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恋というもの

恋というもの

十二初めてに意味はない古池や蛙飛びこむ水の音古墳のお堀でもう一つ思い出すのが、初体験のことだ。われわれの世代よりも、少し前の世代の女の人は、何も知らずに結婚するというのが建前だった。当然、結婚するまではセックスをしないものだということが、われわれの世代でも世間的な常識として残っていなくはなかった。私はそういう、面倒くさいことは早くやめにしたかった。さりげなく、行きずりに投げ捨ててしまいたいという感覚だった。そういうものに意味を持たせたくなかった。私の初めての相手は、好きでも嫌いでもない人だった。といってまったく知らない人というわけではなく、互いに旅が好きで、それまでも、時々どこかへ一緒に行くことはあった。NHKの名古屋支局に勤めていた時のことだ。休日に一緒に奈良の方へ旅に出て、天皇の御陵が散らばる中にある小さな宿に泊まった。行きずりという感じに近かった。相手もわかっていて、あとでしつこくつきまとったり、誘ってくるということもなかった。その頃は、世の中にはあげただの、奪われただの言う人たちがまだいた。全く意味がない。そのこと自体に意味を持たせるのがナンセンスだ。私は好きな人とは嫌だと思った。好きで思いが残るのが嫌だったのだ。それで何かを失ったかといえばそんなものはなかったし、得たものもなかった。それによって私に何か変化があったわけでもなかった。次の日から知らん顔をして、また普通に仕事をしていた。それは奈良の寂しいところで、お堀では蛙が鳴いていた。なぜだか私は芭蕉の句を思い出して、少しおかしかった。そのことだけを、時々、思い出す。「お母さんに言っちゃ駄目だよ」疎開先で私が結核の療養をしていた向かいは、陸軍病院の借り上げになっていて、軽度の結核患者がいた。そのうちの数人がよく白衣のまま、遊びに来ていた。東大生の青白い秀才や、いつも革の鞭をならして歩く番長風の兵隊など、個性豊かな面々だった。疎開している私達以外、都会の人間は少なく、父が軍人だということもあって、彼らは気安く私のところを訪れていた。子供というより、むしろ女性として扱われたような気がする。鞭を常備した番長風の兵隊は、母の隙をみて私を散歩に連れ出した。使われなくなったトンネルをくぐって、その先に広がる草原の丈高い草に隠れて、「お母さんに言っちゃ駄目だよ」と言いつつ、様々なことを教えてくれた。ぼんやりとわかるその感覚を忘れない。私は読んでいた本のせいもあって、すっかりおませな少女になっていた。ずっと後に、ボーイフレンドと初めてキスをした時、どこかでこの感触を知っていたと思った。小学生にして、普通の子供なら知ることもなかった大人の秘密に近づいていた。

十三それは恋でも愛でもない一方的な思い込み大体において人からの好意に鈍感なたちである。「あなた、どうして気付かなかったの」と言われたことも一度や二度ではない。そんな私が「これは困ったな」と思ったことがある。NHKに入った時に、同僚の男性が、私の赴任先の名古屋まで押しかけてきたのである。それまでにも好意を持ってくれていることは、薄々は分かっていたが、転勤で遠くに離れ自然消滅すると思っていた。手紙もこちらからは出さなかった。転勤して三、四ヶ月たった頃、突然に「行くから」という連絡が来たかと思うと、本当にすぐにやってきて「うんと言ってくれるまで帰らない」と言う。目を見れば本気である。しかも休みもとらずに来たというから、ばれたら彼もクビだし、私だっておとがめなしとは思えない。まだ相談できるような親しい先輩もいない頃だったから、本当に困った。私が断っても、納得してくれない。「帰れない。帰ったってどうせクビになるんだから、うんと言ってくれなきゃ、このまま列車にひかれて死ぬ!」とまで言う。こうなると、もう一方的な脅しである。彼がホテルに居座っているその間にも、こちらは会社で働かなくてはならない。勤めている間中、今にも彼が列車に飛び込んだらどうしよう、と生きた心地がしなかった。仕事を終えて、必死になって説得するのだが、有名な父を持ち、大事にされてきた彼は、直情径行型だったことに加えて、人が自分の言うことをきかないという経験がなかったのか、どうにも納得してくれない。どうにかして静かにお帰り頂かなくてはならないと、私は知恵を絞った。そして、「あなたが一番信頼している人は誰なの?」と訊いてみた。そうしたら彼は、姉だと言う。すぐにそのお姉さんに電話して、とにかく来てくれないかと頼みこんだ。お姉さんは実にサバサバした人で、「分かりました。私に任せて下さい」と言って、すぐに東京から来てくれた。そのお姉さんに説得されて、彼はようやく赴任先へと戻っていった。今思えば、縁もゆかりもない赴任先で、独りぼっちでいた彼が、同僚として親しくしていた頃を懐かしく思って手紙を出しても、私はつれないどころか返事もよこさない。相談する相手もいないのだから、よほど淋しかったのだろうと思う。こちらも二十三、四の前途ある若者に死なれたらどうしよう、お姉さんがくるまでは何とかしてつながなきゃいけないと、生きた心地がしなかった。とにかく無事でいてくれよと願うしかなかった。彼に特別な感情あってのことではない。そんなことになって、私までうっかり辞めさせられたら、当時女を雇ってくれるところなんてそうそうないから、路頭に迷うことになる。自分が惚れていたのなら、仕方ないと思えるが、こんなことで人生が変な方向に転がってしまったらたまらない。巻き込まれるのだけは勘弁して欲しかった。相手を困らせている時点で、彼の想いはやはり恋でも愛でもなかっただろう。少なくとも私にとっては彼の一方的な思い込みでしかなかった。彼はお姉さんが来たら嬉しそうにしていて、案外とケロッとした顔をして帰っていった。その後、無断欠勤でいづらくなったのか、しばらくして退社してしまったが、別の世界で元気に活躍していたそうだから、やはりそれでよかったのだろう。仕事で関係している間は恋愛しない大原則として私は仕事で関係している人間とは、恋愛関係に陥らない事と決めていた。今の連れ合いにしても、テレビ局に勤めてはいたが、実際に仕事で組んでいた時は、ただの仕事仲間としての関係だった。吞みに行ったりもしていたが、それだけである。だからそれまでの恋愛も、彼には赤裸々に語っていた。付き合いだしたのは、仕事で組むことがなくなってからだ。仕事関係者と恋愛関係に陥ると、面倒なことになる。完全な公私混同で、仕事上の利害関係に結びつかないとはいえない。とはいえ、これも勤めていた頃のことだが、上司にながい恋文をもらってびっくり仰天したことがある。仕事の出来る人で、硬派なドキュメンタリー番組を手掛け、社内での力もあった。年はずいぶん違ったし、私は独身だったが、向うは当然、妻子もあったろう。どういうつもりだったのか。一切無視して、何事もないかのように接するしかなかったのだが、まずいことに階段の踊り場で、バッタリ出くわした。相手が何か言いかけたので、私は咄嗟に、「すみません」とだけ言って頭を下げてさっと立ち去った。そうするより他なかった。上司から綿々とながい恋文を貰うのは、気持ち悪かった。そういうのにほだされるような質ではないし、ややこしい男女関係は好きではない。第一、当時の私は忙しくて、そんな暇もなかった。あの頃は全て生番組だったから、時間に追われて暮らしていた。次々に押し寄せる番組を消化するのがやっとで、毎日終わった番組の台本だけが空しく積み上がっていった。人間の脳の許容量は決まっているようで、当時は忘れるのが常だった。とにかく忘れるのだ。人の名前はもちろん、スタジオに忘れ物をするのも当たり前だった。ハンドバッグやら何やら、忘れ物の跡を追っていけば私の行き先がわかるとまで言われた。忙しいとは心が亡くなると書く。それは正しいのだ。今の方がよっぽど物覚えがよいぐらいだ。そんな時に余計な面倒まで抱え込めるわけもない。面倒くさい時は逃げるに限る。口説くならスマートに口説かねばならない。酒の上での口説きはたいてい遊びである。普段言えないことを、酒の力を借りて言うのは卑怯である。それはあくまで遊びでしかないと心得ている。

十四忘れられない恋愛恋愛もどきと恋愛の違い忘れられる恋愛があるのだろうか。いかに忘れっぽい私でも、こと恋愛に関して忘れるなどという事はあり得ない。もし忘れていたとしたら、それは恋愛ではあり得ない。友達の延長線上にあって、ちょっとしたいたずら心で恋愛ごっこをしてみたり、向うから一方的に思われていたにもかかわらず、他人の気持ちに鈍感な私が気付かずに通り過ぎてしまった事等はあるだろうが、少くとも心を動かしたことについては、幼い時から、人生を重ねた今に至っても、決して忘れない。私は子供の頃、前にも言ったように結核にかかり二年休学して家で療養していた事があり、大人としかつきあった事がなく、家にあった小説集などめくって妄想にふけっていたから、年齢よりはるかにおませであった。小学生の頃から心をときめかして、我が家に牛乳配達に来ていた青年のギリシャ彫刻のような横顔に一目惚れ。毎朝、我が家の前で配達のための自転車がでこぼこ道の石に突っかかって、ガチャンと音を立てる瞬間を待っていた。その頃の道路は舗装がなく、早朝の静けさの中で、目を覚ますのに充分な音がした。私はパジャマのまま寝床をぬけ出して、自分の部屋だった二階の道路沿いの窓を5センチほど開けて通りすぎる彼を見る。それだけで十分幸せだった。向うは全然気付いていないはずだった。そんな初恋らしきものに始まって、今もその風景と感情を全く昨日の事の様に想い出せる。高校時代も特定のボーイフレンドがいたし、それは大学まで続き、就職してからも、アナウンサーという仕事柄、毎日テレビに出ていたせいで、一方的にお見合いをしていたようなもので、恋愛もどきは数知れずあった。中学は女性ばかりだったせいか、同性からつけ文をされたり、その後も同性から告白された事もある。しかし、いずれのケースも「もどき」であり、私の想う恋愛とはほど遠かった。私は、頭でっかちの文学かぶれ少女の典型として、シュトルムの「みずうみ」のように、恋愛至上主義であり、その他はどれもこれも遊びでしかなかった。その証拠に後で胸が痛む事もなかった。あえてその頃を反芻する事もしなかった。恋に恋する、それはそれで楽しかった。心臓が揺れるたった一度、ただ一度だけを除いて。恋、恋愛と正面切って呼べるものはその一度だけ。もどき恋愛ではなく〝惚れた〟のはその一度しかない。運命としかいいようがないものだった。大学三年の春、大阪の大手前高校時代の音楽部部長だった東京芸大声楽科のバリトン歌手の卵であるAから誘われて、四年生達の卒業演奏会を聴きにいったのだ。当時は上野公園の中にあった奏楽堂の、重々しい真紅のベルベットのカーテンの隙間からさす光と階段状の椅子が印象的だった。舞台ははるか下にあり、私はちょうど中ほどの階段の隅に腰かけていた。黒い服に身を包んだ四人の男が登場し、シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」が始まった。その左端の男を見た瞬間、心臓が大きく揺れた。何だ!これは!「雷に打たれた」というが、経験がないからわからないし、もし雷に打たれたらそのショックで死んでしまうだろう。いや、それに近いかもしれない。多分十九歳の少女の心はその左端の男の深く不吉な色を湛えた漆黒の眼に射ぬかれて死にかけていた。昔から知っていた。どこかで会った事がある。それは決して明るくしい場面ではなく、暗く凍りつくような、そう、雪の洞穴の中に二人とり残されたような逃れようのない……誰も助けには来てくれない……二人で雪の中に共倒れになり、その上に雪が降り積んでいく、いや、どちらかがどちらかを傷つけたのかもしれない。そんな痛ましい想い出の中で知っていた。「彼は将来を嘱望されているんだよ」音楽部の先輩は自分の事の様に胸を張った。私は抱えてしまった事の大きさに言葉も出ず、うなずくだけ。余韻にひたりながら上野から銀座まで歩いて白馬車という音楽喫茶へ。螺旋階段を上り五階席へ着き、二、三曲聞いた後だった。螺旋階段を上って来た足音が隣の席で止った。なにげなく目を向けると、それは先刻の左端の男、黒い刺すような眼光の、あの男だった。その時覚ったのだ。逃げられない。私はその時から囚われ人になった。しかし向うは私を知らない。今のうちに逃げなければたいへんな事になる。忘れようとした。近づくまいとした。それなのに運命は二人を引き合わせる。二人だけで。それは既に決った事だったのだ。

十五なぜ忘れられないのか苦しかった恋愛なぜ忘れられないのか。運命、宿命としか言いようがないから。吉本隆明『超恋愛論』によれば、それは同じDNAが作用する、働くため、むくむくと眠っていたその細胞が立ち上ってくるからとしか思えない。理由をつけようと思えばいくらでもある。その音の繊細さに引きこまれた。人を傷つけずにはおかないその容姿。特に黒い眼など──の第一印象もあるのだけれど、そんな理屈ではない。私の心をわしづかみにして別の世界に連れていってしまう。その別の世界とは、かつてどこかで知っている二人だけの感情。もう二度とそんな人には出会えないというか、その時の自分に会うことは出来ない。涙の出るほどいい奴だった。そこには私が消えて〝相手〟しか見ていない自分がいて、そんなはずではなかったとぼやいている。だから決して愉しくはなかった。むしろ苦しかった。会っている時も、いない時も。会っている時は、本来の、他の男性にはのびのびと振舞い自分の意見をはっきり言う私らしい私は姿を消して、相手の気持ちを知ろう、合せようという全く私らしくない私がいて、「ちがうちがう」といいながら惹かれていく自分が情けなく辛い。「おとなしすぎる」と彼は母親に私の事を言ったという。どこが?全くおとなしくなどない私が、おとなしく彼のいうなりの小羊になっている。奥村チヨの歌のように「あなた好みの女になりたい」とでも思ったのだろうか。本来の自分はどこにいってしまったのだろう。しかし会わない時はもっと苦しい。会えない時、連絡のない時の辛さ。なぜ私は率直に自分の気持ちをぶつけられなかったのか。嫌われたくない思いが私を私でなくする。がんじがらめになって息も出来ないほど苦しい。率直に私を見せる勇気がなくて、とにかく逃げたくなる。気がつくと待っていた奏楽堂での「死と乙女」以来、私は忘れようとした。逃げようとした。危険を察知して近寄らなかった。しかし運命は私が転勤した名古屋で二人を対面させる。MCとそのゲストとして。誰が謀ったのか。「食後の音楽」という公開番組で、私は彼の演奏曲目と彼を観客に紹介する役割を担わねばならなかった。無事仕事が終り、プロデューサーと三人でお茶を飲み、東京にもどる車が来るまでの間、何を話したのか。車に乗る寸前、彼は私の傍で囁いた。「来月、鶴舞公会堂の演奏会に来ます。切符を用意しますから楽屋まで取りに来て下さい」気がつくと私は彼の背広の上着を大切に腕にかかえて楽屋口で彼を待っていた。五月の花の香りが混じっていた。それから二人で名古屋の街を歩き、食事をし、馴染みのバーでママから「素敵な方ね」といわれた。私は間もなく六月に東京転勤が決っていた。東京に帰ったらまっ先に連絡をといわれたのに出来なかった。このまま消えてしまいたかった。今逃げなければ、と心の声が呟く。放送局の階段の途中、私は上り、彼は下りてきた。踊り場で壁に押しつけられ「なぜ連絡しない?」と言われた。その日からお互いの待ち伏せが始まったのだ。自由を捨てられなかった彼は時々私にはわからぬ遠い目をした。どこを見ているのかわからぬ私の知らぬ世界……ベルリンフィルのコンサートマスターである樫本大進がそんな目をすることがある。それは音楽の彼方にある、彼にしかわからぬ陶酔の一瞬、私はついていけないのだ。私は嫉妬していた。自分もかつて一度その道に行きたいと思った音楽の世界。「お母様にピアノ習おうかしら」と言った時、彼は笑った。「母に?ちがうなあ」彼の母はピアニストだったが、結婚と同時にその道に進むことは諦めて息子に賭けていた。私に見えない所でどの位、練習していたのか。最年少のコンサートマスターからソリストになり、彼の右あごの下は、いつも黒くゴワゴワしていた。それが楽器を常に押しあてているせいだという事は一目瞭然だった。演奏会の時は真白い大きなハンカチを当てていた。もう一つコンサートの時に正装した白ワイシャツの袖口には、私がプレゼントした真珠のカフスボタン。テレビでアップになるとその袖口から目が離せなかった。いつも二人きりを守ってくれた映画館の暗闇。灯火管制の時のような紅や緑の布で被った灯の下のイタリア料理店。帰り際、ボーイが入口まで見送って必ず訊いた。「今日は何の映画を見ましたか?」もう二度と訪れない一つ一つの瞬間を忘れない。そしてその時の自分を。忘れられない理由は、はっきり言えば一つだけある。彼と別れたからだ。外国に行く彼について行かなかった。行けなかった。何もかも、仕事も抛って行かなかった。行けなかった。自分で食べる自由を捨てられなかった。追いかけていった十代の少女と、その後彼が結婚することになって(間もなく彼女とも別れるが)、私は噴き出す血を押さえるために、彼と関連する場所には蓋をして、音楽にすら近づかないようにした。忘れようとした。忘れられないからこそ、忘れようとした。今も決して忘れたわけではない。新幹線の隣の席にふと彼が乗ってこないかと思うし、パリの空港のトランジットでも思わずあたりを見まわす。今は時が経ったおかげで、優しく物哀しい気持ちでその頃の自分を反芻することが出来る。

十六終わりと再会一家の大黒柱今でも新聞を読む時は、まっ先に訃報欄から見る。そこに、友人知人、そしてかつての恋人の名前がないかどうか、確かめてからでないと新聞を読むことができない。出会った時から不吉な匂いがしていた彼。私は勘だけはいい方で、たいていあたる。それに巻き込まれまいと必死に抗うのだが、気がつくと心とは反対にすでに渦中にいる。演奏家だった彼は、大変にもてる男だった。才能に恵まれ、音楽の神様に愛されていたことも確かだった。けれども長男として一家の家計を支えなくてはならず、コンサバに生きることを強いられてもいた。一緒に住んでいた華やかで美しい母親と弟、そして離婚して致命的な病に見舞われた父親。そうした家族の面倒を、彼は一人でみていた。それなのに私を連れていく場所は、いつも一流の店ばかりで、私に払わせることはしなかった。思えば彼自身も一生懸命付き合ってくれていたのだろう。はっきりものを言うので「毒舌」とも言われる私が、彼の前ではものも言えず、おとなしい羊になった。「お母さんによく似た女ね」よく行くバーのママから言われた事がある。まんざらでもない表情を彼は浮かべていた。母にきいてみるNHKのアナウンサーだった私に、民放からの誘いがきた。もともと物を書いて自己表現していきたいと思っていたから、十年勤める気はなくて、どこかで辞めようと思っていた。十年過ぎると翔ぶ勇気をなくしてしまうかもしれないからだ。入局から六年経った、二十八歳の時だった。民放で初めての女性キャスターによる昼の情報番組の司会にぜひ、と声がかかったのだ。条件も、すべてこちらの言い分が通り、その手筈で進行していた。金銭的にも大きなチャンスだった。それにのれば、移籍金で彼のために出来る事も色々とあった。私にはわかっていた。今が翔ぶ時だと。思い切って彼に切り出した。出来るだけさりげなく。「民放から、独立してキャスターになる話があるんだけど」彼は「母にきいてみる」と言い、しばらくしてから「母はNHKにいる方がいいと言っていた」と答えた。コンサバな彼の母親にしてみたら、出来たばかりで、海のものとも山のものとも知れなかった民放のテレビ局よりも、NHKの方がよい勤め先であるのは言うまでもなかった。あの時、私は彼の言うことをきいてしまった。言ってみれば彼の母親の意見に従ったことになる。自分一人は自分で一生食べさせる。自分の事は自分で決める。子供の頃に自分に誓い、それを大切に貫いてきたのに、たった一度だけ、他人の言う通りにしてしまった。そのことは後になって大きな悔いとなった。そしてそれ以後、私は二度と他人に、自分の人生の決定をゆだねることはしなかった。当時、彼の演奏会場の楽屋に顔を出すと、華やかな声がして彼の母親が、周囲の人に取り巻かれていた。彼女にとってはまさに自慢の息子であっただろう。やがてその母親が再婚することになった。その時、彼はこう言ったのだ。「じきに、あの人は帰ってくるよ」まるでそれを願っているかのような、その一言を聞いた時のかすかな違和感。重荷でもあっただろう家族、特に母親の、その傍にいる事を彼自身が望んでいるのが滲み出ていた。予言は的中した。ほどなくして彼の傍には母親の姿があった。家族の生活を支えるために、彼は長期的には日本にいなければならなかったし、国内で確固たる収入を得続ける必要があった。世界で勝負をするチャンスはいくらでもあったのに。事実、世界のあちこちでソリストとして舞台に立っていた。地図上の今まで制覇した場所にマッチ棒で作った日の丸を立てて、彼と彼の弟と私の三人で遊んだこともあったのだ。スキャンダル彼と別れて数年経った頃、とある事件が起こり、彼はスキャンダルの渦中の人となった。やっかみもあったと思う。若い頃から注目を浴びていた彼を、面白く思わない年上の演奏家たちもいただろう。派閥争いに巻き込まれた面もあった。立場が違えば、所属している組織が違えば、さしたる事件にもならなかったという音楽関係者もいたし、事実、私もそう思った。だが、やっかまれるだけの下地もあった。誤解される余地も、傍にいた私から見ればなくはなかった。だが、演奏家は腕がすべてである。彼にはそれだけの腕があったし、イメージトレーニングの出来る数少い演奏家だった。音楽の神様としかいいようのない何かが、他の演奏家とは違う何かが、彼の演奏には確かに宿っていた。スキャンダルの第一報を耳にした時、「私がついていたら、こんなことにはならなかったのに」と咄嗟に思ったのはなぜだったのか。なぜ自分がそんなことを思ったのかは、今もってわからない。彼とのことを知る、親しい友人が、「変な人と結婚しなくてよかったわね」と言った。彼女はおそらく慰めのつもりで口にしたのだろうが、私は黙っていた。少なくとも私にとっては一番大事な人で、彼との恋を後悔したことなどなかったのだから。彼が存在しなければ、私は一生恋を知らなかったかもしれない。

神様がいなくなった事件の後、音楽の表舞台から彼はしばらく姿を消した。その時も、海外からの本格的な誘いも幾つかあったというし、それをすすめる人もいた。彼とも私とも親しかった指揮者は、それだけの才能を持っているのだから、世界に翔ぶ使命がある、ここは賭けてみるべきだと強くすすめたという。だが、彼は翔ばなかった。翔べなかったのだ。母親だけではなく、既に妻子まである身だった。いっとき姿をくらますために海外に行ったものの、それは自分の音楽のための、命がけの勝負ではなかったから、しばらくして、ひっそりと帰ってきた。彼の才能を惜しむ人はあちこちにいた。反感を持つ人もいた反面、応援してくれる人も多かったのだ。支援すべく、そうした人たちが東奔西走して、帰国後のリサイタルが実現した。私はそっと足を運んだ。もちろん挨拶などしない。聴衆の一人として行き、静かに帰ってきただけである。だが──スキャンダル以後の彼の演奏には、すでに音楽の神様はいなかった。腕は落ちていない。テクニックはある。正確無比な演奏である。だが、何かが欠けていた。そしてその何かが、圧倒的な存在感を放っていた何かが、するりと抜け落ちていた。必死で耳を澄ませても、かけらさえ聞き取ることは出来なかった。その後の彼は、コンクールの審査員を務めたり、教育者として指導にあたったりしながら、時折、舞台に立った。その舞台に、ある時までは足を運んだが、何度行っても、もう音楽の神様が戻ることはないのだと悟ってからは行くことをやめ、花だけを贈るようになった。もちろん差出人の名前はつけなかった。きっと彼自身にも、もう捉えることの出来ない何かが、既に彼の傍を離れたことは分かったに違いない。あれだけ耳の良い人だったのだから。そしてそれはもう、どんなに練習しようが、二度と戻って来ないことも分かっていただろう。「お花をありがとうございます」しばらくたってから、偶然にも彼とホテルのエレベーターで乗り合わせたことがあった。私は連れ合いと、彼も奥様と一緒だった。息をのんだが、他の客もいるし、エレベーターに乗って下りるまでの、ほんの短い時間である。「お元気ですか」「お元気そうですね」互いの連れを紹介し、挨拶を交わすのがせいぜいだった。その時に彼の奥様が、「いつもお花をありがとうございます」と一言だけ私に告げた。演奏会には花などたくさん来る。そして私は花を贈る時に、贈り主の名前はつけなかったのに、である。たくさん届いた花の中で、一つだけ届いた名前のないそれが、私からであると気付かれていたのである。それ以来、花を贈ることもやめた。親しかった指揮者の葬儀で、その後、遠目に一度会ったことがある。年を取っていたが、一目で分かった。他の人に分らぬように、そっと手を振った彼の様子に「いい気なものだ」と思ったが、言葉を交わすことはなかった。事件のあと、彼の母親に宛てて、手紙を出した。普段、私は滅多に手紙など書かないのだが、書かずにはいられなかった。彼の手に渡る事を期待して、彼の母親のところに出したのだ。その手紙を彼は自分の手許に持ち去ったという。事件のほとぼりがようやく冷めた頃、ずいぶんと後になってのことだが、彼が私のことを知人に「大切な友達だよ」と言っていたと聞いた。ただただ嬉しかった。

十七恋愛と結婚は違う恋には観客が必要直木賞作家の小池真理子さんとは、彼女が作家になる前、編集者時代からの付き合いである。彼女と恋愛について対談した時に、恋と愛の間にも境があるのだが、結婚と恋愛はまったく違うという話をした。「恋には観客が必要だよね」と話したのも印象深い。秘め事の多い方が恋は燃えるものだが、みなにわからないようにわからないようにとしながらも、どこかでわかって欲しいところがある。制約のない今の時代、一番燃え上がるのが不倫の恋だろうが、これとて誰も知らないところに二人きりでいたいと言いながらも、その実、誰かに知られたいのである。知られればまずいのだけれども、どこかで人に知られたい、どういうふうに見えるのかが気になる。結婚の場合は、それはイコール生活になる。大恋愛の最中には、自分に生活がつとまるとは私は到底、思えなかった。それまでの私は生活というものを、馬鹿にしていた。芸術至上主義を気どっていた。彼との恋愛を生活レベルに引き下げるのは冒瀆だとさえ考えていた。それが変わったのは、今の連れ合いと出会ってからである。生活は人間にとっての土台連れ合いと結婚したのは私が三十六歳の時だ。彼は三つ年下だった。酒吞み友達で、お互いの家を行き来していた頃のことだ。彼の家に遊びに行ったら、背の高い彼が腰をかがめて、トントンとまな板の上で音を立てて、料理を作ってくれた。その後ろ姿を見ていてふと覚ったのだ。ひょっとしたら私が馬鹿にしてきた生活があっての土台かもしれないと。これが口で言われたのなら、反発していただろう。私自身が感じたのだ。この人となら、暮らせるかもしれない、そう思った。辛い恋愛の後だったからこそ分かり得たことだった。水くさい関係連れ合いは、まめなのは食べることだけで、他人には優しいが私にはあまり気を使わない。一緒に歩けばスタスタと先に行ってしまうし、進んで荷物を持ってくれることもない。私は自分の荷物はたいてい自分で持つし、向うの方が背が高くて足が長いのだから、先に行くのも当然かと気にはしていない。日常生活であろうと、旅先であろうと、一人一人別の人間なのだから仕方ない。私が会食で出かける夜など、いそいそと嬉しそうに自分も吞みに出かけている。一人で酒を吞むことほど愉しいことはないそうで、やはり私がいれば、多少献立のことやら何やらを考えなければならないからだろう。二人共、一人でどこかに勝手に行くことも多いが、その行動を縛る気持ちはお互いにない。「どこに行くの」とも、「何時頃帰るの」とも訊かない。言われれば、「ああ、そう」と言うだけである。そういう点では、一人暮らしをしたことのある男かどうかは重要かもしれない。自分で食べる事や身の回りの事が出来るからである。連れ合いは、テレビ局を辞めてから、大学でジャーナリズムを教えていたことがある。その時の教え子たちが、あちこちのテレビ局や新聞社に入っていて、いまだに慕ってくれているのか、結婚して生まれた赤ん坊を見せに来たり、先生の誕生日だからと集まって酒を吞んだりしている。私もそういう時は、無理には行かないけれども、行ける時には顔を出す。彼等と一緒にヨーロッパに行く事もあるが、荷物は持ってくれるし、なにかと便利である。自分の世界を持っていて、勝手に一人で遊んでくれるような人でないと、私は面倒を見切れない。そして互いの世界と、無理して交わる必要もないし、断固拒否するようなかたくなさも無用である。その意味では価値観は似ているのかもしれない。最初から余分に相手に立ち入らない、水くさい関係であって、それが気に入っている。

十八引き寄せる力恋もどきは大事にする時々、食事をしたり、ラインでメッセージや写真を送りあったりする、若い男友達がいる。数年前に骨折した際にお世話になったのだが、ふとした折の言葉に「おやっ?」と思うことが幾度となくあり、私と感性があうなと気付いた。骨折が完治してからも交流は続いている。一緒にお茶を飲んだり食事をしたり、あれこれと話をするのが楽しい。健康相談にも乗ってもらう。私は、早朝、暁の頃に生まれたから暁子という名前なのだが、宵っ張りなのでなかなか暁には起きていない。そのかわり夕陽を眺めるのが好きだと言ったら、彼が「美しい夕焼けでした」といって、写真を撮って送ってくれるようになった。夕陽だけでなく、こんなに美しい月が出ていたので、と送ってくれる月の写真も本当に心奪われるような光景で、私の感性とぴったりあっている。写真が得意なのだ。写真が上手という事は絵心がある証拠で、また新しい発見がある。そうやって親しくなった、感性のあう若い人を私は大事にしている。最近は雑誌の編集者も若い人が多く、若い男性の担当編集者もいる。そういう人と出会えばやはり愉しい。フランス人と結婚してパリに住む90代の女性がいたのだが、ご主人を亡くした彼女が具合を悪くした時に、病院が療法士を自宅に派遣してくれたそうだ。それが金髪の素敵な青年で、病院へ行くのにも公園を散歩するのにも、どこにでもちゃんとついてきてくれる、それが楽しくてしょうがないと話していた。若いピアニストにいつも真紅のバラを送りつづけて、彼の事を話す時は少女のようだったその女性は、残念ながら亡くなってしまった。恋に落ちるのは宿命のようなもので、そうそうあることではない。けれども、ちょっとしたときめきや、恋もどきのような、恋にはならないものの、会えばワクワクするような相手がいることは、日常生活を華やかにしてくれるし、健康のためにと必死になって何かしたり、あるいは我慢したりするよりも、よっぽど元気になる。直接会う相手でなくてもよいではないか。アイドルでも俳優でもいい。私のお気に入りは嵐の櫻井翔君だが、そういうお気に入りの一人や二人いる方が、何か観るにしても聞くにしても張り合いが違う。両方に引き寄せるものがある年を取った金持ちの男性が若い女性を連れている光景はよくあるが、私たちのような年代の女性が、うんと若い男の子を連れている方が断然恰好いい。フランスの作家、マルグリット・デュラスは、六十六歳の時に知り合った三十八歳年下のヤン・アンドレアを最後の愛人とした。口述筆記も担ったアンドレアは、秘書としても作家のデュラスを支えた。フランスを旅した時、二人が過ごしたトゥルーヴィルという街に、年下の友人が連れて行ってくれた。彼女はずっとパリに住んでいるのだが、私が審査員をしていた、とあるエッセイの賞を受賞したのが縁で、以来パリに行くと通訳を兼ねて、あちこち遊びに連れて行ってくれる。そのセンスがよくていつも楽しい旅になる。「きっとお好きだと思って」と彼女が言うトゥルーヴィルの街は、デュマ、フロベール、プルーストも愛した、小さいながらも素敵な街だった。浜辺に長い木道のある、北の海を見下す館の一階に管理人が招き入れてくれた。今もデュラスの息子さんがお住まいだという。お互いの感性が共鳴しあう、そういう友人が、私には幾人かいる僥倖に感謝している。

おわりに「臈たけた女」がいなくなった理由を、あれこれ考えてみると、女の人が自分で生きていくことができなかったり、自分で生きていくということが言えなかったりした、その積み重ねの中から出てきたものだという面があるからかもしれないと思った。耐え忍ぶ、自分を律する、毅然とした態度の中の哀しみのようなもの。それが欠かせないのだとしたら、臈たけた女がいなくなったことは、果たして喜ぶべきなのか、あるいはやはり悲しむべきなのか。いずれにしても、土台は人間としての正確な品性である。昨今、自己主張の強い女性は増えているが、自分の考えや意見を何度も練って、研ぎすましていく作業を経てこそ品は出てくるもので、言葉を選ばずに発言するだけでは空疎でうるさくなる。品性とは何か、といえば、お金があっても買えないし、体力があっても作ることは出来ない。精神的に鍛え上げた、その人にしかないものであり、賑やかなものではなく、静かに感じられる落ち着きではないだろうか。エレベーターの中でもそこだけ光っているような……。若い間は、肉体の輝きや元気さが、ごまかしてくれるが、衰えてだんだん外に隠しきれなくなると、中身がもろにあらわれる。その時、自分の内側に耳をすませておく経験がないと、惨めなことになる。本人はえてしてその自分の惨めさに気が付いていないから、ますます無残なことになる。バルテュスが好きな知人の画家が言っていた。好きな理由は品がいいから。そして品とは「引く」ということだと。マチスにしろピカソにしろ、ぎらぎらした自己表現ではなく一歩引いて客観的に自分を見ているからこそすばらしいのだと。品と恥とは裏腹にある。恥とは何かといえば、自分を見つめ、自分に問うてみた時に恥ずかしいかどうかである。他人と比較して恥ずかしいということではない。だから、自分の生き方さえしっかりしていれば、他人に何と言われようと恥ずかしくはない。自分の価値観に照らしてみて、恥ずかしい行為をした時は、自らを深く恥じて、二度と同じことを繰り返さないようにすることだ。恥と誇りは表裏一体である。自分を省み、恥を知り、自分に恥じない生き方をする中から、誇りが生まれる。それがその人の存在を作っていき、冒すことの出来ない品になる。自分を作るために、自分の心とむきあって対話するための孤独な時間を持ち、他人にわずらわされない価値観を少しずつ積み上げていく。外界との闘いではなく、自分の内側との葛藤こそ必要不可欠である。それが「臈たける」ための唯一の道なのだろう。枯枝の彼方を春の雲が流れる。臈たけた女はいずこに……。二〇二〇・三・二七下重暁子

この作品は二〇二〇年四月新潮社より刊行された。電子書籍化に際しては同初版第一刷を底本とし、仕様上の都合により適宜編集を加えた。

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