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第4章成長を促進する1つ目のアクセル

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価値観を押し付ける?

世間が慌ただしくなる師走の前半。街を歩けばクリスマスソングがあちこちから聞こえてくる。その日、僕は仕事を早めに終わらせて、マスターの元へ友人と一緒に向かった。

店に入ると、マスターが笑顔で迎えてくれた。

「こんばんは、山田さん。しばらくぶりですね。その後いかがですか?」「こんばんは。おかげさまで、知美とも順調です。結納とか式の準備でバタバタしていますが、両家の親とのやり取りも、〝大きな子供ブレーキ〟の存在を知ったことでスムーズにやっていますよ」

「それは何よりです。どうぞ、お二人ともおかけください」 カウンターに腰をかけてから、あらためて友人を紹介した。

「マスター、高校時代の友人、伊藤です」「初めまして、伊藤です。今日はマスターのメンタリングを、楽しみにして参りました。

山田がすごい人と出会ったと、本当に楽しそうに語るものですから、私も直接マスターのお話を伺いたくなりました」

「それは恐縮ですね。ちなみにコーヒーも、皆さんに好評なんですよ(笑)。お二人ともコーヒーでよろしいですか?」 マスターは軽快に返してくる。

「はい、お願いします」 マスターはにっこりとうなずいて、準備にかかった。

「山田の言っていたとおり、素敵なマスターだね。君からマスターとの出会いの話、アイスバーグや悩みブレーキ、大きな子供ブレーキの話を聞いたときは、びっくりしたよ。ただものじゃないと思った」

前回までの経験から、マスターに人を紹介する際には、一通りのことを事前に話す必要性を感じていたので、伊藤には先に全て話をしておいたのだ。

「うん、だから今日も楽しみなんだよね。ただ今回のような話に、マスターはどう切り返してくれるんだろう」「ミッション、ビジョン、バリューの話?」「そうそう」 雑談をしているところにマスターが淹れたてのコーヒーを運んできてくれた。

早速口に含む。香り高い、繊細な味だ。二人がふうと一息ついたところで、マスターがタイミング良く質問を投げてくれた。

「それで、今日はどうなさいましたか?」「今日は、二人とも同じような悩みを抱えてきました。先に伊藤から話すかい?」 僕に促され、伊藤は勢いよく相談ごとを切り出した。

「初対面なのに、いきなり本題ですみません。私は最近、ホテル業界に転職したんです。そこで毎朝ミッション、ビジョン、バリューを唱和しているんですが、それがどちらかと言うと、みんな会社や上司から強制されてやっている感じなんですよ。

『ちゃんとバリューを暗記して、それが自分の血肉にならない限り、一流にはなれないぞ』と、上司からは言われるんですけども」

「なるほど」「ミッション、ビジョン、バリューの共有が大事だということはなんとなく分かるのですが、あまりに会社の価値観を押し付けられると、ちょっと私も息が詰まってしまって。

この会社に転職して正解だったのかなって悩み始めたときに、ちょうど高校の同窓会があって山田と会ったんです」

「伊藤の悩みにも、マスターから教えてもらったことが役に立つと思って、これまでのことを彼に話したんです」 僕の説明に、マスターはうれしそうにうなずいた。

「山田からアイスバーグや悩みブレーキの話を聞き、私はハッとしました。せっかく思い切り挑戦しようと転職したのに、早速悩みブレーキを踏み始めていると気づいて。

それから大分ブレーキを踏まないようにはなってきているんですが、このミッション、ビジョン、バリューの強制っぽいことに関してはどう考えたらいいかスッキリしなくて、それで山田に頼んでここに来させていただいたんです」

「そうだったんですね。それでは伊藤さんがさらに成長されるためのお手伝いができるように頑張らなければいけないですね」 マスターは笑いながら拳を握りおどけてみせた。

次は僕の番だ。

「では、続いて山田が発表します(笑)。最近うちの会社で社長が交代しまして、経営理念や方針がガラリと変わったんです。

今まではそんなに経営理念や行動指針、つまり、ミッションやビジョン、バリューについて考えていたわけではないんですけれど、いざ変わるとなると、何か身構えちゃいまして。

それで二人で話したんです。

そんなに経営理念や行動指針って大事なのか、強制されて身につけるものなのかって」「なるほど、それでお二人でいらっしゃったわけですね」「そうなんです」 二人はマスターの目を見ながらうなずいた。

今日はどんな図が出てくるんだろう? ワクワクしながらマスターの反応を待っていると、意外にも図ではなく、質問からスタートした。

心の支えとなる言葉

「お二人にお聞きしたいのですが、人生や仕事で常に、または課題にぶつかったときに大事にしている言葉や、判断基準はありますか? 支えになった言葉などでも構いませんよ」 うーん。

支えになった言葉か……。ありそうな、なさそうな。考えていたら伊藤がすかさず口を開いた。

「自分は、大学受験の模試判定が、なかなか志望校の合格に届かなかったときがあります。そのときに『夢は逃げない。逃げるのはいつも自分』という言葉を見て、何度も気を取り直して、勉強に励んだ記憶がありますね」 マスターは、うんうんと笑顔でうなずいている。

なるほど、そういうものなら僕にもあるぞ。

「自分も営業で数字が出なかったときに『元気があれば何でもできる』という言葉で、自分を奮い立たせていましたね。あ、それと……」「それと?」

「告白するかしまいか迷ったときに『やらなくてする後悔より、やってする後悔をしよう』と決めて、勇気を振り絞って告白しましたね。結局撃沈しちゃいましたが(笑)」

伊藤も知っている相手だったので、ニヤニヤしている。

「素晴らしいです。やはりお二人とも、壁や試練に直面したときに自分を助けてくれた言葉を持っていらっしゃるんですね。

ご自身の中で、そういった言葉がいくつもありますよね。それでは次に、お二人が将来仕事を通じて、なりたい自分や、やりたいことがありましたら教えていただけますでしょうか?」 ここでもまた、先に答えたのは伊藤だ。

「私は、いつか人を笑顔にするような仕事をしたいと思っているんです。ホテル業界に転職したのも、お客様に喜んでもらえるような接し方や心遣いを知りたくて。いろいろな経験を積んで、いずれは自分の会社を興したいと考えています」

あまりにすらすらと話す伊藤に、僕は少し気後れを感じてしまった。

「すごいな、伊藤は。残念ながら、僕にはそこまで明確な目標はないかな。会社の仲間と力を合わせて、みんなで成長できればいいかな、というくらいだ」 僕の気持ちを気遣ってくれたのか、マスターは優しい眼差しでこちらを見ている。

「なるほど、伊藤さんはしっかりした目指したいものをお持ちで素晴らしいですね。山田さんはまだその部分がはっきり決まっておられないようですが、それで落ち込むことはありません。

必ずしも目指すもの、実現したいことを持っていないといけないということではありませんし、今後その部分にも意識を向けていくと、徐々にやりたいことや目指したいものが見えてくると私は思います」

そう話したあとで、マスターは 2枚の図を僕たちの前に差し出した。

「お二人が話されたことがこの図に表されています」 いよいよ図が出てきたぞと、二人は微笑みながら顔を見合わせた。

バリューが持つ意味

「最初の図の一番右上は個人として将来目指したいことややりたいことで、それを目指すためのマイルストーンとなる 1年後や 3年後の目標を表しています。

そしてそれらを目指していく途中、試練や難局を乗り越えるために応援してくれる言葉や正しく歩むための考え方が右下の三角の部分となります」

「なるほど、図にすると各要素の位置関係なども分かりやすくなりますね。これが山田の言っていたマスターお手製の図なんですね」 伊藤がそういうと、マスターはうれしそうに答えた。

「はい、いろいろなことを図にするのが私の趣味みたいなものなので。では、今度はお二人の会社の経営理念などを教えていただけませんか?」 マスターは何を伝えたいんだろうと考えていると、横で伊藤が答える。

「私の会社には『一生記憶に残る、笑顔のときをつくる』というミッションがありまして、バリューとして『 CS 7アクション』というものがあります」「山田さんはいかがですか?」「うちの会社は『情報未来社会を想像し、創造し続ける』ことをミッションとしています。

以前は『 ITを通して、未来の可能性を開く』でした。バリューはこの手帳にある『変化を恐れず、限界を決めずに挑戦し続ける』です」

「お二人の会社は、共に素晴らしいミッションやバリューをお持ちですね。1枚目の図は個人ものでしたが、これが会社のミッション、ビジョン、バリューの図となります。2つを比較してみていかがですか?」 そう言って、マスターは 2枚目の図を指差した。

僕と伊藤はしばらく 2枚の図を見比べて考えた。

「あっ、書いてある言葉は若干違いますが、意味することも位置関係も同じですね!」 僕も同じことを考えたが、一瞬早く伊藤に答えられてしまった。

「はい、会社でも個人でも、使命や目指したい理念があり、それを実現するためにマイルストーンとゴールを設定します。そして、それを正しくしっかり日々頑張っていくためにバリューが必要となるんです

なるほど、会社も個人も同じなんですね」 伊藤も大分納得してきたようだ。

僕も負けじと続けた。

「同じではあるけど、個人は会社のようにそれらをあまり言語化してないですよね。会社のミッションやバリューは、言語化はされていますが、押し付けられているように感じます。

本当は良い内容だけれど、軽い拒否反応が出て、真剣に理解しようと思わない。だから、2つがほぼ同じようなものという認識ができてなかったのかもしれませんね」

「山田さん、いい分析ですね」 マスターに褒められて僕は少しドヤ顔になった。

「この考え方は、以前お話ししたアイスバーグの話とも近いんですよ」 そう言ってマスターは出会ったばかりのときに見せてくれたアイスバーグの図を取り出した。

「あっ、本当ですね、想いや人生哲学がミッションやビジョンで、ふるまいや行動がバリューですね」 今度は伊藤に負けないよう、僕は急いで答えた。あれっ、これって大きな子供が出ているかも。

成長を促進するアクセル

「なるほどですね。何かを目指したり、結果を出すためには、理念や想いを持って、行動やふるまいに気をつけることが大事なんですね」 伊藤も負けてはいない。

「お二人とも発言がクイズの早押しみたいですね(笑)」 マスターに二人の行動が見透かされてしまい少し恥ずかしかったけれど、すごく会話を楽しめている。

「では、そろそろこちらの図を見ていただいてもよろしいですか?」 そう言ってマスターは、もはやルーティンとなった図を示した。

「あっ、これが山田の言っていた、要所要所で示される『成長の地図』ですね!」 やっぱり伊藤は、飲み込みが早い。

「はい、もう私からご説明しなくとも、今日のお話がこの地図のどの部分に該当するのかは、理解の早いお二人ならお分かりですよね」「マスターからハードルを上げられると答えるのに緊張しますね(笑)」 笑って場を取り繕ってしまったが、僕が一番マスターの話を聞いているのだから、ここはしっかり答えなければいけない。

「そうですね、かなり分かってきた気がします。今日のテーマは前回の2つのブレーキとは反対の、〝成長を促進するアクセル〟の話だったんですね」「なるほど! 私たちが会社のミッションやビジョンに関して疑問に思っていたことが、成長の原理原則の話にしっかり繋がっていたんですね」

「お二人ともその通りです。自分のアイスバーグを成長させるためにブレーキを踏まないことと同時に、より成長を促進させるアクセルとしての自分軸をしっかり持つことがとても大事なのです。そしてその自分軸とは、自分人生の哲学、ミッションやビジョン、バリューなのです」

僕も伊藤も、知らず知らずのうちに、自分たちで考え、気づきや学びが得られている。

こうやって僕たちを導いてくれるマスターのような人をファシリテーターというのだと思った。それも、最強のファシリテーターではないか。

「う ~ん、なるほど。自分人生の哲学や理念かぁ。確かに今までの人生を振り返ってみても、壁にぶつかったときや試練のときに助けてくれる言葉や考えがなかったら、そのまま挫折をしてしまったかもしれないと思い当たることがあります。

これがアクセルにつながっていたなんて考えてもみなかったな。

自分の人生において、ブレない軸を持つことが成長のアクセルとなっていたんですね」 僕は、あらためてマスターから学んだことの奥深さを感じた。

「とても深い話ですね。今日ここに来させていただいて本当に良かったです。ありがとうございます」 伊藤が真剣な顔でマスターにお礼を言った。

「いえいえ、こちらこそ。皆さんから多くの学びをいただいていますから」 マスターのその言葉に、僕たちからマスターに何を学びとして与えられているのか不思議に思った。

「ちなみに、マスターはどんな人生哲学や行動指針の言葉をお持ちなんですか?」 また伊藤に先を越されてしまった。僕も全く同じ思いで、そのことにとても興味をそそられた。

「少しお恥ずかしいですが、私の好きな言葉はこの手帳に書き溜めています」 マスターが見せてくれた少し大きめの手帳には、何ページにもわたりたくさんの言葉が書かれていた。

「わ ー、すごいですね。こんなにたくさんあるんですか?」「はい、人生長く生きているのと、それなりに多くの試練や修羅場がありましたから(笑)」「今までマスターに教わった言葉もありますね。

〝結果は選択できないが、行動は選択できる〟や〝 No one is perfect(誰しも完璧ではない)〟とか。

この〝人生我以外皆師なり〟とはどういう意味ですか?」「これは私の父が、私の小さいころから言っていた言葉なんです。

自分の人生であなたの周りにいる人は全て師、先生で、どんなに欠点が多そうに見える人からも、自分の意識のあり方でいろいろと学ぶことができるということ、そして、そのためには常に謙虚でなければいけないということだと私は解釈しています。

もちろん小さい頃はほとんど分かっていなかったですし、その意味が腹落ちしたり、少しずつ体現できたりするようになったのは、随分あとになってからですけれど」

父親の言葉

「へー、マスターのお父さんも素晴らしい人格者だったんですね」 そう伊藤が言ったあと、僕はハッとした。

「それでさっきマスターは、僕たちからも多くの学びがあるとおっしゃったんですね」「はい。全ての人が私の先生なんです。そう思えるようになってからは常に多くの方から本当にたくさんの学びがあり

「なるほど、マスターの哲学や行動指針の一つである『人生我以外皆師なり』が、マスターの謙虚で他の人から素直に学ぶ姿勢となっていて、それが成長のアクセルになっているんですね。納得です」

「いやいや、そんな大それたものではないですが」 本当にマスターは謙虚な人だなぁと感じる。

このあとも僕たちはマスターの手帳にある言葉の意味やエピソードを次々に聞き、その深さに唸りっぱなしとなった。

「言葉って、万人が共通に理解するものではないことをあらためて感じました」 僕に伊藤も続く。

「表面上の薄い理解をしているのと、その本質的なものを体得して活用できているのでは天と地の違いですね」 別に気分が沈んでいるわけではなかったが、二人とも深く考えているがゆえに、かなり神妙な面持ちになっていた。

きっと僕たちも、これからもたくさんの壁にぶつかりながらマスターのようにたくさんの言葉を体現し、ぶれない軸を持つ必要があるんだろうな。

マスターの話を聞きながら、僕はふと思い出したことがあった。

「そういえば、僕は小さい頃から父親に『やってみろ。お前のことは信じているから』と言われたことを記憶していて、何か新しいことをするたびに、この言葉を思い出すんです」

「まさに親や先輩、親友とのエピソードや、辛いときに読んだ本からの言葉などが自分自身の行動指針になっているという例ですね。

それらのエピソードは、ご自身の歴史の中に深く残っていますから、行動指針として色濃く反映されていると思います」 マスターの言葉に、さらに自分のことを理解した気持ちになる。

「なるほど。自分も振り返ってみようかな」 伊藤にも思い当たることがありそうだった。

「会社にも理念や行動指針がありますが、自分の人生でも強い理念や軸があれば迷いが減って強く進むことができそうですね。自分の軸を持てば、強く正しいアクセルを踏んで進むことができそうだと思いました」

僕が話す横で、伊藤も大きくうなずきながら言った「私も、マスターのように『人生我以外皆師なり』の気持ちで多くの人から私の軸となるものを吸収していきます」 マスターの手帳に書き込まれている言葉のエピソードはもっともっと聞きたいけど、一度に聞くには、あまりに深い。

落ち着いて、一つひとつの言葉をじっくりと噛み締めたい。また今度時間をつくって絶対に聞きに来よう。

今日もまたマスターから、心にストンと落ちる話をたくさん聞かせてもらった。

どんな経験をしたらマスターのようになれるのだろうか? 今日の自分軸や成長を促進するアクセルの話はすごく腹落ちしたが、まだ少し胸につっかかるものがあった。

冷めてしまったコーヒーを口に含みながら、少し考えていると、質問したいことが明確になってきた。

自分と会社の方向性

「でもマスター、会社の理念と自分人生の理念は、違いますよね? 組織に属している以上、自分の理念を曲げて、会社の理念に合わせないといけないということなんですか?」 そうそう、今日聞きたかったところは、そこだよねという様子で伊藤もうなずいている。

やはりきたかという感じでマスターがこう答えた。

「はい、そうでしたね(笑)。いよいよこれからその部分に入っていきますね。ただ、その前に、お二人にミッション、ビジョン、バリューなどについて本質的な部分を理解していただきたかったので少し遠回りになりましたが、議論の時間を取らせていただきました」

なるほど、マスター言うとおりで、その部分が全く理解できていないのに、会社のやっていることだけを批判的に見ていたのもしれない。

「では、この図に描かれた2つの状態を比較していただけますか?」 また、図が出てきた。

本当にマスターからはマジシャンのようにテンポ良くタネが飛び出すな。

「いかがでしょう? Aと Bの考え方があると思いますが、お二人は仕事と個人の人生をどちらに近いと感じられますか? お二人は Aと Bが何を意味すると思いますか?」「えーと、 Aは個人と会社の方向が完全に逆になっていますね、 Bは完全に重なっているわけではないですが、並走している感じですね」 相変わらず伊藤のレスポンスがいい。

僕も続けた。

「ということは、 Aの状態は、会社のミッション、ビジョン、バリューは、あくまで仕事上の価値観であり、個人とは全く別物という考え方ですかね。それに対して、 Bはそこまで価値観や考え方に違いはなくて、全く同じではないにしろ、突き詰めると同じような方向に向かうという感じ……」

口調は滑らかだが、僕の中には完全には理解しきれていないモヤモヤ感が残っていた。

「マスター、そう言いながら正直うまく理解できていない自分を感じます」 正直に自己申告する僕に、マスターは優しい笑顔を返し、答えてくれた。

固定観念を外して方向性を考える

「はい、この話はとても難しいので、今日全て理解できなくとも全く問題ありません。なんとなく、2つの違いを捉えて考えてみると、少しずつ成長の糧になると思います。

以前、悩みブレーキや大きな子供ブレーキの存在を知るだけでも何かが変わってくることをお話ししたのを覚えていらっしゃいますか?」

「はい。確かにそれだけでも少しずつ変化があったのは事実です」 まさに僕の体験談だった。

それと同じように、ミッション、ビジョン、バリューが、もしかしたら完全に真逆なものでなく、並走できるもの、補完やシナジーがあるかもしれないものだと考えるだけで何かが違ってくると私は思っています。

そして、無理に Bの考えに合わせようとするのではなく、徐々に Bの生き方、考え方ができていくと人生の中で仕事の時間の充実度や、個人の成長とのシナジーも効いていくと思うんですよ」

僕も伊藤も、マスターの素晴らしい信念に圧倒されてしまった。次の言葉を探していると、タイミングよく奥のテーブルからマスターを呼ぶ声が聞こえた。

「あ、ちょっとすみません。あちらのお客様のオーダーをうかがわなくては。その間にご自分の会社のミッション、ビジョン、バリューを見直してみていただけますか?

マスターの時間をこんなに自分たちのために使ってもらって本当に申し訳ないなとは思いつつ、もっと本質を知りたいという欲求には勝てずに、すっかり居座ってしまっていた。

「はい、どうそ、本業を優先してください(笑)。僕たちは、あらためて会社の手帳を見てみます」 二人で手帳やホームページで会社のミッション、ビジョン、バリューを確認して、自分の人生の方向性との関係性を考えてみた。

ほどなくマスターが戻ってきて、僕たちに質問をした。

「あらためて会社の経営理念や行動指針を見直してみて、どう思われますか?」 見直しながら、もうすでに一本取られた気持ちになっていた僕が答えた。

「はい、同じ文言を見ているにもかかわらず、以前と今でこんなにも違うのかって驚いています。バイアスや固定概念によって、こんなにも見え方が違ってくるものなんですね」

「私も、こんなに会社の手帳を真剣に見たのは初めてです(笑)。それに、以前と違って拒絶反応がなくなって、素直に良いものは良いと思えるようになったかもしれません」

伊藤もやはり僕と同じように感じていた。マスターは、こんな二人の気づきを喜んでくれているようだ。

「それは良かったです。私も以前いた会社の理念や行動指針が大好きで、今の私の個人としての軸に大きな良い影響を与えてくれています」

「そうなんですね。あの、もしよろしければマスターのミッション、ビジョンを聞かせていただけますか?」 僕は、今日最後の図々しいお願いをした。

「そんなに大それたものではありませんが、私にも小さいながらも自分なりに魂を込めて実現したいものはあります。まずミッションですが、これは実は前職の会社のミッションと同じ『 Growing Together』です。『関わる人たちと共に成長していこう!』という考え方は、前職を引退したあとでも私の理念としてとても好きなものです」 そう語るマスターの表情が清々しい。

「そしてビジョンは、『次の世代を担う方々をサポートして、その方たちに社会の発展や人々の幸福に貢献していただくこと』です。

もちろん、このカフェにお越しいただくお客様においしいコーヒーと心地良い空間を提供して、明日への成長の糧としていただくこともですね(笑)」

「とてもいいミッション、ビジョンですね」 だからマスターはみんなの成長を本気で考えてサポートできるんだ。

マスターからは、単なる趣味とか道楽ではない、想いや情熱を感じるのも納得できた。

「マスター、長い時間本当にありがとうございました。正直、どう具体的に日常で活かしていけばいいのかまだ分からないところもありますが、自分の人生の中に、会社の理念も取り入れながら、明日から少しずつ成長していきたいと思います」

「ええ、これもまさに〝体験学、習うより慣れろ〟ですからね。山田さんも伊藤さんも、少しずつ自分軸を極めていってくださいね」

店も混んできたので、さすがにこのあたりでマスターを解放しようと、伊藤と二人で丁寧に挨拶をして店を出た。

外に出ると今にも雪になりそうな寒さだ。帰り道で伊藤はボソッと僕に言った。

「山田、俺さ、今の会社に転職した自分に自信が持てなくなっていたんだけど、今日マスターと話していて、思い出したんだよ。

今の会社の『一生記憶に残る、笑顔のときをつくる』という企業理念に惹かれたこと」 伊藤は、少しはにかんだような顔で話を続けた。

「うちは親父が自営業で忙しかったから、家族旅行に全然行けなかったんだ。でも唯一小学 6年生のときに、伊豆に行ったんだ。俺はそこでの家族との思い出が忘れられなかった。

一生懸命、すごい形相で働いていた親父が、旅行の間だけは笑顔でいられたことが、本当にうれしかった」

「へぇ、良い思い出だな」「まあな。俺の中にも誰かにそういう場を提供したいという思いがあったから、今の転職先を選んだんだなって。

できれば将来独立して、よりその想いを実現できる会社をつくりたいって漠然と考えていたけど、今の会社にいる間、不満や悩みを持って仕事をするより、会社の理念であり、自分の想いでもあったたくさんの人に笑顔のときを提供することにブレーキを踏まず全力を出したほうが良いってことが今日分かったよ。

マスターに会わせてもらって本当に良かったよ。ありがとう」 僕は、伊藤の話に聞き入り、寒さなど忘れ、目頭が熱くなっていた。

「おう、お返しは高級ステーキでいいぞ(笑)。頑張ろうぜ、お互いのフィールドで」「また、会えるのを楽しみにしてるよ。じゃあ」 去っていく伊藤の背中には、多くのお客様に笑顔を届ける意志が溢れているように見えた。

僕は、遠ざかっていく伊藤の姿を見ながら、マスターとの出会いに心から感謝した。

何かに悩んだとき、迷ったときに、話を聞き、何らかの気づきや学びが得られるような相手はそういない。

マスターと出会うことで、こうしたメンターのような存在がいかに重要かをしみじみと実感した。

今日の伊藤だけでなく、ゆっこも、知美もそうだ。カフェでマスターと話すことで、どれほど心の整理ができたことか。

「マスターは、人の人生を前向きにする達人だな。達人…。マスター…」 僕はひとりごとを言い、さらに気づいた。

「あ、マスターって言葉は、きっとカフェのマスターというだけではないんだな。なるほど、そういうことか!」 すれ違った人が、僕の声に驚いて振り向く。そのときの僕の顔は、なんだかニヤニヤしていたようだ。

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