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第3章読書は私の人生にこんなふうに役立った

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第3章読書は私の人生にこんなふうに役立った

名作が読書嫌いを生む!?

私は、本を読まない子どもだった。そのきっかけとなった出来事は、小学校高学年か中学校の課題図書だったと思う。

ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』とルナールの『にんじん』がそれだ。

しかし、どこがどう面白いのかさっぱりわからなかった。なんでこんな暗い話を読まなきゃならないのか、心底頭にきた。私はいまでもこの2冊を面白いと思っていない。

むしろこの2冊をはじめに読んだことで、10代から20代の読書習慣を失ったとさえ思う。このことは、あまりにも恥ずかしいこととして長く人に言えなかった。

まがりなりにも課題図書に指定されるほどの「名作」である。ただ私の読解力がなかっただけかもしれないからだ。

しかし、意を決してある人に話したとき、その思いは氷解した。

その人は、赤木かん子さんという。児童文学評論家で、故・吉本隆明氏と張り合って議論もできたほどの読書家である。

赤木さんには和田中学校の図書室を改造するときに監督としてお世話になるのだが、初日の打ち合せのあと飲みに行って、その話を打ち明けた。

赤木さんから発せられたのは、こんな言葉だった。

「そりゃそうよね。あれ、面白くないもん」実際、私が息子に本を読ませた経験からもそう思った。息子が読みたがっている本を退けて、私が感銘を受けたものを無理やり読ませようとしたこともあった。

親がことさら読ませたいのは、「教訓もの」や「世界の名作もの」だ。

だが、その期待とは裏腹にあっけなく敗退してしまったりする。

そんな経験からわかったのは、子どもが面白いと思うポイントは、本の世界に自分自身を投影できるかどうかなのだ。

だから、名作がすべて悪ではないのだが、私が出合った2冊の名作については、その世界に私は入り込めなかった。

名作には申し訳ないが、児童期に名作ばかりに触れさせても、必ずしも読書の習慣が身につくとは限らない。

場合によっては、私のように、読書を毛嫌いする子どもを生み出す結果にもなる。最初の印象がその後の道筋を決めてしまうことは、人生では往々にしてある。残念ながら、そうして私は、最初の入り口でつまずいた。

大学時代、格好いい先輩の本棚で出合った、人生を変える1冊

小学生から高校生まで、まったく本を読まない子どもとして成長した。

そのため、大学入試の現代国語はかなり苦労した。大学生になっても、相変わらず本を読まなかった。最初に本を連続して読んだ経験は、大学3年のときだ。

ある先輩に感化されて、貪るように読んだ本があった。経営学科のゼミの先輩に、あるコンサルタント会社に雇われ、ヤマハの経営指導の仕事に関わっている人物がいたのだ。

大学生といえばポロシャツにコットンパンツか、ジーンズにTシャツという格好が相場で、教科書はリュックか肩掛けかばんに入れて登校するのが主流だった。

そんななか、彼はピンストライプ柄のダブルスーツを着込み、手にはアタッシェケースを抱えて颯爽とゼミの教室にやって来る。

とにかく格好いい。私はその姿に単純に憧れた。ある日、その先輩が住んでいる元麻布のワンルームマンションに遊びに来ないかと誘われ、嬉々としてうかがった。

彼は、後輩である暁星中学校の生徒のフランス語の家庭教師をしていた。私が少し早く着き過ぎたため、まだそのレッスンが終わっていなかった。

「ちょっと待ってて」そう言われたものの、やることがなく手持ちぶさただった。見渡すと、洗練されたお洒落なソファがある。何となくそこに座ってみると、横に本棚が置かれていることに気づいた。

本を読む習慣がなかったから、並んでいる本に興味があったわけではない。ただ、学生にもかかわらず、大企業のコンサルタントのような格好よさを身につけるにはどうすればいいのだろう、というミーハーな興味が湧いた。

「この先輩は、どんな本を読んでいるのだろう?」目に留まったのは、ビジネス書の数々だった。それらを引っ張り出して、題名をメモしていった。その先輩に対する憧れがそうさせたのだと思う。いまでも覚えているのは、次の3冊だ。

『ピーターの法則』(L・J・ピーター、R・ハル著/ダイヤモンド社)『パワー!企業のなかの権力』(マイケル・コーダ著/徳間書店)『I’mOK,You’reOK幸福になる関係、壊れてゆく関係』(トーマス・A・ハリス著/同文書院〈絶版〉)ビジネス書との出合いは、衝撃的だった。

大学の経営学科の授業からは味わうことができなかったビジネスの現場で起こる出来事がリアルに描かれていた。目からウロコだった。いずれも、どのような内容かそらで言えるほど読み込んだ。

とくに『ピーターの法則』については、私のビジネスパーソンとしての20代から30代に強い影響を及ぼし続けた本である。

その趣旨をひと言でいうと「昇進をうれしがっていると、あなたはどんどん無能になっていくよ」という警告である。これくらいやれば昇進する、という論理だけで上に登って行くとダメになる。

本書の言葉でいえば、「創造的無能」を演出しなければ、偉くなればなるほどどんどん仕事ができない人になり、自分自身から遠い空虚な存在になってしまう。

これが組織と仕事のパラドックスの正体である。

私自身のデビュー作『処生術』で提唱した、組織にいながら自営業の感覚で仕事をする「企業内個人」「組織内個人」という考え方のベースにもなっている。

その後、ビジネスパーソンとしての私の半生を規定した本だと言ってもいいかもしれない。

あまりにも共感したため、この『ピーターの法則』については、リクルート社のフェローになってからも、さまざまな場面で引用したり、紹介したりした。

その結果、当時絶版になっていたこの本を、ダイヤモンド社が復刻するというオチまでついた。いま、あらためて読むと、書きっぷりは少々古くさい感じは否めない。だが、書かれていること自体は依然として通用すると思う。

そんな人生を変える1冊との出合いは、私を「早くビジネスの世界でやってみたい」という気持ちに駆り立てた。実際、当時、就職活動が本格的に始まる大学4年まで待てず、3年生の秋に会社訪問することに。

結局、早くビジネスをしてみたいというニーズに応えて、名刺を持たせ、スーツ姿でアルバイトをさせてくれたリクルートで、卒業後の仕事人生をスタートすることになる。

「純文学、読んでる?」

とはいえ、先輩の本棚にあった本に刺激されたことで、継続的に本を読むようになったわけではない。入社したリクルートでは営業をやっていたので、必要に応じて仕事の資料として読むことはあった。

しかし、1冊を20分~30分ぐらいでナナメ読みして、キーワードになりそうな部分だけを覚え、さも熟読したようなフリをしていただけだ。

必要に迫られて読むことはあっても、教養を身につけるために読むとか、人生を豊かにするために読むといった姿勢ではなかった。

30歳のとき、仕事の関係で、ある編集プロダクションの社長と銀座で飲んだ。すると突然、その社長がこんなことを口走ったのだ。

「ところで藤原くん、純文学、読んでる?」いま、正直に告白すれば、純文学という言葉の意味すらわからなかった。

文学作品であろうことはわかったが、どのようなジャンルを指すのかさっぱりわからない。

本を読む習慣がなく、受験勉強のために文学史だけを勉強した若者から見れば、文学といえばヘルマン・ヘッセか、夏目漱石か、太宰治になってしまう。直感的にごまかさなければと思った。

私は、どういう作品のことを言うんですかと聞く代わりに、だれの作品ですか、と尋ね返した。

「そうだなあ、いまだったら、宮本輝とか連城三紀彦とかかなあ」作家の名前は聞いたことがあるような気もしたが、もちろん読んだことはない。言い訳にもならない言葉を吐きながら、笑ってごまかした。

「いやあ、営業ですからねえ、お客さんの資料や企画書をつくるために参考になるビジネス書を読むのがやっとで、なかなかそこまで手が回らないんですよ」社長は真顔になって、キツイひと言を発した。

「純文学を読まないと、人間として成長しないよ」読んでいないうしろめたさを棚に上げ、その決めつけるような物言いにムッとした。

しかし「人間として成長しない」などと言われると、座り心地が悪い。その社長が非常に面白い人だったこともあって、翌日すぐに銀座の旭屋書店に飛び込んだ。

書棚から宮本輝さんの『青が散る』(文藝春秋)と連城三紀彦さんの『恋文』(新潮社)を無造作に手に取り、さっそく読み始めた。

なんということはない、無条件に面白かった。純文学とはなんたるものかというようなことは気にせず、エンターテインメントとしてのめり込んだ。

それまで、「現代社会に結びつけた小説」があるということを知らなかったのだ。それがきっかけで宮本輝さんと連城三紀彦さんの作品に魅了され、書店の棚に並ぶすべての作品を読んでいくことになる。

純文学は、現代社会を生きる人間の心模様を活写していた。

どんなに遅くなって眠くても、接待で飲み過ぎて酔っぱらっていても、帰りの電車のなかでは作品を読みふけった。

それ以来、一人の作家の本を集中して読み切るという読書が始まった。そうしていくと、その作家と脳を共有しているような気にもなる。

小説であっても、主人公を通した人生や社会の見方に、クセがあるような感じがしてくるのだ。図書館に行って、限度いっぱいに借りられるだけ借りてくる。

それを机の上に積んでおいて、片っ端から読んでいく。

宮本輝さんと連城三紀彦さんに続いて、その後、重松清さんや藤沢周さん、島田雅彦さん、宮部みゆきさんの作品を渡り歩いた。

渋いところでは、高橋和巳さんだ。

彼の『邪宗門』(河出書房新社)などは、宗教の話を通して醜い部分もふくめ人間の本質をこれでもかとえぐり出している。

表現にまだるっこしさを感じながらも、重厚な作品を読めるようになったということは、私にそれなりの蓄積が少しずつ増えてきたということだったのかもしれない。

当時は、無我夢中で次から次へと手にしていたが、いまならわかる。私は、これらの作品を通じて現代社会の空気のようなものを感じていたのだ。

いや、実際にその空気を感じていたとしても、言葉にできないいらだちがあったのだと思う。それが言葉で表現されていることへの素直なリスペクトだ。

どの作品も、現代社会に生きる個人が抱えている悩みや不条理のようなものをすくい取っていたからだろう。作家を選ぶ基準に、ほとんどこだわりはなかった。

自分の直感で選んだり、雑誌や新聞の書評に載ったものも手に取った。その前後に、伝説の編集者・松岡正剛さんとの出会いもあった。

頭のなかに何万冊もの本が入っている松岡さんとの話に出てくる作家たちを覚えておき、すかさず買って読むという繰り返しだった。ただし、本を読む習慣がつき始めたばかりだったので、深く読めていたかどうかは自信がない。

病気がくれた、本と向き合う時間

純文学の作品に目覚めたころ、私はリクルートの情報ネットワーク部という部署の指揮をとっていた。あるとき、私が幹事になって部の打ち上げをやった。

全員に水着を持って来させ、夕方から東京プリンスホテルのプールに集合する。ビールの大ジョッキを片手にプールサイドで騒ぎ、時折プールに飛び込んで泳ぐ。

ひとしきり楽しんでからタクシーに分乗し、渋谷にあるプール付きのファッションホテルを借り切って、出前の寿司をとってパーティーをやった。

そんな無茶な飲み会をした翌日、家のベッドで寝がえりを打ったら、天井が回った。二日酔いは何度も経験していたので、そんなレベルではないことはすぐにわかった。気分が悪くトイレに入って座り込み、立ち上がった瞬間に、またドアが回転した。

「天罰が下ったか」ついに脳にきたと思った。立ち上がったり、ふと頭を振ったりした瞬間に、自分の目で見ている画像が回転する。人間は見ている画像に対して姿勢を制御する習性があるので、次の瞬間に転んでいることもあった。

あとで聞いたら、もっと症状がひどくなると、道路が曲がって見えたり、高層ビルが襲ってきたりするような幻覚まであるらしい。すぐに病院に行った。

しかし、検査をしても原因がわからない。「お疲れなのではないですか。ビタミン剤を出しておきましょう」そんな診断しかされなかった。でも、人間は病名がはっきりしないと不安なものだ。

1週間ほど何軒かの病院に行って、同じようなことを繰り返した。「それ、耳鼻科なんじゃないかな」ある人のアドバイスで耳鼻科に行くと、「ああ、目まいですね。じゃあ、毎日通ってください。注射打ちますから」と即対応してくれた。

三半規管あたりを麻痺させる注射らしい。それで、目まいはなくなった。メニエール病という難病であった。

結局、以後5年ほど後遺症に悩まされ、その後ヨーロッパに渡ってストレスフリーになってやっと治るのだが、メニエール病になってから、接待に行っても私だけ途中で帰ることが多くなった。

あまり長い時間接待していると、めまいが始まってしまうからだ。だから、夜の9時か10時には家に帰るようになった。

前後して、あのリクルート事件が起こり、接待ゴルフ禁止令が出たから、それを期にゴルフそのものをやめることにした。

サラリーマンが接待もゴルフもしなければ、けっこう時間ができる。本を読む時間が、自分の病気と会社の事件によって創出されたのである。

メニエール病になっていなければ、日々の激務と引き換えに出世街道を驀進し続けたと思うのだが、病気になって、まったく違う人生を生きることになった。

仕事に没頭していた時期はそれなりに充実していたが、そこにはない、本を読む時間を楽しむ人生があることをようやく知ることになる。

「自分の意見をつくり上げる」ための読書

きっかけはともかく、読書をする時間をたっぷりととれるようになったことで、私のなかに大きく変化するものがあった。

「自分の意見をつくり上げるための読書」という視点だ。

メニエール病になる前の私は、人より営業実績をあげていたこともあって、相当にわがままだった。営業に関して自分がこうすべきだと思ったことは、お客さんにも強く言えた。

数億円という高額なプロジェクトであっても、私の提案は必ず通せると思っていたし、現に通ることが多かった。

それでも、営業マンとして有能だということと、社会に対する自分の意見を持つということは別次元の話だ。

たとえば、次のような2つの意見の重みがまったく違うということは容易にわかる。

「このケースでは、自分はこうしたいのです」「社会全体の流れのなかで見れば、こうしたほうがいいのではありませんか」じつは私は、後者のような意見表明をすることに強いコンプレックスを持っていた。

コンプレックスの原因が当時はわからなかったが、いまなら、教養がなかったのだと正直に言える。リクルートには、倉田学さんという同僚がいた。

『フロム・エー』『エイビーロード』『じゃらん』『ケイコとマナブ』『あるじゃん』など、リクルートの柱となる情報誌を立て続けに創刊させた伝説の編集長である。

その倉田さんから、当時、強烈なひと言をもらった。

「俺はさあ、本を読んでいない人と付き合う気がしないんだよ」倉田さんが会議で発する意見は、いつも世の中の流れをしっかりととらえた納得できるものだった。

とくに、リクルート事件の直後に厳しい状況に立たされた会社がどのように身を振るべきか。それをどのような言葉で表現すればいいのか。

そういうことを論理的に語れたのは、圧倒的に倉田さんのような編集畑の人間だった。しかし、私にはそういう意見がない。

当時の私は「クリティカル・シンキング」という言葉も知らなかったし、批判的な精神のかけらもなかったように思う。

だから、編集者という人種に対して、強いコンプレックスを抱いていた。このコンプレックスを克服するためには、見識を広げる必要があった。

ただし、本を1冊読んだからといって即効性があるものではない。見識というのは、蓄積以外の何物でもない。

ある一定のラインを超えない限り、自分の意見をつくり上げるほどのものにはならない。ということは、自分を変えたければ本を読んで見識を蓄積するしかなかったのだ。

話についていくには、とにかく本を読むしかなかった

33歳のとき、リクルート出版という関連会社を潰す話が持ち上がった。リクルート出版は、就職や進学関連の書籍を地味に出していた出版社である。

当時、メディアデザインセンターの部長だった私は、自分に任せてほしいと経営陣にお願いした。当時流行りの言葉で言えば、マルチメディア型の出版社に生まれ変わらせようと考えた。

そうすることで、コミックやゲームソフトなどを幅広く出版できるようにするのが狙いだ。社名は「メディアファクトリー」と名づけ、初年度、25冊の新刊本を5つのシリーズで出すプレゼンが認められた。

そのなかには、メディアファクトリーの主軸となるコミックエッセイというジャンルもふくまれていた。

のちに圧倒的な稼ぎ頭になる、けらえいこさんの『セキララ結婚生活』や『たたかうお嫁さま』である。けらさんが『あたしンち』で大ブレークを果たす2年前の話である。

もう1つのトピックは、中谷彰宏さんの起用だった。中谷さんは、ダイヤモンド社の『面接の達人』シリーズがヒットしていたとはいえ、エッセイではまったくの新人だった。

その中谷さんが書く「仕事と恋と人生のワンフレーズ・シリーズ」を、10冊同時にハードカバーで刊行するという無茶なこともやった。

とはいえ、私が経営した創業からの3年間は、結果的に大赤字だった。

事業を立ち上げて軌道に乗せること自体、本当に難しいのに加えて、「出版社の経営者として、本のことを何もわかっていない素人だったなあ」と当時のやり方を思い出しては赤面する。

たとえば、作家や編集者と企画の話をしても、ほとんどかみ合わなかった。話に全然ついていけないのである。

メディアファクトリーの経営に携わったのを機に、1年に100冊以上の本を読むことを自らに課したのは、作家や編集者と話を通じさせるためだった。遅咲きだったが、このころから本格的に読書の道が開けた。

それまでは敬遠していた芥川賞や直木賞の受賞作にも手を伸ばすようになった。難しそうな本やなかなか手が伸びなかった哲学的な本も、拾い読みとはいえ眺めるようにした。

出版ビジネスの打ち合わせのためという、ある種、不純な動機ではあるが、なんとか1年で100冊くらい読む習慣ができた。

多読、乱読というスタイルだったが、たとえば満員電車のなかで琴線に触れるフレーズを見つけると、直接、本に線を引いておいて、あとから秘書にワープロ(当時)で打ってもらって記録するなど、本の世界から多くの蓄積を得ることができてきた。

読書が生活の一部になって現れた「人生の鳥瞰図」

じつはメディアファクトリーの経営に携わり始めたころ、自分の将来像に対する焦りのようなものもあった。

「このままだと、40代になっても自分の意見がないままになる」「自分が追うべきテーマが見つからない」私の場合、ビジネスなどにおいてテーマを人から与えられた場合には、それを高速で処理し、お客さんを説得し、押し切ることは得意だった。

しかし、世の中との関わりを見据えたうえで、個人として自分自身の立ち位置を決めるという「人生の戦略性」については、どうも危ういと感じていた。

しかし、本を読むことが生活の一部となるようになって、私のなかである変化が起きた。それは「人生の鳥瞰図」が見えるようになったことだ。もちろん、鳥瞰図を獲得しようと思って本を読んだわけではない。

結果的に、読書を重ねて他人の脳のかけらをつないでいくうちに、鳥瞰図が現れたと言ったほうが近い。

人間にはみんな、どこかに欠落している部分がある。しかし、多くの人は、その欠落している部分がいったい何であるのか、わかっていない。

実社会でなんとなく生きているだけでは、なかなか気づくことはできないのだ。どうしたらその欠落している部分に気づくことができるのか。おそらく、そのヒントは本のなかにある。読書によって、さまざまな人物の視点を獲得していける。つまり、巨大なロールプレイをすることができる。

そうしたシミュレーションを繰り返すことで、人生を鳥瞰図として見られるようになるのだと思う。

人生を地平から見ているだけでは、いま進んでいる1本の道しか見えないのに対し、鳥瞰図の視野を手に入れれば、その横に走っている別の道が見えるようにもなるだろう。

このことはベストセラーとなった拙著『坂の上の坂』(ポプラ社)に詳しく書いたが、人生の山は1つではない。

たった1つの大きな山を人生の後半に向けて下っていくイメージではなく、いくつもの連山を重ねて、登ったり下ったりしながら最後まで山づくりを繰り返すべきだ。

だが、人生の後半に山並みを重ねようと思ったら、前半や中盤から、仕事で登っている主峰とは違った裾野をつくっておく必要がある。

その裾野を構築するために、25歳~55歳までの30年の間に、組織のなかで働いている主軸とは別に、左に2つ、右に2つぐらい、別々のコミュニティに自分の

足場をつくっておいたほうがいい。

地域社会のコミュニティでも、被災地支援のコミュニティでも、鉄ちゃんのオタクコミュニティでも、研究者のコミュニティでも、バラ好き仲間のコミュニティでも、テニスでもクラリネットでも将棋でも囲碁でもいい。

どんな人でも1万時間没頭して取り組めば、それなりに山の形ができる(詳しくは巻末の『天才!』の書評参照)。

山の形ができるというのは、コミュニティのなかで自分の立ち位置が確保されるという意味だ。1万時間というのは、おおむね5年~10年である。

そして、主軸となる仕事をしながら、その横に走らせるコミュニティでコミュニケーションを積み重ねていくことが大切だ。

人生の後半戦に向けて、それぞれのコミュニティの山を大きくしていこうと思ったら、コミュニケーションの量を増やすことが必要になるし、山の環境(緑の多さなど)にたとえられるものをよくするためにはコミュニケーションの質を高めることが必要になる。

そのコミュニティのなかでコミュニケーションを充実させるためにも、読書の蓄積が効いてくる。

会社や役所のなかだけで単線的に生きるのではなく、いくつものコミュニティに参加して複線的に生きる視点。

人生に、こうした鳥瞰図的な視点を持てないと、組織のなかでちょっとしたことで追い詰められ、視野狭窄に陥ってしまうリスクから逃れられない。

単線的な視野のなかに見えていた助け舟が急になくなったとき、世の中からすべての救いがなくなってしまったかのように錯覚したりもする。

自殺するしかないという極論に至ってしまうケースだって出てくる。

いっぽう、鳥瞰図が見えるようになれば、戦略を切り替えることもできるだろうし、逃げ道を探すこともできる。

私の場合も、メニエール病を発症したことによって、会社という人生の主軸からいったん退却することを余儀なくされたが、読書量を積み重ねたことで鳥瞰図の視界を獲得することができ、時と場合によってはビジネスの最前線から離脱しても構わないという心の余裕を得ることができた。

量は質に転化する──300冊のブレイクスルー

年間100冊を3年続けると300冊になる。300冊を超えたあたりからだったと思うが、自分のなかから言葉があふれ出すようになった。

世間のさまざまな事象に接して、自分も何か語りたくなるのだ。そこから、自分の意見を書いてみるという、つたない作業が始まる。

最初は2~3行のメモにしか過ぎなかったものが、やがては1000字程度(A4で1枚くらい)の雑文を書くようになった。いまであれば、ブログを書くような感じだ。

教育学者の齋藤孝先生も、読書は文字のシャワーを浴び続けることになるので、ある量を超えると自分自身が文章を書くキッカケになるということを述べていた。

それは私の実体験でもいえる。300冊読むと1冊200ページとしても、6万ページになる。1ページに文字が600字詰まっているとして、3600万字のシャワーを浴びたということだ。

この、だれに頼まれたわけでもなく書き続けたエッセイが70編近くになった。それらをまとめたものを『ライフデザイン革命』と名づけ、簡易製本して100部だけ印刷した。

そして、リクルートに籍を置きながら、ロンドン大学ビジネススクール客員研究員として家族とともにロンドンに渡る直前、同僚や部下や友人にこれを配った。

読んだ人はそれぞれ自分の意見を書き込んで、それをだれか親しい人に手渡し、この本を漂流させてほしいとお願いしたのだ。

A4判で本文の周囲に余白があったので、書き込むスペースは十分にある。

松岡正剛さんによれば、昔はみなそのように感想や意見を連歌のように書き連ねて貴重な本を読み廻していたとのことだったので、そうした古の知恵に習ってみようと考えたわけだ。

欧州での2年4か月の生活を終えて日本に帰国したとき、18人の手に渡って漂流したあと、母港に帰り着いたものが1冊あった。

リクルートの広報室時代に部下だった小川朝子さんが自分の旦那さんと父親から始めて、同僚16人にも読んでもらい、丁寧にフォローして書き込みを増殖させたものだった。

本当に私のもとに戻ってくるなんて思ってもみなかったので、感激した。

じつは、私のデビュー作『処生術』は7割方、この『ライフデザイン革命』に書いた原稿で、あとは欧州滞在中に書き貯めたものを加えたものだ。

それが新潮社から出せることになったのは、同世代の編集者の寺島哲也さんが、漂流した自費出版本が私のもとに帰還した物語をいたく気に入ってくれたからである。

『処生術』は、山一證券と北海道拓殖銀行が相次いで破産する1997年暮れに出版されたものだから、会社にどっぷりと浸かるだけではない、インディペンデントなビジネスパーソンの生き方の書として評判になった。

バブルがはじけて経済的に厳しい時代がくるのに、会社を辞めてリクルート社初の「フェロー(客員社員)」となった奇特な著者の作品を読んでみたいと思われたのかもしれない。

あるいは、当時40歳で、6歳を筆頭に2歳、0歳と3人の子のいるサラリーマンが、これからお金がかかるときにいったいどうして辞めちゃうのか、という興味本位もあったかもしれない。

いずれにしても、デビュー作はヒット作となった。

以来、私は新しい時代に、新しい視点で生きるビジネスパーソン像を描くエッセイストとして次々と本を出すようになる。

コラムツールとしての読書②相手との距離を縮める「本の使い方」

著書のある人と何か企てたいと考えたとき(単純なインタビューでもいいし、シンポジウムでも)、とりあえずその著者の本を読んだことをアピールするのはだれでもやるだろう。

ただ、それだけでは、相手からスルーされて、それ以上の話の進展もなく「じゃあ、また今度!」となってしまう危険がある。

私だったら、まずすべての著作を読む。だが、著作の数があまりにも多い人もいる。そういう場合、言葉は悪いがすべて読んだフリをする。

たとえば重松清さんにはじめて会ったとき、彼の本を20冊ほど借りてきて、そのうちの10冊程度を読んだ。

そのなかから印象に残る決めゼリフを暗記し、会話をするときにさりげなく披瀝する。

「こういうセリフがあったじゃないですか」と再生してみせるのだ。ただ単に「読みました、面白かったです」だけではないので、相手に強い印象を与える。

重松清さんのように小説家は、自分のアタマのなかで苦労して紡ぎ出した思想を主人公や登場人物に仮託して言わせている。

それを読み込んでいる相手に対しては、自分の脳の一部を共有しているように感じるはずだ。だから何か一緒にやろうという話に乗ってくる可能性が高くなる。

私は書き手の立場としても、確実にそう思う。学校では教えてくれないけれど、日本人は初対面のときに油断し過ぎているのだ。初対面でのマイナスイメージを、2回目、3回目で払拭しようと思っても不可能に近い。

初対面のときに相手の心をつかまないと、その次はないと思ったほうがいい。このように私は、書籍を「自分と相手を関係づける道具」として使うこともある。

いまは、多くの人がフェイスブックやツイッターを使って、つながりがあるかどうかを確かめる。

しかし、つながるための優秀な道具(SNS)が充実すればするほど、人間が人間につながろうとする意欲やスキルをどんどん削いでいってしまう。

このことに気づくかどうかは大きい。つながろうとする力をつけるうえでは、じつは、道具が邪魔をする。

名刺やフェイスブックやツイッターに頼れば頼るほど、初対面で相手にどのような生のインパクトを与えるかという演出に意識が向かなくなってしまうからだ。

 

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