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第七章/心の中に富を築こう

目次

成功は心の中の富で計られる

あなたが本当に富への可能性を感じ取れば、あなたは周りにある富の形成のためのチャンスを十分に活かすことができる。

心の平安は、富の獲得に不可欠な条件である。

『黄金律』の精神に従うということは、富を得ることだけでなく、そのほかすべての幸福と大きく関係する。

仕事などで他人に奉仕すれば、最終的にはそれに見合う報酬が待っているように、『黄金律』はごまかせないものである。

永久普遍の法則であり、『代償の法則』と一体のもの、それが『黄金律』なのである。

地上の富は、あなたに集められる日を今や遅しと待っているが、これは、あらゆる時代のあらゆる大賢人たちによって言われてきたことである。

私たちはそれを実際の人生から学んでいく。

さて、富は何からできているのだろうか。

確かに満足に食べるものすらないという者は、富を享受しているとは言えない。

しかし、黄金の皿を使って食事ができたからといって、それが裕福だと言えるだろうか?我々は、自分なりの基準で裕福でいられれば、それ以上のものは求めない。

たとえ乞食であっても、大地の美しさを味わい、流れゆく白い雲、七色の虹、輝く星などを楽しむことはできるのだ。

本書は、実用書である。

にもかかわらず、具体的に巨富を築く方法についてはあまり書かれていない。

それは『思考は現実化する』や『巨富を築く13の条件』(いずれもきこ書房刊)に譲ろう。

本書はむしろ、金銭と言う評価で計れる富ではなく、心の中の富を問題にしている。

とはいえ、私の著したほかの本やプログラムに、そのような部分が欠落しているというわけではない。

心の富に重点を置いているにすぎないのだ。

物であれ心であれ、富を得る方法はまったく同じである。

富の可能性を見る者のもとに富は来る

私はいわゆる「農場」で育った。

一応の土地があって、収穫があり、家畜は草を食べていた。

しかし有能な農場主から見れば、とても農場などと呼べる場所ではなかった。

わが家の土地の多くは耕されていなかった。

税金がかかるばかりで、食べたり売ったりする作物を少しも生産していなかったのだ。

私たちには技術がなかったし、資本もなかった。

そのほかにも欠けているものはかなりあったが、それでも私には、なぜわが家では、あのような富を生む可能性がある土地を、使いもせずに放っておいたのかわからない。

ちなみに、私は後に、一〇エーカーの土地で、それまでの一〇〇エーカー分以上の収益を上げられる農業技術について聞いたことがある。

最近私は、市場向けの野菜を作っている農場主に会ったが、彼はたった五〇エーカーの土地で、いろいろな作物を輪作して素晴らしい収益を上げていた。

彼のように、自分の富の可能性を見て、それを引き出すことのできる人間もいるわけである。

ここで注意してほしいのは、この農場主の基本的な富の可能性は、土地の中にあったわけではないということだ。

それはむしろ彼の心の中にあったのである。

つまり、優れた農場技術を学んで、それを使いこなしていく意思の中に富の可能性があったのである。

ひと昔前の資料によると、アフリカのある地域では、九人の人間を養う作物を作るのに、八人の人間が必要だったという。

しかし、幸いなことに今では、優れた農業技術と優れた農業機械が全世界に広まりつつある。

八人の農夫が八台のトラクターを操縦して、選りすぐった種子を蒔き、化学肥料を使えば、八〇〇人、いや八〇〇〇人分の食料を作り出せるようになるだろう。

だが、彼らはそれで裕福になれるだろうか。

彼らが真に裕福になるために必要なのは、他人が成し遂げたものを受け取るのではなく、自分たちの力で豊かになることができるのだ、という考え方をもって、それを実行することである。

富は常に心の中で始まるものなのだ。

富はいつでも、富の可能性に着目する人の心から生まれ出る。

これは農場にかぎらず、どのような財の形成でも同じである。

だから富を得たいと思ったら、あなたの心の中を探すとよい。

心の中には、どんな富をどれだけほしいか、ということだけがあるのではない。

富を得るチャンスそのものが、アイディアという形で心の中に眠っているのである。

心の富とは心の平安のことである

私は今まで、「心の富とは心の平安のことだ」と明言したことはないが、改めて言ったとしても、あなたはさして驚かないだろう。

しかし、この原則は大変重要なものだ。

そこでもう一つ例を挙げて説明するとしよう。

ある男の話である。

その男は、金銭的にはとても裕福だったが、心の平安を保てていないために、自分がいかに貧しいかということに気がついていなかった。

彼はそのことに気づいて初めて、自分が失っていたものが何であるかがわかったのである。

心の平安を見つけるために、仕事上の原則を捨て、人間に対する優しさの原則に切り換えたのである。

彼はそれまで、人への優しさにはまるで無関心だった。

彼は不動産で財を成した。

自分の持っている安い家を貸して利益を得ていたのである。

店子にはある老夫婦がいた。

長い間、彼らの家賃は滞っていた。

彼の商売の原則からすれば、これは許せることではなかった。

当然のように、彼は老夫婦を立ち退かせることにした。

彼は弁護士に必要な手続きを依頼した。

ところがその弁護士は、いつまでたっても立ち退き完了の報告をしなかった。

彼は弁護士と話した。

話の内容は次のようなものであった。

彼に詰問された弁護士は、「私は、あなたの申し立てを実行することはできません。

この件の手続きをまだ続行するというのでしたら、別の弁護士をあたってください」と言った。

彼は弁護士が何を考えているのかわからなかった。

「それは、この仕事が大して利益にならないからですか?」「そうではありません。

もしあの夫婦が立ち退けば、あなたはあの家を売ってしまうでしょう。

とにかく私は、この件に関わりたくないのです」「まさか、怖じ気づいたわけじゃないでしょうね」「いいえ、そうではありません」「わかりました。

家賃を払わない爺さんに泣きつかれたわけですね?」「ええ、まあそうです」「それではあなたは骨抜きにされたということですか。

情にほだされたんですね。

でもそんなことじゃ、弁護士の仕事はできないんじゃないですか?でもまあ、相手がその手でくるなら、私は私で……」「向こうは、私にやめてくれと泣きついたわけじゃありません。

私には何も言いませんでした」「そうですか。

もちろん、私にも泣きついてはきませんでしたが……。

で、奴らは問題をいったい誰のところへ持ち込んだのですか?」「全能の神ですよ」「なるほど。

あなたが立ち退きの話をしに行ったら、爺さんがひざまずいてお祈りを始めた。

そうでしょう」「いや。

向こうは私がそこにいたことも知りませんでした。

だから、私のせいではないのです。

私はノックをしたのですが、返事がなかったので老夫婦は留守だと思ったのです。

ドアが少し開いていたので、私は家の中に入っていきました。

家の中はほとんど空っぽでした。

寝室のドアを覗いてみると、白髪の老女が机を背中にあてて、起き上がるところでした。

私が入ったことを知らせるために咳払いしようと思ったとき、彼女は部屋の中の誰かに話しかけたのです。

『私のほうは用意ができましたよ。

どうぞ、おじいさん』と言うのです。

部屋のもう一方の片隅には、ひどく年老いた老人がいましたが、おばあさんのベッドの横に来てひざまずきました。

私は動くことも声を出すこともできませんでした。

老人は手を老女の膝の上に置いて祈りました。

『私と妻は、まだ神に従順な子供です。

神が私たちの上にもたらされるのがふさわしいとお思いになるものは、何でも逆らわず素直に受けます』と、こんなお祈りでした。

老人のお祈りの言葉はなおも続きました。

『妻が病気でどうしようもない状態です。

そのうえ、住む家がなくなってはなんとつらいことでしょう。

ああ神様が、私たちの三人の息子たちの一人だけでも残しておいてくださったら、どんなにか違っていたことでしょう。

しかし息子たちはもう、この世にはいません』」弁護士は涙をぬぐった。

「私は泣きました。

私は声も出さずに老人のお祈りを聞いていました。

老人は神を信ずる者の安泰を祈りました。

『今まで二人一緒に暮らしてきたのに、老人ホームへ入るのはつらいことです。

しかし、私たちは周りの人に迷惑をかけすぎました。

どうぞ、その人に神のお恵みを』」「まさか、私に!」弁護士は、家主の男の腕をつかんで、「ですからね、私が家賃を払いますよ。

もしあの二人をあそこに住まわせてくださるおつもりならね」「いや、だめだ」と家主はきっぱりと言った。

しばらくして、彼も目尻をぬぐいながら、恨みがましく言った。

「私の耳に届くはずのなかったそのお祈りを、あなたが聞かなければよかったと思うよ」弁護士は首を振った。

「いいえ。

あのお祈りは、私が聞いてあなたに伝わることになっていたのです。

私の母がよく言っていました。

神は不思議な働きをなさると……」「私も聞いたことがあるよ」と家主が言った。

彼は立ち退き要請書を両手でねじりあげ、ビリビリと引き裂いた。

「さあ、明日の朝、二人のところへ行って……先生、この一〇ドルを受け取ってください。

それで食料品をバスケット一杯、届けてもらえませんか。

あの老夫婦のところに」「私もそれに一〇ドルを足しましょう。

それで、もっと大きなバスケットにして持って行きましょう」「それからね……、二人に伝えてほしいんですが、家賃の支払いはすんでるって」「ええ、不思議な方法でね」二人の男は見合わせてウィンクした。

この家主は、こうして自分の生活パターンを破ったその日から、自分に富が集まりだしたのだと言っていた。

取ることをやめて、与えることにした日からである。

それは、心の平安が、初めて感動として感じられた日であった。

与えるものは限りなく与え、取るものは決まった分だけですます

、もちろん、実際には自分の時間や資産を与えるといっても限りがある。

あなたの最初の義務は、自分自身を助けることであり、ついでほかの人々を助けることである。

この法則を正しく運用すれば、驚くほどすべてがうまくいく。

私が「与えるものは限りなく」と言うのは、あなたの〝与えるという精神〟に制限を設けるべきではないという意味である。

例えば、先ほどの家主はそれまでにも慈善を行ったことはあった。

しかしそれは、お膳立ての整った慈善である。

地元のために何がしかの寄付を行い、それと引き換えに感謝状を受け取ったことはあった。

それは確かに、本人と本人の仕事にとってはいい宣伝になった。

それが目的だったわけだから。

そういう効果が約束されていなければ、与えるという行為は、彼にとってはまったく無駄としか思えなかった。

それがある日、彼は自分より大きな何かが自分の運命を動かしているのを発見した。

以来、世界がすっかり違って見え始めたのである。

その日以降、彼の人生のすべてが変わったのである。

無報酬の講演の報酬

このタイトルは、「犬が人を噛む」というような、ありふれたニュースである。

つまり、とりたててニュースにはならないタイトルである。

なぜなら、私は膨大な数の講演をこなしてきたからである。

この話が意味深いのは、次の点である。

あるとき私は、地方の小さな大学で講演をした。

そしてその大学にいる間に、仕事や学問に関する学生たちの活動について、かなりの取材を行うことができた。

講演会の世話役が謝礼を持ってきたとき、私はそれを受け取らなかった。

感謝の言葉は述べたが、私は自分の雑誌『ゴールデン・ルール(黄金律)』の記事に十分な資料を集めさせてもらったので、お礼は十分だ、と言った。

後に、その大学の周辺に住む人々や学生たちから『ゴールデン・ルール』の購読申し込みが相次いだ。

私が彼らのために講演の謝礼を辞退したので、彼らも、私のために何かしようと考えて、雑誌の購読予約を集めてくれたのであった。

私は謝礼の金額の何倍ものものを返してもらったことになる。

与えるということは、このような報酬をもたらすものなのだ!

自分がしてほしいことは人に対しても行うこと

『黄金律』の元になるものが、イエス・キリストの時代からすでにあったことはご存じだろうか。

イエスは、『黄金律』を私たちが知っている形で教えている。

さらに歴史をさかのぼると、いくつか似たような例がある。

「己の欲するところにはこれを施せ」(新約聖書マタイによる福音書七章一二節)「彼は、自分自身にとって望ましいと思う善をほかの人々のために求めた」(紀元前六〇〇年ごろのエジプトの碑文)「己の欲せざるところ、人に施すなかれ」(孔子。

ただしこれは多少ニュアンスが異なる)「われわれは、世間が自分に対してやってほしいと望むように、世間に対して振る舞わなければならない」(アリストテレス)『黄金律』は数千年前から、人間の行動の主たる規範として口にされていたものだということが、おわかりいただけよう。

不幸なことに、世界はこの規範を言葉として覚えているが、その精神を見失ったとしか思えないような行動があまりにも多すぎる。

次のように言い換えてみると、自分にも他人にも役立つような行動と関連づけやすいと思う。

「『黄金律』とは、相手と立場が入れ替わったときに、自分がしてほしいと思うことを、相手に対して行うべきだ、という意味である」これを考えてみてほしい。

これは、聖書にある黄金律とは趣きが違う。

さらに一歩先へ行くものである。

というのも、相手の要求を相手の立場に立って判断し、相手の目を通して世界を見る、ということがこの中に含まれているからである。

次のような寓話を引用してみると、さらに理解しやすいだろう。

『黄金律』の言葉を、南の島の原始的な住民の間に広めた宣教師がいた。

その宣教師は「自分が人にしてほしいと思うことを人にもせよ」という解説抜きの言葉で『黄金律』について教えた。

その種族の酋長は、いたく感銘を受けたらしく、ある日、宣教師のドアを叩いてプレゼントを持参した。

そのプレゼントは、おそらくその酋長が贈られたいと思っていたものだったのだろう。

なんと、彼は「六人の妻」を宣教師に贈ろうとしたのである!この教訓を活かすとすれば、本当の意味で良い与え方というものは、相手が本当にほしがっているものを与えることだということになるだろう。

他人への心遣い、それが『黄金律』である

、『』私たちは、人生の食卓からほんの小さな一かけらのパンを取って満足すべきではないし、また、あまり多くつかみ取ろうとするべきでもない。

『黄金律』は、こういうことが起こらないように、きちんと物事を均等に戻す役目を果たしている。

これは他人の必要と権利に対する、優しい心遣いに通ずる。

一つ試してみるといい。

自分のいる社会を見渡してみて、知っている人の中で財を成す目的のためだけに生きている人を探してみよう。

つまり拝金主義者だ。

どんな金額をも少なすぎると思い、いかなる金額でも十分ではない、という人を探してみよう。

こういう人は、自分がどのようにして金を得るかについて、良心と関係なく損得だけで判断する。

彼らの頭の中には、金を入れるための袋が並んでいるにすぎない。

彼らにとって良心とは、むしろそうした金儲けの邪魔になるものでしかない。

そういう人の心の中に温もりを探してみるといい。

きっとどこにも見つからないだろう。

もともとないのだから。

あるとすれば、金の話をするときだけだ。

彼の笑いの中に温かさや、寛容の気持ちを探してみるといい。

しかし、そんなものは見つかりはしないだろう。

彼の笑いはサメのようなものだ。

彼が、いかに人生の楽しみを見せることが少ないかということに着目してほしい。

確かに彼は、金をかけたさまざまな楽しみ方をしているだろうが、それは別のことである。

このような人は、ただの金儲けの機械である。

なのに、多くの人々はこの機械人間を羨ましがる。

これは〝成功〟の意味を勘違いしているのだ。

しかし、ちょっと待ってほしい。

幸せを抜きにした成功などあり得るのだろうか?本当に人間的な人は、価値ある人生には幸せと富の両方がそろっていなくてはならないということを知っている。

必要以上のものを持つことが幸せだと思っている人は、決して幸せにはなれないだろう。

しかも『黄金律』は、税金のように無理やり課せられるものではない。

分かち合うことが「自発的で、与えること以外、何の目的も持たない」場合、そのときにこそ分かち合いは幸せをもたらすのである。

少なすぎる報酬を考える

現在、私の名前はどんな大企業とも直接な関わり合いを持っていない(かつてあやうくなりかけたことはあったが)〔訳注…U・S・スチールがナポレオン・ヒル博士のプログラムを全幹部に採用することを決定したことがあったが、当時のギャリー会長の死によって立ち消えになったことをいう〕。

このことを私は幸運だったと思っている。

なぜなら、そのお陰で私は、大企業に対して、チャンスや利益をもっと寛大に従業員と分け合うべきだと自由に指摘できる立場にいられるからである。

支配する者と支配される者との関係について考えてみよう。

昔のガレー船〔訳注…ガリー船ともいう。

古代より一八世紀まで三〇〇〇年以上にわたって使われてきた〕の奴隷たちは、残酷にも、オールに鎖で縛りつけられていて、食事もようやく働ける程度しか与えられなかったという。

『ベン・ハー』を読んだことがある人ならご存じだろうが、ガレー船が沈もうとしたとき、誰も奴隷たちの鎖を解いてやろうとはしなかった。

彼らはまるで、船の備品のように船とともに沈んでいったのである。

産業革命が始まった当初、工場で働く人々の労働条件には、ガレー船の奴隷を彷彿とさせるものがあった。

当時、企業のオーナーたちは、労働者から絞れるだけ絞りとり、最小限度の賃金しか与えなかった。

実際、私が若いころは、それに近い状況がまだ残り、お陰で、工場やオフィスに分かち合いの精神が浸透していくのを、私はこの目で見ることができた。

今の時代に、貧しい賃金で一日一二時間から一四時間以上も働かされていた時代を振り返ってみるとぞっとするはずだ。

そうしたことについて考えてみると、何が人間と社会を痛めつけてきたか、誰の目にも明白であろう。

そんなことにも気づかないほど、当時の人々は愚かだったのだろうかと、首をかしげたくなるが、実際そうだったのだ。

今日、仕事に対する報酬は、規定の給料のほかに「基準外賃金」というものがある。

昔に比べればずいぶん改善されたと言っていいだろう。

しかし、それでも疑問は残る。

いったい、いくらなら賃金として少なすぎるのか?またどのくらい支払えば十分なのか?この問題が完全に解決される日が来るとは思えない。

しかし、「一つの大きな絶対的なもの」というものはある、それは、人間の奉仕というものは自分が与えただけの価値がある、ということだ。

この点を見事に説明する話を、私はヘンリー・フォードから聞いたことがある。

彼が会社創業後間もなく、フォードは会社の販売総務部長を募集したことがあった。

彼は応募者をふるいにかけ、有望そうな人々に面接を行った。

そのうちの一人と面接をしていて給料の話になった。

相手のほうからは希望額を言い出さなかったので、フォードはこう言った。

「一カ月間、試しに働いて、君がどこまでできるのか見せてくれ。

そうすれば、君にふさわしい分だけいくらでも支払うことにしよう」「いいえ」と、その応募者は言った。

「あなたの会社では、きっと脳力以上のものをもらうことになるでしょう」「それでだね」とフォード氏は、私に向かってくすくすと笑った。

「その後一連の出来事で、彼がうっかり口をすべらせたのは、本当のことだとわかったんだよ、なんと最初の一カ月で彼を首にせざるを得なくなった」フォードがなぜこの男を雇ったのか私にはわからないが、たぶん、彼には仕事に必要な経験やそのほかの資質があったからだろう。

ところが、一カ月後、平均賃金にも満たない分しか、与えるものがなかったとわかり、やめてもらうしかなくなったわけである。

『黄金律』をごまかすことはできない

『をごまかすことはできないでは『黄金律』は、人を雇ったり、やめさせたりする場合でも適用できるものだろうか。

例外がないとは言えないが、長い目で見れば確かに適用できるはずである。

『黄金律』と密接に関係のある『代償の法則』は、どんな形の代償にも適用できるのだ。

雇う側の立場でも、『黄金律』をごまかすことはできないと思ってほしい。

ほかの人がほしがっているものを与えられそうに見えても、胸の奥では正直でなく、利己的な本心(与えることによる対価など)を隠そうとしているなら、それは何の役にも立たないからだ。

サクセス・エッセンス⑦

1富を構成するものは何か多くの農場は富への可能性が詰まっているのに、その可能性に気づかないために、貧しいままでいる農場主が多い。

あらゆる人間は、自分の中に秘めている可能性に気づかずに貧しさに甘んじている。

問題はどうすれば自分の環境という原材料を、富を築くチャンスへと変えられるかを考え続けることである。

2心の平安は富である心の平安を保てていない人は、自分が裕福であると思っても、実は原因不明の貧しさに苦しんでいるのだ。

心の平安を見つけたとき、その人は自分の人生に何が欠けていたかに気づくはずである。

『黄金律』など考えてもみなかった人は、それに気づき、「与え方」が分かったとき、ようやく心の平安を手にすることができる。

物質的に与えることには限界があるが、「与える」という精神には限界はない。

3『黄金律』とは何か『黄金律』とは、自分だったらこうしてほしい、と思うことを相手に対して行う、という考え方である。

そうすればあなたは、ほかの人々が必要とすることに注意が向いて、人間への思いやりという結果が生まれるだろう。

『黄金律』は、あなたがあまりに少なく受け取ったり、あるいはあまりに多く受け取りすぎたりしないように調整してくれるものだ。

しかも努力次第では、大いなる富があなたの手に渡るようなチャンスをもたらしてくれるはずである。

富を集めるためにのみ生きている人は、幸福を知り得ないし、『黄金律』との調和なしに本当の幸福を手に入れることはできない。

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