スポーツは素質だ、とだれもが思っている。専門家でさえ、というよりも、専門家ほど素質を重視する傾向がある。
実際、アスリートらしい体形と身のこなしでファインプレーを見せてくれる選手には「天性」のものを感じずにはいられない。
大勢のスカウトやコーチが逸材の発掘に奔走し、どのチームも莫大な契約金を積んで選手の獲得合戦にしのぎを削るのも、天賦の才を信じるからこそだと言えるだろう。
ビリー・ビーンは生まれながらのスポーツマンだった。だれもがベーブ・ルースの再来と信じて疑わなかった。でも、彼にはひとつ欠けているものがあった。それはチャンピオンのマインドセットである。
マイケル・ルイス著『マネー・ボール』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)によると、ビーンは高校2年生のとき、バスケットボールチームで得点王に輝き、フットボールチームでクォーターバックを務め、野球チームで最優秀打者に選ばれ、米国有数の高校野球リーグで打率5割を記録した。
十分才能に恵まれている選手だった。
ところがビーンは、ちょっとでも思い通りにいかないことがあると、八つ当たりして物を壊す癖があった。「負けず嫌いというよりも、負け方を知らなかった」のである。
野球界に入り、マイナーリーグからメジャーに昇格するにつれて、事態はますます悪くなった。打席に立つたびに惨憺たる結果に終わり、屈辱は募る一方だ。打ちそこねるたびに彼は取り乱した。あるスカウトはこう語る。
「ビーンは、絶対にアウトになっちゃいけない、失敗しちゃいけないと思っていたんだ」。どこかで聞いたことのある言葉ではないだろうか?ビーンは前向きに対処したのだろうか?ノー。
なぜなら、ビーンは硬直マインドセットの典型だったからである。天賦の才に努力は無用、努力なんて凡人のすること。
努力に頼るのは天才の恥、それは欠陥を認めるようなもの──硬直マインドセットの人は、欠点を分析して練習でそれを克服する、なんてことはしない。
そもそも、欠点があることさえ認めようとしないのである。マインドセットがこちこちのビーンは、才能が仇になって身動きがとれなくなってしまった。
結局、マインドセットの呪縛から逃れることができないまま、選手生活を終えることになるが、その後、メジャーリーグの球団幹部として信じられないような快挙を成し遂げる。
いったいその間に何があったのか。マイナーリーグでもメジャーリーグでも、ビーンと生活をともにし、隣同士のポジションを守っていた選手がいる。
レニー・ダイクストラである。ダイクストラは肉体面の資質ではビーンに遠く及ばなかったが、ビーンの方は、ダイクストラを畏敬の念で眺めていた。
ビーンは後にこう語っている。
「彼には失敗という概念がなかった……ぼくとはまるで正反対だった」ビーンはさらにこう語る。
「ぼくにもだんだんと、野球選手とはどういう人間なのかがわかってきた。そして、自分にはその適性がないことも。適性があるのはレニーの方だった」経験を重ね、考えを深めるうちに、才能よりもマインドセットの方が重要だということがビーンにもわかってきたのである。
やがて、球団経営とスカウト戦略に新機軸を打ち出そうとするグループの一員となったビーンは、その確信をいっそう強めていく。
チームの得点力を向上させるには、スター選手を集めるよりも、打者が順々に自分の役割を果たしながら、次へとつなげていくやり方を徹底させる方がはるかに有効である、と。
こうした信念を持ってオークランド・アスレチックスのゼネラルマネージャーとなったビーンは、2002年、シーズン103勝をあげて、チームをリーグ西地区優勝に導き、さらにアメリカンリーグの連勝記録に迫った。
野球界で最下位から2番目の貧乏球団が成し遂げた快挙だった!才能ではなく、マインドセットを買う方針が成功をもたらしたのである。
素質──目に見えるものと見えないもの
肉体的な資質は知的な能力とはちがって目に見える。体の大きさも、体つきも、俊敏かどうかも、見ればすぐに分かるし、練習や訓練の様子も、その成果も目に見える。
次のような選手たちの活躍を目の当たりにすれば、素質神話が払拭されるのではないだろうか。
米プロバスケットボール(NBA)で活躍した身長160センチのマグシー・ボーグス。
ニューイングランド・ペイトリオッツやサンディエゴ・チャージャーズでプレーした小柄なクォーターバック、ダグ・フルーティー。隻腕の大リーガー、ピート・グレイ。体格には恵まれなかった史上屈指のゴルファー、ベン・ホーガン。
子どものときに脚に重症の火傷を負いながらも最強のランナーとなったグレン・カニンガム。敏捷性には欠けていながら素晴らしい活躍をしたラリー・バード──。
彼らのように素質に恵まれなくとも輝かしい実績をあげた選手たちは、何か重要なことを教えてくれているのではないだろうか。
ボクシング専門家は、素質ある選手を見つけようとするとき、「巻尺が語る」という言葉どおり、握り拳、腕のリーチ、胸幅、体重など身体測定値を目安にしていた。
モハメド・アリはいずれも不十分で、どう見ても素質がありそうになかった。スピードだけは抜群だったが、優れたファイターの肉体にはほど遠く、パンチの強さに欠け、動きも正統派ではなかった。実際、アリのボクシングスタイルは基本からまるで外れていたのだ。
たとえば、腕や肘でパンチをブロックするのではなく、まるでアマチュアのようにパンチを連打して反撃した。
手の位置が低いので顎は無防備だったし、繰りだされるパンチをかわすときは、頭を左右に動かすのではなく、上体を後ろに反らすようにした。
アリの評伝を書いたホセ・トーレスはその様子を、「線路の真ん中にいる人が、迫って来る列車を避けようとして、線路のどちらかによけるのではなく、逆方向にバックするようなもの」と形容している。
アリの挑戦相手、世界チャンピオンのソニー・リストンは天性のボクサーで、体の大きさ、強さ、試合経験と、すべてが揃った伝説のファイターだった。
だれが見てもアリに勝ち目はなかったので、対戦の日の観客の入りは少なく、アリーナは半分も埋まらなかった。けれども、アリには電光石火のすばやさに加えて抜群の頭脳があった。筋力だけに頼らずに知力で勝負した。
相手の心の動きを読んで、その急所を衝こうとしたのだ。リストンの拳闘スタイルを研究したのはもちろんのこと、リングの外のリストンがどんなタイプの人間かも細かく観察した。
「インタビュー記事はすべて読み尽くし、彼の周囲にいる人や、彼と喋ったことのある人に話を聞いて回った。毎晩ベッドに入ってから、それをみんな足し合わせて、リストンがどんな戦法で来るかを予測した」。
その上で闘いに臨んだのである。
アリの勝利はボクシング史上、画期的な出来事だった、ある有名なボクシングジムマネージャーは次のように語っている。
「アリは矛盾をはらんだファイターでした。リング上での肉体パフォーマンスはとても正統とはいえない……けれども、頭では絶えず相手を的確に読んでいました。
アリは、私たちに」マネージャー氏はにっこりとほほ笑み、人差指で自分の額をつつきながら「勝利はここから来ることを証明したんですよ」と言い、さらに両手の握り拳を挙げて「ここからじゃないんだ、とね」と語った。
それでも、肉体的資質を偏重する人々の考え方は変わっていない。後から振り返って、やはりアリには偉大なボクサーの肉体が備わっていた、などと考える。
鋭い頭脳のことは忘れて、彼の偉大さはやはりその肉体にあったのだと思ってしまうのである。そして、専門家が最初にその偉大さを見抜けなかった理由を理解できずにいる。
史上最高の努力型アスリート、マイケル・ジョーダンマイケル・ジョーダンも、生まれつきの天才ではなかった。
おそらくスポーツ史上、前代未聞の努力型アスリートだろう。マイケル・ジョーダンが高校代表のバスケットボールチームのメンバーに選ばれなかった話は有名だ。彼を外したコーチは何を考えていたのだろうと思ってしまう。
大学進学の時期になっても、彼の憧れのノースカロライナ州立大学からの誘いは来なかった。州立大はなんて惜しいことをしたのだろう。そして、NBAのドラフト指名権2位までのチームは彼を指名しなかった。
とんだ失敗をやらかしたものだ。
今の私たちは、ジョーダンが史上最強のバスケットボール選手であることを知っているから、なぜそれを見抜けなかったのだろうかと不思議に思う。
でもそれは、あの「マイケル・ジョーダン」として見るからで、当時はまだ、ただのマイケル・ジョーダンにすぎなかった。
高校代表のバスケットボールチームに入れなかったジョーダンは、がっくりと打ちのめされた。母親は「練習して鍛え直しなさいと言い聞かせたんです」と当時を振り返る。
彼はその言葉に従い、毎朝6時に家を出て、始業前の早朝トレーニングに励んだ。ノースカロライナ州立大学に進学してからも、ディフェンス面やボールの扱い、シュート技術といった弱点の克服に絶えず努めた。
どの選手にもまして積極的に厳しい練習に励むその姿にコーチは感心するばかりだった。シーズン最後の試合で敗北を喫した後に、何時間もシュート練習を繰り返したこともある。
翌年に備えようとしたのだ。
成功と名声の頂点に上りつめ、天才プレーヤーと言われるようになってからもなお、粘り強く練習を続けたことが伝説として語り継がれている。
ブルズの元アシスタントコーチ、ジョン・バックは彼を「天賦の才を常に磨こうと考える天才」と評した。
成功は精神的な要素によるところが大きいとジョーダンは考える。
「精神的な強さと熱意は、さまざまな身体能力よりもはるかに大きな力を発揮する。ぼくはいつもそう言ってきたし、いつでもそう信じてきた」。
ところが、他の人々はそうは考えない。マイケル・ジョーダンに、おのずとみごとなプレーが生まれる完璧な肉体を見てしまうのである。
大の練習好きだったベーブ・ルースベーブ・ルースの場合はどうだろう。彼はどう見ても理想の肉体にはほど遠い選手だった。
世に知られる旺盛な食欲とヤンキースのユニフォームからはみ出すでっぷりした腹。あれで天才をもしのぐ活躍をしたのではないか。
一晩中飲み騒いだ翌日、ふらりとバッターボックスにやってきてホームランをかっ飛ばしたのではないか。
彼もやはり生まれつきの天才ではなかった。プロ入り当初のベーブ・ルースはあれほどの好打者ではなかった。たしかにパワーにはあふれていた。
毎回全力でフルスイングするバットから生まれるパワーは凄まじく、それがヒットにつながったときの威力は息を吞むばかり。
けれども、まるで確実性に欠けていた。ベーブはたしかに、肝をつぶすほどの酒豪で、あきれるほどの大食漢だった。
膨大な量の食事をした後に、デザートのパイを丸ごとひとつでもふたつでも平らげた。けれども、節制すべきときにはそれができる選手だった。
冬季のシーズンオフ中には、ジムで厳しいトレーニングに励み、コンディションをすっかり整えて開幕に備えていた。
1925年のシーズンには、もうダメかと思われるほどの惨敗を経験するが、その後、徹底的に鍛え抜いて復活。
1926年から1931年にかけて、打率3割5分4厘、1シーズン平均本塁打50本、打点155を記録した。
彼の伝記を書いたロバート・クリーマーはこう述べている。
「ルースの猛打ぶりは、野球史上類を見ないものだった。……いったん灰となった不死鳥ベーブ・ルースは、ロケットのような迫力で大空に飛び上がっていった」しかし、その陰には鍛錬の日々があったのだ。
彼もやはり大の練習好きだった。
ボストン・レッドソックスに入団した彼が、ルーキーの投手であるにもかかわらず毎日バッティング練習をしたがるので、古参の選手たちが辟易したほどだ。
ベーブは後に出場停止処分を受けるが、そのとき彼にとって苦痛だったのは、出場停止そのものより、練習をも禁じられたことの方だった。
投手という立場が彼の打撃力を引き出したのだとタイ・カップは言う。
投手であることがなぜバッティングに役立つのか?「バッターボックスに立って自由に打ってみることができたから」だとカップは言う。
「投手ならば、三振しようが凡打しようが、だれも気にしない。だからルースは思いっ切り振ることができた。失敗してもどうってことはない。……そのうちにめきめきと、あの大きなスイングをコントロールしてボールをミートするわざを習得していった。
そして、レギュラーの外野手になる頃にはもうすっかり安定した打撃力を身につけていた」こういう話を聞いてもなお私たちは、スティーヴン・ジェイ・グールド言うところの、「野球選手とは天性の素質がおのずと発揮される肉塊であるという一般通念」を捨てきれずにいる。
病気がちだった地上最速の女性たち1960年のローマ五輪に出場して、100メートル、200メートル、4×100メートルリレーの合計3つの金メダルを獲得し、地上最速の女性と呼ばれたウィルマ・ルドルフの場合はどうだろうか。
幼い頃のウィルマは、まったく身体的に恵まれない子どもだった。22人きょうだいの20番目として未熟児で生まれ、いつも病気ばかりしていた。4歳のとき、両側肺炎、猩紅熱、ポリオを長く患って死の淵をさまよう。
奇跡的に生還するが、左脚はほとんど麻痺しており、医者から二度と回復の見込みはないと宣告された。
けれども8年の間、懸命にマッサージを続けて、ようやく12歳のときに、脚の補助具をはずして普通に歩けるようになった。これが、努力しだいで身体能力は伸ばせるという教訓でなくて何だろう。
ウィルマはさっそくその教訓を活かして、バスケットボールと陸上競技にチャレンジするが、初めて出場した陸上競技大会ではみごと全敗。
しかし、それにも挫けず、驚異的に記録を伸ばすことに成功した彼女は、こう語った。
「ひたむきに努力する女性として記憶に留めておいてもらえたらそれでいい」史上最強の女性アスリートと呼ばれたジャッキー・ジョイナー・カーシーはどうだったのだろう。
彼女は1985年から1996年初めまで、七種競技に出場するたびに優勝をさらった。
七種競技とはどんな競技だろうか。
連続する2日間に、100メートルハードル、走り高跳び、砲丸投げ、200メートル走、走り幅跳び、槍投げ、800メートル走という合計7種類の競技を行なうものだ。
その優勝者が世界最強の女性アスリートと呼ばれることに何の不思議もない。
ジョイナー・カーシーは七種競技史上、6つの最高得点をあげ、世界記録を打ち立て、二度の世界選手権と二度のオリンピックで金メダルを獲得するという快挙を成し遂げた(走り幅跳びも加えれば、金メダルの数は6個になる)。
さて、彼女は生まれつきの天才だったのか。たしかに才能はあったが、陸上競技を始めた当初は最下位続きだった。徐々に成績を伸ばしたものの、なかなか優勝には手が届かなかった。なぜ勝てるようになったのだろう。
「遺伝的素質だと言う人もいるかもしれないけれど、私は、乗馬道や近所の道や学校の廊下でこつこつと練習を積んできた努力が報われたと思う」勝ち続けることができた秘訣についてはこう語る。
「自分はまだまだ伸びると思えば、意欲が湧いて気持ちが奮い立つの。6個のオリンピックメダルと5つの世界記録を達成した今でもそれは同じ。
中学生で陸上競技大会に初めて出場したときもそうだったわ」最後のふたつのメダル(世界選手権とオリンピック)のひとつは、喘息発作に見舞われながら、もうひとつは、ハムストリング筋をひどく傷め、痛みと闘いながら獲得したものだ。
生まれつきの才能でおのずと得られるようなものではない。
そこにはマインドセットがあった。
「天才に努力は不要」説はいつ生まれたのか?ご存知だろうか。
一昔前まで、ゴルフに適した体は鍛えて作れるものではなく、やみくもに体力をつければ体の「切れ」を損なうと信じられていたことを。
タイガー・ウッズが激しいトレーニングと厳しい修練で腕を磨いてトーナメントを総なめにするまでは、そうした考え方が根強かった。
文化によっては、鍛錬を積むことによって才能の限界を超えようとする者に激しい非難が向けられることもあった。
分相応の生き方をせよというわけだ。
そのような文化ではきっと嫌われたにちがいないのがモーリー・ウィルズ。
彼は1950〜60年代にメジャーリーガーへの夢を抱いて奮闘した野心旺盛な野球選手である。
打撃力に難があったため、ドジャーズと契約するなりマイナーリーグに降格となるが、そんなことは意に介さず「2年したら、ブルックリンでジャッキー・ロビンソンと一緒にプレーするぜ」と友人たちにふれ回っていた。
ところが、それはとんだ誤算だった。
きっとうまくなってやると、毎日へとへとになるまで練習に励んだにもかかわらず、8年半もの間、マイナーリーグで浮かばれない選手生活を送ることになる。
7年半目に、チームマネージャーがバッティングのアドバイスをしながら、ウィルズに言った。
「7年半もスランプやってりゃ、これ以上落ちようがないよな」。
その直後のこと、ドジャーズのショートが足ゆびを骨折して、ウィルズにお呼びがかかった。
チャンスが巡ってきたのである。
けれども、やはりまだ、彼のバッティングでは通用しなかった。
しかし、そこであきらめてしまわずに、一塁コーチに助けを求めたのだった。
今まで通りの練習に加えて、さらに数時間、コーチとともに研究を重ねる日々が続いた。
それでもまだダメだった。
さすがのウィルズもとうとうあきらめる気になったのだが、今度は一塁コーチの方が止めさせてくれなかった。
技術的な基礎はできているのだから、あとは精神面を鍛えるだけだというのだ。
やがて、とうとう打てるようになり始め、俊足を活かした盗塁も決まるようになった。
相手の投手と捕手の投球を研究して、盗塁のベストタイミングを見計らうことも覚えた。
不意をついて猛然と飛びだし、一気にスライディング!彼の盗塁に、投手は気が散るわ、捕手は混乱するわで大勢のファンが沸いた。
とうとうウィルズは、47年間破られたことのないタイ・カッブの盗塁記録を破って、そのシーズンのナショナルリーグのMVPに輝いたのだった。
スポーツと知性の関係スポーツ界は、肉体的素質ばかり云々するのをやめて、練習と上達の関係や、知性と実績の関係にもっと注意を払ってもよいのではないだろうか。
だが実際には、そうしたことにはほとんど目が向けられていない。
それはたぶん、マルコム・グラッドウェルが言うように、後天的能力よりも先天的資質の方が、人々から高く評価されているからなのだろう。
私たちの文化が自己努力や自己陶冶をどんなに強調しても、それと同じくらい、人々は心の奥底で天与の資質をあがめていると彼は言う。
チャンピオンやアイドルは、生まれながらにして自分とは違うスーパーヒーローなのだと思いたがる。
自分とほとんど変わりない人間が、努力を重ねてそうなったのだとは思いたがらない。
なぜなのだろう。
後者の方がずっと素晴らしいと私は思うのだが。
専門家は、スポーツにおける知性の重要性を認めはするものの、それもすべて先天的なものだと主張するのだ!そのことにショックを受けたのは、マーシャル・フォークの記事を読んだときだ。
フォークはプロフットボールチーム、セントルイス・ラムズの優れたランニングバック。
4シーズン連続で、ランとパス合わせて2000ヤード以上を獲得し、チームの稼ぎ頭となっていた。
2002年のスーパーボール前日に掲載されたその記事には、フォークの超人的能力のことが書かれていた。
各プレーヤーがフィールド内のどこにいるか、彼にはすべてわかってしまうらしい。
22人のプレーヤーが入り乱れて、走ったり転んだりしていても、どこにいるかはもちろんのこと、今何をしているか、これから何をしようとしているかまでわかるという。
チームメートたちによると、彼は間違えたことがないそうだ。
ちょっと信じがたい。
どうしてそんなことがわかるのだろう。
フォーク自身の説明はこうだ。
これまで何年間もフットボールの試合を見続けてきた。
高校時代には球場で売り子のアルバイトもした。
仕事そのものは全然好きじゃないけれど、プロのフットボールを観戦したかったから。
試合を見ながらいつも、なぜ?と考えていた。
なぜこういう試合運びになるのだろう?なぜこういう攻撃方法を取るのだろう?なぜあんなことをするのか?なぜこんなことをするのか?「疑問を持ちながら試合を観戦することで、突っ込んだ見方ができるようになった」とフォークは言う。
プロ選手になってからも、常になぜかと問うことで、試合展開を深く探ろうとする姿勢をけっして失わなかった。
明らかに、フォーク自身は自分の技能を、飽くなき好奇心と探究心の賜物だと考えている。
では、他のプレーヤーやコーチたちはどう見ているのだろう?仲間は天賦の才だと思っているようだ。
「これまで一緒にプレーしたことのある、あらゆるポジションのプレーヤーの中で、マーシャルのフットボールIQは最高だ」と、あるベテランのチームメートは語る。
ディフェンス・フォーメーションを完璧に把握する能力は「天才的」だと評するチームメートもいる。
あるコーチは、彼の技能に畏敬の念を抱いて、「天性のフットボールの知能がなければ、あんなことはできるものではない」と語る。
キャラクター──品格・気骨・人となり
生まれつきの才能に恵まれた根っからのアスリートは確かに存在する。
けれども、ビリー・ビーンやジョン・マッケンローを見ればわかるように、そうした才能が仇になることもある。
いつも才能をほめられていて苦労や努力をする必要がないと、マインドセットが硬直した人間になりやすいからだ。
1976年オリンピックの十種競技の金メダリスト、ブルース・ジェンナーは言う。
「もし私が失読症でなかったら、オリンピックで優勝などしていなかったと思う。
障害がなければ、すらすらと本が読めて、スポーツの上達も早かっただろう……けれども、人生は前途多難だと覚悟することもなかっただろうから」
才能にあぐらをかいている天才は、懸命に努力することも、挫折を克服することも知らない。
ペドロ・マルチネスがそのよい例だろう。
ボストン・レッドソックスの異彩を放つ投手でありながら、肝心なときに墓穴を掘るような事件を起こしてしまった。
だがあの一件は、努力云々以前の、スポーツマンとしての品格について考えさせられる事件でもあった。
『ニューヨーク・タイムズ』と『ボストン・グローブ』のスポーツ記者の一団が乗ったボストン行きのデルタシャトル。
私もその中にいた。
2003年のアメリカンリーグのプレーオフ、ニューヨーク・ヤンキース対ボストン・レッドソックスの第3戦を観に行くところだった。
そこで話題になったのが、スポーツマンの気骨のことで、ヤンキースは気骨あるチームだということでみなの意見が一致した(ボストンの記者たちもしぶしぶそれを認めた)。
みなの脳裏には、2年前にヤンキースがニューヨーク市民に見せてくれた気骨ある姿が蘇っていた。
あれは2001年の10月のこと。
9・11の同時多発テロ事件を経験し、徹底的に打ちのめされたニューヨーク市民は、何か希望を求めていた。
街中がヤンキースのワールドシリーズ進出に希望を託そうとしていた。けれども、9・11を体験して傷つき、疲れ果てているのはヤンキースも同じこと。余力など残されているはずはなかった。
ところがどうしたものだろう、ヤンキースは粘り強く戦って、次々と勝ち星をあげていったのだ。
勝つたびに、私たちも少しずつ生気を取り戻し、ささやかながら将来への希望を持てるようになった。
ニューヨーク市民の切なる期待を受けて、ヤンキースはアメリカンリーグ東地区優勝を果たし、さらにリーグ戦も制覇。
ワールドシリーズに進出した彼らは熱戦を繰り広げて、勝利の一歩手前まで進んだのである。
ヤンキースは嫌われもの、みんなからそっぽを向かれてるチームだ。私もヤンキース嫌いのひとりだったのだが、あれ以来、大ファンになってしまった。スポーツ記者たちの言う、気骨あるプレーを見せてくれたからである。
キャラクターとは、困難に見舞われても挫けずに頑張り通す力のことだ。
2年前を思い出しながらそんなことを語りあった翌日、有能だが傲慢なレッドソックスの投手ペドロ・マルチネスが、品格の何たるかをそれを欠いた行動に出ることで教えてくれた。
ボストン・レッドソックスほど、このアメリカンリーグ優勝を切望していたチームはなかっただろう。
「バンビーノの呪い」以来、85年間、ワールドチャンピオンになれずにいた。
バンビーノの呪いとは、レッドソックスのオーナー、ハリー・フレイジーが、ブロードウェイ・ミュージカルの制作費を捻出するために、ベーブ・ルースを金銭トレードでヤンキースに放出した事件である。
最高の左腕投手(当時ルースは投手だった)を売り渡すだけでも非難は免れないのに、あろうことか、憎きライバルに売り渡したのである。
ベーブ・ルースを得たヤンキースは、球界に恐いものなし。とどまるところを知らぬ勢いで、ワールドシリーズ制覇を重ねた。
一方、レッドソックスは、何度かプレーオフを戦い、ワールドシリーズに4回進出したものの、毎回敗退。いつも悲惨な負け方ばかりだった。あと少しというところで優勝を逃していた。
けれども、そんなレッドソックスにもとうとう、呪いを跳ね返して年来の敵を打ち負かすチャンスが訪れたのである。
この一戦に勝てば、ワールドシリーズへの切符が手に入る。ペドロ・マルチネスに期待が集まった。シーズン中からすでに、呪いを解いてくれそうな気配を見せていたからだ。
いったんは鮮やかなピッチングを見せたマルチネスだが、その後リードを奪われて、苦しいゲーム展開となった。
そのとき彼はどんな行動に出ただろうか。
なんと、打者カリム・ガルシアに死球を与え、捕手ホルヘ・ポサダをビーンボールで脅し、72歳のヤンキースコーチ、ドン・ジマーを地面に引き倒したのである。
『ニューヨーク・タイムズ』の記者、ジャック・カリーはこう記している。
「ボストン・フェンウェイパークでの世紀の一戦に、ペドロ・マルチネス対ロジャー・クレメンスの因縁の対決があることはだれもが予想していた……だが、ペドロとガルシア、ペドロとポサダ、ペドロとジマーの騒ぎはまったく予想外だった」地元の記者でさえ啞然となった。
『ボストン・グローブ』のダン・ショーネシーはこう記す。
「レッドソックス・ファンのみなさん、今、あなたはどちらを応援したいだろうか。平静を失わず、怒りを抑えてチームを勝利に導いたロジャー・クレメンスか、リードを奪われたあと、打者の頭部に死球を当て、さらに『次はおまえか』とヤンキース捕手を脅した大人げないマルチネスか。
……レッドソックス・ファンは耳をふさごうとするが、マルチネスはとんだ面汚し、野球界の恥さらしである。こんなことが許されるのもペドロだからこそ。
レッドソックスのフロントも黙認しているが、彼にはぜひ姿勢を正して自らの非を認めてほしい」ビリー・ビーンと同じく、ペドロ・マルチネスもフラストレーションに耐える方法を知らなかった。
窮地を切り抜け、大きな失敗を大きな勝利へと転じる方法を知らなかった。自分の非を認めて、そこから学ぶことができなかったのだ。
マルチネスが癇癪を起こしたせいで、レッドソックスは第4戦を落とし、結局、4対3でヤンキースがプレーオフを制することになった。
スポーツ記者たちはみな、これはひとえにキャラクター、品格の問題だと書き立てた。
それが何に由来するのかはわからないと述べているが、私たちはもうすでに、品格がマインドセットから生まれることを理解しつつある。
才能を鼻にかけて、自分を特別な人間だと思いこんでいる人がいる。
そのようなマインドセットの人は、物事がうまくいかなくなったとたんに、集中力や能力を失い、自分の求めるもの──この場合は、チームやファンの切なる願いでもあった──を台無しにしてしまう。
一方、失敗してもそれを糧にして前向きに進んでいく人もいる。そのようなマインドセットの人は、物事をいちばん良い方向に導いていくことができる。
ところで、先ほどの話の続きだが、その翌年もボストン・レッドソックスとヤンキースがプレーオフを戦った。
7試合のうち4試合を先取したチームがアメリカンリーグの覇者となり、ワールドシリーズに進出することになる。
ヤンキースが3試合を連取し、レッドソックスの屈辱的な運命がまたもや確定したかに思われた。
しかしその年、レッドソックスは、トレードで放出する選手をもうひとり、チームメートの意見にもとづいて決定する旨をスター選手たちに伝えてあった。
スター軍団ではなくチームなのだから、お互いのために最善を尽くし合うようにというメッセージだった。
レッドソックスは、残る4試合をすべて制してアメリカンリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズ制覇をも成し遂げた。
レッドソックスがヤンキースを倒したのは1904年以来のことだった。
これで明らかになったのは、まず、バンビーノの呪いは解けたこと。
それからもうひとつ、気骨や品格というキャラクターは学習により身につけることができるということだ。
キャラクターについてさらに今度はピート・サンプラスを例にとって、もう一度、しなやかマインドセットについて考えてみよう。
2000年のウィンブルドン選手権で、サンプラスは13回目のグランドスラム獲得を狙っていた。
それがかなえば、四大大会通算12勝を達成したロイ・エマーソンの記録を破ることになる。
なんとか決勝まで漕ぎ着けたものの、この大会はあまり好調ではなかったので、パワーあふれるパトリック・ラフターとの決勝には苦戦を覚悟で臨んだ。
サンプラスは第1セットを落とし、第2セットもタイブレークで4‐1まで追い込まれた。
「もう絶体絶命だと思った」という。マッケンローだったらどうしていただろう。ペドロ・マルチネスだったらどうか。
実際にサンプラスはどうしたか?ウィリアム・ローデンによると「彼はこの窮地を切り抜けるための『参照の枠組』を探した」。
サンプラスはこう語る。
「チェンジオーバーの間に過去の試合を振り返り、第1セットを落としたあとで挽回して、3セット取ったときのことを思い出してみた。
試合はまだまだこれから。
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