第5章人格を深める本の読み方
偉大な人の器に触れる
読書は人格を深めるのにとても役立ちます。人間的に優れた人柄の人を「人格者」と言ったりしますが、知識、思考、感情、性格など統合した個人のあり方が人格です。人間性と言い換えることもできるでしょう。
孔子は人格的に優れていることを「仁」と言いました。そして、人格とは「学ぶことによって成熟させるもの」だと考えていました。
孔子自身、偉大な人格を持っていたから多くの人に慕われ、『論語』のような後世に伝わる書物も書かれたわけですが、「私は多くを学んで道理を知った者ではない。一つのことを貫く者だ(一以て之を貫く)」ということを言っています。
「仁」に代表されるような人格を身につけることを、一生かけて貫こうとしているだけだというのです。孔子の弟子たちは、孔子の人格に直に触れ、さぞや自らの人格を深めていけたことでしょう。
身近に人格者がいれば、その人のあり方から深く学びとることができるというものです。学ぶほどに人格を深めることができます。
孔子自身は自分の思想を書き残すことをしませんでしたが、弟子たちがやりとりを『論語』に残しました。現代を生きる私たちも、本を通じて孔子の人格に触れることができます。
孔子のような人格者かどうかは置いておくにしても、名著と言われるような作品を残した著者の器が大きいことは確かです。並外れたところがあるから、偉大な作品を残すことができたのです。
福沢諭吉は『学問のすすめ』という非常にいい本を残していますが、『福翁自伝』もとても面白い本です。もうあんなに面白い伝記を書くことはできないんじゃないかと思ってしまうくらいです。
それには明治維新前後という、変化の大きな特別な時代背景があります。そして、福沢諭吉自身の人格の大きさが魅力です。
大阪の適塾で学んでいた頃、一生懸命勉強したところでいい仕事につける見込みもないのですが、「こんなに難しいものを読む者はいないから、自分たちが読んでやろう」という気概でやっていたことが書かれています。
緒方の書生が幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めるということに思いも寄らぬので、しからば何のために苦学するかといえば一寸と説明はない。
前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかりで、既に巳に焼けに成っている。
ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実に訳けのわからぬ身の有様とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。
これを一言すれば───西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様なことが出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。
(『新訂福翁自伝』福沢諭吉/著富田正文/校訂岩波文庫)どうでしょう、この清々しい文章。
福沢のカラリと晴れた性格がよくわかりますね。「さっぱりしたいい人間性だなぁ」と思い、とても気分が良くなります。成功するために学ぶことの薄っぺらさよ。
何でも合理的に行動しようとし、お金に換算してしまうような考えを持つようでは、とうていこの大人物の深みに到達できません。福沢はカラリとした性格が魅力ですが、繊細さが魅力である人もいます。
たとえば詩人の中原中也。繊細さのスケールが大きいとでも言うのか、中也の詩を読むとやはりその人格の大きさに感動します。「汚れつちまつた悲しみに」はいまも人気の高い、代表的な作品です。
汚れつちまつた悲しみに汚れつちまつた悲しみに今日も小雪の降りかかる汚れつちまつた悲しみに今日も風さへ吹きすぎる汚れつちまつた悲しみはたとへば狐の革裘汚れつちまつた悲しみは小雪のかかつてちぢこまる汚れつちまつた悲しみはなにのぞむなくねがふなく汚れつちまつた悲しみは倦怠のうちに死を夢む汚れつちまつた悲しみにいたいたしくも怖気づき汚れつちまつた悲しみになすところもなく日は暮れる……(『中原中也詩集』中原中也/著大岡昇平/編岩波文庫)ここに出てくる「悲しみ」は、透明な美しい悲しみです。
そうでなければ汚れることができません。その美しい悲しみが汚れてしまったという悲しさもあります。さらにそのうえに白く美しい雪が降りかかってくる。
悲しみ一つをとってもこれだけ繊細に味わうというこの感性。自分のセンチメンタルなんて小さかったな、と思わされます。
詩人は、命がけでものに向かい、感じ取り、感動していて、「普通ならちょっと身が持たないな」というくらいです。詩は中也の存在そのものです。
私はEテレの「にほんごであそぼ」という番組で、金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」や「大漁」といった詩を取り上げていますが、これらの詩は子どもたちにもとても人気があります。
みすゞ自身はもう亡くなっていますが、言葉を通じてその感性と魂が生き続けているのです。これはすごいことです。
種田山頭火も人気があります。種田山頭火は、五・七・五の俳句ではなく、自身のリズム感で「自由律俳句」を作った人です。
「分け入つても分け入つても青い山」「まつすぐな道でさみしい」「どうしようもないわたしが歩いている」といった俳句が有名です。
こんな俳句をつくり続けたとは、おかしな人ですね。おかしな人ですが、放浪者として一流です。大きな人格を持っているのです。
だから、山頭火ワールドに触れると、小さな子どもも小さな子どもなりに心を動かされます。面白がったり、これが好きだと言ったりします。時代を超えて人の心を捉え続けるのです。
「時代を超えた普遍性」を読み解く
長く愛され、世界中で読まれているような文学は、一見特殊なことを書いているようでも必ず普遍性があります。
たとえばギリシャ悲劇の『オイディプス王』。いまから2500年近く前につくられた戯曲で、主人公が置かれた環境はいまとはまったく違います。
テーバイという国に男の子が産まれる際、「この男の子は父親を殺し、母親とまじわるだろう」という不吉な神託を受けたため、父親である王は息子を従者に捨てさせました。
捨てられた子は隣国のコリントス王夫妻に拾われ、オイディプスと名づけられました。立派に成長してから、オイディプスは実の父親が受けた神託とまったく同じものを受けます。
すなわち「お前は父親を殺し、母親とまじわるだろう」というものです。オイディプス自身は、実の父親がテーバイ国王であることを知りません。
育ての父親コリントス王を殺すようなことになってはいけないと国を離れることにしますが、道中で出会ったテーバイ王と行き違いから争いになり、相手が誰であるかも知らないまま殺してしまいます。
その後、オイディプスはテーバイに現れた怪物スフィンクスを倒し、新しい王として迎え入れられます。そして、未亡人となっていた王妃との間に子どもをもうけるのです。……と、ここまでが物語の前提。当時誰もが知っている神話です。
この神話を前提として、オイディプスが自らの出自を知って破滅していく物語が、ソポクレスによる『オイディプス王』です。
「テーバイの前王を殺害した者を見つけ出し、追放せよ」という神託を受けたオイディプスは、それが自分自身であることを知らずに、なんとしてでも見つけ出そうとします。
当然、自らを追い詰めることとなり、妻は自殺、オイディプスは目をつぶすことになるのです。オイディプスの人生は特殊かもしれません。
しかし、過酷な運命を生きるオイディプスの気持ちに共感することができます。だからこそ「ああ、なんという悲劇なのか」と胸を打つのでしょう。
のちにフロイトは、多くの人々の心を惹きつけ続けるこの物語から「エディプスコンプレックス」を提唱します。異性の親に対して愛着を持ち、同性の親に対して対抗心を感じる傾向をあらわした精神分析の用語ですね。
このギリシア悲劇の効果の拠り所は、運命と人間の意志との間の対立という点にあるのではない。
(中略)彼の運命がわれわれの心に響くのは、それがわれわれ自身の運命であったかもしれないからである。(「夢解釈」『フロイト全集4』新宮一成/訳岩波書店)
オイディプスの物語は個人的な特殊なものではなく、普遍的なものだというのです。
確かに、子どもが成長する過程で父親(同性の親)は最初の「敵」となる人でしょう。「父殺し」のモチーフは映画「スター・ウォーズ」もそうですし、古今東西の物語に繰り返し出てきます。
こういった時代を超えた普遍性が深みとなっていることがよくわかるのではないでしょうか。
自分だけの名言を見つける
自分が悩んでいるのは辛いものですが、他人の悩みは勉強になります。文学にはたいがい悩んでいる人が出てきます。
登場人物の悩みを知って「自分の悩みはまだ小さいものだ」と感じたり、悩みを乗り越える方法を知ったりすることも多いものです。
先日『YOUは何しに日本へ?』(テレビ東京)という番組を見ていたら、ロシア人の若い女性が日本に来た理由について「太宰治の『人間失格』に影響を受けたから」と話していました。
かつて孤独で生きづらさを抱えていた彼女は、『人間失格』に生きる勇気を与えられたそうです。時代も国も超えて、文学が生き方に影響した例ですね。
『人間失格』自体は孤独で辛い小説で、ストレートに生きる希望や勇気が湧いてくるといった種類のものではありません。しかし、いまも多くの若者に人気があります。
主人公の葉蔵は、「人間の営み」がわからず、自分一人が変わっているのではないかという不安と恐怖にさいなまれています。同時に、どうにかして人間らしい人間になりたい、人間を信じたいと思っています。
そんな葉蔵に自分を重ね合わせ、悩みに共感しながら読む人は多いのでしょう。そして、廃人のようになった葉蔵が最後にたどりついた「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます」という境地に救いのようなものを感じるかもしれません。同じ太宰治の『女生徒』という短編小説には、こんな言葉が出てきます。
明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。(「女生徒」『走れメロス』太宰治/著新潮文庫)
『人間失格』の葉蔵が太宰治自身に近い人物像であるのに対し、こちらは14歳の少女です。
それでも本当にこの少女がいるように思えるし、現代の女子高生も言いそうなことが書かれている。太宰治の懐の深さと言葉のうまさがよくわかる作品です。
さて、この女生徒はこの年頃の豊かな感受性で1日を綴っているのですが、その1日の終わりに布団に入る前に考えているのが「あすもまた~」です。
「幸福は一生、来ない」というのは悲観的なようでもありますが、幸不幸に一喜一憂せず、ありのままを受け入れて前進する力強さも感じます。
いま、将来にたいした変化を期待できず、同じ日の繰り返しのような毎日に閉塞感を持つ人は多いかもしれません。
日々の小さな幸せを感じないことはないけれど、劇的な変化や絵に描いたような幸福が訪れるとはなかなか思えない。それをいったん受け入れてしまうのです。
そのうえで、眠る前には「明日はきっと幸福が来る」と信じてみる。すると、清々しい気持ちで眠りにつくことができるのではないでしょうか。苦しくなったら、この言葉が支えになります。
言葉にはパワーがあります。だから、本を読んでぐっときたらその言葉を自分だけの名言としてとっておく。「マイ名言」は人生のさまざまな局面で助けになります。
だから、そんな「マイ名言」を見つけるつもりで本を読むのもいいでしょう。「これは」という言葉を見つけたら、声に出して読んだり手帳に書き込んだりして、しっかり自分のものにしてください。
人生の機微に触れる名著4
『オイディプス王』ソポクレス/著藤沢令夫/訳岩波文庫数多くのギリシャ悲劇の中でも最高傑作。
多くの人々を惹きつけ続けるこの作品には、無意識のレベルで普遍性があるに違いないと考えたフロイトが「エディプスコンプレックス」を発見、提示。
その後の文化・作品に大きく影響するという意味で古典性が増しました。
父殺しと母との再婚という普遍的タブーをそれと知らずに犯したオイディプスが、その真実を自ら暴くところが切ない。
運命から逃れようとするほどに、自らの首を絞め、がんじがらめになっていく悲劇は、運命の圧倒的な力と不条理さを突きつけます。
『人間失格』太宰治/著新潮文庫ほか太宰治は日本語がとてもうまく、本をあまり読んだことがない人も、引き込まれてしまいます。
そして、人間を深く描いています。
太宰の世界に一度はまれば、人間理解が一気に進むと言っても過言ではありません。
自殺の直前に書かれた『人間失格』は、太宰文学の総決算とでも言うべき作品。
薄い本ながらものすごく深い。
人間の営みから疎外され、人間に恐れをいだくと同時に、人間を愛し、信じたいと願っている主人公葉蔵の中に自分を見る人は現代にも多くいます。
普遍的な名作です。
古谷兎丸さんの漫画版『人間失格』は、イメージがぐいぐい迫ってくる最高のマンガ化です。
ぜひご一読を。
『こころ』夏目漱石/著新潮文庫ほかかつて読んだことのある人も、再読すれば必ずまた発見があります。
なおいっそう面白く感じるかもしれない。
漱石は登場人物をうまく深く描いていて、普通の人には到達できないレベルの頭を持っていたんだなと感じます。
繰り返し読む場合には、何かキーワードを意識して読むのも面白いでしょう。
たとえば「血潮」。
先生が私に対して「あなたは私の心臓を割って血潮を啜ろうとしている」と言う場面があったり、Kが自殺するときにも血潮が残っています。
「こころ」と「血潮」。
そうやって読んでみるとまた発見があるはずです。
『銀の匙』中勘助/著岩波文庫明治末期から大正時代にかけて中勘助が書いた自伝的小説であり、素晴らしい文学。
NHK「100分de名著」の特別授業を筑波大附属中学校の生徒たちと一緒に行なった際、私が取り上げたのはこれです。
中勘助が子どもの頃の話ですから明治時代のことですが、五感を使ってリアルに描いてあるのでイメージが広がります。
心の揺れ動きの描写も丁寧で細やか。
自分の子ども時代の体験と重ね合わせながら読んでいると、さまざまな感覚が蘇ってきます。
独特の感性、優れた言語感覚で表現されている文章もじっくり味わってほしい。
勝ち負けよりも生き方私たちはアメリカ式の資本主義に慣れてしまっているので、「成功したい」という欲求を自然のように感じています。
でも、文学の世界に浸ってみると、成功や勝ち負けなんてどうでもいい、というか、意味がわからないという感覚になるはずです。
文学とは経済的成功や勝ち負けとは違う次元で成立しているものだからです。
「生きる」ことの意味の深さを何とかつかまえようとしている、そういう営みなのです。
太宰治は素晴らしい短編小説をいくつも書いていますが、その中で『眉山』は私がとくに好きなもののひとつです。
「眉山」は、ある飲み屋で働く娘さんにつけられたあだ名です。
語り手である僕と仲間たちは、その飲み屋の常連ですが、しょっちゅう「眉山」の陰口を言っている。
幼少の頃からメシより小説が好きだという「眉山」は、小説家である僕と仲間たちに何かと絡んでくるのです。
しかも、この娘さんはピント外れの発言も多い。
文士たちは、「眉山がいるから行きつけを変えよう」と言いつつ、やはり同じ飲み屋に通っていたのですが、あるとき、僕は「眉山」が実は重い病気にかかっており、飲み屋をやめて実家に戻ったことを知ります。
もう長くないだろうというのです。
これまでさんざん無知だのうるさいのと言ってきた僕の口をついて出たのは「いい子でしたがね」という言葉でした。
小説の話を聞きたかったんだな、一生懸命給仕してくれたなと口々に言います。
そして、その日以降、その飲み屋には行かなくなった……という話です。
「眉山」の人生には、経済的成功や勝ち負けといった価値観は出てきません。
そして、「ああ、こういう人生の深みがあるのだよなぁ」と胸を打つのです。
誰が勝ち組で誰が負け組かという話をしたことがあるとすれば、それがいかに下品なことだったかと恥じ入るのではないでしょうか。
「勝ち組、負け組」という言葉は、10年ほど前はよく使われていました。
当時はそれなりにリアリティのある言葉だったのかもしれません。
しかし、流行当時であっても、文学に親しんでいる人であればそんな言葉を使うのはためらったはずです。
たとえ頭が良くて仕事で成功をおさめていたとしても、そういった浅い言葉をバンバン使う人は「残念な人」という感じがします。
教養に欠けていると疑わざるをえない。
これは重要な視点です。
お金を持っている人が偉いとか立派だというわけではないからです。
資本主義のゲームに勝つのはうまいかもしれませんが、それが偉いわけではないでしょう。
あえて勝たない道だってあります。
人が生きる意味を問いながら、その深みを掘っていくのが人生の醍醐味です。
生きていくうえで経済は重要ではありますが、当然ながらそれだけではありません。
聖書には「人はパンのみにて生くるものにあらず」という有名な言葉があります。
物質的な満足だけで生きているのではないということです。
では何が必要なのか。
人生の意味によって生きるのです。
意味を捉えようとする力を読書によって育むと、いろいろなものの深さがわかるようになってきます。
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