第三章仮説の方法による徳の探究ソクラテスそれでは、人は自分が知らないものについて探究すべきである、という点について意見が一致したので、さあ、どうか、徳とはいったい何か、ともに探究に着手しよう。
メノンはい、ぜひともそうしましょう。
けれども、ソクラテス、初めにあなたに質問したとおりに、わたしとしては徳が教えられるものとして徳そのものを手がけるべきなのか、それとも徳は生まれつき人間に備わっているのか、あるいはまた、他のどのようなしかたで、いつか或る時人間に備わるものなのかというあの問題こそ、自分でも第一に考えてみたいし、あなたからも何にもまして伺いたいと思うのです。
ソクラテスそうだな。
わたしが、メノン、自分自身だけでなくきみをも支配していたのなら、われわれは、「徳がそのものとして何であるか」を探究するより前に、徳が教えられるのかそれとも教えられないのかについて考えることを、しなかったことだろう。
しかしきみは、自分が「自由」であるために、きみ自身を支配しようとさえしていないのだ。
それで、そうしておきながらきみはわたしを支配しようとして、現に支配してしまっている。
そんなわけで、わたしはきみに譲歩することにしよう。
だってこれ以外に、どうしようもないのだから。
(註60へ戻る)そうすると、何であるかをわれわれがまだ知らないものに関して、それがどのようなものか、考察しなければならないらしいね。
それはまあよいとしても、とにかくきみのわたしに対するきわめて強力な支配力を、少しだけでいいから緩めてほしい。
そして徳そのものが教えられるか、それともそうでないのかどうか、「仮説」を立てて考察すること(55)を、わたしにゆるしてもらいたいのだ。
仮説を立ててというのは、幾何学者がしばしば考察に使用するような方法のことだ。
或る図形について、「この図形を、この円の中に[等しい面積の]三角形として内接(56)させることは可能なのか?」と幾何学者が質問をされたとしよう。
この場合幾何学者のなかには、こう答える人がいるだろう。
「この図形が、そのような条件を満たすかどうか、ぼくはまだ知らない。
しかし或る種の仮説(57)がこの問題にとっては、有用であると思う。
すなわち、もしもこの図形[多角形Xと等しい面積をもつもの]が、その図形[右側の円]の与えられた線[線分BH]に接して置かれたとき、置かれた図形そのもの[長方形ABCD]と相似の図形[長方形CHGD]分不足するという定まった条件を満たすならば、或る定まった帰結[三角形BDFとして内接可能という帰結]が生じるように思われる。
いっぽう、もしも逆にそのような条件を満たすことが不可能ならば、これとは別の定まった帰結[同様の内接は不可能という帰結]が生じるように思われる。
ゆえにぼくとしては、この図形の円への内接が可能か否かに関する帰結を、仮説を立てることによってきみに答えようと思うのだ」*ソクラテスおなじようにわれわれは、「徳が何であるか」も「徳がどのようなものであるか」も知らないので、仮説を立て、徳は教えられるか教えられないかについて、次のように言って考えてみよう(58)。
徳が魂に属するさまざまなもののうち、どのような性質のものであれば、教えられることになるだろうか、あるいは、教えられないことになるのだろうか?まずはじめに、もし徳が、いわゆる「知識」のごときものとは異なる性質なら、徳は教えられるだろうか、それともむしろ、教えられないのではないか?あるいは、先ほどわれわれが言った言い方で、「想起」されるようなものではないだろうか?ただ、われわれにとって「教えられる」と「想起される」のどちらの言い方を使おうが、ちがいはないので、「徳は教えられるのか?」のように問うことにしよう。
それとも、人間が教わるものは知識以外にないということなら、問うまでもなく、それは万人に明らかなことなのだろうか(59)?メノンええ、わたしには明らかなことのように思えますね。
ソクラテスそして、もしも徳が或る種の知識であるなら、それは明らかに、教えられるものだろう。
メノンはい、もちろんです。
ソクラテスしたがってわれわれは、もしこうであれば教えることができ、もしこうであれば教えられないという点については、早くも片付けてしまったのだね。
メノンはい、そのとおりです。
*ソクラテスそれでは、これらの次に、徳は知識なのか、それとも知識とは異なる性質のものかということを検討しなければならない、そう思えるね。
メノンええ、わたしにも、その点を次に考察すべきであるように思えます。
ソクラテスでは、どうだろうか?徳はそのものとしてよいものであるとわれわれは言うだろうか。
そして「徳そのものは、よいものである」というこの仮説(60)は、われわれにとってそのまま確かなものであるだろうか?(解説へ戻る)メノンはい、そうです。
ソクラテスそれでは、もしも知識と切り離された別のものであってもそれがなお「よいもの」であるとすれば、徳が或る種の知識である、ということにはならないかもしれない(61)。
いっぽう、もしも知識に含まれないようなよいものが何もないとすれば、徳そのものは或る種の知識であるというわれわれの推測は、正しいことになる。
メノンはい、そのとおりです。
ソクラテスそして、われわれが優れた者であるのは、徳によるのだね。
メノンはい。
ソクラテスまた、もしわれわれが優れた者ならば、われわれは有益である。
なぜなら、すべての優れたものは有益であるから。
そうじゃないかね?メノンはい。
ソクラテスしたがって、徳もまた有益なものだね?メノンここまでに同意したことからは、そうならざるを得ません。
ソクラテスそこで、われわれにとって「有益なもの」とはどのような性質のものなのか、ひとつずつ取り上げて考えてみよう。
われわれは、健康、強さ、美、それに何といっても富のようなものを、有益だと言っている。
これらのものとこのたぐいのものが有益であると、われわれは言っているのだ。
そうだね?メノンええ。
ソクラテスしかし、おなじこれらの[有益な]ものが場合によっては有害になることもあると、われわれは言っている。
それともきみはちがった主張をするだろうか?メノンいいえ、わたしはそのように言っています。
ソクラテスそれでは有益なもののそれぞれについて、何に導かれるならそれがわれわれのためになり、何に導かれるとき、そのおなじものが有害になってしまうのだろう?──正しい使用に導かれるときにはためになるが、そうでないときには、有害になってしまうのではないだろうか?(解説に戻る1/解説に戻る2)メノンはい、そのとおりです。
*ソクラテスではさらに、魂に属することがらも考えてみよう。
きみは、節度、正義、勇気、ものわかりの良さ、記憶力、堂々たる度量、それからこのたぐいのものはすべて、存在すると言うね?メノンええ。
ソクラテスそれでは、この点を考えてみなさい。
これらが、時によりためになることもあるが、有害であることもある、という場合もあるだろう。
しかしそうでない[つねにためになる]場合、これらのうちで、何か、知識で(62)はなく知識とは別であるようにきみに思えるものが、あるだろうか?たとえば勇気だが、もし勇気が知(63)でなく或る種の「元気」のごときものであるとするとどうだろう。
人が知性(64)なしにただ単に元気を出すという場合には、害をこうむるが、知性を伴って元気を出す場合には、ためになり有益なのではないかね(解説に戻る1/解説に戻る2)?メノンはい、そうです。
ソクラテス節度にしてもものわかりの良さにしても、これと同様であろう。
知性を伴って学ばれしつけられるならば有益だが、知性を欠いたなら有害である。
メノンええ、まったくそのとおりです。
ソクラテスそうすると、ひとまとめに言えば、魂が積極的に試みるどんなことも、あるいは受動的に耐え忍ぶどんなことも、すべて、知が導くなら幸福に行き着くが、無知な愚かさが導くなら、これと逆の不幸に行き着いてしまう。
メノンそのようです。
ソクラテスしたがって、もしも徳が、魂のうちにあるものの何かであり、そのものとして有益でなければならないならば、徳は知でなければならない。
なぜなら、魂に属するすべてのことがらは、それ単独では有益でも有害でもなく、知や愚かさがそこに付け加わって初めて、有害にも有益にもなるのだから。
ゆえにこうして、この議論に従えば、徳が有益なものであるからには、かならず知でなければならない。
メノンはい、わたしにはそう思えます。
ソクラテス先ほどわれわれが述べた、富やそのたぐいの、魂に属するのではないような他のことがらも、時に応じてよいものになったり有害なものになったりもする。
知が知以外の魂を導くなら、この知が、魂に属することがらを有益なものにしたのだし、愚かさが導けば、愚かさのゆえに魂のことがらは有害なものになった。
これとおなじく、魂がこれら富などを正しく使用し導くならば、そうしたものは有益なものになるが、正しく使用しなければ、有害なものになってしまうのではないだろうか?メノンはい、まったくそのとおりです。
ソクラテスそして、知的な思慮深い魂は正しく導くが、知を欠く浅はかな魂は、誤った仕方で導いてしまう。
メノンええ、そのとおりです。
ソクラテスしたがってこのように考えてくると、ぜんぶのことについて、次のように言うことができるのではないだろうか?つまり、人間にとって他のすべてのものごとは魂に基づいており、そして魂そのものに属することがらがよいものであるためには、それらは知に基づく、のようにね?こうしてけっきょく、この議論によれば、有益なものとは知であることになる。
しかもわれわれは、徳は有益なものであると主張しているのだね?メノンはい、そのとおりです。
ソクラテスしたがってわれわれは、徳とは知である(注96へ戻る)──徳が知の全体であるにせよ、まだ知の一部にすぎないにせよ──と主張する。
メノンわたしにはいま言われたことは、ソクラテス、すぐれた主張であると思えます。
ソクラテスしたがって、もし以上のようであるなら、優れた人は、生まれつき優れているのではない、ということになる。
メノンはい。
わたしは、生まれつきでないと思います。
ソクラテスまたこの点では次のようなことも言えるだろう。
つまり、もしも優れた人が生まれつきによるのなら、若者のうちで生まれつきの性質が優れている者を見分けてくれる専門家が、われわれの間にきっと存在したにちがいないのだ。
そしてこの人たちが優れた若者を見分けて、この者がそうだとさし示してくれたなら、われわれのほうでその若者たちを引き取って、だれかがその若者たちを堕落させないように、そして相応の成人にまで成長したとき国のために役立つ人になるように、黄金などよりははるかに厳重に封印した上で、アクロポリスに閉じこめて隠したことだろう。
メノンええ、それはきっと、そうしただろうと思えますね。
ソクラテスなるのは、学習によるのだね?メノンはい、わたしにはその点は必然に思えます。
そして、ソクラテス、仮説に基づいて「もし徳が知識なら」、徳が教えられることもまた、明らかです(65)。
*ソクラテス神に誓って、たぶんそうかもしれない。
しかし、そこの仮説のところでわれわれが同意したのは、まちがっていたのではないだろうか?メノンそうでしょうか。
でも先ほどは、そこは問題ないように思えましたが。
ソクラテスいや、主張そのものとして健全で確かであるためには、先ほどの時点でだけ正しいと思えたというのではなく、今の時点でも、またのちの将来の時点でも正しいと思える、というのでないとね。
メノンそれはどうしてでしょう?どういうお考えのもとに、あなたはあの主張そのものに不満を感じ、徳は知識であるという結論に不信の念をいだくのでしょうか?ソクラテス説明してあげよう、メノン。
まず、かりにもしも徳が知識ならそれは教えられるものだという点については、わたしはまちがいかもしれないと言って撤回するようなことはしない。
いっぽう徳は知識であるという主張についてだが、じつはそうではないのではないか、そうわたしは疑いを抱いている。
きみにも、このわたしの疑いがもっともなことに思えるかどうか考えてほしいのだ。
そこで次のことを答えてほしい。
徳だけでの話ではなくて、とにかく何らかのことがらが教えられるものだとすると、そのことがらを教える教師と、それを学ぶ弟子が、かならずいなければならないのではないか?メノンええ、わたしはかならずいるはずだと思います。
ソクラテスそれではその逆に、教える教師もいないし学ぶ弟子もいないようなことがらをいま考えてみると、そうしたことがらは教えられるものではないと、われわれは、おおよそ結論できるのではないかね?メノンはい、そのとおりです。
でも、徳の教師はいないというふうにあなたには思えるのですか?ソクラテスそう、少なくとも、わたしは徳の教師がいるのではないかと何度も何度も探し求めて、あらゆる努力をやってみたが、見つけることができていない、ということまでは言えるね。
それでも、数多くの人々に手伝ってもらってこの探究をしてみたのだし、なかでも、このことにもっとも経験豊富であるとわたしが考えた人々からは、とくによく協力してもらったがね……。
おや、いまも、メノン、ちょうどうまい具合にアニュトス(66)がわれわれの隣にすわってくれた。
この人といまの探究をいっしょにやっていこう。
かれといっしょにやるのが、どうやらよさそうなのだよ。
というのも、まず第一にこの人の父はあの財産家で知恵者のアンテミオンで、このアンテミオンは、偶然によるのでもなく、また近頃テバイのイスメニアスがポリュクラテスのお金をもらった(67)ように、だれかからのもらいものというのでもなく、自分の賢明さと配慮によって、財をなしたのだ。
第二にかれは、一般にひとりの市民として思い上がりもなく見栄もはらず嫌味でもなく、慎みがあり礼儀正しい人間であるという評判だ。
さらに、アンテミオンは、とくにこのアニュトスをよく育てて教育した。
そのように、大多数のアテネ市民は思っている。
じじつ、人々はもっとも重要な官職にアニュトスを選出しているのだからね。
だから、このアニュトスのような人々にこそわれわれといっしょになってもらって、徳について、徳を教えてくれる教師はいるのかいないのか、いるならだれがそうした教師なのか、探究することがよいのだ。
55プラトンは『メノン』以後も、仮説(hypothesis)の方法を論じている。
『パイドン』(99D–102A)、『国家』第六巻(509C–511E)およびエレアのゼノンの方法を述べる『パルメニデス』(135C以下)。
(本文に戻る)56三角形の円への「内接」とは、三角形の三つの頂点がいずれも円周上にあることをいう。
(本文に戻る)57この仮説がどのような内容か、はっきりしない。
解釈も非常に多く、ひとつに収束することは困難である。
以下の訳と括弧内の解説は、CookWilsonやHeathやScottが採用するひとつの派の有力解釈に基づく説明。
本文の図はD.Scott,Plato’sMeno,Cambridge2006,p.135による。
(本文に戻る)58以下の「仮説」を立てることの利点は、知識という、徳の問題と思われることからはいっけん遠い分野の話をすることにより、徳に対し意外な近道から接近できるということである。
(本文に戻
る)59ここの仮説の表現としてふたつの解釈がある。
A「徳は知識である」と直接的主張として表現する。
B「もし徳が知識であるなら、徳は教えられる」と条件文で表現する。
(本文に戻る)60この仮説はここまでの仮説と異なる。
前の注に形を対応させると、「徳はよいものである」ないし「もし徳がよいものであれば、徳は知識である」。
いずれでも「徳とは何か」の答に近い仮説を探していく対話になる。
ソクラテスはメノンの美貌に負けていいなりになったと言うが(本文のこの部分を参照)、じつは「仮説の方法」により、「徳は教えられるか」の検討をしながら「徳とは何か」の答を或る程度推測できる。
(本文に戻る)61知識の何にもまさる重要性を、「よさ」を生むものという観点から主張しようとする。
この主張において、以下では、「よいもの」を大きく二種類に分けている。
(1)「よい」とされる財産も地位も体の強さも、それに関わる人の知識・理解に基づく正しい使用がなければ、「宝の持ち腐れ」でしかない。
(2)心の「よさ」である勇気や節度や正義は、それがものごとや行為や状況ぜんぶの冷静な理解を含む心の力といえなければ、「よいもの」である「徳」にならない。
(本文に戻る)62「知識」と訳したのは「エピステーメー(epistēmē)」。
「学問」というニュアンスもある。
(本文に戻る)63「知」と訳したのは「フロネーシス(phronēsis)」。
思慮深さというニュアンスを含む。
プラトンの作品で、徳が知であるという主張のために好んで使われるのは、この「知・フロネーシス」。
「知識・エピステーメー」の学問というニュアンスは、「フロネーシス」にはない。
(本文に戻る)64「ヌース(nous)」。
「理性」とも訳される。
「思考するnoein」に対応する名詞。
「知識」「知」と重なるが、ヌースは知的思考の機能を示す。
(本文に戻る)65メノンの「結論」は「教えられる」で、ソクラテスの結論(「学習による」)より強い。
(本文に戻る)66後の前三九九年のソクラテス裁判の原告の一人で、原告筆頭の若いメレトスの陰で実質的にソクラテス攻撃を指揮した人物。
なお以下の対話は架空のもので、歴史的事実ではない。
(本文に戻る)67ポリュクラテスはアテネの民主派に属する指導的弁論家で、ソクラテス裁判・処刑後五、六年の前三九三年頃あらわれた、反ソクラテス的な裁判結果を擁護したパンフレット『ソクラテスの告発』の作者。
イスメニアスは民主派で反スパルタ派の指導者。
親スパルタ派三〇人独裁の難を避けてテバイに逃れたアテネ民主派と連携していた。
イスメニアスがポリュクラテスの「お金をもらった」とあるのは、この連携の裏には金銭の取引があったという、当時の風評をほのめかすせりふと思われる。
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