第4章日本に「豊かな生活」を実現したい
家業に見切りいまさら現場の従業員で働くわけにもいかず、途方に暮れていた。
札幌市の自宅へ戻ると、似鳥コンクリート工業の跡継ぎになる路線は変わっていた。
父に相談したとき、「会社は毎年赤字だし、これ以上続けても将来性はない。
自分の道を考えろ」と言う。
入社してすぐ「常務」だったのに、人生は振り出しに戻った。
何で身を立てるか、あれこれ考えてみた。
実際に私が起業してまもなく、コンクリート会社は清算した。
事業に固執せず、見切りをつけた父は偉かった。
ちょうど似鳥コンクリート工業の所有する30坪の土地・建物があった。
ここで中学生か高校生の時、母が雑貨屋を営み、駄菓子などの量り売りをしていた。
私も店番をしたことがあり、かわいい子には多めにあげていた。
大学時代は母から会計を頼まれたが、ごまかしてお小遣いにしたら母にばれ、「おまえはクビだ」と言われた。
私がダメなので母は取引のある銀行員に会計を任せた。
すると銀行員もごまかしたのだから笑ってしまう。
その銀行員は数年後、車上荒らしで捕まってしまった。
裏切られ続けた母が疑い深くなるのも分かる。
周囲になかった家具店を開業その後、パチンコ屋に貸していたが、建物の中が火事で燃えてしまう。
別のパチンコ屋から貸してほしいという申し出もあったが、この建物で商売でもやろうと決めた。
周辺は引き揚げ者住宅など、割と住宅も多い。
衣食住のうち、周辺を探すと家具屋だけがない。
家具屋は当時、札幌の中心部にしかなく、競争がない状況だった。
当時は家具の将来性や可能性など何も考えていない。
当然チェーン店という発想もない。
食べていくための生業として家具販売を選んだ。
しかし同業の知り合いもいないし、問屋も知らない。
探し回っていると家具屋で働いた経験のある遠縁の人がいた。
1、2時間かけて遠縁の自宅を訪ね、彼が家具問屋を紹介してくれることになった。
しかし、手当たり次第、家具問屋を回ってみたが、全く相手にされない。
ある問屋の専務は面会してくれたが、「あんた23歳だろう。
まだ無理だよ。
他の会社に勤めた方がいい」と諭す。
私は「いや、どこでもダメだったのです。
現金は用意していますから」。
親と知人からかき集めた100万円があった。
しかしリスクが多いと思われたのだろう、売ってくれなかった。
2社目も3社目もダメ。
ところが最後となる本多興産という問屋があり、40歳前後の営業部長が出てきてくれた。
これまで取引を断られてきた経緯を話した上で「若いし気力十分です。
もうここしかありません。
何でもやりますから。
教えてほしい」と懇願した。
すると「本当に何でも言うことを聞くか。
俺たちも小売りに興味がある。
やり方は任せてくれるか」と返答してくれた。
別の問屋の部長にも声をかけて「どうしたら売れるのか、実験をしてみないか」と持ちかけてくれた。
そして2人で相談し、ソファや食器棚、テーブルなどすべて用意した。
「これでどうだ」というが、判断などしようもない。
「はい、これでお願いします」と仕入れが完了した。
チラシは私が作ったが、大ざっぱ。
写真は1枚もなく、商品名とサイズを書き連ね、値段を赤字で書いただけの宣伝だ。
67年12月、札幌市北26条西5丁目に1号店をオープンした。
イメージ優先、看板に「偽り」ちなみに店名は「似鳥家具卸センター北支店」。
卸とつけることで「安い」イメージを与え、センターは「大きい」というイメージが湧く。
北支店としたのは他に本店があるように思わせるためだ。
来店客に「本店はどこですか」と聞かれたが、「本店はここから南へ車で1時間ぐらいの所にあります。
行きますか」と答えるとそれで話はおしまい。
我ながら浅知恵も甚だしい。
チラシをまいただけだが、オープン後、結構売れた。
ところが1週間を過ぎると、ぱたっと売れなくなる。
月間販売額60万円を下回ると赤字だが、40万円ぐらいしかいかない。
問屋からも「手のうちようがないな。
このままじゃつぶれるから、何とかしろ」と言われる。
仕入れ代金の取り立ても厳しい。
アルバイトも従業員も雇えず、厳しい洗礼を受けた。
67年12月に開業した「似鳥家具卸センター北支店」だが、4カ月たっても、売り上げは全く伸びない。
妹が夕方に高校から帰ると配達を手伝ってくれるぐらいで、従業員を雇う余裕はない。
もっとも平日は客も少なく、ろくに努力もせずに漫画雑誌などを店で読みふけっていた。
配達のために午後4時にはいったんシャッターを下ろしてしまう。
すると「商店街としては困る」と言われる。
似鳥と書いてあるので、たまに「焼鳥屋ですか」と勘違いする客もいた。
その後はひらがなの「にとり家具」、カタカナの「ニトリ家具」、「ニトリ」などと7度店名を変えた。
店の2階で寝泊まりしていたが、お金がなく、食べるものにも困る始末。
一日三食、15円の即席麺ばかり食べていたら、脚気になり、視力も低下してしまった。
にこにこ笑って接客していると、歯茎から出血し、気味悪がられる。
見かねた母が店に訪れ、食事の面倒を見てくれるようになり、何とか体調は戻った。
だが相変わらず商売はうまくいかない。
理由は私の性格。
そもそも広告会社の営業で何もできずに解雇されたぐらいだ。
緊張して体が固まり、汗が噴き出て、鼓動も激しくなる。
接客のセリフは考えてあるのに、初対面の客とまともに商談ができないのだ。
8回目のお見合いで出会った伴侶窮状を見かねた母がある日、こんな提案をしてきた。
「結婚すればいい。
そうすれば炊事洗濯だけでなく、販売も配送も手伝ってくれる」と言う。
好きな女性を連れてこいと言うので、大学時代からの知り合いでお気に入りの女性を母に紹介した。
すると母はこう言う。
「あの子はいい娘さんね。
でも美人はお客さんから嫉妬されるから」と認めず、「愛嬌があり、丈夫で長持ちする人を連れてきなさい」と言う。
お見合いの数はわずか数カ月間で7回。
ただ、こちらが気に入っても「長時間労働で親と同居」「店の経営もぎりぎり」という過酷な条件で結婚してもらえる人は少ない。
その年の春、8回目のお見合いで出会ったのが今の家内の百百代だ。
百百代は北海道興部町出身で、札幌市の洋裁学校で勉強し、妹とアパートに住んでいた。
その大家が母の友人という関係から縁が生まれた。
ちなみにアパートの大家さんの息子が、大学時代に借金取り立ての仕事を手伝い、乱暴者を演じた私の弟分だ。
2回ほど会ったが、百百代は「好きな人がいる」と断ってきた。
実は結婚するには早すぎるというのが本当の理由だった。
あるとき実家に戻ったところ、なぜか百百代が父と母と一緒にいる。
どうやら両親の眼鏡にかなったようだ。
父は「いいお嬢さんじゃないか。
結婚しろよ」と迫る。
断ってきたのは相手のはずだが、百百代は父母の熱心な説得に応じて、実家を訪ねてきたという。
何より家具店を切り盛りすることに興味を覚えたそうだ。
両親は「朝までに返事しろ」と強硬で、結局結婚を決めた。
24歳の私と20歳の百百代は68年6月16日、札幌ロイヤルホテルで式を挙げた。
結婚式を含め、2人で会ったのはたったの3回だ。
家内は愛想がいいだけでない。
何でも高校時代は「女番長」だったそうで、度胸も満点。
年間売上高700万円が採算ラインのところ、開業当初はわずか500万円。
だが百百代は商売上手だった。
結婚1年目から1000万円に達した。
居住スペースだった2階も売り場にして2年目には1500万円にまで伸びた。
結婚した翌年には長男が誕生したが、おんぶして接客していた。
おかげで私は配達と仕入れに専念できた。
実はこの役割分担が似鳥家具卸センターを成長させる原動力になった。
もし私が販売上手だったら、ただの優良店に終わっていた。
私が苦手な販売を放棄し、仕入れや物流、店作りに集中したことで企業として羽ばたくことができた。
内助の功家内は腹が据わっているというか、私が1カ月連絡しなくても文句一つ言わない。
若い頃は両親と同居し、子育て、家具店の手伝いと目の回るような忙しさだった。
それで体調を崩したこともあったが、本当に愚痴を聞いたことがない。
変な話だが、最初に両親に紹介した美人の「妻候補」の写真がアルバムに貼ってあるが、非難されたことはない。
大学から付き合いのあった女性が結婚した後も店へやってくる。
共通の友人が入院し、一緒に見舞いへ行くのだが一言も言わないし、嫉妬もしない。
本当に仕事以外は自由にさせてくれて、だから仕事に100%集中できた。
「仮に外に子供ができたら、私が育ててあげるわよ」とまじめな顔をして言われたことがある。
もちろんそんなことはなかったが。
私も家内の意見ややりたいことは尊重した。
かつて母親に言われたことがある。
結婚と恋愛は別のものだ。
恋愛は短いものだが結婚生活は50年。
そこから逆算して恋愛に入ればよい。
長期計画が必要だと。
「まるでニトリのロマンとビジョンみたいで、会社経営の参考になるな」と感心した。
恋愛は目先のことだが、結婚生活は長いスパンで最適状態を導く経営に似ている。
束縛の結果、お互いに嫉妬して負のエネルギーに時間を費やしてはいけない。
役割を分担して早めに長期的な視点に立った良好な関係を作ることが大事だ。
だから若い頃は飲み歩き続けても家内が文句を言うことはなかった。
これがニトリ成長の原動力になったのは間違いない。
家内の加入で似鳥家具卸センターは軌道に乗った。
振り返ると「内助の功」のエピソードには事欠かない。
結婚して間もない頃、〝こわもて〟の客が「値段を半分にしろ」と怒鳴り出したことがあった。
「それはできません」と家内が答えると、その人たちは土足でソファの上に飛び乗り、真っ黒に汚してしまう。
家内は商品にならないので「弁償してくれ」と頼むと、逆に「俺を誰だと思っているんだ」とすごんでくる。
家内も負けていない。
お互いに言い争いをしていると、こわもてはついに根負け。
「家に取りに来てくれたらソファ代は払うよ」という。
そして家内はその人の家に行ってしまった。
私は行き先がさっぱり分からず、1人でおろおろするばかり。
あとで家内が戻り、いきさつを聞くと、思わず笑ってしまった。
こわもての客の家にはドーベルマンが2匹いて、その犬に生肉を与えて、どう猛さを見せつける。
少し家内をびびらせようと思ったのだろう。
ところが家内はドーベルマンが肉を食らう姿を見て、冷静に「それ何の肉ですか」と聞いたという。
当時の肉は貴重で、牛肉でも豚肉でもめったに食べられず、つい好奇心が先立ったというのだ。
こわもての客は「怖くないのか」と聞くと、家内は「肉がもったいないですね」と答える。
相手はすっかり拍子抜け。
「おまえいい度胸しているな」と言われ、ソファ代を払っただけでなく、たびたび親類縁者や知り合いを紹介してくれ、お得意様になった。
家内は自動車の販売会社やジンギスカンチェーンの社長など金回りのいい人に好かれる性格だったようだ。
自動車の販売会社社長は社員もお得意様にしてくれた。
おかげで似鳥家具の売り上げは順調に伸び、少し余裕が出てきた。
元彼女にトラック1台分の家財道具一方の私は腰が定まっていない。
仕入れと配達が私の役目だが、レジから黙って金をかすめ、悪友たちと居酒屋で飲んだり、パチンコ屋へ行ったり。
まともにパチンコ屋に行くとばれるので、店から100メートル離れたところに配達車を駐車していた。
もっとも車には「似鳥家具」と書いてあるので、すぐに見つかり、「毎晩飲んでもかまわない。
でもお客さんが家具を欲しがっているのだから、困るでしょう。
しっかり配達して」とどやされる。
暑い盛りの日、美人のいる配達先でビールとおつまみが出た。
そこに2時間ほどいついてしまった。
しばらくして家内を車に置いてきたことを思い出し、戻ってみると家内はいない。
慌てて家に帰ったら「別れてやる」と激しいけんまくで、家出のための荷造りをしていた。
女性のことではなく、仕事への怠慢ぶりにキレたのだ。
このときばかりは頭を地面にすりつけて許しを請うた。
ある日、1人の男性客が店を訪れ、「私は似鳥さんが広告会社時代に付き合っていた女性の父親です」という。
共栄興業時代、一時結婚してもいいと思っていたが、友人とも二股をかけ、結局ひどい別れ方をしてしまった女性だ。
「あー、思い出しました」と答える。
その父親は事業もしていたが、うまくいかなくなり、娘の結婚費用も満足に出せないという。
男性は1万円を差し出し、家財道具を一式売ってほしいという。
実は別れたときに約束した慰謝料が支払われていないので、その分を家財道具で許してやろうというつもりだった。
私は家内に再び土下座し、過去の経緯を話した。
すると怒らずに「それはあんたが悪い」ということになり、好きなだけ持ち帰ってもらうことにした。
ほぼトラック1台分で、売り上げ1カ月分に当たる。
配達後、家内はこういった。
「あんたの小遣い、今月からゼロよ」家財道具を差し上げた「彼女」とは因縁があったのだろう。
1976年に手稲店を開業したときの話だ。
店先でオープンの作業中、顔を上げると、何と彼女がいて、目と目が合い、挨拶をした。
ただ隣にはそのご主人がいて、次の言葉が出てこない。
すると彼女がご主人に「学校の先輩なのよ」と紹介する。
男はとっさの時に慌ててしまうが、「女性というのは臨機応変に行動するものだなあ」と妙に感心してしまった。
噓並べ融資引き出すさて1号店が軌道に乗り、徐々に事業欲も湧いてきた。
だが駐車場もなく、商売には限界がある。
そこで2号店を父が経営している似鳥コンクリート工業の所有地に作ることを考えた。
そのためには1500万円程度の資金が必要だった。
父は「おまえの若さではお金を借りられないよ。
もし借りられたら土地を貸してやる」というので北洋相互銀行(現在の北洋銀行)に向かった。
融資担当は「半分は貸しますが、残りは他の金融機関でお願いします」という。
後で聞いた話だが、似鳥の信用力では無理なので断る口実だったそうだ。
必死に金融機関を駆けずり回ったが、全く相手にしてくれない。
あるとき鏡に映る自分を見ると、顔面蒼白で、悲壮感が漂っている。
「この顔にはお金を貸さないだろう」と思った。
頰紅を塗り、血の気があるように装った。
母に言われたことを思い出した。
「いつもにこにこしていないといけない」。
満面に笑みをたたえ、地元の信用金庫に出向いた。
ここが最後だ。
準備万端整えて朝一番で門をたたいた。
資金の使い道などを支店長に説明すると、書類をそろえて後日来てほしいという。
そこで一芝居打った。
「今日決めてほしいんです。
北洋さんや北海道拓殖銀行も貸したいと言っています。
一番近いし、親近感があったので取引をしたいと考えただけです」と噓を並べ立てた。
当時の融資で500万円以上というのは信金には大きな決断だが、こちらの自信満々の姿勢に賭けてみようと思ったらしい。
その日に決裁するには午後3時までに決めないと融資はできない。
「ちょっと待って下さい」。
支店長や支店長代理らは延々と会議を開き、協議をした。
結局、支店長が本店に掛け合い、融資を決めてくれた。
融資がOKになり、父は「本当か」と驚きながらも約束を果たした。
71年、札幌市北28条東1丁目に2号店となる北栄店を出店した。
250坪の店で、北海道では初となる郊外型の家具店。
当時、一番大きい家具店の2倍の大きさだ。
自動車も6台駐車できる。
この店が驚くほど売れた。
金利負担がもったいないので信金には2年後には借入金を返済した。
支店長は「クビにならずに済んだよ」と笑い、その後、栄転していった。
それ以降、信用金庫からお金を借りることはなかった。
わらにもすがる米国視察72年に資本金300万円で株式会社を設立。
当時は上場することなど考えていない。
株は適当に家族に分けた。
もっともこのやり方が騒動の元になるのだが、その話は後ほど。
店が増え、会社も作ってからまもなくのこと。
2号店から500メートルぐらい離れた場所に1200坪の家具店が出店した。
とたんに売上高が20%減、30%減と落ちていった。
資金繰りは悪化していく。
赤字になり、金融機関から融資をストップされる。
取引先への支払いも延ばしてもらった。
苦労して手に入れた借入金を信用金庫に返済するんじゃなかった──。
このままでは倒産する。
もう鬱状態になり、死ぬことばかり考えていた。
憂鬱な日々が続く中、家具業界のコンサルタントを務める人物から、米国の家具店を視察するセミナーの話を持ちかけられた。
苦境を脱出するため、わらにもすがる気持ちで50人あまりの同業者などと視察に参加した。
費用は40万円。
懐事情を考えると、厳しかったが、何とか工面した。
27歳の時だ。
ハワイ経由で米国西海岸に降り立った。
百貨店の「シアーズ」の家具売り場や家具専門のチェーンストア「レビッツ」などを見て回ったが、店舗とモデルルームの視察でまず驚いた。
洋服タンスや整理タンスなど日本でおなじみの箱物家具がない。
米国の家ではクローゼットの中に組み込まれているからだ。
参加者は口々に「米国と日本は違う世界だね。
食生活も文化もすべてそうだ」というが私はそうは思わない。
「同じ人間がやっているんだ。
日本人も便利さや安さを今以上に求めるはず」そう考えると目に映る店のすべてがとても貴重な情報に思えてきた。
品質や機能も素晴らしいし、用途や価格帯も絞り込まれている。
米国の家具は色やデザインがしっかりとコーディネートされ、ダイニングやリビングも豪華で美しい。
日本はメーカーが作った商品を並べて売っているだけで、お客様にセンスがないとちぐはぐなコーディネートになる。
米国視察で目覚めるしかも米国の家具は日本の価格の3分の1と安い。
すなわち実質的に米国の所得は日本の3倍あるということを意味するわけだ。
米国の豊かさはモノの値段から来ていることを初めて理解した。
「日本でも米国の豊かさを実現したい。
自分の力で給料を3倍にすることはできないが、価格を3分の1に下げることはできるかもしれない」。
そんな気持ちがふつふつと湧いてきた。
これまでの自分の悩みがちっぽけなものに思えてきた。
帰国し、参加者の中で気のあった仲間と話し合った。
「米国風のまねをしてみよう」。
顧客のニーズを先取りすることで、競合店にも勝てる。
結局、実行に移したのは私だけだった。
現実にとらわれず、素直に実行することは私の持ち味だ。
そういえば米国視察では一つトラブルがあった。
シアーズ店長による通訳を通したレクチャーを受けたとき、感動しながらも眠ってしまった。
目が覚めると誰もいない。
ホテルの場所も分からず、旅行会社も迎えに来ない。
英語は当然できない。
ショッピングセンター中を探し回ったが、見つからない。
「このままのたれ死ぬのではないか」。
あのときは本当に不安だった。
2号店の経営が思わしくなく、わらにもすがるような気持ちで参加した米国視察ツアーで、私は間違いなく覚醒した。
米国のような豊かな生活を日本で実現したい。
そのための企業に育てようという明確なロマンが芽生えたのだ。
帰りの機内でこれからの自分の決意表明を決めて、実行することをメモ書きした。
米国は今日の豊かさを作り上げるのに120年かかった。
日本でそれをまねするだけなら、60年でできるはず。
しかし60年だと90歳近くになってしまう。
そこで60年を2期に分け、前半の30年で何ができるのかを考えた。
最初の10年は「店作り」、次の10年は「人作り」、その次の10年は「商品作り」だ。
漠然としながらも、長期計画を初めて作った。
私は勉強ができない。
中学も高校もいつも最下位グループだった。
人生を切り拓くには実行力しかない。
3号店出店へ粘りの交渉ライバル店の出店で苦しんだが、やられたらやり返す。
札幌の東西南北に敵を取り囲むように店舗網を作ろう。
帰国後、闘争心が湧いた。
日本では5店ぐらいが限界と言われたし、自分もそう思っていた。
まずは10店だ。
豊かな生活実現の前に相手をつぶしてやる。
早速3号店を作ろうと土地を物色した。
すると札幌市麻生に角地の好物件を見つけた。
当時は賃借ではなく、出店地は購入するしかない。
その土地は好立地で、近くに広くて、有力な街道が通っている。
流通企業などにとっては垂涎の的だ。
ただ「難攻不落」の土地として有名だった。
地主の4人兄弟が所有しており、売却話になかなか首を縦に振らない。
お願いに行くと、地主の長男が段ボール箱に山のように入った名刺を見せる。
すべて買収を申し入れて断られた人のものだった。
そこで「私は米国のような豊かな暮らし作りをお手伝いしたい。
土地はそのための拠点にしたいんだ」と熱弁を振るった。
視察ツアーでの話をとうとうとした。
写真などを見せ、「言い値で買います」と伝えた。
大事な交渉は売り上げやもうけの話ばかりではダメ。
「人のため、世のため」というのが気に入られたようだ。
長男の地主が納得して、兄弟を説得してくれた。
もっとも坪35万円だった。
相場より15万~20万円ぐらい高い。
土地代は当時の似鳥家具の年間売上高の半分近くに達するが、採算のことなんか、何も考えなかった。
「絶対に当たる」という勘だけが頼りだった。
おかげで周辺の不動産会社から「相場を壊す。
どうしてくれるんだ」と散々文句も言われた。
もっとも資金はない。
それどころか仕入れ代金の支払いを繰り延べしてもらうような状態で、倒産の噂も立った。
苦しい状況で融資をお願いしても受け入れてもらえない。
攻めていくという姿勢で融資を引き出そうと決めた。
北洋相互銀行(現北洋銀行)へ出向き、「3店目をやるから」とお願いした。
支店長は「つぶれるような状況なのに、とんでもない」。
業績が悪いわけだから初めは断られた。
それでも、「いい場所だから」とすがり、地主相手と同じように米国の話をしながら説得に説得を重ねた。
相手の都合は関係ない。
もう借りることは決めているから。
もはや米国視察に行く前の発想と行った後の発想は違う。
リスクなんて頭にはない。
攻めることしか考えなかった。
支店長をその場所に連れて行くと「確かに好立地だ」と納得し、融資を認めてくれた。
交渉事は断られてからがスタートだと考えている。
大半は3回断られたら、やめてしまう。
私は4回目からが本番だと考えるようにしている。
もっともしつこいだけじゃダメ。
愛嬌と執念が大事。
これはヤミ米販売時代の母の指導のおかげだ。
銀行から融資を認められ、73年、10台分の駐車場を備えた麻生店が開業した。
もともと安売りのイメージを出すためだけに「卸センター」を掲げてきたが、大きく変更した。
当たり前だが卸もしていないし、センターというほど大きくない。
きちんとした名前でまっとうな商売にしようと思い、「詐欺」のような看板を下ろした。
一方で、米国の影響もあり、外観は派手な色を施したデザインに一新した。
ニトリ家具の誕生だ。
お札に似たクーポン券が問題に勝負をかけた麻生店。
とにかくたくさんのお客様に来店していただこうと、開店イベントに知恵を絞った。
まず最寄りの地下鉄駅から幅90センチメートル、長さ50メートルの赤いカーペットを敷き、たくさんののぼりを立てた。
同時に駅で砂糖を無料でプレゼントするクーポン券を大量に配った。
ところがこのクーポン券が問題になった。
表に当時の1万円札のデザインを施し、裏に砂糖引き換えなどと記した。
実はサイズも1万円札と同じで、紙幣偽造の罪に問われるというのだ。
印刷会社も大らかで1万円札のクーポン作成を頼むと、リスクなんて一切考えない。
「面白いですね。
やりましょう」という感じだ。
警察が「出頭しろ」と言うが、怖くなって逃げ出してしまった。
だが父が「こんなことで捕まるなんて代々の恥だ。
出頭に応じて釈明しろ」と言う。
渋々警察へ出向き「本当にこれが罪になるなんて知らなかったのです」と頭を下げ、無罪放免となった。
このほか麻生店のオープン時には隣の敷地を借りてチャリティーオークションも開催した。
北海道で人気の漫才師を司会者に起用したら、初日は渋滞だらけで大混雑。
私も2階に上がれないほどのにぎわいだ。
やはり最高の場所だった。
融資してくれた銀行の支店長も喜んでくれ、「これで助かった」と胸をなで下ろしていた。
1年目は初期投資でさすがに赤字だったが、2年目には黒字化に成功した。
話題になったゴリラのCM集客には目を引くような宣伝が欠かせない。
そのノリで作ったのが1975年に始めたゴリラのコマーシャル(CM)だ。
この頃、映画で「キングコング」がヒットするなど、ゴリラが話題を集めていたからだ。
「一度見たら忘れられないゴリラのCMを作りたい。
人間が出演するよりインパクトもある」と思い、わざわざ映画会社から本物のゴリラの着ぐるみを格安で借りて、自分でシナリオを書いた。
オスとメスのゴリラを想定したが、2体とも同じ形なので差が分からない。
そこで生地を購入し、オス用の青いパンツと女性用のピンクのパンツとブラジャーを作ってもらった。
だが生地が足りなくなり、オス用のパンツは短く、半分脱げているようなひわいな格好になってしまった。
とにかく撮影をスタート。
1作目は寝る前の夫婦のゴリラの様子を描いている。
化粧台でおしろいを塗るメスを見ながらオスが「うちの家具、ニトリの家具。
俺、男前のゴリラ。
俺のカミさん、もちろん美人のゴリラ」と語る。
そしてオスが「すること人間と同じ」と話しながら2匹はベッドインする。
ちょうどこのCMで提供した番組がカップルを作る「パンチDEデート」だった。
番組とパンチの効いたCMの親和性が高かったのか、ゴリラCMは話題を呼んだ。
別のパターンでは、ベッドに寝ころびながらオスゴリラがなぜか関西弁で「ほんま、ええなぁ。
この家具」と言うと、メスゴリラが「イタリア製やさかい、高いねん」と答える。
再びオスが「なんぼやねん」と問いかけると、「3リラ、4リラ、5リラ。
ちょうどゴリラやわ」。
そして「夢の世界を演出する家具のニトリ」というナレーションとともに、やはり2匹のゴリラはともにベッドインするという内容だ。
このCMは似鳥家具の知名度アップにいくらか貢献した。
着ぐるみの運搬、撮影など広告会社に頼まず、自社で制作した。
業務はできるだけ内部でこなす自前主義はこの頃から培われていたと思う。
私らしいと言うか、このゴリラCMでもオチがあった。
朝の番組でオスとメスのゴリラが折り重なるパターンのCMを放映したら、「子供が見ているのに、なんて不謹慎なCM」と視聴者から大量のクレームがついた。
結局、ゴリラCMは中止に追い込まれてしまった。
それ以降も、オープンイベントには工夫を凝らし続けた。
77年の月寒店のオープン前、北海道大学の探検部が気球で津軽海峡を渡るというニュースを見た。
これは使えると思い、気球が飛んでいるCMを放映。
オープンの日には店舗前で気球に来店客を乗せて、浮かせたこともあった。
もっとも気球に許可なく人を乗せることは禁じられており、警察から大目玉を食らった。
78年の厚別店のイベントでは日本一の大きさの太鼓という鬼太鼓を借りてきた。
直径2メートル、長さ3メートルもある太鼓で、これを従業員が二手に分かれ、オープンセレモニーで曲打ちを披露するなど、とにかく顧客の目を引くイベントにこだわった。
断食で自己改革とにかく「日本を豊かにする」ためという志が明確になった。
ニトリを拡大し、日本の発展に貢献したかった。
そのためには30歳からは厳しい時代を迎えるだろう。
自分を甘やかしてはいけない。
普通の生活をしているだけではダメだ。
そこで荒行に堪えられるように断食道場に入った。
人間には色々な欲望があるが、一番厳しいのは食を断つことだからだ。
北海道にはないので、本州の道場に入った。
そこには医師の資格を持った人もいて、受け入れ体制もしっかりしていた。
水だけの生活をしていると、最初3日間は苦しいだけ。
ところが4日目に入ると、色々なことが頭を駆け巡るようになる。
なぜ自分は生きているのだろう。
厳しかった両親や兄弟、社員のおかげで生かされている。
そして土、水、太陽の恵があり、生存できる。
どれが欠けても自分が生きていくことはできない。
「俺はわがままだった。
社員にもきつく当たってしまった」。
反省心が浮かび、自然に深く感謝するようになった。
「これからはみんなのために生きるんだ」と。
涙が止めどなく流れ、その思いをメモに残した。
不惑となる40歳までやろうと思ったが、結局惑いっぱなしで45歳まで断食を続けた。
分かったことがある。
仕事というものは、エゴやプライドによって相手の立場を忘れてしまうと失敗する。
欲があるうちはダメだ。
無になるしかない。
断食をしているうちにそんな境地に達した。
大した経験もないのに、過去の自分の成功体験や欲があるからダメなんだ。
いかに顧客の立場に立てるか、立てないか。
そのためには自分をゼロにするしかない。
私なりに自分の経験には自信がある。
だが最初に経験でものを語らない。
まずは顧客にとって必要なことは何かを突き詰める。
その上で自分の経験で判断し、決断する。
「業界ではこうだった」とか「自分の経験ではこうだった」とか、最初に過去の成功方程式を出したら終わりだ。
私は20代の女性、子供など老若男女、性別関係なしに色々な顧客の立場に立てる。
苦労が足りない人ほど、自分の乏しい経験で結論を出したがる。
だから若い頃には厳しい下積み生活が欠かせない。
私はゼロになれる自信がある。
そしてみんな平等。
これがニトリの経営スタンスで、グローバル化するための条件だと思う。
倒産品を買い付け、安売りで勝負さて3号店となる73年開業の麻生店(札幌市)は成功を収めたが、軌道に乗るのはまだ先の話。
業期は本当に苦難だらけだった。
売上高はまだ4億円。
まだ吹けば飛ぶようなベンチャー企業。
ニトリの知名度を上げるには安売りしかない。
当時は問屋の力が強いし、他社より安く仕入れることは難しい。
北海道には有力な4社の問屋があり、好意的なのは1社だけ。
仕入れには本当に苦労した。
安売りのため、業間もない頃に目をつけたのは倒産品だ。
札幌市北区に倒産品を扱っているところがあるという情報を聞きつけ、現地へ向かった。
仕入れ値は通常より3~5割安く、即売している。
「ニトリは買いっぷりがいい」というので出物がどんどん集まってくる。
置き場所もないので、札幌市内にある数カ所のタマネギ倉庫を借りて、どんどん集荷するようになった。
そういえば起業時にお世話になった問屋の本多興産も倒産した。
ここで発生した倒産家具も買い集めた。
「もっと安い商品はないか」。
全国にも目を向け、倒産品や資金に困っているメーカーを探し求めた。
当時、『赤いダイヤ』という小豆相場を巡る経済小説が話題だった。
私も相場師になった気分で腹巻きに50万円ほどを入れて、知人を1人連れて資金に困ったメーカーや問屋を回った。
すでに複数店舗を運営していたので低価格品はすぐにさばける。
それどころか、競争相手である百貨店や専門店などにも卸していった。
とにかく全国を回った。
津軽海峡を越え、新潟、群馬、静岡、広島、九州と南下していった。
電話ではなく、直接現地へ行くとさらに安く買える。
最終的には九州の産地まで巡り、商談終了後は相棒と2人、温泉で毎日のように芸者を上げてのどんちゃん騒ぎだ。
まだまだ遊び盛り。
この頃は本当に楽しかった。
倒産品のおかげで「安売りのニトリ」の評判は高まっていったが、次第にトラブルも増えていった。
あるとき、九州で買い付けた婚礼タンスなど家具を20トントラックに載せ、函館で運賃を払い、札幌まで運んでもらう手はずを整えていた。
ところが札幌の社員から「まだトラックが到着しない」との連絡が入る。
トラックは函館に到着したが、運賃と家具を載せたまま、雲隠れしてしまった。
結局商品は手に入らず、損失を出した。
だまし取られた家具を買ってしまい、「こわもて」の人々から脅されたこともあった。
かなり危険な人物だったようだ。
逃げようもなく面会したら「おまえ、いい度胸しているな」となぜか気に入られ、手打ちとなった。
結局、こわもての人は数カ月間、札幌に滞在し、飲み食いのお付き合いをした。
さすがに倒産品はリスクが大きい。
中には、わざわざ工場まで作って、計画倒産をするような詐欺集団も登場した。
警察に問い合わせると、結果的にニトリが詐欺集団の片棒を担ぐような形になると言われた。
いわゆるワケありの安い商品を扱う「バッタ屋」稼業からは手を引くことを決めた。
そこでメーカーを全国行脚し、直接取引できる会社を探し歩いた。
店頭価格を一律にもっともメーカーから直接仕入れると、問屋が黙っていない。
ただ店が増えていったことで販売力がついた。
このためメーカーから直接家具を買い取る事も可能になり、仕入れ先も次第に増えていった。
この頃、仕入れの半分はメーカーからの直接仕入れだったと思う。
例えば商売の少ない冬や真夏にメーカーに仕入れに出かけた。
メーカーにとっても閑散期に現金は欲しい。
そこで問屋にばれないように夜遅く工場へ向かい、現金を片手にメーカーと交渉した。
問屋にばれると取引は停止。
まるで「指名手配」の犯人のようだった。
今のようにニトリで商品を企画し、海外から輸入する経営になるのはまだまだ先のことだ。
売り上げを増やすために、一般客にも掛け売りを始めた。
まず家具を届けてから、代金を後で3回くらいに分けて回収するという方法だ。
当時は、クレジットなどが一般的でなかったのでお客様に喜ばれ、売り上げを伸ばすのに成功した。
だが、たまに全くお金を払わない客が出てきた。
夜逃げとかする客もいる。
1カ月の売上高の3割に達したこともあった。
こうした客を探すのに苦労した。
学生時代の取り立てと違い、今度は自分がサングラスをかけ、「こわもてのお兄さん」を演じる。
ありとあらゆるツテをたどって探すのだが、おおむね札幌市内に逃げていた。
もちろん逃げた客はだいたいお金を持っていない。
仕方ないので売った家具を取り上げるわけだ。
最初からお金を払わない会社もあった。
大声を張り上げながら代金回収に取り組んだが、どうも相手は本物のこわもての人たち。
こちらも「はったり」をかましながら交渉するが、エネルギーを著しく消耗してしまう。
あるとき、販売先の会社が倒産し、未払い金の回収へライトバンで向かった。
だが2、3日たっても倒産会社の社長は戻らない。
張り込みをしようとパンと牛乳を食べながら車内で寝泊まりしていた。
朝方、ようやく倒産企業の社長を捕まえ、販売した家具を回収するとともに、土地の一部を差し押さえることができた。
無事代金は回収できたが、こんなことを続けていても経営は安定しない。
そこで掛け売りは一切やめた。
嫌な思いもしたくない。
同時に値段をスーパーのような同一価格に変更した。
まだ家具の値引き販売が主流の時代で、この価格戦略は画期的だった。
それまで客の様子によって表示価格の2割引にしたり、3割引にしたり、ころころ変えていた。
だがある客が「隣の人が3割引で、こちらが2割引はおかしい」と抗議し、返品してきた。
確かに不公平なので、見直すことにした。
とにかく1本価格で安さを追求することにした。
他と同じことをやっていては生き残ることはできない。
営業部長が商品横流し古い経営を見直しても、まだまだ安定しない。
麻生店が開店した頃、地元百貨店の家具売り場の責任者を営業部長としてスカウトしたところ、再び会社倒産の危機を迎えた。
営業部長が仕入れ価格を水増しして、自分の懐に入れていたのだ。
大事な業務をあっさり新参者に任せてしまう私は本当に脇が甘い。
店頭価格がじわり上昇し、客足も低下。
売り上げは下降線をたどった。
ある取引先から「お宅の営業部長から賄賂を要求されて困っている」という話を聞いた。
実際に調べたら、賄賂を断った問屋は打ち切られていく。
一度問い詰めたら、「冗談じゃない。
会社のためにやっているのに、なぜそんなことを言うのか」と逆ギレしてくる。
「おかしな話があるよ」。
昔の会社の仲間からも通報があった。
札幌競馬場に「ニトリ家具」と記したトラックがあり、その運転手が昼間から競馬をしているというのだ。
「おかしい。
今、配達に行っているはずだが」と思い、戻ってきたトラックを見ると馬券がひらひらしている。
さらにひどい話がある。
会社の商品を多めに持って行き、札幌から離れた石狩市などで売っていたのだ。
それも市価の半分という。
石狩市は父の出身地で、親戚も多い。
だから不正販売が露見した。
社内犯罪の根は深かった。
営業部長だけではなく、20人の社員のうち、私と身内、一部の社員を除く16人が連座していた。
ある夜、私の家に酔っ払った営業部長がやってきて、ドアをどんどん蹴る。
家に上げると「俺を疑っているらしいが、証拠がないだろう。
社員もみんな仲間だ。
逆らったら会社をつぶすぞ」と脅す。
倉庫係まで取り込まれており、手の施しようがない。
私と家内は目の前に座らされる。
たまたま家にあった洋酒「ナポレオン」もすべて飲み干された。
米国視察時に奮発して買った楽しみだったのに、一滴も飲めなかった。
経理部長もひどく、手形を金融会社に持って行き、現金にして懐に入れてしまう。
私と営業部長はそれぞれに社内の味方を増やそうと、お互いに社員に飲ませ食わせの大盤振る舞いをした。
もう奪い合いだ。
すると調子に乗った社員たちは「懇親会を開きたいのですが」と飲み代を請求してくる。
断ると営業部長側についてしまう。
交際費はうなぎ登りだ。
眠れない日々が続いた。
店の販売員も売り上げを懐に入れる始末。
再び資金繰りの危機を迎えた。
「これはつぶれる」。
このままつぶれたら一生後悔する。
「やるだけやってつぶれてやろう」と腹をくくった。
私の経営の甘さから起きた問題だ。
数少ない社内の仲間4人に「闘うから」と宣言した。
社長なのに他の社員の目を逃れるようにこっそりと調査を始めた。
証拠を集め、不正をした社員を1人ずつ辞めさせていった。
もちろん営業部長側は脅してくる。
「何をやっているんだ」と言うが、「つぶせるならどうぞ」とかわす。
会計士を入れ、経理をチェック。
1年ぐらいで不正を犯した社員を一掃し、横領した経理部長と営業部長も解雇した。
融資を渋る銀行にも事情を説明し、「内部の問題がありましたが、何とか立て直します」と説得した。
取引先にも一社一社出向き、頭を下げた。
残った社員は5人と4分の1に減った。
面白いことに社員数が激減しても売り上げは落ちず、利益率が大きく改善した。
ちなみに74年の売上高は5億円で、経常利益は前年の2倍となる2000万円だった。
エアドーム店騒動「家業の時代」と位置づける70年代前半は本当にドタバタの連続だった。
思い出深いのは75年に開業した札幌市郊外の南郷店だ。
麻生店は順調だったが、新規出店をどんどん進めていくほどの資金はない。
まだまだ知名度も低く、金融機関も簡単には貸してくれない。
土地を借り、安い費用で店を作るしかない。
プレハブのような仮設型の店舗では大きさに限界がある。
そこで思いついたのが米国視察で見かけた東京ドームのような日本初のエアドームの店だ。
ドームを扱う代理店と輸入契約を結んだ。
低コストで出店できるドーム店というアイデアをひねり出したが、それでも資金は足りなかった。
困っていると知り合いの税理士が「親戚に信用金庫の理事長がいるので、紹介しよう」という。
担保もなかったのだが、税理士は「任せておけ」と自ら保証してくれ、借り入れに成功した。
その税理士にはお世話になったので、当時の300万円の資本金のうち、15万円分をただで差し上げた。
ちなみにその株は現在の価値だと数百億円ぐらいになっている。
安く出店するはずだったが、ドームの価格は想像以上に高い。
しかもオープン2カ月前なのにドームが届かない。
代理業者の手違いで製造元への代金が未払いのままだったからだ。
船便では2~3カ月かかり、間に合わない。
テレビで宣伝も始めており、オープンできなかったら信用問題になる。
米軍機をチャーターして緊急空輸を実施する羽目になり、500万円もかかってしまった。
基礎工事はできていたが、ドームが到着したのは5日前だった。
1000坪の場所を見つけたが、仮設物だと1年で撤去しなければならない。
それでも「建ててしまえば、取り壊せない」と地主を説得し、賃借に成功した。
設計工事は北海学園大学の同級生で、建築会社の役員をしている多田康郎さんに頼んだ。
「これでお願い」と指を4本立てた。
ドームが予想以上に高く、40万円のつもりだったが、多田さんは400万円と思いこんでいた。
そうとは知らず多田さんは北海学園の野球部の後輩などを集め、設営もしてくれた。
支払いの段階で気づいたが契約書もなく、お金もないので40万円のまま。
多田さんは責任をとって設計会社を退社してしまい、私は多田さんの独立を支援することになった。
今もニトリの店舗設計などをお任せしている。
トラブルは続く。
厳寒の12月、徹夜続きで何とかドームの店は完成した。
喜びもひとしおだが、オープンの朝、社員から電話がかかってきた。
「社長、店がありません」。
意味が分からず現場に駆けつけると前日の大雪でドームがつぶれていたのだ。
社員だけでは足らず、問屋やメーカーにお願いして、除雪作業を進め、埋もれたドームを掘り起こし、再び膨らませた。
復旧は進まないが、お客さんは集まってくる。
ようやくドームが完成したが、商品の多くはドームの倒壊で損傷している。
仕方がない、午後になり、こう銘打ってオープンした。
「開店記念傷物半端物大会」。
これが大成功だった。
その日から問屋やメーカーから傷物を仕入れて、オープン3日間は大繁盛した。
だがその後は失敗だらけ。
ライトをつけても店内は明るくならないので、サーチライトをつけたが、目に入ると、とてもまぶしい。
そこで「下を向いて入ってください」と店内放送をすると、「つえをついて歩けというのか」などと怒りを買う。
しかもサーチライトの店内で購入した家具を持ち帰ると、色が違って見える。
しょっちゅうクレームが来るので何かアイデアがないか困っていると、大通公園の街灯を見てひらめいた。
「これをつければいいじゃないか」。
店内に街灯を立てることを決め、電気工事をやっているおじさんに頼み、100本くらい街灯を立ててみた。
少し改善したが、解決には至らなかった。
このためいちいち店の外に商品を出して、色を確認していた。
商品をストックしている倉庫に2・5メートルの鉄の扉が付いている。
開けるときはいいが、閉まるときは気圧で「バターン」と閉まる。
気をつけないと扉につぶされてしまうのだ。
商品を出し入れするが大変で、気が休まらなかった。
時々、従業員が扉で圧死して、謝罪会見する夢を見て、飛び起きたものだ。
雪の重みでテントが下がるのは当たり前。
冬になると除雪で電信柱が折れ、停電になることが多い。
すると空気圧が低下し、ドームがしぼむ。
「屋根が落ちてきます。
避難してください」と呼びかける。
土日になると大変。
来店客は「ぎゃー、ぎゃー」と騒ぎながら、入り口に殺到してパニック。
しかも回転扉だから一斉に店から出られない。
まるで漫画のような世界だ。
雪が積もると、上は比較的平らなのでなかなか落ちてこない。
圧力を高めても重みでドームがしぼんでくる。
そこでロープで上に登り、雪下ろしに向かう。
だが軽くなるとドームにはじかれて、落ちてしまう。
そこで窒息し、心肺停止になった社員がいた。
本人は息を吹き返したが、それからまもなく自動車事故にも遭遇、1カ月ほど入院した。
当人は「ニトリにいるとついていないのでやめる」と退職。
その後はススキノでギターの流しをしていた。
夏は店内が40度を超え、サウナのような状態で、滝のような汗が噴き出る。
冬は零下10度で凍えるように寒い。
そこで社員には夏に「赤道手当」、冬には「北極手当」を5000円支給した。
トラブルには事欠かないエアドーム店だったが、しぶとく5年続き、その後はテニスコートにして賃貸した。
次の出店に弾みもついた。
手稲富丘店、月寒店と札幌市内に店舗を広げた。
この頃から借地法も変わり、20年契約で借りた土地を返却できるようになった。
そこでオーナーに建物を建ててもらい、ニトリが支払う賃料でその費用をまかなうという方法を考えついた。
手稲富丘店も苦労した店の一つだ。
立地は最高だが、小高い丘と雑木林に囲まれ、地形は店舗には向いていない。
そこで「それなら丘を削ればいいじゃないか」とひらめいた。
社員は金もかかるので猛反対したが、400坪の土地を購入。
本当に丘を削り、店を76年にオープンした。
いい場所なのだから、問題点については後で対処すればいいというスタンスだ。
まずはゴールから考える。
今でもわが社の大事な企業文化となっている。
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