第2章深くなる読書浅くなる読書何をどう読むか
一流の人の「認識力」を身につける
「深さ」を手に入れるには、深くその物事を捉える力、「認識力」が必要です。読書をすることで、著者の認識力も身につきます。認識力に差があれば、同じ情報でも受け取るものが大きく変わります。
同じ仕事をしている人が二人いるとしましょう。ベテランのAさんは、仕事の依頼内容を意図まで含めて正確に捉え、期待を上回る結果を出すことができます。
一方、初心者のBさんは、仕事の依頼内容を丁寧に見て把握しているつもりなのに、Aさんと同じ結果を出すことができません。経験の差というのは、単純に技術の差もありますが、認識力に差があることが多いものです。
Aさんが日ごろどのように考えて仕事に向かっているのか、情報をどう捉えているのかを聞くと、Bさんははっとします。
ベテランの認識を言語化してもらえれば、同じように認識しようとする努力が可能になります。一流の認識力の持ち主の本を読むと、私たちの認識力も磨かれていくのです。
剣豪・宮本武蔵の代表的な著作『五輪書』は、世界でも広く知られており評価が高い兵法書です。武蔵は「60回以上勝負をして負けなし」という剣術の達人ですが、強さの秘密は類いまれなる剛力や豪快さではありません。熟練工のように剣術を吟味し、工夫を重ね、最高の技を生み出していることです。
そして、剣術という具体的な技を追求することを通して、悟りの境地への筋道をつけているのがすごいところ。武蔵が外国人に人気があるのもこうしたことが理由でしょう。剣術で悟りの境地に至る、かっこいい日本人なのです。
『五輪書』は「地」「水」「火」「風」「空」の五巻からなります。「空の巻」に書かれているのが、武蔵が目指した境地です。
武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也。
(『五輪書』宮本武蔵/著岩波文庫)(武士の行なう道についてすべて心得ていて、心に迷いがなく、常に怠ることなく、「心」と「意」(意識)という二つの心を磨き、「観」(全体像を捉える大きな眼)と「見」という二つの眼を研ぎ澄ませて、少しも曇っていない、「迷いの雲」が晴れ渡った状態が本当の空である)日々の鍛錬によって、一切の迷いがなくなり、晴れ渡った青空のような境地に至ることを目指しているわけです。
剣術について記した「水の巻」には、心の持ち方、姿勢、目つき、剣の持ち方、振り方、足づかい、場に合わせた攻め方など非常に細かく具体的に書かれています。
姿勢一つにしても、「額にしわを寄せずに眉間にしわを寄せて、目玉が動かないようにして、瞬きをせず、目を細めて、鼻筋をまっすぐ、下あごを少し出す……」という具合。
こんなにも細部にわたって意識をめぐらせ、それを言語化しているのか、と驚かされます。命をかけて剣術を磨き、まさに達人の域に達した人の認識です。
武蔵のような一流の認識力を持った人の書いたものを読むと、私たちの認識力も深まっていくというものです。
深い認識はあらゆる分野でつながる能を大成した世阿弥の『風姿花伝』は、本来は秘密の書でした。観阿弥に教わったことを世阿弥が書き記したものですが、それは能という、その場限りの芸の極意を一族に伝えるため。
能の世界にも厳しい競争があり、自分たちの人気がなくなれば消えていくしかありません。時の将軍、足利義満に気に入られて庇護を受けていたけれども、それがいつ他のものにとって代わられるかわからない。世阿弥は、将軍や貴族はもちろん、観客である民衆の評判も意識していました。
それこそ文化と一族の運命を背負った人間が、命をかけて書いているような秘伝書なのです。「秘すれば花なり」は世阿弥の有名な言葉ですが、その意味するところは「すべて手の内を明かすのでなく、秘密にしておくこと。秘密にしておいて、ここぞのときに出せば観客を驚かせ、魅了することができる」。
観客はすぐに飽きてしまうものだから、常に新鮮な驚きを提供し、面白いと思ってもらえるよう工夫が必要です。これも、世阿弥が一族のため文化のために本気で書いていることを思うと、とても深い言葉だと感じられます。
テレビ通販でおなじみ、ジャパネットたかたの創業者田明さん(2015年まで社長)は世阿弥が大好きだそうです。
田さんが世阿弥に興味を持ったきっかけは、社員に「社長がいつも話していることと同じことがこの本に書いてあります」と世阿弥についての本を渡されたこと。
それまで能に触れたり『風姿花伝』を読んだりしたことがあるわけではないのに、同じことを言っているというのは興味深いですね。能と通販では全然違うようですが、「認識の深さ」においては通じるところがあるのでしょう。
田さんが世阿弥の教えで最も感じ入ったのは「自己更新の考え方」だと言います。常に自分を成長させていく心構えです。象徴的な言葉の一つは、「初心忘るべからず」です。
誰もが知っている言葉ですが、世阿弥の意図している内容は現代のそれとは少し違います。「初心忘るべからず」の「初心」とは、芸の未熟さのことです。
自分が未熟であることを忘れず、常に自分を戒めなければ成長しないという意味が込められています。『花鏡』の中では、さらに3つの初心について書かれています。
「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」入門したばかりの頃に感じる「是非=良い・悪い」の初心、経験を重ねる中でその時に合った演じ方を行なううえでの初心、そして老年を迎えてはじめて挑戦できる芸への初心。
物事をはじめてから、経験を積む中でも常にその時々の挑戦があり、未熟さがあるということなのです。一流の認識力を持った人は、自分のやっていることにはまだまだ終わりがないと考えます。
普通の人が「ここまで到達したらいいだろう」「もう先は見えた」と思うところでも、認識力のある人ほど、まだ挑戦すべきことがあると感じる。それだけ奥深さを認識しているのであり、だからこそ人生を楽しみ続けることもできます。
情報としての読書人格としての読書
読書には大きく分けて二つあります。情報としての読書と、人格としての読書です。
ノーベル物理学賞受賞で話題になった「重力波」について知りたいと思って、情報がコンパクトにまとまっている新書を読もうとするのは、情報としての読書。
中勘助の自伝的小説『銀の匙』を読み、自分の子ども時代と重ね合わせながら世界観を味わうのは人格としての読書。
情報としての読書の場合、著者が誰であるかはさほど重視しないこともあるでしょう。その人の世界観というより、事実を知りたいと思っているからです。ただ、情報と人格は、最終的にはあまり切り分けられません。
たとえばケプラーは、惑星が楕円の軌道で動いていることを発見しました。これは科学の歴史において、革命的とも言える重要な転換点です。
それまでは2000年にもわたって、「惑星の運動は完全な円を描いている」と信じられていました。円運動は神聖で完全なものであり、天上界の運動は完全な円であるはずだというアリストテレスの「自然観」が根強く残っていたのです。
しかし、その考え方ではどうしても計算が合わない。そこで、完全な円ではなくちょっとつぶれた形なのかも、と気づいたのです。そして「惑星は太陽を一つの焦点として楕円軌道を描く」というケプラーの法則にたどり着きました。
そこに至るには観測データと理論を突き合わせていくという科学的なことをしているわけですが、同時に、ケプラー自身は神秘主義的で古い感覚を持ち合わせていました。
占星術で生計を立てており、太陽を神聖視し、「宇宙の調和」という価値観を強く持っていたのです。「惑星の公転周期の2乗は、軌道長半径の3乗に比例する」というケプラーの第3法則も、実は神秘思想から出てきたものでした。
惑星の軌道と運動との間には、神秘的な調和が必ずあると信じ、それを発見しようとしたわけです。そんな背景を知ると、ケプラーの法則という科学的な情報にも深みが感じられるのではないでしょうか。歴史にしてもそうです。
私はフランスの歴史家ミシュレが大好きですが、たとえば『魔女』(岩波文庫)は、中世ヨーロッパで行なわれていた魔女裁判を、裁判記録に基づいて著した大変興味深い歴史書です。
それまで一般に歴史は男性が創り出すものとされ、男性の視点で書かれてきたところ、ミシュレは女性の側から歴史を描こうとしました。
魔女とは何なのか?それは中世の封建社会で疎外された人間でした。
特定の時代には、あれは魔女だというこの言葉が発せられただけで、憎悪のため、その憎悪の対象になった者は誰彼なしに殺されてしまったことに注意していただきたい。
女たちの嫉妬、男たちの貪欲、これらがじつにうってつけの武器を手に入れるわけだ。どこそこの女が金持ちだって?……魔女だ。──どこそこの女がきれいだって?……魔女だ。(『魔女』ミシュレ/著篠田浩一郎/訳岩波文庫)
ただ、魔女は常に犠牲者であったわけではありません。
ローマ教会、王による支配、あらゆる権力に対する反抗者となった人もいました。魔女は中世ヨーロッパ史の裏の立役者でもあったのです。
オルレアン包囲戦にて前線に立ち、長い間続いた戦争で苦しむフランスの民衆たちを救ったジャンヌ・ダルクも魔女。
最後は火あぶりの刑に処せられています。『魔女』は中世ヨーロッパの歴史書であると同時に、ミシュレの透徹した目で描かれた文学でもあります。史実自体は人格と一見関係ないように見えます。
でも、それを捉える目というものは著者の人格です。人格があって、科学的発見がある。人格があって、歴史の捉え方がある。そう考えると、情報にも深みが感じられるはずです。
どんな情報も、誰かがそれを成したわけであり、そこに人格があります。ですから、情報としての読書であっても、情報と人間の営みとを一緒に理解しようとすれば、おのずと深まっていくのです。
物語で身につく「映像化」する力
読書をしているときの脳の働きは、とても精妙で複雑です。文字をたどって意味内容を理解し、感情を理解して味わい、描かれた風景や人物の姿、声などさまざまなものを想像しています。
目の前の現実ではなく、想像によってわくわくしたり感動したりできるのは人間だからこそ。言語自体が人間的であるうえに、想像で感情を動かす読書は極めて人間的な行為だと言えます。
文字を目で追うだけでなく、耳で聴くのも同じように脳を鍛えてくれます。昔はよくラジオで朗読番組が放送されていました。
1939年にはじまった、徳川夢声さんによる『宮本武蔵』(吉川英治/著)は、当時大変な人気を博し、その後何度も再放送された伝説のラジオドラマです。たとえば武蔵が佐々木小次郎と決闘する「巌流島の戦い」の名シーン。
「いざ来いっ、武蔵!」いい放った言葉の下に、巌流は、鐺を背へ高く上げて、小脇に持っていた太刀物干竿を、ぱっと抜き放つと一緒に、左の手に残った刀の鞘を、浪間へ、投げ捨てた。
「小次郎っ。負けたり!」「なにっ」「きょうの試合は、すでに勝負があった。汝の負けとみえたぞ」「だまれっ。なにをもって」「勝つ身であれば、なんで鞘を投げ捨てむ。──鞘は、汝の天命を投げ捨てた」「うぬ。たわ言を」「惜しや、小次郎、散るか。はや散るをいそぐかっ」「こ、来いッ」「──おおっ」武蔵の足から、水音が起った。巌流もひと足、浅瀬へざぶと踏みこんで、物干竿をふりかぶり、武蔵の真っ向へ──と構えた。が、武蔵は。一条の白い泡つぶを水面へ斜めに描いて、ザ、ザ、ザと潮を蹴上げながら、巌流の立っている左手の岸へ駈け上がっていた。(『宮本武蔵』⦅吉川英治/著講談社⦆より徳川夢声朗読に合わせて一部改変)
ラジオですから、言語を聞いているだけの状態です。
でも、映像がありありと思い浮かぶ。鋭い眼光や緊迫した表情、息遣いまで伝わってくるようで、手に汗握って聞き入るのです。このときの脳は実はとても高度な働きをしています。
「波間」と聞けば、自分の記憶の中から合致する波間の映像を引っ張り出してきてイメージし、「左手の岸へ駆け上がる」と聞けば、武蔵と小次郎の位置関係をイメージして映像を構成する。
足りない部分は想像力で補っています。
さらには、登場人物に感情移入してドキドキしたり興奮したりするのです。同じように読み聞かせは自由にイメージを湧かすことができます。子どものいる方はぜひ本を読み聞かせてあげてください。
少しくらい難しい表現や、古い言い回しなどがあっても構いません。ポイントは情感を込めて読んであげることです。
子どもはまだ言葉を聞いてイメージすることに慣れていませんが、抑揚や感情ののり方を頼りに、頭の中で映像化できるようになるのです。
そういう意味で、アニメは素晴らしい文化ではありますが、イメージ力を鍛えるのにはあまり向いていません。アニメを見ながら別の映像を思い浮かべるのは難しいですし、そういうことは普通なかなかしないでしょう。
宮崎駿さんはインタビューの中で、「子どもが気に入って『となりのトトロ』を何十回も見ています」というお母さんに向けて「そんなことをしてはダメです」ということをおっしゃっていました。名作だからといって、子どもに繰り返し見せるものではないというのです。
ただ、基本的には、ビデオのスイッチをつけるということと絵本を開いて見るということは本質的に全く違う行為だと思います。
映像は、見ている見ていないに係わらず一定のスピードで送りだされる一方的な刺激ですが、絵本は、違います。
今のように子どもたちが、映像に頼れば頼るだけ、これからは現実の生活の中で、絵本を楽しむような時間が必要になってくるんじゃないですか。(『折り返し点』宮崎駿/著岩波書店)
これは子どもについての話ですが、大人にも通じる話です。
いま、頻繁にネットを見ているという人の中には、文字コンテンツを読むよりも映像を見ているほうが長い人もいるでしょう。
映像は、文字で説明されるより「一目瞭然」でわかる便利さがありますし、視覚・聴覚に訴える情報量が多い分、短時間でワールドに入っていけます。
ただ、それは同時に自分の頭をあまり使わなくてもいい、ということでもあります。想像力、イメージ力を駆使する必要が減るのです。
ですから大人も、映像に頼れば頼るほどに、本を読む時間が必要になると言えるのではないでしょうか。宮崎さんご自身はたくさんの本を読み、とても深い認識力を持っていらっしゃいます。
だからあんなに面白い作品をつくることができるのです。ですから、アニメは好きで見るけれど本は読まないというのでは、宮崎アニメの本当の深さに気づけないかもしれません。
「著者の目」で物事を見てみる円錐を上から見たら丸に見え、横から見れば三角に見えるように、視点が変われば見え方は変わります。
コミュニケーションにおいても、「相手の立場に立つ」「相手の視点で見る」とはよく言われることです。
しかし、概念としてわかっているつもりでも、なかなか自分の視点から抜け出せないもの。つい、「自分がこうなのだから、相手もこうだろう」と考えてしまいます。
読書は自分と異なる視点を手に入れるのに役立ちます。意識したいのは「著者の目」になることです。自分と違う見方だなぁと思っても、いったんは著者の目になったつもりで本を読む。著者の目で周りを見てみる。そうすることを繰り返すと、視点が重層的で多角的になります。一点に凝り固まるのでなく、厚みや深み、広がりのある視点を持つことができるのです。
たとえば日本に生まれ、日本で暮らしている人は外国人の価値観を理解するのが難しいことが往々にしてあります。歴史や文化的背景が全然違えば、価値観が異なるのは当然です。
海外の文学、思想書や歴史書を読むと、人類に共通の普遍性を感じるとともに、異なる視点もまた感じるのです。
アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』(講談社学術文庫ほか)や、ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』(角川ソフィア文庫ほか)のように、外国人の著者による日本文化論も視点を深めるのに役立ちます。
外から見て言語化してくれているからこそ、「異なる視点」が明確になります。また、井筒俊彦さんの『イスラーム文化──その根柢にあるもの』(岩波文庫)のように、日本人の研究者が外国の文化を解説したものは、わかりやすく、視点を深めてくれます。
世界史について言うと、日本は世界史への興味が最もある国だと思います。世界史を学ぼうと思ったら、古代文明からイスラム世界、ヨーロッパにアメリカと膨大な知識を必要とするのですが、日本の高校では必須科目。
どれだけ深くやっているかは置いておいて、とりあえず一通りは学ぼうとしているわけです。この極東の国が、世界を学ぶことに熱心であれば、世界の中でバランサーとして働くことができるのではないでしょうか。
私たちは西洋的な生活をしていますが、東洋的な考え方をベースに持っています。西洋第一主義、欧米中心主義では考えません。イスラムやインドについても偏っていない見方ができると思うのです。
「著者月間」をつくろう
では、読書でこのような深みを持つには、どのような読み方をすればよいか。「広く浅く」という言い方をしますが、一番いいのは「広く深く」です。「広く」と「深く」は両立します。
というか、ある程度広さがないと深みに到達するのは難しくなるのです。深さの要素には「つながり」があるからです。あることについて深く知っているとして、その知識はそれだけでは「点」です。
でも、一見関係ないような別の事柄について深く知ったとき、それぞれの点がつながることがあります。点がつながって面ができていきます。
そうなると、まったく新しい事柄についても、簡単に深く知ることができますし、すでに知っていた事柄もさらに深堀りできるようになるのです。
一つのことを深く知ろうとする中でも、興味が自然と枝分かれしていくので、勝手に広くなってしまうという面もあるでしょう。
教養のある人は、「広く深く」をやっています。
特定の著者のことが好きで、その人の本は深く読んでいるけれど、ほかの著者のことは全然知らない、というのではやはりどうしても浅くなってしまいます。
間口が狭い分深まりません。
好きな著者のワールドにどっぷりつかり、作品を続けて読んでいくのはとても楽しいものですが、それだけで終わらせてしまうのはちょっともったいないと言えます。
ですから、今月一人の著者にはまったら、翌月は別の著者にはまる。さらに次の月はまた別の著者というように、時期をずらして広げていくといいでしょう。「どっぷり」を移動させていくのです。
ちなみに、特定の人にハマったときに、別の人をけなす必要はありません。
「誰それのようなエリートより、ドロップアウト気味の太宰治のほうが好きだ」などと別の人を批判することによって好きな著者を持ち上げることには、たいして意味はないのです。
それより、今月は太宰治月間、翌月はまた別の著者月間というふうに、それぞれどっぷりハマるほうが得るものが多いでしょう。
一冊の本から、連綿と続く「精神文化」につながる私は、人間にとって最も重要なのは精神文化だと思っています。精神文化というと、道具や建造物などの「物質文化」と対比されますが、一人ひとりの心と対比することもできます。
心は誰にでもあります。私たちは誰でも、楽しい、嬉しい、悲しい、悔しいなど、さまざまな心の動きを日々感じています。それは基本的にはその人に固有のものです。
誰かが悲しいとき、自分がその人とまったく関わりがなければ悲しくはないでしょう。共感する立場になければ、その人の心はわかりません。一方、社会に共有されている精神というものがあります。それが精神文化です。
たとえば、インドの大多数の人たちにとってヒンズー教の精神文化は共有されていますし、日本の「武士道」はかつて武士たちの間に共有されていた精神文化です。
個人のものとは違います。一人ひとり固有の心が大切なのは言うまでもありませんが、個人の心だけにとらわれていては見失うものもあります。
私たちは誰しも一人で生きているのではありません。連綿と続く文化の中で生きています。ふだんなかなか意識しないかもしれませんが、根底にある精神文化を掘り起こし、感じることで強くなれます。
文化を共有している人たちとのつながりが感じられるのです。精神文化は、読書によって掘り起こすことができます。哲学や思想書はもちろん、文学も適しています。文豪たちは大量の本を読んでいます。川端康成、太宰治、谷崎潤一郎の読書量はハンパではありません。
大量の読書によって精神文化を背負い、それを文学の形にあらわしているのです。だから、谷崎潤一郎の本を1冊読むだけでも、その背景にある大量の本がガーッとなだれ込んでくるような感じです。
著者固有の視点というのはもちろんあるけれども、背景に精神文化が濃く流れているのです。
クラッとするのも含めて読書
ドストエフスキーを敬愛する作家は多くいます。村上春樹さんは「自分が作家であることがむなしくなってしまう」と言うほどのドストエフスキーファン。
ドストエフスキーのように、いろいろな世界観、視点をひとつの作品に詰め込んで組み合わせる「総合小説」を書きたいそうです。とくに『カラマーゾフの兄弟』は繰り返し読んでおり、最も影響を受けた本の一つに数えています。
文学の最高峰との呼び声が高い『カラマーゾフの兄弟』ですが、文字量もすごいうえに大変読みにくい。
父親であるフョードルとドミートリイ、イヴァン、アレクセイの3兄弟、使用人のスメルジャコフがカラマーゾフ家メンバーですが、ドミートリイの愛称はミーチャあるいはミーチカだし、イヴァンはワーニャ、ワーネチカ、アレクセイはアリョーシャ、リューシェチカと呼び方が多くて混乱します。
他にも婚約者や友達や長老など非常に多くの人物が登場し、それぞれの人物像や関係性など全体像を理解しなければなりません。そのうえで物語の筋を追う必要があるのです。
物語の主題として考えられるものも複数あり、「宗教小説」「思想小説」として読むこともできれば「推理小説」「裁判小説」「恋愛小説」などの要素もあります。クラッとしますね。
この「クラッ」も含めて読書です。繰り返しますが、深みとは総合的なものです。
『カラマーゾフの兄弟』のとてつもない深みは、一つのテーマや関係性に絞って単純化したものでは表現できないでしょう。
『カラマーゾフの兄弟』に限らず、深い作品はスイスイ読めるものではないと思います。1行ごとに考えてしまい、なかなか進めないこともあります。
「あとどのくらいあるんだろう……、まだまだ読み終わらないな」と何度も確認してしまうこともあるかもしれません。それも、読書なのです。クラッとするのも恐れずに、深みへ入っていく。
「来い、クラっ!」と敬意を込めて武士のような気持ちで構え、先に進んでいこうではありませんか。
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