第6章人生を深める本の読み方
勝ち負けよりも生き方
私たちはアメリカ式の資本主義に慣れてしまっているので、「成功したい」という欲求を自然のように感じています。でも、文学の世界に浸ってみると、成功や勝ち負けなんてどうでもいい、というか、意味がわからないという感覚になるはずです。
文学とは経済的成功や勝ち負けとは違う次元で成立しているものだからです。「生きる」ことの意味の深さを何とかつかまえようとしている、そういう営みなのです。
太宰治は素晴らしい短編小説をいくつも書いていますが、その中で『眉山』は私がとくに好きなもののひとつです。「眉山」は、ある飲み屋で働く娘さんにつけられたあだ名です。語り手である僕と仲間たちは、その飲み屋の常連ですが、しょっちゅう「眉山」の陰口を言っている。
幼少の頃からメシより小説が好きだという「眉山」は、小説家である僕と仲間たちに何かと絡んでくるのです。しかも、この娘さんはピント外れの発言も多い。文士たちは、「眉山がいるから行きつけを変えよう」と言いつつ、やはり同じ飲み屋に通っていたのですが、あるとき、僕は「眉山」が実は重い病気にかかっており、飲み屋をやめて実家に戻ったことを知ります。もう長くないだろうというのです。
これまでさんざん無知だのうるさいのと言ってきた僕の口をついて出たのは「いい子でしたがね」という言葉でした。小説の話を聞きたかったんだな、一生懸命給仕してくれたなと口々に言います。そして、その日以降、その飲み屋には行かなくなった……という話です。
「眉山」の人生には、経済的成功や勝ち負けといった価値観は出てきません。そして、「ああ、こういう人生の深みがあるのだよなぁ」と胸を打つのです。誰が勝ち組で誰が負け組かという話をしたことがあるとすれば、それがいかに下品なことだったかと恥じ入るのではないでしょうか。
「勝ち組、負け組」という言葉は、10年ほど前はよく使われていました。当時はそれなりにリアリティのある言葉だったのかもしれません。しかし、流行当時であっても、文学に親しんでいる人であればそんな言葉を使うのはためらったはずです。
たとえ頭が良くて仕事で成功をおさめていたとしても、そういった浅い言葉をバンバン使う人は「残念な人」という感じがします。教養に欠けていると疑わざるをえない。これは重要な視点です。お金を持っている人が偉いとか立派だというわけではないからです。
資本主義のゲームに勝つのはうまいかもしれませんが、それが偉いわけではないでしょう。あえて勝たない道だってあります。人が生きる意味を問いながら、その深みを掘っていくのが人生の醍醐味です。
生きていくうえで経済は重要ではありますが、当然ながらそれだけではありません。聖書には「人はパンのみにて生くるものにあらず」という有名な言葉があります。
物質的な満足だけで生きているのではないということです。では何が必要なのか。人生の意味によって生きるのです。意味を捉えようとする力を読書によって育むと、いろいろなものの深さがわかるようになってきます。
生きるとは何か?ドストエフスキーやフランクルが出した答え
人生の意味を捉えようとすることからさらに深まっていくと、生きていることそのものの価値をしみじみと感じるようになります。
「自分にとって、人生の意味とは何か」「何を価値とするか」を考えるのはとても意義深いことですが、同時に、それを超えて「人生そのもの」が意味であり価値であると感じられるのです。
『カラマーゾフの兄弟』の中にも「人生の意味より、人生そのものを愛せ」という言葉が出てきます。何よりもまず、人生を愛すること。そうしてはじめて、意味も理解できると言います。
また、心理学者ヴィクトール・E・フランクルが強制収容所での体験を振り返って綴った『夜と霧』には、「私たちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」といった言葉が出てきます。
私たちは「生きる意味」が実態として存在しており、それを探すようなことをしてしまいがちですが、それではダメだとフランクルは言っています。逆に自分自身が問いかけられている対象なのだと気づかなければなりません。
精神的にも肉体的にも、想像を絶するような極限状態の中で、「生きていることに何も期待が持てない」と絶望してしまうのは想像に難くありません。
しかし、そのような状況でもサバイブできるのは「愛する者が自分を待っている」「大切な仕事が自分を待っている」と思える人たちでした。
フランクル自身も、ここから生還して、妻と再び暮らし、強制収容所の心理学について講演をするのだと考えていました。それぞれにかけがえのないものがあったのです。
このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。
まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
(『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル/著池田香代子/訳みすず書房)日本人は経済大国で暮らしながらも幸福度が低いと言われます。
人と比べて自分の能力が劣っているとか年収が低い、というように他人と比べて自己評価を下げてしまい、その結果、幸福感を感じにくい。
しかし、文学を読むと幸福そのものに対する認識が変わってきます。
「自分が幸せになりたい」と思うのは決して悪いことではありませんが、それだけでは浅い考え方だという気がしてくるはずです。
東洋のアイデンティティにつながる本書をお読みの人は日本人の方が多いと思うのですが、「私は日本人だ」と言う人も「私は東洋人である」とはあまり言いません。
東洋人かと聞かれれば、「まぁ、そうだ」と答えるでしょうが、わざわざ思わない。なぜなら、東洋の古典にも、東洋の精神文化にもなじんでいないからです。
仏教、ヨガ、瞑想などなじみはあっても、本質的な部分には触れていない場合、「自分は東洋人だ」というアイデンティティは持ちにくい。
「きれいになるヨガ」だったり「仕事の能率がアップする瞑想」のように言われて、ようやく取り入れるようなありさまです。
これに私は大きな違和感があります。最近注目を浴びている「マインドフルネス瞑想」は、本来の瞑想からヒントを得てそこから宗教色を取り除いたものです。
集中力やクリエイティブな発想力向上のためのトレーニングとしてアメリカでブームになりました。有名企業の社員研修やビジネススクールでも行なわれ、ビジネス上成果を生み出していると言われています。
もちろん瞑想のいい部分を取り入れること自体は悪いことではないのですが、もともとインドで到達した精神世界の深みが、アメリカでツールとして変質してからようやく日本に入って定着しつつあるというのが情けないような気がします。
東洋の精神文化になじんでいれば、こういった流れには違和感があるはずなのです。これはアイデンティティの問題にもつながる話です。
東洋の精神文化と自分自身が切り離されているとすれば、アイデンティティも確立しにくいでしょう。自分は何者なのか、どこから来たのか。それがまったくわからないと人は大きな不安を抱えたり、困難に立ち向かう力が湧きづらかったりします。
逆に言うと、インドや中国を含めた4000年もの歴史に流れる精神文化とつながることができると、強くなれるのです。東洋の精神文化をつくってきたブッダや孔子といった偉大な人を味方につけるようなものです。
東洋の古典と言えばまずは『論語』です。東アジア文化圏の歴史の中では、論語は一つの前提とでも言うべきものです。日本でも、江戸時代はとくに儒教が知的教養生活の中心であり、倫理観のもとになっていました。
そう考えると、『論語』を読んだことのない、孔子の言葉を知らない東洋人はいるのだろうかという気がしてきます。
孔子を始祖とする儒教と対をなすような思想が老荘思想です。孔子は人間関係や仕事を含め、現実の人生をいかに処すかを重視していました。そういった現実主義的な思想を批判し、「無為自然」を説いたのが老荘思想です。
人間は大いなる自然の一部なのだから、人為的なものから離れて何事もなさずに自然のままにするのがよいという考え方です。
これは「禅」や「浄土」という日本仏教にも大きく影響を与えていますし、広く東洋人の心に入り込んでいます。
「井の中の蛙大海を知らず」という有名な故事成語は荘子の言葉です。仏教も東洋の精神文化をつくってきた大きな柱ですから、仏典も必読の古典です。
そのものでなくても「ブッダの言葉」といったような本は多く出ています。少なくともそれを読んだことがあれば、東洋人のアイデンティティと自分を重ねることができるでしょう。
せっかく東洋に生まれたのです。東洋思想にきちんと触れないまま、表層的な部分だけ触れるというのではもったいない。自分のルーツを探る旅のような気分で、読書してみてほしいと思います。
一度きりの人生をいかに豊かにするか
人間、「人生は一度きり」で、当然ながら他の人の人生を生きることはできません。自分一人の経験には限りがあります。経験が少ないほど、「想像の及ばない」物事が多くなるもの。自分と環境がまったく違う他人の気持ちを想像するのも難しくなります。
しかし、本を通じて他人の人生を追体験することはできます。別の時代を生きた人、他の国を生きた人の人生も、臨場感を持って知ることができるのです。これはとても重要なことです。
他人の気持ちを想像して感情移入し、受け入れる経験となるからです。
人が人と関わりながら生きていくうえでは、他人の気持ちを理解して認め、受け入れることが必要とされます。それによって、自分自身が成長するし、人生を豊かにしていけるのです。
『ある明治人の記録』は、幕末の激動の時代を生きた会津藩士、柴五郎の少年時代からの記録です。柴五郎はのちに陸軍大将となった人です。
中国の「義和団事件」では駐在武官として活躍し、世界の称賛を浴びました。「タイムズ」にもその活躍が紹介されたことから、欧米で広く名前が知られた最初の日本人と言われています。その柴五郎の、苦難の少年時代。
『ある明治人の記録』に書かれているのは、幕末・明治維新のいわば「黒歴史」です。勝者側から描いた歴史とは違う現実です。
朝敵の汚名を着せられた会津藩は、薩長軍に攻められます。五郎が11歳のとき、いよいよ戦いのために父兄はみんな城へ向かいました。
家に残った男はまだ幼い五郎のみ。親戚に誘われ、泊まりがけで外に出ることになります。実はこのあと、祖母、母、姉妹は自刃するのです。
これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼をして、いそいそと立ち去りたり。ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。
(中略)わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。
まことに慙愧にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし。
(『ある明治人の記録会津人柴五郎の遺書』石光真人/編著中公新書)どんなに悔しく辛い気持ちだったことでしょう。
文章の端々から、このときの記憶を背負って生きる辛さがひしひしと伝わってきます。こんなにすさまじい時代、すさまじい人生が現実にあったのです。
文章にもとても力がありますから、ぜひ音読してみてほしいと思います。私はこの本を音読すると、涙が流れてしまいます。
人生を、自分だけで豊かに感じるのは実は難しいことです。自分がいまここに存在するのは、これまでの歴史の中でさまざまな人が生きてきたからです。
そんなさまざまな人生を知って、「人生そのものの豊かさ」を感じられるようになるはずです。
人生を深める名著6
『マクベス』シェイクスピア/著福田恆存/訳新潮文庫深い名言にあふれ、息もつかせぬ緊迫感で最後まで読ませる不朽の名作。
スコットランド武将のマクベスが、王になりたいという野心と王への忠誠で揺れ動いていたとき、夫人は激しい言葉でたきつけます。
「腰くだけ、そうして一生をだらだらとお過ごしになるおつもり?」。
いったん誓ったからには乳飲み子の「脳みそを抉りだしても見せましょう」という夫人のインパクトは強烈で魅力的。
このシーンを音読すると盛り上がります。
ぜひ役者気分で音読し、味わってください。
『ドン・キホーテ』セルバンテス/著牛島信明/訳岩波文庫タイトルは超有名ながら、読破した人は少ない名作です。
6分冊でも長くて大変なんていうことはまったくありません。
読み終わるのが惜しくて、もっとゆっくり読みたいと思うくらいです。
近代小説の祖と言われるこの作品、主人公は、騎士道物語を読みすぎて自分を騎士だと思い込んでいる男。
ドン・キホーテの意識と、周囲の人たちとの「意識のずれ」による摩擦が推進力となってどんどん物語が展開します。
ドン・キホーテとサンチョ・パンサのコンビは最高。
ボケとツッコミの究極の形であり、人に危害を加えず、むしろ喜びを与える「あこがれ名人」と、それを生かす友なのです。
『金閣寺』三島由紀夫/著新潮文庫ほか1950年の金閣寺放火事件を題材として、三島由紀夫が書いた傑作文学。
主人公は引っ込み思案で吃音があり、コンプレックスを抱えた青年僧。
金閣寺の美に魅せられ、葛藤の末、美への復讐と独占のために火を放つまでの心象を告白の形で描いています。
言葉の問題や美について、アンビバレントな感情などを深く描かれていて、とても面白い。
私は学生たちにこの作品を音読してもらうことがありますが、読み終わった人は「三島由紀夫は天才だ!」と言う人も多いです。
戦争でも焼かれなかった金閣寺が放火で焼けたというとんでもない事件も、この作品によって生きたと思うとさらに面白い。
『東京オリンピック』講談社/編講談社文芸文庫1964年の東京オリンピック。
三島由紀夫、大江健三郎、井上靖、遠藤周作、小林秀雄など名だたる文学者たちがこの世紀の祭典のシーンを切り取り、文章で表現しています。
たとえば「白い抒情詩」と題し、女子百メートル背泳を描く三島由紀夫。
4位に終わった田中選手が、競技後コースに戻りのびやかに泳いでいる姿を素晴らしくぜいたくな「孤独」として書く。
「この孤独は全く彼女一人のもので、もうだれの重荷もその肩にはかかっていない」。
この文章がなければ、誰の記憶にも残らなかったようなシーンが鮮やかに浮かび上がるのです。
たった2ページほどの文章でも、圧倒されるほど芸術的。
『詩のこころを読む』茨木のり子/著岩波ジュニア新書著者は「倚りかからず」や「自分の感受性くらい」という詩が有名な、詩人茨木のり子さん。
この本では、茨木さんが好きな詩をセレクトし、その魅力を情熱を込めて語っています。
たとえば谷川俊太郎の「かなしみ」、中原中也「羊の歌」。
茨木さんの豊かな感性と凛としたやさしい言葉で語られる、珠玉の詩。
ジュニア新書なので入門書としてとても読みやすく、詩人と詩の背景も教えてくれます。
気に入ったものはぜひ声に出して読んでみてください。
『辞世の歌』松村雄二/著和歌文学会/監修笠間書院「コレクション日本歌人選」というシリーズの中で、歌になじみのない人も手に取りやすく、ぐっとくるのがこれ。
豊臣秀吉、千利休、十返舎一九、吉田松陰など歴史上の人物たちの「辞世の歌」を集めた本です。
この世に別れを告げる際に、心のありようを歌に詠む「辞世の歌(句)」は、日本独特の文化。
短い言葉の中に、たとえようのない奥深さを感じます。
この本は解説もしっかりしていて、日本人が死とどう向き合ってきたかが描かれています。
多くの辞世の歌を眺めていると、日本人の精神史が読み取れる感じがします。
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