4章美意識、こまやかさを感じさせる言葉づかい
なんてゆかしい言葉なのだろう。「口福」「おすそ分け」「おしのぎ」などという言葉を聞くと、日本人に生まれ、日本の言葉を日々、口にできることをしみじみ幸せだと思えてくる。こうした言葉は、少し前までの日本人は、じつに多様な感性を持ち、心豊かに暮らしていたことを示している。同時に、最近はこうした言葉を聞いたり、使ったりする機会が少しずつ減ってきていることが、限りなくもったいないと思えてくる。こうした言葉が忘れ去られてしまうことは、その言葉に込められた人の思いもまた、忘れ去られていくことになるからだ。ゆかしい言葉を知ったら、機会あるごとに使ってみよう。使うたびに、その言葉に新たな生命が吹き込まれていくからだ。
口福──◉本当の美味に出会ったときのとっておきの言葉そのもののおいしさはもとよりだが、もてなす側の深い心づかいに触れたとき、通り一遍の言葉ではその満足感を伝えきれない。そんなときに使いたい言葉。「口福」とは、心の底からしみじみおいしい、と深い感慨にひたれる味に出会った満足感を伝える言葉である。「口福」は辞書にないことが多く、気のきいただれかが「幸福」とイメージを重ねて使い始めた造語だったのかもしれない。世界の三大美味などの豪華絢爛たるご馳走ではなく、地方に伝わる素朴な味や、膨大な手間と時間をかけなければ生まれないような味に触れたときにこそ使いたい。そうした味は舌を堪能させてくれるだけでなく、深く心の底までしみ通り、日々に疲れた心をそっと癒してくれるような気までする。学生のころ、ふとした興味から禅寺に参籠したことがある。早朝、暗いうちに起床。身づくろいすると禅堂に向かい、静かに座る。その後は寺内の清掃などをしたが、すべてが無言のうちに行なわれる。その後、口にした食事はまさに「口福」そのものだった。一汁一菜の簡素なものだが、口に含むと胃の腑にしみ、やがて全身にしみこんでいくような力のある味なのだ。金にあかせたグルメ三昧では味わえない味。それこそが「口福」なのかもしれない。「口福」は「幸福」と音が重なるところから、文字で美味を伝えるときに使われることが多い。ちなみに、「口福」と同じ発想から生まれた言葉に「耳果報」がある。素晴らしい音楽をきいたときはもちろん、待ちかねていた吉報が届いたときなどにも使う。おすそ分け──◉いただきものを知り合いに分けるときに自分のもとに届いたものを知り合いに分ける。少しばかり届けるのは失礼にあたりそうだが、このひと言を添えれば、喜びを共有したいという真意を伝えられる。ご近所とのつき合いがどんどん疎遠になってきている。それとともに姿を消しつつある言葉が、「おすそ分け」だ。「おすそ分け」は、季節のものや珍しいものが送られてきたときなどには、知り合いにも少し分け、その喜びをみなで味わおうという昔ながらの習慣だった。「おすそ分け」の「すそ」は衣服の「裾」。つまり、主要な部分ではなく、端っこという意味で、下の者などにものを少し分けてやることを「裾分け」といった。一六〇三年の『日葡辞書』(日本イエズス会が刊行した日本語・ポルトガル語の辞書)にも記載されていることから、かなり古くからあった言葉だとわかる。喜びを共有するところから、めずらしいものを届けられたほうは、「おすそ分けをもらう」とはいわず、「おすそ分けにあずかった」「おすそ分けをいただいた」というのが決まり。おすそ分けに使った容器には、「おうつり」といって、ささやかなものでいいので、何かお返しを入れて返すのが習慣だった。適当なものがない場合は、マッチ箱や楊枝、折り紙などを入れたりしたものだ。これは、何かお返しをしなければという思いではなく、「喜び」を再び伝え合い、喜びの連鎖をつくるという思いを象徴してのことである。最近は、新婚旅行から帰った人が職場の同僚におみやげを配るときに「これ、幸せのおすそ分けで~す」などと使ったりする。おしのぎ──◉小腹をちょっと満たしたいときに食事をとるほどではないが、ちょっとお腹がへった。そんなとき、口にするものをなんと表現すればいいのか。年長者と一緒のときなどにはこういうとエレガント。ちょっとお腹がすいたときに、軽く何かを口にすることがある。そんな何かを、「おしのぎ」という。茶懐石から発展した懐石料理は、前菜に当たる八寸から始まり、おつくり、煮物、揚げ物……と進んでいき、ご飯が出てくるのはコースの最後。そこでコースの途中で、ひと口寿司などが出されることがある。これが「おしのぎ」。軽くお腹を満たし、空腹をしのぐことを意味している。すでに経営の第一線を退いた、会長の地方工場の視察のお供をいいつかった。そんなとき、その地の名物そばなどを行程に組み込み、「会長、ここはそばがおいしいんです。おしのぎにいかがですか?」などといってみよう。「若いのに似合わず、気のきいた言葉を知っているな」と、大いに株が上がるだろう。お口直し──◉苦手なものを口にしたときのひと言お得意様を接待したが、先方は、供された料理がどうも苦手らしい。挽回を期して、別のものをすすめたい…。そんなとき、この言葉を知っていると流れがスムーズになる。「良薬は口に苦し」という。だが、いくら体によいといっても、まずいものを口にするのはつらい。とくに苦みは、いつまでも口中に残ってしまうものだ。そんなとき、「お口直しにどうぞ」と甘いひと口菓子をすすめられたりすると、ほっとする。この例のように、まずいものを食べたあと、その味を消すためにおいしいものを口にすることを「口直し」という。浜名湖名物といえばうなぎとすっぽん。浜松に転勤した知人が、遠来の得意先の重役を高級すっぽん料理店に案内した。しかし、先方は、あまり箸が進まない。供の人にそれとなく聞くと、すっぽんは大の苦手らしい。そこで、その店は早々に切り上げ、「お口直しまでに、ぜひご案内したいところがございます」と土地の銘菓を食べられる小さな店に案内したところ、甘党だった相手はたちまち機嫌を取り戻したという。こうしたときに、何気なく「お口直し」を使うと、値千金といいたいほど、きらりと光る表現になる。
「やせた~い、でも食べた~い」と身勝手なことをいいながら、女性のグルメ志向はますます高まる一方。一軒目でたっぷり食べたのに、「ねぇ、口直しにケーキ、食べない?この先に有名なパティシエのお店があるのよ」などといって、次の店へ移っていく。別にまずいものの味を消すためではなく、雰囲気を変えようというくらいの意味で使っているのだろうが、厳密にいえば誤用であることは知っておきたい。口が奢る──◉舌が肥えている相手に食事を差し上げるなら毎日高級なものばかり口にしていて、おいしいと感じる基準はかなり高そう。そんな人と食事を一緒にすることになったとき、さりげなく相手の味覚水準をほめるには。「目黒のさんま」という落語がある。毎日、高級魚を食べなれた殿様が、鷹狩りに行った目黒でさんまを焼く匂いに心動かされ、庶民が焼いたさんまを持ってこさせて食べたところ、これがまたとない美味。すっかり味をしめた殿様は城に戻ってからもさんまを所望したところ、大膳所では骨を抜き、脂を落として調理したさんまをうやうやしく差し出した。これではまったくおいしくない。そこで殿様、「やっぱりさんまは目黒に限るなあ」といったとか……。庶民でなければ味わえない美味があるということだ。落語の殿様ではないが、贅沢なものを食べ慣れていて舌が肥えている人に、食事などを差し上げるときには「お口が奢っていらっしゃるから、このようなもの、お口に合いますかどうか」というと、相手の食生活のこだわりを賛美しながら、イヤミにならず、もてなす側の謙虚な気持ちを伝えられる。「舌が肥えていらっしゃるから」ということもあるが、「口が奢る」のほうが品よく、エレガントに聞こえる。どちらも、食の情報にくわしかったり、食べ歩きが趣味だったり、というような人にはあまり使われない。こうした人には、「食通でいらっしゃるから」「大変なグルメだとうかがっております」などという表現を使う。時分どき──◉ちょうど食事の時間になってしまったときのひと言気がつくと、そろそろ食事時間…。そんなときに使う言葉が「時分どき」。「ランチタイムになってしまって」などというよりも、ずっと響きがよく、上質な表現になる。「時分」とは、適当な頃合いという意味。だが、「時分どき」といった場合は、一〇〇パーセント、食事時間を指す。人の家を訪問する場合には、昼食時間帯にあたる一一時半~一時ぐらい、夕食時間にあたる午後六時半~は避けるのがマナーだろう。だが、つもる話にハナが咲き、気がついたら食事時間になってしまった。「時分どき」は、こんなときに使う言葉だ。気をつけたいのは、たとえ先に気がついても、訪問客のほうから、「時分どきですね」とは口にしないこと。食事の催促をしているように受けとられかねないからだ。先方が「お食事をご一緒にいかがですか」と口にしたら、「時分どきだというのに気がつきませんで」と応じ、それをきっかけに訪問を切り上げるのが礼にかなっている。相手がすでに店屋物などを注文してしまったという場合は、時間が許すかぎり、相手の厚意を受けるようにする。こんな場合には、「時分どきまでお邪魔してしまい、お気を使わせてしまいました。申し訳ありません」と挨拶する。目の保養──◉珍しいもの、素晴らしいものを目にしたら特選品の売り場などをのぞくのは審美眼を磨くことにもなる。〝見るだけ〟というときも、お店の人にひと言断ると、相手も気持ちよく「どうぞ」といってくれるものだ。銀座に立ち並ぶ、世界の最高級ブランド店やデパートの特選街。値札にはゼロがいくつも続き、庶民はなかなか手を出せないが、ときにはこうした店を見て歩くと、ものを見る目が磨かれていく。品の良し悪しを見分ける眼力は、本当によいものをたくさん見ることでしか磨かれないのだそうだ。店のスタッフが近づいてきたら、「ちょっと拝見させてください」とか、「今日は拝見するだけ。目の保養をさせていただいています」といえばよいのである。画廊や一級品を扱う工芸店などなら、帰りしなに、「いい目の保養をさせていただき、ありがとうございました」といえばていねいな挨拶になる。保養とは、疲れなどを癒すことをいう。「目の保養」は、ふだんあまり見る機会がない美しいもの、貴重なものを見せてもらい、目が〝よい心地〟になったというような意味になる。「眼福にあずかる」ということもある。「目の保養」「眼福にあずかる」とも、芸術品や匠の技など、心に迫る美しさや存在感を放つものを見せてもらったときに使い、金にあかせて、ただ豪華絢爛に飾りたてたものを見たときにはあまり使わない。面映ゆい──◉ほめられて、嬉しいけれどきまりが悪いときはどこまでも謙虚に、控えめに、が日本人の心の底に流れる心情。素晴らしい成果をあげたときも、晴れがましくも気恥ずかしい思いをしていると伝えたい。我ながらがんばって素晴らしい結果を出し、みなから称賛を浴びた。だが、面と向かってほめられると、晴れがましくも、どこかきまりが悪く恥ずかしい。そんな思いを表す言葉が「面映ゆい」。底に、うれしい気持ちが流れているときに使う。「面」は顔のこと。「映ゆい」は照り輝くようなまばゆい様子をいい、相手と顔を合わせるのがまばゆいように思われる、ということを表す言葉だ。いくらみごとな結果を出しても、「どうだ、見たかこれがオレの力だ」と誇示するような表情を浮かべると、かえって反感を買いかねない。かといって、謙遜してばかり、というのも現代風ではない。「面映ゆい」表情は、そうしたときにもっともふさわしい表情といえるだろう。
居ずまいをただす──◉つい気を抜き、姿勢が崩れていないだろうか訪問先で相手の登場を待っている。やがて、相手が姿を現す気配がすると、思わずスッと姿勢を直す。すると、気持ちまでしゃんとするから不思議なものだ。「居ずまい」とは、座っている姿勢のこと。応接室に通され、「しばらくお待ちください」といわれ、待っている。そうした間にどうしても姿勢が崩れてきてしまう。やがて、「お待たせいたしました。ただいま、主人がまいります」などと告げられ、あわてて背筋をピンと伸ばして姿勢をきちんと直す。これが「居ずまいをただす」だ。姿勢を直すと気持ちまでしゃんとすることから、「居ずまいをただす」という言葉には、気持ちを引き締め直すというニュアンスも含まれる。そこから転じたのか、たいていは、生きる姿勢をただすという意味を含めて使われる。正しい姿勢を保ち続けるにはけっこう筋力が必要だ。背筋・首筋を伸ばせば自然に下腹がきゅっと引き締まる。腹筋が鍛えられていなければ、その姿勢を保持することはむずかしい。同じように、つねに筋が通った生き方を貫くには、強い精神力が必要だ。毎日、代わり映えのしない日々を過ごしているように見えて、自分を見失うことなく、しっかりと生きていく。そのためには、折あるごとに居ずまいをただし、筋力、胆力を鍛えることが求められるのである。身づくろい──◉人前に出るときに、整えておくべきことは…あわてて家を飛び出したり、車で長時間移動したあとなど、身なりをちょっと整えたいと相手に伝えたい。そんなとき、覚えておきたい決まり文句のひとつ。うっかり寝過ごし、とるものもとりあえず家を飛び出して駆けつけたら、なんとか会議の開始前に滑り込みセーフ。だが、今日の会議では進行役を仰せつかっているので、みなの目が自分に注がれる。寝ぐせがついていないか、ネクタイは曲がっていないか、チェックしたい……。こんなときは、「ちょっと身づくろいしてきます」と断るとスマートだ。「身づくろい」とは、身を「つくる」のではなく、つくろいものの「つくろう」。乱れたところや破れたところを整える、直すという意味だ。急な知らせを受けてあわてて家を飛び出すときなどに、「急いで身づくろいすると、すぐに家を出た」などと使うこともある。似た言葉に、「みつくろう」という動詞があるが、こちらは「身」ではなく、「見」つくろう。身支度をするという意味ではなく、適当なものを選ぶ・みはからう・見定めるという意味になる。身ぎれい──◉ごてごてと飾り立てている人には使わないとくに高価な服を着ているというわけではないのだが、いつも洗濯が行き届き、アイロンのかかった服を身につけている。そんな人をひと言で形容する便利な表現。いつもこざっぱりと整った服を着ている人を「身ぎれいな人」という。贅沢なブランド品や、次々と新調の服を着ているというよりも、けっして高価なものではないが、きちんとその場や季節に合った、心配りの行き届いた服装をしている場合に使われる。「身ぎれい」は、ファッション以外のものを形容するときにも使われる。キッチンがさっぱりと片づけられ、家具などもシンプルで感じのよいセンスでまとめられているような部屋に住んでいることを「身ぎれいな暮らし」と形容することもある。身ぎれいな暮らしを保つことは、そうたやすいことではない。日々の暮らしを大切にしていなければ、身辺はすぐに乱れ、散らかってしまうものだからだ。一時期、「片づけられない症候群」なる言葉が流行ったが、そうした暮らし方とは対極にある言葉である。気散じ──◉気ままに好きなことをして過ごそう休日に、あれもこれもしたいと欲張って疲れるのが「休み疲れ」。休みなんだから、もっと気ままに過ごしたら?とも思うが、そうした気楽な時間の過ごし方を何というか。「気散じ」とは文字どおり、気を散らすこと。気をまぎらわせたり、心のわだかまりをなくすことをいう。物質的に豊かになるにつれて、うつなど心の病が増えてきたのはなんとも皮肉な現象だ。週休二日制に加えて、祝日、有給休暇などを入れると、一般的なビジネスパーソンは三日に一度は休みという計算になるそうだ。その割にはゆったり休んだり、遊んだりしているという実感がないのはなぜだろう。気がつくと、遊ぶことにまで追われるようになっているのだ。話題のプレイスポットが次々生まれ、早くそこに行かなければ時代から取り残されてしまうかのように焦る。「あそこはまだクリアしていない」と、プレイスポットに行くことまで、義務のように感じてはいないだろうか。芥川龍之介の小説『秋』に「彼等はほとんど日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮らしに行った」というくだりがある。気ままにふらりと出かけ、気の向くままに、好きなように時間を過ごしてくる──。そんな「気散じ」じょうずになれれば、ストレスに悩むことも少なくなるはずだ。「気散じ」がうまいか下手かは、ストレスをコントロールできるかどうかにかかっているといってもよい。「気晴らし」という言葉もあるが、こちらのほうは、沈んだ気持ちやくすぶった気持ちを晴らす、というときに使う。気がおけない──◉「気がおけない人」は気を使う人?言葉は時代とともに変わるものだが、「気がおけない人」をどう解釈するかで、だいたいの年代がわかるという。「気がおけない人」とは、どんな人なのだろうか?「気がおけない人」というと、「油断してはいけない人・気を許してはいけない人」と解釈する人は意外に多い。最近は、こちらの解釈のほうが大手を振ってまかり通っているようである。もともとは、「気づかう」という意味の「気をおく」という表現があった。「気がおけない」はその否定語。つまり、「気づかう必要がないこと」「遠慮やへ
りくだる必要のない人」など、つき合いやすい人をいったものだ。ところが、いつのころからか、「気がおけない人」というと、「安心できない人」「打ち解けてはいけない人」、あるいは「打ち解けられない人」のように、一八〇度逆転させた意味で使う人が増えてきた。だが、一方で「ここは気がおけない店だから……」といった場合は、敷居の高くない、気楽に楽しめる店という意味になるなど、今でも、本来の意味合いで使われることも少なくない。相手が「気がおけない人」といったら、状況などから、本来の肯定的な意味なのか、現代風の否定的な意味なのか、見極めてから対応するようにしたい。あんばい──◉相手の様子を尋ねるときに使える万能言葉たとえ部下でも、仕事がどこまで進んでいるか、あまり口出しするのは控えたい。でも、様子は気になるし…。そんなときに使いたい、さりげなく様子を尋ねる言い方。研修を終えたばかりの新人に、仕事がうまくいっているかどうかを尋ねたい。だが、具体的なことを尋ねると妙に萎縮してしまいかねない。そんなとき、「どう、仕事のあんばいは?」と声をかければ、「気にかけているからな」という気持ちを、ほどよい感じで伝えることができる。昨日、風邪ぎみだといっていた同僚が出勤してきた。だが、まだ少し顔色が悪い。こんなときは、「どう、あんばいは?」と声をかけてみよう。料理の味をみるときにも、ひと口、口にしていい出来であれば、「うん、いいあんばいだ」などという。このように、「あんばい」は非常に幅広く使える重宝な言葉で、ひと言でいえば、万事にうまくいっている、万事心地よい状態であることなどを指す。柔軟で広範な表現力を秘めているのだが、それも道理で、そもそも、あんばいは「塩梅」と「按配」が融合した言葉なのである。「塩梅」とは文字どおり、塩と梅酢を合わせた調味料で、かつて日本では、もっとも広く使われていたもの。昔は、料理の味付けとは「塩と梅酢の割合」を指した。「塩梅がいい」とは、それがうまくいっていること。よい味だという意味になった。「按配」のほうは、うまく処理すること。あるいは、具合よく並べるといった意味を持つ。二つの言葉は音がよく似ているうえに、意味もおよそ同じ。そこから、いつのまにか混同して使われるようになり、今では非常に広い意味で「具合はどうか?」と尋ねる場合に使われるようになっている。その音から、「按排」「案配」と書くこともある。有卦に入る──◉占い好きでなくとも知っておきたいひと言人の一生は、決められた運勢のサイクルのなかにあるという。「大殺界」だの「天中殺」だのというと抵抗を示す人もいるが、この言葉なら使いやすい。やることなすこと、うまくいくような状態を「有卦に入る」という。「彼は、仕事は急成長しているし、学生時代からの恋愛を実らせて来月ゴールイン、それもお相手は超美人なんですって。すっかり有卦に入っていますね」のように使う。「有卦」とは、陰陽道でいう幸運な年回りのこと。反対に、運が低下する年回りを「無卦」という。「有卦」に入るとその状態が七年続き、「無卦」は五年続くそうだ。「有卦に入る」は「吉運期に入る」という意味。なんでもうまくいくはずだ。四柱推命、六星占星術などいろいろな占いがあるが、どの占いも、人の運勢は吉運の時期もあれば不運な時期もある。そして、だれの運勢も吉凶の運が巡り巡っていると説く。吉運期には積極的な攻めが功を奏するし、凶運期には積極的に出るのを控え、現状を守ることに徹し、静かに吉運期が巡ってくるのを待つほうがよいと教える。それを信じるかどうかは自分が決めればよいことだが、攻めっぱなし、走りっぱなしでは息が切れる。ほどよいサイクルで攻めと守りの姿勢を使い分けるほうがよいという教えだと解釈することもできそうだ。ねんごろ──◉人情が薄くなりがちな時代だからこそ残したい言葉真に心のこもった応対を受けたというとき、いかにも大人らしい、味わいのある表現を使いたい。そんなときのために、このひと言を覚えておこう。「ねんごろ」とは、真心を込めて、ていねいにする様子を表す言葉。よく耳にするのは人を弔うときだ。愛情を込め、手厚く死者の葬送を行なうときなどに「ねんごろに弔う」と表現する。だが、「ねんごろ」は本来弔い用語ではなく、人の家に泊まったところ、すみずみまで行き届いたもてなしを受けたというときなどに、「ねんごろなおもてなし、感謝にたえません」などと使われた。また、祝宴のスピーチをもらったときなども、愛情こまやかな話しぶりを謝して、「ねんごろなお言葉、ありがとうございました」などともいう。「ねんごろ」の語源は、上代の言葉である「根如」。「根の如し」、つまり、「心の底から」という意味である。時代がくだるにつれて「ネムコロ」→「ネンゴロ」と変化していったものらしい。根っこは細い根が密にからみあっている。そうした様子から、人と人が親密になる様子を「ねんごろになる」とか「ねんごろな仲」ということもある。たがいに真心が通じ合う仲という意味だが、もっぱら男女の仲を指して使われる。同性や仕事上の知り合いには、まず使わない。馬が合う──◉いそうでいて、そうはいない人のことほどほどのつき合いなら、たいていの人となんとかできる。だが、心の底から打ち解け合える人とはなかなか出会えないもの。そういう貴重な人をどう表現したらよい?「商品開発のTさんと宣伝制作のOさんの二人は、まさに常勝コンビですね。次々と、メガヒットを飛ばしていますからね」「あの二人、けっこうタイプは違うのに、不思議なくらい馬が合うんだよな」こんな会話を交わすことがある。馬が合うとは、たがいの気持ちがしっくりと合うこと。馬は乗り手の気持ちを敏感に察する動物で、乗り手が気に入らないと突然走り出したり、のけぞったりして、乗り手を振り落とそうとする行動に出る。反対に気に入った乗り手ならば、荒馬も急におとなしくなり、その意志に従う
のだそうだ。「馬が合う」は、こんなふうに乗り手と馬の気持ちが通じ、まさに人馬一体となる様子からきた言葉で、理屈を超えた相性のよさを表現するときによく使われる。重賞レースに騎乗するジョッキーも、「この馬とは相性がいい」などというから、技術を超えたサムシングが介在するのだろう。よく似た言葉に「そりが合わない」がある。こちらのほうは、たがいの考え方や気持ちが合わないこと。そりが合わない同士では仕事もうまくいかず、どうがんばっても、不本意な結果に終わることが多い。そりとは刀の「反り」。刀の反りと鞘の反りが合っていなければ、刀は鞘に収まらない。ただし、二人がうまくいかないときには「馬が合わない」とはいわず、また、うまく両者が合う場合にも「そりが合う」とは使わない。相性がよいか悪いかにより、よいときは「馬」を、悪いときは「そり」を使うことを覚えておきたい。分をわきまえる──◉謙虚な姿勢が、かえって人をひきつける「身のほど知らず」と対極にある言葉。ビジネスシーンでも、出すぎず、かといってへりくだりすぎない姿勢が好感を持たれる。そんな姿勢をひと言で表せば…。人にはそれぞれ、立場や年齢などに応じた「分」がある。その枠組みを大きく逸脱しないように振る舞う姿勢が「分をわきまえる」だ。「分」を守って生きることは、自分を知り、けっして高慢になることはなく、かといって卑屈にもならない。自分をしっかり律する気持ちがなければできないことだ。したがって、「分をわきまえる」といった場合には、「自分をしっかり知っている」「分別のある生き方をしている」というニュアンスが加わるので、おくゆかしく好感が持てる。「分をわきまえる」ことを「分相応」、「分」を超えたことを「分不相応」という。「分際」となると少しネガティブな意味が加わり、「新入社員の分際で生意気だ」などと、叱られたり、非難されたりするときに使われる。衒いがない──◉気負わないほうが、結果的に人の心に響くひたひたと心を打つ文章に共通するのは、飾りたてた美辞麗句や背伸びした表現が使われていないこと。そんな文章表現をひと言で形容する言葉を知っていますか?「求めない」。すべての詩の冒頭が、この言葉で始まる加島祥造氏の詩集が、大きな話題を呼んでいる。人はだれでも「何かが欲しい。手に入れたい。だれかのようになりたい。こうしてもらいたい」と求め続けてしまうもの。だが、ほんの三分でいい、求めないでごらん。不思議なことが起こるから、と語りかけるこの詩集は、むずかしい言葉も凝った表現も使われていない。こうした表現をひと言で表すのが「衒いがない」という言葉である。「衒い」とは知識などをひけらかすという意味。せっかく身につけた知識も、ひけらかした瞬間に輝きを失ってしまうものだ。反対に、「衒いがない」ことは抑制がきいた謙虚な姿勢を伝えることになり、結果的に、強く深く、人の心に響くのである。「彼の文章は衒いがなくてよい」「彼は衒うところがなく、なかなかの人物だ」などと使う。一目置く──◉もとはハンディを与えられたことをいう囲碁用語だれもが彼の実力は認めている。あれこれくわしく述べなくても、そのたしかな存在感を伝えるにふさわしい、簡にして要を得た表現だ。相手のほうが優れていることを認め、一歩譲った姿勢を見せたり、対応したりすることを「一目置く」という。「中国プロジェクトに関しては、部長は課長の提案をほとんどそのまま通すみたいだね」「課長は中国滞在経験も豊富だし、中国事情通ということでは社内でもピカイチだからね。上層部も課長には一目置いているそうだよ」などのように使う。「一目」という言葉から連想されるように、この言葉のルーツは囲碁用語。囲碁では段位が低いなど、弱者のほうが先に石を一目置いて、対局を開始する。「一目」は、それだけハンディを与えられたことを意味することになる。そうしたことから、「一目置く」とは、相手のほうが強いことを衆目が認めることを表すようになっていった。相手が自分より数段優れているときは、「一目も二目も置く」といっそう強調した表現を使う。同じように、囲碁から出た言葉に「岡目八目」がある。岡目とは、はたで見ること。つまり、第三者の立場で見ることをいう。囲碁の勝負をはたで見ていると、八手ぐらい先まで読むことができ、対局者の打つ手がまだるっこしく感じられる。つまり、「岡目八目」とは、どんな問題も、第三者が客観的に見ると、当事者よりもずっとよく事情がわかるものだという意味になる。ちなみに、そば屋のメニューにある「おかめそば」は、八種の具をのせたそば(うどん)を、「岡目八目」になぞらえたネーミングである。御の字──◉本来は、非常にありがたいという意味の言葉多くを望みすぎると元も子もなくなってしまう。自分はこれさえ満たしていれば、大満足なのだという気持ちを伝えたい。そんなときにぜひ使いたい言葉だ。「御」は名詞の上などにつけて、尊敬の意を表したり、価値が非常に高かったりすることを意味する。そこから転じて、「御の字」をつけたくなるほどありがたい、結構だという意味になった。江戸時代の遊里などで使われたのが始まりで、すこぶるつきの美人の花魁を、「御の字付きの上玉」などと表現した。現在ではもっと気軽な意味に使われ、「新製品を一〇〇ケースお取り扱いいただければ、発売記念の宣伝物を一式、おつけいたします」「無料で提供してくれるならば御の字だなあ」などと、ビジネスシーンでもよく使われる。
また、「私は何より米が好きでしてね。真っ白い米の飯に漬物でもあれば〝御の字〟なんですよ」のように、「それがあれば大満足です」と、けっして多くを望むわけではないという気持ちを伝えるときにもよく使われる。﨟長けた──◉アンチエイジングばかりが能ではない「あの若い女性、和服が似合って、﨟長けた美しさにあふれているね」というと赤恥をかく。こういう言葉は使い方を間違えると間が抜け、かえって滑稽になってしまう。「﨟長けた」は洗練され、品格のある美しさをいう言葉。若い女性は逆立ちしても手に入らない美しさを表す言葉である。最近はアンチエイジングが大ブーム。だれもが、若く見せることに躍起になっている。若いということに過剰なほどの価値を置いているようなのだ。だが、年齢を重ねた女性には、若い女性には太刀打ちできない、品格をたたえた奥深い美しさがある。この、年輪を刻みながら磨き込まれた、品位のある美しさを「﨟長けた」と表現する。「﨟」は仏教語。僧侶が受戒のあと、室内にこもりきって修行することを「安居」という。この安居の功を積んだ年数が「﨟」。「長ける」は「経験を積んで優れていること」を意味している。つまり、「﨟長けた」とは、修行を長く重ねた者だけが身につけることができる存在感、美しさを意味しており、長い年月をていねいに生きてきた女性だけが身につけることができる、最上級の美しさを表現する場合にのみ使われる。従って、若い女性には使わないことを知っておきたい。世阿弥の『風姿花伝』に、「いか程にも﨟長けて劫入りたるやうに見えて……」とあるように、中世ごろまでは年功を積んだ人をたたえる場合にも使われた。しかし、江戸時代に入ると、主に女性に対してのみ使われるようになり、今では女性の美しさをたたえるとき以外には使われない。三昧──◉明けても暮れてもそればかりに夢中なことひとつのことに没頭し、ひたりきっている。そんな状態をひと言で表現する言葉をご存じだろうか?使い方によって、ほめ言葉にも批判を含んだ皮肉な表現にもなる。「晴耕雨読というけれど、彼は天気のよい日も本に釘付け。読書三昧の日々を送っているそうだよ」といえば、彼は毎日、読書に夢中になっていることをいう。「三昧」とは、ほかのことをすっかり忘れてしまうほど、何かに没頭している状態のこと。語源は梵語の「サマーディ(samadhi)」で、あるひとつのことにまっすぐ向かっており、ほかのことに気が移ったり、心が乱れたりしない状態をいう。また、悟りに至るには〝三昧〟であることが前提とされる。もともとは、このように崇高な意味の言葉で、旅行三昧、芝居三昧など、ただ単に「夢中になっている」という意味では使われなかった。勉強ばかりしていることを勉強三昧というが、この場合は、好きな道の勉強にひたっている様子。つまり、みずから望んで勉強していることを指し、受験勉強などのように必要に迫られてする場合には、勉強三昧とは使わない。
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