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第4章「なぜかモテない人」には品がない

第4章「なぜかモテない人」には品がない

親戚や友人の自慢◆「自慢ではないが……」は「これから自慢をしますが……」と同じ男性と女性とが相手を明確なかたちで異性として意識したうえでつきあおうとするときは、お互いに自分の長所を知ってもらおうとして努力する。自分自身の美点だけではなく、自分の周辺に関する情報についても、人が魅力と感じる可能性のあることがあれば、それも教えようとする。もちろん、性格的なことについては、面と向き合って話をしたり食事をしたりして、一緒に時間を過ごしていく中で、お互いに感じとっていく。生い立ちや経験してきたことについては、会話の中から少しずつ知っていくことになる。相手が問わず語りで教えてくれたことに対しては、同じ話題について、自分側の情報を「開示」していく。逆に考えると、自分の知りたい情報があったら、その内容について自分側の事実をまず教えたうえで、相手側の情報を教えてもらうのだ。たとえば、相手の出生地について知りたいと思ったら、自分が生まれた場所についての話をする。その後で、相手はどこの出身なのかを聞く。公平の原理に従って話を進めていけば、スムーズな情報交換が可能である。しかしながら、自分が誇らしく思っていることについては、問わず語りを控えたほうが賢明だ。性急に話題をその点に持っていったのでは、単なる自慢になってしまう可能性が高い。さらに、その点について相手が劣等感を持っていたとしたら、話がギクシャクしたものになる。したがって、相手から聞かれるまでは、自分から話題にしていかないほうがよい。自分についての、人も羨むようなことについては、たとえ事実であっても、自分から進んで話をするのは避ける。話せば、どうしても自慢するというニュアンスがつきまとう。よく「自慢ではないが」といって話し始めることがある。言葉のうえでは、自慢する意図を否定している。だが、人に自慢していると思われるのは覚悟のうえである心情が、いみじくも暴露されている。それでも、人に知ってもらいたいと思っているのである。「自慢ではないが」というのは、「これから自慢をしますが」というのとまったく同じ意味なのだ。慇懃無礼にいっているだけである。自慢ではないといって自慢をするのであるから、人を欺瞞しようとする意図もうかがえる。それだけ、真摯な姿勢に欠ける人であると判断されても仕方がない。したがって、「自慢話になりますが」というほうが、まだ素直に自分を打ち出そうとしているので、少なくとも正直な人として好感が持てる。自分が誇りに思っているという気持ちがストレートに表現されている分だけ、救いがある。◆自慢は男女の仲でも決定的なマイナス要因いずれにしても、「自慢ではないが」などの前置きの台詞が口から出そうになったときは、その話を中止するのが賢明な人のすることだ。自慢をする結果になる話は、人から強要されたときのみにする。そのときも、恥ずかしそうな風情で、最低限に話がわかる程度の事実について話すのに留めておくことだ。できるだけ淡々と話していく。それが奥床しさである。自分に関することについて誇りを持つのはよいが、それを人に吹聴しようとする気になった途端に、自分の格を下げる結果になる。誇りに思っていることは、自分の胸の中に秘めておく。人にいってしまったのでは、誇りというプラスのエネルギーは発散されてなくなってしまう。秘めておけば、内なるエネルギーとして蓄えられ、それは自分を向上させるための推進力となる。自慢ばかりしていたのでは、秘めたるものがなくなるので、薄っぺらな人間になってしまう。いざというときの気力の蓄えがない状態なので、見ていても非常に不安定である。どのような人間関係においても、自慢をするのはマイナスの効果しかない。特に、男性と女性とが異性としてつきあう場においては、「決定的な」マイナス要因となる。率直な誠実さに基づいた信頼関係が重要な場だからである。ほかの人間関係の場合には、金銭的な利がからまっているなど、ほかにも拠りどころとなるものがある点が異なっている。親密さが増してきた段階においては、多少の自慢も場合によっては許される。それによって話が面白くなったり、お互いの理解が促進されたりする効果もある。しかしながら、自分の親戚や友人たちに関する自慢話をするのは危険だ。自分の格を上げようとしていっているかもしれないが、逆に自分自身について誇りに思うものがないことを示した結果にもなりかねない。親戚の人や友人に比べて自分が劣っているといっているにも等しい。さらに、自分には実力がないので、人の威を借りて自分をよく見せようとしていると解釈されても仕方がない。

男尊女卑◆「うちの女の子にでも届けさせます」は禁句仕事の場における電話などで、「それでは後ほど、うちの女の子にでも届けさせます」などといった台詞を聞くことは少なくない。女性を非常に見下している姿勢が如実に露呈されている表現である。「女の子」というのは、若い女性を軽んじていう言葉だ。「にでも」という言葉には、誰でもよいのだが、という気持ちが込められている。単なる使い走りをする人である、というニュアンスが感じられる。さらに、「届けさせる」といって、命令をしてさせる点も強調している。女性を見下げているのが明らかにわかる。男尊女卑などという言葉は、言葉としては死語になったかの感があるくらいに、男女の差別をなくす風潮が確立されてきている。男尊女卑を話題にするだけで、時代錯誤であるとして、一笑に付される雰囲気さえある。しかし、そのような現象は表向きのことであって、男性のみならず女性をも含めた人々の頭の中には、社会的には女性を軽視する考え方が脈々と息づいている。長い歴史のある男性中心の社会について、構造改革を成し遂げるのは、一朝一夕には困難なのである。独立した個性が一緒になった夫婦であっても、いったん社会という人間集団の場に出ると、一方は「主人」となり他方は「家内」となる。社会に対するときは、主と従という関係を示す結果になっているのである。女性の社会、政治、法律上の権利拡張を主張するフェミニズムの運動が行われるようになってから久しい。法律上の男女同権は確立されたものの、人々の意識の中では依然として女性に対する差別の考え方が残っている。女権拡張論者を意味するフェミニストという英語が、女性に甘い男性という意味に日本では使われることも、逆にそのような人々の考え方を示している証左かもしれない。「女子供」といって社会的な弱者を一つにくくった表現をすることも珍しくない。これも、大人の男性が社会的に優位な立場にあることを示す、もう一つの例である。◆レディーファーストを実践すると品格が備わってくるビジネスの世界で男性に伍して活躍している女性の知人がいる。彼女はタイトルに「男」という単語がついている書籍を見たら、片っ端から買って読むのだという。男性の考え方や行動様式を知って、そこから学んだり、それに対抗したりするためである。欧米のビジネスの第一線での輝かしい経歴を持ち、恵まれた環境にも置かれている彼女の場合でも、女性という「ハンディキャップ」を克服するために、普段から人一倍の努力をしているのである。それを横目で眺めていたのでは、そのような女性から尊敬の念を勝ち得ることはできない。特に男性の場合は、女性に相対するときや女性を話題にするとき、差別をした振る舞いや発言にならないようにと、特別の配慮をする必要がある。相手が大人の男性であっても同じように接したり話したりするかどうかを、そのつど考えてからする習慣をつける。現在はまだ男性優位の社会である点を銘記する。漫然とした言動をしたのでは、男尊女卑のニュアンスが出てくるのは間違いない、というくらいの意識を持ち続けて対処しなくてはならない。現在は男女平等の世界へ向かっての過渡期である。したがって、男性であってもフェミニズムの旗手になったくらいのつもりで行動しなくては、いつまで経っても前進できない。長い過渡期になってしまうだけだ。過渡期は安定していない時期であるから、居心地が悪い。早く新しい安定期を実現したほうが、お互いに楽なはずである。人に対するとき、相手も自分と寸分も違うところのない、同じ人間であると考えて接していけば、相手も自分を尊厳のある人として認めてくれる。男性と女性とは単に生理的な違いがあるだけである。そこから派生してくる、避け難い違いを除いては、男性と女性はまったく同等である。たとえ、恋人同士になったときでも、その点を常に念頭に置いておかなくてはならない。西洋流のレディーファーストは単なるマナーである。しかしながら、女性を優先して大切に遇するという精神に基づいている。意識下にある男尊女卑の考え方を打ち破っていくためには、一つの効果的な方法にもなりうる。マナーはカタチである。女性を尊重するというカタチを実行していくうちに、自然にその考え方が身についてくる。カタチにココロが入っていくのである。名実ともに人と対等に接する人になっていく。そうなると、揺るぎのない品格が備わってきているはずだ。

人前で化粧をする◆化粧は手品と同じ。種明かしすると身も蓋もない電車や地下鉄など公共の交通機関の中で、若い女性が化粧をするのが頻繁に見られるようになった。品がよくないというので、人々の顰蹙を買っている。もちろん、男性の中には、その化粧をしていく過程と器用さを興味本位に見て楽しんでいる人がいることも、事実であろう。ちょっとした「のぞき」趣味は誰にでもある。舞台裏を見たいという好奇心である。だが、公共の場でとなると、して見せるのもよくないし、おおっぴらに観察するのも品に欠ける。そのようなことをしたり、それを認めたりする人がいる社会は、品が悪い社会であると決めつけざるをえないだろう。人間には常にある程度の慎みが必要だ。人に対して直接には物理的な迷惑を掛けないからといって、好き勝手なことをするのはよくない。心理的に迷惑を掛けることのないようにする配慮も必要だ。人に不快な思いをさせないようにと考えて、自分の言動を律していく。それが品のよい振る舞いをすることにつながっていく。人間としてしなくてはならないこと、せざるをえないことなどであっても、人前でしてはいけないことがある。その点をよくわきまえて行動するのが、品のある人になる条件の一つだ。化粧とは、さまざまな材料や道具を使って、顔が美しく引き立つようにすることである。人に美しく見せるのが目的であるので、その過程を見せたのでは、その目的の効果が損なわれる可能性がある。手品と同じである。手品は人の目をくらまして、人がびっくりすることや不思議に思うことなどをして見せる。その経緯を説明して種明かしをしてもらえば、見ている側としては、確かに納得はできる。しかし、面白みは半減する。どうなっているのだろう、と不思議がっているほうが楽しい。種明かしは人の好奇心に終止符を打ち、その限りにおいて、人々の心の積極的な働きを止めてしまう。化粧によって自分をより魅力的に見せようとするのであれば、種明かしをしてしまったら、まさに身も蓋もなくなる。せっかくの風情が失われてしまう。出来上がった完成品を見せるのが、見せる側としても格好がよいし、見る側としても楽しい。役者が顔をつくっていくときは、プロが役になっていく過程の一部でもあるので、それを見るのは興味深い。舞台裏を見せることによって観客の注目を集める結果にもなる。興行の観点からもメリットがある。だが、一般の人の場合は、「化ける」過程をさらけ出して見せるのは、悪趣味というほかない。特に公共の場で遭遇する、不特定多数の見知らぬ人たちとしては、最もきれいになったところだけを見たいはずだ。◆化粧直しを見るほうも下品の側に入れられる公共の乗り物の中で化粧をする女性を非難している女性の中にも、自分自身は同じようなことをしている人が少なくない。レストランなどで食事をした後で、化粧を直すようなときである。コンパクトを取り出して、ちょっと直すだけであるので、親しい者同士であったら差し支えない、と考えているのかもしれない。しかしながら、個室でもない限りはレストランも立派な公共の場である。人前であることには変わりない。ほかの客としては、化粧を直していると思ったら、目を逸らさなくてはならない。それは特別な神経を使うということだ。本人は人にわからないようにしているつもりかもしれない。だが、こっそりという気配は一種異様な雰囲気なので、逆に動物的感覚が察知してしまう。そこで瞬間的にちらっと見ることになる。見てはいけないところを見たと思うので、慌てて視線をほかのもののほうへ向けなくてはならない。見てはいけないと人が思うことを人前でして見せるのは、下品の極みである。それと同時に、見てはいけないものを見るのも、それ自体が恥ずかしいことであるという意識がある。見せる側だけではなく見る側も下品のカテゴリーに入れられてしまう。人を困惑させる結果になる。化粧を直すという簡単な作業でも、人前を避ける配慮が必要だ。レストランには、そのために「化粧室」が備えられている。面倒でも、小声で「失礼」といって席を立って、いってくればよい。ちょっとしたことを面倒くさがって、簡便にしたのでは、それまでの品のよさが一瞬にして台無しになってしまう。人前では人目を避けることは不可能である点を銘記しておく。そのつど、人の前から自分の姿を完全に隠す術を講じるのが先決問題である。

優柔不断◆銀婚式・金婚式は偉業私は晩婚であった。四半世紀前に四十五歳で結婚した。当時は、その年齢になるまで独身でいるというのは、心身のどこかに欠陥があるのではないか、などといわれていた時代だ。しかし、独立して次々と新しい仕事をするのに忙しかった。また、女性とつきあう機会は多かったが、長い期間にわたって一緒に生活できると思える女性に、それまでは巡り合うことがなかっただけだ。最近は晩婚の例もまったく珍しくない。というよりも、男女ともに結婚をしようとする意志がない人も大勢いる。人生のあらゆる場面において、面倒なことを避ける傾向が見られ、未婚ないしは「無婚」が多いのも、その一環であるのかもしれない。結婚というのは、男と女が対等の立場に立ち、長い年月にわたって一緒に暮らしていくことである。自分勝手な振る舞いをしたのでは、すぐに立ち行かなくなってしまう。お互いに譲り合っていかなくてはならない場面が、あちこちで生じてくる。そのうえで、お互いに対して全面的に責任を取らなくてはならない。したがって、お互いに十分頼ることができ、心から信頼できる関係が確立されていないと、困難な状況を招来したり失敗したりする危険性が高い。企業などの組織を経営したり運営したりするよりも、ずっと難しいことであるといってよい。そのような責任感と信頼感が揺るぎなく確立されている基礎のうえに立って、男性と女性がぶつかり合い磨きを掛けていくのが、結婚生活である。したがって、結婚二十五周年の銀婚式や五十周年の金婚式を迎えたら、偉業を成し遂げた証拠である。大いに自信を持ってよい。◆仲を発展させるには「独断専行」も必要恋愛感情が絡んだ男性と女性とのつきあいの場では、結婚を目指すかどうかは別として、夫婦としての心構えにも似たものが根底になくてはならない。すなわち、自主的に責任感と信頼感を醸成したうえで、その信念に基づいて振る舞っていかなくてはならない。その点が欠如していたら、相手は物足りなく思ったり煩わしく思ったりする。デートで食事をするときを考えてみる。一般的には男性が主導権を握って、進行を図っていく。男性がどの料理にしようかと聞くのに対して、女性がどんな料理でもよいとか、男性に任せるとかいうのもよいが、常にそのような応答になると問題だ。「糠に釘」という状態で、まったく手応えがないと、拍子抜けしてしまう。デートは「交流」である。一方の働き掛けに対して他方が同じような力で働き返していく必要がある。反作用の原理が実現されていなくてはならない。相手の問い掛けに対しては、きちんとした決断をして応えるのである。相手のことを考えたり相手に譲ったりするのと、自己主張をするのとは矛盾しない。ぐずぐずして決断をしないでいたり、自分の意見を述べないでいたりすれば、相手は取りつく島もないという感じを受ける。コミュニケーションが活発にならないと、お互いに情報交換ができない。すると、相互理解への道は開けてこない。また、食事をする店を選ぶときに、男性が常に女性に聞いたり女性の了承を得たりしようとするのも問題だ。指導力が完全に欠如しているからである。相手の、その時点における心身の状態を推測し判断をして、「独断専行」をすることも必要だ。万一、自分の判断が結果的によくなかったら、後で謝ればよい。試みるには勇気を持って当たらなくてはならない。失敗を恐れて何も試みなかったら、成功することはない。仕事の場における考え方と同じだ。優柔不断の中からは何も生まれない。それ以上の仲に発展していくことは期待できない。もしかすると、と思った「縁」も結実することはない。何をどこで食べるかなどという、長い人生から見ると末梢的なことに関しては、お互いにリーダーシップを発揮してみる必要もある。そうしないと、人格や性格の特徴もまったく見えてこない。男性であれ女性であれ、優柔不断は現在の境遇に安住をしている証左でもある。完全に親掛かりになっていたり親離れをしていないこともある。自主独立の精神が備わっていないのである。それでは、人間としての尊厳もなければ品格も感じられない。決断力に欠けていたり優柔不断であったりする、と人にいわれたり自分で思ったりすることがあったら、自分が独立していない証拠だと思ってよい。現在、自分が寄り掛かっているものを探し出し、そこから抜け出してみる。すると、徐々に人品が備わってくるはずだ。

足下の乱れ◆格好よく振る舞うなら徹底的に目一杯のおしゃれをした女性たちが高級レストランで食事をしている。ワイングラスを持つ手も軽やかで、にこやかに会話を交わしている。和やかな時間の流れが感じられ、品のよい雰囲気である。ところが、デザートを選ぶころになると、多少騒がしくなってくる。酒の酔いも手伝って、「宴たけなわ」という様相を呈してくる。デザートの選択に関して、女性は非常に強い関心を抱いているようだ。オードブルやメインの料理を選ぶときよりも、熱心になり集中力を発揮する。女性の執念の強さを感じさせられるときである。一般的には優柔不断でおとなしい傾向のある女性でも、デザートの選択をするときは、決断力があってはっきりものをいう女性に変身するかのようだ。楽しさが一段と盛り上がってきた様子に、その女性グループのほうに目を向けてみる。すると、目の端に違和感を感じさせる光景が映った。靴を脱いだ足が靴の上で不安定なかたちになっている。それまでの雰囲気や格好を一瞬にしてぶち壊すような場面である。身なりやマナーなどが整っていただけに、それらはすべて単に表向きのことであったのかと疑わせる結果になっている。見ている側としても、せっかく気分がよかったのに、裏切られたようで幻滅を感じる。高いヒールの靴をはいていれば、足が痛くなるのは理解できる。しかし、人前で飾り立てて格好よく振る舞おうとするのであれば、徹底的にする必要がある。ちょっとした手抜かりが、それまでの努力すべてを無にしてしまう。いや、それよりも悪く、マイナスのイメージを強く押し出してしまう結果になる。人前にいる限り、すなわち表舞台ではあくまでも格好よく、という演技を続ける必要がある。家に帰ってからであれば、勝手気ままに足を投げ出して休んでよい。そのような行儀の悪さについては、たとえ伝え聞いたにしても、逆に好意的に受け取る。人前で無理をして行儀よくしていたという真面目さや実直さに、愛敬のよさと人間味を感じるからである。◆足は社会人としての土台とにかく、中途半端に行儀よくとか品よくとかするのが、いちばんよくない。けじめをつける場では終始一貫した言動をするのが、品のよい身の処し方である。立ち居振る舞いの作法は、元々「社会」に対するもの。すなわち人前を意識したものである。厳格にするのは人前だけでよい、ということもできる。ただ、日頃から独りでいるときでも無作法にしていたら、人前に出たときに、つい行儀の悪さが暴露されてしまう。それでは、評判を落とす羽目になる。自分を切磋琢磨するために、日々の生活の中で、人前でなくても行儀よくする心掛けでいたほうがよい、という点に関しては異論もないはずだ。人を意識して着飾ったときは、見えるところだけでなく見えないところにも気を使う必要がある。人には見えないだろうと思っていても、何かの拍子に表に出るかもしれない。足下など一見して人目につかないところが重要な所以だ。スーツがよれよれになったら買い換えても、くたびれた靴はそのままはき続ける人がいる。本人は、誰にもわからないだろうと考えても、ほかの人は気がつくものだ。「頭隠して尻隠さず」の状態になっているので、様にならないことはこのうえない。頭の天辺から足の爪先まできれいにしておいたうえで、下着も清潔なものを身につける。そうしていれば、後ろめたさはまったくない。それが心身から溢れ出てくる自信へとつながっていくのである。立ち居振る舞いもきちんとしたものになっていく。表から飾り立てていくから、中身がおろそかになるのである。心から、内なるものから磨き上げていけば、一つずつ積み上げていくことになる。したがって、手抜かりの生じる危険性は非常に少なくなる。抜けているところがあったら、そのうえに積み上げることはできないからである。表だけを飾るのは「砂上の楼閣」にも等しい。一時的にはかたちになるかもしれないが、風が吹いたり水がかかったりするだけで、たちまちのうちに崩れてしまう。淑女が人前で靴をちょっとであれ脱いでみせるのは、たとえ少しの間であれ、はしたなさを露呈したことになる。足は人間として社会に向かっていくときの土台になるものだ。その土台に締まりがなかったら、本体がきちんとするはずがない。まず、足下をきちんと固めていくことだ。それは淑女だけでなく紳士についても同じようにいえる。足下の乱れは、ちょっとしたものでも、その人の全体像を不安定にする。禅語に「看脚下」というのがある。足下に人の道に関する極意が秘められている。

駄じゃれ◆面白いことも大量生産すると下らない社会人になって二、三年経ったころ、ニューヨークで働くことになった。たまたま、大学時代の親友も外交官となって赴任してきていたので、一緒に住もうという話がすぐにまとまった。そのほうが、同じ出費でより大きなアパートを借りることができたからだ。広い居間に機能的な台所や浴室は、快適な生活を提供してくれた。それぞれの寝室も広いので、プライバシーも十分に守られていた。夜や週末は一緒に過ごすことが多く、お互いに情報を交換しながら、アメリカの文化を吸収しようと努力していた。いつのころからか、二人の間で駄じゃれをいうのがはやり始めた。日本語だけでなく英語やスペイン語で、頭をフル回転させて駄じゃれをいって競うのである。一方がいうと、それに関連づけて他方がいう。その遊びは時どき際限なく続くので、二人とも疲れ果ててしまうことも頻繁だった。本人同士は少しでも語呂が合っていたり、もじりになっていたりすれば、得意になっている。自画自賛するのに対して相手は笑ってはみせるものの、さらに面白いことをいおうとして知恵を絞るのである。外国語に関しては勉強になるので大いに役立った。大いに楽しんでいた。ところが、ある日、共通の友人が日本からやってきて、短時日ではあったが逗留することとなった。私たちが相変わらず駄じゃれをいい合っていたのを聞いて、初めは調子を合わせて笑ってくれていた。だが、度重なってくると、苦笑へと変わっていった。最後には「下らない」といって一笑に付すようになった。高尚とは程遠い遊びである、といってこき下ろした。何か面白いことを、とにかく何でもよいからいおうとするあまり、内容がどんどん悪くなっていった。大量生産をする結果になっているので、当然のことながら、質は低下していく。本人同士は言葉のゲームに一所懸命熱中する結果になっていたので、そのことに気づかなかったのだ。酔っ払い同士が下らないことをいい合って騒いでいるのと同じである。本人たちは面白いと思っていても、周囲にいる、しらふの人から見れば、取るに足りないことを話題にして、単なる景気づけをしている図としか映らない。ほかの人にとっては、しらけた思いをさせられるだけの結果になっている。無理が通れば道理引っ込む。しゃれも無理をしていおうとすれば駄じゃれになるのである。何か話しているときに、突如として降って湧いたように出てくるしゃれにこそ、珠玉の価値がある。出るべくして出てきた、知恵の結晶だからだ。◆二番煎じは軽蔑され、品を落とす話をしているときは、人を面白がらせたり笑わせたりしようとする傾向がある。そうすれば人の興味を惹き、自分の話に耳を傾けてもらうことができるからだ。特に講演など、大勢の人を前にして話をするときは、何か面白いことをいうのが、話術の一つであるようにいわれている。しかし、これは、結果的にという意味であると考えたほうがよいようだ。私の経験に従っても、聴衆が笑うことを期待していったことが、笑いを誘ったことは非常に少ない。その点に話を持っていこうとする「作為」が人々の反発を買うのではないだろうか。話の流れの中で自然に出た言葉や内容のほうが、思い掛けなく笑いを引き出す結果になる。人々が抵抗を感じないで受け入れるので、それが人の心を打ち、反射的に笑いが出てくるのかもしれない。欧米人は、笑い話の種を仕入れておいて、社交の場で披露してみせたりすることがある。わざわざ仕入れてくるだけあって面白い話になっているので、格好の座興にはなる。しかし、昔からの話であれば、知っている人も多い。まさに「新しいネタ」でないと、話にもならないので、注意を要する。しゃれは独創性と新鮮みが売り物だ。いくらタイミングよくいったとしても、二番煎じは人に軽蔑される危険性が高い。特に、政界や財界のトップの座にいる人の場合、人がいった駄じゃれを公の場で繰り返したりしたのでは、間違いなく品を落とす。有名人の場合は、しゃれたことをいおうとしないほうが安全だ。その発言に皆が注目しているのであるから、自分自身が考えたことでも、ほかの人が似たようなことをいっていたら、真似をしたと思われる結果になる。淡々と、意見と心情を述べるのに徹するべきである。異性に対する場合、駄じゃれはいわないに越したことはない。特に性に関することについては、ふざけたことは一切いうべきではない。真面目な人間である面を押し出し、それを貫くのである。笑わせて人気者になろうとすると、軽い人間と思われるだけだ。

動物的な食べ方◆マナーひとつで生き方・考え方がわかる知り合いになった人と、さらに深くつきあいたいとか、もっと親しくなりたいとか思ったときは、一緒に食事をすることを提案するのが常道である。そのような誘い掛けに対して、相手が即座に応じたときは、相手も自分に対して好感を抱いていると考えて、ほぼ間違いない。ビジネスの場では、人間同士としてつきあいたいとは思っていなくても、仕事上の利用価値があるときは仕方なく、食事を一緒にしたりすることもある。しかしながら、友だちとしてつきあおうとするときは、お互いに好ましいと思っていなかったら、食事の機会が生じることはない。特に異性間においてはそうである。食事を一緒にするというのは、象徴的には一緒に生きていくということでもある。たとえ一時的にではあっても、共同生活をすることになる。大人のママゴトと位置づけることができるかもしれない。したがって、若い男女がお互いに相手を将来の伴侶とする可能性がある人と、たとえ意識下であったとしても感じているときは、家庭ごっこの一つになっているといってもよいだろう。誇張した表現をすれば、カップルとしての生活に対する予行演習の第一歩ということもできる。食事をするところを見ていれば、その人の、これまでの生活体験や生き方を垣間見るのと同じ結果になる。立ち居振る舞いを見るので、そのマナーなどを通して日々の生き方や考え方までもわかる。多少は廃れ気味であるものの、見合いは、一緒に食事をするものと決まっている。さらに、本人同士だけではなく、お互いの両親なども一緒に加われば、家庭における教育方針や生活態度などのすべてが浮き彫りになってくる。結婚などという重要度の高いことに関しても試行錯誤を旨とする、最近の考え方の傾向にとっては、見合いなどというシステムは時代錯誤的であるとして敬遠されているようである。だが、慎重を期そうと思うのであれば、極めて有用な方式であって、だからこそ、利用してみて損をすることはない。相手の美点をよく知れば、それは魅力を増すことになる。欠点があれば、それを補っていこうとする決意をあらかじめすることによって、前向きの姿勢を固めておくこともできる。◆男も「しとやかに」を心得よいずれにしても、食事のときのマナーを見れば、人となりや生活習慣の概略はわかる。ナイフやフォークの使い方には、多くの日本人も慣れてきているはずだ。ちょっと本を見たり人に教わったりすれば、正しい使い方はできるようになる。その点に無関心であれば、社交性に欠けている人である。ただ食べればよいのではないかと考えている、動物的な人と決めつけられても仕方がないであろう。ナイフやフォークは扱い方がきちんとしているだけでは、十分とはいえない。金属製であるので、乱暴に扱うと音が出やすい。できるだけ音を立てないようにして使ったり置いたりする配慮から、品が醸し出されてくる。また、手がマナーどおりの扱い方をしていても、姿勢が悪かったら台無しだ。下品な格好になってしまう。日本で古くから使っている箸については、下手な使い方、したがってスマートさに欠ける使い方をしている人が、意外に多い。これも正しいマナーを身につけておくべきだ。特に箸置きが用意してあるときに、食べ始めると利用しなくなる人が多いのは気になる。茶碗や椀、それに皿についても、原則的には、最初に置かれた場所が定位置である。むやみやたらに変えないのが、見ていてもきれいだ。酒を飲むときの盃の位置についても同じである。酔うにつれて盃を置く場所が変わってくるのは、性格的にも乱雑な印象を与えて、品位を落とす結果になる。洋食の場合も同じであるが、グラス類は右側に置かれているのがルールだ。その点を覚えておいて、飲んだ後でテーブルの上に置くときも、元の位置に置くことを習慣づけておく。そうすれば、人のグラスを手にするような失態を演ずることにはならない。もちろん、食べ物を口の中に入れて噛んだりするときに、大きな音を立てるのは論外である。食べるというのは元々動物的な行為であるだけに、本能に任せた食べ方をしてはいけない。たとえ男性の場合でも、「しとやかに」を心掛けるべきだ。洗練されたマナーは、食事の場を快適なものにする。気取った風情が見えるときは、マナーがまだ身についていない証拠である。常日頃から心して訓練しておけば、自然に身体も手足もルールどおりに動くようになる。習い性となったマナーはスムーズであり、したがって品が備わったものになっている。

自分勝手な料理の注文◆同時に食べ始め、同時に終わるのが理想仕事上で世話になった女性に対して、謝意を表明するために、イタリア料理のレストランで一席設けた。妻以外の女性と夕食を一緒にするときは、一対一にならないようにするのが、私の基本的な姿勢である。「遠くて近きは男女の仲」である。どのような事態が起こるかもしれないし、運命のいたずらに弄ばれる可能性もゼロとはいいきれない。それに、「李下に冠を正さず」である。客観的に見れば疑われる可能性のあることは、しないに越したことはない。そこで、相手の女性に対して、誰か同僚ないしは友人を一緒に連れてきてください、というのが常になっている。もちろん、新しい人を紹介してもらう結果になるので、それによって交際の輪が広がっていくことを、半無意識のうちに期待している点も否定はできない。何となく一挙両得を狙っているのである。しかし、喜んで連れてこられる人があれば、その人にとっても悪いことではないだろうと考え、自分のやり方を正当化している。そのときの女性は同僚の女性を伴ってきた。二人とも若々しいながらも、その分野の第一線で働いてベテランの域に達しようとしている人たちだ。溌剌とした言動からは、自信を持って仕事に取り組んでいる様子がうかがわれる。楽しい食事になりそうな予感がして、私の気分も高揚気味になっていた。そのレストランは私の行きつけの店だ。支配人がサービスの飲み物を供してくれる。それから、おもむろに当日の特製の料理を説明してくれる。オードブル、パスタ二種類、メインは魚か肉の料理を、支配人のすすめに従って各自が選んでいくのが、私の方式になっている。この店ではメニューを見て注文することはない。接待される相手としては、メニューを見て想像力を働かせながら選んでいく楽しみを奪われた結果となって、物足りない思いをするかもしれない。しかし、私としては支配人に全面的な信頼を置いていて、味や組み合わせにおいても裏切られたことはない。それに、そのような注文の仕方をすると、食べ過ぎになるという格好の悪い結果にはならない。一緒に食事をする人が選ぶ料理の数が同じになるし、料理の出てくるタイミングにも狂いがない。一人が食べ終わっているのに相手はまだ食べ続けているという状況は、多少とはいえ「団欒」の雰囲気に水を差すことになる。自分だけがしゃべるのに一所懸命になって食べ終わるのが遅くなってもいけないが、独りで食べるのに専念して、またたく間に自分の皿だけが空になるというのもいけない。皆が同時に食べ始めて同時に食べ終わるのが理想的である。そうなると、皆の心が一つになった証拠であり、会食は大成功であったといってよい。◆ホスト役のコントロールを奪ってはいけないさて、件の食事の席の話である。サービスに出された上質のスパークリングワインの効果もあって、すぐに和気藹々の雰囲気になった。特に、初対面の女性の調子がよくなり、支配人の料理の説明については半分も聞かないうちに、自分勝手に「あの材料はあるか、この料理はできるか」などと聞き始めた。いずれも珍味や特別な料理の類である。レストラン側はすべて用意のできるものばかりだ。彼女は得意になって次々と注文をしていった。知識をひけらかしている気配であった。残った私たち二人は、支配人のすすめに従って選んでいったのであるが、そのことについても、意に介する様子は少しも見られなかった。私自身は内心しらけた思いになった。ホスト役のコントロールが利かない状態になったからである。彼女の料理の数が多くなり、さらに質的にもちぐはぐになってしまい、私たちの数や量とのバランスが崩れた。頭の中に描いていて注文しようと思ったワインについても、考え方を変えなくてはならなくなった。もちろん、私が最初に想定していた予算も大幅に狂ってしまった。私くらいの年配の男性が食事に女性を誘うときは、その理由が何であれ、ある程度は「甘えられる」ことは覚悟しているし、またそれを望む気持ちも潜んではいる。だが、度が過ぎると、つけ込んで利用されたような格好になって後味が悪い。英語の表現に「シュガーダディ」というのがある。若い女性に金を注ぎ込んで相手をしてもらう、甘いパパ的な男のことだ。そのような状態になると、逆にみっともなくなる。特に初対面で過度に甘えたりつけ込んだりするのは、品を落とす行動様式である。お里が知れる、といわれても仕方がないであろう。たとえ鼻の下が長い男でも、その次からは敬遠することになるはずだ。

 

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