悩み抜いた二週間後、青年は再び哲学者の書斎を訪れた。
自由とはなにか。
人は、わたしは、なぜ自由になれないのか。
わたしを縛っているものの正体は何なのか。
青年に与えられた宿題は、あまりにも重たかった。
納得できる答えなど、出ようはずもない。
考えれば考えるほど、青年は自らの不自由性に気づかされるのだった。
承認欲求を否定する青年今日は自由について論じるというお話でしたね。
哲人ええ、自由とはなにか、考える時間はありましたか?青年それはもう、考え尽くしましたよ。
哲人結論は出ましたか?青年まあ、答えは出ません。
しかしですね、わたし自身の考えではありませんが、図書館でこんな一節を見つけました。
曰く、「貨幣とは鋳造された自由である」と。
ドストエフスキーの小説に出てくる言葉です。
どうです、この「鋳造された自由」って言葉がなんとも痛快じゃありませんか。
真面目な話、貨幣ってやつの本質を突いた、見事な一節だと感心しましたね。
哲人なるほど。
たしかに、貨幣によってもたらされるものの正体を極言するとしたら、それは自由になるのかもしれません。
けだし名言です。
ただし、そこから「自由とはすなわち貨幣である」とまではいえませんね?青年まったくそのとおりです。
お金によって得られる自由はあるでしょう。
そしてきっと、その自由はわれわれが思っている以上に大きい。
実際のところ、衣食住のすべては金銭によって取引されているわけですからね。
とはいえ、巨万の富さえあれば人は自由になれるのか?わたしはそうではないと思いますし、そうではないことを信じたい。
人間の価値、人間の幸せはお金などでは買えないのだと。
哲人では仮にあなたが、金銭的な自由を手に入れたとしましょう。
そして巨万の富を得てもなお、幸福になれないのだと。
このとき、あなたに残っているのは、どんな悩み、どんな不自由なのでしょう?青年それは先生が再三おっしゃっている、対人関係ですよ。
そこはわたしも深く考えてきました。
たとえば、巨万の富に恵まれてもなお、愛する人がいない。
親友と呼ぶべき仲間を持っておらず、みんなから嫌われている。
これは大きな不幸です。
もうひとつ、頭から離れなかったのが「しがらみ」という言葉です。
われわれはみな、しがらみという名の糸に絡みとられ、もがき苦しんでいる。
好きでもない人間と付き合わなきゃならなかったり、嫌な上司の機嫌を窺わなきゃならなかったりする。
想像してください、もしも些末な対人関係から解き放たれるとしたら、どれほど楽になることか!しかし、そんなことは誰にもできません。
われわれはどこに行こうと他者に囲まれ、他者との関係性のなかに生きる、社会的な「個人」である。
どうやっても対人関係の頑丈な網から逃れることはできない。
なるほど、アドラーの語る「すべての悩みは対人関係の悩みである」とは卓見ですね。
結局はそこに行き着いてしまいます。
哲人大切なところです。
もう少し掘り下げて考えましょう。
いったい、対人関係のなにがわれわれの自由を奪っているのでしょうか。
青年そこなんです!先生は前回、他者を「敵」と考えるか、それとも「仲間」だと考えるかという話をされました。
他者を「仲間」だと見なすことができれば、世界の見え方も変わってくるはずだと。
たしかに納得できる話です。
わたしも先日はまんまと得心して帰りました。
しかしですよ?よくよく考えてみると、どうも対人関係にはそれだけじゃ説明しきれない要素があるんです。
哲人たとえば?青年いちばんわかりやすいのは、親の存在でしょう。
わたしにとっての両親は、どう考えても「敵」ではありません。
とくに子ども時代は、最大の庇護者としてわたしを育て、わたしを守ってくれました。
この一点に関しては嘘偽りなく感謝しています。
ただし、うちの両親は厳しい人たちでした。
前回もお話ししましたが、常に兄と比較し、わたしを認めようとしなかった。
そしてわたしの人生についても、ずっと口を挟み続けてきました。
もっと勉強しろ、そんな友達とは付き合うな、最低でもこの大学に行け、こんな仕事に就け、といった具合で。
その要請は大きなプレッシャーでしたし、まさしく「しがらみ」でした。
哲人結局、あなたはどうされたのですか?青年大学進学までは、親の意向を無視できていなかったように思います。
悩みもしましたし、疎ましくも感じました。
でも、いつの間にか自分の希望と、親のそれとを重ね合わせていたところがあったのは事実でしょう。
さすがに就職先だけは自分で選びましたが。
哲人そういえば聞いていませんでした。
あなたのご職業は?青年いまは大学図書館の司書として働いています。
まあ、うちの両親としては、兄がそうしたように父の印刷工場を継いでほしかったようです。
おかげで職に就いて以来、多少関係がぎくしゃくしていますよ。
もしも相手が両親でなければ、それこそ「敵」のような存在であれば、わたしはなにも悩まなかったでしょう。
どれだけ干渉してこようと、無視してしまえばいいのですから。
しかし、わたしにとっての両親は「敵」ではありません。
仲間であるかどうかはともかく、少なくとも「敵」と呼ぶべき存在ではない。
その意向を無視してしまうには、あまりに近すぎる関係なのです。
哲人ご両親の意に添って進学先を決めたとき、あなたはご両親に対してどのような感情を抱きましたか?
複雑ですね。
恨みがましい気持ちもありましたが、その一方で安堵感があったのも事実でしょう。
この学校ならさすがに認めてもらえるだろう、と。
哲人認めてもらえるとは?青年ふっ、回りくどい誘導尋問はやめていただきましょう。
先生もご存じのはずです。
いわゆる「承認欲求」ですよ。
対人関係の悩みは、まさしくここに集約されます。
われわれ人間は、常に他者からの承認を必要としながら生きている。
相手が憎らしい「敵」ではないからこそ、その人からの承認がほしいのです!そう、わたしは両親から認めてほしかったのですよ!哲人わかりました。
いまのお話について、アドラー心理学の大前提をお話ししましょう。
アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。
青年承認欲求を否定する?哲人他者から承認される必要などありません。
むしろ、承認を求めてはいけない。
ここは強くいっておかねばなりません。
青年いやいや、なにをおっしゃいます!承認欲求こそ、われわれ人間を突き動かす普遍的な欲求ではありませんか!「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない哲人他者から承認されることは、たしかに嬉しいものでしょう。
しかし、承認されることが絶対に必要なのかというと、それは違います。
そもそも、どうして承認を求めるのでしょう?もっと端的にいえば、なぜ他者からほめられたいと思うのでしょう?青年簡単です。
他者から承認されてこそ、われわれは「自分には価値があるのだ」と実感することができる。
他者からの承認を通じて、劣等感を払拭することができる。
自分に自信を持つことができる。
そう、これはまさに「価値」の問題です。
先生も前回おっしゃったではありませんか、劣等感とは価値判断の問題だと。
わたしは両親からの承認が得られなかったからこそ、劣等感にまみれて生きてきたのです!哲人では、身近な場面で考えてみましょう。
たとえばあなたが職場でごみ拾いをしたとします。
それでも、周囲の人々はまったく気づかない。
あるいは、気づいたとしても誰からも感謝してもらえず、お礼の言葉ひとつかけてもらえない。
さて、あなたはその後もごみを拾い続けますか?青年むずかしい状況ですね。
まあ、誰からも感謝されないのであれば、やめてしまうかもしれません。
哲人なぜですか?青年ごみを拾うのは「みんなのため」です。
みんなのために汗を流しているのに、感謝の言葉ひとつもらえない。
だったらやる気も失せるでしょう。
哲人承認欲求の危うさは、ここにあります。
いったいどうして人は他者からの承認を求めるのか?多くの場合それは、賞罰教育の影響なのです。
青年賞罰教育?哲人適切な行動をとったら、ほめてもらえる。
不適切な行動をとったら、罰せられる。
アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。
賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。
ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。
そして誰からもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。
明らかにおかしな話でしょう。
青年違います!話を矮小化しないでいただきたい!わたしは教育を論じているのではありません。
好きな人から認められたいと思うこと、身近な人から受け入れられたいと思うこと、これは当たり前の欲求です!哲人あなたは大きな勘違いをしている。
いいですか、われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
青年なんですって?哲人あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。
他者の期待など、満たす必要はないのです。
青年い、いや、それはあまりにも身勝手な議論です!自分のことだけを考えて独善的に生きろとおっしゃるのですか?哲人ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。
「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。
あなたは、あなただけの人生を生きています。
誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。
そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。
われわれは、究極的には「わたし」のことを考えて生きている。
そう考えてはいけない理由はありません。
青年先生、あなたはやはりニヒリズムの毒に冒されている!究極的には「わたし」のことを考えて生きている?それでもいい、ですって?なんと卑劣な考え方だ!哲人ニヒリズムではありません。
むしろ逆です。
他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。
青年どういう意味です?哲人承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。
つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。
そして、覚えておいてください。
もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。
相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。
それが当たり前なのです。
青年違う!それはわれわれの社会を根底から覆すような議論です!いいですか、われわれは承認欲求を持っている。
しかし他者から承認を受けるためには、まずは自らが他者を承認しなければならない。
他者を認め、異なる価値観を認めるからこそ、自らのことも承認してもらえる。
そうした相互の承認関係によって、われわれは「社会」を築き上げているのです!先生、あなたの議論は人間を孤立へと追いやり、対立へと導く、唾棄すべき危険思想だ!不信感と猜疑心をいたずらに掻き立てるだけの、悪魔的教唆だ!哲人ふふふ、あなたはおもしろいボキャブラリーをお持ちだ。
声を荒げる必要はありません、一緒に考えましょう。
承認が得られないと苦しい。
他者からの承認、ご両親からの承認が得られなければ自信が持てない。
はたしてその生は、健全だといえるのでしょうか。
たとえば、「神が見ているから、善行を積む」と考える。
しかしそれは「神など存在しないのだから、すべての悪行は許される」というニヒリズムと背中合わせの思想です。
われわれは、たとえ神が存在しなかったとしても、たとえ神からの承認が得られなかったとしても、この生を生きていかねばなりません。
むしろ神なき世界のニヒリズムを克服するためにこそ、他者からの承認を否定する必要があるのです。
青年神のことなど、どうでもいい!もっと素直に、もっと正面から、市井に生きる人間の心を考えてください!たとえば、社会的に認められたいという承認欲求はどうなります!?なぜ人は組織のなかで出世したいと願うのか。
なぜ地位や名声を求めるのか。
それは社会全体からひとかどの人物であると認められたく願う、承認欲求でしょう!哲人では、そこで承認を得られたとして、ほんとうに幸福だといえますか?社会的地位を確立した人々は、幸福を実感できていますか?青年いや、それは……。
哲人他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段とします。
適切な行動をとったらほめてもらえる、という賞罰教育の流れに沿って。
しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。
なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。
意外に思われるかもしれませんが、カウンセリングを受けに来られる相談者に、わがままな方はほとんどいません。
むしろ他者の期待、親や教師の期待に応えようとして苦しんでいる。
いい意味で自分本位に振る舞うことができないわけです。
青年じゃあ身勝手になれ、と?哲人傍若無人に振る舞うのではありません。
ここを理解するには、アドラー心理学における「課題の分離」という考え方を知る必要があります。
青年……課題の分離?新しい言葉ですね。
聞きましょう。
青年の苛立ちはピークに達していた。
承認欲求を否定せよ?他者の期待を満たすな?もっと自分本位に生きろ?いったいこの哲学者はなにをいっているのだ。
承認欲求こそが、人が他者と交わり、社会を形成していかんとする最大の動機ではないか。
青年は思った。
もし、その「課題の分離」なる考え方がわたしを納得させてくれなかったとしたら。
……わたしはこの男を、そしてアドラーを、生涯受け入れることがないだろう。
「課題の分離」とはなにか哲人たとえば、なかなか勉強しない子どもがいる。
授業は聞かず、宿題もやらず、教科書すらも学校に置いてくる。
さて、もしもあなたが親だったら、どうされますか?青年もちろん、あらゆる手を尽くして勉強させますよ。
塾に通わせるなり、家庭教師を雇うなり、場合によっては耳を引っぱってでも。
それが親の責務というものでしょう。
現に、わたしだってそうやって育てられましたからね。
その日の宿題を終えるまで、晩ごはんを食べさせてもらえませんでした。
哲人では、もうひとつ質問させてください。
そうした強権的な手法で勉強させられた結果、あなたは勉強が好きになりましたか?青年残念ながら好きにはなれませんでした。
学校や受験のための勉強は、ルーティーンのようにこなしていただけです。
哲人わかりました。
それでは、アドラー心理学の基本的なスタンスからお話ししておきます。
たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。
青年誰の課題なのか?哲人子どもが勉強するのかしないのか。
あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。
本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。
青年子どもがやるべきこと、ということですか?哲人端的にいえば、そうです。
子どもの代わりに親が勉強しても意味がありませんよね?青年まあ、それはそうです。
哲人勉強することは子どもの課題です。
そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。
これでは衝突を避けることはできないでしょう。
われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
青年分離して、どうするのです?哲人他者の課題には踏み込まない。
それだけです。
青年……それだけ、ですか?哲人およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと——あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること——によって引き起こされます。
課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。
青年ううむ、よくわかりませんね。
そもそも、どうやって「これは誰の課題なのか?」を見分けるのです?実際の話、わたしの目から見れば、子どもに勉強させることは親の責務だと思えますが。
だって、好きこのんで勉強する子どもなんてほとんどいないのですし、なんといっても親、保護者なのですから。
哲人誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。
「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
もしも子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末——たとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど——を最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。
間違いなく子どもです。
すなわち勉強とは、子どもの課題なのです。
青年いやいや、まったく違います!そんな事態にならないためにも、人生の先輩であり、保護者でもある親には「勉強しなさい」と諭す責任があるのでしょう。
これは子どものためを思ってのことであって、土足で踏み込む行為ではありません。
「勉強すること」は子どもの課題かもしれませんが、「子どもに勉強させること」は親の課題です。
哲人たしかに世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使います。
しかし、親たちは明らかに自分の目的——それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません——を満たすために動いています。
つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。
青年じゃあ、子どもがまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と?哲人ここは注意が必要です。
アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません。
放任とは、子どもがなにをしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。
そうではなく、子どもがなにをしているのか知った上で、見守ること。
勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。
けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。
頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。
青年それは親子関係にかぎったことではなく?哲人もちろんです。
たとえば、アドラー心理学のカウンセリングでは、相談者が変わるか変わらないかは、カウンセラーの課題ではないと考えます。
青年なんですって?哲人カウンセリングを受けた結果、相談者がどのような決心を下すのか。
ライフスタイルを変えるのか、それとも変えないのか。
これは相談者本人の課題であり、カウンセラーはそこに介入できないのです。
青年いやいや、そんな無責任な態度が許されますか!哲人無論、精いっぱいの援助はします。
しかし、その先にまでは踏み込めない。
ある国に「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがあります。
アドラー心理学におけるカウンセリング、また他者への援助全般も、そういうスタンスだと考えてください。
本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、あとで強烈な反動がやってくるだけです。
青年カウンセラーは、相談者の人生を変えてくれないのですか?哲人自分を変えることができるのは、自分しかいません。
他者の課題を切り捨てよ青年じゃあ、たとえば引きこもりのような場合はどうです?つまり、わたしの友人のような場合は。
それでも課題の分離だ、土足で介入するな、親には関係ない、とおっしゃるのですか?哲人引きこもっている状態から抜け出すのか抜け出さないのか、あるいはどうやって抜け出すのか。
これは原則として本人が解決するべき課題です。
親が介入することではありません。
とはいえ、赤の他人ではないのですから、なんらかの援助は必要でしょう。
このとき、もっとも大切なのは、子どもが窮地に陥ったとき、素直に親に相談しようと思えるか、普段からそれだけの信頼関係を築けているか、になります。
青年それでは仮に、先生のお子さんが引きこもっていた場合は、どうされますか?これは哲学者としてではなく、ひとりの親としてお答えください。
哲人まずは、わたし自身が「これは子どもの課題なのだ」と考える。
引きこもっている状況について介入しようとせず、過度に注目することをやめる。
その上で、困ったときにはいつでも援助する用意がある、というメッセージを送っておく。
そうすると、親の変化を察知した子どもは、今後どうするのかについて自分の課題として考えざるを得なくなります。
援助を求めてくることもあるでしょうし、独力でなんとかしようとすることもあるでしょう。
青年実の子どもが引きこもっていて、そこまで割り切ることができますか?哲人子どもとの関係に悩んでいる親は、「子どもこそ我が人生」だと考えてしまいがちです。
要するに、子どもの課題までも自分の課題だと思って抱え込んでいる。
いつも子どものことばかり考えて、気がついたときには人生から「わたし」が消えている。
しかし、どれだけ子どもの課題を背負い込んだところで、子どもは独立した個人です。
親の思い通りになるものではありません。
進学先や就職先、結婚相手、あるいは日常の些細な言動でも、自分の希望通りには動いてくれないのです。
当然、心配にもなるし、介入したくなることもあるでしょう。
でも、先ほどもいいましたよね。
「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」と。
たとえ我が子であっても、親の期待を満たすために生きているのではないのです。
青年家族でさえ、そこまで線を引けと?哲人むしろ距離の近い家族だからこそ、もっと意識的に課題を分離していく必要があります。
青年それはおかしい!先生、あなたは片手で愛を語りながら、もう一方の手では愛を否定しています!そうやって他者との間に線を引いてしまえば、誰のことも信じられなくなるじゃありませんか!哲人いいですか、信じるという行為もまた、課題の分離なのです。
相手のことを信じること。
これはあなたの課題です。
しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。
そこの線引きをしないままに自分の希望を押しつけると、たちまちストーカー的な「介入」になってしまいます。
たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。
愛することができるか。
アドラーの語る「愛のタスク」には、そこまでの問いかけが含まれています。
青年むずかしい、むずかしいですよ、それは!哲人もちろんです。
でも、こう考えてください。
他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自らの人生を重く苦しいものにしてしまいます。
もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら——その悩みは対人関係なのですから——まずは、「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。
そして他者の課題は切り捨てる。
それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第一歩です。
対人関係の悩みを一気に解消する方法青年……どうも腑に落ちませんね。
哲人それでは、あなたの就職先に関して、ご両親が猛反対している場面を想定しましょう。
実際のところ、反対されたわけですよね?青年ええ、正面きっての猛反対というほどではありませんが、言葉の端々に嫌味が込められていました。
哲人では、わかりやすく、それ以上の猛反対だったとします。
父親は感情的に怒鳴り散らし、母親は涙を流して反対していた。
図書館司書なんてぜったいに認めない、お兄さんと一緒に家業を継がないのなら親子の縁を切るとまで迫られたと。
しかし、ここでの「認めない」という感情にどう折り合いをつけるかは、あなたの課題ではなくご両親の課題なのです。
あなたが気にする問題ではありません。
青年いや、ちょっとお待ちください!つまり先生は、「親をどれだけ悲しませようと関係ない」とおっしゃるのですか?哲人関係ありません。
青年冗談じゃない!親不孝を推奨する哲学など、どこにありますか!哲人自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。
一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。
これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。
相手が自分のことをどう思おうと、好いてくれようと嫌っていようと、それは相手の課題であって、自分の課題ではない。
先生はそうおっしゃるのですか?哲人分離するとは、そういうことです。
あなたは、他者の視線が気になっている。
他者からの評価が気になっている。
だからこそ、他者からの承認を求めてやまない。
それではなぜ、他者の視線が気になるのか?アドラー心理学の答えは簡単です。
あなたはまだ、課題の分離ができていない。
本来は他者の課題であるはずのことまで、「自分の課題」だと思い込んでいる。
あの「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」というお婆さんの言葉を思いだしてください。
彼女の言葉は、まさに課題の分離の核心を突いています。
あなたの顔を見た他者がどう思うのか。
これは他者の課題であって、あなたにどうこうできるものではありません。
青年……いや、理屈は、理屈ではわかります。
理性の頭では納得できます!しかし、そんな横暴な議論には感情が追いつきません!哲人では、別の角度から考えましょう。
たとえば会社の対人関係に悩んでいる人がいたとします。
話がまったく通じない上司がいて、事あるごとに怒鳴りつけてくる。
どんなにがんばっても認めてくれず、話さえまともに聞いてくれないと。
青年まさに、わたしの上司がそんな男ですよ。
哲人しかし、その上司から認めてもらうことは、あなたが最優先で考えるべき「仕事」なのでしょうか?仕事とは、社内の人間から気に入られることではないはずです。
上司があなたのことを嫌っている。
しかも、明らかに理不尽な理由によって嫌っている。
だとすればもう、こちらからすり寄る必要などないのです。
青年理屈としてはそうでしょう。
しかし、相手は自分の上司ですよ?直属の上司から疎まれていては、仕事になりません。
哲人それもまた、アドラーのいう「人生の嘘」なのです。
上司に疎まれているから仕事ができない。
わたしの仕事がうまくいかないのは、あの上司のせいなのだ。
そう語る人は「うまくいかない仕事」への口実として、上司の存在を持ち出している。
赤面症の女学生がそうだったように、むしろあなたは「嫌な上司」の存在を必要としているのです。
この上司さえいなければ、わたしはもっと仕事ができるのだと。
青年いや、先生はわたしと上司の関係をご存じないでしょう!勝手な憶測はやめていただきたい!哲人ここはアドラー心理学の根幹に関わる議論です。
怒っていては、なにも頭に入りません。
「あの上司がいるから、仕事ができない」と考える。
これは完全な原因論です。
そうではなく「仕事をしたくないから、嫌な上司をつくり出す」と考える。
あるいは「できない自分を認めたくないから、嫌な上司をつくり出す」。
こちらは目的論的な発想になります。
青年先生お得意の目的論で考えるのならそうなるでしょう。
しかし、わたしの場合は違います!哲人では、あなたに課題の分離ができていたとすれば、どうなるでしょう?つまり、上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは「わたし」の課題ではない。
理不尽なる感情は、上司自身が始末するべき課題である。
すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。
わたしのなすべきことは、自らの人生に嘘をつくことなく、自らの課題に立ち向かうことなのだ——。
そう理解できていたとしたら。
青年しかし、それは……。
哲人われわれはみな、対人関係に苦しんでいます。
それはご両親やお兄さんとの関係かもしれませんし、職場での対人関係かもしれません。
そして前回、あなたはいいましたね?もっと具体的な方策がほしい、と。
わたしの提案は、こうです。
まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。
そして課題の分離をしましょう。
どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。
そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。
これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。
青年……ははあ、先生が今日の議題は「自由」だとおっしゃっていた意味が、少しずつ見えてきましたよ。
哲人そう、われわれはいま「自由」について語ろうとしているのです。
「ゴルディオスの結び目」を断て青年たしかに課題の分離を理解して、実践できれば、対人関係は一気に自由になる。
しかし、やっぱりわたしは納得できません!哲人聞きましょう。
青年課題の分離は、理屈としてはまったく正しいと思います。
他者がわたしをどう思うのか、わたしに対してどのような評価を下すか、それは他者の課題であって、わたしにはどうすることもできない。
わたしはただ、自らの人生に嘘をつくことなく、やるべきことをやるだけである、と。
人生の真理といってもかまわないくらい、正しい話です。
でも、考えてください。
倫理的に、あるいは道徳的に、それをなすことは正しいといえるのでしょうか?つまり、自分と他者のあいだに境界線を引いてしまうような生き方は。
だって、自分のことを心配して声をかけてくれる他者の手までも、「それは介入だ!」と払いのけるのでしょう?他人の好意を踏みにじるようなものじゃありませんか。
哲人あなたはアレクサンドロス大王という人物を知っていますか?青年アレクサンドロス大王?ええ、世界史で習いましたが……。
哲人紀元前4世紀に活躍したマケドニアの国王です。
彼がペルシア領のリュディアに遠征したとき、神殿に戦車が祀ってありました。
戦車はかつての国王、ゴルディオスによって神殿の支柱に固く結びつけてあり、当地には「この結び目を解いた者がアジアの王になる」という伝説があったそうです。
腕に覚えのある多くの者どもが「我こそは」と挑み、誰にも解けなかった頑強な結び目が。
さて、その結び目を前にしたアレクサンドロス大王はどうしたと思いますか?青年なるほど、伝説の結び目を見事に解いて、やがてアジアの王になったのですね?哲人いえ、違います。
アレクサンドロス大王は、結び目が固いと見るや、短剣をとりだして一刀両断に断ち切ってしまったのです。
青年なんと!哲人このとき彼は、「運命とは、伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである」と語ったといいます。
わたしは伝説の力など必要としない、自らの剣によって運命を切り拓くのだ、と。
ご存じのとおり、その後の彼は中東から西アジアの全域までも支配する大王となりました。
一般に「ゴルディオスの結び目」として知られる、有名な逸話です。
このように、複雑に絡みあった結び目、つまり対人関係における「しがらみ」は、もはや従来的な方法で解きほぐすのではなく、なにかまったく新しい手段で断ち切らなければなりません。
わたしは「課題の分離」を説明するとき、いつもゴルディオスの結び目を思い出します。
青年しかし、お言葉を返すようですが、誰もがアレクサンドロス大王になれるわけではありません。
彼が結び目を断ち切った逸話も、それが他の誰にもできなかった所業だったからこそ、いまなお英雄的に語られているのでしょう?課題の分離もまったく同じです。
剣をもって断ち切ればいいとわかっていても、なかなかそれができない。
なぜなら、課題の分離を推し進めると、最終的には人の絆さえも分断してしまうことになる。
人を孤立に追いやってしまう。
先生、あなたのおっしゃる課題の分離は、人間の感情を完全に無視しています!そんなことでどうやって良好な対人関係が築けますか!哲人築けます。
課題の分離は、対人関係の最終目標ではありません。
むしろ入口なのです。
青年入口?哲人たとえば本を読むとき、顔を本に近づけすぎるとなにも見えなくなりますね?それと同じで、良好な対人関係を結ぶには、ある程度の距離が必要です。
距離が近すぎて密着してしまうと、相手と向かい合って話すことさえできなくなります。
とはいえ、距離が遠すぎてもいけません。
親が子どものことをずっと叱ってばかりいては、心が遠く離れてしまいます。
これでは子どもは親に相談することさえできなくなるし、親のほうも適切な援助ができなくなるでしょう。
差し伸べれば手が届く、けれど相手の領域には踏み込まない。
そんな適度な距離を保つことが大切なのです。
青年親子のような関係であっても、距離が必要なのですか?哲人もちろん。
先ほどあなたは課題の分離について、相手の好意を踏みにじるようなものだといいました。
それは「見返り」に縛られた発想です。
他者になにかをしてもらったら、それを——たとえ自分が望んでいなくても——返さないといけない、と。
これは好意に応えているというより、見返りに縛られているだけです。
相手がどんな働きかけをしてこようとも、自分のやるべきことを決めるのは自分なのです。
青年わたしが絆と呼んでいるものの根底にあるのは、見返りだと?哲人ええ。
対人関係のベースに「見返り」があると、自分はこんなに与えたのだから、あなたもこれだけ返してくれ、という気持ちが湧き上がってきます。
もちろんこれは、課題の分離とはかけ離れた発想です。
われわれは見返りを求めてもいけないし、そこに縛られてもいけません。
青年ううむ。
哲人もっとも、課題の分離をすることなく、他者の課題に介入していったほうが楽な場面もあるでしょう。
たとえば育児の場面で、子どもがなかなか靴の紐を結べずにいる。
忙しい母親からすると、結べるまで待つよりも自分が結んだほうが早い。
でも、それは介入であり、子どもの課題を取り上げてしまっているのです。
そして介入がくり返された結果、子どもはなにも学ばなくなり、人生のタスクに立ち向かう勇気がくじかれることになります。
アドラーはいいます。
「困難に直面することを教えられなかった子どもたちは、あらゆる困難を避けようとするだろう」と。
青年しかし、それはあまりに乾ききった発想です!哲人アレクサンドロス大王がゴルディオスの結び目を断ち切ったときも、そう思った人はいたでしょう。
結び目は手を使ってほどくからこそ意味があるのであって、剣で断ち切るのは間違ってる、アレクサンドロスは神託の意味を取り違えている、と。
アドラー心理学には、常識へのアンチテーゼという側面があります。
原因論を否定し、トラウマを否定し、目的論を採ること。
人の悩みはすべて対人関係の悩みだと考えるこ
と。
また、承認を求めないことや課題の分離も、すべてが常識へのアンチテーゼでしょう。
青年……いいや、無理です!わたしにはできません!哲人なぜです?哲人の語りはじめた「課題の分離」は、あまりに衝撃的な内容だった。
たしかに、すべての悩みは対人関係にあると考えたとき、課題の分離は有用だ。
この視点を持つだけで、世界はかなりシンプルになるだろう。
しかし、そこには一滴の血も通っていない。
人としての温もりが、いっさい感じられない。
こんな哲学など受け入れてなるものか!青年は椅子から立ち上がり、大きな声で訴えた。
承認欲求は不自由を強いる青年わたしはね、昔から不満だったんですよ!世間一般の大人たちは、若者に向かって「自分の好きなことをやれ」といいます。
いかにも理解者のような、若者の味方のような笑顔を浮かべてね。
しかしこれは、その若者が自分にとって赤の他人で、なんら責任を問われない関係だからこそ出てくる、口先の言葉です!一方、親や教師が「あの学校に入りなさい」とか「安定した職業を探しなさい」と具体的で、おもしろくない指示をするのは、単なる介入ではありません。
むしろ、責任を全うしようとしているのです。
自分にとって近しい存在であり、相手の将来を真剣に考えているからこそ、「好きなことをやれ」などといった無責任な言葉が出てこない!きっと先生も理解者のような顔をして、わたしに「自分の好きなことをやりなさい」とおっしゃるのでしょう。
ですが、わたしはそんな他人の言葉は信じません!それは肩についた毛虫を払いのけるような、無責任きわまりない言葉だ!たとえ世間がその毛虫を踏みつぶしたところで、先生は涼しい顔で「わたしの課題ではない」と立ち去っていくのでしょう!なにが課題の分離だ、この人でなしめ!哲人ふっふっふ。
穏やかではありませんね。
要するにあなたは、ある程度は介入してほしい、自分の道を他人に決めてほしい、というわけですか?青年いっそのこと、そうかもしれませんね!こういうことですよ、他者が自分になにを期待しているのか、自分にはどういう役割が求められているのか、そこを判断するのはさほどむずかしくありません。
他方、自分の好きなように生きることは、きわめてむずかしい。
自分はなにを望んでいるのか?なにになりたくて、どんな人生を歩みたいのか?そんな具体像など、なかなか見えてこない。
誰もが明確な夢や目標を持っていると思ったら大間違いです。
先生はそんなこともわからないのですか!?哲人たしかに、他者の期待を満たすように生きることは、楽なものでしょう。
自分の人生を、他人任せにしているのですから。
たとえば親の敷いたレールの上を走る。
ここには大小さまざまな不満はあるにせよ、レールの上を走っている限りにおいて、道に迷うことはありません。
しかし、自分の道を自分で決めようとすれば、当然迷いは出てきます。
「いかに生きるべきか」という壁に直面するわけです。
青年わたしが他者からの承認を求めるのはそこです!先ほど先生は神の話をされましたがね、人々が神の存在を信じていた時代なら、「神が見ている」が自らを律する規範になりえたでしょう。
神にさえ承認されれば、他者からの承認は必要なかったのかもしれません。
しかし、そんな時代はとうの昔に終わりました。
だとすれば、「他者が見ている」を頼りに自らを律するしかないでしょう。
他者から承認されることをめざして、まっとうな生を送ること。
他者の目は、わたしにとっての道しるべなのです!哲人他者からの承認を選ぶのか、それとも承認なき自由の道を選ぶのか。
大切な問題です、一緒に考えましょう。
他者の視線を気にして、他者の顔色を窺いながら生きること。
他者の望みをかなえるように生きること。
たしかに道しるべにはなるかもしれませんが、これは非常に不自由な生き方です。
では、どうしてそんな不自由な生き方を選んでいるのか?あなたは承認欲求という言葉を使っていますが、要するに誰からも嫌われたくないのでしょう。
青年わざわざ嫌われたいと願う人間など、どこにいますか!哲人そう。
たしかに嫌われたいと望む人などいない。
でも、こう考えてください。
誰からも嫌われないためには、どうすればいいか?答えはひとつしかありません。
常に他者の顔色を窺いながら、あらゆる他者に忠誠を誓うことです。
もしも周りに10人の他者がいたなら、その10人全員に忠誠を誓う。
そうしておけば、当座のところは誰からも嫌われずに済みます。
しかしこのとき、大きな矛盾が待っています。
嫌われたくないとの一心から、10人全員に忠誠を誓う。
これはちょうどポピュリズムに陥った政治家のようなもので、できないことまで「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けたりしてしまうことになります。
無論、その嘘はほどなく発覚してしまうでしょう。
そして信用を失い、自らの人生をより苦しいものとしてしまう。
もちろん嘘をつき続けるストレスも、想像を絶するものがあります。
ここはしっかりと理解してください。
他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。
これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。
青年じゃあ、自己中心的に、好き勝手に生きろと?哲人課題を分離することは、自己中心的になることではありません。
むしろ他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。
親が子どもに勉強を強要し、進路や結婚相手にまで口を出す。
これなどは自己中心的な発想以外の何物でもありません。
青年じゃあ、子どもは親の意向などお構いなしに、好き勝手に生きていいのですね?哲人自分が自分の人生を好きに生きてはいけない理由など、どこにもありません。
青年ははっ!先生、あなたはニヒリストでありながら、アナーキストであり、同時に享楽主義者なのですね!呆れるのを通り越して、笑いがこみあげてきましたよ!哲人不自由な生き方を選んだ大人は、いまこの瞬間を自由に生きている若者を見て「享楽的だ」と批判します。
もちろんこれは、自らの不自由なる生を納得させるために出てきた、人生の嘘です。
自分自身がほんとうの自由を選んだ大人なら、そんな言葉は出てきませんし、むしろ自由であろうとすることを応援するでしょう。
青年よろしい、あくまでも自由の問題だとおっしゃるのですね?では、そろそろ本題にいきましょう。
先ほどから何度も自由という言葉が出てきていますが、いったい先生の考える自由とはなんなのです?われわれはどうすれば自由になれるのです?ほんとうの自由とはなにか哲人あなたは先ほど「誰からも嫌われたくない」ことを認め、「わざわざ嫌われたいと願う人間など、どこにもいない」といいました。
青年ええ。
哲人わたしだってそうです。
他者に嫌われることなど望んでいない。
「わざわざ嫌われたいと願う人間などいない」とは、鋭い洞察といえるでしょう。
青年普遍的欲求です!哲人とはいえ、われわれの努力とは関係なく、わたしのことを嫌う人もいれば、あなたのことを嫌う人もいる。
これもまた事実です。
あなたは誰かから嫌われたとき、または嫌われているのではないかと感じたとき、どのような気分になりますか?青年そりゃあ、苦しみのひと言ですよ。
なぜ嫌われてしまったのか、自分の言動のどこがいけなかったのか、もっとこういう接し方をすればよかったんじゃないのかと、いつまでもくよくよと思い悩み、自責の念に駆られます。
哲人他者から嫌われたくないと思うこと。
これは人間にとって、きわめて自然な欲望であり、衝動です。
近代哲学の巨人、カントはそうした欲望のことを「傾向性」と呼びました。
青年傾向性?哲人ええ、本能的な欲望、衝動的な欲望ということです。
では、そうした傾向性のおもむくまま、すなわち欲望や衝動のおもむくまま生きること、坂道を転がる石のように生きることが「自由」なのかというと、それは違います。
そんな生き方は欲望や衝動の奴隷でしかない。
ほんとうの自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような態度なのです。
青年下から押し上げていく?哲人石ころは無力です。
いったん坂道を転がりはじめたら、重力や慣性といった自然法則が許すところまで、転がり続けます。
しかし、われわれは石ころではありません。
傾向性に抗うことができる存在なのです。
転がる自分を停止させ、坂道を登っていくことができるのです。
おそらく、承認欲求は自然な欲望でしょう。
では、他者からの承認を受けるために坂道を転がり続けるのか?転がる石のように自らを摩耗させ、かたちなきところまで丸みを帯びていくのか?そこでできあがった球体は「ほんとうのわたし」だといえるのか?そんなはずはありません。
青年本能や衝動に抗うことが自由なのだ、と?哲人何度もくり返してきたように、アドラー心理学では「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。
つまりわれわれは、対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。
しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。
ここまで考えれば、「自由とはなにか?」の結論は見えたも同然でしょう。
青年なんですか?哲人すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。
青年な、なんですって!?哲人あなたが誰かに嫌われているということ。
それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。
青年い、いや、しかし……。
哲人たしかに嫌われることは苦しい。
できれば誰からも嫌われずに生きていたい。
承認欲求を満たしたい。
でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由き
わまりない生き方であり、同時に不可能なことです。
自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。
そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。
青年違う!ぜったいに違う!そんなものは自由なんかじゃない!それは「悪党になれ」とそそのかす、悪魔の思想だ!哲人きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。
家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。
しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。
つまり、自由になれないのです。
青年……先生は、わたしに「他者から嫌われろ」と?哲人嫌われることを怖れるな、といっているのです。
青年しかしそれは……。
哲人わざわざ嫌われるような生き方をしろとか、悪行を働けといっているのではありません。
そこは誤解しないでください。
青年いや、いや、それでは質問を変えましょう。
いったい人は、自由の重みに耐えられますか?人はそんなに強いものですか?たとえ親であっても嫌われてかまわないと、いわば独善的に開き直ることなどできますか?哲人独善的にかまえるのでもなければ、開き直るのでもありません。
ただ課題を分離するのです。
あなたのことをよく思わない人がいても、それはあなたの課題ではない。
そしてまた、「自分のことを好きになるべきだ」「これだけ尽くしているのだから、好きにならないのはおかしい」と考えるのも、相手の課題に介入した見返り的な発想です。
嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んでいく。
坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。
それが人間にとっての自由なのです。
もし、わたしの前に「あらゆる人から好かれる人生」と「自分のことを嫌っている人がいる人生」があったとして、どちらか一方を選べといわれたとしましょう。
わたしなら、迷わず後者を選びます。
他者にどう思われるかよりも先に、自分がどうあるかを貫きたい。
つまり、自由に生きたいのです。
青年……先生はいま、自由ですか?哲人ええ。
自由です。
青年嫌われたくはないけど、嫌われてもかまわない?哲人そうですね。
「嫌われたくない」と願うのはわたしの課題かもしれませんが、「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題です。
わたしをよく思わない人がいたとしても、そこに介入することはできません。
無論、先に紹介したことわざでいうなら「馬を水辺に連れていく」ところまでの努力はするでしょう。
しかし、そこで水を呑むか呑まないかは、その人の課題なのです。
青年……なんという結論だ。
哲人幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。
その勇気を持ちえたとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。
対人関係のカードは、「わたし」が握っている青年しかし、まさか哲学者の部屋を訪ねて「嫌われること」を説かれるとは、思いもしませんでしたよ。
哲人決して飲み込みやすい話ではないことは、わたしも承知しています。
咀嚼して、消化するまでには時間も必要になるはずです。
おそらく今日、これ以上の話を進めても頭に収まりきらないでしょう。
そこで最後に、課題の分離についてもうひとつ、わたし自身の話をして、本日の終わりとさせてください。
青年わかりました。
哲人これも親との関係です。
わたしは幼いころから父との関係がうまくいきませんでした。
会話らしい会話も交わすことのないまま、20代のころに母が亡くなり、父との関係はますますこじれていくことになります。
そう、ちょうどわたしがアドラー心理学と出逢い、アドラーの思想を理解するまでは。
青年お父様との関係が悪かったのはなぜですか?哲人わたしの記憶にあるのは、父から殴られたときの映像です。
具体的に、なにをしてそうなったのかは覚えていません。
ただわたしは父から逃れようと机の下に隠れ、父に引きずり出され、強く殴られました。
しかも一発ではなく、何発も。
青年その恐怖がトラウマとなって……。
哲人アドラー心理学に出逢うまでは、そう理解していたのだと思います。
父は無口で気むずかしい人でしたからね。
しかし、「あのとき殴られたから関係が悪くなった」と考えるのは、フロイト的な、原因論的な発想です。
アドラー的な目的論の立場に立てば、因果律の解釈は完全に逆転します。
つまり、わたしは「父との関係をよくしたくないために、殴られた記憶を持ち出していた」のです。
青年先生にはお父様との関係をよくしたくない、修復させたくない、という「目的」が先にあった、と。
哲人そうなります。
わたしにとっては、父との関係を修復しないほうが都合がよかった。
自分の人生がうまくいっていないのは、あの父親のせいなのだと言い訳することができた。
そこには、わたしにとっての「善」があった。
あるいは、封建的な父親に対する「復讐」という側面もあったでしょう。
青年ちょうどそこがお聞きしたかったんです!仮に因果律が逆転したところで、つまり先生の場合でいえば「殴られたから父との関係が悪いのではなく、父との関係をよくしたくないから殴られた記憶を持ち出しているのだ」と自己分析できたところで、具体的になにが変わります?だって、子ども時代に殴られた事実は変わらないのですよ?哲人これは対人関係のカード、という観点から考えるといいでしょう。
原因論で「殴られたから、父との関係が悪い」と考えているかぎり、いまのわたしには手も足も出せない話になります。
しかし、「父との関係をよくしたくないから、殴られた記憶を持ち出している」と考えれば、関係修復のカードはわたしが握っていることになります。
わたしが「目的」を変えてしまえば、それで済む話だからです。
青年ほんとうに、それで済みますか?哲人もちろん。
青年心の底からそう思えるものでしょうか。
理屈としてはわかりますが、どうも感覚的に腑に落ちません。
哲人そこで、課題の分離です。
たしかに、父とわたしの関係は複雑なものでした。
実際、父は頑固な人でしたし、あの人の心がそう易々と変化するとは思えませんでした。
それどころか、わたしに手を上げたことさえ忘れていた可能性も高かった。
けれども、わたしが関係修復の「決心」をするにあたって、父がどんなライフスタイルを持っているか、わたしのことをどう思っているか、わたしのアプローチに対してどんな態度をとってくるかなど、ひとつも関係なかったのです。
たとえ向こうに関係修復の意思がなくても一向にかまわない。
問題はわたしが決心するかどうかであって、対人関係のカードは常に「わたし」が握っていたのです。
青年対人関係のカードは、常に「わたし」が握っている……?哲人そう。
多くの人は、対人関係のカードは他者が握っていると思っています。
だからこそ「あの人は自分のことをどう思っているんだろう?」と気になるし、他者の希望を満たすような生き方をしてしまう。
でも、課題の分離が理解できれば、すべてのカードは自分が握っていることに気がつくでしょう。
これは新しい発見です。
青年じゃあ、実際に先生が変わることによって、お父様も変わられたのですか?哲人わたしは「父を変えるため」に変わったのではありません。
それは他者を操作しようとする、誤った考えです。
わたしが変わったところで、変わるのは「わたし」だけです。
その結果として相手がどうなるかはわからないし、自分の関与できるところではない。
これも課題の分離ですね。
もちろん、わたしの変化に伴って——わたしの変化によって、ではありません——相手が変わることはあります。
多くの場合、変わらざるをえないでしょう。
でも、それが目的ではないし、変わらない可能性だってある。
ともかく、他者を操作する手段として自分の言動を変えるのは、明らかに間違った発想になります。
青年他者を操作してはいけないし、操作することはできない。
哲人対人関係というと、どうしても「ふたりの関係」や「大勢との関係」をイメージしてしまいますが、まずは自分なのです。
承認欲求に縛られていると、対人関係のカードはいつまでも他者の手に握られたままになります。
人生のカードを他者に委ねるか、それとも自分が握るのか。
課題の分離、そして自由について、もう一度ご自宅でゆっくり整理されてみてください。
また次回、ここでお待ちしています。
青年わかりました。
ひとりで考えてみますよ。
哲人それでは……。
青年先生、最後にひとつ、ひとつだけ聞かせてください。
哲人なんでしょう?青年……結局、先生とお父様の関係は修復できたのですか?哲人ええ、もちろん。
わたしはそう思っています。
父は晩年に病気を患い、最後の数年間はわたしや家族による介護が必要になりました。
そんなある日、いつものように介護するわたしに、父が「ありがとう」といいました。
父のボキャブラリーにそんな言葉があることを知らなかったわたしは大いに驚き、これまでの日々に感謝しました。
長い介護生活を通じて、わたしは自分にできること、つまり父を水辺に連れていくことまではやったつもりです。
そして最終的に父は、水を呑んでくれた。
わたしはそう思っています。
青年……ありがとうございました。
ではまた次回、この時間にお伺いします。
哲人楽しい時間でした。
こちらこそありがとう。
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