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第5章本嫌いの人でも読書習慣が身につく方法

目次

第5章本嫌いの人でも読書習慣が身につく方法

藤原流・本の読み方と選び方

私は年間120冊から200冊の本を読んでいる。33歳から本格的に読書を始めて、59歳になったこれまでの26年間にわたって3000冊以上読み続けているから、その気になれば速読もできるが、しないことにしている。基本的に本は、じっくり読むほうだ。

ただし、3000冊すべて隅から隅まで熟読したわけではない。3割以上ちゃんと読むが、半分は目を通す程度だ。そして、50ページほど読んでみて、まったく面白さを感じることができずに、やめてしまうものも2割はある。はずれだった場合だ。そういう読み方でも十分だと思う。

また、私の場合、目次を読んで全体像をつかむことはほとんどしない。通常は「はじめに」や「まえがき」から読み始め、文章の流れのままに本文に入る。ここで本の読み方を指南しようというつもりはない。読み方は人それぞれ自由でいいと思っているので、私はこういう読み方をしているという事実だけを記しておく。

どのような本を読むかについては、おおよそ6つのパターンがある。

1つ目は、一人の作家の作品を図書館で5冊、10冊と借りられるだけ借りるパターンだ。

面白そうかどうか、評判はどうかなどは気にせず、「この人」と決めた作家の本を机の上に積んでおいて片っ端から読んでいく。

2つ目は、表紙やタイトルを見て感性に引っかかったものを5冊ぐらいまとめ買いして読むパターンである。

まとめ買いする舞台は、私が定点観測している渋谷の啓文堂書店にあるノンフィクション系の平台などだ。このとき、気になった本の類書をまとめて買うようなことはほとんどしない。むしろ、意図的にジャンルを分散させて5冊を選ぶ。

3つ目のパターンは、出版社からの献本である。

かつて雑誌に書評を書いていた時期があったせいか、いまでもさまざまな出版社から新刊が送られてくる。これについては、まずは選り好みしないでざっと読む。自分で選択したわけではないから、50ページで離脱してしまうものもある。逆に、予期せぬ出合いがあることも。

4つ目が、新聞の書評欄を見て、気になった本を読むパターンだ。

5つ目としては、これを挙げることに多少の戸惑いはあるのだが、アマゾンのリコメンド機能も私のなかで無視できない存在になりつつある。

まんまとアマゾンの営業戦略にハマっていることを自覚しながらも、つられてクリックするということを意外とやってしまっている。しかしこれも、私の通常の選書パターンであれば手に取らなかったであろう本に出合うことができるため、面白い。

最後の6つ目は、自分がリスペクトする人との会話に出てきた本を読んでみるパターンだ。

これについては、その場ですぐにメモしておき、その日のうちに仕入れることが多い。若い人からも情報を得る。そして、できたら翌日には読み終え、メールですぐに感想を送る。3行でも5行でもいいので、相手が驚くようなスピードで感想を送るのである。相手に対する礼儀という意識もあるが、こういうクセをつけておくことは、本を読むことを習慣化するためにも役立っているような気がする。

本は顔が見えてこそ、手に取りたくなるもの

「本を選ぶ」ということについては、私が和田中学校の校長に就任して図書室の改造に乗り出したエピソードも参考になるかもしれない。

就任直後に訪れた図書室は、全国の公立学校によくある「カビ臭い図書室」だった。

1日あたりの利用者は昼休みに5、6人で、それは図書委員の数だった。

図書室にはおよそ9000冊の本が収まっていたが、ほとんどが死蔵されていて、子どもたちの読みたい本が絶対的に不足していた。

そこで私は、先述したこの分野の第一人者である児童文学評論家の赤木かん子さんを総監督として迎え入れ、改造に着手した。

最大のポイントは、5000冊の本を捨てたことだ。9000冊のうち、5000冊はいらない本だった。

生徒が足を運びたくなる魅力的な図書室にしたいと思うなら、まずは不要な本を捨てるところから始めなければならない。

捨てるにあたっては、二段階に分けて考えた。

1つは、「どう考えてもゴミ」という本だ。

その代表格が、何十年も前に寄贈された百科事典である。和田中の図書室には、35年も前に発行された百科事典が陳列されていた。

だが、これには地名や史実など現在の事実とは異なるものが載っている。間違ったことが載っている事典類を学校に置いておくわけにはいかない。これらは、文句なく分別ゴミとして大量に廃棄することになった。

もう1つは「価値があるかどうかわからない本」である。

価値の計りようがない代表例が美術本だ。美術の専門的な教育を受けたわけではない者にとっては、捨てるか、とっておくか、主観以上の判断ができない。

だから、ネットオークションで売ってくれる業者さんに委ねた。いまだったら、ブックオフのような中古本チェーンに取りにきてもらう手もあるだろう。

そうすれば、価値のあるものは、その価値がわかる人に競り落とされる。死蔵ではなく、有効活用されるのだ。

図書室の改造の際は、邪魔なものがあると、むしろ子どもたちは本を読まなくなってしまうということを意識した。

それに対して、「だれが興味を持つかわからないじゃないですか。たとえ邪魔になったとしても、置いてあったほうが子どもたちの可能性を伸ばすんじゃないですか」と批判する人もいた。

これは一見、正論のように聞こえるが、間違いだと思う。

極論すれば、邪魔な本を100冊置いておくより、子どもたちが読みたい本が、読みやすい形で3冊置いてあるほうがいい。

不要な本を大量に処分することで、残った本がおよそ3000冊になった。

寂しいように思えるだろうが、図書室の棚がスカスカになったことで、じつは大きなメリットがあった。

本を「面出し」できるようになるのだ。

面出しというのは、本の表紙が見えるように置くことだ。

書架に十分なスペースがないと、本は「背出し」しかできない。

背表紙にはタイトルと著者名が小さく書かれているだけで、どこにどのような本があるのか、その本がどういう本なのかがわかりにくい。

表紙の面を出すだけで、それが一目瞭然になる。

本の表紙が子どもたちに「読んで、読んで!」と声をかけるからだ。

たとえば、自然科学分野の恐竜の本、世界地図と冒険の本、『13歳のハローワーク』(幻冬舎)と職業関係の本、ドラえもんが算数を漫画で教えてくれる本。

どういう本がどこにあるのかがわかると、読書しようという動機づけにもなる。

面出しされていると、本を手に取ろうとする意識が高まるというのは、書店の売り場を想像すれば理解できると思う。

顔つきがよい本ほど、手にとって読んでみようという気になるものだ。

だから、本を読む習慣を子どもに身につけさせたければ、家庭にある本棚も同様にするとよい。

そのためには、学校同様に、不要な本を捨てる決断をする必要があるのだ。

和田中の図書室改造では、不要な本を捨ててつくったスペースを活かして、奥のほうに四畳半程度のじゅうたんを敷き、パーテーションで仕切った場所をつくった。

そこは、大人からは目の届かない「死角」になっている。

じゅうたんでは、寝転がって本を読んでもいいというルールにした。

1000冊に及ぶマンガを読むのもオーケーだ。

「図書室に死角をつくるのはいかがなものか」

そんな意見を言う先生もいた。

私はこう説明した。「死角をつくっていいんです。放課後ぐらい、先生から見られないのが大事なんです。子どもには、大人から見られないところで読みたいものもあるんですよ。

その代わり、地域の本好きのオバちゃんにいてもらいますから」結果、図書室の利用者は10倍以上になった。

ベストセラー本にはそれなりの理由がある

30代に入ってから本を読む習慣が身につき始めたものの、ベストセラーになっている本を読もうという気にはならなかった。

自分がその本を「発見」したわけではないのにヒットしているのは、プライドが傷つくのだ。流行をあと追いする自分が許せない。

だから、書店のレジの横に平積みされている「売れてる本」には、当初ほとんど手を出さなかった。

40代になって読書が日常の一部になってくると、そうした気負いや照れがなくなった。

ごく自然に、話題になっている本は読んでおこうという心境になれた。

たとえば、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(岩崎夏海著/ダイヤモンド社)のような大ベストセラーは、30代までの自分であれば手に取らなかったと思う。

あるいは、郷ひろみ著『ダディ』(幻冬舎)のような、ことさら話題性を演出した本は、出版社の戦略が透けて見えるから毛嫌いしていたはずだ。

しかし、読書が日常の一部になると、そういう思いはなくなった。

むしろ、人との会話のなかで出た本は、読んでいるとお互いの共通の話として盛り上がっていいじゃないかと受け入れられるようになったのだ。

だからいまは、ベストセラーランキングの上位から読み漁っていくのも、あながち悪いことではないと考えている。

内容なのか話題性なのかはともかく、そもそもランキングで上位に入るような本には、何らかの理由がある。

要は、本を手に取るきっかけは何でもよくて、他人の目を意識することはないということだ。

ただし、100万部を超える売上を記録したミリオンセラーだからといって、それが自分の脳につながるような本であるとは限らない。

じつは2003年に200万部以上のセールスを記録した、養老孟司さんの『バカの壁』(新潮社)を読んだとき、私にはその面白さがよくわからなかった。

むしろ、2014年に出版された『「自分」の壁』(新潮社)のほうが、養老孟司さんの脳のかけらが自然と入ってきた。

読む時期や自分の置かれた環境によって、本の受けとめ方は変わる。私という人間の意識はつねに変化しているし、時代背景も一点にとどまることはないからだ。

はじめて読んだときはよくわからない本が、時を経て理解できることもある。本には、人それぞれに読むのにいいタイミングがある。だからこそ、こだわりを捨てて乱読すべきなのだ。

また、ランキングのベストテン以内に入っているのにちっとも面白くなかったという体験も、自分を知るという意味では大事なことだと思う。

かつて一世を風靡した浅田彰さんの『構造と力』は難解だったし、現在も売れ続けている岸見一郎さんと古賀史健さんの共著『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)も、決して易しい本ではない。

後半から中味が濃くなり読み飛ばしができない本だ。タイトルや話題性に惹かれて買ったものの、最初の数十ページを読んで放り出した人もたくさんいるだろう。

それでも、その時代の流れに乗っている本を手に取り、なぜいまこの本が売れているのかを考えると、いまという時代に流れる「意識のかけら」のようなものが読み取れると思う。

確実によい本に出合うための方法はあるか!?

この項を立てておきながら恐縮だが、結論を先にいえば、よい本に出合うコツなどないと思っている。そもそも、よい本とは何だろうか。それすら定義できないのではないか。

松岡正剛さんのような「知の巨人」が読んでよいと感じる本と、私が読んでよいと感じる本は違うだろうし、東日本大震災の被災地で暮らす中学生が読んでよいと感じる本はまた、それとは違うはずだ。

よい本に出合うためには、評価の定まった「よい本」を読んで感性を磨かなければならないと言われることもある。

しかし、だれかにとってのよい本が優れていて、だれかにとってのよい本が劣っているということはないはずだ。本に対する感受性はそれぞれ一人一人が違っていい。

では、その感受性を磨くためには、どうしたらいいだろう。本に対する鑑定眼を磨く方法はあるのだろうか。

3000冊以上を読んできていえるのは、どのようなジャンルでもいいから、数にあたることが大切だと思う。結論。なんのことはない、数が勝負なのだ。

私の経験でいえば、多くの本を読んでも、自分の価値観の一部が書き換えられるような影響を受けた本はそれほど多くない。よい本に出合う確率は低い。

そんななかでも、たとえば、マルコム・グラッドウェル著『天才!成功する人々の法則』(講談社)という1冊の本は、間違いなく、いまや私の脳の回路の一部を為している。

個性や才能というものに対する考え方を一変させられた。それまでの私は、個性や才能は人間にもともと備わっているものだと勘違いしていた。もともとある個性や才能を「引き出す」「磨く」という感覚が強かった。これは、多くの日本人が抱いているイメージではないだろうか。

ところが、グラッドウェル氏はそれを否定する。

子どもの才能は、どのような環境やコミュニティに身を置くかによって決まってくるというのだ。それぞれの能力差は、もともと天賦の才能や資質の差ではない、と。

フィギュアスケートの選手を例に考えてみよう。

仙台のコミュニティで育った羽生結弦選手が、別のコミュニティに生まれていたとしたら、はたしていまの羽生選手になっていただろうか。

浅田真央選手は名古屋のコミュニティで育ったが、もし浅田選手が九州にいたとしたら、同じようにフィギュアスケーターとして頭角を現しただろうか。

もっと飛躍したたとえをすれば、浅田選手がまったく異なる環境やコミュニティに置かれたとしたら……たとえばロシアに生まれていたら、エレーナ・イシンバエワさんのような棒高跳びの選手になっていたかもしれない、ということだ。

個性や才能はもともとDNAに刻まれていて、生まれつきなのだから、どうしようもないものと考えている人は多いと思う。

日本人一般が信じる、それを発見して引き出すか腐らせるかという、子育てのイメージである。

でも、そうではなくて、だれでもが置かれた環境やコミュニティによって能力を獲得できるという考え方は、私にとって納得できるものだった。

こうしたよい本に出合う機会の絶対量は、当然のことながら、読書の量を重ねれば重ねるほど多くなる。

「これだ!」という本を数えたことがないから確かなことはいえないが、私の場合、おそらく300冊ぐらいだろうか。300冊という数字だけを見れば多いかもしれないが、それでも3000冊読んで300冊だ。

9割の本は、私の感性には引っかからなかったということ。でも、それで損をしたとは思わない。無駄な本に出合わずに効率的に本を選ぶことなど、どだい無理だと思っているからだ。

また、他人の脳のかけらをつなげて新しい視点を獲得したいと思うならば、自分には相場観のないジャンルや著者の本を手に取ることも大切だ。

相場観を持たない世界では、だれだって効率もクソもない。まったく外れになる可能性も、おおいに歓迎しよう。そのリスクを取ることで、リターンが得られるのだから。

大事なので、結論を繰り返す。本当に自分に必要な本と出合いたいと思う人には、習慣化した「乱読」をおすすめする。

予想もしなかった考え方に出合ったり、本を介して未知の人物との遭遇が将来起こる可能性もある。その化学反応は、読む前にはわからないことが多い。本に即効性を期待する人もいるが、私は違うと思う。

本1冊の値段は文庫本で500円前後、新書で700円~900円、単行本で1300円~2000円程度である。

買ったうちの9割がダメでも我慢できる金額だ。外れる確率は高くても、偶然の出合いがあるほうが、よほど面白い物語になると思う。それは人生における人間との出会いと変わらない。

人生における偶然の素晴らしい出会いを、効率的に設定することなどできはしない。本との出合いも、同じなのである。数をこなそう。

習慣化されるまでは、ある種の「強制」も必要

本との関わり方については、校長時代のエピソードで、ほかにも参考になりそうな話がある。和田中学校では、私が校長に着任する前から、朝読書」という読書の時間を設けていた。

朝の10分間、生徒が全員で本を読むのである。小学生の高学年から高校生のころは、自分と向き合いながら、徐々に自分の世界を育てていく段階だ。

とくに中学生ぐらいの自我が芽生える時期には、多くの子に反抗期がくる。親を素直に信じなくなったり、大人に対して斜に構えたり、世の中に反発しようとしたり。ワルぶることがカッコいいと勘違いする子もいる(正直、私もそうだった)。

「子どもの終わりであり、かつ大人の始まり」という言い方を私はするのだが、この時期に反抗心が生まれるのは自然だし、重要な成長過程だ。

小学生までは学校で起こったことを逐一母親に報告していた子どもでさえ、言わなくなったり、あえて秘密をつくったり。

ひどいと「テメエ」とか「ババア」とか母親を口汚く罵ったり、父親を「ウゼエ」とか「キモイ」と避けたりする。だから、反抗期の子を抱えた親は、けっこうつらい。でも、子どもは、そういう時期を経て、自我を形成していくのだ。

小学生までは嬉々として絵本を手に取っていた子どもが、この時期になって急に本を読みたくないと言い始めることも珍しくない。

とくに、大人が勧めてくるような本、つまり課題図書や名作と呼ばれるものに拒否反応を示すのは、ごく自然なことだと思う。

加えて、部活動や塾、友だちと遊んだりするのに忙しくなり、本を読む時間がなくなるのもこのころだ。LINEやSNS、テレビやゲームにも時間を奪われる。それを無理矢理、家庭で強制しようとしても、かえって反発が強まるだけだろう。

だから、本を読む仕組みを学校が提供することが大事になる。朝読書はその仕組みのひとつである。読ませる本は、子どもたちに親しみやすいものでよい。

和田中の実践では、必ずしも本が好きではなかった子どもや、まったく読む習慣がなかった子どもが、本を読むことをそれほど苦痛だと感じなくなったようだ。

あえて強制的に本を読む仕組みをつくったおかげで、本に対する抵抗感がなくなり、なかにはそれがきっかけで本を読む習慣が身についたという子もいた。

本を読むことを習慣化するには、半分強制するのも大事な手段だと思う。

また、私が和田中の校長を務めた期間、時間があるときは校長室のドアを開け放ち、本を読むようにしていた。

多くの場合、校長室は職員室の隣にある。職員室に用事のある生徒は、校長室の前を通ることになる。そこで私が本を読んでいれば、生徒の目に入る。

意図的に、本を読む大人の姿を生徒たちに見せようとしたのである。さらに、近くに住む本好きのお母さんたちには、こんなお願いをした。

「時間があるときに、図書室に来て本を読んでくれませんか。図書室にいても、司書のようにあれこれ仕事をする必要はありません。ただ座って、ご自分の好きな本を読んでいてくれればそれでいいのです。子どもたちに、その姿を見せてくだされば」教育とは、伝染、感染なのだ。

本好きの人は、じつに豊かな表情をして本を読む。静かに読んでいても、その波動は確実に周囲に放たれる。それが子どもたちに伝われば、少なからず影響を受けるはずだ。そこから、本好きな子どもが育つかもしれない。

よく研究者や作家の子どもが本好きになりやすいというが、それは家に本がたくさんあるからではない。小さいころから、親が本を読む姿を見ているからだ。子どもにとって最高の教材は、いつも、大人の学ぶ姿なのである。

こうしたエピソードは、本を読む習慣を身につけたい大人にもあてはまると思う。1日の通勤時間の朝10分間でいいから、同じ電車内で文庫本を読むちょっと気になる女性の真似をしてみる。

好きなジャンルの本でいい。休日には、カフェ付きの話題の図書館に自転車で出かけてみる。コーヒー片手に本を読んでいる人が目に入るような環境に身を置き、そこから発せられる波動を受けてみる。たったそれだけのことで、本好きは伝染してしまうのではないかと思う。

本は読むだけで終わらせない

最後にお伝えしたいのは、ただ単に本を読んで、インプットすることだけをやっていても、読書の習慣は身につかないかもしれない、ということだ。アウトプットの前提のないインプットでは、途中でだれるし、何より飽きる。

なんとなく文字を目で追うだけになってしまい、読んだつもり、ということになりがちだ。これは子どもに限ったことではない。大人でも同じだ。

出口(目的や目標)のない読書は、その行為に意味を見出せなくなりやすい。だからこそ、本はただ読むだけでは終わらせないほうが習慣が続く。

しかも、もうちょっと楽しい。では、どうすれば、出口が見えるか。

アウトプットのひとつとして、和田中学校では朝読書の感想をまとめた「読書新聞」を国語の授業で制作するカリキュラムを必ず3学期にやっていた。

B4判の紙を新聞に見立てて、「自分の今年読んだ本のなかで3冊、人に薦められる本があるとすれば、それはどの本なのか」「どんなところが魅力なのか」をクラスメートに伝えるという課題だ。

「3冊」というのは、朝読書でどんなに読むのが遅い子でも年間3冊は読めたからだ。国語の先生の懇切丁寧な指導のおかげもあって、読書新聞は全校生徒がつくることができた。

それを学年ごとに簡易製本して、全員に配っていた。3年次には、3年間の集大成の読書新聞を制作させた。ベストテンを書いてもいいし、ベストスリーに絞ってもいい。編集はそれぞれに任せる。

1年生、2年生、3年生と各学年で自分の読んだ本の情報を整理するというのは、まさに情報編集力の実践ともいえる。

3年間の学生生活と本との思い出が色濃く結びついていて、「人生新聞」や「中学生活新聞」ともいえる内容にまとめられていた。和田中では、これが卒業文集代わりだった。ある年には、それを本にしようと思いついた。

若手の国語の先生を担当に据えて、1年生から3年生までの読書新聞のコンテンツを『和田中生が選ぶ中学生のための読書案内』という書籍にした。

付き合いのあった編集プロダクションや印刷会社のお世話になって、かなりコストを抑えてつくることができた。

それを生徒をはじめ多くの学校関係者に配ると同時に、一部地元の書店に頼んで売ってみた。生徒たちが職業体験にも行く、なじみの書店でだ。こうした取り組みが、文部科学大臣賞の受賞にもつながった。

なぜ、アウトプットが大切なのかといえば、本を読んで、それを「自分の意見にまでつなげることができる」という成功体験になるからだ。

たとえば本を読んで、ある想いがあなたに浮かび上がってきたとしても、それは最初は、ただの感想に過ぎない。

「自分の意見」というものは、書いたり話したりを繰り返すうちに、しだいに強固なものに進化していくものなのだ。それが印刷物になってフィードバックされると、さらにエッジが立ってくる。

意見は、繰り返し聴かれないと、筋道が立っていくものではない。逆に、何度でも、自分の意見を書けば書くほど、論理的な整合性が深まってくる。書いて、聴かれて、また書いて……その繰り返しで、ようやく「意見」に結晶するものなのだ。

これは私自身が、和田中の校長在任中の5年間で体験した事実である。

東京都では義務教育初の民間人校長ということで、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、ほかに簡単なメールでの問い合わせまでふくめれば、インタビューに答えたのは軽く1000回を超えた。

答える内容は、読書で得た知識だったり、さまざまな経験を積むことによって得た知見だったが、取材に答えて何度も同じテーマで話すことを通じて、しだいに「自分の意見」として確立していった。

自ら原稿を書いたり、インタビュー内容が記事になったものを振り返ることで、さらに論理性が増してゆく。

そうして繰り返すことで、学校で見聞きした体験を、さらに自分のものとして理解し納得できることがわかった。

ただ、アウトプットが大事だといっても、普通の人は、新聞をつくったり、インタビューを受けたりする機会はあまりないだろう。

だから、本を読んで琴線に触れたフレーズをメモしてみたり、感想を人に話したり、ブログやツイッターやフェイスブックでおすすめ本を紹介するだけでもいい。

自分流に「かわら版」を出せばいいのだ。ただし、自分の言葉でである。そうすることによって、読書がもっと楽しくなり、好きになるはずだから。

あとがきにかえて

これを書いてしまったら、電車に乗っている半分の人に嫌われることはわかっている。でも、申し訳ないが、やはり書かざるをえない。電車に乗ると、必ず目につく光景がある。

目の前に(片側に)座っている7人の人のそれぞれの過ごし方だ。

男性はケータイやスマホでゲームをやっている人が多く、女性はスマホでファッション系の検索をしたりオンラインでウィンドウ・ショッピングをしていたり。居眠りしている人も多いが、なかには本を読んでいる人もいる。

あなたがもし、ある有望な会社の人事部長で、これからこの7人を残らず面接試験して、たった1名の入社を決めなければならないとしたら、どのタイプの人を採用したいだろうか?多くの会社の人事部長の面接では、まず、次のタイプの候補者には、即刻、お引き取り願うことになると思う。

タイプ1 四六時中スマホでゲームをやっている「ネトゲ中毒」の人

タイプ2 ずっとメールやLINEが来ていないかを気にして不安そうな人こういうタイプの人は、集中力が仕事に向きにくいと判断されるからだ。いっぽうで、イマジネーション豊かな人を優先するだろう。

タイプ3 スマホを活用してもいいから、主体的に調べる「アクティブ・ラーニング」のクセがついている人

タイプ4 いまは居眠りしていても週刊誌の中吊りをボーッと眺めていてもいいから、車内外の出来事にときどき目を凝らし、「これが起こったら次はこうくるかな?」と想像力を働かせていそうな人こういうタイプの人は、たいてい面接官にも適切な質問をしてくる。

おそらく本人は気づいていないと思うが、ケータイ/スマホをしょっちゅういじって小さな画面とにらめっこしている人は、何か不安そうに見えるものだ。

目もちょっと吊り上がっていて、つねに何かにいらだっているような印象を与える。

実際に、画面に向かって舌打ちしている人を見かけることも少なくない。いっぽう、本を読んでいる人には、そういう嫌な感じの表情をしている人はいない。嘘だと思ったら今度観察してみてほしい。

ジロジロ見ていると男性陣は不審者と勘違いされる恐れもあるので、それとなく目線を送るようにして。人間の表情は、対面するものによって変化する。

赤ちゃんは母親から表情の変化を学び、その微笑みから笑うことを真似するようになる。ミラー(鏡)効果だ。

だから、テレビに保育をさせてしまった子は表情が乏しくなる。動物もそう。犬だって表情を変える。怒られるとしょげるし、微笑むような表情のときもある。

長年、犬と一緒に同居しているお年寄りが、その飼い犬と散歩している光景によく遭遇するが、表情が似ていることに気づく。長年、連れ添った夫婦も顔が似てくるではないか。

人間同士、人間と動物、人間と本やテレビやケータイ/スマホ。みな、相手がだれであっても……それがお母さんの顔の表情であっても、画面やガラスのディスプレイであっても……ミラー効果に影響されている。

さらにいえば、いずれも固体同士の関係とはいえ、分子、原子、素粒子は飛び交っているのだから、活発に交流していることになる。ミクロの世界では、近くで暮らすもの同士は、混じり合っていくのだといっても過言ではない。

だから、どんなメディアと付き合いが長いか、どのようにメディアと接しているか、そのメディアのインターフェイスはどんな艶と肌を持っているか、は確実にあなたの表情に変化を及ぼすのだ。

さあ、このへんで、はじめの質問に戻ろう。

あなたが人事部長だったら、電車のなかで、読書をしている人と、ずっとスマホとにらめっこの人、どちらを採用するだろうか?この「あとがきにかえて」を本屋さんで立ち読みしているあなた、家でゆっくり本文を読み終わってから読んでいるあなた、そして満員電車の窮屈なスペースで必死で読んでいるあなたも、きっと読書家の一人だと思う。

いまあなたが手にしているのは、本を読む意味を問いかけている本だ。だから、人事部長としてのあなたの選択も、きっと私と同じではないか。

私なら、読書する人を優先する。なぜなら、ケータイ/スマホから離れ、読書習慣があるというのは、単なる生活習慣の排除と追加ではないからだ。生き方の選択なのだ。

そして、読書をする人は、この本に書いてきたように、著者の脳のかけらを自分の脳につなげることで脳を拡張し、世界観を広げられる人だ。何よりその力は、イマジネーションを豊かに育むことにつながる。

イマジネーション豊かな人は、それが最先端のネット系の会社でも、テレビや映画のようなメディア業界でも、みな、読書を愛する人である。

付録藤原和博の「これだけは読んでほしい」と思う本・50冊

ビジネスパーソンに読んでほしい14冊

才能や資質を見つめ直すためにこの本は、本書でも触れたが、もう少し詳しく紹介したい。

人材開発に関わるすべてのビジネスパーソン、経営者、起業家、ならびに学校の先生や教育に関心のあるすべての教育関係者が読むべき1冊だと確信している。

学生にも読んでほしい。

それくらい重要なメッセージをふくんでいる。

ひと言で言えば、天才は、1万時間以上の練習量を積んで才能を発揮するのであって、生まれつきの資質によるものではないというのが著者の主張である。

個性とか資質は、もともとあったものではなく、環境やコミュニティのなかで揉まれ、育まれ、蓄積されるものであるということ。

だから、個性を伸ばすとよく言うが、それは、はじめから個人のなかにあったものを発掘する行為ではないということだ。

この真理を、著者はさまざまな実例を挙げて証明して見せてくれる。

だから、この本を読むと、可能性が開けてくる気がする。

少なくとも、1万時間の練習量を経れば、だれでも(どんなに学力が低くても、覚えが悪くても、手先が器用でなくても、奥手でも)、1つの分野でマスターにはなれるのだ、と。

モーツァルトもビートルズも、ビル・ゲイツもスティーブ・ジョブズも、その時代と環境に加え、1万時間以上の練習を可能にする機会が与えられたから、そうなったということ。

要は、練習量ということだ。

もちろん、練習を面白いと感じられる才能があるか、練習を続けられる忍耐力もしくは集中力があるかどうか、は問われることになるのだが。

組織と個人の関係を再考するために「階層社会学」という新しい言葉を生み出した1冊。

著者のピーター博士は「階層社会において、すべての人は昇進を重ね、あらゆる組織は無能化する」と喝破した。

そして、組織にあっていつも創造的であるためには、昇進という誘惑を断って、適度な無能を演じるべきだと説いている。

※本書の第3章「大学時代、格好いい先輩の本棚で出合った、人生を変える1冊」の項で詳しく触れています。

自分のビジネスを振り返るために著者のクリス・アンダーソンは、『フリー』(NHK出版)や『ロングテール』(早川書房)のベストセラーでも名高い『ワイヤード』編集長。

近年、無人飛行機の製造キットを販売するオープンハードウェア会社「3Dロボティクス」を立ち上げ、数億ドル企業に成長させてもいる。

『MAKERS』は2012年に出版されたが、この本は「3Dプリンター」を広く日本に紹介したものだと思われている。

だが、この本の本質は、そんなものではない。

私は、産業界(あるいは広く世界といってもいい)と人材(広く人間といってもいい)の新しい関係性を示した本だととらえている。

ネットというものが世界と人間をどう変えていくかを示した予言書でもあるという意味だ。

端的にそれを示す部分があるので、少し長くなるが、引用する。

「もし、20年前にワイヤード誌の編集長が航空ロボティクスの会社を始めようとしたら、ティファナ出身の高卒の若者と組むことなどありえただろうか?(中略)いい学校を出ているからというだけで、知らない相手と組むほうがよっぽど危ないだろう。

(中略)ウェブのおかげで、人は教育や経歴にかかわらず、能力を証明することができる。

そして、こうした非公式の組織(筆者注:ネット上のコミュニティのことを指す)には地理的な制約がほとんどない。

才能ある人材はどこにいてもいいし、組織のために引っ越す必要もない」「フルネームはジョルディ・ムノス・バルデラス。

はじめて投稿したときは19歳だった。

(中略)今日、ジョルディはサンディエゴに最先端の工場を持つ(中略)3Dロボティクス社の最高経営責任者(CEO)だ。

いま現在、まだ24歳という若さである」「彼はアメリカ生まれではなく、英語もそれほど上手ではなく、学業優秀でもなかったが、インターネットにはアクセスできた。

好奇心とやる気のあるその若者は、史上最高の情報源を利用して、独学で世界最先端の航空ロボティクス専門家になった。

彼はただ自分の情熱に従っていただけだが、その過程で『グーグル博士号』ともいえる知識を身につけたのだった」ネットを使ったコミュニティが、縦横無尽に必要な人と機能を結びつけて「メイカーズ(生産者)」になれてしまう無限の可能性を示している。

アマゾン創業者ジェフ・ベゾス氏の実像に迫る、生い立ちから現在までを追った傑作ノンフィクション。

買い物や読書の習慣を大きく変えてしまったアマゾンだが、その「顧客第一主義」を貫く姿勢には驚嘆する。

※本書の第2章「読書で、著者の脳をつなげて未来を予測する」の項で詳しく触れています。

ちょっとしつこいくらい細かい描写が続き、途中で放り出そうとも思った。

が、我慢して読了すると、iMacからiPod、iBook、iPhone、iPadが決してスティーブ・ジョブズの作品ではなく、ジョナサン・アイブを中心とした(十分にオタクで「変わり者」ともいえる)チームの作品であることがわかる。

しかも、絵で描くだけのデザインではなく、どうつくるか、どうガラスと金属を独自の方法で組み合わせるかという生産技術に踏み込んで、工場の生産設備の設計までをコントロールするこだわりようだ。

さらに私にとっては、彼の父親がイギリスのある地方で校長を経て教育長になった人物だったことが興味深かった。

父親の方針によって「デザイン教育」「感性教育」を重視した教育政策が打たれ、その果実として、世界中に「スマホ」という新しい世界観を生み出した息子・ジョナサンが生み出されたという教育的な意味での読み方もできたからだ。

将来を予測するためにグーグル会長のエリック・シュミットによる初の著書。

2025年世界80億人がオンラインでつながる世界で、個人、社会、国家、戦争やテロはどうなるかが鮮明に描かれている。

※本書の第2章「読書で、著者の脳をつなげて未来を予測する」の項で詳しく触れています。

ちょっと読みにくい部分もあるのだが、私はこの本の著者であるピーター・ティールという人物が、いまアメリカの起業家集団(PayPalマフィア)の神様なのだと聞かされていた。

YouTube、テスラ・モーターズ、リンクトイン、スペースX……。

だれから聞いたかというと、和田中学校の出身で英国ボーディングスクールで学び、TEDでもプレゼンして、いまブレイク中の牧浦土雅くんである。

土雅くんは、20歳以下の天才的な活動をしている20人を毎年招聘しているピーター・ティールのセッションに史上初で日本からたった一人選ばれて参加した。

アップルの社長のティム・クックが懐刀にしている14歳の天才プログラマーなど、とんでもないヤツらが世界中から(しかも毎年20人ずつ)集められ、奨学金や起業資金を渡されているという。

セッションでは、この本のなかにも書いてある「世界に関する命題のうち、多くの人が真でないとしているが、君だけが真だと考えているものは何か?」を問いつめる。

起業家集団の神様・ピーター・ティールは「他の誰にもできない、あなたのミッションは何か?」を問う教祖なのだともいえる。

資本主義の次をイメージするために読者のなかで「マイクロクレジット」「ソーシャルビジネス」「ムハマド・ユヌス」の3つの単語が1つもピンとこない方はちょっとそれはヤバイですよ、と遠慮なく申し上げようと思う。

著者のユヌス氏は、2006年にノーベル平和賞を受賞したバングラデシュのグラミン銀行総裁。

社会起業家の範となる人物だ。

私がこの本を強く薦めたいのは、資本主義の次の可能性を示していると考えるからだ。

世は「好況、不況」と揺れているが、本書にも書いてきたように私には日本がすでに成熟社会に入り、発展途上国型の大量消費が終結するのだろうとみえる。

バラク・オバマ米大統領も「子どもじみた消費社会から、大人としての責任の時代へ」というメッセージを打ち出した。

米国も資本主義の先にあるものを模索しているのだ。

「世界は、貧しい人々は融資に値しないと信じさせられている。

私はこの仮定を変えることが、貧困問題を解決するために必要な第一歩であると確信するようになった」そこでユヌス氏は、バングラデシュで働く貧しい女性に、隣組的な連帯責任で小口融資する銀行を創設した。

これが「マイクロクレジット」である。

このネットワークは携帯電話の〝また貸しビジネス〟にも利用され、手工芸品の販売など、主に女性を自営業者として自立させるために貢献している。

「ソーシャルビジネスは、資本主義システムの失われた断片である。

その導入により、現在主流となっているビジネスの考え方の外に残された非常に大きな世界的問題に取り組む力が資本主義に備わり、そのシステムを救うかもしれない」著者はその好例として、グラミン銀行と世界的な食品メーカー・仏ダノンとの新しい食品開発プロジェクトを挙げる。

極貧の家庭でも手が届く価格で、栄養価の高いヨーグルトを、微生物によって分解される環境に優しい容器に入れて販売した。

この事業は利益を上げている。

しかし、投資家への配当はない。

すべての利益は開発と再生産に回される。

極めて現実的な予言の書だ。

ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)でも知られ、テレビ番組「ハーバード白熱教室」の「正義とは何か?」で日本中の大人の価値観を揺るがしたハーバード大学・サンデル教授の問いかけがタイトルになっている。

サンデル教授が問いかける「それをお金で買いますか」には、次のようなケースが採り上げられている。

1行列に並ばないファストトラックにお金を払う(1章)2お金を払ってサイを狩り、セイウチを撃つ(2章)3ネットで結婚式の挨拶(式辞)を買う(3章)4名誉を買う(3章)5カラダを広告スペースにして企業に売る(5章)そして、問いかけの背景は、サンデル教授の次の表現に端的に表れている。

「私たちは、あらゆるものがカネで取引される時代に生きている。

民間会社が戦争を請け負い、臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる」明らかに不道徳と思われるケースから、チャンスがあればけっこうやってしまうだろうなというケースまで、さまざまだ。

あくまで自分の道徳律(ドクトリン)に従っていいのだから判断はそれぞれだろう。

資本主義の原則からすれば、双方にメリットがあれば何でも売買していいということになるのだが、「ホントにそうか?」という疑問は、大人だけでなく、子どもとも考えたい課題である。

たとえば、ハンバーガー会社が「子どもたちのほっぺたを広告スペースとして貸してくれたら1日100円出しましょう」と言ってきたら、子どもはどう答えるだろう。

あるいは、テストの成績が上がるごとに小遣いを上げていくことはやっていいことなのだろうか?「1000円あったら買いたいものは?」「1万円あったら?」「10万円だったら?」と、子どもたちに聞いてみる。

そして、「じゃあ、お金で買えないものってある?」と質問する。

「愛」とか「友情」とか抽象的な言葉が発せられるかもしれないが、「愛や友情もお金で買える!って言ってる人もいるよ」とわざと指摘して混乱させてみる。

「勉強しなさい」という声がけではなく、食卓でこんなふうに既成概念を揺るがす「よのなか科」的なディベートをしてみるのも、時にはよいのでは。

サンデル教授の特別講座は、リクルートの人気サイト「受験サプリ」に未来の教育講座としてアップされた。

私の「よのなか科」がすでに51編公開されているが、非常に魅力的なオンライン講座なので、合わせてご覧いただきたい。

新しい働き方を編み出すために学校をつくるNGO誕生物語。

アメリカという社会の、英語圏のシステムの強みがよくわかる。

日本では、私が今年から全面的に支援することにしたAEFA(アジア教育友好協会)がこの10年間にベトナムとラオスに190校の学校をつくっているが、『えんぴつの約束』のアダム・ブラウンは、26歳からの数年間でアッという間に、同じことを成し遂げてしまっているのだ。

しかも、加速度的にその実積は上り調子。

運営のよさがどうかは確かめていないからわからないが、日本発のAEFAにとって、よきライバルになるだろう。

著者の税所篤快くんは、社会起業家の元祖でノーベル平和賞受賞ムハマド・ユヌス氏の弟子。

バングラデシュでビデオ授業を開発し、最貧地域の高校生を最難関ダッカ大学へ入学させた。

この本は、偏差値28の足立区の落ちこぼれだった著者が大学在学中にバングラデシュで起こした奇跡を描いた彼のデビュー作『前へ!前へ!前へ!』(木楽舎)の続編である。

前作は、農村地区の貧困層の高校生を動機づけて、バングラデシュの東大、ダッカ大学に合格させてしまうまでのドキュメント。

自分がかつてお世話になった東進ハイスクール方式を応用し、有名予備校講師の授業をビデオ撮影して受験勉強させた。

バングラデシュ版「ドラゴン桜」とも呼ばれ、今日まで語り継がれている(それから3年連続合格者を出し、国公立校に大量の合格者を増産したため現地では大騒ぎになっているようだ)。

その後、貧困だが志のある高校生を動機づけ、勇気づけ、ビデオによる教材を届けて、その国の一流大学(東大や京大にあたる大学)に受からせるミッションを彼のチームは五大陸で展開するようになるのだが……そこから先の詳しいことは、この本を読んでみてほしい。

なぜ、そんなことを日本人が仕掛けるのか?部外者がやらなくても、その国の文部科学政策で当たり前に取り組むべきじゃあないか。

そう読者が思うのは当然だ。

だから、私も彼とはじめて出会ったとき、それを確かめたいと思い、バングラデシュに入って、彼のやっていることを直接視察してきた。

まず、発展途上国の都市部の金持ちは、一般の銀行員の年収の何倍もかかる予備校に息子を通わせてトップの大学に入れる。

ところがその後留学すると往々にして祖国に帰って来ないという事情がある。

帰って来れば、今度は政府高官に据えようとするのだが、それでは国のシステムを知り抜いた強いリーダーが出てこない。

農村や漁村の現場がいかに貧困に苦しんでいるか、まったく知らないからだ。

だから、税所くんの取り組みは草の根から国を動かすイノベータを輩出する近道かもしれない、と現地も認めるわけだ。

ちょうど、明治維新を推し進めた日本のリーダーが貧しい農家出身の田舎侍だったように。

戦後東大を目指したのも、階層の一発逆転を狙う地方の志ある学生たちだったように。

著者の立花貴くんは、東日本大震災を機に、ビジネスマンから、宮城県石巻市雄勝町で新しい漁業や街づくりに取り組む事業家兼漁師に転身した。

『「最高の授業」を世界の果てまで届けよう』の著者・税所くんと立花くんには共通点がある。

カラダの内から沸き出るミッションに突き動かされて仕事をしていること。

決して自己犠牲ではなく、足りないことばかりの状況でも悲壮感はない。

むしろ楽しんでいること。

そして、そのことで仲間が集まってくること。

プラスの波動があるからだ。

じつは彼らだけでなく、いまバングラデシュと石巻には世界中から優秀な頭脳が集まり、貧困の解決や被災地の現実的復興にさまざまな知恵と力が噴出している。

なぜか?私は、どちらの世界にも巨大な欠落(ブラックホール)がある(あるいは起こった)ことで、エネルギーが渦巻き、情念が流れ込んでくるからだと考えている。

巨大な欠落は、私たち人間に知恵を出すことを要求する。

正解のないドラマが日常的に生み出される。

何より教育的であり、人がそこで起こる問題を試行錯誤するとき、だれよりも成長することが約束される。

だから、私は、石巻=バングラデシュの両方の頭文字をとって、両者を「IBリーグ」と名づけた(アメリカの「IVリーグ」ではない)。

どこよりも人が育成される場所として、大学に行くより成長でき、人脈もできる場所として。

立花くんは現在、雄勝の旧・桑浜小学校跡地を教育施設として再生するプロジェクトを手がけている。

クラウドファンディングで資金を集めて、2015年「MORIUMIUS(モリウミアス)」として開校した。

仕事と人生を見つめ直すために「自分のまわりに、まともな大人がいない」と思ったことはないだろうか?もし、そう思ったとしたら、あなたの感覚は間違っていない。

逆に、「こんな大人にはなりたくない」と思ったことのほうが多いかもしれない。

それもそのはず、現在はモデル不在の時代だからだ。

これからの時代を生きていく正解を示してくれるロールモデルが見あたらない。

ならば、自らで何らかの指針を持って生きていくしかないだろう。

そんな生き方の指針として、私はこの本のサブタイトル「今から始める戦略的人生計画」にもある「戦略」が人生には必要だと考えている。

では、どんな戦略か。

「40代から自分のテーマを掲げてビジョンを続々と形にすることが人生の醍醐味だ」40代で花を咲かせるためにはじっくり養分を吸収し、技術を蓄積し、必要な人脈とネットワークをつくっておくこと。

できれば、自由に動けるだけの経済的な基盤や家族との社会的ベースもつくっておきたい。

この本のタイトルにある「35歳」は、そんな人生のクライマックスの開幕戦を控え、そろそろ本気で準備にとりかかる必要があるだろう。

足りない要素があるのならば、早めにこの本でチェックしておこう。

また、本書でも繰り返し述べてきた「成長社会」から「成熟社会」に入って人生を支配する「ルール」が変わったことについて、私のこれまでの経験をもとに、本格的に解いた1冊でもある。

次に挙げる『坂の上の坂』よりも、より若い世代に読みやすいと評判の1冊。

司馬太郎さんの名作の1つに小説『坂の上の雲』(文春文庫)がある。

明治維新から日露戦争の時代の心意気を、見事に描いた作品で、多くの経営者からも座右の書として名前が挙がる。

大きな志を持って、新しい時代を生き抜く主人公たちの青春物語に惹きつけられるのだろう。

『坂の上の雲』の時代、人々の先にはロマンがあった。

夢があった。

そして、目の前の坂の上には、見上げる「雲」があった。

もちろん、現代にも、ロマンも、夢も、見上げる雲もある。

だが、日露戦争を戦った時代と大きく違うことがある。

それは、平均寿命だ。

日露戦争のころの平均寿命はいまの半分。

兵役を果たすなり、家業を継ぐなりして、夢中で仕事をしていたら隠居の時期を迎え、やがて死を迎えた。

言ってみれば、「雲」を眺めたまま走り続けていたら、余計なことを考える必要もなく、あっさりと人生をまっとうできたのだ。

いっぽう、現代ではどうか。

60歳から65歳で仕事をリタイヤしても、死ぬまでの時間は平均寿命を考えても20年、30年とまだまだ相当にある。

とすると、「坂の上」で待ち構えているのは「雲」ではなく、次の新たな「坂」ではないかと、私は思うようになった。

「坂の上のさらなる上り坂」は、ビートルズが歌った「ロング・アンド・ワインディング・ロード」かもしれない。

だが、その長くて曲がりくねった道を、楽しく歩いて行くこともできるはずだ。

この本では、そんな「坂の上の坂」を登るために必要な準備や心構え、50代からの30年間をどう過ごすのかを解説している。

まず「人生のエネルギーカーブ」を描いてみることで、複数の裾野を持つ複線的人生観の大切さを説いている。

その準備の如何で、ますます「上り調子になる人」と、惰性のまま下り続けて「落ち目」を迎える人の大きな差が出てしまう。

先行きが見えない時代に、老後に迫りくる「不安」という名の霞が晴れてくるロングセラー。

この本の文庫版には、経営コンサルタントの神田昌典氏、グロービス代表の堀義人氏から解説が寄せられたので紹介したい(以下、一部抜粋)。

「(この本を読むことで)世界の変化に振り回されるのではなく、自分自身が世界の変化となる──そういう静かなる決意が、耳を澄ませば、あなたの中で音を奏で始めているのである」(神田昌典)「今は、乱世に入った。

自分の頭で考え、正しいと思うことを果敢に行動に移し、適宜軌道修正しながら進んでいくことが必要になる。

それはまさに、藤原さんが本書で提案する生き方が現実的に必要になっていることにほかならない」(堀義人)

学校では教わらない現代史を学ぶ10冊教わらなかった戦争のことまず、基本図書として、3冊を挙げる。

私には学校で現代史をきちんと教わった記憶がない。

戦後生まれの世代はみなそうだろう。

「なぜ、どのようにして太平洋戦争が始まったのか」「なぜ日本人だけで300万人以上が亡くなり、広島、長崎に原爆が投下されるまで戦争を止められなかったのか」と子どもたちに問われても答えるすべがない。

ましてや、「戦前と戦後の天皇制の変化と天皇の役割は」などと外国人に質問されても、ほとんどの大人は口を閉ざすしかないだろう。

この本は、昭和史を学び直す格好の教材だ。

著者は『週刊文春』『文藝春秋』の編集長を歴任した歴史小説家。

『昭和史1926-1945』と『昭和史1945-1989』で約1200ページもあるのだが、授業のように語り起こしているので一気に読める。

なぜ昭和史を学校で教えないのか。

昭和6(1931)年に満州事変が起こり、たった5年で「2・26事件」、「日独防共協定」、「大日本帝国」の呼称決定、中国で「抗日民族統一戦線」が誕生し、戦争への流れが決定的になる。

一般に関東軍(陸軍)の暴走との理解がされ、海軍はみな反対だったかのような印象があるが、実際はそう単純ではない。

著者が明らかにするのは、同時多発的に進行する事実と、戦争遂行派が反対派を抑える人事の妙だ。

これを教科書と黒板で教えるのは難しい。

さらに解釈が分かれる部分も多く、入試で出題されにくいことも影響している。

入試に出ない歴史は学ばれないという悪循環だ。

実際に、日本史は中学、高校でも教えるが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代や、司馬太郎さんが描く幕末の坂本龍馬、西郷隆盛や『坂の上の雲』の登場人物のほうが面白いから、いつも現代史は3学期の最後で時間切れになる。

私の父は大正14(1925)年生まれで、海運会社の通信士として働いていて徴用された。

乗っていた船が魚雷で沈められたものの九死に一生を得る。

しかし父もまた語りたがらない。

戦後編でも、たった5年の間に今日の日本という国の形が決まったことに驚く。

通読して強く感じるのは、やはり「人事」が組織を動かし、世の中を動かしていくという事実である。

日本の自衛力、戦闘能力はいったいどれほどのものなのか?ジャーナリストの坂本衛氏が「自衛隊の実力は?」「日本国内でもテロは起きるか?」「北朝鮮の特殊部隊の実力は?」という素朴な質問を、事実とデータに基づいた解説で定評のある軍事アナリスト・小川和久氏にインタビューする形でまとめた本。

小川氏の経歴も面白い。

中学卒業後、陸上自衛隊に入隊。

同航空学校修了後、同志社大学神学部に入学し、中退後、軍事アナリストに。

冒頭にこうある。

「日本には十分な『戦争力』が備わっている。

(中略)日本がそれを行使できていないのは、日本国民が自分たちの力に気づいていない結果にほかならない。

その意味で、本書は『戦わずして勝つ』ための極意について、読者とともに考えようという試みでもある」なぜ、戦わずして勝たなければならないのか?自衛隊は、水泳だけが世界トップレベルで、あとはパッとしないトライアスロン選手のようなアンバランスな存在で、そもそも他国を侵略できる構造になっていないという。

ちなみに、ここで水泳に比喩されるほど世界最高水準なのは、海上自衛隊の対潜水艦戦能力と掃海能力。

両腕だけは筋トレで徹底的に鍛え上げてあるのに、下半身はまったく手つかずで細く弱々しい姿とも。

「侵略できる構造になっていない」事実を著者は次のように解説する。

仮に朝鮮半島を攻めるとすれば、50万人~100万人の陸軍を敵前上陸させなければならない。

そのためには制空権を取る必要があるから、3000機程度の戦闘機がいる。

数だけそろえてもダメで、システムを機能させるためには数十機のAWACS(空中警戒管制機)と空中給油機100機程度が必要だが、日本にはAWACSが4機、給油機が配備予定を含めて4機(当時)。

だから「本格的な海外派兵をしたり、戦力を投入して外国を占領できる構造を持つ軍事力ではありません」と結論づける。

米国にとっての日本の重要性についても歯切れがよい。

米軍が日本に置いている燃料は、米東海岸に次いで第2位の備蓄量の神奈川・鶴見をはじめ、第3位の長崎・佐世保、そして青森・八戸の3か所で1107万バレル(当時)。

これは第7艦隊を半年間戦闘行動させることができる量であり、仮にこれを海上自衛隊が使うと優に2年間は活動できる。

それほど重要なのだ。

右も左もない。

ノンポリを決め込むビジネスパーソンも憲法や自衛隊を感情論でなく語るために教養を磨こう。

バランスのとれた戦争本。

近現代史に疎い世代に必要な知識がコンパクトにまとめられている。

なぜ疎いのか?ここも同じ答えになるが、学校で教えられていないからである。

だから、この本を読むと、多くの読者が従来とは違った戦争観を持つに違いない。

少なくとも私には、次のような記述は新鮮だった。

「首相に就いた東條が、企画院に命じて行わせた必要物資の調査では、海軍省も軍令部もその正確な数字を教えなかった。

(中略)この会議での調査報告では、その当の石油の備蓄量は、『二年も持たない』との結論であった。

結局、それが、直接の開戦の理由となった。

しかし、実は、日本には石油はあったのだ」「『戦術』はあっても『戦略』はない。

これこそ太平洋戦争での日本の致命的な欠陥であった。

しかし、思うに『日露戦争』までの日本には、『戦略』がきちんとあった。

引き際を知り、軍部だけ暴走するようなこともなく、政治も一体となって機能していた。

国民から石を投げられてでも、講和を結びにいくような大局に立てる目を持つ指導者がいた」「このポツダム宣言に関して、一つ大きな問題が判明した。

(中略)鈴木(貫太郎首相)はあくまで〝判断を保留する〟という意味で『黙殺』という言葉を使ったのだが、海外では〝ignore〟、『意図的に無視する』という風に訳されてしまったのである。

(中略)トルーマン(米大統領)は、『これはチャンスだ』と思ったといわれている。

トルーマンは、もう原爆実験の段階で、日本に原爆を使うことを決めていたのだ」指導者のだれもが「なぜ戦っているのか?」という疑問を持たず、無為無策のまま戦争を続けていた、と著者は指摘する。

戦争の以前と以降とで、日本人の本質は何も変わっていないのではないか、とも。

「戦略」の欠如である。

教育の現場にいる私も思う。

創造性が大事だと言われて「ゆとり」教育が生まれた。

やっぱり基礎学力だと反論されて「読み書きソロバン」に揺れ戻る。

いったい、どんな日本人を戦略的に育てる気でいるのだろう?

日本はなぜ敗戦したのかさらに、「なぜ敗戦したのか」と「戦後史の謎」そして「天皇制」については、次の3つがポイントになる。

日本は太平洋戦争になぜ負けたのか?資源に圧倒的に差があった/石油でやられた/レーダー技術と原爆……では資源があったら勝てたのか?日本は、アメリカから独立/自立できているのか?できるのか?このことと憲法改正問題とは強く結びついている。

天皇制とは何なのか?なんだかわかっていないのに、なんとなくリスペクトしている不思議。

少なくとも小中高校を通じて、こういう大事なことを教えてくれる先生はいなかった。

この3つのテーマを、やさしく学べる良書に最近出合った。

なんと、昭和20年に廃墟広島で行なわれた公演の記録なのだが、ジャーナリストの間では有名で、近年になって復刻された。

中味は100ページと短く、文章が語り言葉で平易で、文字通り「目からウロコ」の内容だ。

当時は政治的に人材が枯渇していた端境期であったことなど、「ああ、そうだったのか!」と。

だまされたと思ってぜひ読んでみてほしい。

1時間~2時間で読めると思う。

元外務省国際情報局長が最大のタブー「米国からの圧力」を軸に戦後70年を読み解くという意欲的な著作。

高校生向けの教科書を書くつもりだったというだけあって、本来だったら固い内容なのに、すらすら読める。

とくに敗戦後、占領軍が入って来たときのエピソード。

日本政府を抜きにして軍が直接統治するつもりだったことや、朝鮮戦争勃発までは日本の経済力を日本が支配したアジアの国々レベルにしなければならないと考え、工場を潰し生産力を奪っていったことなど、知っていたほうがよい事実が浮き彫りになる。

頭が混乱しながらも、通常日本人としてしっかり考えたことのないテーマを考える刺激が得られるはずだ。

研究書でも評論でもエッセイでもなく、小説なのがいい。

16歳のマリが転校先のアメリカで、取得単位が足りない危機に。

落第しないためには「天皇の戦争責任について」ディベートしなければならないという窮地に立たされる。

主人公マリの心象風景が独特のタッチで描かれるが、とくに宮崎駿監督の『もののけ姫』のファンには、森の王として登場する、あのニホンカモシカのような神の姿と「天皇」のイメージがかぶるかもしれない。

さらに戦争について理解を深める

「戦艦大和」と「宇宙戦艦ヤマト」「ゴジラ」「沈黙の艦隊」そして「艦隊これくしょん」の関係性から、戦後を読み解く痛快本!「戦争に関わる一切のものを否定し、自分を戦争の被害者、あるいはひそかな反戦家の立場に仕立てることによって、戦争との絶縁を図る風潮が戦後長い間(いや、いまでも)支配的なのはなぜか?」こうした疑問に軽快に答えてくれる。

それは太平洋戦争の最後にもし本土決戦になれば、「一億総特攻」を覚悟で戦うはずであった日本人が、大和の犠牲(海軍兵力の壊滅)や原爆という(陸戦の意味がなくなるような)大量破壊兵器の登場によって全面降伏となり、結果的に生き残った恥を隠蔽する意図だったというのだ。

その亡霊たちへのうしろめたさを「なかったことにする」ために、何度も「大和」の物語が擬人化されて登場するのだ、と。

アメリカ的なるものへのコンプレックスの裏返しが「宇宙戦艦ヤマト」での太平洋戦争のやり直しだったのだ、とも。

この本は、第10回本屋大賞を受賞した。

少なくとも近現代の戦争の原因は、ほぼ「石油」の利権を巡ってである。

一見、政治的対立や宗教戦争のように見えるイスラエルと中東諸国の紛争も、イラク

戦争も、太平洋戦争も。

このノンフィクションノベルを小説のように楽しんで読むことで、そのことがよくわかる。

教科書よりはるかにわかりやすく、なぜ、太平洋戦争が起こったのかも。

その石油を武器に変えて世界と闘った男がいた。

出光興産の創業者・出光佐三だ。

『永遠の0』(講談社)とともに、百田尚樹の傑作。

合わせて読んでみてほしい。

戦場の現実を知るノンフィクションに近いコミック。

惨いが、見なければならないし、知らなければならない。

ありえる小説。

『愛と幻想のファシズム』(講談社文庫)、『希望の国のエクソダス』(文春文庫)の流れを受け、奇想天外さとリアリティを結びつけている。

社会全体に蔓延した「怒り」を集約した集団がもし、原発をターゲットにしたら……。

小中学生から高校生の子を持つ親に読んでほしい15冊底辺からの教育改革「何がしたいのかわからない…。

そんな若者たちが『熱血教師』に早変わり!」。

本の帯(初版)にはこう書かれている。

著者は、全米の優秀な大学卒業生を環境が劣悪な公立校に2年間の臨時教員として送り込む非営利組織「ティーチ・フォー・アメリカ(TFA)」の代表。

16年前、女子大生だった頃に一人で始めてから、今までに1万4000人を公立学校に派遣してきた。

予算が少なく教育が行き届かない底辺校の学力向上への貢献が高く評価されている。

TFAの〝卒業生〟の7割弱は、校長になったり、教育委員会で働いたりするなど、教育現場で活躍している。

新卒の就職先としても、TFAの人気は高い。

2007年に米国の「理想の就職先」ランキングでトップ10入りした。

新卒採用の数もマイクロソフト、P&Gといった米国の有力企業を上回る。

米グーグルや複数の投資銀行は、優秀な学生がTFAに集まることに注目して、「2年間TFAで教職を経験した後に入社できる」という共同採用を始めた。

では、日本でスタートした「ティーチ・フォー・ジャパン(TFJ)」の課題は何か。

まず教職資格を取らねばならないルールが邪魔をする。

米国のように校長の裁量では採用できない。

仮に非常勤の教師として採用したとしても、トップレベルの大学生が、それを望むのかが問題になる。

企業の安定性が、就職人気ランキングの順位を左右する日本ではハードルが高いかもしれない。

しかし公立中学の校長を経験した私は、もっと多くの小中学校が、大学生を補習ボランティアとして、長期的かつ組織的に活用すべきだと考える。

米国の社会起業家に詳しい渡邊奈々氏が巻末に寄せる言葉を引用したい。

「身の回りの社会の矛盾に気がついたとき、おそらく1000人のうち999人は、その矛盾を嘆き、不満を口にしながら生きつづける。

そして、たった1人が『こうすれば変えられるのではないか…』と、頭の中に描かれた解決のビジョンに向かって前進する」情熱と信念を持つ1人の人間の行動が、社会を変革する大きな力になる可能性は日本でも同じように存在する。

TFAにインスパイアされてTFJを創業した松田悠介くん(元・体育教師の社会起業家)にエールを送りたい。

子ども部屋に机は不要?あざといタイトルである。

第1章には開成中学校に合格したBくんの家、麻布中学校に合格したDくんの家、桜蔭中学校に合格したGさんの家の間取り図が並ぶ。

さては週刊誌がこぞって特集する中学受験ものの連載をタイミングよくまとめた本かと勘ぐって読んでみた。

「合格組の子供部屋の秘密一挙公開!」なんて、いかにもありそうではないか。

ところが違った。

すべての家族が注目すべき住居の本質が語られている本なのである。

住居の総合コンサルタントと研究者による共著。

200世帯に及ぶ子ども部屋を調査したうえで著者は強調する。

「有名中学受験に成功した子供たちのほとんどが、子供部屋の机で勉強をしていない」私自身『人生の教科書[家づくり]』(ちくま文庫)の著書があり、3人の子どもの成長を見据えて家を建てた経験を持つ。

また、中学校の「よのなか科」の授業で「子ども部屋は必要か?」を保護者やハウスメーカーを交えてディベートした経験もある。

だから、日本の家族が過度に欧米風個室主義の影響を受けて暮らしていることから目覚めるべきポイントが2つ、しっかり主張されていることに納得した。

1つ目は、本来日本の住居が持っていた「開放性」への回帰だ。

隣の和室で勉強する子どもとリビング空間とを屏風で隔てている家族。

視線は塞げられるが音は筒抜けでお互いの気配が感じられる。

子どもはちゃぶ台を利用して勉強しているという。

マンションに住むケースでは、ドアを閉めないルールにしている家族も登場する。

2つ目は、古民家でいえば囲炉裏の効用である。

家族が集うコミュニケーションの場としての卓球台を置き、友だちを呼んだときの卓球大会だけでなく、食事の場にも勉強机にもしている家。

同じようにリビングのテーブルを勉強机としながら、本棚もベッドも持ち込んでしまった子。

さながらリビングにキャンプする感覚だろう。

逆に、2人の子どもの共有部屋にちゃぶ台とテレビを持ち込んでリビング代わりにしている家族もいる。

勉強部屋に閉じ込めれば勉強する、は誤りだ。

コミュニケーションの復興は、教育界最大のテーマでもある。

もっとも、例示されている11のケースを読めば、中学受験にはやはり母親の影響力が大きいということを思い知らされる。

「頭のよい子が育つ家」というよりは、もっと広い意味で日本人の住生活の誤解を解く1冊。

「子が育つ家」ならば、親もまた育つ。

イマジネーションを広げるいま、認知症の親を介護されているすべての人、もしくは自分の物忘れがひどくなって、ボケを疑っているすべての人に……この漫画の威力を、体験してほしい。

そうか、認知症というのは、阿呆になることなのではなくて(そういうマイナス面だけでとらえるマスコミからの刷り込みが強いけれど)、過去と現在を自由に飛び交う能力を身につけることなのかもしれない。

私は、そう思うようになった。

もちろん、日々介護する側にはとんでもなく厳しい現実があるのだが、著者の岡野さんは介護した母親の脳内で起こっている現象を想像して、かつてないほどに優しい目線で漫画にしている。

玉手箱のなかには、子どもになった母や、子どものころの岡野さんの手を引く母や、とっくに死んだ酒乱の夫と再会して懐かしむ母がいる。

そうした過去の場面が入り乱れて「つながった」とんでもなく豊かな世界が広がっている。

まるで、瞬時に時間を超えて、過去のあらゆる場面をつなげる力が宿ったとでも言ったらいいのだろうか。

そういうふうにとらえてみると、私も自分自身の90歳になった父のあちこちの記憶が入り交じる話を、いちいち正そうという気にはならなくなった。

不思議である。

案外、父の脳内では、母が心配するのとは裏腹に、豊かな時間を過ごしているのかもしれないな、と。

真実を見つめるクラシック界を揺るがした佐村河内事件の全貌をあますところなく取材し、どうしてあのコンビが成立したのかの真相に迫る、第45回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。

著者は、以前から知っているルポライターのひとりだが、丁寧に足で稼ぐ取材に、前からの取材対象が被害者になる偶然も重なって、関係者でなければ描けないノンフィクションに仕上がっている。

あの佐村河内事件の真相が、痛いほどわかる。

マスコミにはあまり出なかった、とんでもないペテン師側の裏事情も。

私はこれを読んでから、あの「HIROSHIMAヒロシマ」という曲を聴き直した。

好きから仕事を選ぶ「やられた!」と思った。

中学生のための仕事の百科全書である。

リクルートという仕事の紹介を本業とする会社で四半世紀。

その後、公立中学校の校長に転身した。

この本は、私が取り組まなければならない仕事ではなかったか。

幻冬舎創立10周年記念事業とあったから、はじめは、何人ものデータマンが即席で整理したものを〝村上龍〟というブランドで売るのだろうと思った。

半ば悔しさもあった。

しかし、違った。

データマンも使ったとは思うが、2年半かけて村上氏が自分のわからない分野を取材し、著者として丁寧に仕上げている。

だから130万部を超えるヒットにつながった。

この本は花、動物、スポーツ、工作、テレビ、音楽、おしゃれ、料理と、さまざまな「好き」を入り口に514種類の職業を紹介したもの。

たとえば「花や植物が好き」な子の場合、プラントハンター、フラワーデザイナー、華道教授、樹木医、グリーンキーパー、植物園職員、ランドスケープアーキテクトと将来できる仕事の紹介が続く。

普通のお父さんが知らない職業も満載だ。

「〈いい学校を出て、いい会社に入れば安心〉という時代は終わりました」という殺し文句が帯に光ってもいるから、いい学校を出て、いい会社に勤めているお父さんにとっても、子どもに買って帰りたい1冊になったのだろう。

変わったところでは「舞妓・芸者」や「ストリッパー」もしっかりある。

「舞妓」については、こんなふうに書いてある。

「中学校に通いながら修業することも可能だ。

紹介先には保護者とともに出向き、それぞれのOKが出たら、置屋に住み込み、仕込みと呼ばれる修業を始める。

(中略)想像以上にハードな仕事なので、体が丈夫なことは必要不可欠だ」「作家」という仕事についての著者自身の表現も傑作。

「13歳から『作家になりたいんですが』と相談を持ちかけられたら、『作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、とりあえず今はほかのことに目を向けた方がいいですよ』とアドバイスすべきだろう」医師、教師、新聞記者、官僚、科学者、経営者、ギャンブラー、風俗嬢や元犯罪者で服役後に作家になった人など作家への道は多いが、その逆はほとんどないからだ。

私が校長を務めた東京都杉並区立和田中学校では、すべての教室にこの本を置いた。

だが漢字にルビは振っていないから、中学生には読みにくい。

息子や娘のためにと言いながら、父が自らの仕事と人生を省みて読む本でもあるのだろう。

不可能を可能にする本書は、NHKの人気番組「プロフェッショナル仕事の流儀」が生み出した本である。

番組では紹介しきれなかった「奇跡のリンゴ」の生みの親、青森の農家・木村秋則さんの素顔をノンフィクションライターの石川拓治氏が見事にまとめた。

表紙にも「絶対不可能を覆した農家」との文字が躍るが、どこが「奇跡」なのか。

番組ディレクターの柴田修平氏のまえがきにこうある。

「番組の冒頭は、東京・白金台のレストランのシーンで始まります。

半年先まで予約でいっぱいの、知る人ぞ知る隠れ家レストラン。

その看板メニューの1つが、『木村さんのリンゴのスープ』です。

シェフの井口久和さんが、リンゴを刻みながらつぶやきます。

『腐らないんですよね。

生産者の魂がこもっているのか……』」防腐剤ではない。

不可能と言われた完全無農薬。

自然のままのリンゴが、である。

「なぜ農薬も肥料も使わずにリンゴが実るのか、その科学的なメカニズムは明らかになっていません。

確かなことは、木村さんの雑草の生い茂った畑には、多くの虫が息づき、カエルが卵を生み、鳥がさえずる。

そこは本当に気持ちがいい場所です。

リンゴの木にとっても、きっと同じだと思うのです」ここまでに至る木村さんの壮絶な試行錯誤にはあえて触れず、1か所だけ切り取ってみる。

リンゴの木を荒らす害虫との戦いに疲れきった木村さんが、リンゴ箱を軽トラックの荷台にくくりつける縄を手に、山を登っていくシーンがある。

「弘前の夜景が、随分奇麗だったな。

なんで弘前ってこんなに奇麗なのかなって思った。

7月の31日だから、下界ではちょうどねぷた祭りの前の晩だ。

(中略)思い残すことなんて何もない。

何日も風呂に入っていなくて、久しぶりに風呂に入った時のように、さっぱりした気分で岩木山を登っていったんだ」この本の「あとがき」では、こう評されている。

「木村さんのリンゴは、『リンゴ本来』の味がする。

(中略)まるで『味の彫刻品』のような感触が残る。

(中略)薬漬けの無菌状態で、栄養剤を補給されている。

それは、私たち文明人自身の姿ではないのか。

木村さんが発見した『リンゴ本来の力』を引き出すノウハウは、私たちの生き方にも真っすぐにつながる。

果たして、私たちは自らの内なる生命力をよみがえらせることができるのか?」いま、何らかの理由で窮地に立つ人に、この「ニュートンよりもライト兄弟よりも、偉大な奇跡を成し遂げた男の物語」を手に取ってもらいたい。

異色の人生指南書200万部を超えたベストセラー『夢をかなえるゾウ』(飛鳥新社)にも匹敵するほど「幸福と成功」の技術を優しく指南してくれる本である。

「ゾウ」は関西弁を話すインドの神様という奇想天外な設定であったが、こちらは悩める若者に手紙を書くことを生業としている地味な手紙屋。

しかし、両者は、どことなく頼りない男の子が教えによって成長していく「育てゲー(ゲーム用語で『たまごっち』などの育成シミュレーションのこと)」仕立てという点で共通している。

著者は塾の先生だ。

私は35歳でメディアファクトリーという出版社の創業に関わってから、ベストセラーとなった「幸福と成功」の指南本にはたいてい目を通してきた。

そのなかでも『手紙屋』は異色だ。

次の2つの教えにこの本の特徴が出る。

まず、著者は(手紙屋はと言うべきか)、人間同士の交流はすべて「物々交換」だということに気づきなさいと諭している。

世界中のどこでも、私たちがほしいものを手に入れる方法は、それがモノであっても友情であっても「物々交換」であると。

「相手の持っているものの中で自分が欲しいものと、自分が持っているものの中で相手が欲しがるものとを、お互いがちょうどいいと思う量で交換している」だから、お金で何かを買う場合でも、それは「相手の持っているもののなかで自分が欲しいものと、自分が持っているもののなかで相手が欲しがる〝お金〟とを、お互いがちょうどいいと思う量に交換している」と言うことができる。

小中学生にも教えてあげたいほど、明瞭な取引の定義である。

次に私が気に入ったのは、人は与えられた「称号」通りの人間になろうとするから、あなたが他人に前向きな「称号」を与えると、それ自体が世の中への貢献になるということ。

「あなたのやっていることは、幕末の志士の誰々のようだ」とか「あなたは将来、こんなふうに大成するだろう」と、教え子や部下が勇気を持つような「たとえ」を使ってみる。

「相手にその称号を与え続けるだけで、あなたはその人の人生にとってなくてはならない存在になるのです。

そしてあなたの与える称号も、ほかの人にとっては物々交換の対象になるのだということを忘れてはいけません」部下を従えるマネジャーには、金言となるセリフだろう。

創造性を科学する脳が動きを止めたら「死」であるとされている。

にもかかわらず、普段、私たちはそれほど意識することがない。

無論、この「私」という意識も、新しいものを生み出す創造性も、この器官がつかさどる。

21世紀中には、すべての創造を支配する脳の機能が解明されて、私たちはかつて「神」と呼ばれていたものに近づくのだろうか。

養老孟司氏はこの本の帯にこう記す。

「創造性は現代の中心課題であるのに、なにか暗黙の前提になっていて、誰も考えようとはしなかったが、茂木さんは脳の側から本気でその第一歩を踏み出した」著者は脳科学者としてメディアでもよく登場し、「創造性」について次のように述べている。

「創造性の本質には、他者とのコミュニケーションが深く関わっている。

(中略)『独創性は個人にしか宿らない』と断言したアインシュタインにおいてさえ、妻や友人たちと議論を積み重ねることが、その創造のプロセスに不可欠だったのだ」創造は、個人の内部に起こると考えるより、コミュニケーションを通じて「他者との間に宿る」と考えたほうがよいと指摘する。

私たちが表現する行為を行なうとき、その表現を受けた他者からの反応が再び脳にフィードバックされる。

「私たちの脳のアーキテクチャーは、どうやら、外界へいったん出力して、それを感覚として入力することなしでは情報のループが閉じないようにできている」ビジネスで新しい動きをつくろうとするとき、会議の場だけではなくメールやSNSを介して議論を深めるのが有効であることには、もはや疑いの余地はないだろう。

自分の意見を受け止めた相手の考えが「」マークのついた自分の発言の引用とともに返ってきたとき、「ああ、自分はこういう発言をしたんだな」という素直な思いとともに「自分の発言にはこういう意味もあったのか!」とあらためて気づくこともある。

この積み重ねが脳を活性化させる。

創造性の高い組織づくりを目指す会社には、構成員個人に対する、とってつけたような創造型リーダーシップ研修より、他者との日常的な対話技術を重視したコミュニケーション研修をやったほうが有効だということにも気づかせてくれる。

私の古巣であるリクルートも、コミュニケーションの活性化を重視する会社だった。

「脳」という漢字の偏はカラダの部位を表す肉月。

つくりは、髪の毛の生えた頭部を指すという。

そう言われれば、どこか芸術的な顔に見えないこともない。

中学生だけのための本ではない私は「14歳」というのが人生の大事な転機だということを疑わない。

いつもそれを「〝子ども〟の終わりであり、〝大人〟の始まり」と表現している。

昔でいえば元服して結婚し、一人前に戦場に臨んだ。

15歳を過ぎれば、現代でも労働基準法で就労を許され、民法では氏の変更や遺言ができ、臓器のドナーになる権利が与えられている。

少年法でも、ご存じの通り、14歳から刑罰が適用されることになった。

この本は、中高生向けの哲学の教科書の体裁を取りつつ、「人は14歳以後、一度は考えておかなければならないことがある」と帯に警告している通り、ついうっかり大事なことを考えないでここまできてしまった大人たちに対して、思考回路を再起動させる鍵になるかもしれない。

高校時代に、つまらない教師から「倫理・社会」を教わってソクラテスとプラトンとアリストテレスがごっちゃになっている人も、大学時代、哲学の試験に備えてデカルトとカントとヘーゲルの思想の違いを丸暗記するのに辟易した人も、もう、そうした偉人の言説におびえることはない。

哲学本にありがちな大量の引用を排し、すべて、読者にとって身近なことから考え始める機会が与えられているからだ。

語り口も軽妙で、とっつきやすい。

「どうだろう、生きているということは素晴らしいと思っているだろうか。

それとも、つまらないと思っているだろうか。

あるいは、どちらなんだかよくわからない、なんとなく、これからどうなるのかなと思っている、多くはそんなところだろうか」イチロー選手や宇多田ヒカルさんを例に挙げながら、「自分とはだれか」「死をどう考えるか」「他人とは何か」「恋愛と性」「仕事と生活」「人生の意味」「存在の謎」と話を進める。

著者の主張は明快だ。

繰り返し次のように述べて「精神」の在り方の重要性を指摘する。

「精神が豊かであるということだけが、人生が豊かであるということの意味だからだ」「精神であるというまさにそのことにおいて、自分とは人類、人類の歴史そのものじゃないだろうか」「人が自分を精神であると、はっきり自覚するとき、そこには『内』も『外』もない壮大な眺めが開けることになるんだ」中学生が「すべては精神だ」ということに納得してくれるかどうかはともかくとして、まず疑い、自分自身で考えることから始めようという趣旨には十分賛同できる。

さて、ビジネスパーソンなら、まず「市場が悪いから売れない」を疑ってみる必要がありそうだ。

個人はお金を持っている。

いま売れないのは、精神的な充足を得られていないからではないか、と。

湯灌」というベンチャービジネス日常会話ではタブーになっている「逝っちゃってからのこと」を描いた本。

ただし「あの世」の話ではない。

この世とあの世の狭間で、私たちが受ける葬儀サービスのことだ。

著者は現役の「湯灌師」。

遺体を沐浴させて洗い清める仕事をするプロである。

もともとはテレビCMのプロダクションで制作を担当していたが、30代で独立後、バブル崩壊で倒産。

借金返済のため、49歳からこの仕事に就いた。

「湯灌」といっても聞き慣れないかもしれない。

仕事の段取りは、自然死のケースでは、ざっとこんな感じだ。

まず浴槽を喪家の部屋に運び込み、遺体を清めるため、遺族に逆さ水をかけてもらう。

爪切り、顔剃り、洗髪、洗顔をする。

温水で全身を洗い流し、拭き上げる。

着替えと旅化粧を施して安置する。

このプロセスを終えてはじめて「死体」は「ご遺体」になる。

著者の場合、「エンジェルメークアップ」と呼ばれる死化粧の仕事はパートナーとして妻が担っている。

4000体を洗い清めてきた著者が、その死の有り様から透かし見る社会への雑感が興味深い。

「私たちが扱うご遺体は、その約2割が自然死でないもの、いわば特殊事例に属する。

死因から見れば、事故死、自殺、殺人、行き倒れ、孤独死といったところだろうか。

外国人もこれに含まれる」「家人全員が先に眠ってしまい、最後に風呂に入った方が亡くなった場合は、どうしても発見が遅れ、姿が変わってしまう結果になる。

(中略)処置の第一は、水分の始末である。

遺体はたっぷりと水分を含んでいる。

まずは、新聞紙を使う。

遺体が崩れることのないよう、そっとくるむようにして全身に幾重にも巻き、水分を吸い取る」1946年、京都生まれの著者は、団塊の世代に「湯灌師」としての第2の人生を呼びかける。

この業界には、まだまだ人材が足りないらしい。

なんだかんだ言っても死体処理というのは特殊な仕事だ。

「しかし、だからこそベンチャービジネスとしてとらえてほしい。

第一に参入者がまだ少ない業界である。

第二に、設備はとりあえず車一台、パートナー一人で始められるのが良い。

第三に、葬儀業界ではいまは(湯灌サービスは)オプションだが、やがて定番として定着するはずである。

第四には、何より喪家に喜ばれる仕事なのだ」うなずける。

さすが元CMプランナー。

そうか、ベンチャーだったのか!

次世代に何を託すかこんな職業が本当にあるのだろうか、と読者は首を傾げるかもしれない。

著者は6歳から18歳までの4児の母なのだが、仕事として、生と死の両方のカウンセラーをやっている。

「バースセラピー」をやっていますと言われれば、マタニティーブルーという言葉を聞いたことのある人なら、出産前後のお母さんたちが精神的に不安定になるのを支えるセラピストかなと思うだろう。

ところが、著者の場合は、末期ガンの患者などの要望に応えて、臨終までそばにいて話を聴いたり、疎遠だった家族とのコミュニケーションの橋渡しをする役回りまで引き受ける。

欧米ではよく知られた「悲嘆ケア」という領域の仕事だ。

死にゆく人のカウンセリングまでをも「バースセラピー」というのは、生まれ変わりを信じての宗教的な施術なのかと思いきや、そうではなくて、残された家族や友人への生のバトンタッチという意味での〝再生〟だった。

「いのちの誕生と死。

どちらも両極端なところに存在しているのに、どこか、つながりがあることを感じています。

死は終わりではない。

死んだ後、私たち残された人に宿るあの『いのちのバトン』をどう説明したらいいのでしょう」この本には、その説明ではなく、業務日誌のような著者の体験が淡々と語られる。

たとえば、巨額の富を得ながら直腸ガンを患い、手術後にその転移を告げられたショックで自宅の押し入れに引きこもってしまった岡部さんのケース。

著者は説得するのではなく一緒になかに入って籠城してしまう道を選ぶ。

揚げ句の果てに、グーッと鳴ったおなかを見て「オマエも腹が減ったのか?」と、だれにも心を開かなかった岡部さんは著者をそば屋に誘うのだ。

日本のお年寄りは、平均すると1500万円の現金資産を抱えて死ぬらしい。

1年に70万人以上が亡くなっているから、その現金を自らの生のために使ったら、10兆円の経済効果が生まれる。

書籍情報誌『ダ・ヴィンチ』の創刊編集長だった友人、長薗安浩のデビュー作『祝福』(小学館)では、「年寄りが死なない国に生まれてくる子どもは、苦しいだけさ。

そんな国は、どうあがいたって破滅するよ」と主人公の長谷川に断じさせている。

救いは、この本が示す「バトンタッチ」にある。

引き際、渡し際、死に際、つまり出口の演出が、入り口よりも大事な時代になってきた。

団塊の世代にぜひ読んでもらいたい。

学校ではタブーになっている自殺をどう学ぶ、どう防ぐ1998年以来、年間3万人を超えている自殺者。

交通事故死の4倍以上、近年では15分間に1人の犠牲者が出ている勘定だ。

もはやタブーにはしておけない、ということで2006年6月「自殺対策基本法」も成立した。

この本は、国や企業、高齢者を抱えるすべての家族が対策を考えるのに必要なバランスの取れた知識を提供してくれる。

著者は国連の自殺予防ガイドラインの作成にも関わった精神科医だ。

高齢者を抱えるすべての家族と書いたが、じつは40代~50代の働き盛りの自殺者が急増している。

とくに中学生の父親の世代では、死因のトップは病死ではなく自殺死。

それゆえ、私は和田中学校3年の「よのなか科」の授業で、自殺志願者とそれを抑止する友人の会話を生徒がロールプレイする「自殺抑止シミュレーション」や、自殺は許されるかについてのディベートに取り組んだ。

中学の授業で自殺を取り上げるのは時期尚早という声も教育関係者から出るが、そんな寝ぼけたことを言っていられないことは、本書を読めばわかるだろう。

「武士の切腹などのイメージがあまりにも広く浸透してしまっているせいか、日本では覚悟のうえで自殺するといった先入観を多くの人が抱いている」「しかし、自殺は決して自由意思に基づいて選択された死ではなく、むしろ、ほとんどの場合、様々な問題を抱えた末の『強制された死』である」著者はこう指摘する。

「およそ10人に1人は一生のうちのある時期に、うつ病の診断に該当する状態になる。

うつ病は決して稀な病気ではない。

今では、うつ病を『心の風邪』と呼ぶことさえある。

しかし、『風邪は万病のもと』とも言われるように、心の風邪も放置しておくと、最悪の場合には『心の肺炎』になってしまい、命取りにもなりかねない」うつ病の兆候に気づくことが、本人や家族、あるいは会社にとっても、最も効果的なポイントだ。

副作用が少ない抗うつ剤も開発されているし、多様な心理療法も生み出され、うつ病の85%は治療に反応するというデータもある。

中学生に対しても、私は「14歳くらいでだれでも魂の揺らぎを体験する。

死にたいと考えたら、まず『うつ病』という病気かもしれないと疑え。

病気だったら1人で解決しようとしないで医者に行くでしょ」と教えている。

世界に目を転じると、毎年、約100万人が自らの手で命を絶っている。

殺人や戦争で亡くなる人の合計より多いのだ。

まさに、心の内戦である。

友だちって本当になくてはならないもの?子どもたちの「友だち力」が危ない、という危機感から書かれた本である。

著者である齋藤孝先生だけではなく、私をふくめ、日本中の大人が危惧している問題だ。

学校という日常では、とりわけ「いじめ」や「不登校」、「ひきこもり」などの現象として現れ、さらにはそれが社会人になってからの「ニート」や「失業」など、社会問題の根幹にまで影を落としているようにも見える。

では、「友だち力」とは何か、齋藤孝先生の定義を少し長いが引用しておく。

本の狙いが約1ページほどの文章に、よく表されているからだ。

「『友だち力』というのは、友だち関係の距離を自分でコントロールできる力です。

それは友だちを作る力とは少し違う。

時には、離れることもよしとします。

『いなくたっていいじゃないか』ということも含めて、友だちとの距離をコントロールできる力ということです。

「友だち何人できるかな」と言って作ろう作ろうとすれば疲れますし、自分の意思に反してグループに入らなければならなくなったり、そのことがきっかけで、第4章で取り上げた鹿川君事件のように仲間はずれにされ、いじめを受けたことを苦にして自殺してしまうといった悲劇を生むこともあります。

友だちというのは、あまり欲しい欲しいと思うとよくありません。

メル友が百人いるとか、二百人いるとか、何人いるか競い合い、それがプレッシャーになっていきます。

友だちというのは、そんなふうに数を数えなくてもいいものだし、いない時もあるのだと思えれば、楽な気持ちになれるでしょう」大人の読者にとっても、これだけで救われる思いがするのではなかろうか。

私自身、5年間、中学校で校長をやった間に、校長室に置いてあるマンガを読みに来る生徒と対話した。

また、部活で一緒にスポーツをした経験や、イジメが起こった後の生活指導から感じたのは、この「距離感」あるいは「人間関係の間合い」に戸惑う生徒たちの姿である。

昔のように、多くの兄妹関係のなかで揉まれているわけではないし、地域社会で異なる世代との交流が活発なわけでもない。

だから無理もない。

しかも、現代社会には、友だち同士の生の「距離感」を失わせるツールが蔓延ってしまっている。

いわずと知れた「ケータイ」と「テレビ」の影響だ。

ケータイは、アドレスを交換してメールをやりとりすれば、いつでもつながっていられるという幻想を子どもたちに持たせてしまう。

それが、本当の心の交流を伴うコミュニケーションでなくてもだ。

この本では、子どもたちのコミュニケーション技術を高める授業を紹介している。

たとえば、「偏愛マップ」。

二人一組になって、お互いに自分が「偏って愛しているもの」を紙に書き出し、語り合いながらコミュニケーションを深めていく。

ほかにも、全国の学校での実践を期待したいのは、第4章にある「いじめ自殺事件」を扱った授業である。

1986年に中野富士見中2年生の鹿川裕史君が、いじめを苦に自殺した事件では、その後の調査で「葬式ごっこ」に先生も加担してしまっていたことが発覚。

世間を震撼させた。

「いじめ」を扱うというと、多くの先生方は、どうしても道徳的に感情に訴え、「いじめは悪だ」と教条的に諭す授業を想像すると思う。

しかし、著者はその方法は採らない。

もちろん、当時の事件の概要を生徒たちに把握させるために新聞記事などを使うのだが、メインに使う教材は、事件の8年後、大学4年生になっていた同級生の証言。

元朝日新聞記者の豊田充さんのインタビューをまとめた書籍『「葬式ごっこ」八年後の証言』(風雅書房)のなかにある岡山君の「自分が弱い人間であることを知られるのが、死ぬほどいやだった」である。

たとえば、本人の遺書を読んで、あまりの悲惨さに涙させるだけだったら、それはあたかも水戸黄門の印籠のように、生徒を黙らせるだけだろう。

感情が支配する思考停止状態である。

では、どうしたら生徒たちの理性を刺激できるのか。

いじめた本人ではないが、止められなかったクラスメートの「八年後の証言」という教材の魅力が、生徒からさまざまな言葉を引き出してくれるのだ。

じつは、私が校長をしていた和田中は、中野富士見中から歩ける距離にある。

その縁もあって著者に許可をもらい、この本の一部をコピーして、授業スタイルを実践した。

ベテランの先生のなかには「そういう授業は寝た子を起こしてしまう」と惚けたことをおっしゃる方も多いのだが、私はいつも「寝ているのは先生のほうで、

子どもたちはとっくに目覚めちゃってるんですよ」と答えている。

この本を片手に、「友だちいないと不安だ症候群」や「いじめ自殺問題」にまっこうから取り組む先生や保護者が、一人でも多く現れてくれるとうれしい。

教育にまつわる迷信を科学する文字どおり「学力」を「経済学」しちゃった目からウロコの本。

「ご褒美で子どもを釣ってはいけないの?」「人生の成功に必要な勉強ってどんな勉強?」「少人数学級って効果あるの?」……思い込みや理想論・べき論・感情論で語られてきた教育論に、ついに科学的根拠(エビデンス)を引っさげて決着をつけようとする学者が現れた。

著者はあの竹中平蔵氏の弟子で日銀出身。

子どもたちが大人になったときの日本の生きる道息子・娘に地元にとどまってほしいと願うなら、その希望はこの産業の浮沈にかかっているかもしれない。

前作『イギリス人アナリスト日本の国宝を守る』(講談社)もよかったが、復活の秘策は「観光立国」にあり!!という主張がより明快だ。

200万人を集める京都でさえも外国人誘致に失敗していて、その数倍は集客できるという。

著者は京都在住。

創業300年の国宝・重要文化財の補修を手がける小西美術工藝社・代表取締役会長だ。

子どもといっしょに読みたい11冊世代を超えて読み継がれる絵本ロンドンに住んでいたとき、周囲とコミュニケーションがとれにくかった息子が、自分と主人公のこざるのジョージを同一視するかのように何度も読んでとせがんだ本。

『ろけっとこざる』では、一緒に住んでいる黄色い帽子のおじさんの留守中に、主人公のこざるがインクを床にこぼしてしまい、洗い流そうとして家中を水浸しにする事件から始まる。

水をかき出すためのポンプを運ぼうとして、間違って農家のブタを1匹残らず逃がしてしまったり、農夫に追いかけられて飛び乗った車が町の博物館に着くと、そこに迷い込んでダイナザウルスの展示物を壊してしまったり。

6冊あるシリーズのなかには、ほかに『ひとまねこざるびょういんへいく』や『たこをあげるひとまねこざる』などがあるが、いずれもチャップリンのドタバタ喜劇ばりの騒動が悪気のないこざるによって引き起こされる。

でも最後にはかならずメデタシめでたしで解決するというストーリーだ。

『ろけっとこざる』の最後は、博物館の館長ワイズマン博士に頼まれたこざるが宇宙ロケットに乗って〝うちゅうざる第一号〟の栄誉に浴する奇想天外な結末で終わる。

全編を流れる〝痛快さ〟が「ひとまねこざる」の身上だ。

「ひとまねこざる」のジョージは、黄色い帽子のおじさんがしゃべることや子どもたちのことはわかるけれど、言葉を話さないし、文字も読めない。

だから、意識はどんどん発達してきているのに、まだ言葉で表現する力が追いつかない4~5歳児を身をもって代表している。

そして普段はイタズラ心を起こしてもすぐに親に止められてしまう子どもたちの、ホントはやってみたい無邪気なイタズラを、ジョージは本のなかでどんどん実行してくれる。

「ひとまねこざる」は、ときに子ども自身であり、子どもの願望であり、そしてただ痛快なハチャメチャ喜劇でもある。

大人にとっては環境問題を考えさせる逸品。

バーバパパ・ファミリーは体の形を自在に変えることができる粘土やラバーのような体を持った家族だ。

お父さんのバーバパパとお母さんのバーバママのほか、順番は定かではないが、バーバモジャ、バーバピカリ、バーバベル、バーバリブ、バーバズー、バーバブラボー、バーバララの7人兄弟がいる。

彼らの家が小さくて住めなくなったので、町なかにある古い空き屋を自分たちで思い思いにリフォームして住んでいた。

ところが、この空き屋はすでに不動産業者に地上げされていたようで、〝かいじゅうみたいなきかい〟(クレーンやブルドーザー)があたりの古い町並みを片っぱしから壊し始めた。

「十階建ての団地ができますからそちらへ引っ越してください」と言われて住んでみるのだが、バーバパパたちは既成のマンションをどうにも好きになれない。

結局、郊外の丘の上にバーバパパの体を型にしてプラスチックで自分たちの家を建て、ブドウやイチゴを育てて平和に暮らしていたのだが、またしても〝かいじゅうみたいなきかい〟がやって来た。

バーバパパたちは友だちのフランソワとクロディーヌと一緒にプラスチック爆弾で対抗する。

そして最後に勝利を収め、ふたたび家族の平和を取り戻すというストーリーだ。

バーバパパ(うすいピンク)とバーバママ(ブラック)と兄妹たちのほかは、比較的淡い色で配色されている。

背景もホワイトスペースが活かされてベターッと色をぬっていないので、子どものイタズラ描きマインドがくすぐられる。

息子は余白にクレーンを描いたり、バーバパパたちの家を思い思いの色でぬったりして、この絵本でぬり絵を楽しんだ。

妻は嫌がっていたのだが、私は許した。

自分でも何かクリエイトしたくなるほど刺激があったのだろう。

そういうわけで、これからこの絵本を子どもに与える場合は、2冊買うか、あるいは古本屋でボロボロのでもいいからもう1冊手に入れて、1冊はぬり絵用に思いっきり落書きさせてはどうだろう。

読んでいる私が泣いてしまって、最後の1ページは読むに読めなくなってしまった本。

主人公のぼくと犬のエルフィーは生まれたときから一緒に大きくなった。

もちろんエルフィーのほうがずっと早く大きくなったのだけれど。

そしていつしか、ぼくは少年になり、エルフィーは年寄りになっていた。

老いてゆくエルフィーとともにぼくは暮らした。

階段も登れなくなると、かついでぼくの部屋に上がる。

そして寝る前にはかならず、「エルフィー、ずーっと、だいすきだよ」って言ってやる。

大げさに言えば、人間と犬の人生の時間差がこの物語の基盤になっている。

「エルフィー、ずーっと、だいすきだよ」ね、きっとわかってくれたよね、と年老いて太ったエルフィーに語りかけるシーンでは、主人公が幼いころにエルフィーと追いかけっこをした情景がそえられている。

読み手の私は不覚にもこのシーンで息づまってしまう。

次のページを開くと、ベッドの横で寝ていたエルフィーがもはや冷たくなっている。

でもぼくは毎晩エルフィーに「ずーっと、だいすきだよ」と言ってあげてたから、大丈夫。

お父さんや兄さんや妹は言ってやらなかったから。

次のシーンではエルフィーの死を乗り越えてゆく主人公の成長が、たった2ページで端的に描かれる。

隣の子が子犬をくれると言ったんだけど、エルフィーは気にしないってわかっていたけど、ぼくはいらない。

かわりにエルフィーの使っていたバスケット(かご)をその子にあげた。

一度この物語を読んでしまえば、主人公が太ったエルフィーの肩を抱いて座っている後ろ姿を、どうして表紙の絵に使ったのかがよくわかる。

ところどころに配されたスナップ写真のようなイラスト。

その温かな視線とエルフィーの表情に、犬のかわいさを知りつくした作家のセンスがにじんでいる。

犬好きにはたまらない1冊であることは言うまでもないが、なぜか私は、老人との同居や在宅介護の問題と重ね合わせて考えてもいる。

のねずみのぐりとぐらは、ある日大きなたまごが落ちているのを見つける。

二人はそれでカステラをつくることを思いつき、おいしく焼き上がってから森の仲間たちに振る舞う、というストーリーだ。

一見翻訳もののようなつくりだけれど、この本の作者は、大変ヒットした童話『いやいやえん』(福音館書店)を生み出した日本のコンビである。

私はこの絵本の秘密は、言葉のリズム感にあるのではないかと思う。

「ぼくらのなまえはぐりとぐらこのよでいちばんすきなのはおりょうりすることたべることぐりぐらぐりぐらうたいながら、やけるのをまっています」このシーンではよく、私の妻が勝手にメロディーをつけて歌いながら読んで聴かせていた。

料理という、お母さんが毎日繰り返している日常を題材にしていることが、いつもお母さんのたまご料理やホットケーキができるのを、いまかいまかと待っている子どもたちに、身近な感情を抱かせるのだろう。

実際、妻はキッチンで料理しながら、何度もこのメロディーを鼻歌のように口ずさんだ。

そういうときは、何かお手伝いして一緒につくってみたい息子も、ややはずれた音とリズムでついていく。

ぐりとぐらが砂糖や小麦粉を運んだリュックサックを自分も背負って、息子は、妻と一緒にぐりとぐらゴッコをしに近くの森に出かけることもあった。

同じように大きなたまごを見つけたふりをして、大きなフライパンでカステラを焼く真似をするだけなのだが、動物たちにカステラを振る舞うシーンでは異様に盛り上がった。

息子はこの本にも落書きしていて、まきを集めてかまどをつくったぐりとぐらの横に、1本のマッチとマッチ箱がボールペンで描かれている。

この絵本は何歳の子ども向きなのか、私は知らない。

題名通り、想定読者は「いちねんせい」かもしれない。

ところが、年齢など関わりなく、読むものと聴くものの双方を引きつける不思議なチカラがこの本にはある。

リズムだ。

詩人のリズムだ。

「あいしてるってどういうかんじ?いちばんだいじなぷらもをあげてつぎにだいじなきってもあげておまけにまんがもつけたいかんじ」(あいしてるより)「ぼくがちゃらめちゃらといったらあいつちょんびにゅるにゅるといったぼくござまりでべれけぶんといったらあいつそれから?といった」(わるくちより)息子はしばらく、〝ちょんびにゅるにゅる〟と〝がちゃらめちゃら〟のファンになり、意味もなく叫んでは笑い転げていた。

谷川さんは〝メチャクチャ言葉〟の天才だ。

子どもたちもメチャクチャ言葉の国際人だ。

「あさってきてってきてまっててってまっててあってってってあってつれてってって」(ってより)もう1つ、息子がどうしてもウンチをパンツにつけてしまうクセが直らなかったとき、妻が一緒につくった歌、〝パンツにウンチがついたとしても〟のテーマソングのもとになったのが次の詩だ。

息子は突然パンツを頭にかぶりながら階段を下りて来て、この詩をくちずさんだ。

「もしもあたまがおしりだったらぱんつはぼうしになるだろう」(もしもより)

「ここはさくらほいくえんです。

さくらほいくえんには、こわいものがふたつあります」と物語は始まる。

1つは押し入れだ。

子どもたちはおいたをすると、ごめんなさいとあやまるまでここに入れられる。

ある日、昼間の時間にワンパクな〝さとし〟とちょっと弱気な〝あきら〟が騒いでみんなに迷惑をかけたので、みずの先生に押し入れに入れられた。

あきらはすぐに泣きたくなってごめんなさいを言おうとしたのだが、さとしは先生が自分の話におかまいなしにお仕置きをしたことに腹を立て、じっと我慢を決め込んだ。

やがて真っ暗な押し入れの上下にへだてられたこの二人の間に、戦士の友情が芽生える。

さとしは、さっきあきらから奪ったミニカーを「さっきはごめんね。

これであそべよ」と返してあげる。

あきらはお返しに、ズボンのポケットにしまってあったミニ蒸気機関車を上の段にいるさとしに手渡す。

さあ、二人の冒険の始まりだ。

想像の世界のなかで、さとしは蒸気機関車の運転士になり、あきらはライトをつけて車を走らせるドライバーだ。

ところが押し入れの隅のベニヤ版の模様がいつしかトンネルに変わり、そこから見覚えのある〝ねずみばあさん〟が現れる。

「ふっふっふ。

わしのかわいいねずみたちが、おまえをたべたがっているぞ」「あーくん、にげよう」さとしはしっかりとあきらの手を握った。

よくディティールが描き込まれたモノクロの鉛筆画が中心なのだが、なぜか色が見えてくる。

全体で79ページのしっかりした本にカラーの挿画は5枚だけ。

これが二人の心象風景を見事に描き出していて、かえって印象的だ。

ちなみに、この本は現在までに(2015年7月23日時点)、なんと227刷になっているという。

この本をはじめ、絵本がいかに何世代にもわたって読み継がれているかが、よくわかる数字だ。

軽業師のそうべえが、医者と山伏と歯医者の三人とともにえん魔さまから地獄に送られる。

何といっても関西なまりの語り口が抜群におかしい。

「かるわざしのそうべえ。

おまえは、えええ……と……、そうじゃ。

はらはらするようなつなわたりをして、見るひとのいのちをちぢめたによって、じごくゆきじゃ」「そんなむちゃな。

それが、しょうばいやのに」「だまれ、だまれ。

おもえたち四にんは、じごくへおとしてやる。

あとのものは、じゃまくさい。

ごくらくへとおしてしまえ」「そんなあほな。

なんでわしらだけ、じごくへいかんならんね。

もういっぺん、かんがえなおしておくれやす」私はこれがすべて標準語だったら、どんなに味気ないだろうとふと考える。

「そんなばかな。

なんで、わたしたちだけ、じごくへいかなければらないのですか。

もういちど、かんがえなおしてくださいよ」この物語は上方落語の〝地獄八景亡者の戯れ〟を題材にしている。

いわば、たじまゆきひこさん版のダンテの〝神曲〟地獄篇なのだ。

麻の布に染色したような荒いタッチの絵には、にじんだ色をふち取る大胆な墨の黒がキリッとさえていて、大人にも圧倒的なインパクトがある。

幼稚園などで先生が読み始めると、それまでワーワー騒いでいたワンパクたちが一斉にシーンとなるという逸話がある。

うちの息子にかぎらず子どもたちは皆〝死んだらどうなる〟ということに非常に興味があるから、それもうなずける。

それにしても、地獄行きが決まったそうべえ以外の三人の職業が、宗教家と医者だというのも面白い。

昔からこの職業の方々は、人の命に対してかなりきわどい選択を迫られているからだろうか。

作者の松岡享子さんは、米国ボルチモア市や大阪市の図書館に勤務した経験のある方で、東京子ども図書館の理事長。

名作『とこちゃんはどこ』(福音館書店)の作者でもある。

絵は『はじめてのおつかい』(福音館書店)や『びゅんびゅんごまがまわったら』(童心社)でおなじみの林明子さん。

私は林さんの、木漏れ日を浴びたような、あるいは昔の裸電球で照らしたような、だいだい色っぽい温かな光の使い方が気に入っている。

しかしこの作品に関しては、あえて作者の発想のクリエイティビティーをたたえたい。

「ぼく、おふろだいすき。

おふろへはいるときは、いつも、あひるのプッカをつれていく」と始まるこの物語の主人公の〝ぼく〟には、はじめ固有名詞の名前がついていない。

だから読んであげる子にあわせて、ヤマちゃんとかミコちゃんとか勝手に当てはめればいい。

のちに、お母さんが湯かげんを聞くシーンで主人公は〝まこちゃん〟という名だとわかるのだが、最後まで自分の子の名前で通すのだ。

しばらくして、ぼくが体を洗っているとお湯にもぐったプッカが、「まこちゃん、おふろのそこに、おおきなかめがいますよ」と報告する。

それでまこちゃんのおふろが、ただのおふろではないことが判明する。

「ぼかっ、ざぁーっ。

おおきなかめが、ういてきた」ペンギンも来る。

オットセイもカバも来る。

しまいにはクジラまでが、まこちゃんのおふろにやって来る。

このおふろの底は太平洋につながっているに違いない。

そこで、みんな一緒に肩までつかって、数をかぞえてあったまる。

「よくあったまった?」とお母さんが顔を出したとたん、みんなお湯にもぐって隠れてしまった。

プッカだけ、隠れなかった。

子どもたちにとっては、自分ちにもある〝普通のおふろ〟でいつも起こっている話なのかもしれない。

「ずっとずっと、あめがじとじとふっていた。

『あめやまないかな、たまにはそとであそびたいよ』こいぬとこねこがいうと、ばばばあちゃんも、『ほんとだね、ばあちゃんもあそびにでたくてこまってるんだ』と、まどからそらをみあげた」なんで、〝ばあちゃん〟じゃなくて〝ばばばあちゃん〟なのかわからない。

さて、ばばばあちゃんはいったいどうしたでしょう。

ばばばあちゃんはまきを運んで来るとストーブに入れて火をつけた。

さらにいらなくなったスキー板や木の置き物やガラクタをわんさか持って来て暖炉で燃やした。

そしてぼんぼん燃えるストーブの火のなかにコショウをバサッ、ドサッと振りかけ、赤とうがらしの束をほうりこんだ。

ばばばあちゃんの家の煙突からは、からい煙が広がって空一面をおおっていく。

「ハックショーン」「ハックショーン」やがて、意地悪でどしゃ降りの雨を降らせていたカミナリ君たちも雲も、みんな地面の泥水のなかに落っこちて来た。

空はすっきり青空になった。

カミナリたちは、雲の洗濯をし洗濯ロープによく干してから修繕をする間、ばばばあちゃんの家に泊めてもらった。

全部終わるまで何日もかかったのだが、ばばばあちゃんも、子犬も、子猫も、絶対に手伝ってやらなかった。

カミナリたちがみんなで雲を干す最後の場面は圧巻だ。

やはり、ばばばあちゃんは、ただの〝ばあちゃん〟ではなく、〝ばばばあちゃん〟だったのだと納得してしまった。

「だるまちゃんがそとにあそびにいこうとしたらあめがふってきました。

かさをさしてでたらへんなものがおちてきました」「ちいさなかみなりちゃんがおちてきました」かみなりちゃんと落ちてきた変な丸いものが、大きな木の枝に引っかかってしまったので、だるまちゃんは自分の傘で突っついたり投げたりしてなんとか取ってあげようとする。

でもどうしても取れない。

そこへ、かみなりちゃんのお父さんのかみなりどんが、雲の自動車に乗って迎えに来た。

かみなりどんはかみなりちゃんの話を聞くと、お礼にだるまちゃんを雲に乗せて、かみなりちゃんの国に連れて行ってくれるのだ。

だるまちゃんは家でごちそうになってから、おみやげまでもらって帰って来た。

作者の加古里子さんは、ほかに『とこちゃんはどこ』や『地球』(福音館書店)を描いている。

紹介文には、工学博士、技術士とある。

私はこの、画家の絵にはない素朴さが好きだ。

かみなりちゃんの国のプールや町の様子、信号やアドバルーン、けんけん遊びの模様や輪投げの道具、そしてだるまちゃんが家に持って帰って来たおみやげまんじゅうにいたるまで、思わず笑ってしまうウイットがきいている。

これは本格的な科学の本だ。

〝ちきゅう〟というわかりにくい存在の実体を、子どもたちに(いや、大人の私たちもふくめて)感じさせてくれる。

身近な地面の浅いところの様子から始めて、〝地下〟の世界の存在に気づかせ、やがて海の底から火山のマグマの様子まで掘り下げて解き明かす。

最後は、地球全体の構造、太陽系の図、そして宇宙の銀河にまで話は進む。

はじめのページでは柴犬が土を掘っている。

そこから〝ふきのとう〟の根が出てくる。

駆けている男の子の足もとには〝はこべ〟の小さな花が咲き、その横で巣からはい出した〝くろやまあり〟たちがなにやら動き出した。

「あなたはじめんにはえているちいさなくさをひっぱってぬいたことがありますか。

ひきぬいたくさのさきにはつちのなかにかくれていたちいさなねがついていたことでしょう」小さな存在、身近な経験から解き明かしていくこの方法はじつに素晴らしい。

場面は見開き2ページごとに多面的に展開する。

山の野原に咲く花や植物の根の様子。

桜や松の大きな木の太い根っこ。

田舎のたんぼや畑、井戸や竹林や小川の様子。

これらがすべて地上の風景と地下の断面図の巧みな組み合わせで紹介される。

〝もんきちょう〟(5センチ)や〝むくどり(18センチ)〟や〝とかげ(20センチ)〟というような小さな動物や植物たちの姿には、すべてその名前と大きさが横にそえられている。

場面はさらに森の春、夏、秋、冬の様子と続き、やがて都会の様子に入る。

自分たちが暮らしているアパートの地下のコンクリートくいや汚水浄化槽と下水道の様子。

地下街やガソリンスタンド、高層ビルや地下鉄の様子。

さらに山々から水がどのように流れてきて海に注ぐのか。

その海の底はどうなっているのか。

山岳地帯ではどうか。

石油や石炭はどうやって掘られているか。

火山とマグマの様子や日本海溝の地震源、高校の地学か何かで習った覚えのあるモホロビチッチ不連続面まで。

子どもと一緒に「地球」という世界を旅することができる1冊だ。

藤原和博(ふじはらかずひろ)教育改革実践家。

元杉並区立和田中学校校長。

元リクルート社フェロー。

1955年東京生まれ。

1978年東京大学経済学部卒業後、株式会社リクルート入社。

東京営業統括部長、新規事業担当部長などを歴任。

メディアファクトリー(現・KADOKAWAグループ)の創業も手がける。

93年よりヨーロッパ駐在、96年同社フェローとなる。

2003年より5年間、東京都では義務教育初の民間校長として杉並区立和田中学校校長を務める。

08年~11年、橋下大阪府知事の特別顧問。

14年~佐賀県武雄市特別顧問、15年~奈良市教育政策アドバイザーに。

『人生の教科書[よのなかのルール]』『人生の教科書[人間関係]』など人生の教科書シリーズ、『中くらいの幸せはお金で買える』(いずれも筑摩書房)、『35歳の教科書』(幻冬舎)、『坂の上の坂』(ポプラ社)、『つなげる力』(文藝春秋)、『藤原和博の必ず食える1%の人になる方法』(東洋経済新報社)、『たった一度の人生を変える勉強をしよう』(朝日新聞出版)など、著書は累計124万部を超える。

『日経ビジネス』で8年間にわたって書評を執筆。

講演会は1000回、動員数20万人を超える人気講師としても活躍中。

詳しくは「よのなかnet」に。

よのなかネット
よのなかネット 2025年11月27日に70歳を迎えます。そこからの25年間の人生を革命的に変えていきます。人生100年時代は一つのスキルでは持たないし、一つの仕事で最後まで現役で居続けるこ...

 

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