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第2章歌手になろうとした青年時代

第2章歌手になろうとした青年時代

人生の運は紙一重高校に入った後もいじめは続いた。

不良グループから因縁をつけられ、時折、痛めつけられる。

あるとき配達の仕事に使うオートバイに乗っていたら、不良グループに後ろに座られ、倒されてしまった。

奪おうとするのでバイクにしがみついていると、殴られ、顔はあざだらけ。

父は取り戻してこいと言うが、1人では無理だ。

3、4歳上で不良生活を送るいとこがいたのを思い出した。

バイクを盗まれたことを打ち明けると、「よしよし、俺に任せておけ」とすぐさま応じてくれた。

いとこは不良グループの兄貴分だったようで「ついでにあいつらぼこぼこにしといたからな」と笑う。

無事バイクは戻り、助かった。

さすがに「このままではダメだ」と思い、アルバイトで稼ぎ、ボクシングジムに通った。

もちろんけんかに強くなるためだ。

1年間通ったが、親にばれ、あえなく退会。

だが「サシのけんかなら負けない」という自信だけは付いた。

成績は相変わらず悪い。

1年生60人中、成績は58番目。

ところが私より下だった2人は進級できなくなり、程なくやめてしまう。

「競争相手」がいなくなり、学年どん尻が私の定位置となった。

高校時代は当然異性への関心も高まる時期だ。

今だから言えるが、そのことで人生が狂いかねない事件が起きた。

自分の高校の仲間数人と、別の高校の女子高生と集団で遊んでいると、若さ故にいわゆる「不純異性交遊」に発展してしまった。

当時は「桃色行為」と呼ばれていた。

お互いの合意の上で順番に河原で「悪い」ことをしていくのだ。

未経験の私は不安と期待が入り交じった感じで、自分の順番の日が近づいてくると迷いも生まれた。

ところがその前日、女性の1人が補導され、芋づる式に事が露見。

5人の同級生が退学処分となってしまった。

1日遅かったら私も退学だった。

大学への進学もできず、違う人生を歩んでいただろう。

奇病に苦しむ高校2年生の時、「奇病」で手術を受けた。

実は幼少の頃から下腹部に激痛が走り、余りの苦しさに気絶してしまうことがあった。

意識を取り戻すと痛みは消えている。

子供の頃は「痛い」なんて言うと、「たるんでいる」と叱られるだけなので、ずっと我慢していた。

だが高校2年のときは状況が違っていた。

マラソン大会後、下腹部に激痛が走った。

やはり気絶したが、正気に戻っても痛みは引かない。

盲腸かと思い、北海道大学病院に運び込まれた。

診察すると盲腸ではなかった。

両方の睾丸がくるくる回転して、血が通わなくなる何百万人に1人の奇病だという。

当初は両方壊死してしまうと言われたが、摘出は片方で済んだ。

北大では過去にない症例ということで、一時私の睾丸はホルマリン漬けになって、研究材料になった。

話を聞くと、隔世遺伝の病気で祖父が同じ症状だったらしい。

なんでも日清戦争か日露戦争の戦場で睾丸摘出手術を受けたそうだ。

母は「子供を作れなくなるのでは」と心配していたが、当の私はけろっとしていた。

それどころか「奇病を患い、境遇もひどい。

何かで成功するのでは」と大まじめに考えていたぐらいだ。

珠算大会で優勝高校時代は少し人生が上向いてきた気がする。

手先が器用なせいか、そろばんだけは得意だった。

中学校の時に珠算1級を取得していたぐらいだ。

珠算部に入り、一心不乱に腕を磨いた。

すると約500人が参加する大会で1位に選ばれた。

表彰式で校長先生から賞状をもらいに行ったが、校長は私のことを覚えていない。

賞状を手渡されるとき、「先生、僕は入学前に米を届けた似鳥です」と話すと、「おー、あのときの君か。

よく頑張ったな」と喜んでくれた。

高校時代も終わりを迎え、問題は卒業。

条件は珠算3級と簿記3級の取得だ。

そろばんだけは高校でも有数の腕前で問題はない。

だが簿記が苦手。

先生に呼び出され、「このままでは卒業できない」と言われた。

そのことを母に打ち明けると、さめざめと泣かれる始末。

仕方ないので、必死で周囲の友人の力を借りながら、何とか卒業した。

正直言うと、中学と高校はカンニングばかりしていた。

厚紙のカンニング用紙を取り付けたゴムを肩に貼り付け、答案を書くときに用紙を引っ張り上げるというやり口だ。

暗記はできないが、手先が器用なのでこういうものを作るのはうまい。

数学や英語は暗記ではないので通用しない。

そこで信頼できるカンニング仲間を募り、乗り切った。

正当化するのはおかしい気もするが、カンニングも意工夫のたまもの。

ビジネスと同じで、世の中にない仕組みを作り、生き抜ける。

結果のためには全力を尽くすという姿勢だけは今と変わらない。

この頃、父はこんなことを言っていた。

「おまえはのろまで、だらしない。

成功するには人の2倍努力をするか、人のやらないことをやるしかない」。

そしてこんな話もしていた。

「頭が悪いのだから、国立大学や有名私立大学を卒業した優秀な人材を使えばいいんだ」。

この言葉は私の心にずっと残り、実践するように心がけた。

父は自分がやっていたコンクリート会社を私に継がせるつもりだった。

ヤミ米の販売とともにコンクリート会社も長年手伝っていたので、技能は身についていた。

だが土日に休みもなく、工事用の棒を担ぐとトゲが肩に刺さる。

あれは痛い。

とにかく仕事がきついので、「社会には出たくない」という気持ちが強まった。

そこで両親に「俺は勉強をしたいんだ。

大学に行かせてほしい」と訴えた。

「勉強がまるでできないくせに、何が勉強したいんだ」とこちらの魂胆は見抜かれている。

何とか粘って、大学進学を認めてもらった。

入学金や授業料だけでなく、自立することも条件で、生活費まで自分で稼ぐことになった。

そういえば実家に下宿代も払わされた。

短大に進学、ナンパ修行1962年、何とか札幌短期大学に滑り込んだ。

もっとも親の仕事から逃げるためだから、学校はろくに行かない。

空手部に入ったぐらいで、勉強はしない。

授業料は自分で払う約束だから、年中アルバイトばかりしていた。

夏は父の仕事を手伝うが、雪が多い冬に仕事はない。

お歳暮の配達や札幌市にある狸小路商店街の屋根の雪下ろしなどだがトラブルばかり起こした。

商店街では精肉店の娘と仲良くなり、部屋で遊んでいたら、店主にばれてぶん殴られた。

お歳暮の配達では猛吹雪の中、車で子供を引っかけてしまい、親からお金を借りて賠償金を払った。

あるときは電車とぶつかり、やはり損害賠償。

稼いでも稼いでも生活は楽にならない。

高校時代の女性関係はいま一つだった。

そこで短大時代、ナンパ名人の友人に「やり方を教えてほしい」とお願いした。

友人と大通公園にある噴水で物色していた。

まず友人が見本を示す。

するとあっという間に2人の女性を連れてくる。

友人のルックスはいま一つだが、とにかく会話が面白いのでもてる。

4人で話をしても私はもじもじして全く入っていけない。

悩んでいる私に友人は「何をやっているんだ。

もっと努力をしないといけない。

会話も手帳にメモしろ」と説教する。

会話を聞きながら笑いのポイントを必死で私は勉強した。

それから友人はおまえが行ってこいという。

ためらう私に対して「こういうことは失敗しないとうまくならない。

とにかく断られる覚悟でいけ」と発破をかける。

そこで私が「ちょっといいですか」と話しかけても、うまくいかない。

その後も何度も友人に「表情が硬い」などと指導されながら、ナンパを重ねた。

そのうちだんだんうまくいき、女性の友人も増えてきた。

2年間、みっちり学んだ成果だ。

この頃、家出して大通公園をうろつく女性が増えていた。

実際にたちの悪い店に行かされ、ひどい目に遭った女性もいた。

そんな話を見聞きしながら、「何とか救ってやらないと。

ちゃんとした店で働いてもらえば、こちらの稼ぎになる」と思い立った。

実際に行きつけのスナックのママたちも「人手が足りないから、そんな子がいたら助かる」と興味を示してくれた。

ナンパで培った「交渉術」が生きた。

そこでお金がない女性のためにアパートを探して、布団や茶わんなどをそろえ、生活できるようにする。

お金は立て替え、仕事先も紹介する。

これが増えてくると、結構な収入になる。

当時の大卒の初任給が月1万3000円で、仲介料は1人当たり毎月500円ぐらいだった気がする。

だが女性に対して実は奥手。

女性たちといい関係になることはなかった。

歌手「似鳥昭雄」の夢実は高校から大学時代にかけて歌手になろうとしたことがある。

当時は橋幸夫、フランク永井が全盛期。

もともと歌が好きでレコードを聴きながら、必死で練習した。

そして高校3年生の時、札幌で開かれる「NHKのど自慢」に出場した。

「よし、ここで鐘を3つ鳴らし、歌手を目指そう」と意気込んだ。

歌には自信があり、親戚一同にも「のど自慢」出場を吹聴して回った。

友人3人で出ようとしたら、1人がおじけづいて来なかった。

当初はテレビ中継をしない予定だったが、急きょ放映されることになった。

いよいよ本選。

歌は橋幸夫の「南海の美少年」。

もともと緊張する性格で、目の前の観客席はぎっしり埋まっている。

テレビカメラも2、3台集まり、緊張はピークに達した。

そして私の番が回ってきた。

司会者に「では『南海の美少年』、どうぞ」と紹介され、歌い始めるといきなり音程を1オクターブ外してしまった。

もう対処しようがなく、わずかワンフレーズでむなしく鐘が1回「カーン」と会場中に響き渡った。

歌い終わり、司会者から「いかがでしたか」などと感想を聞かれると思ったら、「はい、次の方どうぞ」と押しやられた。

その日、祖母の実家で叔母の結婚式が開かれることになっており、のど自慢に出場後、会場に駆けつけた。

式の始まる前、小学生のめいが私を見つけると、大声で話しかけてきた。

「お兄ちゃん、のど自慢見たよ。

歌うとたんにカーンでしょう」。

テレビを見ていた親戚はみんなで大笑い。

そのとき歌手の夢はあきらめかけたが、「いや、初志貫徹だ。

親戚を見返したい。

今度はきちんと歌を学んで本格的に歌手を目指そう」と誓った。

そこで短大の時、歌手になるための養成所に入った。

ところがここは生徒が30~40人と多くレッスンもまともに受けられない。

ミュージカルもしたが、私は通行人。

どうしようもないので、地元テレビ局が運営する学校へ行ったが、ここもレッスンが少ない。

3回目は「札幌レンジャース」という40人で編成するジャズバンドのマスターである青木精一郎さんに直接教えを受けることになった。

私はそこで週に2日、練習した。

親は歌手になることを反対していたので、「英語の塾に通っている」と噓をついていた。

先生から学んだのはフランク永井の『霧子のタンゴ』だ。

そこで腹式呼吸や発声練習を基礎から学んだ。

おかげで夜のクラブで歌う仕事も舞い込んだ。

週に1回、フランク永井を歌い、出演料をもらった。

当時の大卒初任給の3分の1ぐらいに当たり、実入りは良かった。

このほかさっぽろ雪まつりや桜祭りで歌を披露し、「歌手活動」は大学時代を終えるまで続いた。

だが結局、デビューを申し出る声はなかった。

大学を卒業してからは歌手の夢は封印していた。

歌手「似鳥昭雄」については後日談がある。

ニトリが成長してからの話だが、会社の専務を通じて作曲家の弦哲也先生と知り合いになった。

たまに食事をする仲になったころ、先生の友人の店でカラオケ大会を年2~3回開くことになった。

これがきっかけ。

弦先生は「いけるんじゃないの。

経済人だし話題になるよ」と言う。

おかげでレコード会社のテイチクの80周年記念で川中美幸さんとデュエットし、CDを出す機会に恵まれた。

タイトルは「めおと桜」。

テレビ東京の歌謡番組「木曜8時のコンサート」で川中さんとデュエットでの出演も果たした。

北島三郎さんら大物歌手が10人程顔をそろえ、緊張感は尋常ではなかった。

大学出てから「50年越し」。

ようやく声がかかり、歌手デビューを果たしたわけだ。

名門大学合格へカンニング?歌手を目指した短大生活も終わりを迎えた。

やはりもう少し大学生活を満喫したい。

そこで編入試験を受けたのが北海学園大学だ。

当時から道内の私立大学ではトップクラスで、憧れていた。

もちろん自分の実力ではとうてい入れない。

試験科目は英語と経済学。

そこでカンニングを思いついた。

英語は編入試験を受ける同じ短大の友人に任せ、経済学は「俺がやる」と決めた。

ところが英語を担当する友人が問題を解くのに必死で、見せてくれない。

一方、経済学の試験内容は「マルクス・レーニン主義について知っていることを書け」。

私も必死で書いたが、教える余裕などなかった。

おかげで英語はさっぱりだった。

結果は私が合格し、友人は落ちた。

飛び上がって喜んだ。

私の点数は経済学が70点で、英語は5点。

両方で70点が合格ラインだった。

友人は「なんでおまえが受かるんだ」と愚痴る。

とにかくいじめられ、バカにされてきた幼少・青年期。

周囲を見返したいという気持ちが強く、北海学園大学には何としてでも入りたかった。

64年、念願の北海学園大学経済学部への入学を果たした。

本当にうれしかった。

「北の早稲田」とも呼ばれ、北海道では就職もいい。

「これで将来は約束された」などと勝手に浮かれていた。

先生を尾行して弱みを探るもっとも講義内容はちんぷんかんぷん。

留年は避けられないと両親に伝えたら、「絶対ダメ。

留年は一切認めない」と言う。

実家の似鳥コンクリート工業を早く継がせるためで、授業料や生活費を自分で払っているのに聞く耳を持たない。

といっても相変わらず両親は怖いので、なんとしてでも2年間で卒業しないといけない。

女性の先生には「きれいですね」と褒めたり、ワインを届けたり、できないなりにあらゆる努力を尽くし、単位を手に入れた。

今思えば、ばかばかしいこともした。

とにかく簡単には単位をくれない先生がいた。

そこでその先生の弱みを握ろうとして、後をつけてみた。

そのうち札幌市内に行きつけの飲み屋があることが分かった。

どうも店のママがお気に入りで、時間さえあればこの店で飲んだくれているようだ。

先生が飲んでいる日に私も入店。

そしてさりげなく先生に近づいた。

「偶然ですね。

私は先生の門下生です。

講義は本当に面白いです」と話しかける。

本当は全然面白くないのだが。

酒を飲んでいるうちに、先生が恐妻家であることが分かった。

そこで先生の奥さんに電話し、「教え子の似鳥と申します。

今日は先生を朝までお借りしますから」とアリバイ作りに一役買った。

そして先生に「ひとつお願いがあります。

白紙で出しても可をつけてくれませんか」と持ちかけた。

おかげでどんな答案でも「優」をもらえる約束をした。

試験当日。

「あのときの似鳥です。

よろしくお願いします」とだけ書き、白紙で出した。

ところが試験の結果は「0点」。

気が動転して、先生の部屋に駆け込んだ。

来客がいるが、関係ない。

「おまえ、何をやっているんだ」と怒る先生に対して、「何を言っているのですか。

私も怒っていますよ。

スナックでの約束を破るんですか。

0点じゃないですか」と言い放つ。

先生はけげんそうな顔つきをする。

しばらくして先生が気づいた。

別室に呼ばれ、「変な答案があると思ったが、あのときの君か」となだめられる。

次回の試験からは私も改めて「努力」して「良」は何とか取得した。

これも執念だ。

アルバイトでスナックの取り立て屋名門大学へ入ってもこんな調子。

やはり先生の言うことは頭に入ってこないし、講義中は、ぼーっとしてしまう。

学生運動も盛り上がっていたが、何が問題で学生が怒っているのか理解できない。

とにかく2年で卒業しないといけないし、金も稼がないといけない。

アルバイトでは夜のスナックで客の未払い金の「取り立て屋」をしたことがあった。

当時は高倉健や菅原文太らの任俠映画の時代。

私は角刈りにして浴衣をはおり、「その筋の人」を演じる。

品格もへったくれもない。

高校時代からかわいがっていた近所に住む弟分を引き連れ、ツケを払わない客の元へ出向く。

「ごめんなすって」。

もちろんなかなか支払いに応じようとはしない。

「払わないとはどういうことだ」と弟分が叫び、暴れる。

そして兄貴役の私が「お客さんは払わないとは言ってないだろう」となだめ役に回る。

するとたいていの客は払ってくれる。

スナックのママは「どうやって回収したの」と驚き、取り立てたお金の半分をもらった。

あとはパチンコ、ビリヤードにスマートボール。

特にビリヤードには自信があり、ハスラーとしてずいぶん稼いだ。

暇さえあれば、ビリヤード場に通っていた。

スマートボールはインチキばかりしていたら、出入り禁止。

パチンコ屋は裏で機械の操作をしている人と親しくなり、玉を多めに出してもらった。

悪事がばれたパチンコ屋の店員は解雇され、私も当然出入り禁止。

本当に悪いことばかりしていた。

大学で役に立ったのは野球部や柔道部など体育会の仲間たち。

父の会社を通じ、一軒家の基礎工事を請け負い、私は現場の総監督を務める。

上半身裸で、短パン一丁のいでたち。

大学の仲間はアルバイト収入を得ると同時に体を鍛えるという目的があったので、熱心に働いていた。

工事はやはり力仕事。

私も体育会の馬力には本当に助けられた。

私が事業主なので、報酬は当時の会社員の1・5倍はあった。

そんな破天荒な大学生活ながら、無事に2年で卒業できた。

論文は書いてもらったり、英語は「代返」してもらったり、大学で学んだことはほとんどなかったが。

 

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