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第3章何をやってもうまくいかない

第3章何をやってもうまくいかない

家出し、広告会社に就職1966年に北海学園大学を「無事」卒業、そのまま父の会社の似鳥コンクリート工業に入社した。

従業員は十数人で、業務内容は一軒家の基礎工事を請け負うほか、塀などを作っていた。

子供の頃から仕事を手伝っていた私はすでに10年選手の即戦力。

父も「待ってました」と言わんばかりだった。

ところが働いてまもなく、7月に盲腸を患った。

手術が遅れ、癒着してしまい、回復は思わしくなかった。

医者もしばらく安静にするように診断したが、親は「家で遊んでいる余裕はない。

働け」と言う。

扱いは幼少期となんら変わりはない。

復帰当初、住宅に使うコンクリート製品を作る仕事をしたが、傷は痛む。

自分の身は自分で守らなければならない。

そして母が米の配達をしているときを見計らって家出に踏み切った。

貯金は5万円あった。

大卒の初任給が1万5000円ぐらいだったから、しばらくは何とかなる。

家出した後、札幌市内の友人に頼み込み、家の屋根裏に住みついた。

その友人は高校時代、「不純異性交遊」が発覚し、退学になった1人だ。

1枚の布団で男2人が寝ていた。

ところが友人の彼女が頻繁に来るし、長くは滞在できない。

保証人もなく、部屋も借りられないので、住み込みで働ける仕事を探した。

そんな条件の会社はなかなかなかったが、1社だけ見つけた。

東京に本社を置く広告会社の共栄興業だった。

バスにつける広告を取るのが仕事で、札幌営業所は札幌競馬場前にあった。

オフィスは東京からの出張者、札幌の所長が寝泊まりするアパートを併設しており、私はそこに住まわせてもらった。

役立たずの営業マン6カ月契約の広告をもっぱら中小企業から取ってくる仕事で、会社と雇用契約を結んだ。

1カ月50万円の広告獲得がノルマだが、私は全く達成できない。

この頃、人前でまじめなことを話そうとすると赤面したり、言葉につまったりと、軽い対人恐怖症だった。

広告主の元へ行っても相手にされない。

たまに会えても、用件をうまく伝えられない。

もぞもぞしていると「何しに来たの」と言われ、追い返される。

ノルマが達成できないと本当は辞めさせられてしまうが、住むところもない。

そこで外回り後、寮の食事や掃除をする仕事を引き受けて、何とか残留した。

もっとも夕食は鍋やジンギスカンばかり。

先輩社員から「おまえ、鍋しか知らないのか」と言われ、毎日の献立を考えるのは苦痛だった。

料理本を買ったが、うまく作れない。

契約も取れないまま。

ノルマが達成できない他の新入社員は相次ぎ辞めさせられた。

私も解雇の対象だが、一つだけ生き残る道を見いだした。

花札だ。

所長が大の花札好きで、毎日のように所長室に呼ばれ、朝方まで付き合わされる。

実は花札は得意中の得意で、ほぼ所長を負かしていた。

私へのツケは3カ月分の給料に相当する金額になり、催促しても払ってもらえない。

私はこう言い放った。

「クビにする時は借金を返してくださいよ」

広告会社をクビになる6カ月が過ぎた。

契約は相変わらず取れない私だが、花札のおかげで辞めさせられない。

ところが、本社がこのことに気づき、所長に解雇するように伝えた。

所長は私へのツケをどこかで工面し、「悪いけど、これで辞めてくれ」とお金を渡され、ついに解雇されてしまった。

バス広告会社の共栄興業を解雇された後、履歴書を持って6、7社ぐらい回ったが、住所不定で保証人もいない。

せっかく北海学園大学を卒業しても職は見つからない。

金がないどころか、食べるのにも困る状況に追い込まれた。

友人宅を転々としてもさすがに迷惑がられる。

1カ月ぐらい帯広市や旭川市など北海道内を放浪した。

再び共栄興業の所長の元へ駆け込み、「何でもするから、会社に入れてほしい」と懇願した。

集金やバスの鉄板のデザイン、ステッカー貼りなどを担当した。

相変わらず営業はさっぱりで、行く気もしない。

サラリーマン時代の私がダメだったのは、ロマンとビジョンがなかったからだ。

やることもないので、学生時代に興じたスマートボール、ビリヤードはもちろんのこと、映画館に行ったり、パチンコ屋に入り浸ったり、時間をつぶすのが大変だった。

仕事をしたふりして会社に戻ると、上司は「どうだった」と聞いてくる。

給料をもらうだけなので、とてもつらかった。

仕事はダメだったが、若手だったこともあり、先輩からはずいぶんかわいがられた。

営業所兼宿泊所の夕食の片付けを終えると、スナックなどへ連れて行ってくれる。

これが本当に楽しみだった。

札幌市内の中の島ヘルスセンターというレクリエーション施設にもちょくちょく行った。

ある日、入浴後、50畳ある大広間でバンド演奏をバックに客が歌を歌っていた。

ほろ酔い気分で「下手くそ」などとやじを飛ばしていると、歌っている人の会社仲間と共栄興業の社員でけんかに発展してしまった。

他の客は逃げだし、もうめちゃくちゃ。

もみ合いで浴衣がびりびりに破れた人もいれば、素っ裸になった人もいた。

それでも収まりがつかない。

「じゃあ、外で決着をつけよう」ということになり、7~8人同士で豊平川に集結した。

相手はどうも大手の優良企業。

そのせいか酔いが覚めてくると相手の勢いは弱まり、結局謝罪。

けんかは終結した。

誤解を招いた花札遊び高度成長期の1960年代。

おおらかな時代だったのだろう。

先輩から「おい、女性を連れてこい」と言われ、ヘルスセンターに遊びに来ていた5、6人の女性グループに声を掛けた。

大学時代に学んだ「ナンパ」は成功し、みんなで5軒ほどはしごした。

飲み歩く中で、行きつけのスナックの女性と結婚した先輩がいた。

結婚後まもなく、その女性から「あんた仕事もないから、暇なんでしょう」と言われ、先輩のいない間に自宅にしょっちゅう呼ばれた。

女性は花札に目がなく、相手として呼ばれたのだ。

こちらは得意中の得意で、勝ち負けも自由自在。

気に入られ、調子に乗っているとたまたま先輩が早く帰宅してきた。

家に入るやいなや先輩は「貴様、俺の女房にちょっかい出しやがって」と怒り、包丁を持って追いかけてくる。

「誤解です」と言いながら裸足で逃げたが、分かってくれない。

翌日、女性が「私が呼んだのよ」と取りなしてくれ、騒ぎは収まった。

誤解は解けたが、私も悪い。

土下座して謝った。

女性問題でピンチエネルギーはあるが、展望のない共栄興業時代。

ロマンとビジョンのない私は本当にダメ人間だった。

病院勤務の女性と、今でいうパブのような店で知り合った。

結婚しようとすら考えた女性で、部屋に入り浸っていた。

だがあるとき、部屋に入ろうとすると、男の声が聞こえる。

車の中で待っていると、男が出てきた。

追跡すると、友人だった。

「おまえ、俺の女に手をつけて。

どうするつもりだ」と言うと、友人は「悪かった。

もうしないから。

彼女は返すよ」と言う。

さすがにそれも困る。

話し合い、別れることになった。

それからしばらくして、彼女が父親とともに私の家に訪ねてきた。

相手の父親は「一人娘を傷物にした以上、責任をとれ」と迫ってきた。

一度浮気した女性と結婚する気にはなれず、きっぱり断った。

すると「うちは道東で運送業と洋品店をやっている。

後を継げばいい。

仕事は従業員がやってくれるから」とまで言う。

そこで友人を探して「一生のお願いだ。

おまえも付き合いがあったことをしゃべってくれないか」と頼みこむと、渋々承諾してくれた。

友人が正直に話し、彼女が二股を掛けていたことが分かると、親はびっくりしてしまった。

さすがにあきらめて「分かりました。

別れに伴う慰謝料はあなたの誠意に任せます。

後日、札幌から家まで娘を届けてくれ」と力なく答えた。

親の言う通り、短大時代の友人と彼女を自動車で連れて帰ることにした。

途中、千歳市のパーキングで停車していると、彼女は逃げ出してしまった。

一度実家に戻ったら、もう札幌に帰れないと考えたからだろう。

嫌がる彼女を何とか捕まえ、車に乗せようとしたら、通りすがりの人が110番に通報した。

噓をつかれて留置所に警察官が駆けつけると彼女は「無理やり車に乗せようとしたのです」と噓をつく。

私と友人は「違います」と釈明したが、留置所に入れられてしまった。

何でこんなに目に遭うのか。

ぼうぜんとした。

すると数時間後、警察官が来て「釈放だ」という。

いったん警察署を去った彼女だが、さすがに悪いと思ったのか、被害届を取り下げ、事実を話してくれたのだ。

再び彼女を車に乗せ、実家に着いたのは深夜の1時か2時。

相手の親は「泊まっていけば」とねぎらってくれたが、断って再び札幌に帰った。

だが悪いことは重なる。

帰りの暗い道中、タイヤがパンクし、車中泊となった。

信じられないだろうが、本当の話だ。

ちなみに家具店開業後、その親が払っていない慰謝料を取りに来ることになる。

楽しい広告会社時代だったが、ノルマを達成することはできない。

結局、「君は成長しないな」と言われ、6カ月で再びお払い箱になった。

6、7社ほど面接に行ったが、全く相手にされない。

それで札幌市内をふらふらしていると、父の弟で似鳥コンクリート工業の専務にばったり会った。

「だらしない生活をいつまでしているんだ。

仕事がないなら、手伝え」と言われ、そのまま会社に戻った。

叔父は水道工事を手掛ける部門の責任者で、旭川での水道工事現場の監督の助手をすることになった。

1年ぶりの実家へ仕事するのはいいが、家に帰るのはおっくうだ。

1年ぶりに自宅へ戻ると父は珍しく酒を飲んでいる。

「突然、家出して申し訳ない。

これから旭川で仕事をします」と伝えると、父は「何しに帰ってきたんだ」と怒り、一升瓶を投げつけた。

ベランダのガラスは粉々に砕け、慌てて叔父とともに逃げ出した。

本当はうれしかったのかもしれないが、相変わらずだ。

母はなぜか占師に聞いて、「札幌で元気にしている。

大丈夫」というお告げを聞いていたそうだ。

そのせいか、怒られることはなかった。

旭川で監督の助手を務め、測量などの仕事などを覚えた。

2カ月後、滝川市で10人ぐらいの水道工事の現場監督をするようになった。

主に上水道と家庭を結ぶのが仕事だ。

冬は零下10度でとにかく寒く、ドラム缶の中に木を入れて、灯油をぶっかけ、暖をとっていた。

夜間にはガソリンを入れ、ドラム缶に入れると激しく燃える。

異様な風景だった。

監督になったのはいいが、現場作業員をまとめるのが大変だった。

昔からの似鳥コンクリートで働く社員もいるが、半分は東北など各地から集まる季節労働者だ。

そのリーダー格は体中に入れ墨を彫り、100キロはある巨漢だった。

昼間から酒を飲み、遊んでばかりいて面倒な仕事は避ける。

厳しい仕事ばかり押しつけられて、昔からいる作業員からは当然不満も生まれる。

季節工と力比べ、相撲、花札、酒で勝負「俺たちも面倒な仕事はしたくない」と不平を鳴らし、従業員たちはストライキに入る。

そこでリーダーに「みんなと同じように仕事をしてくれないか」と頼んだ。

すると「文句があるなら部下たちを引き揚げるぞ」と脅す。

「どうしたら言うことを聞いてくれるのか」と聞くと、「力比べ、相撲、花札、酒で俺と勝負して、全部勝ったらな」と無茶な条件を突きつける。

花札、酒なら勝てるかもしれない。

相撲は得意だが、相手は大きい。

まず花札は勝った。

力比べは70~80キロの石を持ち、何歩歩けるのかという競争だ。

石を運ぶのは仕事で慣れており、勝利。

そして相撲だ。

私の体重は60キロしかないが、熱戦の末、奇跡的に勝てた。

相手は感心した表情を見せる。

次は酒飲み競争。

お互い必死で飲み続け、勝負がつかない。

これ以上飲むと仕事にならないので引き分けた。

すると親分は「おまえの勝ちだ。

大学出の割にやるじゃないか。

言うことは聞いてやる」と言い、和解できた。

「監督はたいしたものだ」。

これには生えぬき社員も感心してくれた。

この頃は寝る間も惜しんで働き、もらった給料もみんなを飲みに連れて行き、2日間で使い切った。

札幌や釧路、旭川など道内のどこの現場よりチームはまとまり、仕事のスピードはどこより速く、利益率も群を抜いた。

季節工を従わせ、滝川市での水道工事の現場を巧みに取り仕切ったのもつかの間。

ある日、雪のちらつく中、消防車のサイレンが響き渡る。

どこかで飲みながら「おお、大変だな」などと思っていたら、どうも似鳥コンクリート工業の工事現場らしい。

慌てて駆けつけたが、もう遅い。

作業員宿舎が火の不始末で全焼してしまった。

給料を失った従業員もいた。

現場はとりあえず解散だ。

私は責任を取り、辞めることになった。

 

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