゆくことが大切なのである。追及は、不達成に関してするものではなく、将来の達成に対して行うものなのである。

しかし、報告会の席上では、あまり追及することは、議事の進行を阻害するから、日をあらためて、とことんまで担当者と方策をねるのである。

この場合も、いつ、何時に行うかを必ず明示することである。はなはだしい不達成については、もう担当者に任せておくことはできない。

自ら乗り出して解決に当たるのだ。これが例外管理である。このときに、担当者をさしおいてやってはいけない。

本人のメンツだけでなく、自信をもなくさせてしまうからである。担当者を通じて解決してみせるのである。

担当者は、自分がやってできなかったことだけに、上司の解決のやり方をみて、自分のやり方、考え方のたりなかったこと、間違っていた点を痛切に反省するし、啓発されるのだ。

これが本当のOJTなのである。部下を教育する最良の場は、部下のたずさわっている仕事それ自身なのであることを、忘れてはならないのだ。

このようにして、どこまでも目標達成を要求し、指導するのが上司の役目であり、目標を達成することが担当者の責任なのである。

目標は上司の決意であり、チェックは執念のあらわれである。執念のない決意は、障害の前についえ去る危険があり、制約条件と早ばやと妥協しがちになるのである。

あくまでも執念をもってねばり抜くのだ。このねばりが、目標達成の成否をきめる大切な鍵なのである。定期的にチェックしないのならば、目標など設定しないほうがよい。

きれいごとの自己統制で目標管理ができるのは、「紙の上」だけの話なのである。それほど目標達成は苦しく、むずかしいものなのだ。

このようなチェックを行うと、チェックを受ける側はどのように受け取るだろうか。

それは、某社の某課長が筆者に語った言葉で代表されよう。

その要旨は、「従来の報告会は、何も準備せずに出席できた。不達成の理由を追及されるのはありがたくないけれど、それに対して、いいわけの機会が与えられる。それには、常に自然に準備された理由があった。

その結果、不達成が正当化され、責任がウヤムヤになっていった。

ところが、新しいやり方は苦痛だ。

伝家の宝刀であるいいわけをピタリと封じられてしまい、おまけに、不達成の対策をもって会議に出なければならない。

準備をしないと会議に出られない。ヒドイですよ……」と、そしてその後のつけたしの言葉が傑作である。

「しかし、これが本当ですね」

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