大人の流儀
九大人の遊び方について六十歳のリサイタル高校時代まで、私は本気でオペラ歌手になりたくて、芸大出の先生について歌を習っていた。中学生の頃、夢中になった藤原歌劇団の砂原美智子、大谷洌子といったプリマドンナに憧れていたのだ。音大受験を歌の先生に相談すると、オペラは無理だと言われた。当時はでっぷりとした大きな体でないと、マイクなしで大勢を前にして届くような声は出ないと思われていたのだ。やせた小さな体の私ではオペラだけは到底難しいと言われて、歌の道は諦めてしまった。だが、趣味で練習は続けた。二期会のオペラ歌手で、芸大でも教えていた日比啓子さんに時々レッスンしてもらい、オペラのアリアも何とか歌いこなせるようになった六十歳の時。私は六十人の友人知人を招待して、歌のリサイタルをすることを思いついた。五反田のフレンチレストランで、ディナーショーも催していた店を一夜借り切った。六十人分のフルコースを、今までの感謝を込めてみなさんに御馳走した。司会も自分で、料理も私が吟味し、選んだ。各テーブルをまわって一人一人と話して、デザートを挟んで一休みしたら、リサイタル開始。シャンソンを七曲、エディット・ピアフの、仲の良かった岸洋子さんがよく歌っていた「私の回転木馬」や「群衆」などを歌った。食事を先にしたのにはわけがあって、御招待だから逃げるわけにはいかないだろうと──いわば落語の「寝床」をやってみたかったのだ。「寝床」は横町の御隠居さんが長屋の衆を御馳走で釣って、誰も聞きたがらない義太夫を無理やり聞かせる、そんな古典落語である。構成も自分でやってアドリブも入れ、無事にアンコールまでたどりついた。アンコールで歌ったのは「マダム・バタフライ」の有名なアリア「ある晴れた日に」である。本人は大満足、そしてお客さまも……少なくともフランス料理はおいしかったはずである。誰も逃げ出したりはしなかったが、連れ合いだけは、聞きたくないと言って歌の間だけどこかへ消えていた。これで六十歳の区切りをつけた。還暦以後、私は新しく生まれ変わったのだと思っている。古稀も喜寿も傘寿も、六十歳以降は年を重ねていないことにしてあるので、お祝いなどする必要はない。わが家では出来るだけさり気なく過ごすために、誕生日でも特別なことはしない。四十八歳で始めたバレエ、六十歳から地唄舞四十八歳からクラシックバレエを習った。高校時代の部活でバレエ部に所属してはいたが、正式に習ったことはなかった。体を動かすことで好きなものは何かと考えてみたら、バレエが思い浮かんだのだ。習い事は一番いい先生につくことが大事だ。青山の松山バレエ学校へ通って、バーレッスンからフロアレッスンの二時間を、六十歳になるまで続けた。夏には五反田のゆうぽうとで発表会もやった。つけまつげに厚化粧をして、「ラ・シルフィード」や「美しき青きドナウ」などを踊った。少女の頃に戻ったようで楽しかったし、おかげで背筋は今もピンとのびている。体も柔らかい。ちょうど体が衰え始める頃に、鍛えておいてよかったなと思っている。けがをして舞台に出られなくなったのを機に、今度は地唄舞をやることにした。音楽が好きと言いながら、日本の音楽について知らないのはおかしいのではないか、違うことをやってみようと思い立ったのだ。これも一番いい先生、というわけで梅津流家元・梅津貴昶さんに習うことにした。梅津さんは、坂東玉三郎さんと二人で踊った時に、素踊りなのに、玉三郎さんよりも目立つほどの舞い手である。一人で歌舞伎座を満員にするほどの人気がある。振り付けも舞台衣装も全て自分でする。そのセンスの良さに脱帽だ。地唄舞とはいわゆる上方舞、京舞のことである。一見してゆったりした印象だが、少し踊るだけで汗びっしょりになる。ゆっくりした動きほど筋力を使うと思い知った。何でもやってみないとわからないし、やってみたら面白かったということもある。もともと歌舞音曲全般が好きだったこともあって、演奏会を聴きに行ったり、舞を観に行ったりするのはもちろん、やりたかったことは、やってみることにしている。特に今までは西洋かぶれだったが、ようやく和のものの粋に気付いたようである。句会の愉しみ暉峻先生の連句会の他にも、永六輔さんに誘われて行きだした雑誌「話の特集」の句会、そして女人禁制、ただしゲストはのぞくという会則があるため、長年ゲストとして参加している「東京やなぎ句会」と、三つの句会に顔を出していた。今でも月に一、二回は参加している。だが、どの句会にも高齢化の波は押し寄せていて、次々に参加者が欠けてしまった。「話の特集」句会は、結成当初からのメンバーは、もう矢崎泰久さんぐらいかもしれない。「話の特集」の句会は当初、永六輔、小沢昭一、和田誠、色川武大、山本直純、渥美清、岩城宏之、岸田今日子、黒柳徹子、吉永小百合などがメンバーだった。作家、音楽家、俳優などの個性の強い面々が集まっているので、必然的に師匠なし、互選でやっていた。どの句にも人柄が出るもので、渥美清さんの句は繊細で哀しみがあり、私は大好きだったし、山本直純さんのものは奇想天外で面白かった。小沢昭一さんのさみしさ小沢昭一さんの映画や演劇の話に笑いころげ、聞き惚れたことも懐かしい。そのおしゃべりは独壇場だったが、小沢さんの詠む、独自の芸人の世界は誰も真似が出来なかった。〈一芸でわたる金歯や濁酒〉などの句も印象深かったが、〈天の川俺にも俺のさみしさが〉といった直截な句も私は好きだった。句会に向う途中の公園で、小沢さんを見かけたことがある。藤棚の下でひとり煙草を吸っていた。声をかけようかどうしようか逡巡したが、夕闇の中の小沢さんの背中が淋しくて、黙って通り過ぎた。永六輔さんの旅
永六輔さんは、ラジオ番組や句会のほかは、ほとんど旅に出ている人で、日本中どこに行っても永さんのサインがあった。永さんの句で印象的なのは、〈青りんご点となって海に落ちた〉〈新緑の車窓ちらりと千曲川〉などだが、やはり旅先での光景を詠まれたものだろう。永さんとは、不思議なことに仕事の御縁があるようでなかった。一度一緒にテレビ番組をやる話もあったのだが、永さんが一回目に「や~めた」と言って画面から消えてその話もなくなった。それ以後、句会をはじめ様々な遊びに誘って下さるようになったのだ。いつも楽しい遊びばかりだったが、ずっとラジオでコンビを組んでいた遠藤泰子さんは「仕事ばかりで、遊びでご一緒したことは一度もない」というから不思議だ。永さんの俳号は、住まいの住所にならって「並木橋」だったが、のちにそれが「六丁目」となってからは、桂米朝、柳家小三治、江國滋、矢野誠一といったメンバーの、東京やなぎ句会が中心になった。その東京やなぎ句会も、初めから参加しているのは柳家小三治、矢野誠一の二人だけになって、今は女人禁制も解かれたようである。岸田今日子さんの木馬岸田今日子さんの句も大好きだった。〈妖怪のふりして並ぶ冬木立〉〈春雨を髪に含みて人に逢う〉どこか童話風な妖しさと夢があった。彼女の俳号は眠女というのも、その人らしい。ある日、今日子さんから、「ね、木馬を買わない?」と言われた。今日子さんや、彼女の姉の衿子さんが親しい、岩手県の山奥に住む木工作家の土屋拓三さんの作品の写真を見せてもらった。一目で気に入った。今日子さんが、漆塗りの、人を乗せることの出来る木馬を買うというので、私は天に昇ろうとする天馬を買うつもりだったが、やっぱり私も乗れる木馬が欲しくなって同じものになってしまった。今日子さんには、パリのモンマルトルの四階のアパルトマンに住む画家の黒須昇さんも紹介してもらった。「きっとあなたが好きだと思って……」と言われたのが嬉しかった。パリを訪れるたびに、みんなでベッドに腰かけて黒須さんのさばいた魚や手作りの白い納豆を肴にワインを飲む。アトリエ以外は画材がびっしり詰まった不思議な部屋だった。木馬は軽井沢の山荘にある仕事部屋に置いている。疲れると、時々乗って揺れている。空の高さを測りかね和田誠さんとは同い年だった。少年の頃を引きずったままの和田さんの句、〈竹馬で隣の町へ行きにけり〉〈夕焼に白魚のバケツ下げてゆく〉〈庭にゐる子供は私春の夢〉は、大人になりきれずに、かつての日々が懐かしく、夢の中に、いや現実に幻影を見ることもある私にもよくわかる。木々に囲まれた軽井沢の山荘では、私も時折、木の股に腰かけたり、草を摘んでいる子供だった頃の自分を見ることがある。和田さんからは、句会のあとの二次会でのシャンパンやワインの席で、お得意の映画の話をよく聞いた。私が初めて「話の特集」句会に参加した時は、〈疎開列車夕焼けに描く地獄変〉で優勝した。季題は蜃気楼だった。初参加だったから手加減してくれたのか、ビギナーズラックだったのか、そのどちらもなのかもしれないが、やはり嬉しかった。私の俳号は郭公である。私の句が選ばれるたびに「カッコー」と鳴くのが嬉しい。〈思い出は煮凝ってなお小骨あり〉〈郭公鳴く空の高さを測りかね〉
十新しいものについて大人の口のきき方しばらく日本を離れていた人で、日本語の美しい人がいる。かつての雰囲気を身につけているからだ。例えば岸惠子さんなど古き良き時代の言葉が身についている。丁寧で上品な語り口も「臈たけた女」の条件の一つだろう。あまりに何でも喋りすぎる人も「臈たけた女」たりえない。すべてをくっきり明らかにする人では難しい。私は「辛口」と呼ばれることもあり、何でもびしっと言ってしまうから、褒められたものではないけれど、それでも言葉遣いは場所によって変えている。仲間内では口が悪く、時には伝法な口調にすらなるが、時と場所によっては話し方を変える。それが大人というものではないだろうか。俗っぽい言葉遣いをするのは楽しいし、私自身は今時の言葉にも興味津々だし、自分でも使ってみたいと思っている。言葉は生きているのだから。きゃりーぱみゅぱみゅには感心する紅白も毎年観ている。もちろんあまりにもついていけない歌の時は、テレビ東京の演歌特集の歌番組にチャンネルを変えたりもするが、しばらくすれば紅白に戻る。YOSHIKIのように、自分の好みの演者も出てくるから楽しい。YOSHIKIは、元はクラシック音楽をやっていた人だから音楽性も本物だし、第一あの痛々しいほどの美丈夫ぶりがよい。他に気に入ったのは欅坂46だ。あのニコリともしない表情、あれがいい。怖いぐらいの迫力で、きれいな若い女性たちがきちんと激しい踊りをみせてくれる。笑わないところが恰好良かった。それから、きゃりーぱみゅぱみゅにも感心している。私はあれだけの色彩感覚の持ち主はいないと思っている。あれだけいっぱい色を使っているのに、まとまりがあって品がいいのだ。互いの色が邪魔せずに引き立てあっている。なまなかには出来ないことだ。残念ながら引退してしまったが、安室奈美恵も好きだった。あのファッションセンスは抜群だった。真っ白なシャツに細い黒いネクタイをしているのが格好良くて、私も真似してみたことがある。去年の紅白では氷川きよしにも興味があった。どう変わっていくのかはまだわからないけれども、変わろうとしている、その思いの強さがあの舞台からはハッキリと伝わってきた。変わろうとトライしているところが素晴らしいではないか。冒険しようとすること、それ自体が大事なのだ。十年一日のごとく同じ恰好をしているのではつまらないし、それではいけない。靴下一つでもいい、それを変えただけでも気分が変わる。自分をプロデュースする気持ちを持たなくてはと思う。おじさんと呼ばれる男性の多くが、くすんだ色合いの、みなと同じような服を着ていないだろうか。あんな恰好をしていて、何が楽しいのだろう。物持ちがよい私は、何十年と同じものも持っているが、新しいものが全部ダメなどと思っているわけではない。流行には興味があるし、はやっているのにはそれなりの理由もあるだろう。全部は無理でも、少しだけ、そのエッセンスを取り入れてみればよいのではないか。アルマーニをはじめ、ファッションショーにも行くしファッション雑誌を眺めることも大好きである。久しぶりのゴールデン街渋谷はとうにダメになり、大人が行けるような街は銀座ぐらいになった。それも様相が変わってきたとはいうものの、買い物に行く時はやはり銀座に行く。まだ少し落ち着いた、大人の匂いが残っている街だからだ。この間ペンクラブの面々と、久しぶりに新宿のゴールデン街に行ったら楽しかった。早稲田大学を出たから新宿は馴染みだった。「酔狂連」という、直木賞を受賞して間もなくの野坂昭如さんを中心とした面々と吞み歩いていた頃は、新宿三丁目やゴールデン街にはよく行っていた。佐木隆三、田中小実昌、後藤明生、阿刀田高や、華道家の安達瞳子などが常連だった。私も、夜中の三時頃電話があっても、世田谷の自宅から出かけて行ったりしていたから、酒が強かったとはいえ、やはり若かったなと思う。ゴールデン街は、それこそ何十年ぶりだっただろうか。客を叱り飛ばすので有名だった名物バー「まえだ」のママもとうに亡くなり、今や知っている店などほとんどない。外国人観光客が怒濤のように押し寄せている。当時とまったく違っていて、それが面白かった。ころげ落ちそうな狭い階段、満員電車のように押しあって坐る椅子。〝一人の集まる場所〟に変りはない。新しいものを閉ざさない今、週刊誌連載が三本、月刊のものも二本ほどある。原稿だけは手書きである。スマホは使っているし、ガラケーからの移行も意外とすんなりいった。今でも手持ち無沙汰の時などは、ポチポチといろんな印をいじっては面白がっている。便利なものだし、使いだすと楽しい。ゲームはやらないが、親しい人とだけLINEはやっている。もう二十五年ほどになるが、NHKの青山文化センターでエッセイ教室の講師を務めている。そこに八十五歳になる生徒さんが来ているのだが、この女はとにかく凄い記憶力の持ち主で、いっぺん会った人の名前と顔は絶対に忘れない。その人が、スマホにしようと店に行ったところ、そこのお兄ちゃんから「いくつ?」と訊かれて、正直に年齢を答えたら「絶対無理っす」と断られたのだとか。年齢を訊くのも失礼な話だし、断るなど言語道断だ。大変に怒っていたし、私もあまりに失礼だと腹が立った。スマホは操作方法が簡単に出来ていて、取扱説明書など読むことなく、指示通りにすれば何となくできるように作られている。ましてやその人ほどの記憶力があれば、年齢がいくつであろうと、すぐに使いこなせるはずである。一方で、友人にはスマホなんて今更無理、とガラケーのままの人もいる。スマホの操作など、印を押していくだけで、覚えるというほどのこともないし、無理なこともないと思うのだが──。何事も、新しいことを拒むよりも、挑戦する方が世界は広がる。聴いてみるオペラやクラシック音楽の演奏会には今でもよく足を運ぶが、一緒に行く友達が何人かいる。連れ合いも最初は付き合いで来てくれて、つまらないと寝たりしていたのが、男は、はまるとオタク気質とでもいうのか、マニアックに調べだして、勉強を始めたらあっという間に追い越されてしまい、今ではオペラなど私よりも詳しいものもあるぐらいになった。
フジコ・ヘミングのピアノも聴いたことがある。鍼仲間だった俳優の三國連太郎さんから、チケットがあるから行こうよと誘われたのだ。話題になっているのだから、それには何かがあるのだろう、聴いてみないとわからないと思って出かけて行った。三國さんは何だか感心していた。リストの「ラ・カンパネラ」は、それらしい感じが出ていたが、あわせるオーケストラはなかなか大変だろうなとも思った。日本では話題性のある方が売れて、本物が育たない。樫本大進のヴァイオリンは好きで、時々聴きに行っている。影のようなものを感じさせる目つきをすることもあって、ふとかつての恋人を思い出した。ヴァイオリニストの諏訪内晶子さんとは、ニューヨークで一緒にご飯を食べたことがあった。共通の知人が紹介してくれたのだ。彼女がまだジュリアード音楽院に留学していた時のことだから、十代の時だったが、その後、美しい字で立派な御礼状を頂いて驚いた。最初はお母様が書かれたのかと思ったが、彼女は当時からいつも自分できちんと御礼状を書いていたのだという。その美貌はもちろんのこと、頭がいいから会話をしていても楽しく、何もかも出来る人というのがいるものだと感心した。諏訪内さんはその後、新しい曲にもどんどん挑戦されている。音楽祭の芸術監督も務められていると聞く。彼女ならそうだろうと、嬉しくなった。やはり才能のある人は、新しいことに挑戦しなければならないし、思い切って飛ばなくてはいけない時がある。その時に、間違っても安心安全を選んでいてはいけない。それこそが、神に選ばれし者の宿命なのだから。会ってみる『蛇にピアス』で芥川賞を受賞した、作家の金原ひとみさんとも、パリで会ったことがある。私は彼女の作品が好きだ。その金原さんがパリに住んでいた時のこと。私が旅行でパリに行った際に、パリ在住の友人が金原さんにフランス語を教えていると言うではないか。ぜひ会いたいと言うと、食事の席に来てくれた。何でも言ってみるものだと思う。最近の作家でいうと、村田沙耶香さんの作品も好きだ。会ったことはないが、セックスも家族も消えようとしている世界を描いた『消滅世界』の、夫婦間のセックスを「近親相姦」と呼ぶ感受性が好きだ。十人産んだら一人殺すことを許されるという『殺人出産』を読んだ時は、思わず膝を打った。新刊が出るのを楽しみにしている。人に会うのは好きだし、面白い。相手が私に好意を持っていないのがわかったとしても、それも含めて相手のことを面白がることもできる。会う前は気が重くても、会ったら気が合ったということだって、往々にしてあるではないか。
十一管理されない生き方についてそれだけはよけて生きてきた人は人をくくりたがるものだ。年齢によって「スマホは無理」と決めつけたりするのもそうだし、後期高齢者などという言葉もその延長でできたものだろう。年だけではない。既婚か未婚か、子供がいるかいないかなど、あらゆる点で人は人をグループに分けたがる。私はこのくくられることが一番嫌いである。くくられることは人に管理されることだからである。『年齢は捨てなさい』(幻冬舎新書)という本でも書いたことだが、年齢で人からどうこう言われたり、年寄り扱いされるのはごめんだ。自分の年齢は自分で決める。そんな私は、大人や先生からみたら、御しがたい子供だっただろう。それは今でも変わらない。だがそれで結構。人にあれこれ決めつけられるほど嫌なものはない。老人ホームで入居者が、一斉に歌ったり踊ったり、折り紙をさせられたり、というような光景を見ると哀しくなる。どうして寄ってたかって、子供に話しかけるような話し方で、幼稚園よろしくお遊戯めいたことをさせようとするのか。それまでのその人の人生がそれぞれにはあると、なぜ考えられないのか。スマホやパソコンの使い方の教室でもやる方が、よっぽど興味を持ってもらえるかもしれないし、実際の役に立つとなぜ思わないのだろう。認痴症予防にも役立つはずだ。健康のために、ではなく健康のために何かをすることはしていない。「○○のために」何かをするのはそもそも嫌いなのだ。健康診断も最小限にとどめている。一年に一回、近くに日赤医療センターがあるから、そこでかかりつけの医者の言う通りに、簡単な血液検査とレントゲンや心臓のチェックなどを行って終了する。バリウムは以前やって気持ちの悪い思いをしたのでやらない。大腸の内視鏡検査もやむなく二度ほどやったが、最初の検査はずいぶん昔だったので、麻酔なしでやった。それが痛くて苦しくて、それこそ病気になりそうだった。二度目は最近やったのだが……もう死ぬまでやらないと宣言している。人間ドックを広めた聖路加国際病院の日野原重明先生からして、今の機械は精密で、何かしら見つかるものだから自分はほとんど検査をしない、と以前ご一緒した際に仰っていて、笑ってしまった。もっともなので、必要以上には病院には行かないことにしている。インフルエンザの注射は、その季節になると、住んでいるマンションに日赤から看護師らが派遣されてくるので、打っている。特に予約待ちなどもしなくていいから、楽である。近くにあるジムには時折通っているが、まあ、大きな風呂に入りにいくのが目当てのようなもので、せいぜい週に一、二回ぐらいだろうか。好きな人がやればよい私の朝は遅い。いつも夜更かしをしているので、だいたいは昼近く、十一時頃に起きる。それから口にするのだから、朝食、ではなくブランチとでもいえばいいのだろうか。メニューは大体同じ。果物にクッキー、卵焼きにジュースとコーヒーを、陽がさんさんとあたるベランダで頂く。ジュースには、この季節だとリンゴやミカンが野菜と一緒に入っている。ベランダは東南に面しあたたかい陽だまりのような場所なので、冬でもそれほど寒くない。一時間ぐらい、そこでひなたぼっこがてら、食べたり飲んだりしながら、新聞を二紙読む。一紙ではなく、必ず複数目を通すことにしていて、今とっているのは朝日新聞と東京新聞だ。ブランチのメニューを含め、食事を作る係は、うちの連れ合いである。理由は明快で、彼の方が料理が好きだし、得意だからだ。三人姉妹に挟まれて、男一人にもかかわらず、小さな頃から台所に入り浸っていたという。祖母が心配して台所から追い出しても、すぐに戻って来てしまったというから、よっぽど好きなのだろう。後片付けはどちらともなく、ではあるが、やはり連れ合いがやることが多い。さっと流して食洗器に入れるのだが、「キミがやると、もういっぺんやるはめになるから」と言って、彼がやるので、私は新聞を読みながらソファにひっくり返っていたりする。週にいっぺんお手伝いさんが来てくれて、掃除や洗濯はやってくれる。もちろん自分でやることもあるが、夫婦二人暮らしだから、それほど汚れることもないので、たいがいは間に合う。買い物も、連れ合いが行く。作る人間が行く方が合理的だ。友達からも、「そんな人はなかなかいないよ」と言われるが、なぜ食事の支度は女の役割だと決めつけるのか。私は連れ合いが料理を作ってくれても「ありがとう」とは言わない。もちろん美味しい時には、「美味しい」とは言うけれど、礼は口にしない。料理は女がするものと決めつけているから、たまに男が作ると「ありがとう」と言ったり、負担に感じたりするのだ。それは間違っている。それぞれの特性を生かせばいいだけの話である。もちろん向うが風邪で寝込んだ時には、おかゆを作るぐらいのことはする。生き物として弱っている時、マイナスの時に助けてあげるのは当たり前だし、お互い様である。二・二六事件の墓運動というほどのものでもないが、子供のころから散歩は好きで、最近まで1時間くらいは平気で歩いていた。住まいの近く、広尾から麻布十番、飯倉片町にかけては、ちょっと坂道を登れば、島崎藤村がここで『夜明け前』を執筆した、などの碑文があったりして興味が尽きない。墓地をのぞくのも好きで、外国に行けば必ず墓地を歩く。外国の墓は、音楽家は楽譜形の墓石だったりと、外観からして個性的だ。パリのモンパルナスでは、サルトルとボーヴォワールの隣同士の墓や、詩人のボードレールの墓があるのを見た。日本の墓地も古いものには興味深いものがある。港区にある賢崇寺の墓地に「二十二士之墓」という墓を見つけたことがある。大きくて立派な墓なのに、表にはそれぐらいしか書いてない。裏に回って「あっ」と思った。二・二六事件の首謀者たちの墓だったのだ。その一人、野中四郎は父の陸軍士官学校の同期生である。彼らは逆賊だから、どの寺でも供養してもらえなかった。だが、栗原安秀中尉の父が佐賀県出身のため、鍋島家の菩提寺だった賢崇寺に葬ってもらえたのだという。裏には彼ら二十二人の名前と、亡くなった日付が彫ってあった。
本当の首謀者は誰なのか、今でも様々な説がある。まだ若かった彼らの死を無念に思う人も、当時からいたのだ。荒涼とした陵大阪に住んでいた子供の時分は、よく大和川の川沿いを歩いては、古墳をめぐっていた。中でも仲津姫の墓とされる御陵が一番好きだった。春のうらうらとした日差しの中、一人で川沿いをどんどん歩いて行くと、あちこちに古墳があった。まだ戦後間もない頃だから、どこも整備されておらず、どの古墳も荒涼とした風景だったが、私にはそれが好ましかった。仲津姫陵のお堀もまるで沼のようで、御陵も雑草だらけ。川沿いよろしく土手があって、春になるとつくしがたくさん生えていた。そこに寝っ転がって昼寝をしていると、頭や体の下から草花の萌え出る気配、芽生えてくるものが順番を待っている感じが如実にあった。ああ、これは古代から脈々と続いているのだと思うと、自分もその一員だと覚らされた。そこで夕方までぼんやりしていると、空から真っ白なものが一斉に舞い降りてきた。まるで古墳を包み込む、白い布が天からふわりふわりと下りてきたように見えて、思わず目をこする。それはたくさんの白鷺で、古墳の上に巣を営んでいるのが帰ってきたのだった。古代、古事記や日本書紀にも、鳥と天皇家、そして当時を生きる人々とのかかわりはいくつも描かれている。白鷺が夕方になると陵に舞い降りるのも、おそらく昔からの光景なのだろう。歴史を感じるそうした瞬間が何よりも好きだった。先日、昔住んでいたところの近くまで行く用事があったので、仲津姫の御陵にも行ってみたのだが、きちんと整備されてしまい、柵に囲まれて中にも入れなかった。私が寝転がった土手も見当たらない。どこの古墳も今はきちんと管理されてしまったようで、「仁徳天皇陵」なども外側に立派な道路はあれど、中にはまったく入れない。発掘も許されていない。あの荒涼とした、素晴らしい景色はもうどこにもなくなっていた。
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