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6章会話を味わい深くする古きよき絶妙な言葉づかい

6章会話を味わい深くする古きよき絶妙な言葉づかい

心憎い着こなしのひとつに、〝さし色〟を効かせるというワザがある。ほかの色とは際立った対比を見せる色をピンポイントで使う。それにより、着こなし全体がにわかに生彩を放つようになる、そんな方法だ。言葉にも、このさし色に似た使い方がある。たとえば、古くから言い伝えられてきたことわざや、古今の名言、言葉遊びから生まれた面白言葉などを、ここぞというときに、さらりと使うのである。すると、話全体の印象が際立ち、また、話し手の言葉への深い造詣も、さりげなく伝えることもできる。ただ、言葉の意味を正確に把握し、使いどころを心得ていないと、かえって珍妙な結果になりかねない。この章では、言葉の〝さし色〟として、上手に使いこなしたい言葉を集めてみた。

後ろ髪を引かれる──◉頭の後ろを引っ張られるとどうなる?出会いもあれば、別れもあるのが人生。心ならずも別れなければならない場合によく使われるフレーズがこれ。どんな気持ちを表現する言葉か、ご存じだろうか?「さよならだけが人生だ」は、太宰治が著書に使って広く知られるようになった言葉だが、オリジナルは唐代の詩人・于武陵の詩『勧酒』の一節「人生足別離」。たしかに、これまで出会い、そして別れた人を指折り数えてみると、それがそのまま人生の歩みと重なり、感慨深い。とりわけ忘れられないのが、「後ろ髪を引かれる」思いで別れた人だ。後ろ髪を引っ張られると、前に進む足どりが鈍くなったり、よろよろしたりする。未練が残っていたり、別れると決意したものの情が残って、相手の様子が気になってならなかったりというときは、別れると決意しながらも、気持ちは行きつ戻りつするもの。このように、心残りがありながら別れることを「後ろ髪を引かれる思いで別れた」という。「急な転勤の話が持ち上がり、つき合っていた彼女と別れたんだ。彼女も願っていた仕事についたところだったからね。遠距離恋愛も考えたんだが、おたがい、そんな時間はとれそうもなくて……。後ろ髪を引かれる思いだったよ」などと使う。折り紙つき──◉「折り紙」は、何を象徴しているのか?社会的に高く評価されたものであるということを、ズバリ表現したいときに、覚えておきたい言葉。でも、折り紙がついているとなぜ、たしかな価値があるのだろう?「彼のロシア語の実力は折り紙つきだよ」とか、「その書は相当価値が高いと折り紙つきだよ」などと使う。この場合は、彼のロシア語の実力をだれもが広く認めていることを意味する。「書の価値が折り紙つき」ということは、その書の価値が高いことは鑑定士などにより証明されているという意味。転じて、社会的にその価値や実力がはっきり認められていることを示す。「折り紙」とは、紙を横半分に折った文書のこと。古くから、公式文書や贈呈品の目録はこの形式の奉紙を使うのが習わしだった。やがて、江戸時代になると、刀剣や書画骨董などの名品を証明する鑑定書にも、「折り紙」が使われるようになり、「折り紙つき」といえば、価値を保証されたものという意味になっていった。同じように、力や価値があることは証明されているという意味に使われる言葉に「お墨つき」がある。「お墨つき」とは室町~江戸時代、将軍や大名から臣下に与えた領地の保証書のことで、その文書には、将軍や大名の花押が黒々と墨書されていた。花押とは、署名を図案化したもので、今日でいう印章の役割を果たすもの。この黒々とした墨書から、その書類を「お墨つき」というようになり、転じて、力や価値を証明するという意味で使われるようになった。「今度の企画は、わが社のカリスマ企画マンとして知られるS常務のお墨つきだから、会社も力の入れようが違うね」などと使う。色の白いは七難隠す──◉美白化粧品が売れるわけです浅黒い肌は健康的で魅力的だというけれど、やはり女性にとって、色白肌は永遠の憧れ。その証拠に、といいたいような言葉がこれ。でも、七難ってどんな欠点だろう。昔から、色白肌の持ち主はそれだけで美しい印象を与え、さまざまな欠点を補ってあまりある……という意味の言葉。つい最近まで、上流社会の女性の間では、真っ白に顔を塗りつぶす化粧法が主流だった。舞妓や芸者の化粧が真っ白なのも、白化粧のほうが、顔だちの欠点が目立たないからだといわれている。七難とは、仏がこの世のさまざまな苦難を「七難」と称したことに由来し、たくさんの、さまざまな、という意味になる。細目、鼻ぺちゃ、大口……と欠点を指折り数えて、七つなら、あといくつカバーできるのかな、と数えるのはとんだ見当違いというわけだ。奥の手──◉最後の最後、ここぞというときに使う手のこと正攻法でぶつかっても歯が立たない相手。そんな相手を切り崩す方法はあるだろうか。まだ、取っておきの手があるというようなとき、その手をなんと表現するか?「奥の手」とは、「切り札」よりもさらに強力な方法や手段を指す。「切り札」はトランプ用語で、ほかのすべての札に勝つ力を持つカード。エースやジョーカーがそれに当たる。ここから、「彼は、営業部の切り札だよ」というように、最後に出すために取ってある、もっとも有力な人や手段を「切り札」というようになった。それよりさらに有効な「奥の手」というと、やはり、担当役員や社長のお出ましを仰ぐということになるのだろう。「うちの切り札でも太刀打ちできませんでした。いよいよ、奥の手を使うほかはありませんね。なんとか、社長にお出ましいただけるよう、ご進言いただけませんか」などと使い、「奥の手」は多くの場合、「最後の手段」と同義語になる。手前味噌──◉自慢話を聞きやすくするひと言昔は味噌も各家で手づくりしていた。「手前」とは自分のことで、自分の味噌の味をほめる、というところから、自分の手のうちにあるものを自慢するとき

などに使う。得意先に自社商品を売り込むときなど、「わが社の製品は、耐久性に優れていることでは業界でもいちばんと自信があります」などと胸を張るのもよいが、年長者の前などでは、この言葉の前にひと言、「手前味噌を申し上げるようですが」とつけ加えるといい。手前味噌とは、自分の家でつくった味噌をいい、その味噌の味を自慢するという意味から転じた言葉。最近では、「手前味噌ですが……」というと、「自分のことを語る」という意味で使われることも多いようだ。衣鉢を継ぐ──◉衣と鉢を与えられるのが、なぜ名誉なのか後継者は血縁にこだわらず、最適任者を選ばないとその後の繁栄は望めない。事業や技芸・思想などを継承することを表す、禅からきた言葉。「衣鉢を継ぐ」とは、先人の事業や思想などを引き継ぐことを指す。禅宗では、みずから大悟を得たと確信するまで、足の向くままに各地を行脚し、寺を歴訪して教えを請い、修行を重ねる。この行脚に必要なのは、墨染めの衣と托鉢用の器だけ。旅のかかりや食べ物は鉢を持って家々の門に立ち、読経する。その礼にいくばくかの金や食べ物を受け取り、まかなったのだ。師は、この行に出向く雲水に、衣と鉢を与えたもの。そこから、師の思いや奥義を引き継ぐことを「衣鉢を継ぐ」というようになり、転じて、住職や宗派の長の座を引き継ぐことを「衣鉢を継ぐ」というようになった。さらに、この表現が一般にも広がり、今では宗教に関係なしに、何かを引き継ぐことを「衣鉢を継ぐ」というようになっている。「社長の衣鉢を継ぐのは、息子の専務らしいよ」「やっぱり、同族経営から抜け出すのは、至難の業なんだね」などのように、ビジネスシーンでもよく使われる。恐れ入谷の鬼子母神──◉「まいりました」のユーモア表現ちょっとしたいたずらをしたところ、「あなたがやったのね」と見透かされた…。そんなときなどにこういって詫びると、みなを笑いに誘い、場の雰囲気も楽しくなる。「ここに置いておいたおせんべい、食べたのはあなたでしょ」「お見通しだねえ。恐れ入谷の鬼子母神だ」などと使う。鬼子母神はインドの夜叉神の娘で、たくさんの子どもを産んだものの、近所の子どもらを次々食べてしまうので人々から恐れられていた。釈迦はこの過ちから彼女を救おうと、彼女の末の子の姿を隠してしまう。すると、彼女は激しく嘆き悲しんだ。そこで、釈迦は、「たくさんの子どものなかの一人を失っても、そんなに悲しいものなのだよ。まして一人子を食われたとき、その父母の悲しみはいかばかりだろう」と諭された。彼女ははじめて今までの過ちを悔い、釈迦に帰依して修行を重ね、安産・子育ての神になり、人々から崇拝されるようになったと伝えられる。江戸には鬼子母神をまつり、安産・子育て祈願で有名な寺が三つあった。雑司ヶ谷、入谷、市川の中山にある鬼子母神だ。うち、入谷の鬼子母神はとくに多くの参拝者で賑わう寺として知られる。この寺と「恐れ入ります」の音が似ているところから、だれいうともなく、「恐れ入ります」というべきところを、「恐れ入谷の鬼子母神」というようになった。もちろん、ちょっとしたいたずら程度に使うべきで、何げないいたずらのつもりが深刻な結果を招いてしまったときなどには、使ってはいけない。掌中の珠──◉一人娘を嫁がせる男親の心中はさぞや…何よりも大切にしているものを、ズバリ表現する言葉。だが、あまり甘やかすと、珠はとろけ、美しい輝きを失ってしまうのではないかと心配になってくる。所有する宝のなかでもとくに大事なものは、掌(手のひらのこと)に入れていつも大事に握りしめていたい。珠とは丸い形をした宝石をいい、転じて、価値のあるもの、貴重なもの、大事なものという意味に使われる。語源となったのは、唐代の詩人杜甫の詩「掌中貪見一珠新」。たいてい、最愛の子ども、とくに娘を指して使われる。「プロポーズはすんだ。あとは彼女のお父さんに結婚の許しをもらうだけだ」「だが、それが問題だな。一人娘だから、まさに掌中の珠だろう。どんな男性が現れたところで、手離したくない一心から、あれこれケチをつけるだろうからな」などと使う。同じように、大切にかわいがる様子を「目のなかに入れても痛くない」ともいう。この場合は、子どもや孫など男女を問わず、もう少し広い対象に使われる。目から鼻へ抜ける──◉頭の回転がきわめて速いことひと口に頭がよいといっても、記憶力にすぐれている、発想が豊かである、理解力があるなどさまざま。頭の回転が速く、気働きにもすぐれている人のことを何という?「今度の秘書は本当に優秀だね。目から鼻へ抜けるとは、まさに彼女のためにある言葉だよ」。社長が激賞している女性は、どんなふうに優秀なのだろうか。この秘書は、社長が言葉に出して依頼する前に、すでに必要な書類を整えてあるという。状況から判断して、素早く的確に、必要なものを判断する力を持っているというわけだ。「目から鼻へ抜ける」とは、目から入ると同時に鼻の穴から出るというほど、頭の回転が速い人、転じて、理解力にすぐれ、利口な人をいう。ただし、この表現は、同じ優秀な人であっても、じっくりと考えを熟して難解な課題の答えを導くというような熟慮型の人には使われないので、使い分けに注意したい。また、同じ抜けるのでも、「目から入って耳から抜ける」場合は、ただ目で見ただけでなんの知識にもならず、身につかないことをいうので、これも間違えないように。ごたくを並べる

──◉どこの会社にもいる、こういうクセのある人人が聞いていようといまいと関係なしに、自説をとうとうと述べる人がいる。しかも、そうした話が面白かったためしはない。そんな話をひと言で言い表す言葉。「会長のスピーチが始まった。どうせまた、ごたくを並べているだけだろう?」「だれもろくすっぽ聞いてないのに、よくもまあ、長々と続けるものだね」。こんなひそひそ話が耳に入る。そんなとき、「ごたくを並べるって、いったい何を並べること?」と、言葉の意味を理解できないようでは恥ずかしい。ごたくとは「ご託宣」、つまり、神のお告げのこと。神のお告げは、たしかにありがたいお言葉であるはずなのだが、実際はもったいぶった内容が長々と続き、うんざりすることも多い。そうしたところから、「ごたくを並べる」とは、あまり内容のないことをくどくどとごたいそうに述べたり、自分勝手なことを偉そうにいいたてたりすることを意味するようになった。ミスを犯したとき、なぜ、そんなことになってしまったのかをくどくど弁解したりすると、「ごたくを並べるのはもういい加減にして、さっさと対応策を講じてくれ」などと、かえって怒りをあおったりするだけだ。この言葉はあくまでも、他人に対して使い、「つまらないことを長々とすみません」というつもりで、「ごたくを並べてすみません」といったりすると、笑われるだけだ。くれぐれも注意したい。上げたり下げたり──◉これではいったい、どっちなのかわからない最近のマスコミはまったく定見がなくなってしまった。新任の大臣をほめそやしたかと思えば、一か月もたつと足を引っ張り出す。こんな様子をひと言で表現するには?「上げたり下げたり」とは、ほめたり、けなしたりすること。あることについて同じ人(同じ媒体)が、あるときはほめたたえ、あるときは酷評するというように、評価が一定でなく、いったいどちらなのかわからない場合に使う。「今度のうちの提供ドラマ、課長は試写会ではサイテーだと腹を立てていたのに、視聴率が取れると、いや、なかなかよくできているよ、なんてコロリ。まったく上げたり下げたりだもんな」などといったりする。だが、ある新聞はほめ、別の新聞ではけなされたというように、出所が異なり評価も異なる場合には、この表現は使わない。江戸時代に誕生した歌舞伎の外題『助六由縁江戸桜』に、「おきやァがれ、こいつは人を上げたり下げたり。鳶だこのやうにしやァがるな」という台詞があることから、かなり古くから使われていたことがわかる。惻隠の情──◉人に対する哀れみを秘めた最高の心づかい競争に勝つことを第一義とする社会になってから、情けは自分にかけるものと思っている人が多い。惻隠の情を欠いては、人は心安らいで生きられないと思うのだが…。「あれだけのミスをしたのに、彼のクビはつながったようだね」「まあ、地方勤務になったけどもね。でも、一応は役職もつき、給与もダウンしなかったようだよ。部長の惻隠の情が働いたのだろうね」このように使うことからもわかるように、「惻隠の情」とは、相手のことを痛ましく、哀れに思うという意味の言葉である。もともと人には、相手に対するやさしい同情の心が自然に備わっているとするのが孟子の性善説。したがって、孟子は「惻隠の心は仁につながる」、つまり、惻隠の情に従っていると、自然に徳に近づくことができると説いている。この説をベースにしていることから、「惻隠の情」を使う場合は、単なる同情心ではなく、相手の立場に立って考えるという心情が貫かれていなければならない。深い愛をもって相手を理解しようとする心。「惻隠の情」とは、むしろ、こうした気持ちに近い。たっての願い──◉「立ち上がって願う」ということなのか?「立ってのお願いでございます。どうぞ、お聞き届けください」と依頼状をしたためたのに、効果はなし。こちらの強い思いはなぜ、伝わらなかったのだろうか。「素晴らしい演技に会場を埋めた観客全員が立ち上がり、スタンディングオベーションを送った」。こんなシーンを連想しやすいからだろうか、「たっての願い」を「立っての願い」だと思い込んでいる人は珍しくない。だが、「立って」の表記はもちろん間違い。昔は「達て」「強って」なども使われたが、これは当て字。現在では、ひらがなで「たって」と書く。「たって」の意味は、強いて、無理にも、ぜひとも、切に、など。どうしても聞き入れてほしい強い願いや、依頼事をする場合に使う。ビジネスの場でも「先方のたっての願いを汲んで、一度、取引してみることにしたよ」などと使われる。石部金吉──◉堅い人柄であるのは悪いことではないが…努力もせずに一獲千金を狙う人と比べれば、堅実な人柄であるのは結構だが、まったく融通がきかない人も扱いにくい。そんな人に対して、多少の皮肉を込めていう言葉。歯の浮くようなお世辞がすらすら出てくるようでも困るが、コチコチ人間も扱いにくい。「石部金吉」とは、こうした度が過ぎた堅物や、融通がきかない人のこと。江戸時代には言葉遊びが盛んになり、何かを人名になぞらえて表現する擬人名が流行った。石部金吉もそのひとつ。「石」と「金」。どちらもきわめて硬いものだ。この二つを組み合わせ、非常に堅い人物であることをことさらに誇張した表現である。「そこは多少、色をつけていただけませんか?」「いや、うちの課長はご存じのとおり、石部金吉でなかなか……」のように使えば、「いや、うちの課長はまっ

たく融通がききませんからムリですね」というよりもソフトな印象になる。擬人名にはほかに、「骨皮筋右衛門」(非常にやせている人)、「飯田左内」(なかなか発言しない人)、「平気の平左」(何があっても平気な顔をしている人)、「小言幸兵衛」(口うるさくおせっかいな人)、などがある。七重の膝を八重に折る──◉心から詫びるときや懇願するときに感じのよいおじぎは四五度の角度とか。だが、それ以上に深く礼をする、転じて、ひれ伏すような気持ちで誠意や謝意をなんとか相手に伝えたいときに使う言葉。社内告発で不祥事が露見し、社長は記者会見の席で「七重の膝を八重に折って謝罪した」といえば、深く頭を下げ、丁重に謝罪の気持ちを表したことをいう。無理な願い事をする場合にも使われ、「一生のお願いです。どうぞお聞き入れください」と深く頭を下げる様子を〝七重の膝を八重に折って〟といったりする。人の膝は、もちろん、二つにしか折れない。その膝を、七重に折るほど姿勢を低くしたいという気持ちがある。それをさらに八重に折ってでも、といい、深く深く詫びるとか懇願する気持ちを表現しているわけである。「七重」「八重」という語感の響きが、いっそう印象を強めている。同じように、語感により意味を強化する表現に「十重二十重(に取り囲む)」がある。愁眉を開く──◉表情がどう変わることをいうのか?哀しみや悩み事にひたっているとき、人はどんな表情を浮かべるだろうか。その表情が一変、明るく晴れやかな表情に変わることを、詩情豊かに表現する言葉。中国・唐代の詩人白居易の詩「楊柳枝」に、次のような一説がある。「人言柳葉似愁眉更有愁腸似柳絲……」(人はいう柳葉は愁眉に似たると更に愁腸の柳絲に似たる有り……)たしかに愁いを帯びた眉は、柳の葉のように細く曲がってたれているように見える。愁眉とは、悲しみに沈んだり、悩み事で心が晴れない顔つきをいう。それを「開く」とは、しかめていた眉を元に戻すことをいい、悲しみや心配事が解消したことを意味している。「このところ、経営状態の悪化が懸念されていたが、新製品の爆発的ヒットによって資金繰りが改善され、経営陣一同、愁眉を開いた」のように使う。人の価値観とは不思議なもの。この愁いに満ちた表情が美人の象徴のように思われ、女性たちがこぞって真似をしたこともあった。そこから生まれたのが、「ひそみに倣う」という言葉。中国・春秋時代、美女の誉れ高かった西施は、持病のために、いつも眉をしかめていた。この西施の眉の真似をすれば美女に見えると、女性たちはみな眉をひそめるようになったという。つまり、「ひそみに倣う」とは、よし悪しを考えずに人真似をすることを表している。相好を崩す──◉破顔一笑というように、笑いは顔つきを崩すけれど…とり澄ました美人より、いつも微笑んでいる女性のほうに心ひかれるもの。笑顔に勝る魅力はないからだ。ましてや、相好を崩すなら大歓迎だが、そのわけは?「相好」とは、顔つき、顔かたちをいう言葉。一〇世紀の仏教説話集『三宝絵』に「一日一夜も仏の一つの相好を念はば」とあるように、「相好」とは、仏の美しく立派な身体的特徴である「三十二相八十種好」を略して生まれた言葉だった。ここから、「相好」というと、顔かたちという意味に使われるようになったもの。その「相好」を「崩す」とは、顔つきが大きく崩れること。つまり、笑うことをいう。笑い顔はよく見ると、けっしてバランスのとれた表情とはいえない。目は細くなり、口元にはしわがよる。だが、「崩した」原因は大きな喜びなのだ。その喜びが満面にあふれ、見る人までが嬉しく、楽しい気持ちになってくる。「厳しい関門だといわれていたA社の企画コンペに勝ったと聞いて、部長は相好を崩して喜んだ」とか、「日頃は謹厳な表情の校長も、お孫さんの話になるとたちまち相好を崩す」のように使われる。はなむけ──◉「はなむけ」とは何を向けるのか?進学の実績を高めることに必死だったり、父兄に頭の痛い思いをしたり…。いまどきの先生はたいへんだが、せめて卒業時には、生徒の心に残る別れの言葉を送りたい。旅立ちや新たな出発にあたって、祝福や励ましの思いを込めて贈るものを「はなむけの品」とか、「はなむけの言葉」という。「はなむけ」の「はな」は、花ではなく鼻。昔の旅には馬が欠かせなかったことから、遠方に旅立つとき、見送る者は、その馬の鼻先を行き先の方向に向けて道中の無事を祈ったもの。この習慣から、「馬の鼻向け」という言葉が生まれ、しだいに略されて「はなむけ」となった。旅にあたって、道中の費用の足しにとお金を贈ることが多かったことから、いまでは、「餞」の字を当てる。歓送会の席などで、「では、C君の新任地での活躍を祈念して、ここで、部長からはなむけの言葉を頂戴したいと思います」のように使い、最近ではもっぱら、歓送の意や出立に際して行なう挨拶を意味するようになっている。長幼の序──◉最近はそのあたりが緩くなっているようで長じた者は幼い者を慈しみ、幼い者は長じた者を尊敬するという考え方。儒教ではとくにこれを重んじ、韓国ではいまもそうした風習が強く残っているとい

う。語源は、孟子の『滕文公上』にある「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」である。かつては、日本でも年長者を敬う習慣は社会のすみずみまで浸透しており、年長者に対するときには、おのずと敬語を使ったものだった。だが、最近では、若者ばかりがハバをきかせている、と嘆く年長者は少なくない。もっとも、若者側は、敬うに足る年長者がいなくなったといっているが……。年長者を敬え、という前に、年齢を重ねていくにつれ、それなりの経験と見識を身につけ、成熟の度を進めていきたい。そんな人が増えていけば、おのずと、年長者を敬う気持ちもよみがえるのではないだろうか。草葉の陰──◉あの世から応援したり、喜んだり昔は、お盆など墓参りの日が近づくと、近親者が草むしりに出かけたもの。墓はたいてい伸びた雑草におおわれていたものだった。つまり、草葉の陰といえば…。今でも、田舎へ行くと、稲田を見下ろす小高い一角などに墓がある光景を見かける。昔は、自分の家の田畑を見下ろしながら、静かに永遠の眠りにつくことを望んだのだろう。墓のまわりには夏草が勢いよく生い茂っている。かつては土葬であったから、遺体は文字どおり、草の葉の陰に眠っていた。こうしたことから「草葉の陰」といえば、身は死んでも霊魂となって見守る、応援するという意味で使われるようになった。ヒット曲『千の風になって』の思いは、昔からだれもが自然に持っていたものだったのである。したがって、「野球の試合当日ははずせない用事があって、どうしても応援に行けないのです。その代わり、草葉の陰から応援していますから」などと使うのは、とんでもない間違い。「ご両親、卒業式においでになれないそうですね。でも、きっと草葉の陰で喜んでおられますよ」といったら、相手は激怒したという話もある。当たり前だ。両親は故郷で元気そのもの。店をやっているため、卒業式だからといって店を閉めて出席するわけにはいかないだけなのだ。もちろん、発言者は「(その場にはいなくても)喜んでおられますよ」という意味のつもり。厚意からこういったのだろうが、結果的には相手の両親を〝殺してしまった〟ことになる。絶対にしてはいけない誤用である。つつがない──◉健やかに暮らしているかどうかが気がかり「つつがなくお過ごしのことと存じあげます」とは、年長者からの手紙の冒頭によくある言葉。「つつがないって何がないこと?」なんて首をかしげていないだろうか。「つつがない」は漢字で書くと「恙ない」。「恙」とは病気や災難、さしさわりなどを意味する言葉。「つつがなし」はそれがないこと。つまり、健やかに日々を過ごしているかどうかを気づかい、尋ねているわけである。口語ではあまり使われず、手紙の書き出しなどに多く使われる。有名なところでは、聖徳太子が随の楊帝に送った手紙の冒頭に「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや」がある。「つつがない」の語源はダニの一種であるツツガムシから、という説もある。ツツガムシはツツガムシ病という難病を媒介するところから、「ツツガムシに悩まされていないでしょうね(ツツガムシ病にはかかっていないでしょうね)」と相手の健康を気づかったのだ。ツツガムシ病は、ツツガムシの幼虫に刺されて起こる急性感染症。七~一〇日の潜伏期ののち、突然、高熱や全身倦怠に襲われてリンパ節がはれ、激痛にさいなまれるというから、抗生物質の発見前は非常に恐れられていたのもわかる。だが、最近では、ツツガムシ病が歴史に登場するよりもはるかに早い時代から、「恙なきや」と相手の安否をたずねる用法が多く見られることから、「ツツガムシ」語源説は否定されつつある。水際立つ──◉きわだって目立つ様子をいう多くの人やもののなかでもひときわ目立つこと。相手の行為をほめるときなどに使うと、さりげなく、豊かな表現力の持ち主であることが伝わる。水は生きていくうえに欠かせない。それだけにつねに身近にあるため、水にまつわる言葉は非常に多い。「水際立つ」もそのひとつ。「彼は新人にもかかわらず、水際だった演技力を見せ、各映画賞を総なめにした」などと使われる。ひときわ群を抜いて、あざやかに目立つ、という意味である。本来、水は低いところに自然に集まるもの。川や沼、湖などの水際は水草が生い茂り、はっきりと見えにくいものである。その水際が際立っていることは稀にしかない。そこから、こうした意味に転じたのだろう。したがって、「水際立つ」は、プラスの意味でしか使わない言葉が続く。遺憾に思う──◉いつのまにか、謝罪の言葉として使われているが…まことに残念である、という思いを伝える言葉。だが、最近は、自分や自分の会社がしでかしたことを詫びるときに使う、おかしな誤用例が増えている。「遺憾」とは、思いどおりにいかず心残りなこと。つまり、「残念」「気の毒」という意味であり、仕事や勝負で思うような結果を出せなかった場合に、「遺憾に思う」「遺憾千万」などといった。そこには、あきらめきれない心情さえ漂っている。ところが最近、「遺憾に思う」は、すっかり謝罪の言葉として使われている。なかには、ていねいな謝罪の言葉だと思い込んでいる人も少なくないようだが、とんでもない誤用であることを知っておきたい。あらためていうまでもなく、不祥事を起こした会社の社長が「遺憾に思います」と頭を下げても、「困ったことですが、私の責任ではございません」といっているのに等しい。聞く側はあっけにとられるだけだ。

仕事でミスをした場合にも、間違っても「遺憾に思います」などといってはいけない。言い訳を並べ立てるよりも、「申し訳ありませんでした」と深く頭を下げるほうが、ずっと潔く好印象を与えるものだ。

あとがきにかえて言葉は、時代により、使われる人により、どんどん形を変えていく。その様子は、言葉のしなやかな生命力を物語ってあまりある。だが、それと同じくらい、素晴らしい生命力を感じさせるのが、この本にあるような心温まる言葉たちだ。言い伝えられ、今も使われる言葉たちはこうしてまとめてみると、あらためて、うまい言い方だ、心憎い表現だなと、唸るばかりだ。こうした言葉は、学校やビジネススクールで身につけるものではない、少し前まで、だれもがごく普通に、日々使い慣れていた言葉であり、家庭や職場でごく自然に伝えられてきたものだった。その流れを涸らしてしまわないためにも、さっそく今日から、一つでも二つでも、心して使うようにしてみよう。温かなものの言い方は、口にした当人の心をもやわらげ、温めることにも気づかされるだろう。私自身も、書いているだけなのに、気がつくと、ふだんよりやさしく、心地よい気持ちになっていた。心温まる言葉たちには、そんな素敵な効用も潜んでいることを知っていただきたい。

●本書の執筆にあたり、左記の文献等を資料とさせていただきました──『懐かしい日本の言葉ミニ辞典』(藤岡和賀夫/宣伝会議)『続・懐かしい日本の言葉ミニ辞典』(藤岡和賀夫/宣伝会議)『気になる日本語の気になる語源』(杉本つとむ/東京書籍)『常識として知っておきたい日本語』(柴田武/幻冬舎)『日本人なら知っておきたい日本語』(井口樹生/幻冬舎)『日本人が忘れてしまった美しい日本語』(佐藤勝/主婦と生活社)『暮らしのことば語源辞典』(山口佳紀編/講談社)『日本語語源辞典』(堀井令以知編/東京堂出版)

菅原圭(すがわら・けい)早稲田大学文学部卒業後、コピーライター、出版社勤務を経てフリーに。かたわら、平安期以来の女性文学研究を進めてきた。とくに日本語特有のリズム・響きの美しさにこだわりを持ち、短歌も詠む。私歌集『夕色』がある。英国在住経験、世界各国を旅する経験を重ねるうちに、日本語の奥深さ、日本人の対人関係への心づかいにいっそう強く心ひかれるようになった。ライターとして言葉やマナー、心づかい・気づかいに関する書籍の編著も多い。

日本人なら身につけたい品性がにじみ出る言葉づかい発行日2016年6月30日著者菅原圭企画・編集株式会社夢の設計社〒162-0801東京都新宿区山吹町261発行者小野寺優発行所株式会社河出書房新社〒151-0051東京都渋谷区千駄ヶ谷2-32-2http://www.kawade.co.jp/装幀印南和磨この電子書籍は、『日本人なら身につけたい品性がにじみ出る言葉づかい(2015年8月1日7刷発行)』に基づいて制作されました。

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