1この数字だけでは何もわかりません
マーケティングに必要な数字とは
その日は通常の定例会議とは別に、営業部員が集まるミーティングが予定されていました。議題は、表参道店と新宿店のマーケティング分析です。
「WIXY」新宿店の立地はとてもよく、店の前の通行量も多くて、実際に入店者数も全国10店舗の中でもっとも多いというデータがあります。
にもかかわらず、1年前のオープン以来、数字があまり伸びていませんでした。
「さ~て、始めようか。この会議の目的は表参道店と新宿店の分析です。片方の数字を見て個別に分析しても何も見えてこないだろうから、2店舗を比較することで議論を始めようと思う。近藤、データはどんな感じだ?」
「はい。いま配付した資料の通りです。正確な売上はみなさん個別にご確認いただければいいので、この資料は概算でつくりました。また、総客数は同一のお客様が2回ご利用いただいた場合は2としてカウントしています」
「しっかしまあ、地理的には近くても全然違うもんだな」「相変わらず新宿店のほうが平均購入枚数も平均商品単価も低いですね~」「まあここまではっきり数字で出ている以上、この両方を上げていく策を具体的に考えないといけないぞ。奈々ちゃんだったらどうする?」
「そうですね~、新宿店だけのセット販売とかキャンペーンとか。『1万5千円以上お買い上げでノベルティをプレゼント♪』みたいな」「ん~。ベタだけどまあ手堅い方法だな。女の子は特に限定品とかプレゼントに弱いからね~」
そうですかね?という近藤の視線に木村はまったく気が付きません。その時、これまで口を閉ざしていた智香が木村に質問を切り出しました。
「先輩、質問があります」「(はいはい、始まりましたね)はいよ!何でも聞いておくれ~!」「このデータでわかることって何でしょうか?」「ん?新宿店のほうが客数は多いけれど、お金を使ってくれないからトータルの売上額は表参道に負けているってことだろ?」「先輩、数字を使って説明してください」「おい、まだそのキャンペーン終わらないの?」「いいから、数字を使って説明してください」イライラしながらも、木村は言われた通りに数字を使った説明を考え始めます。
文句は言いつつも、数字を無理やり使うことの有用さを少しだけ感じ始めているようです。ただ、その時間がもったいないと感じた部長の福島が突然話を始めました。
「私の考えを言うね。この数字から推測するに、新宿店は1万円を中心とする価格帯のものが売れているようだ。表参道店に比べて高額または複数枚の買い物をするお客様が少ない。つまり顧客ロイヤリティが低いと言える。逆に表参道店は客数は少ないものの、売れている商品の単価や購入枚数は大きく、お客様の質が高い。
つまり現状の課題は新宿店の顧客の質を高め、客単価を上げること。おっと、数字を使えていないな。あはは」
「そう、俺も部長の考えとまったく同じ。一言で言うと新宿店は〝ファン〟がまだ少ないのさ。もっと『WIXY』の魅力をお客様にアピールしようぜ」
「確かに、まだオープンして1年ですからね」「じゃあ、やっぱり『1万5千円以上お買い上げでノベルティをプレゼントキャンペーン』とか!?」「奈々ちゃん、それい~ね~!イベント、キャンペーン、どんどんやろう!」「ダメですね」数学が得意でも勘違いしがちな数字一瞬にして会議室の空気が凍りつき、全員の視線が智香に注がれます。
木村は疑問に思っていました。なぜこの数学オンナはいちいちケチをつけるのだろうかと。木村は自身の性格もありますが、仕事においては「ノリ」を大切にしてきました。
すべて緻密に考えていたら、とても仕事なんて前に進めることはできないと考えており、そしてそれは部長の福島とも共通した思想です。
よいと思ったらとりあえずやってみる。トライ&エラー。そんなカルチャーで彼らはこれまで仕事をしてきました。
実際、そんな福島の口癖は「最後は自分の直感を信じて動け!」だったりします。
「おい、何がダメなんだよ」「すべてです」「(カチン)おい……全否定か?ちゃんと説明しろよ」「少し時間がかかるかもしれませんが、よろしいでしょうか」丁寧な物言いが逆に木村を腹立たせていることに勘のいい智香は気付いていましたが、そんなことはまったくお構いなしです。
しかし、このあと智香から部員にする話の内容は、かつてコンサルティング会社に入社した時、「こんな簡単な数字も読み取れないのか」「キミは平均すら正しく解釈できないのか」と先輩から最初に厳しく指摘されたことでした。
数学科出身であり、「私は数字に強い」と自信を持っていた智香のプライドを、見事なまでに傷つけられたトピックスだったのです。そんな苦く懐かしい経験を一瞬だけ思い出し、智香は話を続けます。
「このデータだけで何がわかりますか?」「新宿店の総客数は表参道店のおよそ130%、平均単価は……えっと、逆に70%くらいかな。だから、表参道店に近い売上にするためには、単価や枚数を増やす施策が必要。以上!」
「あら、数字をちゃんと使ってくれましたね(ニコッ)」「フン。じゃあ逆に聞くが、偉そうにしているオマエの答えは?このデータでわかることってヤツ」その質問を待っていたかのように、智香は笑顔のままこう答えました。
「これだけでは、何もわかりません(ニコッ)」
2悪いのは数字ではなく、勝手に勘違いするあなた
「平均」の本当の意味とは?
会議室にいる全員が、キョトンとした顔をして智香を見つめています。誰もが予想していなかった返答だったからです。
「それ、笑いながら言うことか?」と木村は心の中で思っていましたが、どこかでその続きを早く聞きたいという気持ちにもなっていました。そして、それは他の3人もまったく同じです。
「どういうことだよ、それ」「先輩、平均って何かわかっていますか?」「俺の質問を無視するな。というか、バカにしているのか?一応ちゃんと義務教育は受けたぞ」「では伺います。平均って何ですか?」
「そんなの決まっている。複数のデータのちょうど真ん中あたりに位置する数値を数学的に計算したものじゃん。平均身長とか結婚する平均年齢とかまさにそうだろ」
「……」「だから表参道店は1万5000円前後の商品がよく売れるし、新宿店はそれが1万円前後だってこと」「そこが違います」「はあ?」その時、「あ!」と気付いた者が一人。
部長の福島です。福島は、なぜこんな簡単なことを見落として私見を述べてしまったのだろうと自分を悔いていました。
そんな心情もあり、福島は2人の会話を遮り、ゆっくりホワイトボードに向かって歩き始めます。
「柴崎さん、OK。私もうっかり見落としていたよ。いやはや、お恥ずかしい」「はい、僕も見落としていました」「冷静になれば当たり前のことなんですけどね~」「ななな、何だよオマエら!?コイツの言っていることわかるのか?」
「ははは、私が説明するよ。簡単なことだ」福島は、キャラに似合わず美しいフォルムの3つの図(※1)をマーカーで描いてみせました。
「これ、15名が5点満点のテストを受けた結果のデータだとしよう。じゃあ木村、A組の15人の平均点はいくつだ?」「えっと……(電卓を一生懸命叩いて)3点っすね」「じゃあ、B組のデータの平均点は?」「えっと……(電卓を一生懸命叩く)これも3点っす」「じゃあ、C組のデータの平均点は?」「……まあ、どう見ても3点ですよね」「私たちは無意識にA組の図をイメージしてしまったということだ」「……?」「平均商品単価が1万円という数字を見て、新宿店のお客様の購入した商品単価はその前後が多いと決めつけ、表参道店も同様に1万5000円前後の単価が多いと決めつけた。
しかし、本当にそうだろうか?新宿店で購入される商品の平均単価を上げればよいという意思決定はちょっと疑わなければならないということだ。そうだよね、柴崎さん」「はい、そうです」
「な~んか腹に落ちん。屁理屈だ。だって、さっき俺が言った平均身長とかはどうなんだ?調査すればきっと平均身長の人間が一番多いはずだぞ」
「はい、その通りです」「じゃあ、同じ平均値なのだから今回の件も、実態はあの左側のグラフのようになっているんじゃないのか?」「そこが違います」「あ~!わけわからん!!」どうやら木村は相当な数学オンチのようです。
しかし、このように「平均値を計算できることが平均を理解していること」と勘違いするケースは決して珍しくありません。
知識としては持っていても、それが実際のビジネスシーンで正しく解釈されていないのです。今回のケースも実際のデータを見るほうが木村の理解も早そうです。
平均値だけで分析しても無意味「先ほど近藤さんが出してくれたデータの元データを集計しました。いま、お配りした資料のグラフをご覧ください。ちなみに商品単価と購入枚数を分けて考えるメリットはこの分析においては薄いので、1回あたりの購入金額という指標で整理しました。
そうすれば、売上総額は客数と平均購入金額の掛け算としてシンプルに考えることができますから。社内での分析用ですし、大まかな傾向がわかれば十分ですから。数字も細かい端数は除いています」
売上総額=すべてのお客様の購入金額の合計=客数×平均購入金額
「柴崎さん、いつの間にこんなデータ触っていたんですか~?」「近藤さんから元データの所在を教えてもらって」「すみません、本来なら僕がやらないといけませんでした」
真面目な近藤の言葉に少し心が緩む智香ですが、この程度の数字を店舗スタッフや、まして本社の営業部が把握できていないことは驚きでした。
勢いと新規性だけで事業が伸びていると、どうしてもこういう類の仕事は疎かになってしまうことを智香は過去の経験で痛いほど理解していましたが、まさかここまでとは。
「ご覧いただければもう説明の必要はありませんね。近藤さんが出した平均商品単価や平均購入枚数はもちろん、この平均購入金額という〝数値〟だけ見せられても、私たちは何も把握できていないと言っても過言ではありません。
最低限ここまで突っ込んで数字を見なければいけませんし、それをしないで分析をした気になってはいけないのです」
ようやく木村は智香の言っていることを理解します。平均値だけで何かを判断することはとても危険であるということを、木村はいま、初めて腹落ちしたのでした。
3バラツキを調べるという発想を持つ
バラツキは標準偏差でわかる!
さらに智香は話を続けます。少しだけ自分自身が興奮していることに本人も気付いていました。なぜなら、ビジネスパーソンに必要な数的感覚を身に付けるために、この話はとても大切なポイントになるからです。
「みなさんご理解いただけているように、平均値が意味を持たないわけではありません。でも、それだけで何かを判断することは極めて危険だということです」
「じゃあ聞くけど、それならそもそも平均値なんて算出する意味がないってことにならないか?それに、毎回こんなきれいなグラフをつくらないと真実が見えてこないってこと?面倒くさくてとてもじゃないが俺はやってられないけど」
「先輩はホントひねくれていますね」「あ?(カチン)」「でも、とてもよい質問です」確かに、データ量がある程度になると、いちいちこのような分析を手作業で行うのは少々骨が折れます。
グラフにすれば一目瞭然であることは間違いありませんが、すぐに、そして簡単に「平均値だけの分析」から卒業できる方法があればあり難いものです。
「標準偏差を使います」「昇順……連射?」「ヒョウジュンヘンサです」奈々が必死に笑いをこらえています。
「標準偏差」とは数学で登場する専門用語です。いったい何を意味するものなのか、智香が説明を始めます。
「平均を基準にした時、データ全体にどれくらい〝バラツキ〟があるのかを示す指標です。専門用語を使うと一気に難しく感じるかもしれませんので、言葉を換えましょう。
そうですね……〝バラツキ数〟とでもしましょうか」
「すご~い、柴崎さんって先生みたい!」「学生時代、何かの授業で言葉を聞いた記憶はあるな。その時はまったく耳に入っていなかったけれど。せっかくの機会だ、柴崎先生、頼むよ」
「先ほど部長が描いた3つのデータがわかりやすいので、これをそのまま使わせていただきます。A、B、C組のテスト結果の図(※1こちらを参照)ですね」平均との差でバラツキを数値化智香はマーカーを手に、ホワイトボードの前に立ちました。
その姿は、まさに先生です。
「、15、。」「各データが平均である3点より何点多いか、または少ないかを計算する?」「はい、その通りです。やってみましょう」智香はスラスラとA組の図に数字を書き込んでいきます。
その方法はこうです。
まず、「1点」は平均点から2点少ない点数ですから「2」、「2点」は平均点から1点少ないので「1」、以下同様にしていくと次の図のような数値が登場します。
「では、どうすれば平均を基準にした時のデータのバラツキを数値化できるでしょう?」「もしかして、その〝平均との差〟を15個全部足せばいいのかしら?そうすれば全データのバラツキがひとつの数字で表現できる……かな?」「島田さん、ではやってみてください」「これ全部足し算にすると……あれ?0になっちゃう!」
「そうですね。実はどんな分布であっても、全部足し算すると0になっちゃいます。なぜだと思いますか?」
「簡単です。その15個のデータを全部足すのは、平均値を15個足し(3×15=45)、そこから15名全員の得点の合計(45)を引くことと同じですから」
4大丈夫、関数を使えば済みます
+1と1の違いは?
近藤の説明はパーフェクトでした。周囲を見ても、木村を含め全員がここまでは理解できています。しかし、木村がここで当然の疑問を口にします。
でもそれは、(本人は気付いていませんが)自ら少しずつ「バラツキ数」の本質に近付こうとしているのです。
「そうか。でも待てよ、ということはどんなケースでこの足し算をしても結果が0だとすると、オマエの言う〝バラツキ数〟は常に0ってことに……、こんなのやっぱり意味がないじゃないか!」「確かに~!それじゃデータの分布が数値で表せませんよね~
」「理系オタクにありがちなパターンだよ。理論だけは立派だけど、それは実際のビジネスの現場ではほとんど使えないってことさ」なぜか木村は上機嫌です。
しかし、実は本題はここからです。
「先輩、+1と1の違いって何だと思いますか?」「はあ?何だそれ?プラスとマイナスの違いだけだろ」「その通りです。
ということは裏を返せば、0からの差はどちらも同じ1だということです」「そうか!思い出した!」「なんすか部長、急に大声出して」「いや~、やっぱり数学の授業、ちゃんと聞いていたのかもしれん。思い出したぞ。要するに、+1も1も同じ意味合いになるように操作すればいいってことだね」
「つまり……?」「2乗してから全部足し算して、最後にそれをデータの個数で割る!」「その通りです(ニコッ)」智香は振り返り、ホワイトボードに数字を書き加えます。メンバーはそれが終わるのをじっと待っています。
いつの間にか、智香の「授業」に全員が引き込まれていました。書き終えた智香が全員と目線を合わせ、ゆっくりと説明を始めます。
「こうしてプラスとマイナスの違いを無にするために2乗の計算をして算出した15個の数字、これも各データが平均値からどのくらい離れているかを数値化したものです。こうしてから足し算し、最後にデータの個数で割ることでこのデータ全体のバラツキ具合が数値化できます。このケースではおよそ1・47となります。
最後に割り算するのはバラツキの大小を均一にした数値をとるという意味合いです。近藤さん、そのノートパソコンを使ってBとCについても同じように計算してみてください」
「わかりました」メンバーの視線が近藤のノートパソコンに集まります。
「見ての通り、Aの釣鐘型の図のほうがBの図よりも数値が低い。つまり平均値を基準にした時のバラツキが少ないという解釈になります。一方、Bの図はバラツキが多いという解釈です。このようにグラフをつくらなくとも、この数字で大まかにバラツキを捉えることができるのです」
「……何となく理解はできた気がする。でも、何でC組のケースでは0になるんだ?」「バラツキがないことの証明だな。全員が3点、平均も3点だったら、3−3=0が15個できるってことだから」「あ、そうか」
「本来、数学的にはこの数値の平方根を計算します。それを標準偏差、つまり〝バラツキ数〟と定義しています」
「何でルートの計算をするんですか?」「バラツキを数値化するために、つまり+1と1を同じ意味にするために、元のデータを私たちは勝手に2乗しました。
だから、元のデータと単位を合わせるためにルートを計算して元に戻すのです。
先ほどのA組の場合は1・47の平方根である約1・2という数値が正確な〝バラツキ数〟になります」「ルート……俺は中学時代、そこからギブアップだったな。
あのさ、理屈はわかったよ。でも、こんな計算を毎回エクセルや電卓で手作業するのはしんどいね。結局、ビジネスシーンでは使えないってオチだぞこれじゃ。何か専門の分析ソフトとかあるのか?」
標準偏差はエクセルで計算
言い方はさておき、木村の指摘はとてもいいポイントを突いています。
理屈としては有用なデータが得られるとしても、日々忙しいビジネスパーソンがすぐに手に入る情報でなければ実際に使えるものにはなりません。
これは、ここにいる智香以外のメンバー全員が彼女に尋ねたい質問でもありました。「関数がありますから大丈夫です」「ビブンセキブンってやつか?悪いがお断りだ」「違います。エクセルの関数機能です。誰でも簡単にできますから」「あ、そう」「せっかくだからやってみましょう」
智香は近藤のノートパソコンを借り、慣れた手つきでエクセル操作をしています。
エクセル関数は「STDEVP」という関数を使い、バラツキを調べたいエクセルファイル内のデータを指定すれば一発で算出できます。
「う、確かに簡単だ。およそ1・2という数字が出てきた」「元データさえあれば、あとは関数で標準偏差、つまり〝バラツキ数〟は算出できます。
これを表参道店と新宿店のデータに応用すれば、どんな結果が出てきますか?」「表参道店のほうが新宿店よりも〝バラツキ数〟が大きく出る」
「そうです。ということは新宿店よりも表参道店のほうが平均購入単価に対するバラツキ具合が大きくなっており、それはつまり表参道店のお客様の購入単価が平均値である3万3000円前後が多いという解釈が……」「疑わしいってすぐにわかるのか」「はい、全データを細かく見なくても」
5裏を返すと、新しい解釈が生まれる
バラツキ数から見えること
「ああ~。何かドッと疲れたな~。まったく」「では、本題に戻りましょうか」「??」メンバーは一瞬考えてしまいましたが、すぐに「ああ、そうか」と気付きます。
そうです、この会議の主題は〝バラツキ数〟を学ぶことではありませんでした。表参道店と新宿店のマーケティング分析です。
「私がざっとエクセルで〝バラツキ数〟を計算したところ、表参道店はおよそ18000、新宿店はおよそ8000です。
つまり表参道店は新宿店に比べると購入金額にかなりバラツキが見られます。
一方で、新宿店はバラツキが少ない、つまり平均である1万4000円に近い購入単価のお客様が比較的多い。
先輩、これから推察できることは何でしょうか?」「推察?だから、やっぱり表参道店のほうがよいお客様が多いってことだろ」「0点。
それでは最初の議論に戻ってしまいます」「0点……っておい!もう先生ヅラするのはやめてくれないか?」「……」「(ったく、今度は無視かよ)だって高額の買い物をしているお客様が多いことは事実だろ」「その通りです」「だったらそう解釈するしかないだろ!?」「裏を返してください」「はい?」「裏を返すんです」すると、黙って2人の会話をずっと聞いていた福島が恐る恐る手を挙げました。
福島も完全に智香の「生徒」と化しています。
「柴崎さん、こういうことかな?木村の言う通り、高額の買い物をしていただけるよいお客様は表参道店のほうが圧倒的に多い。
しかし、それは裏を返すと、そのお客様がもし離れてしまった場合、売上に対するインパクトがとても大きい。あ、数字で説明できていないけれど(苦笑)」
「その通りです。表参道店の上位顧客は明らかにファッション感度も高く、かけるお金も高額です。それだけ見る目も厳しい。そして、あの界隈はさまざまなブランドのショップが軒を連ね、そのショップ自体も入れ替わりが激しい。そうですよね、先輩?」
「……まあそうだな」「つまり、表参道店の上位顧客は、浮気をしようと思えばいくらでもできる人たちってことになりませんか?」「……!」「裏」を捉えて仮説を立てる近藤や奈々も徐々に智香が言いたいことが理解できてきました。
そして、「購入金額が高いお客様=よいお客様」と勝手にポジティブなイメージを持っていた2人にとってもその視点は目から鱗でした。
「一方、新宿店はお客様の分布が平均購入単価の近くに集まっています。
これは、お客様たちのファッション感度やお金のかけ方が似ているということです」「つまり、新宿店は一部の高額な買い物をする顧客への依存度が低いと?」「はい、そして、新宿店のように顧客層が近いということは、提案するアイテムや価格帯などが絞りやすいし、策も練りやすい」「それはつまり、客離れというリスクが低い店だってことでもあるわけだね」「そうです。
今回の〝バラツキ数〟と私がつくったグラフの2つを使えば、このような仮説が成り立ちます。表参道店のマーケティング課題は上顧客離れのリスクヘッジ。
一方の新宿店は客層をもう少し深く分析し、その客層をもっと新規顧客として集める。この2つを最優先事項として業務を進めるべき。以上です」
会議室はシーンと静まり返っています。
現時点では売上額は倍近い差がある2店舗ですが、今後のリスクという点では表参道店のほうがはるかに大きいのです。いままで誰もその点には目を向けていませんでした。
近藤や奈々がチラリと木村の表情を窺っています。
木村は福島の表情を窺いますが、福島は「さて、どうする?」と言わんばかりの視線を木村に向けています。
「なぜ俺?部長なんだから頼むよまったく」と木村は心の中で呆れるのでした。
「……まあそれでいいんじゃねえか」「はい、では具体策を、いまから練りましょうか」「ちょっと待った!キリがいいからここで休憩しよう。
あ~、コーヒーが飲みたい」
6ビッグデータ時代だからこそ
ビッグデータの意味
休憩時間、近藤と奈々はいったんデスクに戻ったようです。会議室には智香と福島の2人だけが残されていました。智香の入社による昨今の「騒動」は福島にとってはまったくの想定外でした。
これまで数社でマネジメント経験のある福島ですが、これほどアクの強い女性部下は初めてです。
しかし、智香の経験は自分にはないものと割り切り、教えてもらえるものは教えてもらう、逆に自分ができるアドバイスはもちろんしていく、そんなスタンスで智香と接していこうと決めていました。
「柴崎さん、木村のことはどう思っているの?」「どう、と言いますと?」「少しチャラチャラしたところもあるが、彼も28歳のビジネスパーソンだ。客観的に見てどうだろう」「このままですと、30歳を超えてから苦労すると思います」「ほう、それはなぜだい?」今年でちょうど40歳になった福島にとっても、興味深いものでした。
「若い時はいいんですよね。仕事は与えられるし、何でもチャレンジできるし、失敗イコール糧として片付けられます。
でも、30を過ぎると人を管理し、会社の数字を意識し、重要な意思決定を自分でする立場になるはずです」「……」「ノリや直感といったものだけで仕事をされたのでは、部下はたまったものではありません」「なるほどね、確かにその通りだ。
私も反省しなければならないね。何せ私の口癖は、『最後は自分の直感を信じろ!』だからね。ははは……」福島の乾いた笑いには反応せず、智香は話題を変えます。
「部長、〝ビッグデータ〟って言葉、ご存じですか?」「ん?ああ、最近よく聞くフレーズだね。ビジネス関連の雑誌やセミナーなんかでよく扱われるテーマみたいだけど。要するに莫大な量のデータのことかな。あ、そのまんまか」
「はい、膨大な量のデータを分析することで、ビジネス傾向の特定、病気の予防、犯罪の対策などにメリットがあると言われています」
確かに昨今、この「ビッグデータ」という言葉が多く使われるようになりました。ITの飛躍的な発展に比例して、統計分析のツールや解析のスペシャリストが注目されています。
そういう時代になっているのは事実であり、福島も「今後は多少投資をしたとしてもその類の仕組みを会社として持っておかなければいけないのだろうな」などと漠然と考えていました。
ところが、いまから智香がする話は、その福島の考えを180度変えることになるのです。
データを使うのはあくまでも「人間」
「少し私の話を聞いていただけますか?」「ああ、どうぞ」「ある中小企業の社長さんがこういう発言をしたんです。
『これからはビッグデータの時代だ!多少高額だとしても、大量のデータを分析できるツールを導入し、マーケティングや営業に役立てるべき。これからは情報を制した者が勝つ時代だ!』と。どう思われますか?」
「……まあ、その通りじゃないかな」「でもこの社長さん、先ほど話題に出た〝平均〟や〝バラツキ数〟のこと、まったく理解していなかったんですよね」「……」福島にはなんとなく智香の言いたいことがわかりました。
分析ツールと聞くと、生身の人間では見つけることができない事実を見つけてくれる「魔法の道具」だと思い込んでしまうビジネスパーソンは意外に多いようです。
誰もが期待するテーマだからこそ、その期待が大きい分だけ、イメージだけが独り歩きしているのです。
「イチロー選手が使っているバットとまったく同じものを、バッティングセンターで空振りばかりの素人に買い与えても、決して打てるようにはなりません」
「ははは、面白いたとえをするね。でも、確かにその通りかもしれん」「どんなに道具が優れていようと、魔法なんてかけられません。どんなに統計解析ツールがすごいものだとしても、そのツールが現場の仕事までやってくれるわけではないんです」「ああ、その通りだ」「最後に仕事を実際に進めるのは生身の人間です。
だからこそ、まずは生身の人間が優れた統計ツールが教えてくれる数字を正しく読み取り、扱い、時には都合のいいように操れるようになっておかなければならないんです」「ビッグデータ時代がやってくるからこそ、かな」「はい、その通りです(ニコッ)」会議室の扉のそばで、2人の会話を聞いている木村の姿がありました。
もちろん盗み聞きではなく、なんとなく部屋に入りにくかったからです。木村にとって、ビッグデータ云々の話はほとんど興味はありません。智香の言動には腹が立つし、うまくやっていこうなんて気持ちもまったくありません。
しかし、「イチロー選手が使っているバットとまったく同じもの……」というこの言葉だけは、木村の心に深く突き刺さっていました。
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